から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

無駄遣いしてド叱られる京介
・親子パラレルの小話。
・京介くんはダークシグナーの影響を受けているようです。
#京遊 #現代パラレル

【設定】
京介くん(18)→育ち盛りの高校生
遊星さん(28)→京介くんの義父



「おい京介!!」
「あぁ? んだよ今忙しいって、」
「これを見ろ!!」
 天高く馬肥ゆる秋。つまり、美味しいものが山のように出てくる季節でもある。食い気の多い京介にとってはまさに天国。しかしそれは家計を仕切る遊星にとっては四苦八苦、常に頭を捻るか首を捻るかである。
 帰宅後制服から着替えずに即ゲームに齧り付いていた京介は、テレビから視線を動かさずに返事だけを返した。その背後ではスーツの上着だけを脱いだ遊星が肩を震わせている。画面に釘付けの京介からボタンを連打されていたコントローラーを取り上げる。代わりに遊星の手から持たされたのは、A4サイズの一枚の紙だった。
「あっおいこら!!」
「これをよく見ろ!」
「なんだこれ」
「よ、く、見、ろ!!」
「んー……先月の出費一覧表……?」
 紙の一番上には太字でそうでかでかと明記されており、上から光熱費、食費など、一覧表で記載されている。その表をずっと下へ追っていくと、最後に赤字で『-35,074』と書かれていた。つまり文字通り赤字である。
「……で?」
「で? じゃない!! 先月のお前の食いっぷりは何だ! 肉、魚、その他諸々高級食材ばかり買いこんできていただろう!!」
「スーパー行くとちゃんと書いてあるぜ? 『オススメ品』って。だから買ってやってんだよぉ」
 売上貢献してんだからありがたく思えよなぁー。そうのたまった京介に遊星の怒りゲージが着々と増加していく。こいつ……! ただでさえ京介は出費の多い生活(買い物兼買い食いをして帰宅後はゲーム)をしているのだ。社会勉強を兼ねて買い物担当を任せたのがいけなかったのか。俺の教育は間違っていたのか。と、遊星は自分の頭を抱えた。
「いいじゃねぇか。遊星も美味いもの食いたいだろぉ?」
「健康的な食事を心掛けているんだ!」
「あーもうすぐ会社の健康診断だもんなぁー三十路手前は大変だぁははははは」
「くっ……黙れ!!」
「へーへーもーしわけございませんでしたぁー」
「こ、の……!」
 この瞬間、遊星の中で堪忍袋の緒が切れた音がした。ぶちん。ぽちっ。遊星の人差し指が素早くゲーム機の電源を切った。
「ああああああああああ!! セーブしてねぇんだぞこらぁ!! おい遊せ、」
「黙れこの馬鹿息子。今晩は飯抜きだからな」
「はぁ!?」
「ゴミ箱見たぞ。またお月見ハンバーガーセット買っただろ。なら飯はいらないな」
「ちょ、おい、」
「じゃあ俺はもう一度会社に戻って仕事でもしてくる。お前のために深夜残業して金を稼いでこなくてはな」
「おい待てって!」
 すたすたすたすた。上着と鞄を抱えて玄関へ向かう遊星に、京介は慌てて立ち上がり追いかける。勢いで彼の淡いスカイブルーの髪が跳ねた。これはやばいマジギレモード!
「悪かったって!!」
 ぴたり。後ろから叫ばれた言葉に遊星の足が止まる。焦りを目一杯含んだ謝罪の声。肩越しにちらりと振り返り、遊星の目が京介の様子を窺う。何がだ? 視線がそう聞いていた。
「う……」
 こういう時の遊星が苦手だ。京介がもう少し幼かった頃から、遊星は教育的指導を行う際は大抵今のような目をして叱ってきた。この瞬間も遊星は京介の精神へと無言の圧力をかけてくる。それは京介の記憶に刷り込まれた過去の同じ経験を呼び起こす。こういう時に自分はどう対処してきたか? どうすれば義父が許してくれるか? その結果は。
「……む、無駄遣いは、あまりしねぇように、する。相談、する。悪、かった」
「よし」
 結局しどろもどろになりながら自分の非を認め、遊星に詫びることになるのだ。
 よしよし今日も教育がうまくいった。悔しがりながら項垂れ髪を掻きむしる京介の姿に、遊星は一人心中で満足するのであった。畳む
ジェリービーンズ、カラー、ライフ。
・京遊義親子パラレル。
・2010年発行『ジェリービーンズ、カラー、ライフ。』再録
#京遊 #現代パラレル

 周りの人間が皆して俺の親父が若い若いと連呼するものだから、今の背丈の半分程しかなかった頃から、俺にとっての親父は唯の保護者じゃなく、世間一般で言う親父の型から外れていた気がする。まぁ事実そうだし。
 そううんうんと首を縦に振り頷く京介は、リビングのソファで寝転がるその親父を見下ろした。土曜日の朝、現在九時過ぎ。頭をがしがし掻きむしり、常日頃吊り上がっているが寝起きの今は目尻の下がった両目が父を観察する。二人掛けのソファは嘗て彼が家に迎え入れられる日に父が記念にと買い込んだものだ。昔はそのつやつやとした身体を存分に見せ付けてくれたものだが、今ではまるで老獪な男のように渋くなめされた皮を纏っていた。そこにぐうと沈み込んだ人間が父だ。
 父は仰向けで眠っている。その傍らには外された水色のストライプのネクタイが床に放置されていた。襟元を緩めただけのシャツをパジャマ代わりにして父は寝ていた。こうしてリビングで眠りこけるのは珍しかった。父は自分の生活リズムを完成させていて、滅多なことがない限りはそこから外れることはないから。机の上にほったらかしのパソコンと資料らしき紙から推測するに、恐らく仕事の準備でもしているうちに仮眠でもしようと思い、結局そのまま朝まで寝てしまったのだろう。背広をハンガーに掛けているだけ褒めてやるべきだろうか。そこまで考えて京介の腹が鳴った。
 兎にも角にも腹が減っているのだった。京介は右手でスウェットの上から凹んだ腹を撫でた。空腹感が増した気がする。
「おいおやじ」
 ちゅんちゅんと雀の会話が聞こえてくる薄暗い部屋には返事は響かなかった。カーテンの向こうはさぞかし輝いた空が広がっているのだろう。初秋の今日は、台風の影響で時折雨が降る程度で天候は極めて良好だ。あの茹だるような真夏日は隠れている。父は起きない。
 キッチンへと振り返る。京介はあまり料理が得意ではない。それは彼の父が家事全般を全てこなしてしまうが故に、子供のその能力を育まなかったのである。手間も掛かるし何よりめんどくせぇ。京介の料理に対する基本的な感想がこのようなものの所為もあるのだが。
 しかし今まさにその時が来ていた。料理すべき時だ。年に片手で数えるほどあるかないかのこの状況に、京介は至極面倒そうに大きな欠伸を一つ掻いた。それから只管睡眠し続ける父を放置して、京介は遂にリビングの奥にあるキッチンへと向かう。
 数分後。焦げ掛けのトーストの匂いに飛び起きた父は、寝起きに早速自分の行動を後悔することになる。



*あさごはん

「済まない、本格的に寝てしまった」
「……別に」
 寝起きの父の髪はいつもより二割増しで荒れている。あちこちに跳ね上がった髪を鬱陶しそうに指で除ける父を見上げた。
 結局完全に焦げてしまったトーストにはスペアは存在しなかった。その黒い物体が鎮座した食卓に、京介は不貞腐れた顔で座った。少し目を離しただけだ!舌打ちと共に心の中で吐き捨てる。
「なぁ、ファストフードでも食いに行かないか」
「節約すんじゃねぇのかよ。こないだ俺に食い過ぎだって文句言ってきた癖に」
「たまには良いだろう。それに今日は俺も作るのが面倒な気分なんだ」
 にっと笑った父が何を考えているのか分かっている。言い方がまどろっこしいのは俺のことを気にしてるからだろ。良い意味での気遣い。京介にとってはもう慣れてしまったもの。けれども遊星のそんな言葉の魔法が、京介は嫌いではなかった。それが遊星の愛情表現の一つだと知っているから。
 遊星、と尖らせた口で父の名を呼ぶ。彼は義父のことを親父もしくは名前で呼んでいる。遊星は皺くちゃになったYシャツを脱いでいるところだった。この間二十八歳になったこの義父の体躯は自分より一回りも小さい。これでメタボリックにならないよう気を付けているというのだから京介にとっては笑えた。そんな身体じゃいつまでたってもメタボにはならねぇよ。
「取り敢えず十分以内でシャワー浴びて来いよな」
 朝のセット終了まで時間あんまねぇんだから。半分拗ねた声でそう言う京介に、遊星は笑みを一つころりと零した。
 脱衣所の扉が閉まってから、京介は自分の部屋へと向かった。父の自室と隣り合わせの部屋が京介の部屋となっている。起きてからそのままのベッドに腰掛け、布団の上に放置してあったスマホを開いた。LEDがちかちかと点滅している。新着メールを知らせる画面をタップし、表示された友人からのメールに京介は間抜けな声を出した。
「……あー」
 内容は『昼イチ集合』。今日カラオケ行くんだったな。約束していたことを思い出した京介は、けれどもメールの返信画面に正反対の文章を打ち込む。
 今日パス、用あったわ。
 たしたしたし。文字を押し込んで、送信。本当は用事なんてないのだが、なんとなく、本当になんとなく断らなければならない予感がしたのだ。昼から出掛けると遊星に言ったら、きっとしょげてしまう気がして。
「ファザコンくせ……」
 げ、と舌を出す。しょげるだなんて確信はない。が、平日はなかなか多忙な父のことだから、自分が構ってやれていないだとかいう自責の念を何処かで抱いているかもしれない(あくまで憶測だが)。その不満を発散させてやるために敢えて出掛けないだけだ。そう理由付けて、京介はぐうっと伸びをした。
 壁の向こう側から、再び脱衣所の扉が開く音がする。スマホの時計を確認する。よし、十分以内だな。律儀な父の行動に、京介は満足そうな笑みを浮かべた。



*本屋さん

 子供が父親の仕事ぶりを見て、自分もいつか父のようになりたいと考えるのは素直な気持ちだと思う。しかし京介と遊星には当て嵌まらなかった。遊星の情熱は仕事よりも趣味に対して大いに向けられていたので。
 そもそも京介は遊星がどんな仕事をしているのかそれ程興味はなかったし、遊星も自分が勤めている会社や仕事について話すことはあまりしなかった。今度出張があるだとか、残業で遅くなるだとか、精々その程度である。
 ファストフードの朝飯を済ませてから、二人は開店間もない本屋に立ち寄った。服にポテトの油くささが染み付いている気がして、京介は着ていた黒のTシャツに鼻を近付け嗅いでみた。思ったより匂いはしない。
「お前、朝からよくあんな大量に食えるな」
「親父が食わなさ過ぎなんじゃねぇの」
「誰もがお前のようにセット二つが標準だと思うなよ」
 うぇ、と顔を歪めた遊星を横目に見下ろしながら京介は髪を弄った。彼の髪の毛は何度も脱色を繰り返したせいで白に近くなっている。校則違反も甚だしいのだが、京介にとって高校の生活指導担当の怒声は軽やかに通り過ぎる秋風と同じだった。と言うのも、それ以上の怒声を父から浴びた経験があるからということと、授業を真面目に受けない、或いは警察沙汰にならない限り、その父が容貌等には何の注意もしないからであるが。
 本屋の自動ドアをくぐると、遊星はすぐさま早足で店内を進んでいった。間も無く父の紺色のシャツは点になった。その後ろ姿を見ながら京介ははぁと溜息をつく。相変わらずだな、親父は。
 遊星とは反対に、京介は踵を擦りながらゆったりと歩く。遊星が何処に行ったかはもう分かっていた。数十歩歩いた先に父を発見する。彼はバイク雑誌に見入っていた。それはもう熱い視線で。
 この若い父はバイクに乗るのも弄るのも大好きだ。働く目的が、一に生活費、二に趣味と言う程に。なので京介にとって、父親の働く姿に憧憬も何も抱くことはない。ただ、この若い父が趣味に没頭しているところを傍から眺め、自分もいつか父のように派手なバイクを作り上げてみたいと思っている。但し、カラーリングは遊星の好きな赤ではなく、これから夜闇に染まる空のような紫がかった黒が良い。そう思い描きながら、遊星の左肩を叩いた。
「俺も中型か大型の免許取りてぇ」
「そのうちな」
 口元は緩んでいるが、遊星は目は雑誌の中の特集ページに釘付けだ。
「カブじゃ満足できないんすけど」
「高校卒業するまでは我慢しろ。それに車の免許を取るのが早いんじゃないのか」
「車ねぇ」
 遊星の左腕の上から雑誌を覗き込む。艶めく漆黒の大型バイクが低く傾いてカーブを攻める写真に胸が躍った。
「いや、やっぱバイクだわ。かっけぇし。てか乗りこなす俺が絶対かっけぇし」
「お前は相変わらず一言多いな……」



*お知り合い

 本屋を出た先で出会った人物は、京介の顔を瞬く間に歪ませた。
「うえええええ何っでてめぇに会わなきゃなんねぇんだよ!!」
「いつも息子がお世話になってます」
「こちらこそ」
 おいルドガー!! 吐き捨てるように叫ぶ息子に、遊星は一発肘鉄を食らわす。
「ぅげぇっ」
「ルドガー先生、だろうが」
 鳩尾を押さえる京介は僅かに込み上げた吐き気に俯いている。肩が微妙に震えているのは幻覚ではない。すみません、と遊星が謝罪する。こいつ、まだ口の利き方が未熟なようで。
「いえ、別にお気になさらず」
 ルドガーは頭を垂れようとした遊星の行動を片手を上げて制止した。親子よりも何倍もがっしりとした肉体は体育教師の肩書に相応しい。
「担任としても、彼の運動神経には鼻高々ですよ。おかげでクラスマッチは毎回優勝です。ところで大学はもうお決まりですか?」
「あぁ、いえ、何れは……次回の三者面談までには、目星を付けておきます」
「運動部に入っていないのが残念ですかね。スポーツ推薦が使えないので」
 ふぅむ、と顎に手を置いて、ルドガーは京介を見遣った。そうして彼の大人しさに改めて感嘆する。
 京介は学校では所謂不良のカテゴリーに入っている。教師への言葉遣いは荒々しく、睨み付けるようなぎらぎらとした眼光は相手を畏縮させる。手を出したことはなくとも、掴み合いや口論は日常茶飯事。見た目や態度で誤解を与える人間だった。しかしながら授業はきちんと受けるし、嫌々ながらも課題は滞りなく済ませる。その温度差のために、教師勢から『扱いにくい生徒』と思われていることは周知の事実だった。
 だが義父を目の前にすると、何たることであろうか。両目は拗ねた子供のようになり、いからせている肩はしおたれている。常々このような態度ではないだろうが、それでもルドガーにとっては毎回目を見張る光景であった。
「部活なんて入ったらバイトできねぇじゃん」
「バイトは別にいつでもできるだろう」
 遊星の言葉にもぷいとそっぽを向く。
「それでもめんどくせぇしやだ」
 不遜な口振りは変わらずか。ふふ、と小さく笑って、ルドガーはお辞儀をした。
「それではまた」
 遊星もお辞儀を返し、宜しくお願いしますと答える。本屋の中へと去りゆく教師を見送りながら、遊星は息子を横目で見た。京介はジーンズのポケットからスマホを取り出し、既に視線は画面へと集中している。
「俺が帰ってくるまでに、必ず家に戻っていなくても構わない」
「ちげぇし。自意識過剰ヤローめ」
 たしたしと画面を操作しながら鼻で笑う。京介はそのまま踵を返し、家の方へと歩き出した。
「大体、俺が居ねぇと寂しがる情けねー大人は何処の誰だっつーの!!」



*同僚さん

 家はやはりほっとするものだな。僅かに汗ばんだ首筋を手で扇ぎながら、マンションに帰宅した遊星はふぅと一息ついた。投げ出したスニーカーをそのままに、京介はどたどたとリビングへと向かいソファにどすりと座り込む。それから胡坐を掻いて、テレビの電源を入れた。バラエティ番組が流れ、司会の声が喧しく響く。それからニュースの音に天気予報。適当にチャンネルが回される。
 二人分の靴を直してから遊星も部屋へと上がる。息子の後ろを通り過ぎて、リビングの窓を開けた。途端にぶわりと吹き込んだ風が彼の熱を冷ます。気持ちが良い。行き交う車両の音や人々の話声が聞こえてくる。初秋の日光はまだ熱かった。網戸を締める。直後、ぴりりりりりり、とポケットに入れていた遊星の携帯が鳴り始めた。ガラケーだ。右手の指先で取り出して発信者を確認し、そこに表示されている名前に少し笑みを零して、遊星は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、遊星? 僕だけど、今大丈夫かい?』
 どうしたんだブルーノ。そう話す遊星の声を拾い上げた京介の、リモコンを弄んでいた右手が止まる。テレビではニュースキャスターが暦の説明をしている。中秋の名月がなんとやら。
 ブルーノ。その名前に非常に覚えがある。遊星の同僚だ。京介は頭の中で何度か見た男の姿を思い描いた。確か、兎に角背が高くて鮮やかな髪の色をしていた。初めてマンションに遊びに来た時のことを思い出す。やぁ君が遊星の息子さんだね話は聞いてるよ。爽やかに話す男はやけに遊星に馴れ馴れしかった。遊星もそれに応えるようによく笑い、よく喋った。その光景に何だか苛々して、京介はぶっきらぼうに一言「どーも」とだけ答えて、すぐさま自室に引き篭もったのだった。
『昨日頼んじゃった資料のことなんだけど、やっぱり僕が仕上げるよ』
「いや、大丈夫だ。俺がやる。実は七割ほどは出来上がっているんだ」
 昨日の夜少しアイデアが浮かんだから、書き留めておこうと思ったついでに。その言葉に京介の眉がぐんと寄った。夜更かしの理由はそれかよ。
『えっ本当? 凄いなぁ遊星は……あ、じゃあ見直しと残りの三割手伝わせてよ。されっ放しじゃ僕も居た堪れないし』
「そうだな、確かに二人で仕上げた方が認識の擦り合わせもできるな」
『じゃあ決まりだね。因みに今日は忙しいの?』
「今日か? いや特に、」
 大丈夫だ、と答える前に、遊星の右手から携帯が取り上げられる。
「今日はこれから出掛けるんで。じゃな」
『え!? ちょっ、ちょっと、』
 ぷちん。通話終了。京介に奪われた携帯は役目を果たし終えた。呆気に取られる父にそれを放り投げる。落下する前に遊星は慌てて両手でキャッチした。それを確認せずに再びソファへと戻った京介は、今度は胡坐を掻かずごろりと横向きに寝転んだ。テレビのリモコンを操作し、電源を切る。ニュースキャスターは暗闇へと消えた。
「おい、」
「うっせぇ俺は寝る」
 しかめ面のまま、京介は両腕を組んだ。暗くなったテレビの画面には、中途半端に口を開いた遊星が映っている。ざまみろばぁか。反転して映る父の携帯に向かって、心の中で呟いた。電話の向こうの人物は、きっと今頃苦虫を噛み潰したような顔でいるに違いない。
「……我が儘息子」
 くくく、と喉で笑う。そんな父に、京介はもう一度「うっせぇ」と呟いて目を閉じた。



*うたた寝

 ブルーノに謝罪のメールを打つため、遊星はダイニングテーブルに腰掛けた。ソファは京介が占領中である。さっきは息子が済まなかった。かちかちとキーを押して送信。一分もしないうちに再び携帯は震えた。折りたたまれたそれを開くと、画面には「気にしないで!」と書かれている。ありがとう。一言そう返信して、遊星は再び携帯を閉じた。
 テーブルに置かれた白いカップには、ダークブラウンのコーヒーがたゆたう。一口啜ると、砂糖もミルクも入っていないストレートな苦みが口に広がった。それを机に戻して遊星はソファへと近付く。京介はすやすやと昼寝中だ。室内にたっぷりと入り込んだ柔らかい日差しは、京介の寝そべるソファも完全に抱き込んでいる。若い彼には少々暑いかもしれない。そう思い、遊星は窓にレースのカーテンだけを引いた。部屋がほんの僅かに陰る。幾ばくか柔くなった陽光が、遊星をも眠りの世界へといざなう。昨晩中途半端に寝たことが響いているのかもしれなかった。大きな欠伸を一つして、遊星は自室へと向かう。リビングではもう寝る場所はない、今度は自分のベッドできちんと寝よう。若草色の上布団へぼふりとダイブして、遊星は意識を放り投げた。

 夢の中で、遊星は子供と並んで歩いていた。あぁ昔の京介だ。まだ少しだけ若い頃の。今より背の低い京介は自分を見上げて、両手で成績表を持っている。学ランに身を包む息子の頭を、遊星の掌がゆったりと撫でた。夢特有の緩慢な流れで進む世界。そこで笑う京介に、幸福感が滾々と湧いてくる。
 お前は俺の自慢の息子だな。
 音の響かない声でそう伝えると、京介は一瞬はっとした表情を浮かべ、それから視線を少しばかり地面へと外して、小さく口を動かした。
 ありがと、とうさん。
 初めて、自分を父親だと呼んでくれた瞬間だった。
「――ぅ……」
 目が覚めた。目尻にほんの僅かだが涙が滲んでいることに気付いて、遊星は夢の内容を思い出した。京介が中学の頃の夢だ。懐かしい。あの時はまだ背が大分と低かったくせに、それからすぐ成長期に入ってぐんぐん伸び、すぐに自分を追い越してしまったのだった。
 孤児院で働く友人が沈痛そうな面持ちで相談を持ち掛けてきた時のことは、今でもつい最近の出来事のように感じられる。橙色の派手な髪を持つ彼は元気だろうか。そういえば最近は飲み会に誘ってこない。一ヶ月程会わずにいる友人のことを思い浮かべながら、意識を覚醒させようと遊星は身体を起こした。
 自室の扉を開けると、京介が既に起きていた。
「二人揃って昼寝かよ」
 ソファの上で炭酸飲料のペットボトルを両手で弄びながら、京介はつまらなさそうにテレビを見ている。淡い朱色の光で満ちているリビングの掛け時計はもう夕刻を指していた。優に三時間は経過している。
 テレビとソファの間に置かれた低いテーブルにボトルを置いて、徐に京介が立ち上がった。その隙に空いたソファへのそのそとした足取りで向かう。旅行番組の再放送を映すテレビに夕焼けのぼわりとした光が反射して、寝起きの遊星の目に眩しく入り込んだ。後ろからがちゃがちゃと食器のぶつかり合う音が聞こえる。それから小さな電子音に、こぽこぽ。ポットの音だ。
「おら」
「あ」
 骨張った京介の右手が、白いカップを突き出している。昼寝に旅立つ前に飲んでいたコーヒーのカップ。ダイニングテーブルに置きっぱなしだったことを遊星は思い出した。湯気が沸き立つそれを両手で受け取って礼を言う。カップには新しいコーヒーがたっぷりと淹れられていた。
 半分空いたソファに京介が腰掛けた。自分よりすっかり大きくなってしまった息子の体重にソファの左側がぐっとへこむ。京介はテーブルに置かれたペットボトルを再び手に取り、ぐいと喉へ流し込んだ。
 こんな風に、自分のためにコーヒーを用意してくれるまでに成長した息子が、そのうちこの家から居なくなってしまう日がやってくるのだろうか。もう二年もすれば成人だ。自分より先に良い伴侶を見つけるかもしれないのだから。そう遠くない未来に。
 夢の中の京介と隣に座る京介を重ねながら、遊星はそう考えた。同時に無性に切なくなる。死んでしまうわけでもないのに、自分の傍から家族が居なくなってしまう瞬間を想像しただけで、今までの歴史が全て消え失せてしまうような途方も無い寂寥感が遊星を襲うのだった。
「旅行行きてぇな」
 からからとボトルの蓋を回しながら、京介が前触れもなく呟いた。
「旅行……?」
 テレビの中では、老舗温泉旅館が映っていた。白い蒸気に包まれた露天風呂をタレントが案内している。
「まぁ、こんなしみったれた旅館は親父が中年にならねぇと無理か。その頃には俺も金稼いでるし、もっと良いとこ行けんじゃね?」
 そう言ってけらけら笑う京介に、遊星ははたと気付く。
 京介の将来のビジョンに、自分が確実に存在している。
 自分がもっと年を重ねていっても、共に居ることを描いてくれている。それがこの上なく嬉しくて、口元が喜びで緩むのを止められなかった。カップを机に置いて遊星は立ち上がる。カップがかん、と軽快な音を鳴らした。
「行くか、旅行」
「は?」
「ちょっと予約してくる」
「おい遊星、別にすぐ行きてぇなんて、」
 虚を突かれたかのような表情でいた京介は、はっと意識を戻して弁解するように言う。けれどもそれを遮るように遊星の声が重なった。
「俺が行きたいんだ」
 行こう、旅行。
 遊星はそう言って自室へと向かった。何処へ行こうか、そういえば二人で旅行に行くのは久し振りだ、雑誌も買わないといけない。あれこれと急に浮き足立つ父の後ろ姿を見ながら、京介は困惑と呆れ、それと喜びを一気に味わったかのような、何とも言えない笑みを浮かべた。欠席届に書く文面を考えとけよな。伝える為に、京介も遊星の部屋へと歩を進める。
 放り投げた空のボトルが綺麗な放物線を描き、ダストボックスへとシュートされるのを、至極満足気に見届けてから。




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《登場人物紹介》
*遊星さん(28)
会社員。京介を引き取ってからは彼女無し(充分楽しいから)。
23歳の時に友人から相談を受けて京介を引き取る。家事全般こなせるが、最近は少々夜が遅くなりがちなため、週末に一気に食事を作り冷凍保存している。洗濯物はなるべく出勤前に干す。
趣味はバイク。京介が居ない時はだいたい走りに出掛けている。

*京介くん(18)
今年高校3年。見た目も中身も派手な遊星の義理の息子。13歳の時に遊星に引き取られるが、遊星のことは孤児院の職員を通じて以前から見聞きしていた。
遊星のことは父であり兄であり家族であり友人でありという感覚で受け入れている。家事が苦手。痩せ型のくせに大食いで家計を圧迫する。
CD屋でバイト中。たまに孤児院に遊びに行ってはちゃんとやっていけているかクロウに心配される。
ちなみに性格は中学生→チーム満足仕様、高校生→ダークシグナー仕様という感じ。大学生はきっとクラッシュタウン仕様。

*ルドガー先生
京介の担任であり体育教師。ガチムチでムキムキ。生活指導もやっているが京介には何を言っても聞き入れてもらえていないのでもう諦めかけている。寧ろ最近は自分の方向性を変えるべきか悩んでいるそうな。

*ブルーノちゃん
遊星の会社の同僚。趣味も性格も合う遊星が大好き。京介には好かれていない様子。仕事が趣味とか言っちゃうタイプなので彼女ができないが、遊星との仕事が楽し過ぎるので全く気にしていない。
メールにいちいち絵文字や顔文字を付けてくる。社内メールしかり。遊星のマンションに遊びに行きたいが息子に煙たがれるのでどうすべきか策を練っている。

《その他の人物紹介》
*クロウさん
遊星の幼馴染。京介の居た孤児院の職員。
京介が「遊星が家族だったら俺、満足できるかも」とぼそりと呟いたことから遊星に養子縁組を相談する。
飲み会の幹事をよくやっているが最近は金欠で少々控え気味。

*ジャックくん
京介の同級生であり友人。自分のことを学園のキングとか言ってるちょっと痛い子。イケメン。
何かと目立つ京介にいちゃもんつけたかと思えば、一緒につるんで悪巧みするのが趣味。過去に一度高校の三者懇談会で遊星を見たことがあり、その時から遊星が気になってしょうがない青春街道まっしぐら中。畳む
小宇宙
・サテライト時代の鬼柳さん。
・BGMと題名はGRAPEVINEからインスパイア
#鬼柳

 抑圧が自分を昂らせることには気付いていた。サテライトは牢獄だった。そこには何もない。見えない圧力以外の何も。だから出会えた仲間達は牢獄を抜け出すための鍵だった。こんなつまらない空間を爆発させる起爆剤だ。煙った空に星は見えなくても構わなかった。冷静な遊星が見せる情熱とか、クロウの無鉄砲さとか、ジャックの我儘なところが塵屑だらけの地面に在れば、俺には空を見上げる必要などなかったから。
 世界は止まらない。時間は止まらない。俺はどんどん進む。仲間は隣を歩いている。日が上がって沈むことを何度繰り返しても、それらは常に同じものではなかった。世界は自分の鏡だ。自分が辛ければ日の耀きでさえも自分を焼き殺す炎に変わった。心が歓びに溢れれば夜闇の中でも明りはいらない。俺は何でもできる。お前らが居れば何でもできる。そう信じられることが希望と名の付くものだと気付いたのは、皆と過ごして少し経ってからだった。
 信仰というものを持たない俺にとっては、神なんて存在しない。必要か不要かを考える以前の問題だった。けれども敢えて言うならば、灰くさい建物の、瓦礫に埋れたこの部屋が聖域で、そこに存在する全てのものは神だった。彼らの言葉は神託に似ている。絶対的な支配力。それに服従することに何の疑問すら抱かなくさせる。心地良かった。この仲間との世界が。

 流転する世界。星が消えていく。ひとつ、ふたつ。俺の中から神が消える。宇宙を埋め尽くす星が消える。心が餓える。圧迫する欲望が俺を衝動の塊に化けさせる。それはからくり箱のように、蓋を開けて、その中に潜むもう一つの箱を開けて、何度も繰り返すと見えてくる。遊星が蓋を閉じてくれても、湖が堪らず飽和するかのように、どろどろと増幅していく。それは近いうちに蓋を押し上げて決壊するだろう。
 眼前の空は赤かった。明日もきっと雨は降らない。けれども全身は冷水に浸されたみたいに冷たかった。血管の一筋一筋を走る血液が、まるで雪のような温度で流れている。渇望と共に。
 サテライトにまた夜が来る。畳む
手紙
・逮捕後でセキュリティ捏造。
・暗い。
#鬼柳

 囚人に許される行動のうち、外部の人間に宛てて手紙を書くということがある。回数に制限はない。時間にも指定はなく、好きな時に好きなだけ書くことができる。だが無論、それらは全てセキュリティの検閲にかけられるし、中にはいたって普通の内容のものでも審査する人間の気分によって捨てられる時もある。下らない。本当に下らないのだけれど、俺はその下らない人間に見られる下らない手紙を書いている。
 一文字目を書くまでは素晴らしく時間が掛かった。何度も何度も頭の中で文字を捏ね繰り回してようやく形になったのが、「元気か」だった。馬鹿らしくて、びきりと唇が変な角度に歪んだ。元気もくそもあるかよ。俺は未だにあいつらに絆というものを期待しているらしい。「元気か」と聞いて「お前が居ないせいで元気じゃない」とでも言って欲しいのか? ふざけんな、馬鹿か。
 最後に見た遊星の顔が脳裏に浮かぶ。違う、と言っていたが、俺にはもうそんなことはどうでもよくなっていた。遊星が俺を裏切ったのかどうかなんて今更の話なんだ。いつだって、人間は過程を無視されて結果という事実だけを判断材料に生きるしかない。少なくとも俺にとっては結果が全てだ。俺は今牢獄の中に居る。俺を定義付けるものなんざ、それだけで充分だろが。
 けれども少しだけ、本当に少しだけだが、遊星にもう一度会いたいとは思う。そうして「あの時のことは間違いだったんだ」と上辺だけでも弁解してくれれば、俺の気持ちは僅かばかり絶望のどん底から浮上するかもしれない。但し、二度と信じることはない代わりに。でも遊星とまた会いたいと思っているのは、あいつのことを信じているからなのだろうか? いいや遊星が憎くて憎くて堪らない。けれども同じくらいあいつが好きだ。クロウもジャックも好きだ。あいつらと一緒に居た時の俺が好きだ。もう戻れないサテライトでの記憶が、俺を薄暗い部屋の奥へ奥へとどんどん追い詰める。
 そこまで考えてから俺は手紙をぐしゃぐしゃに丸めた。苛立ちや悔しさで頭ががんがんと痛い。歪んでしまった三文字が俺を恨めしく覗いている気がして、より強く握り潰してから壁に投げ付けた。過去への憧憬と希望が、真っ黒に腐った絶望が、それらの葛藤が俺を喰い荒して目玉の奥が沸騰しているように熱い。壁に凭れて両手を握り締める。半端に伸びた爪が互いの手の甲にくい込んでびりりとした痛みが走った。どうやら俺はもう少しだけ人間として生きていられるらしい。本当かどうかなんて誰も知らない。畳む
四知の恋
・ブルーノの会社で働く請負業者の遊星。
・スマホで後ろ姿を盗み撮りしてしまうブルーノ。
#ブル遊 #現代パラレル

 君の後ろ姿を、小さな画面上で開く。立派な背中がこぢんまりと押し込められているのを見ると、ボクは不思議と安心する。歴史上の偉人が本当は家族だった、とか言われた場合と似た気持ちかもしれない。言われたことはない。
 教科書の肖像画と、手に収まっている機械と、記憶の君と、思い出しているボク。共通点のないそれぞれを結びつけようとする見えない糸、連鎖反応は、積み重ねられていく心象風景のせいなのだろうか。どこかのガレージで、彼とボクは特別なマシンを作っている。ボクの意識は無限に拡大して、壁も端もなくなって、ふたり子どものように設計や組立を楽しんでいる。地図の代わりにあるのは図面データだ。その上で膨らませたアイデアを爆発させると、それは針で突っついた風船のようにあたり一面に吹き飛んで、ボクらはひたすら笑うのだ。そんな、イメージ。
 空想の中で彼の背中を追っていた。画面上であったって現実であったって、不動遊星はとても近くて、けれどもとても遠い人だったな、と今でも思っている。



 スワイプする。
 自販機の横で一休みする遊星の背は、緩いカーブを描いている。自社ビルの屋外休憩エリアで、植え込みを仕切る煉瓦を椅子代わりにしていた。春先の、冷たさが残る空気がその背中から滑り落ちて、ボクたちの足元でぐるぐると堂々巡りしていた。まだ慣れない肌寒さにボクの身体は少し慄いて、捲り上げていたニットの袖を直す。反対に彼はどこ吹く風で、作業着さえ傍らに置いて半袖のままで、静かに欠伸をした。それはボクと遊星の間でもたつく、間延びした距離だ。新型二輪車の開発プロジェクト、その発注先からやってきた若きプロジェクトリーダーの――若過ぎる彼の――初めて見た年相応の姿が、ボクの『盗撮趣味』の始まり。多分、法に抵触する。訴訟されたら負ける程度には。
 あてがわれた枠組みから身を乗り出して、ただの不動遊星そのひとになる瞬間を残すことは、一粒の角砂糖をこっそり口に入れる感覚と同じように思えた。目をつむりたくなるくらい甘ったるくて、でも吐き出すには勿体なくて、結局飲み込まざるを得ない秘密。その味を確かめるべく、乾いてしまった唇を舐めた。ざら、と、ぞわ、が、唾液に混じっていた。その時、生きる上で最低限備えていた常識のエリアにロックが掛かって、他からの参照をまったく受け付けなくなった。無意識を認識することはできないけれども、スマートフォンを構えたボクはきっと無意識だったはずだ。撮った記憶がすっかり抜け落ちた画像を見つけた時の、滴り落ちそうな冷や汗がその証拠である。

 スワイプする。
 ビニール傘を差す遊星の背は、しゃんと伸びている。立派に土に根を張った大木のような立ち方で、しかし太くはない身体は歪む被膜一枚を隔てて、今しがたやり直しを命じられた二輪車を見つめていた。チームメンバーが別の場所へ移動してからも暫く、その場を動こうとしなかった。その時の彼が悲しかったのか辛かったのか、それとも意欲に燃えていたのか分からない。ボクは彼の目を見ていない、彼がボクを見ていなかったのと同じで。プロトタイプは仕様通り、テストも問題なし、ただコストだけがゴールラインを越えることができないでいた。その一点だけで、その一点だけが、彼の才能を土足で踏み荒らして引き抜いて、ぐちゃぐちゃにしたように思えて、発注者側の立場というのも忘れてひとり勝手に腹を立てた。それは記憶にいやな熱を与えて去ってくれない。炙った針金で粗い傷をつけてくる。
 二輪車は雨に濡れて、雫はてらてら光っていて美しかった。テスト走行を終えたサーキットの、黒々とした道に反射した影は、歪みながら遊星と抱き合う。崖っぷちでキスをする名画みたいな脆さを孕みながら、遊星の肩は二輪車の遺言ですっかり濡れてしまって、けれども脱力などしてなるものかという気迫を帯びている。
 エンジンの産声を耳に遺し、産まれてすぐスクラップになったマシン。最初の咆哮を最期の声にしてしまった可哀想な『子』。その画像を、実は遊星はずっと手元に置いているらしいと又聞きで知った夜、ボクはまたしても勝手に悲しくなって泣いた。缶ビールを片手にえんえんと泣き喚いた。誰かは同情と呼ぶかもしれない、しかしその内側は燃え盛る炎の形状をしていて、同情にしては熱過ぎた。

 スワイプする。
 会議室から解放された遊星の身体は、ぐっと弓なりに反っている。彼は要望どおりコストを予算内におさめた、彼らしさが詰まった独創的な設計を切り捨てることで――宝箱、脱出不可能な迷路、白いジグソーパズルと同じ存在を。完璧で完成していて、そのためにモジュール一式をまとめて仕様から除外する必要があったのだ。スライドを投影しながら報告する彼の声には微かな揺れも振れもなく、淡々としている。できたこととできなかったこと、今後の課題、総括を順に述べ、ボクら発注者側の拍手を受けて一礼するまで、彼はずっとプロジェクトリーダーとしての彼自身を保ち続けていたように見えた。
 その一切合切からようやく抜け出せた背に、プロトタイプの亡骸がふっと浮かび上がる。同時に、最終報告会を終えるまで少しも滲ませなかったあらゆるものがその肩から、背中からぼろぼろと廊下に落ちて、勢いを増して溢れてくる。それは彼の後ろをのっそりと歩いていたボクの背を(反対側から)指で弾くように押した。その拍子に持っていたスマホが落ちる。あ、まずい。束の間の不安をよそに端末は激突する。カーペットの敷かれた廊下では音を立てることもない。なのに遊星は振り向いた。ボクの存在を認めた。
 彼の目をようやく真っ直ぐに、朝の光線が地を貫くみたいな速さで、捕まえた気がした。勝手なボクは、そう思い込んだのだ。

「なんて声をかけようか分からなかったんだ。年下だし、こっちは無理難題をふっかけてた側だったし、定例会と実地テストで見かけるくらいだったし」
「ブルーノは客先の上司だったから、俺も気軽に話し掛けようとは思わなかったな」
「うん、だろうね」
 プロジェクトを終えた遊星は、常駐していたボクの会社から発注先の企業へ戻っていった。その最後の日、つまり最終報告会の日、約一年の期間を経てやっとボクの口を衝いて出た言葉は「コーヒー飲む?」である。なんて短い! スマホを拾った遊星が、慣れていないといったスーツ姿で、三秒ほど呆けた表情をしていたことを思い出す。あれこそ写真を撮っておくべきだったと、今でも少し残念に感じている。でもその時スマホは彼の手中だったから、どのみち無理なんだけれど。
 初めて遊星の後ろ姿を盗み撮りした場所で、初めて遊星と話をした。業務時間内ではまったくと言っていいくらい会話のなかったボクらは、顔と立場と名前だけは知っていたボクらから『機械好きの』ボクらに昇格したのだ。仕事には無関係の、いついつどこどこで行われたレースの話や、実はそこに遊星もいたんだという裏話など、時間の法則を忘れたボクたちは文字通り日が暮れるまで会話に花を咲かせた。座り心地の良くない煉瓦は腰を痛めそうであったけれど、何も気にしないで遊星は足を組んで座っている。
 思っていたより遊星はよく笑った。背中より前の部分は感情豊かで、常にキーボードを叩いているか工具を握っているだけだった手は結構節々がしっかりしていて、新しい情報を発見する。作業服ではない彼の、脱いだジャケットの扱いは、一年前の作業着とまったく変わらない。傍らに適当に丸められて肩身が狭そうだ。
 これほど長い時間向き合うことはなかったので知らぬ間に緊張していたらしい。「飲まないのか?」口をつけていない缶コーヒーに気づいた時には、足元にあったはずの影はぼうっと滲んで、自販機の照明が足元を青白く照らしていた。はっ、と見上げれば星がちらほら点滅を始めていて、そうか時間はなくなるものなんだなぁと当たり前のことを今更実感して、そこでやっと世界の法則を思い出したのだった。
 今日、また春がやってきた。去年から一年経った。遊星はいなくなる。缶を捨てる彼。がこんっという音に急かされて、慌てて一気飲みするボク。冷めた苦味はボクを追いかける。後ろから、背中から、ボクを追い立てて急かす、あの少しの冷気と、グレーのシャツの後ろ姿。
「あ、あのさ」
「ん?」振り向く遊星は、夜に手招きされて少し見づらい。「どうかしたのか?」
「ボクたち、また会えないかな。仕事じゃなくて良いんだ、また、その……話したいなと」
「ああ、そんなことか」
「そう、そんなこと――」
 そんなこと、なのだ。でもボクにとっては重要事項だ。たとえ遊星のこれからにボクがまったく影響を及ぼさなくても、ただの一過性の知り合いというタグをつけられるのは嫌だった。彼の記憶の中ではボクの価値は缶コーヒーひと缶分かもしれない。それでもボクにとって彼は――不動遊星は、憧れなのだ!
「明日になれば、嫌でも顔を合わせることになるぞ」
「ああ、明日……明日?」
「明日だ」
「え、何で?」
「社員になったんだ、ここの。人事部に打診された条件が良かったから、受けることにした。ブルーノとは別のプロジェクトに配属予定だから、そっちには情報がいかなかったんだろうな」
 そんなこと知らなかった。人事部の同僚を恨めしく思う一方で飛び跳ねるくらい喜ぶボクは、やにわに彼の両手を握り締めた。空になった缶が何かの打楽器みたいな音を上げながら転がっていく。春の夜に我を忘れた男の後先考えぬ行動。思えばこの日、ボクは初めて自覚したのだった。彼の姿を追っていた理由が、写真に残したい衝動が、一体どこから湧き上がってきたものなのか。見つけてしまえば行動と理由が結びつくのは簡単なことだ。けれども、ひとはそう単純には生きていない。理由が分かったって、素直に従えない。予想外に握り返された手にあたふたして支離滅裂な会話を繰り広げたり、翌日から馬鹿みたいに遊星を意識してしまい仕事がおろそかになったことは、恥ずかしくて記憶から消したい。


 何をしているんだ? という声にスマホから顔を上げる。今しがた画面の中にいた遊星が現実世界に飛び出してきていた。のではなく、カップを二つ手にした遊星が戻ってきたところだった。
「すまない、遅くなった」
「全然! 大丈夫だよ」
 向かいのコーヒースタンドにはまだ客が並んでいるのが見えて、昼のオフィス街を賑わわせている。
 ジャケットのポケットにスマホをしまい、テイクアウトされたコーヒーを受け取る。カップの表面にはぐるりとカバーが施されていたが、まだまだ熱くて、指先が少しだけびっくりする。それも両手で包み込むと、すぐに和らいだ。
 隣に腰掛けた遊星は、胸ポケットの自身のスマホを確認してから(有事の際はすぐに呼び出しがかかるから)カップに口つけた。ようやく一息つけるといった風なのを見ると、彼が所属するプロジェクトの多忙さが想像できる。
 もう作業服ではなくなった遊星の私服は、本人曰く非常に手持ちが少なかったらしく、春以降は毎シーズン徐々に増やしていっているとのこと。今日着ているネイビーのシャツは、先日、ボクがお節介と多分な下心をもって紹介したアパレルブランドのものだ。真珠にも似たつややかなボタンが整列しており、彼によく似合っていた。
「そういえば遊星ってコーヒー派だったんだよね。入社するまではてっきり眠気覚ましに飲んでるだけだと思ってたよ」
「一応、それもある」
「そうなの? じゃあ今期、新しくコーヒーメーカーを導入してもらおうかなぁ」
「それは良いな。ただし、予算と希望者次第だが」
 並んで座ったのは、あの春の日の煉瓦ではない、木製のベンチだ。真新しさが残るベンチは、ボクら成人男性二人をしっかりと受け止めてくれている。
 会社の近くにぽっかりとあった空き地が緑地空間として整備されると、日中にキッチンカーが来るようになった。これによりボクが密かに抱えていた問題――遊星の時間を確保する口実――が解決するに至ったので、この場所を企画した誰かに対して実は大変感謝している。数台のキッチンカーは日替わりで、それがまた彼を誘う自然な理由を生み出してくれるのだ。見知らぬ誰かよ、ありがとう!
 この場所が出来上がってから日は浅いものの、オフィス街という立地もあって日々盛況だ。なかでも毎週金曜に出店するコーヒースタンドは遊星のお気に入りになって、彼は金曜になると朝から少し機嫌が良い。その様子をフロアの別の島から覗き見しているボクも(すこぶる)機嫌が良くなるので、金曜になると同僚からは不審な目で見られるようになったのだが、それがどうした! 好きな人が嬉しければ自分も嬉しくなるのは、至極当然である――ボクは遊星に、心寄せているのだから。
 一口、二口とコーヒーを口に含む。すっきりとした後味が、これからの季節を思い起こさせた。視線を横にやると、朱色や橙色、薄い茶色の葉をこれでもかと飾り付けた木々が目に入って、春はとうに過ぎ去ったことを突きつけてくる。重なり合う葉は美しかったけれど、三十路手前、二度目の青春を謳歌中のボクにとってはどこか物寂しさを覚える色合いだった。
 あの春からボクは一歩も動くことができていない。
 掌にはずっと、あの時ぐっと握り締めた春の空気と、遊星の手の冷たさが残っていて、今にもホットコーヒーの熱さを打ち消してしまいそうだった。身体の中心はずっと燃え続けているのに、囲む空気はなかなか暖まらない。ボクの煮え切らない態度が、ボク自身を思い出の中に留まらせている。
 気づかない方が幸せだったかもしれない。ボクら人間は意思と記憶があるせいで、気づいてしまってはこれまでどおりではいられない、愚かな生物だからだ。もっと喜ぶ顔が見たくなったり、もっと関心を持ってほしくなったり、どんどん欲深くなる自分を止めることはこんなにも難しいくせに、本当に欲しいものを求めることにはとても臆病になる。
 メカ好きの同僚の座という安定した地位を捨てるのが怖い。刻一刻と、ボクらはあの日から離れていくのに。
「それで、何をしていたんだ?」
「え?」
「さっきだ。じっとスマホを眺めていたから」
「ああ、えーっと……思い出してたんだ。遊星と初めてちゃんと喋った時のこと」スマホの中にある、盗み撮り写真は内緒のままだ。「忘れられなくてさ。ボクのことを、やっと知ってもらえた日だから」
「そうか……俺もだ」
「え? 本当?」
「俺もブルーノと話し込んだあの日を、ずっと覚えている。何せ、あんなに勢いよく手を握られたことは今も昔もなかったからな」
「ああーもう忘れてほしい恥ずかし過ぎる」
 コーヒーを持ったまま、思わず顔を伏せた。薄暗い中、隣から笑い声が聞こえてくる。耳に馴染んでしまったそれは心地よくて、ゆるゆると撫でられているみたいだ。けれども途中から沈黙に変わる。遊星の声が消えて、ビル街の生活音だけが響くのに耐えられなくなって、手を退けた時だった。
「あの時から俺は……ずっと、気にかかっていることがあるんだ」
 秘密を開示するような声は、すうっと通り抜けた秋の風に乗って、何枚かの葉とともに落ちていく。かさかさ音を立てながら地面に散らばってしまって、それらをすべてを拾い上げるまでにボクは少しの時間を要した。明るさを取り戻した視界、その中で追っていた紅い葉から視線を上げる間も、やけに心臓がどくどく鳴っていて、隣を見るのがひどく恐ろしい。彼を見るのが嫌だなんて、そんなことは初めてだ。
 広すぎる世界から見れば光の速さの、情けなくてあっけない逡巡が終わって、やっとのことで遊星の指先を捉えた。カップを撫でる手は所在なさげで、記憶にある彼の、迷いなどない仕草からはあまりにもかけ離れている。
「――どうしてあの日、あんなにも強く、手を握ってくれたのか。理由を、教えてくれないか」
 手の動きだけではなく、ボクの記憶にある遊星は、いつだって落ち着いていた。プレゼンの時も雑談の時も、譲れなくて上司とやり合う時であっても、自分の信念をもって接するひとだから、彼は常に前を見据えている。ずっと先を走っている。だからボクはいつも、遠い彼の背中しか見えていないのだった。
 けれども今、少しだけ、揺らいだのではないだろうか?
 前ばかり見ていた彼が、振り向いて、こちらを確かめて、足を止めてくれた気がする。裏付けるように、その視点も今日に限っては定まらない様子である。手元を見たりキッチンカーを見たり、ビルの連なりを見たりするのに、一向にボクの方を見ようとはしないのは何故なのか。
 あれ。
 もしかして今、チャンス到来だったりする?
「あ、あのさ!」
 前のめり気味になったボクに驚いて、遊星がこちらを見る。急に縮まった距離のせいで、ボクらの目にはお互いにお互いしか映っていない。狭い視界は彼でいっぱいになって、もとより彼でいっぱいだったボクはもう、溢れるしかなかった。あーやっぱり、君のことが。
 ようやくあの春の日から、一歩を踏み出す時なのかもしれない。季節はすっかり秋なのだけれど。



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