プレゼント
・付き合ってそれほど時間が経っていないブル遊。
・頭のネジが飛んでるブルーノちゃん。
#ブル遊
「でね、そのCPUってすっごく高性能で、でもお店のおじさんが割引してくれてさ! かなり得な買い物しちゃったんだ」
「そうか」
「うんうん。こうさ、なんていうかさ、フォルムがこう……滑らかでね、しかも軽量化されてて、やっぱり買って良かったって思った!」
「そうか」
彼の感じた滑らかさを表現しているらしい、ジェスチャーを交えながら本当に嬉しそうに話すブルーノは、今日で一番輝いているように見えた。青い髪を時折揺らしつつ話す彼を見遣りながら、俺は手元のエスプレッソを一口啜った。美味い。少し離れたところではピアノの生演奏が行われていて、ゆったりとした、でも華やかな雰囲気を作り上げている。そんな一流ホテルのカフェで、高級そうな柔らかいソファに腰掛け向かい合っているブルーノは、こんな場所には無縁そうなメカやらハードやらの話をし続けていた。俺達の席の周りではスーツ姿に身を包んだビジネスマンが沢山商談らしき話をしていて、こちらを見る周りの視線がちょっと痛く感じた。
そもそも何故こんな場所で話しているかというと、今日はこのホテルの会議室でちょっとした講演会があったからだ。主催の講師にお互い興味があったため一緒に参加したのだが、その帰りにブルーノが「何だか喉が渇いたなー」と言って勝手にカフェに入ってしまったのである。しかも一品一品が無駄に高いカフェにだ。節約を常日頃心掛けている俺にとっては予想外の出費になるので拒否したかったのだが、いつも何処からか金が湧いてくるブルーノは何も気にすることもなくすたすたと案内されていった。いつも思うが、こいつの収入源は一体どうなっているのだろう。
腕時計の針はそろそろ会話開始から三時間経過を指そうとしていた。恐ろしいことに、ブルーノはカフェオレ一杯でここまで休憩せずに話し続けている。これは一種の才能だと思う。視界の端の方では、綺麗なウエイトレスが追加注文を聞きに来ようか迷っている。それもそうだろう、同席の男がひたすらコアな話ばかりしているのだから。
手元のカップにはあと一口分もない液体がうっすらと残っている。これはまだ飲み干さない。ブルーノの会話が終了間際になる頃を見計らって飲み干すものだと学習したからだ。哀しいかな、学友のブルーノと付き合い始めて知ったのは、彼が周囲を気にせずに行動できるということだった。しかし人間の順応性とは素晴らしいもので、始めは違和感さえ(寧ろ少しの嫌悪感でさえ)感じていたが、今となっては慣れてしまった。無論ブルーノは俺のカップの中身なんて気にしていない。恐らく彼の中では気にする以前の問題なのだろう。
しかし流石に聞き役に徹しているのにも疲れてきた。何しろ返す言葉が相槌くらいしかないからだ。あぁ、だとか、そうか、だとか、一体今日で何回言ったのだろう。いや、ブルーノと付き合ってから累計で何回言ったのだろう。ふぅ、と、無意識のうちに溜息をついてしまった。ほんの小さなものだったが、溜息をつくと自分が疲れていることを余計に実感させられる気がして、そして確かに俺の疲労感を少しばかり増加させたのであった。
「そういえばさ遊星」
「あぁ」
「はい、これあげる」
「あぁ……?」
文脈が唐突過ぎないか? 相変わらず脈絡のない奴である。悪い真面目に聞いてなかった、と謝る前に、俺の目の前に揺れるものがあった。ブルーノが指に何やらぶら下げている。
「何だ?」
「だって今日、付き合ってから三か月経つからさ。記念にってことで」
「……あ、」
そうだった。そう言えば今日は、確かに俺とブルーノが付き合い始めて三ヶ月目に当たる。すっかり忘れていた。けれども一年記念などならまだしも、何故三ヶ月目なのか不思議である。それが顔に出てたのだろう、ブルーノは「三日、三週間、三か月、三年って言うだろ?」と、さも当たり前のことのように述べた。それでも三日三週間の節には何もしていないところが彼の不思議さを助長しているのだが。
改めて俺は目の前に揺れるものを見て受け取った。キーホルダーのようだが、付いているのはキャラクターものでもアクセサリーでもなく、中くらいの消しゴムのような大きさの金属製の箱である。色だけがやたらと派手で、黒地にスカイブルーのストライプが彩られていて目に眩しい。その真ん中には五ミリほどの丸いスイッチが付いている。好奇心からかちりと押してみた。すると突如、俺達の間のテーブルに置かれているブルーノのスマートフォンが鳴り出した。しかも音楽は『HELP!』だ。何だこれは?
「それ、簡易式のお助けコールなんだよ。そのスイッチを押すと電波が出て、内蔵されてるセンサーと無線モジュール、それとプログラムを介してボクのスマホに連絡が来るようになってる」
作ってみたんだー何かあったらすぐ連絡頂戴ね。と、ブルーノはにこやかに笑う。全く、恋人に贈るプレゼントにしては色気も何もない。女性ならまだしも俺は男だし、何より助けてほしい時が何時なのか予想もつかないほど平和な日々を過ごしているのだ。けれどもこんなものをわざわざ自作してくれる色気のない人間がブルーノというもので、そんなところもひっくるめて好きになってしまったのだから仕方ないと結論付けることにする。
彼はそのプレゼントを渡したことで、まるで役目を終えたかのように席を立った。会話の終わりも常に唐突だ。すかさずほんの僅か残ったエスプレッソを飲み干して俺も続く。ちゃり、と掌に納まった小さな箱が何だか妙に愛おしかった。こう感じてしまうあたり、自分も相当ブルーノに惚れ込んでいるのだろう。全く救えない。
伝票を催促するブルーノについ甘えて渡そうとした時、ふと何かを思い出したかのように彼が「あ」と言った。
「そういえばさ遊星」
「あぁ」
「大好きだよ」
今までもこれからもね。そうやって突然、最上級の微笑みと共に降ってきた甘ったるい言葉は、一気に俺の全身を羞恥で硬直させた。こんなタイミングで言うなんて、どうして何の前置きもないんだ! あぁそうだこいつはそういう奴だなんて分かっていたはずなのに。それでもサプライズのような不意打ちの告白に頬が瞬く間に熱くなるのを感じた。恥ずかしい。力んだ拍子に再び押してしまったスイッチが再び『HELP!』を流すまで、俺は間抜けな表情で彼の顔を見上げたままだった。それは馬鹿みたいに呆けた表情だったに違いない。
いっその事、こんな俺を助けてくれ。そう手の中の箱に願ってしまいそうになった、三ヶ月目記念日。畳む
・付き合ってそれほど時間が経っていないブル遊。
・頭のネジが飛んでるブルーノちゃん。
#ブル遊
「でね、そのCPUってすっごく高性能で、でもお店のおじさんが割引してくれてさ! かなり得な買い物しちゃったんだ」
「そうか」
「うんうん。こうさ、なんていうかさ、フォルムがこう……滑らかでね、しかも軽量化されてて、やっぱり買って良かったって思った!」
「そうか」
彼の感じた滑らかさを表現しているらしい、ジェスチャーを交えながら本当に嬉しそうに話すブルーノは、今日で一番輝いているように見えた。青い髪を時折揺らしつつ話す彼を見遣りながら、俺は手元のエスプレッソを一口啜った。美味い。少し離れたところではピアノの生演奏が行われていて、ゆったりとした、でも華やかな雰囲気を作り上げている。そんな一流ホテルのカフェで、高級そうな柔らかいソファに腰掛け向かい合っているブルーノは、こんな場所には無縁そうなメカやらハードやらの話をし続けていた。俺達の席の周りではスーツ姿に身を包んだビジネスマンが沢山商談らしき話をしていて、こちらを見る周りの視線がちょっと痛く感じた。
そもそも何故こんな場所で話しているかというと、今日はこのホテルの会議室でちょっとした講演会があったからだ。主催の講師にお互い興味があったため一緒に参加したのだが、その帰りにブルーノが「何だか喉が渇いたなー」と言って勝手にカフェに入ってしまったのである。しかも一品一品が無駄に高いカフェにだ。節約を常日頃心掛けている俺にとっては予想外の出費になるので拒否したかったのだが、いつも何処からか金が湧いてくるブルーノは何も気にすることもなくすたすたと案内されていった。いつも思うが、こいつの収入源は一体どうなっているのだろう。
腕時計の針はそろそろ会話開始から三時間経過を指そうとしていた。恐ろしいことに、ブルーノはカフェオレ一杯でここまで休憩せずに話し続けている。これは一種の才能だと思う。視界の端の方では、綺麗なウエイトレスが追加注文を聞きに来ようか迷っている。それもそうだろう、同席の男がひたすらコアな話ばかりしているのだから。
手元のカップにはあと一口分もない液体がうっすらと残っている。これはまだ飲み干さない。ブルーノの会話が終了間際になる頃を見計らって飲み干すものだと学習したからだ。哀しいかな、学友のブルーノと付き合い始めて知ったのは、彼が周囲を気にせずに行動できるということだった。しかし人間の順応性とは素晴らしいもので、始めは違和感さえ(寧ろ少しの嫌悪感でさえ)感じていたが、今となっては慣れてしまった。無論ブルーノは俺のカップの中身なんて気にしていない。恐らく彼の中では気にする以前の問題なのだろう。
しかし流石に聞き役に徹しているのにも疲れてきた。何しろ返す言葉が相槌くらいしかないからだ。あぁ、だとか、そうか、だとか、一体今日で何回言ったのだろう。いや、ブルーノと付き合ってから累計で何回言ったのだろう。ふぅ、と、無意識のうちに溜息をついてしまった。ほんの小さなものだったが、溜息をつくと自分が疲れていることを余計に実感させられる気がして、そして確かに俺の疲労感を少しばかり増加させたのであった。
「そういえばさ遊星」
「あぁ」
「はい、これあげる」
「あぁ……?」
文脈が唐突過ぎないか? 相変わらず脈絡のない奴である。悪い真面目に聞いてなかった、と謝る前に、俺の目の前に揺れるものがあった。ブルーノが指に何やらぶら下げている。
「何だ?」
「だって今日、付き合ってから三か月経つからさ。記念にってことで」
「……あ、」
そうだった。そう言えば今日は、確かに俺とブルーノが付き合い始めて三ヶ月目に当たる。すっかり忘れていた。けれども一年記念などならまだしも、何故三ヶ月目なのか不思議である。それが顔に出てたのだろう、ブルーノは「三日、三週間、三か月、三年って言うだろ?」と、さも当たり前のことのように述べた。それでも三日三週間の節には何もしていないところが彼の不思議さを助長しているのだが。
改めて俺は目の前に揺れるものを見て受け取った。キーホルダーのようだが、付いているのはキャラクターものでもアクセサリーでもなく、中くらいの消しゴムのような大きさの金属製の箱である。色だけがやたらと派手で、黒地にスカイブルーのストライプが彩られていて目に眩しい。その真ん中には五ミリほどの丸いスイッチが付いている。好奇心からかちりと押してみた。すると突如、俺達の間のテーブルに置かれているブルーノのスマートフォンが鳴り出した。しかも音楽は『HELP!』だ。何だこれは?
「それ、簡易式のお助けコールなんだよ。そのスイッチを押すと電波が出て、内蔵されてるセンサーと無線モジュール、それとプログラムを介してボクのスマホに連絡が来るようになってる」
作ってみたんだー何かあったらすぐ連絡頂戴ね。と、ブルーノはにこやかに笑う。全く、恋人に贈るプレゼントにしては色気も何もない。女性ならまだしも俺は男だし、何より助けてほしい時が何時なのか予想もつかないほど平和な日々を過ごしているのだ。けれどもこんなものをわざわざ自作してくれる色気のない人間がブルーノというもので、そんなところもひっくるめて好きになってしまったのだから仕方ないと結論付けることにする。
彼はそのプレゼントを渡したことで、まるで役目を終えたかのように席を立った。会話の終わりも常に唐突だ。すかさずほんの僅か残ったエスプレッソを飲み干して俺も続く。ちゃり、と掌に納まった小さな箱が何だか妙に愛おしかった。こう感じてしまうあたり、自分も相当ブルーノに惚れ込んでいるのだろう。全く救えない。
伝票を催促するブルーノについ甘えて渡そうとした時、ふと何かを思い出したかのように彼が「あ」と言った。
「そういえばさ遊星」
「あぁ」
「大好きだよ」
今までもこれからもね。そうやって突然、最上級の微笑みと共に降ってきた甘ったるい言葉は、一気に俺の全身を羞恥で硬直させた。こんなタイミングで言うなんて、どうして何の前置きもないんだ! あぁそうだこいつはそういう奴だなんて分かっていたはずなのに。それでもサプライズのような不意打ちの告白に頬が瞬く間に熱くなるのを感じた。恥ずかしい。力んだ拍子に再び押してしまったスイッチが再び『HELP!』を流すまで、俺は間抜けな表情で彼の顔を見上げたままだった。それは馬鹿みたいに呆けた表情だったに違いない。
いっその事、こんな俺を助けてくれ。そう手の中の箱に願ってしまいそうになった、三ヶ月目記念日。畳む
ある幽霊について
・ブルーノが幽霊です。
#ブル遊 #現代パラレル
「ちょっと重いんだが」
「あ、ごめん」
色の剥がれ落ちたトタン屋根のガレージの中は、錆と油と工具の音に満ちている。人一人がバイクの修理用に使用するには十分な広さのその真ん中には、真っ赤に彩られた中型のバイクが鎮座していた。
赤いボディを丹念に磨き上げる青年、遊星の首には、後ろから両腕が回されている。彼の背後には深緑色の髪を持つ青年がほんわかと微笑みを湛えていた。遊星の右肩に顎を置き、すりすりと犬が甘えるように顔を擦り寄せる。
「……ブルーノ、集中できない」
「はいはい分かったよ。でも遊星って結構残酷なんだね」
「何がだ?」
「重いとか集中できないとか言っちゃって、本当は何も感触はないだろ?」
その言葉に、遊星の両目が微かに見開かれる。それから伏せて、「気を悪くさせたなら済まない」と、ぽつりと呟いた。
ブルーノの存在を最初に認識したのは、遊星がこのガレージを見つけて作業所としてから一カ月が経った頃であった。
学生である遊星は、夜間か休日しか趣味のバイクの整備をすることができない。その日もいつものように深夜近くになってもガレージで作業を行っていた。けれどもそこで一つ困った出来事が起こった。購入してきた部品を一つ失くしてしまったのである。一時間ほどガレージ内を探しても出てこない。もう諦めようと思った時、おずおずと、積み上げられたタイヤの影から青年が出てきたのである。こんな時間にこんな場所で知らない人間と出会うなんて、不審者と捉えるには十分な条件が揃っていた。窃盗犯か、はたまた放火犯か。
「だ、誰だ!!」
「ごごごごごめんなさい! えっと、その、あの、ここ、」
怪しさ満点の男に臨戦態勢に入っていた遊星であったが、その青年の慌てふためく様子と床のある箇所を指差していることに気付き、その先に視線を動かした。
「……部品?」
青年の指差した先には、まさに探しものが隠れていたのである。驚愕に部品と青年を何度も見た遊星は、ふと、青年の足元から後ろの壁にかけて違和感を感じた。何かがおかしいはずなのに、その正体が分からない。答えが喉まで出掛かっているのに、あと一つ決定的なスパイスが足りない。さっぱりしない頭に、電球が映し出すタイヤの影と青年が一緒に入り込んだ。その瞬間、遊星は違和感の根源を突き止めたのであった。
青年には、影がなかった。
ブルーノという青年は、自分の事を地縛霊だと自己紹介をしてきた。自分はレーサーで、数年前にバイク事故で死んだらしい、と、まるで新聞の隅っこの記事を読み上げるように彼は話した。遊星がバイクをいじっているのを見て、生前の記憶と元来のバイク好きの気持ちが湧き上がってきたのだとも言った。そういえば何時だったかレーサー事故のニュースをバイク雑誌で見た気がする。記憶の奥底から情報を引っ張り上げてきた遊星は、こっそりとその事故について調べることにした。結果、当時の事故現場がガレージの近くであったことが分かり、あの青年霊が記事に掲載されていた写真の人物と相違ないことも判明した。
それから今年で一年。ブルーノは今や遊星のアドバイザーのような存在になっている。
ブルーノは度々遊星を驚かしては遊んでいた。ガレージに来る遊星の後ろから突然声を掛けたりというのは日常茶飯事であったが、そうしているうちに慣れてきた遊星に対し、今度は物質に触れないという幽霊特有の能力を使って遊星の身体に触れるふりをするようになった。最近ではじゃれ合うように構ってきて、その様子は犬小屋に留守番させられている犬のようであった。離れていた主人が帰ってくれば犬は甘えるという構図である。もちろん、当人らにはそんな意図は全く有りはしないのだが。
「ボクは今の生活に不自由はしてないよ。君という良い友達もできたしね。ただ、やっぱり未練が強いみたいで、まだまだ成仏できる感じじゃないけど」
そう言ってブルーノは遊星の隣に胡坐を掻いた。バイクの調整は終わる手前である。最後に工具一式を片付けて、遊星は大きな道具箱をばたんと閉めた。
「俺も、ブルーノが居ると楽しい」
「あはは、幽霊が友達なんてなかなかできない体験だよね。でも、ボクも楽しいよ」
「そうか」
照れくさそうに笑いながら、ブルーノは白いジップアップジャケットに顎を埋めた。こちらまで照れてしまいそうで、遊星は面映しさを紛らわそうと道具箱を片付けるため立ち上がった。何ともない会話であるのにむず痒くなってしまうのは、ブルーノが持ち合わせているあどけない雰囲気のせいであろうか。
ガレージの時計は夜中の一時を指している。もう家へ帰らなければならない。遊星はガレージの入り口横のスイッチを押した。かちりという音と共に明りが落とされる。タイヤも、バイクも、遊星の足元からも、室内にある全ての物からは影が消え去った。
外はひっそりと初秋の空気を抱き抱えていた。僅かながら冷えた風は寂寞とした感覚をもたらしてくる。見上げると空はすっかり高くなっていた。カーディガンに袖を通す遊星の後ろでは、ガレージの入り口でブルーノが「綺麗だなぁ」と声を弾ませている。
「星は見ていて飽きないね」
「星が好きなのか?」
「好きとかって言うよりは、君が居ない時によく見てるから」
ブルーノはガレージから離れず、活動している間はガレージで過ごしていた。そのため遊星はガレージの入り口で彼と別れる。消灯した室内を確認して扉を閉め、鍵をかければ遊星の一日が終わる。
「バイクに悪戯するなよ」
「酷いなぁ、したくてもできないって。じゃあお休み。寝坊しないようにね」
「あぁ、お休み」
「気を付けて帰ってよ」
遊星は右手を、ブルーノは左手を掲げてお互い軽く手を振った。遊星の姿が闇夜に溶けるまで、ブルーノは彼を見送っていた。
扉をすり抜け、今日も役目を無事終えた部屋へと戻る。四角く囲まれた部屋には一つだけ窓があった。ガラスの奥には秋の星座が佇んでいる。常闇に散りばめられた輝かしい欠片も、朝には光に飲み込まれて見えなくなってしまう。それを見る度にブルーノは思った。いつか自分も、こんな風にすぅっと溶けてしまって、遊星の中から失われてしまうのだろうか。
本来自分はイレギュラーな存在だ。しかし遊星は居なくなれなど一度も言ったことがなかった。ブルーノの存在を完全に受け入れているのである。
「寂しいって、思っちゃ駄目なんだろうか」
触れたくても触れられないことを。同じ月日を重ねられないことを。楽しいと思う以外に、もうひとつ言えない感情があることを。
存在しないボクを存在させてくれるなんて、反則だよ。そう呟いて、ブルーノは瞳を閉じた。
虚空の星が一つ、消えた気がした。畳む
・ブルーノが幽霊です。
#ブル遊 #現代パラレル
「ちょっと重いんだが」
「あ、ごめん」
色の剥がれ落ちたトタン屋根のガレージの中は、錆と油と工具の音に満ちている。人一人がバイクの修理用に使用するには十分な広さのその真ん中には、真っ赤に彩られた中型のバイクが鎮座していた。
赤いボディを丹念に磨き上げる青年、遊星の首には、後ろから両腕が回されている。彼の背後には深緑色の髪を持つ青年がほんわかと微笑みを湛えていた。遊星の右肩に顎を置き、すりすりと犬が甘えるように顔を擦り寄せる。
「……ブルーノ、集中できない」
「はいはい分かったよ。でも遊星って結構残酷なんだね」
「何がだ?」
「重いとか集中できないとか言っちゃって、本当は何も感触はないだろ?」
その言葉に、遊星の両目が微かに見開かれる。それから伏せて、「気を悪くさせたなら済まない」と、ぽつりと呟いた。
ブルーノの存在を最初に認識したのは、遊星がこのガレージを見つけて作業所としてから一カ月が経った頃であった。
学生である遊星は、夜間か休日しか趣味のバイクの整備をすることができない。その日もいつものように深夜近くになってもガレージで作業を行っていた。けれどもそこで一つ困った出来事が起こった。購入してきた部品を一つ失くしてしまったのである。一時間ほどガレージ内を探しても出てこない。もう諦めようと思った時、おずおずと、積み上げられたタイヤの影から青年が出てきたのである。こんな時間にこんな場所で知らない人間と出会うなんて、不審者と捉えるには十分な条件が揃っていた。窃盗犯か、はたまた放火犯か。
「だ、誰だ!!」
「ごごごごごめんなさい! えっと、その、あの、ここ、」
怪しさ満点の男に臨戦態勢に入っていた遊星であったが、その青年の慌てふためく様子と床のある箇所を指差していることに気付き、その先に視線を動かした。
「……部品?」
青年の指差した先には、まさに探しものが隠れていたのである。驚愕に部品と青年を何度も見た遊星は、ふと、青年の足元から後ろの壁にかけて違和感を感じた。何かがおかしいはずなのに、その正体が分からない。答えが喉まで出掛かっているのに、あと一つ決定的なスパイスが足りない。さっぱりしない頭に、電球が映し出すタイヤの影と青年が一緒に入り込んだ。その瞬間、遊星は違和感の根源を突き止めたのであった。
青年には、影がなかった。
ブルーノという青年は、自分の事を地縛霊だと自己紹介をしてきた。自分はレーサーで、数年前にバイク事故で死んだらしい、と、まるで新聞の隅っこの記事を読み上げるように彼は話した。遊星がバイクをいじっているのを見て、生前の記憶と元来のバイク好きの気持ちが湧き上がってきたのだとも言った。そういえば何時だったかレーサー事故のニュースをバイク雑誌で見た気がする。記憶の奥底から情報を引っ張り上げてきた遊星は、こっそりとその事故について調べることにした。結果、当時の事故現場がガレージの近くであったことが分かり、あの青年霊が記事に掲載されていた写真の人物と相違ないことも判明した。
それから今年で一年。ブルーノは今や遊星のアドバイザーのような存在になっている。
ブルーノは度々遊星を驚かしては遊んでいた。ガレージに来る遊星の後ろから突然声を掛けたりというのは日常茶飯事であったが、そうしているうちに慣れてきた遊星に対し、今度は物質に触れないという幽霊特有の能力を使って遊星の身体に触れるふりをするようになった。最近ではじゃれ合うように構ってきて、その様子は犬小屋に留守番させられている犬のようであった。離れていた主人が帰ってくれば犬は甘えるという構図である。もちろん、当人らにはそんな意図は全く有りはしないのだが。
「ボクは今の生活に不自由はしてないよ。君という良い友達もできたしね。ただ、やっぱり未練が強いみたいで、まだまだ成仏できる感じじゃないけど」
そう言ってブルーノは遊星の隣に胡坐を掻いた。バイクの調整は終わる手前である。最後に工具一式を片付けて、遊星は大きな道具箱をばたんと閉めた。
「俺も、ブルーノが居ると楽しい」
「あはは、幽霊が友達なんてなかなかできない体験だよね。でも、ボクも楽しいよ」
「そうか」
照れくさそうに笑いながら、ブルーノは白いジップアップジャケットに顎を埋めた。こちらまで照れてしまいそうで、遊星は面映しさを紛らわそうと道具箱を片付けるため立ち上がった。何ともない会話であるのにむず痒くなってしまうのは、ブルーノが持ち合わせているあどけない雰囲気のせいであろうか。
ガレージの時計は夜中の一時を指している。もう家へ帰らなければならない。遊星はガレージの入り口横のスイッチを押した。かちりという音と共に明りが落とされる。タイヤも、バイクも、遊星の足元からも、室内にある全ての物からは影が消え去った。
外はひっそりと初秋の空気を抱き抱えていた。僅かながら冷えた風は寂寞とした感覚をもたらしてくる。見上げると空はすっかり高くなっていた。カーディガンに袖を通す遊星の後ろでは、ガレージの入り口でブルーノが「綺麗だなぁ」と声を弾ませている。
「星は見ていて飽きないね」
「星が好きなのか?」
「好きとかって言うよりは、君が居ない時によく見てるから」
ブルーノはガレージから離れず、活動している間はガレージで過ごしていた。そのため遊星はガレージの入り口で彼と別れる。消灯した室内を確認して扉を閉め、鍵をかければ遊星の一日が終わる。
「バイクに悪戯するなよ」
「酷いなぁ、したくてもできないって。じゃあお休み。寝坊しないようにね」
「あぁ、お休み」
「気を付けて帰ってよ」
遊星は右手を、ブルーノは左手を掲げてお互い軽く手を振った。遊星の姿が闇夜に溶けるまで、ブルーノは彼を見送っていた。
扉をすり抜け、今日も役目を無事終えた部屋へと戻る。四角く囲まれた部屋には一つだけ窓があった。ガラスの奥には秋の星座が佇んでいる。常闇に散りばめられた輝かしい欠片も、朝には光に飲み込まれて見えなくなってしまう。それを見る度にブルーノは思った。いつか自分も、こんな風にすぅっと溶けてしまって、遊星の中から失われてしまうのだろうか。
本来自分はイレギュラーな存在だ。しかし遊星は居なくなれなど一度も言ったことがなかった。ブルーノの存在を完全に受け入れているのである。
「寂しいって、思っちゃ駄目なんだろうか」
触れたくても触れられないことを。同じ月日を重ねられないことを。楽しいと思う以外に、もうひとつ言えない感情があることを。
存在しないボクを存在させてくれるなんて、反則だよ。そう呟いて、ブルーノは瞳を閉じた。
虚空の星が一つ、消えた気がした。畳む
a phantom trip
・博士なジャック。
・タイムリープネタ。
#ブル遊 #パラレル
かつてボクが居た世界へ行こう。
思ってからの行動は早かった。ボクは数人の友人達に話をしてから、早速その手の問題に詳しい研究者を訪ね歩いた。その中で、ある博士が装置の開発に成功していることを知った。
「頼むよ、どうしても行きたいんだ」
彼は例えるならば才能は有るのに売れない画家で、突飛過ぎる論のために周囲に評価されない博士だった。
「臨床実験も何も行っていない。危険過ぎる」
それに何故そんなにも行きたいんだ、全く。と、博士は溜息を吐いた。重苦しい、押し潰したような溜息だ。彼のぎらぎらした金の長いもみあげが揺れる。
「分からない。けど、行きたいという気持ちが暴走しそうなくらい止まらないんだ。頼むよアトラス博士!」
「気持ちの暴走くらいさせておけ。装置が暴走したら取り返しがつかないぞ」
アトラス博士は白衣を翻しながらコップを給茶器にセットした。埃がついて煤けた床には失敗作と思われる沢山のがらくたが放置されたままだ。部屋の窓からは立ち並んだビルのランプがちかちかと点灯しているのがよく見える。ガラスに自分の白いジャケットが映っていた。
「ボクが実験台になる。成功すれば博士は胸を張って発表できる! 一躍有名人だよ! それでどう?」
アトラス博士はコーヒーの流れ出る給茶器の前に立ったまま、ボクを横目で観察している。値踏みしている、と表現した方がいいかもしれない。少しいたたまれない心地になりつつも、ボクは彼から目を逸らさなかった。遠くから金属を打ち込む音が聞こえてくる。何処かでまた何かを建設しているらしい。
「……良いだろう」
但し、身の安全は保障しないがな。告げられた言葉は、ボクの気持ちの暴走を加速させるものだった。
ボクは博士と共に、彼が作り上げたという装置のある場所へ行った。曇天の下、荒れ地の片隅にそれはあった。装置と言うよりも建造物と言うべきそれは、見上げれば大昔(まだ石油が作られていた時代)の写真で見たような、電線と電線を橋渡しする鉄塔によく似ている。細長い鉄が何本も何本も束ねられて、一つの細長い三角形を作り上げていた。その天辺には四角い箱のようなものが付いていて、指を指して尋ねると、スイッチがある部屋だと博士は答えた。
「俺はあの上の部屋から装置を使って重力場を発生させる。お前は塔の真下でそれを受け止めるだけでいい。一瞬だ」
「それってどれくらいきついの?」
「さぁな」
意地悪くにやりと笑う博士は楽しそうだ。ボクの身体は、どうやら本当にただでは済まないらしい。何の準備もしなくて良いのだろうか? 少し逡巡する。
「準備など不要だ。お前の身体を飛ばすわけではない。意識を飛ばすのだからな」
「意識?」
「精神だけを引っこ抜いて、何処かに居るお前と同一人物の精神とシンクロさせる」
「喧嘩しないの?」
「お前と同一人物だと言っただろう。つまり、それはお前が深層心理の中に押し込めているだけで、嘗て経験したことがあるはずなのだ。もう一人のお前の精神を操作して、過去の出来事を再び経験するようなものだと考えろ」
「成程」
完全に理解するには至らなかったが、ボクがもう一度ボクの歴史をなぞるようなものなのだろうか。
鉄塔の真下でスタンバイする。アトラス博士は設置された自作のエレベーターを使って上の部屋へと行った。先程付けられたインカムから博士の声がする。
『準備は良いか?』
「準備も何も、突っ立ってるだけじゃないか……」
ボクは頂点の真下に居るだけだ。建物の間を抜ける風は生温かった。
『そうだな』
なんだよもう。はぁ、と一つ溜息を付いた。けれどもこれに耐えられれば、ボクは自分の知らない自分を知ることができるのだ。
心臓がどくどくと喧しい。首筋や背中にじんわりと汗が滲んできているのが分かる。怖いのか。そうだろう。だってボクは今から誰も経験したことのないことをやるのだから!
インカムからカウントダウンが聞こえ始めた。ゼロに近付くにつれ、ボクの膝が笑い始める。頭がくらくらしてきた。怖い。早く行きたい。無事に行けるんだろうか?考えているうちに、カウントダウンはもう終了間近だ。
ゼロ。
一瞬間後、巨大なハンマーで殴られたかのような頭痛と、生き埋めにされたみたいな重苦しさが、ボクを襲った。
遠くで誰かがボクを呼んでいる。語尾だけしか聞こえないけれど、きっとボクの名前を呼んでいる。あぁ起きなくちゃ。誰がボクを呼んでいるの?
「ブルーノ?」
ぱぁん、という耳を劈くようなクラクションの音がボクの意識を覚醒させた。はっと目をこじ開けると、世界の眩しさが一気に視界に入ってきて、頭痛を引き起こした。こめかみがぎんぎんと痛む。
「ブルーノ?」
声の主を見た。十七、八くらいの青年だ。ボクより背が大分低い。耳の上からの黒髪が逆立っていて特徴的な髪形をしている。彼の目は心配そうにボクを見上げていた。
ボクの視界は奇妙なことになっている。まるで縦長の箱の底面を上から覗き込んでいるかのような、或いは人形劇の舞台を寝そべりながら眺めているような、奥に押し込められた視界になっていた。その周囲は細い額縁のように黒い。左下には六桁の数字がカウントアップを繰り返している。これが普通の視界なのだろうか。
画面の中で、青年は相変わらずボクを見上げている。何か答えなきゃ。
「あ、ぁ、大丈夫、ちょっと、眩暈がしただけ」
「そうか? 今日はよく晴れているからな。熱中症にならないように気を付けよう」
さぁ行くぞ、と青年はボクの左手を引っ張った。ぐんと引かれたボクの身体は、必然的に青年の後ろを付いていく形になる。
腕を引かれながらあたりを見回した。塗料をぶちまけたような真っ青な空が広がっていて、低い屋根の住宅が立ち並んでいる。風は湿気をたっぷり含んでおり、水の匂いの中に時折緑の匂いがした。道端には青紫色の小さな花を山のように付けた房を持つ花が、何処までも続く道のように咲き誇っている。灰色の煙を出す箱がその横を往来していた。あぁ、そうか車だ。化石燃料で走るもの。ぼんやりと把握した世界のじめじめとした暑さが、ボクらに纏わりついている。
この青年の名前が、すぐに出てこないのは何故だろう。ボクはブルーノだ。この青年は? 確か、名前は。
「……ゆ、遊星」
「ん?」
肩越しに振り向いた彼は、黒いポロシャツから伸びた腕で相変わらずボクの手首を握っている。片手では何か、携帯端末をいじっていた。
「腕」
「あぁ、ブルーノは何でも興味を持ってすぐ立ち止まってしまうからな。引き摺って連れていくことにした。でないと授業に遅れてしまう」
授業? 疑問形になってしまったボクの言葉に、遊星は何を言ってるんだ、と呆れたように返した。
「先週から大学が始まっただろう。急がないと間に合わないぞ」
大学。って、何だっけ。そうだ、勉強するところだ。今日のボクはどうしてこんなにも物事に疑問を持ってしまうんだろう。すぐに知識を引き出せない。普通のことでさえ忘れてしまったかのような錯覚に陥る。
普通のこと。って、何だっけ。
遊星は歩道をぐんぐん進む。本当に急いでいるらしい。けれどもボクには実感が湧かない。ボクは学生だったのか、とさえ思ってしまって、何だか遠い世界のことのように思えた。でもこれが現実だ。そうだろう? これが、現実だ。
左下のカウントは確実に増えていく。既に四桁目だ。
遊星の背中を見た。小さい背中だった。肩に掛けている鞄の口から本が数冊覗いている。ボクも右手に鞄を持っていることに気付いた。それ程重くなかった。遊星のように本さえ入っていないかもしれない。それにしても今日は蒸し暑い。
「暑いね」
言葉に出すと余計に暑さが増した気がした。鞄の持ち手を右手首にずらして、着ている紺色のTシャツを摘みはたはたと空気を送る。
「そうだな。大学に着いたらクーラーが効いているはずだから頑張れ」
再び振り返った遊星は歯を見せて笑った。それを見て、ボクは無性に彼を抱き締めたくなった。胸がぐんと押し潰されたように苦しくて、脈拍が加速する。この感覚に覚えがある。相手を目茶苦茶に好きな気持ちに襲われる感覚。
「遊星、ボクらは恋人同士なのかな?」
また疑問形になってしまった。意識したわけじゃないのに、確信を得ようとしているらしい自分が不思議だ。
遊星はぴたりと止まった。急に立ち止まるので、身体が遊星にぶつかった。再び振り向いた彼は、少し拗ねているように見える。車が側を通り過ぎた。べたべたした風が彼の髪を揺らした。
「……今更、何を言っている」
そうして顔を真っ赤にしながら遊星は俯いた。下がった前髪の隙間から見上げる目がひどく寂しそうで、ここが外だということも忘れて遂に彼を抱き締めた。
「うっ」
「ごめん、ごめんね遊星。そうだよね、ボクらは恋人同士だよね」
忘れていたわけじゃないのに。
あれ?
突然だった。急に脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱されるような感覚に陥った。忘れていた? いいや違う知っているさ! ボクはブルーノだ、遊星の恋人だ。学生で今から大学に行って授業を受けて、それから、それから。
それから?
カウンターはもうすぐ六桁に到達する。
遊星からばっと身体を離し、両手で頭を抱えた。痛い。ひどい頭痛と耳鳴りだ。道端でクラクションが鳴っている。
「ブルーノ?」
焦る彼の声が聞こえる。大丈夫かブルーノ! 叫ばないで、ボクは平気だから。しかし声には出ない。
遊星。大好きな遊星。愛している遊星。現実。暑い。ボクは誰だ。君は誰だ。痛い。涙が滲む。感情の大波が襲い掛かる。ありとあらゆる思いが大量に注入されて掻き混ぜられている。頭痛は止まない。
これが、現実か?
「ブルーノ!!」
黒に塗り潰される世界の端で、遊星が手を伸ばしている。それは掴めそうにない。ごめん。
カウンターは六桁を突破した。
「ブルーノ!!」
肩を揺さ振られて、ボクは漸く目の前に居る人物が誰かを理解した。くすんだ白衣が風に揺れている。博士だ。
「おい、大丈夫か!?」
「――あぁ、博士……あれ……」
どうしたんだっけ。あぁそうか確かボクは実験をしたんだ。ボクが居た『いつか』に行きたくて。
けれども突っ立ったままのボクは、ぽっかりと風穴の開いたような空虚さに満たされていた。心は消えそうなくらい朧げなのに、内側から頭を殴るかのような痛みはやけに鮮明で、まるで心と身体が剥離してしまったようだった。
「成功したのか?」
アトラス博士が眉間に皺を寄せながら尋ねてくる。視点を彼に合わせる。その目には魂の抜けたようなボクの顔が映り込んでいた。ボクの双眸に光は無く、果てしなく虚ろだ。
涙が一筋、つぅっと頬を伝った。
「分からない……でもひどく、とてつもなく哀しいんだ。何か大切なものを、遠くに失ってしまったような気がして……」畳む
・博士なジャック。
・タイムリープネタ。
#ブル遊 #パラレル
かつてボクが居た世界へ行こう。
思ってからの行動は早かった。ボクは数人の友人達に話をしてから、早速その手の問題に詳しい研究者を訪ね歩いた。その中で、ある博士が装置の開発に成功していることを知った。
「頼むよ、どうしても行きたいんだ」
彼は例えるならば才能は有るのに売れない画家で、突飛過ぎる論のために周囲に評価されない博士だった。
「臨床実験も何も行っていない。危険過ぎる」
それに何故そんなにも行きたいんだ、全く。と、博士は溜息を吐いた。重苦しい、押し潰したような溜息だ。彼のぎらぎらした金の長いもみあげが揺れる。
「分からない。けど、行きたいという気持ちが暴走しそうなくらい止まらないんだ。頼むよアトラス博士!」
「気持ちの暴走くらいさせておけ。装置が暴走したら取り返しがつかないぞ」
アトラス博士は白衣を翻しながらコップを給茶器にセットした。埃がついて煤けた床には失敗作と思われる沢山のがらくたが放置されたままだ。部屋の窓からは立ち並んだビルのランプがちかちかと点灯しているのがよく見える。ガラスに自分の白いジャケットが映っていた。
「ボクが実験台になる。成功すれば博士は胸を張って発表できる! 一躍有名人だよ! それでどう?」
アトラス博士はコーヒーの流れ出る給茶器の前に立ったまま、ボクを横目で観察している。値踏みしている、と表現した方がいいかもしれない。少しいたたまれない心地になりつつも、ボクは彼から目を逸らさなかった。遠くから金属を打ち込む音が聞こえてくる。何処かでまた何かを建設しているらしい。
「……良いだろう」
但し、身の安全は保障しないがな。告げられた言葉は、ボクの気持ちの暴走を加速させるものだった。
ボクは博士と共に、彼が作り上げたという装置のある場所へ行った。曇天の下、荒れ地の片隅にそれはあった。装置と言うよりも建造物と言うべきそれは、見上げれば大昔(まだ石油が作られていた時代)の写真で見たような、電線と電線を橋渡しする鉄塔によく似ている。細長い鉄が何本も何本も束ねられて、一つの細長い三角形を作り上げていた。その天辺には四角い箱のようなものが付いていて、指を指して尋ねると、スイッチがある部屋だと博士は答えた。
「俺はあの上の部屋から装置を使って重力場を発生させる。お前は塔の真下でそれを受け止めるだけでいい。一瞬だ」
「それってどれくらいきついの?」
「さぁな」
意地悪くにやりと笑う博士は楽しそうだ。ボクの身体は、どうやら本当にただでは済まないらしい。何の準備もしなくて良いのだろうか? 少し逡巡する。
「準備など不要だ。お前の身体を飛ばすわけではない。意識を飛ばすのだからな」
「意識?」
「精神だけを引っこ抜いて、何処かに居るお前と同一人物の精神とシンクロさせる」
「喧嘩しないの?」
「お前と同一人物だと言っただろう。つまり、それはお前が深層心理の中に押し込めているだけで、嘗て経験したことがあるはずなのだ。もう一人のお前の精神を操作して、過去の出来事を再び経験するようなものだと考えろ」
「成程」
完全に理解するには至らなかったが、ボクがもう一度ボクの歴史をなぞるようなものなのだろうか。
鉄塔の真下でスタンバイする。アトラス博士は設置された自作のエレベーターを使って上の部屋へと行った。先程付けられたインカムから博士の声がする。
『準備は良いか?』
「準備も何も、突っ立ってるだけじゃないか……」
ボクは頂点の真下に居るだけだ。建物の間を抜ける風は生温かった。
『そうだな』
なんだよもう。はぁ、と一つ溜息を付いた。けれどもこれに耐えられれば、ボクは自分の知らない自分を知ることができるのだ。
心臓がどくどくと喧しい。首筋や背中にじんわりと汗が滲んできているのが分かる。怖いのか。そうだろう。だってボクは今から誰も経験したことのないことをやるのだから!
インカムからカウントダウンが聞こえ始めた。ゼロに近付くにつれ、ボクの膝が笑い始める。頭がくらくらしてきた。怖い。早く行きたい。無事に行けるんだろうか?考えているうちに、カウントダウンはもう終了間近だ。
ゼロ。
一瞬間後、巨大なハンマーで殴られたかのような頭痛と、生き埋めにされたみたいな重苦しさが、ボクを襲った。
遠くで誰かがボクを呼んでいる。語尾だけしか聞こえないけれど、きっとボクの名前を呼んでいる。あぁ起きなくちゃ。誰がボクを呼んでいるの?
「ブルーノ?」
ぱぁん、という耳を劈くようなクラクションの音がボクの意識を覚醒させた。はっと目をこじ開けると、世界の眩しさが一気に視界に入ってきて、頭痛を引き起こした。こめかみがぎんぎんと痛む。
「ブルーノ?」
声の主を見た。十七、八くらいの青年だ。ボクより背が大分低い。耳の上からの黒髪が逆立っていて特徴的な髪形をしている。彼の目は心配そうにボクを見上げていた。
ボクの視界は奇妙なことになっている。まるで縦長の箱の底面を上から覗き込んでいるかのような、或いは人形劇の舞台を寝そべりながら眺めているような、奥に押し込められた視界になっていた。その周囲は細い額縁のように黒い。左下には六桁の数字がカウントアップを繰り返している。これが普通の視界なのだろうか。
画面の中で、青年は相変わらずボクを見上げている。何か答えなきゃ。
「あ、ぁ、大丈夫、ちょっと、眩暈がしただけ」
「そうか? 今日はよく晴れているからな。熱中症にならないように気を付けよう」
さぁ行くぞ、と青年はボクの左手を引っ張った。ぐんと引かれたボクの身体は、必然的に青年の後ろを付いていく形になる。
腕を引かれながらあたりを見回した。塗料をぶちまけたような真っ青な空が広がっていて、低い屋根の住宅が立ち並んでいる。風は湿気をたっぷり含んでおり、水の匂いの中に時折緑の匂いがした。道端には青紫色の小さな花を山のように付けた房を持つ花が、何処までも続く道のように咲き誇っている。灰色の煙を出す箱がその横を往来していた。あぁ、そうか車だ。化石燃料で走るもの。ぼんやりと把握した世界のじめじめとした暑さが、ボクらに纏わりついている。
この青年の名前が、すぐに出てこないのは何故だろう。ボクはブルーノだ。この青年は? 確か、名前は。
「……ゆ、遊星」
「ん?」
肩越しに振り向いた彼は、黒いポロシャツから伸びた腕で相変わらずボクの手首を握っている。片手では何か、携帯端末をいじっていた。
「腕」
「あぁ、ブルーノは何でも興味を持ってすぐ立ち止まってしまうからな。引き摺って連れていくことにした。でないと授業に遅れてしまう」
授業? 疑問形になってしまったボクの言葉に、遊星は何を言ってるんだ、と呆れたように返した。
「先週から大学が始まっただろう。急がないと間に合わないぞ」
大学。って、何だっけ。そうだ、勉強するところだ。今日のボクはどうしてこんなにも物事に疑問を持ってしまうんだろう。すぐに知識を引き出せない。普通のことでさえ忘れてしまったかのような錯覚に陥る。
普通のこと。って、何だっけ。
遊星は歩道をぐんぐん進む。本当に急いでいるらしい。けれどもボクには実感が湧かない。ボクは学生だったのか、とさえ思ってしまって、何だか遠い世界のことのように思えた。でもこれが現実だ。そうだろう? これが、現実だ。
左下のカウントは確実に増えていく。既に四桁目だ。
遊星の背中を見た。小さい背中だった。肩に掛けている鞄の口から本が数冊覗いている。ボクも右手に鞄を持っていることに気付いた。それ程重くなかった。遊星のように本さえ入っていないかもしれない。それにしても今日は蒸し暑い。
「暑いね」
言葉に出すと余計に暑さが増した気がした。鞄の持ち手を右手首にずらして、着ている紺色のTシャツを摘みはたはたと空気を送る。
「そうだな。大学に着いたらクーラーが効いているはずだから頑張れ」
再び振り返った遊星は歯を見せて笑った。それを見て、ボクは無性に彼を抱き締めたくなった。胸がぐんと押し潰されたように苦しくて、脈拍が加速する。この感覚に覚えがある。相手を目茶苦茶に好きな気持ちに襲われる感覚。
「遊星、ボクらは恋人同士なのかな?」
また疑問形になってしまった。意識したわけじゃないのに、確信を得ようとしているらしい自分が不思議だ。
遊星はぴたりと止まった。急に立ち止まるので、身体が遊星にぶつかった。再び振り向いた彼は、少し拗ねているように見える。車が側を通り過ぎた。べたべたした風が彼の髪を揺らした。
「……今更、何を言っている」
そうして顔を真っ赤にしながら遊星は俯いた。下がった前髪の隙間から見上げる目がひどく寂しそうで、ここが外だということも忘れて遂に彼を抱き締めた。
「うっ」
「ごめん、ごめんね遊星。そうだよね、ボクらは恋人同士だよね」
忘れていたわけじゃないのに。
あれ?
突然だった。急に脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱されるような感覚に陥った。忘れていた? いいや違う知っているさ! ボクはブルーノだ、遊星の恋人だ。学生で今から大学に行って授業を受けて、それから、それから。
それから?
カウンターはもうすぐ六桁に到達する。
遊星からばっと身体を離し、両手で頭を抱えた。痛い。ひどい頭痛と耳鳴りだ。道端でクラクションが鳴っている。
「ブルーノ?」
焦る彼の声が聞こえる。大丈夫かブルーノ! 叫ばないで、ボクは平気だから。しかし声には出ない。
遊星。大好きな遊星。愛している遊星。現実。暑い。ボクは誰だ。君は誰だ。痛い。涙が滲む。感情の大波が襲い掛かる。ありとあらゆる思いが大量に注入されて掻き混ぜられている。頭痛は止まない。
これが、現実か?
「ブルーノ!!」
黒に塗り潰される世界の端で、遊星が手を伸ばしている。それは掴めそうにない。ごめん。
カウンターは六桁を突破した。
「ブルーノ!!」
肩を揺さ振られて、ボクは漸く目の前に居る人物が誰かを理解した。くすんだ白衣が風に揺れている。博士だ。
「おい、大丈夫か!?」
「――あぁ、博士……あれ……」
どうしたんだっけ。あぁそうか確かボクは実験をしたんだ。ボクが居た『いつか』に行きたくて。
けれども突っ立ったままのボクは、ぽっかりと風穴の開いたような空虚さに満たされていた。心は消えそうなくらい朧げなのに、内側から頭を殴るかのような痛みはやけに鮮明で、まるで心と身体が剥離してしまったようだった。
「成功したのか?」
アトラス博士が眉間に皺を寄せながら尋ねてくる。視点を彼に合わせる。その目には魂の抜けたようなボクの顔が映り込んでいた。ボクの双眸に光は無く、果てしなく虚ろだ。
涙が一筋、つぅっと頬を伝った。
「分からない……でもひどく、とてつもなく哀しいんだ。何か大切なものを、遠くに失ってしまったような気がして……」畳む
存在する、こと
・獣をさばくハンイットさんと、それを眺めているサイラス。
・贈り物でした。
#サイハン
「器用なものだね」
「慣れているだけだ」
命を終えた獣が、彼女の手の中で生まれ変わってゆく。その様は手品師や人形師のたぐいに似ている。心得ない者からすれば打ち捨てられるだけの存在が、新たな命を得る。
「狩りで得たものに、ひとつも無駄な部分などない」
日暮れには少し早い時間のこと。一同が腰をおろした。次の目的地まで一歩及ばず、今夜は野宿が決まっている。ハンイット君が食糧調達役をかって出てくれたのが半刻前。それからこちらがテントを張り、火をおこし終えるまでに彼女が得たのは、三羽の野ウサギである。リンデの口にくわえられた小さな獣の、釦のごとく丸い瞳。見開かれたまま瞬きひとつしない洞。夕餉の材料とともに戻ってきたのは、空の端に猫の爪のような月が見え始めた頃だった。
「向こうで準備をしてくるから、待っていてくれ」
準備とは解体のことを指す。ハンイット君がそう言ったのではなく、旅路のなかで、何度かその『準備』に遭遇して理解した。しかし実際に見たことはない、彼女がすっと場を離れるから。
踵を返したその背を追って見学してもよいかと訊ねたのは、今日が初めてだった。「見ていて楽しいものではないぞ」怪訝そうな顔で返されたが、食い下がる。知的好奇心を言い訳にした。しかし実を言うと、先刻まで生きていたものが彼女の手によって変わっていく様子を、一度この目で見てみたかったのだ。
血を抜かれ、皮を脱ぎ捨て、骨と離ればなれになってゆく野ウサギ。野ウサギを肉塊へ変えてゆくハンイット君。そのすべての所作において、獣への気遣いが込められているのが私ですら感じ取れる。いや、訂正が必要だ。気遣いなんて生温いものではない。ある種の畏怖。敬意を上回る思念が、肉の筋を断つナイフの切っ先に宿っていた。
その手捌きは簡潔に述べて、一切の隙間なく並べられた本のように、とても美しかった。彼女が刃を動かし、私はそれを眺める。それだけの時間。ただ時折、私の視線に居心地の悪さを感じるのか、こちらに対して目で小さく抗議されるのを受け流す必要はあったが。
夜、野ウサギの一部は焼かれ、一部は野菜とともにスープとなって、私達の口へと運ばれた。彼女は手ずから調理していたが、焚き火の橙色に染まったあの瞳は、己が刈り取った命がぐつぐつと煮込まれるのをどんな気持ちで見ていたのだろう。
かき混ぜられる鍋の底から、野ウサギの生涯が湯気となって立ち昇る――白い煙の中、彼らがこれまでどう生きてきたか描かれ、即座に霧散していくのを想像して、やめた。同情するなら最初から菜食主義者にでもなればよい。私達人間に出来得ることは、感謝と畏怖を抱くこと。彼女が静かに捧げたように。
狩りをした日はハンイット君の仕事が山積している。まず肉から離れた毛皮を丁寧に洗って干さねばならない。ハンイット君は焚火の傍らでその作業を行っていた。天空に小さな点滅が見える、澄んだ夜。何故こんな夜更けに行うのか疑問だったが、苦笑しながら「オフィーリアやプリムロゼにはあまり見せないほうがいいと思ったんだ」と言われれば、成程彼女なりの遠慮なのだと合点がいく。プリムロゼ君はまだしも(誉め言葉だ)オフィーリア君は多少なりとも抵抗があるだろう。
「あなたは何故寝ないんだ?」
ハンイット君の声が、立ったままの私に投げかけられた。毛皮を干し終えた彼女の足元にはリンデが控えている。眉間から頭を撫でられるたび、心地よさげにハンイット君へ擦り寄る姿だけを見たならば、牙など飾りの愛くるしい存在にしか思えないのだが。
「キミに依頼したいことがあってね」
「依頼? 仕事か?」
岩を椅子にする彼女に倣って、私もその隣に腰掛けることにした。もう大きな声を出す時間ではないので。
焚火を少し見る。自分の内側が均されるのを待ってから、口を開く。
「いつか私が死んだら、私の何かをキミに持っていてもらうことはできるのかな」
「……すまない、意図がよく分からないんだが。何故そんなことを」
「何故だろうね。忘れてほしくないとか、そういう気持ちからではないことは確かだね」
ただ、と言葉を切る。
「今日。キミが野ウサギを捌いていく姿を見て……その毛皮を見て、思ったんだよ。そんな風にいつか私が終わっても、キミの近くには私の何かが在るのだとすれば、とても嬉しいことだと」
ハンイット君の身体には、姿かたちを変えた獣達が身につけられている。命を終えても終わらない、心臓を持たない、けれども連鎖しているような。同じように、心寄せる人のそばに在るならば、おそらく私はとこしえに安息を得るだろう。単純な願いだった。私の名残を、その手に抱いてほしいという。
忘れられてもいい。時の彼方に置いて行かれたとしても。だが何処かで、私のいない世界で、キミが私の『何か』を感じてくれるのであれば――。
彼女の瞳は炎を受け、淡い光に揺らめいた。私を見据える狩人の目。二、三度まばたきをして、その光を散らす。
「そうだな……なら、そのローブを貰おう」
彼女の指が、私の身体を指す。
「これかい?」
「生地が丈夫そうだし……あなたを、象徴している気がするから」
そう言って、ふっと笑った。狩人の目が、私を射抜く人の目に変わる。どちらでも変わらないのは、映り込む私。獣の私。畳む
・獣をさばくハンイットさんと、それを眺めているサイラス。
・贈り物でした。
#サイハン
「器用なものだね」
「慣れているだけだ」
命を終えた獣が、彼女の手の中で生まれ変わってゆく。その様は手品師や人形師のたぐいに似ている。心得ない者からすれば打ち捨てられるだけの存在が、新たな命を得る。
「狩りで得たものに、ひとつも無駄な部分などない」
日暮れには少し早い時間のこと。一同が腰をおろした。次の目的地まで一歩及ばず、今夜は野宿が決まっている。ハンイット君が食糧調達役をかって出てくれたのが半刻前。それからこちらがテントを張り、火をおこし終えるまでに彼女が得たのは、三羽の野ウサギである。リンデの口にくわえられた小さな獣の、釦のごとく丸い瞳。見開かれたまま瞬きひとつしない洞。夕餉の材料とともに戻ってきたのは、空の端に猫の爪のような月が見え始めた頃だった。
「向こうで準備をしてくるから、待っていてくれ」
準備とは解体のことを指す。ハンイット君がそう言ったのではなく、旅路のなかで、何度かその『準備』に遭遇して理解した。しかし実際に見たことはない、彼女がすっと場を離れるから。
踵を返したその背を追って見学してもよいかと訊ねたのは、今日が初めてだった。「見ていて楽しいものではないぞ」怪訝そうな顔で返されたが、食い下がる。知的好奇心を言い訳にした。しかし実を言うと、先刻まで生きていたものが彼女の手によって変わっていく様子を、一度この目で見てみたかったのだ。
血を抜かれ、皮を脱ぎ捨て、骨と離ればなれになってゆく野ウサギ。野ウサギを肉塊へ変えてゆくハンイット君。そのすべての所作において、獣への気遣いが込められているのが私ですら感じ取れる。いや、訂正が必要だ。気遣いなんて生温いものではない。ある種の畏怖。敬意を上回る思念が、肉の筋を断つナイフの切っ先に宿っていた。
その手捌きは簡潔に述べて、一切の隙間なく並べられた本のように、とても美しかった。彼女が刃を動かし、私はそれを眺める。それだけの時間。ただ時折、私の視線に居心地の悪さを感じるのか、こちらに対して目で小さく抗議されるのを受け流す必要はあったが。
夜、野ウサギの一部は焼かれ、一部は野菜とともにスープとなって、私達の口へと運ばれた。彼女は手ずから調理していたが、焚き火の橙色に染まったあの瞳は、己が刈り取った命がぐつぐつと煮込まれるのをどんな気持ちで見ていたのだろう。
かき混ぜられる鍋の底から、野ウサギの生涯が湯気となって立ち昇る――白い煙の中、彼らがこれまでどう生きてきたか描かれ、即座に霧散していくのを想像して、やめた。同情するなら最初から菜食主義者にでもなればよい。私達人間に出来得ることは、感謝と畏怖を抱くこと。彼女が静かに捧げたように。
狩りをした日はハンイット君の仕事が山積している。まず肉から離れた毛皮を丁寧に洗って干さねばならない。ハンイット君は焚火の傍らでその作業を行っていた。天空に小さな点滅が見える、澄んだ夜。何故こんな夜更けに行うのか疑問だったが、苦笑しながら「オフィーリアやプリムロゼにはあまり見せないほうがいいと思ったんだ」と言われれば、成程彼女なりの遠慮なのだと合点がいく。プリムロゼ君はまだしも(誉め言葉だ)オフィーリア君は多少なりとも抵抗があるだろう。
「あなたは何故寝ないんだ?」
ハンイット君の声が、立ったままの私に投げかけられた。毛皮を干し終えた彼女の足元にはリンデが控えている。眉間から頭を撫でられるたび、心地よさげにハンイット君へ擦り寄る姿だけを見たならば、牙など飾りの愛くるしい存在にしか思えないのだが。
「キミに依頼したいことがあってね」
「依頼? 仕事か?」
岩を椅子にする彼女に倣って、私もその隣に腰掛けることにした。もう大きな声を出す時間ではないので。
焚火を少し見る。自分の内側が均されるのを待ってから、口を開く。
「いつか私が死んだら、私の何かをキミに持っていてもらうことはできるのかな」
「……すまない、意図がよく分からないんだが。何故そんなことを」
「何故だろうね。忘れてほしくないとか、そういう気持ちからではないことは確かだね」
ただ、と言葉を切る。
「今日。キミが野ウサギを捌いていく姿を見て……その毛皮を見て、思ったんだよ。そんな風にいつか私が終わっても、キミの近くには私の何かが在るのだとすれば、とても嬉しいことだと」
ハンイット君の身体には、姿かたちを変えた獣達が身につけられている。命を終えても終わらない、心臓を持たない、けれども連鎖しているような。同じように、心寄せる人のそばに在るならば、おそらく私はとこしえに安息を得るだろう。単純な願いだった。私の名残を、その手に抱いてほしいという。
忘れられてもいい。時の彼方に置いて行かれたとしても。だが何処かで、私のいない世界で、キミが私の『何か』を感じてくれるのであれば――。
彼女の瞳は炎を受け、淡い光に揺らめいた。私を見据える狩人の目。二、三度まばたきをして、その光を散らす。
「そうだな……なら、そのローブを貰おう」
彼女の指が、私の身体を指す。
「これかい?」
「生地が丈夫そうだし……あなたを、象徴している気がするから」
そう言って、ふっと笑った。狩人の目が、私を射抜く人の目に変わる。どちらでも変わらないのは、映り込む私。獣の私。畳む
・朔太郎の「言はなければならない事」を読んで。
#ブル遊
ごろりと床に寝そべっているように見えるブルーノはそれは四足歩行動物のような格好をしていたので、遊星は怪訝そうな目で彼を見下ろした。
「一体何をしているんだ?」
「わぁ、遊星が大きく見える」
「答えになっていないぞ」
何かを思いついて行動しているのだというところまでは推測できてもそれ以上のことは判断しかねる。思いながら遊星はブルーノの横にあるソファへ腰掛けた。ブルーノはと言えば相変わらず猫が伸びをする時のような格好で居る。青髪の猫、いいや青髪の大型犬だな。
「えらく大きい犬が居るものだ」
「あはは、でしょう? 動物ってどんな視線で僕等を見てるのかなって思ってさ」
「だからそんな四つんばいになっていたのか」
「そうそう」
全くこの同居人は唐突に変わったことをし始めるので遊星は苦笑をこぼした。膝は立てたままぐっと両腕を伸ばし遊星を見上げるブルーノは主人に甘える犬のように愛想良く笑っている。もし本当にブルーノが飼い犬であったならば色々と世話が焼けそうだ。そう有り得そうにないことを考えつつ、遊星は大型犬の頭をひとつ撫でた。柔らかい毛の感触が手袋越しでも伝わった。嬉しそうにまた笑うブルーノは本当に犬になりきっている様子である。だが遊星の指先が離れると同時に漸く彼は立ち上がって、遊星の右隣へとぼすんと座った。視線が逆転したブルーノは呟く。
「動物ってさ、言葉は喋れないけど、ボクらの言ってることはきっと分かってるんだよね。でも話せないから、自分のことはちゃんと伝えられなくて、いつももどかしくて仕方ないんじゃないかな」
「そうかもしれないな」
「さっき、下から見た時思ったんだ。世界は広過ぎて、見上げた君は大きくて、その存在感にボクは押し潰されそうだった。ボクがもし喋れない犬だったら、きっと、ずっと吠えてるだけだろうなぁ」
ボクに気付いてよ。ボクのことを分かってよ。って。
かち、かち、と、時計の針の音が室内に流れる。二人分の身体を受け止めたソファが小さくきし、と鳴った。呼吸をする度に彼等の肩がちぐはぐに上下して、それが何度か揺れた頃、遊星の唇が徐に開かれた。
「触れればきっと分かるさ」
投げ出されていたブルーノの左手を遊星の右手が握った。きゅ、と繋がった指先から熱が分け与えられて、そこだけが二人分のぬくもりを有していく。ほら、これでお前と繋がっただろう。そういう遊星の意思が肌を伝って流れ込んでくるようで、ブルーノは途切れぬよう、離さぬように絡ませた指を握り返した。体温の共有。感情の流動。鼓膜を震わすものが無くとも互いに一つになれる方法がある。
「じゃあ、ボクの気持ちも伝わってる?」
ボクらの間には言葉は無かった、けれども確かに感じるものが存在して、君とボクは繋がってるんだって分かるんだ。遊星の声の代わりに、その口元に刻まれた笑みが返事となった。
「繋がってるって、心地良いね」畳む