から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

エンドロール
・未来捏造。
・死ネタです。
#ブル遊 #IF

 カレンダーの日付に赤い油性ペンで丸印をつけたブルーノに、遊星は苦笑いをこぼした。微笑はコーヒーによって苦さを増す。
「どうして明日の日付に丸してるんだ」
「え? だって明日はやっと新システムが完成するんだよ! お祝いしたいじゃないか」
 紙の白さにインクの赤さがやけに毒々しく写った。ネオ童実野シティの根幹を担うモーメント、その制御システムであるフォーチュンが完成してから何年経ったのか、もう数えることも止めてしまった。ぼんやりとそう思いながら、遊星は照明の半分落とされた廊下へ目を遣り言った。「明日、起動に立ち会うんだろう。早く帰宅した方が良い」時刻は既に深夜だ。
「そうだけど、それはチーフである遊星もでしょ? ボクはそんなに疲れていないから大丈夫だよ。それに色々考えが巡っちゃって……」
「考え?」
「うん。何だか、明日までの道程がすごく長かった筈なのに、すごく短かったように思えるんだよ。不思議だ、こんなに大きなシステムが出来上がったのが夢みたいだ」
 ブルーノは白衣を翻しながら両手を広げた。その背景には壁一面のガラス窓、向こう側には筒型の巨大な制御装置が鎮座している。長年の研究の結晶体。これからのシティを支えるシステムの全てが詰まっている機械を背負いながら、ブルーノは嬉しそうに笑った。
「覚えてる? 昔ボクが夢中になってD・ホイールを弄くっていた時、集中し過ぎだって君に怒られたことがあったよね。なのに遊星ってばこの間からずっと開発室に閉じこもりきりで、逆にボクが叱ったじゃない。今じゃ立場が全く逆だ」
「あぁ……そうだ、そうだったな」
 懐かしかった。あまりにも懐かし過ぎて、遊星には自分とは全く関係の無い事柄のようにさえ思えた。開発者の道を選んでからも、カードを捲る感覚は指先に染み付いて片時も離れることはない。戦いに明け暮れた日々は写真のような鮮明さで遊星の目の前に浮かんできたが、過去の話だという内からの声がすぐにそれを掻き消した。
「遊星も休んでよ。まだ若いからって無理しちゃ駄目だからね。明日は忙しくなるだろうからさ!」
 それじゃあ先に帰ってるね。未来に対する希望が、ブルーノの全身から溢れ出している。明日はきっと良い一日になる。そう確信している笑顔を見せて、彼は遊星に手を振り部屋を後にした。
 一人になった部屋は恐ろしい程広く思えた。手元の資料を纏めながら明日のプランを考える遊星の目が手の甲の皺に落とされ、それが一段と深くなっていることに気付く。眩暈がした。しかし大分視力の落ちた眼がまだブルーノの表情を捉えられることに彼は安堵した。
 ブルーノは予想以上に上手く動いているようだ。今頃はこのビルを出て、記録させたルートに従って帰路についていることだろう。
 帰り際に見せたブルーノの姿が、遊星には幻のように見えていた。いや幻なのだ。そう自分に言い聞かせる。そうでなければならない。本物はもう居ない。
 ブルーノは――あのブルーノは開発者不動遊星によって作られたアンドロイドだ。その事実を本人は全く知らない。遊星にとって長年の研究の成果は、本当はこの凄まじい程に大きな無生物ではなく一体のロボットだった。嘗て仲間であったブルーノの記憶と、今日まで恰も一緒に過ごしてきたかのような記憶を入れ込んだロボット。宇宙の果てで消えた記憶だけ失ったブルーノ。
 今朝、やっと完成した彼には遊星と共に開発に励んだ日々が詰まっている。そしてその時間は遊星達が戦った日々から十年程しか経っていない。あの頃の情熱が冷め切らぬ時代のまま止まっている。
 とんとんと机で資料を整えた時に白衣の袖から垣間見えた手首は関節がぼこりと浮かび上がっていた。老いた自分の姿はブルーノには見ることは出来ない。そう仕向けたのは遊星自身である、何故なら声と姿はまるで若いまま認識するように設計したのだから。
「情けないことだとは理解しているんだが……」
 独り言が多くなったのはいつからだったろう? あまり覚えていなかった。時の流れは徒に過ぎてしまって、自分の痕跡をどんどん消していく。それなのに切望は褪せず色濃くなるばかりだ。無常さに足元を掬われそうだと、無意識に遊星は踏み止まった。
 一先ず家に帰らなければならない。明日に向けて準備すべきことはまだ山のように残っていて、遊星の頭痛を少し強くした。資料が折れるのも気にせず遊星は鞄に突っ込む。どうせ全てデータ化してあるのだから構わない。
 外に出ると海の匂いが遊星に被さった。シティを取り囲む水の砦は静かに波打っているのだろう。月も星も見えない空は今にも重たく圧し掛かってきそうで見上げる気すら起こさせなかった。輝きのない天井。明日は晴れるだろうか? 世界は暗いのに、眼の奥にちかちかと光が走るのはきっとネオンの残像の所為だ。誤魔化すように遊星は心の中で反芻した。



 頭痛がして遊星は目が覚めた。
 早朝の空からしたしたと降る雨の音が頭の中で反響して余計に痛みを助長させる。「お早う」と、中途半端に開いた寝室の扉から覗くブルーノは既に着替えていた。昔のまま、居候として住み続けているという形にしておいて良かった。但し場所は違い、今では全く別の、ただのコンドミニアムの一室だが。遊星は寝起きの頭で考えた。起こした上半身は気だるさに圧されて猫背になる。
「疲れているの?」
「そうかもしれない……少し遅くまで、仕事をしていたから……」
 ぼそぼそと答えたが、性能の良いブルーノの聴覚は遊星の小さな声を正確に拾い上げた。「もし無理そうなら、ボクが代行するよ」耳鳴りすら聴こえる今の遊星にとっては有り難い言葉だがそうもいかなかった。何せブルーノが楽しみにしている。それが遊星の足を動かす大きな理由となった。
「大丈夫だ、行ける」
 軋んだベッドのスプリングの揺れにさえ彼の視界は振れた。以前から身体の調子が良くないことはアキから聞いていたが、不調は最近遊星に顕著に表れてきている。年なんだから、と優秀な医者になった彼女に溜息をつかれたのはつい先月のことだった。ブルーノの不安そうな表情に小さく笑って応えて、遊星はふら付かないように一歩一歩踏みしめながら洗面所へと向かった。
 扉を開けた瞬間飛び込んできたのは血色の悪い老人だった。鏡に映った自分の顔が、随分前に見た姿と重なる。四角く切り取られたそこには老け込んだ男がぼうっとした表情で立っていて、彼に静かに語り掛けてくる。
 ゾーン。お前はやはり未来の俺だったのかもしれない。
 自嘲の言葉はブルーノの製作に取り掛かってから絶えず彼の口から零れていた。結局自分はゾーンと同じことをしているに過ぎないのだということばかり考えてしまって、それは常に遊星を縛り付けている。ゾーンが遊星に縛られていたのであれば、今の遊星はゾーンに縛られていた。
「遅れてしまうよ」
 扉越しに聞こえたブルーノの声は遠慮がちである。はた、と意識を戻して、遊星は慌てて「すぐ行く」と返答した。そうだ、俺は行かなくては。新たな未来の礎を見に。それが俺の義務。このシティを見続けるのが、俺の夢であり義務なんだ。
 簡単に支度をし、白衣とセキュリティカードだけ引っ掛けて遊星達は部屋を出た。くすんだ白い扉を背景に、ブルーノの着ている服の紺色が雨空の所為で遊星の目に一層暗く映る。その暗さはこの場にブルーノが居ることが変則的であることを彼に突きつけてくる。同時に押し寄せて来る寂寞が遊星の足を部屋の扉の前で留まらせた。
「どうしたの? 忘れ物?」
 がちゃん、とオートロックの重い施錠音が鳴った後で、不思議に思ったブルーノの手がドアノブに掛かったまま止まる。その姿は何十年も前と一つも変わらぬもので、綻んだ口元だとか、少し首を傾げた格好までもが、雨水の匂いと交じり合って遊星をぐわぐわと揺り動かした。
「あ、あぁ、いや、何でもない」
 昨夜以上に遊星はブルーノの存在感に感情を掻き乱されていた。自分が行うことに対する正しさも何処からか聞こえる冷笑も全て忘れていたというのに。ブルーノの発する全てが彼の記憶を全身の隅々から引っ張り出してきて、遊星の心を緩やかに包み、その温もりで惑わすのだ。
「行こう」
 振り切るように研究所へ足を向けた遊星の背中を、鈍色がかったブルーノの双眸が少しの侘しさを抱きながら見詰めていた。
 雨は止みつつある。コンドミニアムの正門から未だ静かな通りへと踏み出すと、覚めやらぬ街に遊星とブルーノの影が薄っすらと浮かび上がった。濡れた地面に映り込む風景が、歩く度にくるくると表情を変える。
 此処から研究所までは何かあればすぐ駆けつけられる位置にある。短い通勤距離の途中、遊星はブルーノの前を無言で歩いていた。遅くなった歩調に合わせ速度を落として付いてくる足音に耳を澄ませる。きっと今の俺はいつも以上に猫背だろうな。背後から投げ掛けられる視線を背負いながら遊星は考えた。
 目の前に聳え立つ巨大な塔を見上げる。
 モーメント。シティの中心。今日は新たな時代への節目だった。新しい、世界への跳躍。
 歴史は移り変わる。いつでも只管前へ進む。俺とブルーノが居た時はもう遥か彼方へ行ってしまって、その亡霊に追いつきたくて、追い掛けてきた。過去に追いつくことは出来ないと知っている筈なのに。けれども俺は、もう。
 心の海に沈殿していたものが浮上する。その瞬間、遊星の足が違う方向へと向けられた。研究所とは全く別の方へ。
「え? 遊星、研究所はそっちじゃないよ」
「いいんだ、ついてきてくれ」
「でも今日は、」
「今日だからだ」
 焦る声を無理矢理宥めながら、遊星はブルーノの左手首を掴んだ。掴んでから、かさついた自分の指の感触に気付いて一瞬冷や汗を掻く。本当の俺が見抜かれるのではないだろうか? だがブルーノは何も言わず、渋々といった表情で連れられているだけだった。良かった、ばれていない。
 それから二人は街を抜け、坂を上った。薄くなった雲の向こう側から、徐々に朝焼けへと身を焦がす空から僅かに小雨が降り続いている。傘は差さずにその中を歩き、しっとりと全身を潤わせてコンクリートの道を進む。すると足元が少しずつ緑の敷き詰められた道に変わっていく。なだらかな坂は少し長い。右へ曲がったり左へ曲がったりしながら、銀の玉を吊り下げた草をさくさくと踏みしめつつ歩いた。時折、街から吹き上げる湿った風が白衣の裾をはたはた揺らしていった。
 歩き続けている間、何度か立ち眩みがしてその都度遊星の息が乱れる。「寝不足なんだ」言い訳だった。遊星の言葉に心配そうな表情を浮かべながらも、ブルーノは無言で腕を引かれて付いていった。ただの寝不足からではないことは、遊星には自覚があった。それでも何も言わずにいたい。今までと変わらぬ日常のままで。そうしてブルーノを掴む遊星の右手が完全に温まる頃、彼等は目的地に到着した。
「きれい」
 ブルーノの小さな呟きが零れた。
 そこは丘だった。シティを見渡せる展望台。遊星が嘗て、この街に決意を託した場所。
 眼下に広がる街並みは輪郭が薄い橙色に輝いている。右側から聞こえる驚きの声に笑みを浮かべて、遊星は「そうだな」と呟く。掴んでいた手を離して白衣のポケットをごそごそと漁り、そこから携帯端末を取り出し操作し始めた。
「何しているの?」
「準備だ」
 よく分からないと言いたげな顔でブルーノは見ている。「少し待っていてくれ」視線で返してから数秒後、端末は通話モードを実行した。耳に当て、遊星は喋り始める。
「あぁ、俺だ。済まないが今日は研究室へ行けそうにない……何、データは全て昨夜のうちにサーバーへ送ってあるから問題はない。頼みがあるんだが、そのデータを開くと起動の手順が書いてあるから、前回のシミュレーション通りにやってくれないか? そうだ、俺は別の場所から見ているから――済まないな、頼む」
 その遣り取りをブルーノはぱちぱちと瞬きしながら聞いていた。「どういうこと?」通話を切り上げて遊星は悪戯が成功した子供のように笑った。
「今日は、ここから見たかったんだ」
「ボクに内緒にしていたんだね。びっくりするじゃない、もう」
「怒らないでくれ、この通りだから」
 脹れたブルーノに両手を上げる。降参の合図だ。銃を突き付けられた役者のような格好に、ブルーノの顰められた眉が仕方ないと言いたげに緩まる。ほ、と遊星が安堵の息をついた直後、街の中心から光が発せられた。
「始まったんだな」
 眩い光の放出が、シティを包み込む。まるで日の出のようなそれを浴びて、二人の影が一気に濃くなり丘へ縫い付けられた。
「うわあ……」
 感嘆の溜息がブルーノから漏れる。制御装置から溢れる虹色を帯びた空気は遊星達の視界を白く染め上げた。その光景に、遊星は覚えがあった。何十年も前、今、隣に居ない筈のブルーノに触れることができた世界で、彼が消えていく瞬間に、確かに。
 光は遊星の目の奥を貫いた。
 そうして、彼を地面へと倒した。
「え、」
 光の収束と同時に、遊星の身体は空を見上げる。冷たいコンクリートの地面がどんっと彼を受け止めて、衝撃がその身体全体に響き渡った。
「遊星、ゆうせ、ねえ、どうしたの? ねえ!」
 自分を覗き込んでいるブルーノが、まるで遠くに居るかのように遊星には思えた。全身が鉛のように重い。背に腕を回して起き上がらせようとするブルーノに、「いい」と、囁くように告げる。
「よくない、駄目だよ、どうして、誰か」
 おろおろと、迷子のように慌てふためくブルーノを遊星の目が愛おしそうにゆったりと眺める。
 ブルーノ、俺を心配してくれているのか。
 それはロボットなのかと問いたくなる程に美しいものを抱いていた。ブルーノの内側にあるそれは確かに、人間と変わらない、心だ、と遊星には感じられたのだ。在りそうに見えても無いはずの、柔らかい塊。
「なあ、ブルーノ」
「待って、待ってよ遊星、今誰か呼ぶから」
 遊星の首が小さく左右に振られる。
「誰も呼ばなくて、いい。お前に、聞いて欲しいことが、ある」
「え」
 光の残像は今も遊星の双眸に焼き付いて離れない。ぼんやりとした世界の中で、ブルーノが茜色の空を背景に覗き込んでいる。朝なのに夕焼けみたいな茜色。そう思うと少し面白くて、掠れた呼吸に混じって遊星は笑った。そうして、呟いた。
「お前の記憶が、全部、作り物の、ただの捏造だって言ったら……」
 その言葉は鍵だった。ブルーノというロボットに宿った心をこじ開ける鍵。
「何の、話」
「お前は、本当は、あのブラックホールの中で、消えてしまったのに」
「知らない……ボクは、知らない」
「知っている筈だ、ブルーノ――お前を作ったのは、俺なんだから」
 忘れさせた真実を、話そう。
 ブルーノの奥底で、あの日消えた記憶が呼び起こされる。きりきりきり、と遊星の声に反応してメモリから読み込まれた記憶は、自分の消滅のそれ。
「ボク……ボクは、……消えた?」
「そうだ」
 肺から空気が押し出される度に心臓を圧迫されるような感覚が遊星を襲う。まだ駄目だ、伝えなければ。
「随分時間が経った。今の俺は、本当はただの、皺くちゃな老人なんだ」
「でも、ねえ、どうして」
「夢だったんだ」
 光に透けた紺碧の髪が風に揺れる。茜色にブルーノの空色がくっきりと浮かび上がった。
「お前にだけは、ずっと、昔の俺のまま、見ていて欲しかった。叶えられなかった、俺の、夢だったんだ。お前と、一緒に見たかった世界なんだ。その為だけに、お前を作った。どうしようもない、愚かな人間だと、罵ってくれていい……」
 お前じゃなくても、良かったと言われるかもしれない。でも俺は、お前が良かった。ブルーノが良かった。
 人間がロボットを人間に似せて作るのは、中身が機械であるそれらと心を通わせたいからだと、何処かで聴いた話を思い出していた。本来ならば持たないはずの心を機械に見出し、彼等を理解したいから。自分もそうであったのかもしれない。けれども根底にあるのは、嘗て昔、一緒に居たブルーノと再びまみえたかったという、本当なら叶えられぬ願いだ。
 過去はいつだって輝いて見えていた。何十年経っても、触れることの出来ない宝物のように。時間を越えられないならせめて、お前に見せたかった。お前と、お前が居た素晴らしい世界を。
 自分の我が儘の所為で、本当であり捏造の記憶をお前に与えてしまったことを、謝らなければならない。ひい、ひい、と、掠れる息の合い間に呟いたその言葉に、ブルーノは必死で耳を傾けた。歪んだ眉は眉間に何本もの皺を作った。目尻から垂れた雫が、シリコンで作られた頬を伝うのを拭う暇さえ惜しいと思う。涙が流せるように作ったのは間違いだったかもしれないと、遊星の頭によぎる。哀しみが劈く姿を見ているのはやはり辛いのだ。
「今ならゾーンの気持ちが、分かるような気がする。ゾーンは、やはり未来の俺だったんだろうか……」
 ブルーノが必死で首を振り否定する。
「違う、違うよ、遊星は遊星だ」
「そう、か。なら……ブルーノも、ブルーノだったんだな」
 はは、と乾いた喉で遊星は笑った。
 なんだ、ここに居たのかブルーノ。
 お前は確かに俺の知っているブルーノだった。それに気付かないままこの瞬間まで来てしまった俺は本当に情けない人間だ。たった一日とちょっとの間、それでも一番近くに居てくれたお前は、昔、俺の一番近くに居てくれたブルーノそのものだったんだ。何故ならお前の心は今、確かに俺の知っているお前と、全く、一欠けらの相違も無く、一致している!
「うん、うん、そうだ、ボクはブルーノなんだよ」
 その言葉が聞きたかったのかもしれないと、遊星は思った。沢山ある言霊のうちでも、俺はブルーノが自身をそれだと認め、証明する声を求めていた。自分の作り上げた偽物に託した虚構はここで砕け散る。魂の震えがぴたりと重なり合うのは、ブルーノだけなんだ。
 望んだ世界の延長線。遊星とブルーノはそこに立っていた。
「本物だ」
 その声が最後だった。そうして遊星は、確かにブルーノと街を見送った。

 結局、不動遊星という優秀な博士はブルーノを置いて死んでしまった。ただひとつ、街という大きな大きなものを遺してさっさと死んでしまったのだ。
 腕の中で眠る老人と、その向こうに広がる建造物を見据えながら、ブルーノはぽつねんと考えた。
 最期、君の目には何が映っていたのだろう。その先にボクは居たのかすら暴けない謎と化した。それでも、ボクは生きたブルーノには成れなかったけど、君が想っていたブルーノにはなれたのだろうか? ボクの命はいつでも終わらせることができる、けれどもいつまでも続くことができたかもしれない、矛盾の塊だ。君はそれと知っていて、どうしてボクを作ったの? 遊星。ボクはブルーノとして、もう一度生まれることが出来たのかな。
 もう答えは聞けない。でも、きっとそうだったと思う。君が望んでいた最期。君が創り上げたこの街を、ボク等が居た街の完成を一緒に臨むことを叶えられたんだから。それなら、ボクにもちゃんと意味があったんだと信じたい。
 やわらかい風はシティの中心部から丘に向けて吹き抜ける。蒼い、虹色の匂いが混じった音。その音を聴きながら、ブルーノは瞳を閉じた。
 針の音がしんしんと深まる。
 こち、こち、こち、かちり。
 音が止まった瞬間、ブルーノには確かに、未来の足音が聞こえていた。



(了)

初出:2011年畳む
人形師の家
・鬼柳さんのおつかいに行った時にアンドロイドブルーノに出会うジャックの話。
#ブル遊 #現代パラレル

 子供の頃から俺はその家をお化け屋敷と呼んでいた。外観がまるで化け物の髪のように蔦に巻かれていてそれは屋敷と呼ぶには小さすぎる家の窓まで及んでいた。そのためにガラスの半分しか確認することが出来ず、日光を避けているようにも思えるその具合が俺にとってはおぞましい何かを隠しているようにしか思えなかったのだ。
 主の男は若く玄関先に出て掃除をしたり路地裏を散歩したりする姿は時折見掛けたが、あまり老け込まない様子が更にその男を魔法使いの如く思わせた。十年経った今でも、男の様子は餓鬼の時の記憶と変わらぬように思う。
 そうして俺は今そのお化け屋敷の居間に居る。
 どうしても渡さなければならない書類があるから、と言われて町内の住民に頼まれ何故か俺が訪れることになったこの家は、意外や意外、内装は一般家庭と何ら変わらなかった。普通のキッチン、普通のソファ、普通のお茶請け。出されたクッキーを齧りながら、俺は机を挟んで向かいに座る男に目を遣った。
「町内会の委任状だったか? 記入したんだが、ここで渡せば良いだろうか」
「あぁ……」
 紺色のジャケットを羽織った黒髪の青年(と思う)は俺から受け取った紙の端をぺりりと切り取った。そう、渡すように依頼されたのは町内会議に関する委任状だった。全く下らない用事だ。主の男、不動遊星は切り取られた短冊状の紙を俺の前に差し出す。不動遊星、と男にしては整った文字が並んでいた。
 羅列を追っていた丁度その時、ひたひたと、俺の背後にあるキッチンから足音が聞こえてきた。ひたひた、ひたひた。住民は目の前の男だけだと思っていたのに、この家には本当に化け物が住んでいたのだろうか。そう背筋がひやりとしたのだが、予想外に柔らかい響きをした青年の声が聞こえてきたのだ。
「お待たせ遊星。豆から挽いてたら時間が掛かっちゃって」
「あぁ、有難うブルーノ」
 ひたりと足音が途絶えたと思うと、俺の左側にぬぅっと男が現れた。真夏の空のような色の髪を僅かに揺らして、そいつは右手に持っていた盆からカップを一つ俺の前に置いた。白地に信号機のような色彩が線を描く上着の裾に湯気が泳いで、芳醇な香りが俺の鼻を擽った。
「どうぞ」
 人の良さそうな笑みで、男は俺に珈琲を勧めた。それから遊星の前にも同様にカップを置いて、自身は再びひたひたと気味が悪い程静かな足音をさせて俺の後ろの方へと下がっていったのだった。同居人が居るとは欠片も知らなかった俺は呆気に取られながらも勧められた珈琲は口に含むことを忘れない(俺は香りの良い珈琲が好きなのだ)。舌の上に広がり、鼻に抜ける香ばしい珈琲の味は美味かった。

 珈琲を飲み干してから、俺は委任状と共にお化け屋敷を出た。今となっては然程おどろおどろしさを感じないその家の玄関へと振り返ると、遊星が見送りに出てきていて軽く手を振っていた。中途半端に上げられた右手が二三回左右に振られる。挨拶を返さぬのも気分が悪くなるような気がして、俺は珈琲の礼も込めて右手を上げた。上げただけで振りはしなかったが、それでも遊星は一瞬ひどく驚いた表情を浮かべてから、それはそれは嬉しそうに、そして満足気に笑って家の中へと戻っていった。
 不思議な人間だった。年齢も聞いたことがなかったし、生い立ちなんてもっと知らない。その不明さが遊星という人間を奇妙な存在にさせた。あの家だけが時間軸の外れに投げ出されたような感覚を味わいながら路地を真っ直ぐ進む。足元に浮遊感を感じるのは遊星の魔術の名残なのだろうか。そんな可笑しなことを考えながら、途中の道を曲がり、委任状を依頼した知り合いのところへ向かった。
 知り合いはノックに反応して直ぐに出てきた。爺のように白っぽく脱色した髪を掻き毟りつつ、そいつは黒いTシャツに破れたジーンズという格好で「おぉジャックか」等と能天気に言う。
「鬼柳、お前の頼みをきいてきてやったというのに!」
「え? あぁ、あぁ! 助かったわサンキュー」
 紙切れを突きつけてやると鬼柳は笑ってそれを受け取った。ふん、と一つ鼻を鳴らしてやる。
「あと、ブルーノとかいう男の分は貰ってこなかったから自分で行け」
 ぴく、と、鬼柳の指先が止まる。
「え……お前、まさか……その、見たのか?」
「は?」
 ブルーノという単語を発した途端、鬼柳の様子が変わった。そう、まさに化け物を見るような視線を泳がせて俺の返事を伺っている。面食らいながら肯定を返すと、鬼柳は溜息をついて左手を顔の正面で振った。
「そいつの分はいらねーよ。つか、もう忘れとけ」
「……どういう意味かさっぱり分からん」
 自分だけ知らない真実が目の前にちらつかされていて苛々させられる。はっきり言うよう促すと、面倒くさそうな声が返ってきた。
「あー……そうか、お前内輪以外の人間と喋るの嫌いだったから知らねんだったわ。あのな、そいつは人形だ」
「はあ?」
「だから、人形だっての。まぁロボットだ。機械人形」
「……あんな、あんなに、なめらかに、動くものが、か」
「見たやつなんて、今じゃ多分お前だけだろうよ。俺だって昔人づてに話聞いただけだ、実際見たことなんかねぇ。でも等身大の人形を家に住まわして、町民とはほとんど関わり持たない男なんて、変な話ばっか流れるに決まってんだろ。きっとどっかおかしいんだ、不動遊星さんはよ」
 ま、自分がどう思われてるかなんて本人は重々把握してるだろうがな。鬼柳はそう言って、この話は終わりだと言わんばかりに一方的に扉を閉めて家の中へと帰っていってしまった。俺はというと衝撃が全身を打ち砕いたように動けず、けれども一つ風が吹けば崩れそうな程眩暈がしていた。
 あの青年が、ロボットだ、など。
 余りに自然に動いていたものだったから、疑問を抱く隙など有りはしなかったのだ。然しながら思い返せば、ブルーノだけは珈琲を飲まず、気配という気配が薄く、見送りにも出てきていなかった。鬼柳の話を信じるならば、遊星が出させなかった、ということ以外考えらない。
 人目に触れさせるには問題がある代物。魂のない空っぽの身体。見た目だけは人間そのものの、人間ではない人形。

 ふらふらと揺れながら路地を引き返した。来た時よりも倍以上の時間を掛けて、ようやく遊星の家の玄関が確認できるところまで来た。其処には誰も居ない。閉じられた黒い扉が、今は開かずの門のように思えてしまう。もう二度とあの中へ入ることはできない気さえした。
 赤い空につられて視線を上げると、二階の窓に掛けられた灰色のカーテンが揺れていた。僅かに窓が開いているらしい。其処から侵入した夕暮れの風が、部屋を隠す境界線を捲り上げる。
 その奥に、重なった青色と黒色を見た。
 自分の視力をこれ程までに呪ったことはない。間違いでなければ、それは接吻だった。ブルーノと遊星との静寂な秘密だった。黒髪に回された手が緩やかに滑るのを、遊星は小さく身を捩って受け止めていた。暴いてはいけない箱を開けてしまったような途方もない罪悪感に責め立てられ、俺は追われる様に一目散に其処から走り去った。
 今でもあの家にはブルーノが居るのだろう。そうして恋人にするような口付けを遊星に与える。人間のように愛情に塗れた、嘘っぱちの人間が、今日も俺の眼球に焼き付いた窓枠から俺を見下ろしている。畳む
おお神よ、我らを救いたまえ
・アンドロイドなブルーノ。
・遊星を神様かなんかだと思ってるブルーノ。
#ブル遊 #IF

「遊星、遊星、怖いよ、腕が、腕が取れちゃった」
「大丈夫だ、痛いか?」
「痛い」
 痛覚などないはずなのに、この機械人形は全く不思議なことにしきりに痛みを訴えてくるのである。人間ならば恐らく叫び喚きたおし血みどろになっているであろうこの状況、つまりブルーノの左腕の肘から指先にかけてすっぽりと抜け落ちてしまっている状態であっても、青年は涙の代わりに水滴だけをはらはらと垂らして俺に縋る。
「すぐによくなる」
「本当? 死なない?」
「あぁ」
 俺よりも大きなその身体で俺の胸元に泣きつく姿は愛らしいといえばそうである。しかし表面に温度はなく、取れた腕から赤い液体は一滴も出てはいない。だがブルーノは相変わらず俺にぎゅうと抱き付いてその左手に持った自身の右腕の半分をこつこつと俺の背に当ててくる。安心させるように彼の頭を撫でると、うう、と呻き声が上がった。可哀相に、ブルーノは今必死に恐怖と戦っているのだ。肉体の一部が自分から欠けてしまったそれ。何度も経験しているはずなのにいつまで経っても彼に彼にとっては初めての出来事なのだ。人間ならば命取りになることでさえ、ブルーノの動作を欠片も邪魔することはかなわない。ましてや死ぬことなど。それすら知らぬブルーノは、自分を人間だと思っているこの青髪の青年は、人間ならばお前のようにはならないのだということを知らずに俺に泣きついた。
「腕を出してくれ。さぁ治療しよう」
「うん」
 ブルーノの左手から身体を模した物体を受け取り、彼の右腕の肘に合わせる。そこから伸びる色とりどりのリード線は千切れてささくれていた。床に座らせたブルーノに少し待つよう指示し、俺は立ち上がって背後の棚から工具一式を仕舞い込んだ箱を引っ張り出した。ぐっと重みが肩に掛かって鼻から長い息が出る。筋肉が伸縮する感覚が伝わる。ブルーノは自由の利く手で瞼を擦っていた。
 工具箱から太めのリード線を取り出し、ビニールを爪で剥がす。中の金属線をブルーノの肘から中途半端に伸びているそれに絡ませ、コンセントに繋げたまま放置していた熱々の半田ごてを傍の机の上から持ってきて半田を溶かし接合させる。今度はその先を抜け落ちてしまった腕の半分、そこから伸びるリード線へと同様に繋げる。何度かその作業を繰り返している間にブルーノは落涙の模倣を終わらせたようだった。自分の腕を繋ぎ合わせる俺の手元を静止してじぃっと見詰めている。子供が親に言いつけられたようにただただ集中しているのだ。それに気付きながら、俺は時折「痛くは無いか?」などとまるで医者のような言葉を掛けながら(そしてブルーノは従順に「痛くない」などと答えて)電線の通電具合を確認した。後はべりりと破れてしまった表面の皮膚の代理を接着すると、一先ず修理は終了となる。
「もう大丈夫だ」
「わぁ、ありがとう遊星」
 目を瞬かせて俺を見るブルーノはその義眼をきらりと光らせる。その光は人間の目を覆う液体の反射に本当によく似ていた。きいきいと調子を整えるように右腕の関節を動かしブルーノは嬉々として俺に笑いかけた。
「遊星は創造主だ。ボクの神様」
「そんなことはない」
「少なくともボクにとってはそうだ」
 そうして自分を人間だと思い込んでいるこの人形は再び動くようになった腕を左手でさすった。人間を修理できることが不可能だと知らない賢い人形は崇めるように俺を抱き締める。柔らかい重みが俺の身体を包んで、心臓の鼓動のしない体躯がひたりとくっ付いた。
「ありがとう、遊星」
 そうして人間と寸分違わぬ仕草でブルーノは俺の額に口付けた。そのやさしい、ゆるやかな彼の動きが、遠い遠い世界の端くれまで追放してやった記憶へと俺を導いて、思わず俺は目の前に広がるブルーノのシャツにすり、と顔を寄せた。そこに滲む僅かな染みの源はきっと哀しみからでも喜びからでもない。無数の木々の中心にぽつとほったらかしにされたような寂寞感。俺を抱き込む擬似人間の向こう側に見える、あの二度と掴むことのできない夢の記憶に対する果ての無い侘しさが、俺をこんなに駄目にするのだ。畳む
境界線
・アンドロイドなブルーノ。
#ブル遊 #IF

 いっそのことボクは君の息を止めてしまいたかった。
 ボクは死を知らない。人間の肌の、あの中途半端なぬくもりだけを知っていて、彼等が持っている砂時計の終わりの先を知ることができない。ボクは機械でできているから。ボクを成す全てはボクの到達地点を遊星と同じにしてはくれないのだ。ボクらはいつも同じ場所へ向かっているはずなのに、最後だけは落とし穴に落ちてしまうように突然別離する固定された物語を進んでいる。遊星はボクの知らないところへ行ってしまって、彼が其処へ辿り着いてしまえばボクは二度と彼を見つけることができない。求めることすらできずにボクは彼の居ない世界で生きていかなければならないのか。それは絶望だった。世界に再び光が来ないのと同じくらいの恐怖だった。
「ねぇ、君はボクの知らない何かになってしまうの?」
「急にどうしたんだ」
 夜の静けさはボクをぎゅうぎゅうに暗闇の底へと詰め込む。抜け出せられないルーチンワークのようにボクは只管遊星を抱き締めた。夜闇と同じ色をした髪に頬をすり寄せて甘えたふりをしてみる。でも本当は甘えているのではなく遊星に甘えて欲しくて、そしてボクと同じものになりたいと願って欲しかった。
「人間って、辛いね、苦しいね、哀しいね」
「何故そう思う」
「いつかは死んでしまうんだよ。君は灰になって、今みたいにボクに抱き締められることもなくなる」
 それがひどく哀しかった。そうだ、本当に辛くて苦しくて哀しいのは人間ではなくボクだ。ボクだけが君の中から置き去りにされてゆく。消せない記録だけが残されてボクはひとりになる。君はいつかボクのことを全て忘れてしまって、白い空間の中に消えるのだ。なんということだろう! 恐ろしくて遊星を抱きすくめたまま頭からすっぽりと布団に包まった。こうすればボクはこの小さな空間の中ではずっと君と居られると思えたから。
「お前にあって俺にないもの、俺にあってお前にないもの」
「なにそれ?」
 遊星の分の温もりが狭い世界に拡散していく。
「俺は人間で、お前は機械でいいんだ。そうじゃなかったら俺はお前を求められない」
 もぞもぞと動いて、二人だけの小宇宙で、遊星はボクにキスをした。陶器みたいなボクの唇に彼の熱い舌が触れて、ボクはその熱を根こそぎ食べてしまいたくて深く口付けた。ボクの持っていない温度がボクに拡がって、君の持っていない冷たさが君に拡がる。ボクらの間には互いに失われたものが埋められていたのだ。じゃあいつか君がボクのような冷たさを手に入れたなら、ボクは代わりに君のような温もりを得ることができるかな。その答えが欲しくて、ボクは今日も人間を求めてる。畳む
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