から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

懺悔の朝
・片思いに悩むブルーノ。
#ブル遊

 ねえボク遊星のこと好きなんだ。俺もだブルーノ。やったー! はは、両手をあげて喜ぶなんて子どもみたいだな。なんていう夢を見たせいでブルーノの寝起きは最低最悪だった。ジャックに叩き起こされる前に、もっと言えば日が昇る前に目が覚めて良かったのかもしれない。これが太陽のきらめく爽やかな朝で、遊星に「おはようブルーノ」なんて声をかけられていたならば、多分ぽろっと言っちゃってただろうな――言葉にするのがこれほどまでに危険を伴うことを彼は最近知ったのだ。口にしたならボクらの関係性はがらりと変わってしまう、もう二度と前のボクらでは居られなくなる。夜明け前の臆病な犬はひとりソファに座り直した。向かいでは遊星が静かに机に突っ伏していて、失念していた自分の口から「うわっ」と叫び声が上がりそうになるのを必死で堪えた。叫びにはならなかったが、ひい、という息絶える寸前のような声は微かに出た。遊星、また机で寝たんだ……ていうかそれは寝ているの? シャッターを開けるのも扉を開けるのも彼を起こしてしまいそうで、ブルーノはしばらく青年を眺めることにした。夢の中で彼はブルーノの幼く愚直な告白をただ感受した。その姿が自分の『理想の遊星』であることがひどく浅ましく思えた。自分の欲望のままに相手をかたどって、まるでクッキーの型抜きのように――ほんと人間って自分勝手だなぁ。あぁ、そういえばボクは人間じゃなかったんだっけなぁ。これも夢だったら良かったなぁ。ひそやかな愛情も腹の奥底に眠る欲求も、きっと彼に告げる日はやってこない。だってボクは彼とは違うんだ。肉体どころか精神も、信条も、記憶も、何もかも!

「ブルーノ、どうしたんだ」
 は、と目が覚めた時、視界いっぱいに遊星がいて、遂にブルーノは「うわっ」と声を上げた。
「おはようブルーノ。何だか唸っていたが大丈夫か?」
「あ、あぁ……ごめん……」
「もし体調が悪いなら教えてくれ」
 頷くと、遊星は離れていった。その周りで朝日が眩しかった。いつの間にか二度寝していたらしい、自分を覗き込んでいた遊星の姿はついさっき起きましたとは言い難く、服装も深夜見たものと違う。既にD・ホイールの調整作業に着手しているようだ。壁の時計を見ると日が昇る時間から一時間は経過していて、一体自分はどれほど彼を眺めていてどれほど自己嫌悪に苛まれていたのだろうかと思い出そうとするものの、ぶつんと途切れた映画のようにブルーノの中には何も残っていなかった。頭を抱えた。夢みたいに、理想みたいに、変なこと口走ってなければいいけれど。静かな朝の牢獄のなか、ブルーノの手はうっすら汗を滲ませた。沈黙からは遊星の気遣いが感じられるからこそ、何も言葉にならなかった。
 ただ、向かいで作業をする遊星が、二人以外存在しないこの時が、おそらくもう二度とやってこないのだろうなとだけ思った。透明な光に塵がきらめいて、遊星がブランケットを掛けてくれていたことに今更気付く。その事実に幸福感がふつふつと湧き上がってきて、ブルーノはソファに再び身を委ねた。どうしようすごく嬉しい。勢いよく沈んだために座面がぎぎっと軋んだが、ありがたくも寂しくも遊星は何も言わなかった。衝撃で塵芥がぶわわと舞い上がるさまに、今日は絶対に掃除しようと決め込む。
 いまだ夢見心地のブルーノの目が、半分瞼に隠れたままで、天井を見上げた。この蓋を取っ払い、骨組みだけになった建物を想像する。その先のずっと先にある宇宙から、遊星を照らす光の帯が降り注いでくることが感慨深い。遠くて遠くて、だからあたたかくて、彼を灼熱の渦に抱き込まないためにはそれほど距離を保たなければならないのかと思うと極めて悲しく、ブルーノの憐憫を誘った。ボクなら耐えられそうにない、いっそのこと広大な宇宙平野の端に置き去りにされたほうがましなくらいだ。しかし結局はどちらも嫌で、多少想像しただけで喉元に刃物が当てられたような寒気が走って身震いする。近過ぎず遠過ぎず、遊星を見守る位置関係はぬるま湯に浸され、今日のような日は無性に苦々しく思えた。
 ふと、ブルーノは足元だけがやけにあたたかいことに気が付いた。天井から視線を移す。太陽が被さって、脛から爪先までを包んでいる。それを見て、もし自分の心が本当に存在するならばきっと圧縮された太陽と同等だろうなと考えた。慕う相手の無垢な優しさに溺れる自分が考えられる、最大の持論だった。膨大なエネルギーがひとつの塊となり、ぐらぐら煮えたぎりながら自分の中心で燃えている。恋というものが宝石のように美しければ、自分はこんなにも苦しまずに済んだのだろうな。磨いて、見せびらかして、大切にしただろう。けれども熱情はゆっくり、ゆっくりと止まることなく周り続け、どんどん膨張していく。間もなくブルーノの観察下を逃れる。その時、果たしてどうなるのだろうか?
 太陽の表面温度は約六千度、浮かれて馬鹿になった自分を焼き殺すには十分過ぎる温度だ。ブルーノはその恒星へ電波を一つ送ることにした。ボクきみのことすきだよ。きっとずっと、遠い未来のあの時から、君のこと好きだったんだね。その通信はフレアに触れて一瞬で焼き切れた。畳む
言葉より語るのはなに
・話せない遊星と廃棄されたアンドロイドブルーノの話。
・未完です。
#ブル遊 #パラレル

 無言のまま見下ろしてくる青年にブルーノは怪訝な目を向けた。さらさらとしとやかに降り続ける雨はひび割れたコンクリートの床を黒く塗り潰していく。それと似た色の傘を差した青年は暫しブルーノを観察するように眺めていたかと思うと、少しの逡巡の末にその右手をついと差し出した。
「……何? ボクに何か用?」
 返事は無かった。青年は傘より深い色をした黄金交じりの髪を少し揺らして、催促するように宙に浮いたままの手を小さく動かした。掴め、と求められているのだろうか。廃棄されたロボットに存在意義など無い、そんなものに手を差し伸べる人間なんてよく居たもんだなぁ。そう物珍しげに思いながら、けれども自嘲するような笑みを浮かべてブルーノは両膝を抱えていた右手を伸ばした。指先が触れた瞬間に伝わる電気信号。びりり、と懐かしい痺れを与える。人間の感情の脈拍。
「君、話すことができないんだね」
 青年の目が僅かに見開かれた。ぱちぱちと瞬きを数回繰り返して、それからゆっくりと頷く。唇は開かない。ブルーノにとって見慣れた反応だった。初めて自分と接する人間は必ず驚愕していたから。
「ボクは医療用ロボットだったんだよ。電気信号をスキャンする機能がオンになったままでさ」
 もっともそれが裏目に出て捨てられたんだけど。そうは口には出さなかった。代わりに苦笑いを浮かべながらブルーノは手を引っ込めようとしたのだが、寸前で青年に強く引っ張られてそれは叶わなかった。強制的に立ち上がらせられて、よろけそうな身体を踏み止まらせた右足が薄い水溜りの静寂を破壊して波紋を広げる。ぱしゃん、と跳ねた雨水が引き上げた青年のブーツに掛かって、ブルーノは反射的に「ごめん」と謝った。青年は言葉の代わりに首を左右に振って、ブルーノの手を少し強く握った。己の集積回路を廻る感情データは青年の態度と合致していた。
「気にしてない、って? そっか……ありがとう」
 青年の傘を叩く雨の音は、いつの間にか強くなっていた。

 名前は? そう問うと青年から握手を求められた。一旦離していた手を再び繋ぐと、ぴりぴりとデータが伝達される。
「遊星? っていうんだね。ボクは、ええと識別名でいいか、ブルーノって呼ばれてたよ」
 電灯、机、椅子、ベッドが其々一つずつ。机の上にはコンピュータと工具が数個転がっており、天井にある唯一の電灯に照らされ小さな影を作っていた。遊星から手渡されたタオルで雨水に濡れた髪を拭きながら、ブルーノは質素な室内を見回す。狭い部屋だが、このサテライトという閉鎖的な社会でも必要最低限の機器が揃っていることに彼は驚きを感じていた。感じていた、というより実際は彼に植え付けられた知識と目にした事実との差が驚愕という結論を導き出しただけだが、ブルーノは対患者用プログラムがダウンロードされたロボットであるために他のそれよりも感情表現がより人間に近しく豊かに出るよう設定されていた。遊星の手を離すと体温を感知していたセンサーが室内の冷気を拾い上げた。天候の悪さも相俟ってか、冷えた空気はなかなか暖まらない。
 かたかたと音がしてブルーノは振り返った。数歩先で遊星がコンピュータのキーボードを叩いている。軽快な指先がモニターにいくつかの文字を羅列していく。数秒後、今度は遊星がブルーノの方へ振り向いた。
 座る場所がないからベッドにでも座ってくれ。
 モニターにはそう表示されていた。ふむ、と小さく嘆息する。この遊星という人間はロボットに対しても気を遣う性格のようである。然しながらブルーノは服までも完全に濡れそぼっている。このまま腰掛ければシーツが汚れてしまうことは確実だった。
「いや、大丈夫だよ。ベッドが濡れちゃうし、ボクはそもそも疲労なんて感じないから」
 そう完全な回答をしたつもりだった。けれども遊星は眉を寄せて、それからブルーノの傍へと近付くとぐっと二の腕を掴んで引っ張った。
「わっ!」
 結構な力で、すぐ隣に設置してあるベッドへと押しやられ座らせられる。サテライトの煙突から吐き出される煙のような色のシーツは即座に水分を吸い込んで染みを作った。あぁだから言ったのに。ブルーノのメモリからはそんな感情データが書き出されたが、持ち主は嫌そうな顔ひとつせず漸くかといったように自分は机の傍に置いてあった(恐らくコンピュータ用と思われる)古びた椅子に腰掛けた。ローラーがいかれているようだ、きいきいと甲高い音を立てて、青年と椅子はしばらく揺れ動いていた。畳む
見据える
・空っぽだと思ってるブルーノ。
#ブル遊

 僕には何も入ってないから返す言葉も出てこないのかな、と真顔で言うブルーノの目尻では、小さな雫が落ちるのを必死で耐えていた。
「嬉しい時って、ひとは泣くものなの?」
「人は泣きたい時に泣くものだ」
「じゃあいま、僕が遊星から言われたことに、僕が悲しんでいるわけじゃない?」
「自分で言葉にしてみるんだ、ブルーノ」
「ことば」
 ことば、ことば……。繰り返す薄い唇に、黒いグローブの生地が擦れた。途切れた呟きを拾い上げて、遊星が続ける。
「愛している。愛していた。これからも愛する」
 彼の声は決して大きくはない。だって今は夜中だもの、当然だよね。大きな声を出したら、ジャック達が起きちゃうもんね。冷静なもう一人の自分が言う。でも遊星の声には、あの、勝利を確信した時のような不思議な色彩がじわりと滲んでいて、月光だけが漂う作業場に強く響いた。
 雫はついに溢れた。目尻からぽつ、とうまれて、この世に落ちた。口元に添えられた布をいっそう黒くして、そして向かい合う青年の変化に気づく。
 強いはずの彼の、霧のような揺らぎ。不安定さ。あ、僕が何か言わなくちゃ。何を?
 すがりつく先は彼の肩口だった。細くて頼りないはずの体躯は、いつだって自分の拠り所で、だから。
「からっぽの僕に愛をくれてありがとう」畳む
おとなりで恋という名の音が鳴り
・昔発行したコピ本の再録です。
・おとなりさん同士のふたり。
#ブル遊 #現代パラレル

 おはよう、今日も良い天気だね!
 目が覚めてすぐにスマートフォンを確認すると、こんなメールが届いていた。コンセントに差し込まれた充電器に繋がれて、機械は画面にこの一行を表示している。差出人は自分の受信メールのほぼ七割を占めている人間だ。良い天気。部屋の隙間から流れ込む光を確認する。確かにそうだった。
 遊星は部屋のカーテンを開けた。待ち兼ねていたと言わんばかりに日光が駆け込む。若草色の向こうには、秋に差し掛かる空が眩い朝日を飾り付けていた。フローリングの床を照らす光は寝起きの目には明る過ぎる程だ。寝惚け眼を擦りながら、遊星は窓の向こう側の壁をちらと見遣る。薄い灰色をした隣の家の壁だ。数秒間見詰めてから、彼は寝巻きに手を掛けた。確か今日は有給を取ったと言っていたはずだ、着替えなければ。ぼんやりと思い出す。スマホの時計は既に八時半を過ぎている。
 ジーンズとTシャツに着替えてから一階へと降りる。洗面所で顔を洗い、リビングへと向かった。薄暗い部屋は必要最低限の生活用品のみがある。テーブルには何も用意されていなかった。当たり前の、日常のワンシーンだ。
 遊星の両親は長く海外で研究職に就いていたが、彼が高校に上がってすぐに実験中の事故で死んだ。数年経ち齢十八になった遊星は、いつもと変わらずまず冷蔵庫を開けた。習慣の動作である。牛乳パックを取り、食器棚からグラスを用意して注ぐ。真白い液体を一口飲んでから食事の支度だ。何を作ろうか。思案していると、リビングの壁に取り付けられたインターホンが音と共に点灯した。
 画面を確認せずに遊星は玄関へと向かう。鍵を開けた先に見知った顔を捉えて、おはよう、と挨拶した。
「おはよう、今日も良い天気だね!」
 それはさっきメールで見た。そう言う前に、来訪者は遊星に抱き付いた。



 ブルーノ、と口をもごもごさせながら抵抗すると、青年は呆気無く両腕から遊星を開放した。
「あぁごめん」
 遊星はにへらと笑うブルーノを見上げる。彼のロイヤルブルーの髪が日の光を浴びて輝いている。遊星はこの身長差が憎らしいと日々常々思っていた。兎も角背が高い隣人の青年、ブルーノは、なんという成り行きなのか、自分の恋人である。朝から高いテンションを引っ提げてやってきた彼は、すたすたと遊星の家へと上がり込んだ。リビングへ足を進めて、そこに食事の支度が全くないことを把握すると、勝手知ったるが如く冷蔵庫を開ける。
「今起きたばっかりなんだろ? 何が食べたい?」
「良い、自分で用意する」
「いつものことじゃない。あ、確か昨日ご飯炊いたんだっけ? なら和食にしよう」
「……じゃあ、頼む」
 自分が鍋に手を掛ける前に、ブルーノは既にそれを用意している。彼は両親が仕事で留守がちな頃から遊星の世話を色々と焼いてくれている隣人だ。小さい頃から知っていて兄のように慕っていたのだが、遊星の高校卒業時に告白されて付き合い始めた。それからまだ半年経つか経たないかである。
好きなんだどうしようもなく。
そう言われて遊星が真っ先に感じたのは嬉しさだった。差別感も嫌悪感もそれ以外の何物でもない、ただ只管に歓喜が彼の心に湧き出でた。
 ブルーノは昔から無頓着な遊星の生活を心配していた。それはブルーノが学生でも社会人になってからも変わらず、勉強をみたり食事の世話をしたりと、保護者の代理に近い存在だった。何も頼んだことは無いしお互いに約束したことでもない。ただやりたいからだと言っていたことを、味噌汁の準備をするブルーノの背中を見ながら思い出す。その親愛が恋愛に変わったのはいつなのかと、聞いたことはない。
「今日何処か行きたい所ある?」
 野菜室から取り出した葱を刻みながらブルーノが問う。その横では鍋にたっぷりと注がれた湯が沸騰し始めていた。出汁の匂いが漂っている。
「いや、特には」
「じゃあブルーレイ一緒に観ない? いま、旧作安いからさ」
「あぁ、構わない」
 ありがとうと言われ、遊星は少し照れる。そんな礼を言われる程のことじゃない。ブルーノがくれる無償の愛に比べれば、自分の礼など卑小過ぎることだと思っている。卵の殻が割れる音を聞きながら、遊星は漸くリビングのカーテンを開けた。世界は眩しかった。
 塩胡椒のかかった目玉焼きに味噌汁に白米。それに冷蔵庫に入っていた漬物と生野菜のサラダがテーブルに並ぶ。遊星にとっては充分過ぎる朝飯がきっちり二人分用意されているのもいつものことだった。リビングの大きな窓から庭先を眺めていた遊星に声が掛かる。できたよ。振り返ると、変わらない笑顔で手招きするブルーノが杓文字片手に立っていた。
 テーブルに向かい合わせになって座る。二人揃って両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます、ありがとう」
 どういたしまして。瞳を細めるブルーノの青い髪が揺れた。
 朝食を食べた後、遊星とブルーノは連れ立って家を出た。徒歩で行ける場所にあるレンタルショップは二人にとって既に馴染みのものとなっている。
棚をいくつか物色して、少し前にヒットした映画を借りることになった。ミステリー小説を実写化したもので、遊星はそのタイトルだけは知っていた。街中でもテレビでも何度か見掛けることが多かったので。
 目的のブルーレイディスクを手に入れて直ぐに帰宅する。途中のバイク屋に目を爛々と輝かせるブルーノを見て、まるで大きな子供だなと遊星は口元を緩ませた。
 ブルーノを一言で表すならば、素直。そう遊星は思っている。喜怒哀楽を押し付けがましくない程度に良く表現する。するりと好きだと言ったこともそのうちの一つなのだろう。朝から抱き締めてくるのも、きっと。
 遊星の家を通り過ぎて、ブルーノの家の玄関へ向かう。数え切れないくらいくぐった扉を通ると、懐かしくもある慣れた匂いが遊星の鼻を擽った。ブルーノの家に来ると、遊星はまるで一瞬たりとも彼が離れないように抱き付いているかのような、全身を包まれている気分になるのだった。気恥ずかしくもあり嬉しくもある不思議な安堵感に、自然と遊星の心はほっとした。
 ブルーノの両親はこの一軒家とは別に田舎に買った終の棲家へと既に移住している。つまり実質ブルーノも遊星と同じく一人暮らしである。現在の家の主は冷蔵庫からストレートティーのペットボトルを一本取り出し、自室のある二階へ繋がる階段を上った。遊星はその後ろをついていく。
 ブルーノの部屋は彼を形容したかのようなものだ。起きてから直していないと思われる上布団、好きな小説や雑誌が乱雑に数冊積まれたパソコンデスク、床に放置されたままの新製品の携帯機器。その傍らに置いてある分厚い本の表紙に開発者用という単語が書かれていたのを見て、遊星の勘が働く。きっとまた趣味の開発でもやるのだろう、ブルーノは腕の良いエンジニアなのだから。
 遊星はベッドを背凭れにして床に座った。ペットボトルが置かれた小さなテーブルを挟んで、テレビに繋がるプレーヤーにディスクをセットするブルーノを観察した。開閉ボタンを押す長い指や、縦に長い体躯は、自分達が随分大人びてしまった証拠のような気がする。変わらないのはその瞳だ。濃い藍色に灰褐色を薄く流し込んだような目の柔らかさは、今も昔も全く同じものだった。
 自動再生が開始された。暗い画面に文字が白く浮き上がって、映像が流れる。まずは予告だ。どの映画もそうであるように、このディスクももれなく予告番組を再生した。それまでにブルーノが遊星の右隣へと座り胡坐を掻く。前座の映像達は三作品分だった。
「遊星」
 さて本編が始まるというところで、右から名前を呼ばれた。遊星は振り返り視線を上げる。口元を軽く結んだブルーノが、あの目の色を揺らめかせながら見ていた。ふと顔が近付く。遊星の右肩にブルーノの左手が置かれる。必然的に互いの瞼が閉じられた一瞬間の後、唇が重なった。
「ん、」
 遊星から鼻にかかった息が漏れる。映画は始まっている。柔らかく微かに湿った唇がくっついて、ちゅ、と小さく水音を立て、短いキスは終わった。
 しかし次の瞬間、再び開いた遊星の双眸には、一瞬間前とは同じだけれど同じではないブルーノが映っていた。先程の彼とは些か端然とした目のブルーノが遊星を見下ろす。
「またか」
「また私で悪かったな」
 全く悪いと思っていない風にブルーノが笑う。否、ブルーノだがブルーノではない彼。今のブルーノは普段の彼と比べて雰囲気が大分と大人びている。
「ブルーノは?」
「どうやら『また』我慢ならなかったようだ」
「落ちたのか」
「起こすか?」
「いや、……取り敢えずは、良い」
 前髪をぐっと掻きあげて額を出し、ブルーノはふっと口角を上げた。その仕草が非常に様になっていて、間近で見ていた遊星の心拍数が少し上がる。
 柔和な瞳には僅かに挑戦的な色が混じり、余裕溢れる雰囲気の今のブルーノは、普段の彼を表とするならば裏の『ブルーノ』だ。何らかの理由で思考がオーバーロードしてしまい、深層心理へ自ら落ちた時に出現する、表のブルーノの心の代弁者。それがこの『ブルーノ』の正体であった。
 遊星が初めてこの『ブルーノ』に遭遇したのはそれほど昔のことではない。
今日のようにこうして遊んでいて、何度目か分からないキスをして、舌を絡め合わせた。否応無しに官能的な刺激に流されかけた時、唇を離したその先にはこの『ブルーノ』が居た。それはもう只管驚愕したものである。けれども人間の順応とは素晴らしいもので、本日で既に遭遇回数が十回を超えてしまったために、最近ではもう馴染んできてしまっているのだが。
 『ブルーノ』はブルーノのことを認識しているし、ブルーノの意識を引き摺り出すこともできる。しかしブルーノは『ブルーノ』の存在を知らない。気が付いた時には落ち、気が付いた時には意識を浮上させられている。そのためか、意識が戻っては毎回「ボクは遊星が好き過ぎて夢見がちなのかな、たまに意識が飛んじゃうみたい」とへらへら笑っていた。本当はそうではないと伝えようか。そう考えたが、何故だか憚られた。まるで、いつものブルーノを否定してしまうような気がして。
 『ブルーノ』は溜息を付いて腕を組んだ。映画は誰にも観られずに流れている。
「自分が情けなく思えてくるな。私はそこまで臆病者なのだろうか」
 それは恋人に対して、という意味だろうか。それとも諸々の行為に対して?
「いや……分からないが、でも、」
「でも?」
 少しだけ口を噤んで、それから遊星はぽつと呟いた。
「やさしい、んだと、思う」
 きっと、ブルーノは自分を上手くコントロールできていないだけで。文字通り彼の優しさが裏目に出ているように思えた。自分を大切にしてくれているが故の結果が、今目の前で苦笑している人格の出現であると。
 ふむ、という『ブルーノ』の声が零れる。その呟きに遊星ははっと意識を戻した。本人に何を言っているんだ俺は。いや、今は本人ではないから良いのか? そんなパラドックスに頭が混乱する。
「……では、私はそろそろ失礼しよう」
「え?」
「もう一人の私に惚気られては、少し肩身が狭いからな」
 『ブルーノ』の顔に挑発的な笑みが浮かぶ。それにどくりと遊星の心臓が唸ったかと思うと、『ブルーノ』は両目を閉じ、瞼が彼の掌に覆われた。合図だ。一瞬間後、掌が解かれて再び目が開かれる。そこには既に意志の強そうなあの目はなく、在るのは普段通りのブルーノの優しい瞳だった。
「――あ、あれ? ボク……、」
 きょろきょろと左右に首を振ってから遊星を見下ろしたブルーノは、ぱちくりと目を瞬かせている。何事も無かったかのように遊星はブルーノを覗き込んだ。
「どうした? ブルーノ」
「……ううん、何でもない。また飛んでたみたい」
 へへ、と歯を見せて笑うブルーノに、遊星はまた何も言えなかった。
 映画は続いている。

     *  *  *

 ブルーノが遊星の家に泊まるのはもう何度目になるか知らない。寧ろ遊星が一人で居ることを彼が心配するので結構な割合で泊まりに来ているのだ。遊星が風呂に入っている間に明日の朝食の下拵えを済ませたブルーノは、ぺたぺたという足音に目を細めつつ顔を上げた。間も無くその視線の先から遊星が現れる。
「明日は仕事だろう。良いのか?」
「大丈夫だよ」
 もう何度やったか分からないやり取りだ。翌日仕事がある無しに関わらず、泊まりに来るとブルーノはきっちりと朝飯の支度までしていく。恰も義務であるかのように彼は遊星の世話を焼く。その姿を見る度に遊星はこそばゆい心地になった。誰かに気にかけてもらうことは、いつも柔らかい陽だまりのようなぬくもりを与えてくれる。あたたかすぎて少々居た堪れなくなるくらいに。
 遊星の部屋へ上がり、セミダブルのベッドに二人並んで座る。先に風呂に入っていたブルーノから微かな体温がほわりと伝わってきて遊星の肩から流れ込んだ。風呂から上がってそれ程経っていない二人の身体は互いにまだ温かく、クーラーを付けた部屋に冷まされずにいる。Tシャツとジャージはまだまだ寝巻きの代わりを果たしそうだった。
「ゆーうせーい」
 嬉々として、ブルーノの長い両腕が遊星を囲う。ぎゅうっと抱き付いた彼の体重が遊星に掛かり、ベッドへと倒れ込む。二人分の体重にスプリングがぎっと鳴いた。
「ブルーノ、重い」
「遊星は全然変わらないね」
「背は伸びている」
 むっと眉を寄せてブルーノを睨んだ。けれども彼の表情はふふ、と笑いを携えたままだ。
「身体の大きさのことじゃないよ」
「じゃあ何だ?」
 質問には答えず曖昧な笑みだけを浮かべて、ブルーノは唐突に起き上がった。遊星の身体が解放される。扉の方へと向かったブルーノは、その横の壁に付けられたスイッチを人差し指で押した。ぱちんと音がして即座に部屋に黒が広がる。
「もう寝よう」
 その声が何処となく掴みどころのない色をしていたので、遊星は思わず上半身を起こしてブルーノを見詰めた。昼間は明るい彼の髪が、今は夜闇の流れる部屋に混ざり込んでよく見えない。暗闇に目がまだ慣れていなかった。輪郭のぼやけた影が段々と近付いてきて、ブルーノがベッドへと戻ってきていることは分かった。確認してから、遊星は壁際に添わされたベッドの端へと身体を寄せ、もう一人分のスペースを作る。ありがとう、とブルーノの声がして、それからベッドに寝そべる人数が増えた。
 布団を被る。広くはない寝床で二人の身体は必然的に引っ付いた。身体を包む布を挟んで温かさが与えられる。宝物を誰にも見られたくない子供のように、ブルーノの腕は遊星を抱きすくめた。
「遊星は変わらないんだ」
「だから、何がだ」
 先程から的を射ないことばかり言うブルーノに少々語尾を強めて訊ねた。首筋に埋もれた彼の唇が言葉を発する度に震えて遊星の皮膚を擽る。
「ボクは君が好きだよ」
 そう呟いたかと思うと、突然遊星の唇にブルーノのそれが押し当てられた。んぐ、と息を詰まらせ、遊星は驚きに目を瞬かせる。激しい。瞬時に思ったのはそれだった。互いに横になっていた身体が回転する。唇はそのままに、ブルーノの身体が遊星をベッドへと押し付けた。
「んんぅ、ぐ、ん、っふ、」
 体重に肺が押され、僅かに空いた隙間から嗚咽に近い呼吸が漏れる。何の感情もなく欲に任せたような、若しくはどんな感情も混合されて押し潰されたような、苦しいキスだった。
 混乱で遊星の頭がぐわんぐわんと掻き回される。涙が滲んできた。
どうしてブルーノはこんなにきついキスをするのだろう。
疑問は不安を生み出す。頭の横に立てられたブルーノの腕をぐっと握り締めた。耐えられない、と思った時、ふっと身体が軽くなった。はぁ、はぁ、と荒い息をする遊星の上で、ブルーノが暗い瞳で見下ろしている。眉を寄せ、きゅっと締め付けられたような目だ。その奥に見知った感覚を見つけて、遊星は漸くあぁ、と声を絞り出した。
「また、落ちた、のか」
「――済まない、手荒な真似をしてしまったようだな」
 『ブルーノ』は目を一度伏せてから深い溜息をついた。困った奴だ、と髪を掻き上げながら、遊星の上から退く。すっかり自由になった身体を弛緩させるように遊星は大きく呼吸をした。
身体が汗ばんでいる。上がった体温を下げるために布団を捲った。見上げた天井は相変わらず暗い。『ブルーノ』は再び横に寝そべっていたが、非常に疲弊した様子だということが先程の溜息から伺えた。
「……ブルーノ」
「何だ?」
 何だい? といういつもの柔らかい返事ではなく、凛とした声が隣から返ってくる。あぁそうか、ブルーノは今『ブルーノ』なのだ。気付かず普段通りに名前を呼んでしまったことに漸く気付く。
「……何故、俺が変わらないと、言うんだ」
 何が変わらないのか分からなかった。右腕で視界を覆う。遊星の中の暗闇が増した。その奥で、先程自分に折り重なってきたブルーノの残像が揺らめいている。
「遊星」
 ぎっ、とスプリングを揺らして、『ブルーノ』が遊星の上へ上半身だけを被せる。そぅっと、視界を閉じる彼の腕を退かした。目を瞬かせる遊星の髪を『ブルーノ』の右手が柔く梳く。
「本当の私は、……きっと、恐ろしい」
「恐ろしい?」
 かち合った視線をそのままに、『ブルーノ』の唇が遊星の頬に添えられた。音を立てて小さなキスが何度も与えられる。その仕草に遊星は驚愕した。
「ブ、ルーノ……、どうしたんだ……」
 こんなことを『ブルーノ』からされるのは初めてのことだった。慣れない感覚に一つ一つにびくりと肩を震わせてしまう。ブルーノがいつもしていることなのに、今の彼の行為は全くの別人からされているような心地だった。そうやって何度かキスをされた後、最後に瞼に一つキスを落として『ブルーノ』の唇は離れた。
常より緩みのない両目が、暗闇の中で遊星を見下ろす。告げたくない秘密を告白するような面持ちで、その唇が開かれた。
「……君が、変わらないことが。私だけが、変わっていくことが」
「それは、どういう……」
「私が君に向けている感情は、きっと、ひどく汚くて、泥のような、禍々しい感情だ。けれども君は私を疑いもせず、受け入れ、私に好意を返してくれる。きっと、これから先も変わらずに――」
 『ブルーノ』の声が一度途切れる。再び息を小さく吸い込み、彼の言葉は続く。
「その度に、まるで私だけが君を堪らなく愛しているかのような、そんな心地になってしまう」
「ブルーノ、」
「私と君の感情の量は恐らくイコールではない。おどろおどろしい私の欲望に、いつの日か、君が戦き、私の前から消えてしまうのではないかと、時折不安になるのだ」
「違う、違うんだ、ブルーノ」
 闇に慣れた目の先で、『ブルーノ』の瞳が息を吹きかけた蝋燭の炎のように揺れていた。あと少し強く吹けば消えてしまいそうな弱々しいそれ。自嘲の笑みを一つ浮かべ、彼はその目を伏せ掌で覆った。
「喋り過ぎたな、私はもう失礼する」
「待ってくれブルーノ、俺は、」
「それは私の名であって私の名ではない。済まないな……また会おう、『私』の遊星」
 ぐんっと、糸が切れたようにブルーノの身体が落ちる。首に抱き付くような形で、遊星の上へ身体の上半分のみ被さった彼は、すぅすぅと吐息を立てていた。『ブルーノ』は彼を起こさずに引き上げたらしい。遊星の身体に、ブルーノの半分の体重が掛かる。それが彼の苦しみの重さのように思えて、遊星はブルーノの背に腕を回してひしと抱き締めた。大きな体躯が、まるで子供のように思える。
ブルーノ。俺は。
 呟きに返事はない。静寂の中へ溶けていくばかりで、遊星の意識も、いつしかその中へ逃げ込むように沈んでいった。
 翌日、目が覚めた時には、既にブルーノは居なかった。おぼろげな光を孕むリビングのテーブルの上には、出来上がって間もないと思われる食事がぽつねんと孤独に鎮座していた。誰かに食されるのを待ち兼ねているようであり、誰にも手を付けられずに放っておいて欲しそうにも見えて、遊星は幾度となく目にしたそんな光景が以前とは違う心地をもたらしていることに気付いた。
自分は躊躇している、ブルーノからの無償の施しを受けることに。
 手にしていたスマートフォンを握り締める。そこには半時間ほど前にメールが一通届いていた。『先に行くね、ご飯ちゃんと食べてよ!』いつものブルーノのメールに、遊星は無性に侘しさを感じた。
 いつもこんな風に、自分の不安を押し殺していたのだろうか。俺に、何も不安を抱かせないために。
 考えれば考えるほど混乱が遊星の頭を掻き乱した。そうして何も感じてやれなかった自分が腹立たしくあった。後悔や懺悔が終わらない螺旋階段を転がり落ちていくようだ。けれどもきっと、ブルーノの方がもっとあぐねていたに違いない。そう思う。昨夜、『ブルーノ』が言っていたように。
 宇宙のような空虚な暗闇で、不確かに揺れていた彼の双眸を思い出す。それは感情の飽和を止められなかったと、やり切れない思いに駆られているようだった。そこまで至らせてしまったのは、きっと自分に他ならない。遊星はブルーノの二つの姿を瞼の内に描く。
 自分は彼にこの心の内を言葉にしたことがあったろうか? 昔から与えられているばかりで、『ブルーノ』が言っていたように好意を返すことなんてできていなかったはずだ。それは彼が自分を好いていてくれるから、受け入れていることをそんな風に受け止めてくれているだけなのだ。
 伝えなければ。
 伝えなければいけない。
 自分はもう庇護されてばかりの子供ではないのだから。
 遊星の指がスマートフォンの画面を操作する。今晩うちで待っている。短い一文だけを記入し、送信する。画面をオフにして、遊星は世界が夜を迎えるのを待った。
     *  *  *

 雲のない黒い天蓋から半月が見下ろしている。ブルーノは背中からその淡い光を受けながら遊星の家の玄関前に立っていた。右手に持つ仕事用の鞄がいやに重く感じる。
 仕事の合間に確認した遊星からのメールが、彼はずっと気になっていた。もしや自分は何か遊星にとって悪いことをしたのではないだろうか? 嫌われたのではないだろうか? 幽霊に怯えるようなはっきりとしない恐怖がブルーノの心を曇らせた。
 最近、遊星と居る時に意識が飛んでしまうことが度々ある。その正体にブルーノは薄々勘付いていた、その瞬間はいつも遊星の肉体を求めている時であるから。
きっと自分は逃げている。自分の奥底に隠れている、檻の中の獣から。
幼い頃より知っているあの恋人を喰ってしまおうとする欲望が日々自分を侵食している。それから逃げているのだ。辛うじてその看守が自分を心の更に奥へと追い遣ってしまうから、ボクは紙一重のところで牙を剥かずにいる。
 意識が途切れてしまった後に見る遊星は、自分を見ているにも係わらず違うものを見ているようだった。その時ブルーノは、遊星の視線に紛れる自分の中の全く異なる自分の姿を見出した。己の看守の姿を。
 スマートフォンを操作し、再び遊星からのメールを見た。差出人の『不動 遊星』という文字がひどく愛おしい。遊星と付き合い始めてから、否、それよりも前から、彼を形容するものは全てがブルーノにとって愛情を賦与する対象だった。親鳥が雛に餌を与える気持ちでいたものが、いつしか萌芽のような思慕となったのはいつだっただろう。木の葉が紅く燃え上がるように恋情で染まってしまったのは。いいやきっと境界線なんてなかった。遊星の人間性に触れた瞬間が始まりだった。ただ、それだけだ。
 スマホを仕舞う。少し冷えたブルーノの手が重たそうに家の扉を開けた。
「ただいまぁ……」
 玄関の明かりは付いていない。ただリビングから漏れる蛍光灯の白い光が廊下を薄く照らしているばかりだ。
「遊星?」
 返事はない。その代わりに慌ただしい足音がした。だだだだ、と走るような足音が家の奥から聞こえてきたかと思うと、遊星がリビングからばっと身を出した。彼の姿を確認してほっと息を付く。
「あ、居たんだ。居ないかと、」
 思った。そう言葉にする前に、遊星の身体がブルーノの胴体に抱き付いた。勢いで背後の扉まで後ずさりする。どん、と背中に扉が当たった。
「えっ、……え?」
 詰まったような声が出た。体当たりのような激しい勢いで抱き付かれ、ブルーノは混乱していた。遊星がこんな積極的な行動を取るのは見たことがなかったから。ブルーノの両手が所在なさげにうろたえる。
「ゆ、遊星、ねぇ、どうしたの? 何かあったの? 遊星、」
「ブルーノ」
 遮るように、くぐもった遊星の声が薄暗い玄関に転がった。
「好きだ」
 けれども至極はっきりと、書物に明示的に記された真実のように、遊星は喉を震わせた。
「俺は、ブルーノが、好きだ」
 ブルーノの身体が硬直する。心臓が、まるで氷漬けにされたように冷えた後、炎で炙られるような熱さで沸き立つ。遊星は今、ボクに何て言ってる?
「ずっと、ちゃんと言ってなかった。済まない。俺は――」
 俯いていた遊星の顔がそぅっと離れ、ブルーノを見上げた。輪郭が、廊下の奥から僅かに届いた光で浮き上がる。
「俺は、ブルーノのことを、愛している」
 だから、もう怖がらないでくれ。
 すっと開かれた遊星の黒い瞳に一つだけ輝く光が涙のように見える。そう思った時には、彼の顔が俄かに眼前へと近付いていた。
「ゆうせ……」
 遊星の右手が、首をぐっと引き寄せた。唇がぶつかる。荒いキス。直後、遊星の舌先が半端に開いていたブルーノの口へと入り込み、甘ったるいキスへと変わる。
「ん、う、」
 遊星からのキス、初めてだ。
 目一杯の幸福感がブルーノを満たした。ずっと何処かで噛み合わなかったピースがかちりと填まったような、失くしてしまった扉の鍵を漸く手に入れたかのような、全てが一つに合わさった至高の瞬間を今、享受しているのだ。
 右手に持っていた鞄を投げ捨てた。どっという鈍い音がしたが何も気にしなかった。両手で遊星の身体を抱きすくめて全身を閉じ込める。合わせた唇が水音を立て、絡む舌の上で唾液が混ざり合い、否応無しに官能的な興奮を本能へ注ぎ込んでくる。発情した動物のような息がどちらからともなく漏れた。
 たっぷりと、欲のほとばしるキスを味わったあと、名残惜しそうに離れていく遊星の顔を覗き込む。熱に浮かれたような表情で見上げる恋人は、ブルーノの瞳に恐ろしく蠱惑的に映った。そうして見下ろす彼の瞳は、もうあの『ブルーノ』ではない。
「遊星……」
 ひたと抱き締める。その身体は熱い。心地よい声が、熱情の混じった息と共にブルーノの耳元で響く。
「俺はもう、子供じゃない。ブルーノを想うだけで、こんな風に感情任せになってしまう、ただの一人の人間だ」
 伝わっているだろうか? 心の中で溶ける、砂糖菓子のようなこの感情。
「ブルーノ。ブルーノだけが、この感情の原動力なんだ」
 ブルーノの頬へそっと右手を添える。親指の腹で目元を拭うと、あたたかいものが付いた。見上げた自分は彼の瞳の中で笑っていた。ブルーノの唇が緩やかに弧を描いて、嬉しい、と形作った。へへ、と小さく笑う。いつも彼がする癖のような、くしゃりとした笑い方で。
「うれしい、ボク、今なら死んでもいいかもしれない」
「馬鹿、お前に死なれたら俺は一生孤独だろう」
「うん……うぅ……遊星……ゆうせいぃ」
 えぐえぐと小さな嗚咽を上げながら抱き締めてくるブルーノの背に、遊星は腕を回した。これではまるで立場が逆だ。けれども親のように、只管この子供のような大人を甘やかしてしまいたくなった。
「ボク、遊星が好き、大好き、誰よりも何よりも大切にしたい。けど、時々心まで一緒になれたらいいのにって思うくらい、君のことを、激しく愛してしまう瞬間がある」
「あぁ」
「こんなボクを、遊星が嫌いになっちゃうんじゃないかって、不安になる」
「あぁ」
「それでも、良い? ボクで、良いの?」
「それが、ブルーノの全てだろう」
 そのブルーノの全てを、俺は愛している。
 人間が人間を愛することはきっと、泥臭くて、欲に塗れていて、臆病だ。しかしこの世の何も敵わない輝きと高潔さ、そして深く強いあたたかさを持つ感情の塊を分かち合いたいから、俺達は誰か愛してしまう。不変で永久的で、儚く脆い、けれども揺るぎないもの。
 思いながら、遊星はブルーノを再び抱き締めた。指先が骨まで届けと言わんばかりに。
「俺は、ブルーノの全部が欲しいんだ」
 あぁ、やっと伝えられた。体裁も何もかも取り払って、ただ言葉と想いでお前に触れる。俺は漸くブルーノに触れられたのだ。皮膚にではなく、肉体の奥底で脈動するその魂に寄り添っている。
 願わなくとも俺達は一つになれる。伝えるという、たったこれだけのことで、二つの心がこっくりと溶けてしまう。難解で不可思議な現象。けれども世界中のどんなものよりもきっと単純な出来事。
 ありがとう、とすぐ傍でブルーノの鼻声がして、遊星は緩やかに瞳を閉じた。
 きっと『ブルーノ』はその代弁者としての役目を終えただろう。けれども予感がした。いつかまた、あの凛然とした『ブルーノ』に会える日が来るだろうという根拠のない、しかし確信をもった予感。もしその瞬間が来たら、俺も彼にありがとうと言いたい。そうして、祝福のキスを一つ贈りたい。
 ブルーノが等身大の彼で居ることに。
 そして、ブルーノがこの世界に存在していることに。
 ではその時まで失礼するとしよう。ブルーノの奥から、彼の声が聞こえた気がした。



(了)

初出:2010年畳む
Supply
・妙な訪問販売にひっかかるブルーノ。
・2014年発行のブル遊アンソロジー【StardustGazer】様へ参加させていただいた時の再録です。
#ブル遊

 そのカプセルをひとつ、飲み込んでみて下さい。そう言って、妙な白衣の男はボクの前から姿を消した。正確に言えば去っていった。
 目の前の机の上には赤色と白色が半々に塗られたカプセルが一つ転がっている。
 ボクは遊星達が出掛けている間の留守番をしていた。ひたすらデバッグ作業を続けていた時、こんこんとノックの音が聞こえて、あれ宅急便かなと思って応対すればそこに立っていたのは見知らぬ男だった。一見ヤブ医者のような感じで、けれども高尚な学者のようにも見える。彼はボクに前述のようなカプセルを一つ手渡して、さっさと立ち去っていった。
 訪問販売には気を付けろ。
 遊星の言葉を思い出す。でもボクは何かを売られたわけじゃない、押し付けられはしたけれど。だから販売はされていない、と思われる。
 再び机の上に目をやった。カプセルの半分を染める血を一滴たらしたような色はボクには珍しく映った。何故ならボクは自分の血を見たことがなかったからだ。ここに住み始めてからまだ包丁を使ったことはないし、工具で怪我をしたこともない。強いて言うならばカップラーメンを食べる時にポットのお湯で指先を少し火傷したくらいか。
 白衣の男はこんなことを付け加えていったっけ。
「それを飲めば、貴方は人間に最も必要なものを手に入れることが出来ます」
「もっともひつようなもの?」
「はい。やさしくて脆くて、いついかなる時にも奪われることのない自分だけのもの、尊いもの――愛ですよ」

 あの訪問販売の人が言った言葉が、何故か何処までもついて回るのだ。
 カプセルはかれこれ三十分くらい放置されたままだった。デバッグ途中のプログラムも同じく、処理途中に置かれたカーソルだけが点滅を繰り返している。
 腕を組んで首を捻った。傾いた頭が、ういいん、と思考をし始める音が聞こえた気がした。まるで機械のように唸るのは結構真剣に悩んでいる証拠だ。
「愛、あい、かぁ」
 あんなに小さなカプセルに? 不思議だ。
 ボクは人間だから愛だってあると思う。でも足りていないならこれで補充できるのかもしれない。ビタミン不足を解消する為に、ドラッグストアでタブレットを買うみたいに。
 愛って何だろうか。
見たことがないのに、人は皆信じている。猫を撫でる時に感じるほわりとした心の温度も、愛の温度と呼ぶのだろうか。この世に山ほどある感情の中で、多分一番複雑でややこしい、扱いづらい、沢山枝分かれする大きなカテゴリ。ボクはどれくらい持っているだろう。
 例えばジャックに今より優しくしてあげられる愛。
 例えばクロウの仕事を手助けしようとするような愛。
 例えば遊星に、今以上の気持ちを渡すことの出来る愛。
 カプセルを飲むだけでこれらを増やすことが出来るのなら、とても素晴らしいことだと思う。
 けれどもどうしても勇気が湧かなかった。カプセルを飲んでもしボクの中の愛が本当に増えたりしたら、何だかそれはまるでボクには愛が無かったんだと証明してしまうみたいで。



 猫が猫じゃらしを捕まえるように、アキさんの右手がたしりと置かれた時、思わず冷や汗をかいてしまったのは内緒だ。Dホイールの座席に整列した指先は細長くて、こんなにすらりとした手が頑強とも呼べるDホイールを乗りこなすなんて一見想像し難い。けれど確かに彼女は黒薔薇の魔女として君臨していたのだから、美しい薔薇には棘があるなんてあながち間違ってはいないということかもしれない。
 凛とした声が駆け抜ける、夕暮れ時。
「ブルーノ、何だか集中力が欠けているんじゃない?」
「えっ……そうかな?」
「何かあったのかしら? 今週の始めには貴方、もう変だったわよ」
 それは多分、あの妙なカプセルを貰った翌日のことだ。
 子供を窘める母親のような口調に、つい心の鍵も緩んでしまう。秘密というまでもなかったけれど、ボクはあのカプセルのことを一週間誰にも言わなかった。その間工具箱の隅で、あの血液が固まったような物体は手のひらサイズの密封式ポリ袋と共に静かに眠りについていた。
 アキさんの目は大きくてぐっと迫りくるようで、ボクには到底逃げ切ることなんて出来そうになく、首根っこを捕まえられた子猫よろしく彼女と向き合った時にはすっかり事の顛末(という程のストーリーもスペクタクルもないけれど)を話す気になっていたのだ。
「……あの、アキさんは、人間に最も必要なものって何だと思う?」
「どうしたの? 急に」
 訝しげな返答は心配も含まれているのがよく分かる。けれども知りたかった。彼女がボクと同じ立場にいる人だからかもしれない。遊星のことを、きっと深く想っているから。
 伝え終えると、アキさんは少し苦笑いを混ぜた顔で「ブルーノったら」と零した。それから人差し指で軽く鼻先を突く。「いけないわね」と注意をしつつ。
「気を付けないと駄目じゃないの。全くお人好しって言うか……」
「お、お人好し?」
「そうよ。そんな怪しい人から怪しいものまで貰っちゃって。飲んでいないから良いけれど、何かあってからじゃ遅いのよ」
「う……仰る通りです……」
「でも、悩んじゃうのも分かるわ。『愛を飲んで増やせる』なんて、私だったら同じように迷うでしょうね」
「アキさんでも?」
 意外だ。ボクの声に彼女は「当たり前よ」とまた苦笑した。
「さっき、『人間に最も必要なもの』って何かって聞いたじゃない? もし絶対にこれだけは譲れない、失くしたら人間じゃなくなっちゃう……そんなものがあるなら……やっぱり、その怪しい人が言うみたいに愛かもしれないって思うもの」
「どうして?」
「私、今まで沢山の人を傷付けたの。パパもママも。その時の自分を思い出すと今でも辛くて、苦しくて、その時の自分を消したくなるくらい――でもそうして思い出す度に分かるのは、その時の私には愛とか、愛から生まれる優しさとか、今よりずっと持っていなかったってことよ」
 彼女は横顔を夕陽に紅く染めて、今度はにっこり笑ったけれど、隠し切れない寂しさが少し滲んでいた。
「アキさん――」
「愛がもっと沢山あったら、私は優しくなれていたかもしれないから」
 彼女の瞳が瞬きと同時にちかっと光った。その瞳の向こう側にはきっと遊星がいるんだろうと思う。そして光の源は、彼女が抱いている感情なのだ。組み方は異なっても、ボクと一緒のカテゴリに有る、あの気持ち。



 結局ボクはあのカプセルを飲むことはなく、翌日成分解析に出して中身を調べてもらうことにしたのだが、結果はただのビタミン剤だった。毒々しい色の見た目に反して、何の変哲もないレモンに似た味の粉が入っているだけで、興奮作用さえないのだと知った時少しがっかりしてしまった自分のことを思うと、本当は『愛のカプセル』であって欲しかったのだろうか。あの白衣の男は一体誰だったのか。本当にただの訪問販売の男だったのかそうではないのか、白昼夢だったのか、その正体を知ることはもう出来ないだろう。
 とっくに正午も過ぎた作業場は少し蒸し暑くて、換気の為に窓を開けた。緩やかな風が耳元を過ぎていくのを感じていると「ただいま」という遊星の声がして振り向く。
「どうした? ブルーノ」
 階段を下りてくる遊星はバーガーショップの袋を掲げて見せた。「腹、減り過ぎたか?」冗談めかした口調が彼をあどけなくさせる。
「あ、ごめんぼーっとしてた……おつかいありがとう」
「気にするな。休憩しよう、ジャックが帰ってくるとまた五月蠅いぞ。『俺が居ない間にハンバーガーを食うとは何事だ』ってな」
紙袋を受け取る瞬間、遊星の指先からは僅かに整備オイルの匂いがした。その油臭さも紙袋を開けた途端広がったチェダーチーズの匂いにかき消されてしまった。昼ご飯を食いはぐれたボク達の腹はずっと前から鳴りっぱなしで、早急に食糧を! と訴え続けている。
「いただきます」
「いただきまーす」
 包装紙を捲ってハンバーガーに齧り付く。じわじわ広がる肉汁が美味しい。チーズがとろっと溶けて、二つ一緒にお腹に落ちていく瞬間、身体中が「満たされていく」って叫んでいるのが分かる。もう一口噛り付いて、また堪能。
 もしも、だ。
 食欲みたいに、欲しいと思って愛を求めて、そして他の人から補給されたら、巡り巡ってそれは自分の愛に足されることになるのだろうか――肉を味わいながら考えてみた。もしそうなら、ボクはずっと遊星の愛を受け取っていたい。噛みしめて、味わって、飲み込んで、ボクの中を一周したら、きっとボクの中にもある筈のあの気持ちと混ざり合ってくれる。
 循環する愛情。ずっと枯れることを知らないままで。それならカプセルになんてしなくても、ボクは君を想い続けていけるのだ。
「ねえ、遊星」
「ん? ポテト欲しいか?」
「あ、欲しい、でもそれよりね、」
 ボクも愛をあげるから、ボクにも愛をちょうだいね。畳む
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