から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

希求する
・「新世界より」後日譚。
#サイテリ #現代パラレル

 全体を統率するのは、あのカノンと同じコード進行。少し哀しみを帯びた美しい曲調は耳馴染みが良い。音階の渦の中へと放り込むように、聴く者の心を誘い出して、その身体から引っぺがす。魂が肉体の同居人であるならば、家のドアをこじ開けて、閉じこもっていた引きこもりを強制的に連れ出すようなものだろう。
 その中で、ある一つのキーワードがいっそう強く、私の中に跡を残す。歌詞としては存在しない、間奏部分のバックコーラス。彼自身が歌っているそれを、ひとつひとつ丁寧に、化石を掘り起こすように拾い集めれば、この世界では誰一人として知らぬ言語のある言葉に成り代わる。彼と私を除いて、誰も知らない。
『手紙が欲しい』
 古代ホルンブルグ語なんて、どうして知っていたんだろうか。
 驚きのあまり、記憶の蓋を開けそびれるところだった。遠い昔、あの世界の中で、私はかつてオルベリクと古代ホルンブルグ語の話をしたことがあったのだ。あれは確かダスクバロウで遺跡を見つけたあとのことだったか。今はもうない母国の、その古い言語について、オルベリクが興味を持った。
 言語の成り立ち、文法、単語。酒のつまみのような簡単なものではあったが、話が弾んだ。空気の澄んだ夜のこと。
 火の番をするテリオンの後ろ姿を覚えている。一言も発することはなかったが、確かに私達の輪の中に居た。オルベリクもそれを感じ取っていた。だから最後、彼に話しかけたのだ。
「ほう、古代ホルンブルグ語では『手紙』はそのように言うのだな――テリオン、レイヴァース家に手紙で近況報告でもしたらどうだ?」
「……何で俺が」
「きっと相手も喜ぶ。それに、相手を喜ばせるためだけに出しても、バチは当たらんだろう」
 オルベリクの言葉にも、彼は振り向かなかった。ただ、どう返すべきか迷ったのだろう、戸惑いと恥じらいを紛らわせるかのように薪をくべて、エールの瓶をあおった。火の粉が深い海のような天で泳いで、紅い星となるのを、私はじっと眺めていた。
 夜は長く、彼との時間は非常に短くて、神が私に与えたもうた時の尺度があっけなく狂っていく。いつだって止まることを知らず、気が付けば指の隙間から流れ落ちている運命が、この手に戻ることはなかった。
 今はどうだろう。私は。キミは。
 手紙を書くとして、さて何を書こうか? 普通に出したとしても恐らく届くまい。私はただの教師。テリオンは一流のシンガーソングライター。
「まるで雲の上の存在……高嶺の花だな」
 独り言の向こう側で、配信されたばかりの彼の曲がリピートされている。何度目かは数えていないが、朝から晩までずっと流しっぱなしであるから、もうすぐ記念すべき百回目かもしれない。スマートフォンの充電をすべきだろうか。
 一介のファンを装って手紙を出すか。いやいや、それならいつ相手に届くことか。せめて自分がもっと彼に近しい存在であれば、しかし有名人でもあるまいに――。
「……そうか、成程」
 戦いにおいては常に、相手と同じ土俵に立つ必要がある。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とは何処の国の言葉だったかな。

   *   *   *

 レコーディングを終えた後、出迎えていたのはマネージャーのアーフェンだった。見知った顔が満足げに頷くのを横目で見やりながらボトルを手に取る。冷たい水が喉を通り過ぎていく感覚の、寒気を覚えるようなそれが、去年の自分の状況を思い起こさせた。
 少し前。自分は、病院のベッドの上で生死の境界線を行ったり来たりしていた。そう聞いた。新聞の隅で目にする事故欄のように、他人事にしか感じられないが、紛れもない事実。
 そのあたりの記憶はひどく曖昧だ。ずいぶん長く旅行をしていたような気もするし、そうでないような気もする。終わらない映画を観続けていたようにも思う。だが、ずっと隣に居た感触が、身体全体に残っていた。目が覚めた時、隣には誰もいなかったけれども、その正体が何なのか理解した。
 冬のプラットホームで見たあいつの驚く顔が、忘れられない。
「あの状態の後に作った曲がラブソングだなんて、しかもすれ違った末に離ればなれになる筋書きだなんて、一体どういう神経だよ」
 出来上がったばかりの曲を聴かせた時の、アーフェンの苦笑を思い出す。
 それから一年。いまだ求めるものは届かない。
 その間、物語の続きをせがむ子供みたいに、俺は溢れてくる音と言葉を貪ってひたすら曲をリリースし続けた。どれもこれも、あの事故のあとに書いた曲の派生もので、しまいにはアーフェンに「悲恋小説家にでもなったのか?」と呆れられたほどである。 
 だが現在、少なくとも腕を組んで笑みを浮かべている様子を見る限り、外れではなかったのだろう。今にも「これはまた売れるぞ」なんてどうでもいい言葉を口にしそうな。路上で歌っていた頃に戻りたいとは思わないが、金の算段に悩まないのも考えものだな、と思うばかりだ。
「だけどよ、バックコーラスも自分で歌うのは珍しいな。そもそもコーラスなんて、今まであんま入れなかったじゃねえか」
「……別に、気が向いただけだ」
「ふうん?」
 それきり興味がなくなったようで、アーフェンは向かいのベンチに腰を掛けてタブレット端末をいじくり始めた。次回のスケジュール調整に、雑誌へのコメント寄稿。宣伝への顔出しについて。「仕事なら何でもやる」と言うと「そういうところは助かるぜ」と同じく仕事人の面構えで応じた。
「そういえば珍しい仕事が来てたな」
「……珍しい仕事?」
「こないだベストセラーになった本の作家がサイン会をやるんだが、そのオープニングアクトだ。えーっと、サイラス・オルブライト? っていう新進気鋭の。ほらよ、ご丁寧にも本人から直々に依頼の手紙が、うわっ!」
「貸せ」
「何だよいきなり!」
 手紙。手紙。白いカードと美しい文字の羅列。オルベリクの声が蘇る。相手を喜ばせるためだけに出したって、そんなもの。こんなカード一枚で、俺は。
 紛れもなく望んでいた。求めていた。否定することはできない。
「この仕事、俺が直接返事をする。セッティングしろ」
「はあ? まあいいけどよ。知り合いか? あ、この作家のファンか?」
「黙って仕事をしろ」
 俺はあれから、物語の続きを聞きたくて、ずっと生きてきたのだ。畳む
お題『メール(手紙)のやりとりを楽しくしているサイテリ』
・「エーテルの青年」番外編2。
#サイテリ #現代パラレル

‪‪『もう二度と送ってくるな』‬
 そのダイレクトメッセージが届いた時、私の中でかの『威風堂々』が響き渡り、次に走り出さんほどの歓喜が大波となって私を飲み込んだことを、この世の言葉でどのように表現すればよいだろう。いや、どんな言葉をもってしても言い表せない。それほど青天の霹靂であったから、乗っていた電車の座席から突然立ち上がり周囲を驚かせたのも仕方があるまい。
 我々人間は日々言語を操っているのに、感情を代弁するに足りぬ日が来るとは!
 進行方向に重心が掛かり、身体が斜めになったところで再び座席に座り直し(何事もなかったように振る舞ったが効果は薄いだろう)もう一度手の中の端末を確認した。この数ヶ月間、何度も何度もメッセージを送り続けたあの青年からの返信が、一通だけ、ぽつねんと、確かに表示されていた。過去に送ったメッセージが既読になっていることは確認していたが、先方から反応があったのはこれが初めてだ。比率でいうと百分の一となる。私は百の懇願の上に、ようやく一の真実を得たのである。
 二度と送ってくるな、と命令口調で彼は仰るが、承服しかねるその故を、私の内情を知る者は理解してくれるであろう。内情を知る者とは、つまり万物を創造せし神である。生者にはもはや私の心は理解できまい、死者の心を理解できないように。
 私は彼に何も送らないという選択肢を有しない。不可能なのだ。それは彼へ到達する道を自ら閉ざすということであるから。いま彼は何処で何をしているのであろう? この国にいるのであれば、私は彼と同じ空気を肺に取り込んでいることになるのだろうか? であれば、私の好みでない排気ガス混じる都会の空気でさえ愛しく思えるのだから、人間の価値観とはあまりに身勝手なものだ。
 匂い。私は古びた本の匂いのほうが好きだ。だからいつか、私の好きなあの匂いを――僅かに黴の混じった、私の郷愁を駆り立てる匂いを、彼と共に愉しみたい。人目を避け、物陰に隠れてひっそりと煙草に火をつける少年のような、何か後ろめたい、けれども自分だけしか知らない瞬間を共有するような心躍る時を彼と過ごすのが、私の願望である。
 だから今日も彼へ送ろう。どうかこれ以上私の前を行かないで、私がその隣へ追いつくまで待っていてくれるように、祈りを込めて文字を打ち込もう。
 エーテルの君よ。私はいま車窓の向こう側に消えていく景色を眺めているよ。ビルの連なりばかりで味気ないが、この中にキミも見た風景があるのだろうか?
 拝啓。
『キミはいま何処にいる?』
 敬具。畳む
SNSにご用心
・「エーテルの青年」番外編。
#サイテリ #現代パラレル

「なんて顔をしている」
 この世のまずい料理を一気に口にしたら、きっと今のテリオンのようになるのだろうな。操作していた手を止めて、オルベリクは自分のスマートフォンから向かいの青年へ視線を移した。
 相手から無言で渡されたのは、同じ型のスマートフォン。画面をタップすれば、彼のSNSのメッセージ画面が表示されている。
「……偽装アカウント、覚えてるだろ」
 声に疲労感が滲み出ている。絞ればどす黒い液体が出てきそうな、重い声である。
「ああ。アーフェンが毎回付き合わされている、あれだろう」
 オルベリクも何度か見たことがあった。盗人稼業を隠すための、つまりアリバイ工作のためのSNSアカウントのことだ。そこに映し出されているのは、あたかも日常を楽しんでいるひとりの若者の姿。正反対のテリオン。口元を緩めた写真は、一見すると何ら不思議なところなどない。だがオルベリクのように、テリオンを知る者が目にすれば、悪寒が走るかもしれない。常日頃の青年と似ても似つかぬ姿に。
 自らがそのアカウントの投稿内容へ登場することはなかったが、毎回『付き合わされている』青年についてはよく知っている。オルベリクは頭の中の記憶領域をサーチした。危険な仕事を請け負うテリオンの、いわゆる闇医者を担当している、気の良い男だ。
「で? なんだこの山のメッセージは。何か関係があるのか?」
「……読んでみろ」
「良いのか?」
 ため息とともに「ああ」と答え、テリオンは天を仰いでソファに身を預けた。「疲れた、寝る……」言い残して目を閉じる。スマートフォンはもう午前三時を示していて、二人が次のターゲットにまつわる作業を始めてから、とうに半日以上は過ぎていた。どうりで目が痛いはずだ――目頭を揉み解してから、その手で件の画面を確認する。
 映り出されたのは、同一アカウントからの、おびただしい(と言うのが適切だとオルベリクは感じた)数のメッセージ。スクロールし続けてようやくたどり着いた最新のものには、
『よく一緒に写っている短髪の青年のアカウントを探しているんだが見つからなくてね。彼は友人かい?』
 とあった。
 アーフェンのことだな。すぐに理解した。笑顔の似合う青年を思い出しながら、不可思議なメッセージの送り主を画面に表示する。
「……大学准教授?」
 果たしてそんな知り合いがテリオンにいただろうか? 思案するが、思い当たらない。当の本人は寝てしまったために、少々のためらいがあったが、オルベリクは引き続き端末を拝借することにした。先月のうちに、テリオンからSNSの操作方法を教えてもらっておいて、ある意味良かったかもしれない。
 送り主の投稿内容を確認してみると、至って普通の、ありきたりな、日常の数々が書き込まれていた。学生だろうか、オルベリクの前で眠る青年と同じくらいの若者たちが写っている画像もある。
 ふむ、と顎に手を添える。
 普通の人物のようだが、生憎、我々には『普通』の知り合いがいない。
 オルベリクの指が、もう一度メッセージ欄へと移る。過去へ遡ってみよう。
 先週。
『この前あげられていた写真は隣町の駅前にある古い喫茶店だったね。キミはカフェが好きなのかい? あの日カフェにいたのはそのせいかい? では今度一緒にどうかな?』
 半月前。
『あの青年は誰なのか、キミとどういう関係なのか、考えるだけで眠れなくて最近不眠気味だよ。頼むから教えて欲しい。』
 先月。
『なぜ返信をくれないんだい。何かしたかな。』
 ――これ以上は止したほうがいい。本能が「危険だ」とささやいている。
 果たしてこの人物がテリオンとどういう関係かは不明だが、ひとまず我々を陥れようとする人物ではなさそうだ……ふう、と息を吐いて、スマートフォンを机に置いた。
 今度詳しく聞いてみるか。今はまず、エアハルトの起訴時の状況について調べを進めなければ。

 明朝。オルベリクの部屋にチャイムが鳴り響く。間延びした音は、マンションにアーフェンが到着したことを知らせていた。
 オートロックを開錠して到着を待っていると、いまだ眠り続けるテリオンの頭がもぞりと動いた。オルベリク自身は眠らず――それは彼自身の体力の賜物であるが――日の出を迎えたので、このまま朝食でも用意するか、と大きな伸びをした。力を抜くと、全身の筋肉が弛緩して少しばかり身体が軽くなった気がした。
 そのうちに部屋の扉が開く音がして、まもなく「よー」と、大きくも小さくもない声がする。
「おお旦那」
「早いな。今日は何をするんだ」
「偽装工作」
 やってきた青年は、意地の悪そうな笑みを浮かべてから、右手に持つ袋を床に下ろした。がちゃがちゃと、金属のぶつかる音にオルベリクが訝しげに覗くと、袋の中には金網やらトングやら、はたまた木炭まで入っている。
「一体何をするんだ……?」
「夏らしいことだぜ。海辺でバーベキュー」
「また、テリオンには似合わないことをする」
「右に同じ」
 いまだ眠る青年をよそに、二人は苦笑した。
 そこら辺に居そうな、毎日を謳歌する一般人。それを装うための作業に毎度付き合うアーフェンも、利害の一致とはいえ、よくやるものだと感心する。
「でさあ、これ買いに行ってた時によ、ダチに『SNSやってないのか』って言われたもんで、俺も作ろうかと思ってんだけどよ」
 アーフェンの言葉に、オルベリクは固まった。数時間前に見た、あの長々とした文字の羅列が浮かぶ。言葉の端々から滲み出る妄執が、アーフェンを襲う気がしてならない。
 ならば言うべきことはただ一つ。
「やめておけ」畳む
新世界より
・幽霊のテリオン。
・サイラス先生真夏の不思議体験。
※テリオンが幽霊です。いわゆる死ネタを含みますのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 ペンを走らせること。それが今、私が出来得るすべてである。先ほど私が耳にした言葉を、確かに書き残さねばならない、それには一刻の猶予もない。がりがりがりがり、ペン先が紙をえぐる音が、大木を倒さんとする鋸のように響いていた。このまま書き続ければ机を二等分してしまうかもしれないと思った。ペンは剣よりも強しという言葉は物理的であったか? それを確かめることができるかもしれない。しかしそんなことよりも、彼は何と言っていたか、口にした一言一句を記録しておきたいという使命だけが私の手を動かしていた。
「おい、いつまでそうしている」
 青年の中音が書斎の空気を振動させた。
「……もう少し、もう少し……」
 対して生返事であったのは自分でも分かっていたが蔑ろにしているわけではないのだ、理解してほしい。あと十秒、いや五秒あれば……四……三……二、というところで書き終わり、手を止める。ふうっ、と口から漏れたのは大きな溜息であったが、単に若干の疲労からであった。
 席を立つ。書斎の回転椅子が、きい、と小さく鳴いた。
「待たせてすまないね」
「待っていない、注意しただけだ」
「では要点を整理するとしよう」
「おい、聞いているのか」
「ええと、キミが現れたのは一時間前の午前一時半だったね」
「……らしいな」
 眼前の青年が、先ほど私が吐いた溜息と性質の異なるものを盛大にこぼした気がするが、気のせいであろう。
 私が一時間前に時計を見た際、確かに針は一と六を指していたから、あれは午前一時半の出来事であったに相違ない。疲労からついに幻覚を見始めたのかと驚きはしたけれども、現に目の前にいる存在と会話が成立しているから、現実であるなと認識した。
「で、私はキミに声を掛けたね。『貴方は誰ですか』と」
 足を進め、青年の座るソファへ近づく。一人掛けのそれに体を預けて、青年は私の全身をじろじろと眺めた。訝しげに寄せられた眉は辛うじて見えるが、目は片方だけしか認められず、もう片方は長い前髪で隠されている。卓上ランプの光を受けて象牙色に染まっていた彼の白髪は、私の動きに合わせて揺れた影に隠れて、今度は鼠色(まるで闇に舞う雪のようである)になってしまった。
「そうしてキミは答えた。『俺が見えるのか』と。大層驚いた様子で」
 足を組む青年の前に立つ。犯人を尋問する刑事はこんな気分なのだろうか。ぐっと屈んで青年を見ると、若葉を思い起こさせる瞳がくるりと丸くなった。
「推察するに、つまりキミは、通常人間には見えない存在――霊的存在、幽霊と呼ばれるものなのかな?」
「……その括りがよく分からんが、多分な」
 その答えを聞いて、私は飛び上がらんばかりの高揚感に包まれた。なんと不思議な存在が目の前に現れたのであろうか! いや私が幻を見ている説は捨て切れないが、それでも!
「こんな摩訶不思議な存在に出会えるなんて素晴らしいよ! その服、少なくとも現代のものではないね? キミは何年に生きていたんだい? その時代には何があった? 首都は? 地名は覚えているかい?」
「おい、」
「ああ聞きたいことが沢山あるがしかし時間が惜しいな、どうしてこんな時に私は一人なのだろうか、あと数人助手が同席していれば良かったんだが」
「あんたは、」
「いやちょっと待ってほしい、キミの存在を証明するにやはり私一人では足りないだろうね、そうだろうね……今からでも遅くない、誰か呼ぼうか……いやしかしもう深夜だね。以前も深夜に友人に電話して叱られたことがあったんだ、同じ轍を踏まないようにしないと」
「おい!!」
 相当大きい声だった。私の思考を文字通りぶった切るように叫び、怒りの含んだ目(片方だけだが)で睨みつける青年に、あ、と間の抜けた声を上げてしまう。
「すまない、自分のことばかりで……」
 今度は気のせいではない、青年は思い切り溜息をついてもう一度座った。革張りのソファがぎゅっと摩擦音を立てたのを聞いて、幽霊にも質量があるのかとまた一つ興味深いものを発見できた喜びで、思わず彼の両肩を掴んだ。
 ――はずであったが、素通りした私の両手はあえなくソファの表面に到達する。目の前には靄のような霞のようなものがあるばかりで、がくんと崩してしまった体勢を立て直してから、それが彼の肉体(であるべきもの)だと気付いた。
「……触れられないんだね。しかしキミは座っている。何故?」



 自分の名前を名乗ってから青年に名を訊ねると、「テリオン」と細い声で答えた。歳は二十二、私より八つも下であるとのこと。それ以外のことは訊ねても話してくれなかった。正確には言い淀んでいた。
 単純に言いたくないだけなのか、何か理由があるのかは不明だが、無理に聞き出す必要もないので(それで嫌気がさして余所へ行かれても困る)そっとしておくことにした。
「自分から触るのであれば、集中すればできる」
 昨夜、彼が椅子に座っていることについて原理を聞いた時、彼はそう答えた。「試しにこのペンを持ってみてくれないか」とボールペンを手渡すと、彼はゆっくりと、恐る恐るといった様子で、ペンを受け取る。
 そして確かに、ペンは床に転がることもなく、彼の手中に納まったのだ。素晴らしい! 感嘆のあまり、気が付けば深夜にもかかわらず大きな拍手をしていた。
「確かに、怪奇現象の中には幽霊が触れなければ起きないようなものもあるそうだ。成程キミの言うように、幽霊のほうから触れることが可能なんだね。これは記録しておかなければ」
「……よく分からんが、そうなんじゃないか」
「他にも聞きたいことがあるのだけれど、良いかな」
 彼が小さく頷いたのを、了承の意と受け取って訊ねる。
「キミは、自分がどうしてこの世に留まったままなのか、心当たりはあるかい」
 訊ねた時、私はある種の興奮を感じずにはいられなかった。それは人の暴露話を密かに共有する心地に似たものであった。しかしこの質問に対する回答はなく、前述と同じく彼は口を噤んでしまったので、私の興奮はすぐに消火される。
 何か触れてはいけない部分に触れたのかもしれない、気分を害したかも。
 彼は人間『であった』のだから、思い出したくないこと、語りたくないことだってあるだろう。先ほど感じた心地を含め、彼に対して失礼を詫びようとした瞬間、少し前から薄く明るんでいた書斎が、これ以上は我慢ならないというように朝日を受け入れ始めた。カーテンの下から光明が漏れ、朝を迎える準備ができたことを告げる。
 もう朝か。
 独り言とともに光を見ていた一瞬の合間、彼から視線を外し、再び戻すと、ソファは寸前までの主を失って空虚に佇むだけであった。
 彼は――テリオンは、日の出と共に消えてしまっていたのだ。
 霊的存在は、日の当たる時間帯には行動しない、らしい。らしい、というのは正確な情報かどうか不明であり、誰も証明できないからである。不明瞭な存在には不明瞭な情報しかなく、寝不足でかすむ目を擦りながら、私はネット上の真偽不明なそれらをしらみつぶしに読み漁るしかなかった。午前中に仮眠を取る予定は無に帰した。
 そうして私は昼下がりに、テリオンが消えた書斎で、彼が座っていたソファに腰かけ、彼と同じように足を組んで物思いに耽っている。夏季休暇中で良かったと思う、仕事と並行して考えられるような代物ではない。
 頬杖をつきながら昨夜のことを思い出す。
 テリオンという名の幽霊が現れたことに驚きはしたものの、私は恐怖のたぐいの感情を全くと言うほど抱いていなかった。というのも、この感覚には身に覚えがある。以前も似たようなことがあった、屈強な剣士の男や着飾った美しい踊子が出てきたことが。しかしその時は夢であった、目が覚めれば寝室の天井が視界に入ってきたから……あれは、確かに夢であったのだ。

 浮遊感。水に溺れたような。どこかから飛び降りたような。
 世界が薄い光の膜に覆われている。柔らかい陽の光が私を包んでいた。視界の先には煉瓦造りの建物が立ち並び、その隙間から木々が覗く街並みは、私の愛する故郷であると分かる。
 サイラス、と誰かが私の名を呼んだ。
 そうだ、私はある探し物のために街を出たのだ。振り向くと、いつか夢に見た剣士の男、そして踊子の女性。行くぞ、と男のほうが言った。
 私を呼ぶのは貴方達か。
 けれどもすまない、私は私の後ろを歩く人を待っているのだ。だから先に行ってほしい、そう答えた。その人はいつもわざと離れて歩くから、歩調を遅らせて歩くのが私の癖になっていた。
 はて、誰を待っているのだろう?

「おい」
 びくっ、と身体が跳ねて目が覚めた。
「……テ、リ、オン……」
 どうやら私は夢に落ちていたようだ。昨日睡眠を取れていなかった反動か、泥のように眠りこけていたのだった。
 あたりを見回すと、室内はもう夕刻を示す色で満たされていた。濃い橙が揺らめく空間のなか、テリオンが私を見下ろしている。青年の――それは一体どこのものであろうか、見覚えがあるような――民族衣装のようなシャツから、傷痕の残る引き締まった胸元が覗いて、思わず目を逸らした。逸らした先の床には、斜陽を受けた私の影だけがひとつ、くっきりと、フローリングに映り込んでいた。
「えらく気持ち良さそうに眠っていたな」
 声をかけられ、立ち上がる。視界が逆転して、頭ひとつ分下にテリオンが見える。
「……不思議な夢を見てね。それが心地良かったものだから」
 いまだぼんやりとした頭の中を整理するようにかぶりを振った。眠気覚ましに何か飲もうと思って、「キミも何か飲むかい?」と口にしてから、ああキミは幽霊だったと思い出す。
「飲めない」
「忘れていたよ、キミがあまりに普通でいるものだから」
 それほど彼の雰囲気は生きている人間のものに酷似しており、昨日のように触れられないのが不思議でならない。室内には確かに二人の人間が存在しているのに、片方には肉体がない。そんなことを、この光景を前にして信じられる人間がいるだろうか?
「忘れるな、俺は死んでいるんだ」
 呆れた声を苦笑でかわしながらキッチンへ立つ。リビングの端に設けた書斎は「私一人が使うだけ」というのを言い訳に、至る所に本を積んではそのままにしていたので、彼に見られるのは若干気が咎めた。なにせこの部屋には客人がほぼ来ないのだ、こちらから呼ばない限りは。しかし気にしない性格なのか、テリオンはその荒れた様子には目もくれずに、私と入れ替わってソファに座る。どうやら気に入ったらしい、幽霊にも好みがあるとすればこれもまた興味深い。
 冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出して、グラスに注ぐ。限りなく黒に近い焦げ茶色の液体が透明な領域を侵食していくのを見て、そういえばこの間、借りてきた本の上にコーヒーを溢しかけたんだったな、と苦い記憶が浮かび上がってくる。
 それでふと思いついたのだ。
「これから図書館へ行かないかい、一緒に」
 声を投げかけると、リビングの奥から返事があった。
「……図書館?」
「本を返しにいくついでに、キミが生きていた時代のことを調べようかと」
 まあ図書館が閉まるまであと一時間しかないけれどね。喋りながら、コーヒーを口に含む。舌の上を酸味を含んだ苦味が通過して、喉を潤し、胃に落ちていく。冷たい感覚が身体の中から私を脅かすようで、寝起きにアイスコーヒーは良くなかったな、とそれきりグラスを置いた。
「何故俺も行く必要がある」
「キミに教えてもらわないと、私は何も調べられないよ」
 それは彼から直接彼に関する話を聞きたいという気持ちに裏打ちされたものであった。本音を隠すように冗談めいた口調で返したつもりであったが、彼は「何も分からんと思うがな」と言うばかりで、しかし私はこの時、彼の言葉の意味を根本から理解できていなかった。

 アパートから一歩外に出た瞬間、真夏の熱風が身体を覆う。日が落ちる寸前でも、この季節は昼間の熱を忘れたくないというように、夕闇の中にひしと抱き続けている。じわじわと、汗がシャツに滲んでいく。
 そういえば、テリオンはこの世界の何を見てきたのだろう。例えば目の前の交差点を行き交う車。制御の効かない怪物のような白、黒、黄色や赤の塊を、彼は理解できるのだろうか? 先ほどエレベーターに乗った時は何事もなかったが、何事もなさ過ぎて気付かなかった。この文明社会を前に驚いていなくなってしまわないだろうか。心配になって彼の姿を確認する。が、どこにもいない。私の周りのどこにも。
 また消えてしまったのか。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。色も形も持たない風のように、彼はすぐどこかへ行ってしまう。それが彼らしく嬉しくて、そしていつも悲しい。
 ――『いつも』とは、いつのことだったろうか。
「……あ」
 車道をすたすたと歩く一風変わった青年は、間違いなくテリオンだった。歩行者用の信号は赤なのに、道を横切る彼の姿を誰も咎めない。車が止まるわけでもなければ、運転手は見向きもしない。まるでこの世界には存在しないもののように(果たしてそうであるが)彼に気付くこともないのは、私に対して、まさしく彼が幽霊であることを認めよと主張しているように見えた。
 車に触れるか触れないかのところで、テリオンは車体をひらりと避けて、まるでサーカスの曲芸師のように舞い踊る。私が彼に触れられないように、ぶつかったとしても当たらず轢かれることはないのだろうが、見ているこちらからすると冷や汗が止まらない。あ、とか、わあ、とか素っ頓狂な声を上げていたものだから、周りで同じく信号待ちをしている通行人らは私を奇異な目で見ていた。
 彼は、確かにそこにいるのに、そこにいない。私にしか見えず、私だけが存在を知っている。
 世界の裏側に隠された秘密を暴いてしまったら、こんな気持ちになるのかもしれない。この世の誰もがキミを知らなくても、私だけが知っていれば、そこには言葉にし得ない充足感がある気がした。
「さっさと来い」
 道の向かい側から投げかけられたテリオンの声。離れているのに、耳元で囁かれたように明瞭に私の耳に届いて、その直後信号が変わる。珍妙なものを観察するかのごとく私を遠巻きに見ていた人々が、青信号を合図に一斉に歩き出した。その流れに乗り遅れないように私も彼のほうへ歩み寄った。
「あんた、変人だと思われてるぞ」
 悪戯っぽく笑う顔に、少しむっとしてしまう。
「……キミがあんな危なっかしい動きをするからだよ……」
 今度はひそひそと小声で話すことに成功した。同じ轍は二度踏まない。



 残り一時間どころか三十分しかないが、本を物色して数冊借りるには何とか足りるだろうと踏んで、私は図書館の中を周回していた。
「キミが生きていた時代は西暦何年か、憶えているかい?」
「……そもそも『せいれき』とは何だ」
「え」
 聞き捨てならない言葉に、私は危うく館内の沈黙を破るところであった。思わず口元を覆う。「西暦って、四桁の数字の、年のことだよ」「何だそれは」「ええ?」歴史に関する書棚に到着した。しかしどの本を手に取ろうか決められない。
「……すまないが、キミの住んでいた土地のことを詳しく教えてくれないか」
 そこから、私がいかに仰天したか筆舌に尽くし難い。テリオンが口にするすべての情報が、私の知る限り、歴史上には存在せず、また不可思議なものばかりであったからだ。映画でしか見たことのないような話が私の周りを取り囲み、私を理解できない世界へと連れていく。つまり、私の住む世界とテリオンが生きていた世界は、同一ではなく全く別物であり、私達は未知なる世界にいる者同士であったのだ。
「ええと、つまり、キミが生きていた時代のことを知る術はないのだね……」
「だから言っただろう。何も分からんと思う、と」
「そういう意味だったのかい……はあ、とても残念だ。この上なく。私はキミがいた時のことを知りたかった。歴史が歴史であることを照合して、埋め合わせたかったのだけれど……」
「そんなことをして何の意味がある」
 さもつまらなさそうに言うものだから、つい声を大きくしてしまったことを、あとで後悔することになる。
「キミが生きていたことを証明できる!」
「……証明?」
「ああ! キミは確かに生きていたんだよ、それを確かめるのに歴史が最も適していると思ったんだ」
 ――そういえばこの世界には地球という我々が生きる星が浮かぶ銀河、そしてそれを包み込む宇宙という空間があるのだが、宇宙にはまだ分かっていないことが多くてね。実は我々の宇宙とは別の宇宙が存在して、我々の宇宙とそことが繋がっているのではないかという説もあるんだ。であればキミの世界はその別宇宙にあって、我々の世界と繋がっている可能性だってあるわけだよ、そうだろう? 我々はいまだちっぽけで故に宇宙について知らないことが多いのだが、もしかしたら百年後、いや五十年後には全く新しい説が生まれていて、それがキミのいた世界のことを証明する手段になり得るかもしれない!
 と続けざまに捲し立ててから、私は我に返った。館内には数えるほどしかいなかったが、まだ数人の利用者が残っていて、また係員が私を「けったいなものを見つけてしまったな」という目でちらちら見ている。
「……失礼」
 ひとつ咳払いをして、私は急ぎ足で出入口へと進んだ。テリオンはといえば、私の横で腹を抱えている。

 濃紺の空のもと、来た道を戻りながらテリオンが言った。「あんた、同じことを繰り返しているな」言葉の端々に笑いが見え隠れしている。同じこと、というのは、恐らく昨夜のことを指しているのだろう。彼が指摘する私の癖には自覚があるのだが、如何せん、この歳にもなると人間の性格とやらは変えることが難しいものである。
「そういえばキミは、驚かないね。車とか、エレベーターとか」
 私は恥ずかしくなって話題を変えようと試みた。
「……クルマ?」
「あの、道を走っている大きな機械のことだよ」
 視線で示すと、テリオンは「ああ」と的を得たように頷いた。
「……見慣れた。最初は驚いたがな」
 彼が私の先を歩く。日も暮れて人がまばらになった道を進む。通りを挟むように伸びるビルの窓には、ちらほらと、いまだ光が灯っていた。この時期に仕事だろうか、心の中で労りながらその前を通り過ぎる。
「ねえ、キミはいつから、自分というものを認識したんだい」
「さあな……気が付いたら、ここにいた」
「ここから違う場所へは?」
「行けない」
「飛んだりできないのかい?」
「そんな魔法は使えない」
 聞けば聞くほど、私の持つ幽霊のイメージ(勿論フィクションであることは承知の上だ)とは異なるようだ。
 自室へと戻ってきてから、私はここ一日のテリオンの話を頭の中で整理しながら、軽い夕食をとっていた。言うまでもなく彼は食べられないので、一人何をしていたかというと、またもや書斎机の前のソファで足を組み、何も発さず、ただ座っているのである。出来ることなら同じ食卓に座って話を聞かせてほしかったが、食事をしながらインタビューというのも(逆の立場ならまだしも)よろしくないであろうと踏みとどまった。
 彼は違う世界の人間、だった。その世界には魔術的なものが存在していて、人以外の動物、それも凶暴なものがおり、そして私の世界と変わらず戦争が起きたりするらしい。
 そんな別次元の彼に「空腹感は?」と問うと、短く「ない」と返ってきた。触感はあるらしいことを考えると、生きた人間が欲するものを死後は欲しなくなるのであろうか、食事は生命維持に必要不可欠な行為であるから。彼はもうそれを継続しようと努める必要がないわけだ。それがなにか、私の胸の奥に引っ掛かりを残して、途中から口に入れるものの味が分からなくなってしまった。
 呼吸はしているように見えても、そう見えるだけであって、彼の内側では血液が生成されることも心臓が脈を打つこともない。この部屋にはテリオンと名付けられた輪郭だけがあって、私はただそれを眺めている。しかしその内なるものを、瓶詰容器の蓋を開けて確かめるように、ただ彼の言葉によって知りたい、焦燥にも近い欲求が私を突き動かしていた。
「テリオン」
 食事を終え、私は書斎の椅子に腰かけた。必然的に相対することになった私達は、素行の悪い生徒と、それを呼び出した教師の図にも見える。自らの職がそうであるから余計に既視感があるのか、私は向かい合った我々の姿に懐かしさを感じずにはいられなかった。
 ペンを持つ。彼の話を書き留める準備をする。昨日記した文字の下に、今日は一体どのような話が連ねられるのであろう。
「キミは、キミの生きていた時には、どんなことをしていたんだい? どんな人と、どんなことを」
 話したくなければ話さなくても良い。でも、できれば聞きたい。そう言う自分の声が、融けかけた氷菓子のように柔らかくなっているのが、どうしてなのか分からなかった。しかしこれが効果的であったとみえる、テリオンは昨日は閉じたままだった唇を薄く開いて、物好きだな、と小さく呟く。
「――俺は……」

 俺は、人のものを盗んで生きてきた。
 生きるために盗んでいた。盗賊だった。一人だった。途中から途中までは、二人だった。だがまた一人になった。それで良かった。
 一人で良かったところを、俺を放っておかない奴らがいて、途中から一人でなくなった。
 旅をしていた。色んなところへ行った。砂漠も、雪山も、森も、遺跡も。
 途中、怪我をすれば薬屋が――俺を放っておかなかった奴の一人だが、そいつが、嫌だと言っても薬を寄越してくるから、それで治しながら、旅を続けた。
 腹が減れば酒場に出たり、野営する時には狩人が、これも俺を放っておかなかった奴の一人だが、野兎やらを捕って、皆で食ったこともあったな。悪くなかった。
 違う人生の、違う人間が寄せ集まって、旅をする日々は、まあ面白くないわけではなかった。
 ……その中でも、特にいけ好かない奴がいた。学者だったが、いつも何かに熱中していて、面倒な男だ。一度話し出すと止まらん。
 だが何故か俺に構ってくるから厄介だった。逐一俺の様子を確認してくるし、頼んでもいないのに何やら持ってくる。誰に対してもそうなんだと思っていたが、どうやら他の奴らに対しての頻度が俺より低かったことを考えると、何か別の意図があったみたいだった。全く、俺の何が面白かったんだか――。

 その学者の話になった途端、彼の口調が常の単調なものから抑揚のあるものに変化したので、ほう、と思わず感心したのである。彼にこのような変化をもたらす件の学者とは一体いかなる人物であろうか、と私は気になってつい「その人は、キミにとって好感の持てる人だったんじゃないのかい」と口を挟んでしまったのである。これがいけなかった。
「……今日はもう終いだ」
「えっ終わりなのかい」
「興が醒めた」
 そのまま彼はソファに身体を預けて、天井を見上げてしまった。
「……あんたの」
「え?」
「あんたの話をしろ」
「私の話かい」
「死人の話ばかりではつまらん」
 確かに不公平かもしれない。だが私は他人に語れるような誇らしい自伝を持ち合わせていないのだ。そう答えると「聞くだけとは良いご身分だ」と言われてしまった。
「申し訳ないね、今度までに面白い話のひとつやふたつ用意しておくよ」
「忘れるなよ、サイラス」
 視線を戻したテリオンがあまりに自然にそう口にしたので、幽霊というものはこちらが名乗らずとも名を知る技を身につけているのかもしれないな、と感心したのである。



 それから私は昼夜逆転の日々を過ごすことになった。夜にテリオンと会話をして、昼に寝る。こんな表現をすると自堕落な生活の代表者のようだが、余暇を利用しての結果なのだから責められるいわれはないつもりだ。
 彼から話を聞くのは、成功する日もあれば失敗する日もあった。一週間程度しか経っていないので、確率が高いのか低いのか判断できない。それでも、何も言ってくれないよりは比べ物にならないほど嬉しくて、それは砂漠の中から砂金を見つけるようなもので、何度も彼に質問を繰り返した。質問は時には掛け合いになって、真夏の夜に幽霊と言葉を交わすということが、私だけに許された特別な行為に感じたのだ。
 テリオンの話は事実面白かった。神官に商人、狩人なんて、この世ではお目にかかれない冒険奇譚だ。中でも彼にしか開けられないという宝箱の話には非常に興味をそそられたものだ。なにせ現代では宝箱どころか宝探しでさえアトラクションでしか行われないのだから、宝箱が存在するということだけでも興奮してしまうというもの。もし私の前にひとつの宝箱が用意されていたならば、その構造を解き明かすために一体どれほどの時間を費やしてしまうだろうか!
 一度だけ、テリオンの姿を残しておきたくて、スマホのカメラを向けたことがあった。だが彼の姿は画面には映らなかった。やはりか、と思うと同時に、彼を捉えておくのは私にしかできないと思うと、優越感に近い感情が湧いてきて、そんな自分自身に驚いた。私は自分のこの体験を、すべて纏めて友人と共有するつもりであったし、また休暇が終わったら友人を呼び寄せて彼に会わせてみたいと思っていたのだが、このまま私の中の秘密にしてしまおうか、という考えに天秤が傾き始めていた。結局、彼の映らないソファだけの写真が残された。
 さて、私は私の身に起こった妙な出来事についても述べておきたい。
 テリオンが現れてからというものの、あの不思議な夢が、日に日に色濃く描かれるようになってきたのである。
 初日こそ午後のうたた寝に見るような(まさしくそうであったし)夢であったが、その次の日はおぼろげな中身が徐々に型に収まっていくように明瞭になってきた。そうしてまたその次の日も。夢の中で、私は何人かの人々と言葉を交わした。どれも断片的で短く、紙芝居が入れ替わるかのごとく途切れ途切れであったものの、目覚めてからも内容を記憶するようになったので、私はテリオンの証言記録とは別に自分の夢についてメモを残すことにしたのだ。
 登場人物は、以前から現れる剣士の男と踊子の女性のほかに、なんと神官の女性、商人の少女と増えたのだ。彼女らの姿かたちは、テリオンが話した内容と相似していたので、きっと彼から聞いた話が夢に影響したのだろう。
 彼女らは若く、なのに自分の目的をはっきり有しており、夢の中であるといえども未来が有望な若人達には素晴らしい輝きがあり、私の心はその光によって磨かれるようであった。いつの時も、歳を重ねた者は若者の未来に対して羨望の眼差しを向けるものだ。私も同じく、そして彼らの行く末がどうか幸福に満ちたものであれ、と夢の中で祈っていた。
 その時、私の後ろからふらりと青年が現れた。私がいつも待っている――私が勝手に待っているだけであるが――あの青年だ。しかし夢の中で、彼の姿はいまだ形を得ず、私は存在だけを認知している。彼がいた、ただその事実だけを。彼の未来も輝かしいものであれ、と願いながら、その姿を見ることは叶わずに。
「おい」
 心地良い声がした。私を目覚めさせる声だ。今現在、私を眠りから起こすことができるのはただ一人だけである。
「……おはよう、テリオン」
「もう夜だがな」
 テリオンが書斎机のランプを灯した。スイッチをかちりと押すだけであるから、私の所作を見て覚えたものとみえる。光を受けて、彼の姿がはっきりを私の前に現れる。
「キミが現れてから私の一日が始まるようなものだから、おはようで合っているんだよ」
 なんだその言い分は、とテリオンは一蹴しながら、視線だけで私にソファから退くよう言ってきた。彼はこのソファがだいぶお気に召したとみえる。確かにアンティークにしては状態が良いし、座り心地も昔から使い込んでいたかのようにしっくりくるので、私も仮眠に使用するほどには気に入っている。「仰せのままに」と一礼しながら席を譲ると、彼は口角を僅かに上げて腰かけた。
「キミに聞きたいことがあるのだけれど」
「またか」
「すまないね、珍しい体験なものだから」
 私は大きな伸びをして、彼の向かい、書斎の椅子に座った。数日前の反省を活かし、アイスコーヒーは飲まなかった。あとで温かいスープでも飲もうと思う。
「キミは」
 私が彼にしてきた質問はすべて、二の足を踏むものではなかったのだが、これから口にする言葉は間違えれば彼を怒らせてしまうかもしれないな、と思うと少しだけ躊躇してしまった。不審に思った彼に「何だ」と促されて、もし気に障ったならあとで謝ろう、と開き直って言葉を続けた。
「……キミは、キミの旅仲間だった学者のこと、好きだったのかい」
 ほんの僅かなものであったが、私は見逃さなかった。彼の目が少し見開かれたのを。青葉を思わせる薄い緑、深い森にも似た濃い緑、その間に差し込む日差しのごとき光の雫。モザイクガラスのように多色に煌めくのが美しくて、しばしその色に見入っていた。
 テリオンの唇が、少し動く。どんな答えが返ってくるのか、一秒一秒待つのがもどかしい。だが結局、彼は明確には答えなかった。妙な質問をする、だとか、何故そこを気にするのか、などと言って、はぐらかしているのが分かった。
 ただ暫くして、ぽつりと、「命を懸けられる人間だった」とだけ答えたのが、私の身体に深い矢となって突き刺さったのだった。

 その日、私は久しぶりに夜のうちに眠った。いつ眠りについたのか分からないうちに眠っていた。もう少しテリオンと話したかったのに、彼が「もう眠れ」と囁く声がひどく身体に染み渡って――まるで乾いた土がようやく水を与えられたように――途端に夢に落ちたのだ。直前に、カーテンが閉まっているか確認したことと、逆転の生活が身体に堪えたのかな、と自嘲したことだけは覚えている。
 数日を経たことで、まるで現実のようにはっきりとした夢。しかしこの日は、その幻の世界がひどく慌ただしく、夢の中だというのに、私の背には冷たい汗が流れているのが分かった。
 私は短髪の青年の両肩を掴んで、強く嘆願していた。「助けてくれ、私を庇って彼が、」落ち着かない声は、私のものだ。私に揺さぶられている青年が、人を助けるために薬を作ることを生業としているのを、夢の中の私は理解していた。ひどく狼狽する自分を、もう一人の自分が冷静に見つめているような感覚であるのは、夢だからなのか。青年は私を落ち着かせようとするが、どれもうまくいかずに、途方に暮れているようだった。彼の顔が青ざめているのは、見間違いではあるまい。
 振り返る。剣士の男が、口元を押さえる踊子の女性を支えている。その隣では商人の少女が泣いていた。彼女を抱き締めているのは、狩人の女性だ。
 地面では神官の女性が跪き、額に汗を浮かべながら、両手を強く握って祈り続けていた。神への祈り。生命を繋ぎとめるための祈り。そのか細い指は震えている。彼女の前には――その膝元には、白髪の青年が横たえられている。
 私が、いつも待っている、テリオンが、血を流して。
 彼は身に着けている上着を赤黒く染め上げて、口元から短い息を繰り返していた。その姿を見て、私の肉体すべてが停止するのを感じた。心臓が氷漬けにされるのを感じた。世界が足元から崩れ落ちるのを感じた。
 これは夢であって夢ではない。この感情は幻想ではない。私はこれを覚えている。誰かの記憶を、私はなぞっているのだ。誰の記憶だ?
 テリオン。ああ、何故キミはそうやって。私はどうして、いつも、遅いのだ。
 悔恨の声がした。私の口から呪詛のように流れ出ているのであった。顔を覆う。指の隙間から、液体となった命が流れ落ちていくのを感じる。掬うことができなくて、引き留めることができなくて、嘆くしかない、無力な男。
 これは、私自身の記憶なのだ。

 息苦しさに目が覚める。突っ伏していた机から勢いよく身を起こしたせいで目眩がした。「なんだ、もう起きたのか」目の前で、テリオンが頬杖をついている。卓上ランプだけが灯された部屋で、ぼうと浮かび上がる姿が、肉体のない彼が、今はただただ儚く、霞のように映った。
「……夢を、見たんだ」
 心臓はいまだ落ち着かない。夢の延長線上で、私は急ぎテリオンの言葉を書き記したノートを机に広げた。隣に、私の夢のメモを。誰が、どんなことをしていたか。照らし合わせる。薬屋の青年に、狩人の女性。街の風景、人々の営み。そして、何故テリオンが私の前に現れたのか。頭が痛い。だがそれよりも、身体の内側が抉られるように痛かった。じくじくと傷口が開いていく。けれども止めることができない。私はこの先の事実を確認しなければならない。
 私の考えに誤りがなければ、私の夢とは、テリオンの世界とは。
「……私は……」
 私は、キミの中にいる、学者だったんだね。
 テリオンは驚かなかった。ただ静かに、答え合わせをする私の言葉を聞いていた。
「途中から私は、キミと、オルベリクと、プリムロゼの旅に加わった。キミはいつも皆と離れて歩くから、私はキミのことが気になって仕方なかった。そのままどこかへ行ってしまうんじゃないかって、気になって」
 それが、親愛になって、情愛になっていくなんて、自分ですら予想できるものではなかったのだ。
 神官のオフィーリア君、商人のトレサ君が加わって、そこに薬屋のアーフェン君、狩人のハンイット君が合流した。大所帯になった私達は、それぞれの目的のために協力し合って、旅をしていたね。
 街にずっといたら得られなかったであろう、沢山の経験がそこにはあった。
「けれども、途中で――」
 声がわななく。思い出したくもない悪夢が、私の脳裏に焼き付いている。拭っても拭っても消え去ることのない罪の記憶。
 旅の途中で、魔物の攻撃から私を庇ったテリオンが重傷を負って、その生命を止めた瞬間の記憶。
 その時の感情を、私は言葉として正しく表現することができない。哀惜、後悔、苦悩、それ以外のごたまぜの、絡み合った糸のような思いの数々が、あの頃のサイラス・オルブライトを縫い付けている。
「もう、終わったことだ」
 テリオンの声は冷静で、水がさらさらと滑り落ちるように、ただ部屋に流れた。

 彼は私を守った。私の未来を守った。彼の未来を引き換えにして。それが私を事切れる瞬間まで苛ませた。
 心の隅で、あの旅はいつまでも終わらないような気がしていた。誰も欠けることなく、完璧な円を描いたままで、終結するとばかり思っていた。キミがいなくなることなんてないと思っていた。どこかで忘れていたのだ、キミは私の想像より遥かに、キミ以外を見る人だということを。
 私は、キミに救われるような価値のある人間だったのかい。

 立ち上がる。足元が、泥の上を歩くように重く、ぬかるんでいた。テリオンの前に膝をつく。彼の靴の、爪先が見える。
 本当に、すまなかった。
 口にすると、口にする前よりも軽薄さが増したが、にもかかわらず私はこの他に彼に対する謝罪の言葉が出てこなかった。
「……何故あんたが詫びる」
「私はキミを死へと追いやった」
「そうじゃない。あれは俺の行動の結果だ。誰のせいでも、誰のためでもない」
「テリオン、」
「あんたは、あいつじゃない。この世界に生きる、別の『サイラス』だ。それに……悔やむ必要はない」
 言っただろう。命を懸けられる人間だったと。
 私の髪をゆるく梳く指は、テリオンのものだ。私の表面を確認してから、泣く子をあやすような手つきになって、それが私の深いところを慰める。
 ずっと伝えたい言葉があった。それを伝えられなかったことも、キミの未来を奪ったことも、ずっと悔やんでいた。なのにキミは、もういいんだ、って言うのかい。
「テリオン、もっと私に触れて、私に……」
 彼の右手が、私の頬をゆるく撫でた。初めて彼の身体を感じた。冷たくも温かくもない。感触だけがある。存在だけがある。顔を上げると、彼の目が細められる。
 堪らなくなって、縋りつくように彼を抱きすくめた。鼓動は聞こえない。けれども触れられる、彼に触れることができる。あの頃はできなかった、こうして感じることなど。
 テリオン、テリオン。
 何度も名前を呼んだ。そのたびに彼が「なんだ」と応えてくれるのが、迷い道からようやく抜け出せたような一筋の光と、近付きつつある道の終わりを指し示しているようで、はぐれないようにまた彼の名を呼ぶ。

 ねえ、テリオン。
 私はキミのことを、とても大切に思っていたよ。キミのすべてが欲しかった。私のすべてをあげたかった。
 もう叶わないけれど、ずっとそう思っていたよ。あの世界から私が消えるまで、ずっと。

 彼の首元で繰り返す言葉は、遠い過去の私が、どれほど望んでも口にできなかったものだ。それを今伝えたとして、どうにもならないことは分かっていた。あの頃の彼は戻らない。何も解決できない。それでも言わずにはいられなかったのは、あくまで私の望みで、一人の独善的な男の結末である。
 ふ、と彼が笑う気配がして、一度だけ身を離して、その顔を見る。
「生きているうちに聞きたかったが、死んでからでも悪くないもんだ」
 少しだけ緩んだ彼の口元が、記憶の中の彼と重なって、心臓の奥が熱い。
 キミはここから去るんだね。
 太陽が昇ったら、テリオンはもういなくなってしまうのだろう。それが嫌で嫌で、もう一度抱き締めて腕の力を強めるけれども、私の手では彼を縛り付けることはできないことを知っている。
 私は彼が自由でいるのが好きだった。どんな風景も、どんな財宝も、どんな人も、何も彼を留めることなどできなくて、それが私には眩しく映った。だからこそ言えなかった。告げることができなかった。私はそうやって先延ばしにして、気が付いた時にはいつも手遅れになっている。
 今だって、もっと早く気付けたら、もっとキミといられただろうに、なんて後悔している。
「テリオン、私にキスをして」
 言った後に、怒るだろうか、とまたしても思ったけれど、彼は少し目を泳がせただけだ。恥ずかしいのか、「一度だけだからな」と前置きをする。
「一度だけだなんて嫌だよ」
「せっつくな」
「何度でもしたい」
「ああ、もう」
 窘めるように私の唇をなぞる指の、ざらりとした感触。そのあと触れた彼の唇の、体温などあるはずがないのに感じた熱さは花火のようで、一瞬で消えてしまったけれど、「もう一度」と頼むと彼は再びキスを恵んでくれた。
 夜が過ぎ去って、朝が彼を連れていくまで、私達はキスをした。何度も何度も。彼を感じられるのが嬉しくて、哀しくて、瞼の隙間から生ぬるいものが溢れてきても、私は止められなかった。テリオンの親指がそれを拭って、どうしたものか、と困ったような顔をするので、またキスをせがんだ。泣き顔よりも、もっと別のものを彼に覚えていてほしかった。私の存在。私のすべて。私が、キミに渡せなかったものについて。
 この行為が、肉体のないテリオンの記憶に残るのか分からない。誰も証明できない。何故なら彼は幽霊なのだ。私だけが、彼を知っている。
 だが彼はきっと、忘れないでいてくれるだろうと思う。かつての記憶を忘れられなかった私のように、密やかに、宝箱の中にしまうように、残しておいてくれるだろう。それが、限りなく願いに近いものであっても、きっと。
 カーテンの奥に光が溜まっていく気配がする。もう少し、もう少しだけ私の前から離れないで、と祈るけれど、そんなものは通用しない。羽が触れたような感触を最後に、朝が私達の間に訪れて、そうっと瞼を開けると、再び世界に取り残された私がいるだけであった。
[newpage]
 半年も経てば季節は様変わりし、鬱陶しい日差しは隠れて、この国では曇りか雪かばかりの日々が続く。身体の暖はトレンチコートで足りているが、首元が少し寒く感じて、マフラーを整えた。中央駅のホームは日曜の早朝ということもあって人はまばらだ。観光客か、私のように明日からの仕事に向けて出発する者か、粗方その二つに分類される。
 前に立つ若者二人は前者か後者か。ギターだろうか、一人は黒く細長い荷物を背負っている。もう一人のほうが話す「次の曲のこと考えてきたか」とか「雑誌の取材日は忘れてないだろうな」などという声に対し、ギターを背負うほうが適当に頷き返しているのが、二人の関係性を表していて興味深い。フードを被っているからよく分からないが、背負っているものと会話の内容から察するに、どこかのミュージシャンかもしれない。しかし私はそういう系統にはめっぽう疎く、俳優でさえ分からないので、有名人であったとしても知り得ないだろう。数ヶ月前もテレビでだったか、事故で昏睡状態だった有名人が奇跡的に息を吹き返したという、それはそれは感動的なニュースが流れていた気がするが、興味がなくて見ることさえしなかったくらいだから。
 私にはもう、そんな奇跡は起きない。
 高速列車を待つまでの間、その会話を盗み聞きさせてもらっていたのだが、あと五分ほどで終わりかと思うと少しの物足りなさを感じる。学校の生徒達を見ていると、オルステラの記憶がありありと浮かんできて、真綿で首を締めるように私を苦しめた。そのせいで夏からずっと仕事に身が入らず、かといって職を変えるのも踏ん切りがつかなくて、明日から暫くの間、地方都市の学会に参加することになっていた。少し環境を変えて気分転換でも、という同僚の勧めだ。道を歩いていても上の空であったから、見ず知らずの他人であるが、こうして誰かの話をゆっくり聞くのは久し振りである気がした。
 半年前、テリオンが消えてしまってから、私の時は一向に進んでいない。来る日も来る日も彼のことを考え、彼の言葉を思い出し、あの頃を夢に見ないかと眠りにつくが、オルステラの日々を見ることは二度となかった。夏が終わり、秋になり、冬が来ても、周りだけがひとりでに動いているみたいに取り残されている。それでもいつかまた夢に見ることができないかと願ってしまうのは、私がかつてのサイラス・オルブライトだからなのか、それともその記憶を引き継いでいるだけの、ただのサイラスだからなのか、もう判別することはできない。
 高速列車の到着を知らせるアナウンスがホームに響いた。私の列車はこの次だから、まだ時間があるのだが、座っているのも落ち着かなくて立ったままでいた。
 妙なことに、数分前から視界の端、向かいのホームにいる人達(こちらと同じくまばらなそれ)が、何やら私のほうを指さしているのに気付く。周りに何かあったか、と見渡してみるが何もない。不審物や、あるいは不審者がいるわけでもない。しかしこちらを見ながら密談のように話しているので、何ともいたたまれない。
 その時だった。
 瞬間、私の視界がぐるりと回転した。百八十度。自分の意思とは無関係に動かされた足が絡まりそうになるところを、何とか踏ん張る。先ほどまで向かいのホームを見ていたはずであるのに、今や自分が元いた場所を見ている。線路は私の背後だ。私の腕は誰かに掴まれている。え、と混乱のなか確認すると、先ほどまで前に立っていたギターの人が、私の左腕を掴んでいるではないか! しかも力強くて、正直少し痛い。
 私は瞬きの間に、その人物と入れ替わっていたのだ。何故?
「あんた背が高いから、盾になってくれ」
 フードの奥から声がした。若い、青年のようだ。数分前まで、隣の人に適当な返事を返していたのが嘘であるかのように、雲の消え去った空のような明瞭さではっきりと言葉を放つ。
 あ、と呆けた声が出た。
 私はこの声の主を、よく知っている。
 間を置かずに列車がやってくる。私の背後に滑り込む。風が舞い起こって、私の髪を荒々しく揺らした。列車が向かいのホームとの間に城壁を作る。それを合図に青年の手が離れる。
「助かった」
 後ろで、列車の扉が開いた。短い礼を述べて、青年が私の横を通り過ぎていく。同じく、彼の連れが「悪ぃ、あいつちょっと勝手なところがあってよ」と詫びていくのを耳にしながら、どうしてここまで耳に馴染む声が二つもするのだろうか、と頭の片隅で考えていた。
 いや、考えるまでもない。本能が告げている。
 私が、彼らの声を、私の奥底に染み込んだ声を、深く深く覚えているからだ。
 一等車両に乗った彼らを、慌てて目で追う。乗り込んだ後、ギターを降ろした彼――私の腕を掴んだ青年が、座席に腰かけてフードを下ろすのを、コマ送りの映画のように捉える。
 そういえば、数ヶ月前に一命を取り留めたという有名人は、ミュージシャンだった。歳はいくつだったか。ニュースで聞く前にテレビを消したから分からない。でも若かったはずだ。
 確かその頃はまだ夏で、私の前からテリオンが姿を消した少し後で――。
 車両の窓越しに目が合う。光が反射する、冬の吐息のような特徴的な髪色。窓の縁に頬杖をついて、僅かに口角を上げて、私を見る。

 テリオン。
 キミは、そこにいるのかい。

 列車の扉が閉まる。彼の視線が外される。出発し、彼が少しずつ遠ざかっていく。朝靄の中へほどけていくように、小さくなっていく車両を、私はいつまでも見送っていた。
 向かいのホームでは、あれはそうに違いない、とか何とかざわついていたが、それも一時で、ホームは間もなく静けさを取り戻した。次の列車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。次は十分後、十分後です。左から右へと流れる案内の声は、ひどく非現実的だ。
 彼が触れた左腕を、そうっと撫でる。そこから私の内部へ根を張るように、じわじわと、熱が拡がっていく。
 テリオン、キミはそこで生きているのか。鼓動を打ち鳴らし、血潮を巡らせて、誰にも妨げられない足で、またどこかへ行ってしまうのか。谷間を吹き抜ける風のように、キミはいつも前触れなく去ってしまうから。それがキミだったから。
 けれども、そこにいるのなら。それならば私はようやくこの場所に、私の価値を認めることができる。私も、ここにいてもいいんじゃないか、って。
 針が動き出す。私の中で、時が進む。
 キミと同じように、私もまた、遠い記憶とは違う道を歩み続けるだろう。枝分かれした可能性のひとつを、あったかもしれない未来を、私達は互いに進んでいく。あの、盗賊テリオンと学者サイラスでなくたって、私達は私達で、ここで呼吸し、生きていく。
 そうしたらまたいつか、キミに会えるような幸運が舞い込んでくるだろうか? きっと私のことなんて知らないだろう。でも、もし会えたなら、今度こそは私の話をしよう。面白い話をしよう。あの夏の日、キミにできなかった私の話を。
 この、新しい世界のどこかで。



(了)畳む
anonymous
・転生ぽいようなそうでないような。
・行為を匂わす表現を含みます。
・読み手を選びそうな内容ですのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 不健康そうだな、と思った。一番最初に、彼を見た時だ。
 猫背で、手すりを前にだらしなく身体を預けている。日が暮れる直前の、夕焼けが染み込んだかのような服を着て、ふうっ、と煙をくゆらせていた。風がなくて静かな昼の胃袋へ、吐かれた煙がゆっくり拡散していく。それを眺めていた。講義前だった。
 一本どうだ?
 青年に声をかけられて、気付く。私は立ち止まっていたのだ。
「ああ、いや私は、吸わないんだ」
 そう手を顔の前で振ると、彼は「ふうん」とだけ言って、もたれかかったままで手招きした。小柄なのに態度がどこか尊大で、さながらライオンの子のような、可愛げがあるのに、迂闊に手を出すと噛まれてしまいそうな雰囲気をまとっている。
 しかし、その迂闊が、よもや私自身だとは思うまい。
 何かあるのだろうか。そうやって単に呼ばれたから近づいていったので、何も考えていなかったと言えばそれまでだが、私は小さな獣に歩み寄った。学内だから、とか、学生はみな真面目で素晴らしい精神の持ち主だ、などと油断していたのだ。
 青年の髪は脱色しているのか、一本残らず初雪のように白く、大丈夫なのか、と思った。何が大丈夫なのか、は分からないが。
 そうしてあと一歩で隣り合うというところで、突如、私の体は重心を失う。
 階段を踏み外したのかと思うくらい急激な落差。次いで、んぐ、と動物を踏み潰したような声が出た。正確には声になっておらず、息が逃げ場を失って悲鳴を上げただけである。
 シャツの襟元が、先ほど私を呼んだ青年によって掴まれ、引っ張られている。傍から見れば、私に掴みかかっているようにも見えるだろう。しかし喧嘩ではない、現に私は、彼の拳ではなく、唇を受け止めていたから。
 状況を把握するまでの間に――きっと一呼吸分だったと思うが――彼の唇の隙間から私の口内へ、煙が流れ込んできた。苦々しい。口から鼻へと抜ける匂いが。
 彼を押しのける。げほっげほっ、と情けなくむせた。喉が痛く、しかし少しだけ冷たくて(のちにそれがメンソールだということを知った)微々たる清涼感が舌に残る。
「いったい、げほっ、何を……」
 口元を拭う私をせせら笑うかのように、青年は、にや、と笑みを浮かべた。獲物を見定めたハンター、あるいは虐める相手を見つけた差別主義者のようだ。先ほどまで狩られる側だった動物が、今では狩る側に回っている。
「もっといるか?」
 無邪気で楽しげな声だった。
 結構だ! 立ち去りたくて踵を返す、それしかできなかった、秋口のある日。

 そんなことがあったのにもかかわらず、翌日、私は再びそこにいた。何故かと問われれば、通りかかったから、としか言えない。
 その場所は学内の端の、想定するに存在を忘れられたところにあって、その前を通らなければ目的の旧書庫に行けないのだ。旧書庫は私の活動拠点のようなものであるから、つまりその忘却の関所を越えないと、私は講師の仕事ができない。
 仕事ができず困るのはもとより、見知らぬ学生から嫌がらせ(と思っている)を受けて、私は講師といえども自分の立場を踏まえて青年を指導せねばならない、という使命に駆られていた。
 よって昨日と同時刻、その場所で待つことにしたのだった。
 改めて見ると、何もない場所である。
 人が四、五人いれば肩が当たってしまうくらいだ。手すりの下のほうには、雑草が有り余る生命力を声高に叫んでいる。灰皿もないことから、ここは喫煙所ではないのだろう。単なる隙間、忘れ去られた空白。欠落したページのように、ひっそり隠された場所。秘密基地のようだ、と子供じみたことを思う。
 ベンチなどあるわけがないので、昨日の青年同様、手すりにもたれて待っていた。
 しかしながら待ち人来らず。仕事もあるので、その日は一時間待って切り上げた。
 世の誰もが律儀だと笑うだろうが、次の日も、またその次の日も、関所を通過するたびに一時間、休憩と題して待っていたのだが、私以外の何者も来なかった。そもそもこのスペースに気付いたのも青年がいたからであって、それまで幾度となく通りかかっていたにもかかわらず気付けなかったのだ。私が気付かなくて、他の人間が気付けるだろうか? 旧書庫に立ち入ること自体が珍しいというのに。
 そうやって半月ほど、ねじ巻き人形のように、同じ行動を繰り返していたところである。
「……あんたか」
 やってきた青年の、まるでそこらへんの虫を相手にするような声に、少し落胆した。もしかしてここは青年の隠れ家で、占領されて気分を悪くしたのかもしれない。ならば失礼を詫びるべき――なのだが、その前に言っておかなければならないことがある。
「キミ、先日の行為は何かな」
「先日?」
 青年は視線を宙へと向けながら、ああ、と言った。「別に意味はない」その回答を腹立たしく思ったのは、齢三十年の大人にしては狭量すぎるだろうか。
「ああいうことは、見知らぬ人間にするものではないよ」
 手を差し出す。「一本くれないか」投げやりな言い方になったのは自覚していた。
「嫌煙家なんじゃないのか」
「そこまでは言っていない」
 嘘だ。私は煙草を好まない。匂いが身体中に染み付くし、煙は本をけがす。
 だが、一矢報いてやりたい、という塵芥以下の矜持が、私を駆り立てていた。
 青年が数歩近付く。黒いパーカーのポケットから小箱を取り出し「ほら」と差し出した。一本拝借。同じく渡されたライターで火を点ける。……すべて、先日見た映画の記憶をなぞったのだ。役者の猿真似だが、こんなところで役立つとは、つまらなくとも観た甲斐があったというもの。
 頑張ってくれ、私よ。
 慣れた風を装って、すうっと、煙を吸い込む。苦い。まずい。ああ、吐き出してしまいたい、今すぐ全部。
 むせる直前、青年の胸倉を掴む。相手は、勢いよく引っ張られバランスを崩す。その背を支えて(そうしなければ目的を達成できないので)先日の仕返しだと言わんばかりに口を合わせた。あたかも救助活動の人工呼吸で、その他一切の感情が入る余地などなく、ただ無理やり煙を与えるだけの行為。説教するだとか他にもやりようがあったはずであるのに、こうしたのは、目には目を歯には歯を、という昔の教えに従ったからだ。
 彼が私を押し返す。思いのほか強く、触れた背中は服越しでも分かるほどしっかりとしていて、人を見かけで判断してはいけないな、と自省した。
 ふうっ、と肺の中身をすべて出し切ってから、彼を解放した。まさしくこれは仕返しである。ぎらりと私を見上げる青年の悔しそうな目つきに、溜飲が少し下がった。
「分かるかな。キミにこうされて、とても苦しかったんだ。息が、まったくできない」
 そう述べると、眼前の視線が鳴りを潜めたように落ち着いて、ぱちぱちまばたきを繰り返す。そのまろい緑色が見え隠れする様が、まるで星の点滅のようだ。長い前髪に隠れて片目分しか見えないのが、少し残念だった。
 けれども直後、にや、とあの不敵な笑みを浮かべて、前言撤回。先ほどのは点滅ではなく秒読みなのだ、と思い直す。
「もっといるか?」
 ああ、地獄行きへのカウントダウンが始まった。



「テリオン、いつもの」
「俺はバーテンダーか」
「ある意味的を射ているね。私が注文すれば、キミは欲しいものを出してくれる」
 ソファに寝そべっていたテリオンの、じと、という視線が投げられた。それを右から左へといなす。
「一五〇点てところか」
「なんだい?」
「おたくの点数」
「それは何点満点で? 何が基準なのか教えてくれたまえ」
「さあな。……ほら」
 呼ばれて駆け寄った私の髪を、彼の手が梳いた。ペットをあやすような手つきだ。
 それから髪へ、頬へ、唇へキス。触れるだけのキスは、物足りない。
「満足か?」
「うん、とても満足だとは言えない」
 言うと、彼の目がさらにじとりとした。呆れられている。
 あれから間もなく知ったことだが、彼、テリオンは学生ではなかった。大学の授業を無断聴講していた一般人だ。
 どうしてあんな場所にいたのか、と問えば「用事があった」とのこと。その用事が何なのか、教えてはくれなかった。私達は――厳密には、私が彼を呼び『相手をしてもらっている』間は、そういう野暮な話は無しにしている。
 テリオンが何をしていて、どう生活しているのか、詳しく知らない。彼の私生活について知っているのは連絡先くらいで、呼べばいつだって来てくれる。連絡しても返事はない。だが彼は必ず来る。そういう間柄だった。
「左様ならば」
「……なんだ?」
「という挨拶がある。ある国の、別れの挨拶だ。今では『さよなら』と言われているらしいが、これは後に続く言葉が省略された形で、『左様ならば』何々、という意味だそうだよ」
「だから?」
「別れの挨拶なのに、続きがあるなんて、情緒的だと思わないかい」
「別に。挨拶はただの挨拶だ」
「キミらしいね。さて、テリオン」
「……どうした、改まって」
「左様ならば、セックスしよう」
 馬乗りになって、彼へキスをした。
 つまり、私は彼にずぶずぶ嵌まった、駄目な大人に成り下がったわけだ。

 彼の肉体は洗練されている。小柄ではあるが筋肉がついていて、触れるとしなるような弾力がある。私は彼の肉体に触れている時、あたかも芸術作品を鑑賞しているかのような奇妙な感覚に陥る。深く鑑賞すればするほど、さらに美しさが増すように思えるのだ。
 嫌がらせのキスをきっかけに、彼は私に会いに来ることが多くなった。というのは私の贔屓目だろうか。ともかく、私があの『空白の空間』に滞在中に、彼の来訪が重なることが増えたことは、紛れもない事実だった。
 最初は憎まれ口をたたいたり、他愛もないことを話していた。煙草に詳しくなかったので、銘柄や種類について訊ねてみたり。次には、この場所を知った経緯を。他には、ただよう金木犀の香りについてだとか。
 それから、何故授業をひっそりと聴いているのか。本校でなくとも、知識を得る場はいくらでもあるのに。
 訊ねると、彼はこぼした。
「知る必要があるから」
 思い出話をしているかのように、柔らかく、思慕に満ちた声で、何かをなぞっていた。
 その先には、何が見えているのだろう。何に対しても興味がなさそうなキミに、そんな顔をさせるのは誰だ? 私のあずかり知らぬ恋人か、もしくはこの世の機巧か。
 嫉妬した。
 嫉妬して、割り入ってしまいたかった。彼の表情を、私でも変えることができるのか試したかった。
 思ったら、止められない。人間は生きている限り、自らの内なる声に従い行動する生物だ。それが欲に塗れたものであればあるほど、障壁は低くなる。
 そんな目で見るな。
 そう言われて初めて、自分がいかに彼を見つめていたか気付いた。
「……私は、どんな目をしているかな」
「俺とやりたそうな目」
「冗談を。そもそもキミは男性だ」
「なら、試してみればいい」
 またあの笑みで、彼が私を捉える。
 証明してみせろ。
 その声に導かれ、彼に近寄る。催眠術でもかけられたような気分だった。手を動かせ、俺に触れろ。そんな声さえ聞こえる。気が付けば、何度も口付けていた。口付けたあと、自分の愚かしさに辟易した。あの『煙の交換』以来のそれは、相変わらず苦々しく、動物の交尾のように激しく、絡ませてくれる舌が底抜けに気持ち良くて、はっきり言って真っ昼間から非常に欲情した。
 おさまらなくなった私の欲望を笑いながら、彼の目が楽しそうに弧を描く。
「もっといるか?」
 私は望んで、今のような関係に持ち込んだのだ。

「今度、私の講義を聴いておくれよ」
「は……?」
 裸になった彼の、首筋から耳の後ろへと指をすべらせる。私の下で、身をよじるテリオンのうなじを舐めると、う、と短い声が上がった。
「キミ、一度も聴いたことがないだろう」
 知っていた。テリオンが私の講義にだけ、足を運んでくれないことを。
「こういう関係の人間を出席させるのは、歪んだ性癖だと思うがな」
「はは、そうかもしれないね。講義中に、キミばかり見つめてしまうかも。授業にならない」
「そんなだから、行かないんだ」
「でも、どうしてだい。考古学は面白みに欠けるのかな」
 その理由を知らなくとも、私はこれからも同じような関係を続けるだろう。しかし今日は、なんとなく訊いてみたいと思った。外は今朝からずっと雨であるし、テリオンは来ると決まって、一晩だけであるが、私のマンションに泊まっていく。きっとこのあとも、私に抱かれて、そのまま眠ってしまうのだろう。彼の事情を探りたかったのではなくて、起きているうちに、もう少し会話をしたかった。その延長線。
 だが失敗した。それ以上は何も言わずに、ただ私を抱き寄せ、柔らかなキスを恵み、彼は言う。
「知らないほうが良いこともある。そう習わなかったのか? なあ、『先生』――」
 そういう、底知れぬ湖のような存在だから、私は彼から逃げることができない。
 彼を抱いている間、私は地獄の中で喘いでいる。だが同時に、私の心にはある種の幸福が去来していた。テリオンを前にすると、何もかもほったらかして彼を存分に味わいたいような、貪りたい欲求と、私にだけは特別な何か――感情だとかを持ってほしいと切望する。そこへ、何も望むべきではない、と冷静な自分がやってきて、沸騰した湯の中へ大量の氷をどばどば入れたような、混ぜこぜの感情に溺れてしまう。みずみずしく甘い果実の表皮を愛撫しながら、頬張り、溢れ、滴り落ちる一滴一滴までも味わいたくなる。
 私達は明日もこうしている。多分、恐らく。
 では、その次は?
「……テリオン、太陽はね、あと五〇億年と少しで、なくなってしまうんだよ」
 身体中に熱が駆け巡り、暴れるのを抑えながら、ふと、先日読んだ本のことを口にした。太陽の寿命は、そろそろ折り返し地点に差し掛かっている。
 太陽がなくなるその頃には、当然私達は存在せず、地球もどうなっているのか分からない。けれども太陽が、世界が、我々が消えてなくなってしまっても、テリオンとは――なんだろうか、私は。何を望んでいるのだろう。
 彼は、呼吸を荒くして私の欲に応えている。茫々とした瞳に、果たして私は映っているのだろうか。萌ゆる緑の色は濃くて、その奥を覗き見ることが叶わない。
「そんなことより、早くいけ」
 ごもっとも。



 止まれ、お前はいかにも美しいから。
「なんだそれは」テリオンが隣で呟く。喉を疲弊させた後の、掠れた声も好きだ。こうして月に数回、彼と自堕落な日を過ごすようになって、一年ほど経つだろうか。相変わらず彼は来てくれる。反対に、彼から呼ばれたことは一度もなかった。
 それを打ち消すように、あるいは少しずつ冷えつつある世界を押し返すかのように、私は彼を抱いた。
「『ファウスト』の……ええと、ゲーテという文豪が書いた長編作の、一節だよ。ある男が、時、つまり今この瞬間に向けて言った台詞だ」
「……知らんな」
「ファウストは、悪魔に対して魂を売る契約を交わすんだ。私がある刹那に向かって、『お前は美しい』と言ったならば、私の魂を刈ってもいい、滅びてもいい――とね。引き換えに、自分は若返って人生をやり直すのさ」
「人生を、やり直す、か――」
 おや。
 テリオンが興味を持ってくれたのが嬉しくて、私は続ける。
「現実には、時は止まらないのだけれどね。ああ、時間と空間についてはアインシュタインの相対性理論が有名だが、それには特殊相対性理論と一般相対性理論の違いから話したほうが」
「長くなりそうだ、やめろ」
 これは、と思ったが、私の悪い癖が出て、すぐに打ち切られてしまった。
「……ああ、どちらも非常に長い話になるからやめておこう」
「そうしてくれ」
「しかし今キミは、新しいことを二つ知ったということだね」
「そうなるな……なんだ」
 ふふ、とつい声に出して笑ってしまったので、テリオンが眉をひそめた。「キミを笑ったのではないよ、拗ねないでおくれ」頭を撫でると、目を細めてそのまま枕へ突っ伏す。
 私はいま、自分の一部を彼と積算し、新たな共通項を創り出したのだ。これが嬉しくないわけがない!
 人はみな、異なる領域に描かれた円環だ。一つとして同じものはない。彼もまた、私と違う場所に描かれた円であるが、その一部分はさながら論理積のように重なり合っている。時間や会話がその代表だ。異なる円がふたつ寄り合う瞬間に、私は彼を知った気になれた。歓喜した。
 ――ここ最近、キミと過ごす時が永遠であればと思うことがある。そう言ったら笑うだろうか。
 まるで私は、あの作中の、悪魔メフィスト・フェレスに魂を売るファウストだ。この時を享受し、手中におさめることができるなら、魂など易々と受け渡すだろう。ただしその時、筋書きどおり、刹那が最上に美しいものでなくてはならない。であれば、最上に美しい刹那とはいつのことを示すか? 答えてみよ。
 全てだ。
 全ての時は美しい。テリオンの存在が、時の輪郭を鮮明に浮かび上がらせる。時間が一瞬間の連続であるならば、それらは七色にきらめきながら途切れなく降り注ぐ、スペクトルの雪だ。彼は未来永劫触れることのできない理を、プリズムへ経由させたように可視化して、私へと差し出してくれる。
 それを手にできることの、なんという幸福感。
 最初の頃に感じていたものとはまるで違って、夢魔が女神へと生まれ変わるかのごとく鮮やかに変貌し、私の前に現れた。私はその手から幸福を受け取り、咀嚼する。テリオンといる時、毎度そんな感覚に襲われて、私の精神はいつもおぼつかない足取りで彼を求めていた。
「あんたは、いつもそうやって何か言ってるな。こないだは、理想郷の話をしていた」
 くぐもった声で、テリオンが話す。
「ユートピアのことかな。トマス・モアの」
「それだ。……まるで、この世のすべてを知っている、って感じだ。生き字引とは、あんたのことかもな」
「嬉しいことを言ってくれるね」
 事実、嬉しい。テリオンは私の話に興味がないのではないか、そう思っていたから。
「こんなことが、嬉しいのか」
 うつ伏せのまま顔だけ向けて、テリオンが訊ねた。頷きながら、剥き出しの肩へとブランケットを掛けてやる。包まる彼の、少し幼く見える表情が、それを見れることがまた嬉しかった。
「キミが覚えていてくれることが嬉しいんだ。私の言った、キミにとって価値のない事柄であっても、キミの中に残しておいてくれたことが」
 そう言った時、彼の目尻に、再びあの感情が滲み出た。私ではない誰かを見ているあの色合いが、彗星のように表れて、瞬く間に消える。
「……そうか」
 消えたその破片を探して、彼に訊ねられれば良かったのかもしれない。背を向けた彼を、抱き締められれば良かったのかもしれない。
 だが私には、彼がそれ以上の重なりを恐れているように見えた。それが私の手をためらわせた。私の講義にだけは来てくれない、その理由を訊ねた時、僅かではあったが同じ感情を浮かべていたことを思い出す。
 目尻からこぼれ落ちそうなそれを舌で拭ったら、その正体を掴めるのではないか――想像するが、ありていに言えば勇気がなくて、またそれ以上知ってしまえば、もう会えなくなるような予感がした。
 ファウストのように、すべてが終わって、時計の針が落ちる気がしていた。

 翌日。テリオンが帰ったあと、仕事関係のメールをチェックした。すると、友人から久方ぶりにメールが届いており、驚く。
 本文には、ユキヒョウ保護活動についての進捗報告と、人手が足りないとのこと。
『――こちらは警戒心の強いユキヒョウになかなか接触できないでいる。人が立ち入らない場所に生息していることもあって、毎日が開拓者の気分だ。
 だが密猟者退治に必要な車両を、あなたの知り合いが寄付してくれたおかげで、移動も監視もしやすくなった。
 私のことを紹介してくれてありがとう。感謝する。
 ところで前述の件だが、私の所属する団体で職員の欠員が出た。誰か心当たりはないだろうか?
 常勤でなくてもよい。ただ必ず、尻尾を巻いて逃げるような輩ではないこと。もし候補者がいれば連絡を求む。
 敬意を込めて ハンイットより――』
 ハンイット君は、海外を拠点にユキヒョウ保護に尽力している獣医学者だ。以前、動物の化石について研究をしていた折に知り合ったのだが、若くして博識で、動物への愛にあふれた、何よりその勇敢さ(特に眼光の鋭さに表れていると思う)を持つ彼女には敬服せずにはいられない。
 昨年からはユキヒョウの生息地近くに拠点を構え、時折メールで報告をくれる。現地は辛うじて回線が繋がっているエリアがある程度で、不便な地を行き交って遊牧民のような生活を送る彼女は、いつ帰国するか分からない身の上だった。
 次に戻ってきた時には、テリオンの話をしようか、と思った。無論、彼との関係をどうのこうの告白するつもりは毛頭なくて、欠員補充について、もし私でも良ければ挙手する、という話だ。
 かねてから、私は動物考古学をより深めたいと願っていた。動物考古学は、古き時代の人々を知るために大変良いアプローチ方法である。人間についてより深く知ること。それはどこか、私自身を知ることのように感じられたから。
 我々は何処から来て何処へ向かうのか。そんな名画があったな、と思い出しながら、ブラウザで地図を開く。
 ハンイット君の活動拠点を検索、表示。
 そこからそれほど遠くない(と言っても車と飛行機での移動が必要だが)場所に、大きな自然保護区がある。前々からそこの発掘調査に興味があった。現在、私が時間にそれほど拘束されない、講師職で働いている理由でもある。来年には講師を辞めて、発掘調査へ加わりたいと考えていたところだ。
 それがテリオンと出会うまでの、私の未来絵図だった。
 今は、テリオンを置いて去るのが、心苦しい。勝手なものだと思う。
 私が去ったとしても、彼は一人ではないかもしれない。私のもとから家へと帰ったら、誰かが待っていて、その誰かと過ごしているのかもしれない。
 私に抱かれた身体で、誰かを抱くのだろうか。
 私がいなくなったら彼は、またあの忘れ去られた場所で、ぼんやりと一人過ごすのだろうか。
 次々と浮かび上がる想像図の、そのどれもが私に嫌悪感を抱かせる。
 私の中に停滞する感情は、間違いなく、彼に惹かれていることを裏付ける。まさか欲望が化学反応を起こして、恋愛に変化したであるとか、そんな訳はない。
 肉体関係があろうがなかろうが、きっと私は、彼を強く求めたのだろう。
 引力に従って林檎が落ちるように、あるいは明日が必ずやってくるように、疑いようもない自明の理として、彼に引き寄せられる。こんなことは、溺れた者の世迷い言だろうか。
 椅子に体重を預けて、目を閉じる。するとすぐさまテリオンが浮かんで、私の誘いに手を伸ばす様が投影される。コマ送りの映画のように次々と場面が切り替わって、次はベランダで煙草を吸う姿。その次は、私のマンションから出ていく前に、一杯だけコーヒーを飲んで休む姿。その次は、私のつまらない話を聞き流しながら、小さく相槌を打つ姿――。
 思い出すたびに、彼が、非常に思慮深い一面を持っていることが分かる。
 自分から踏み込んでこないのは、人との距離の取り方であったり、何処まで踏み込んでよいかを思案しているからだ。縄張りに自分が入れるかどうかを、ゆっくりと、慎重に確認している。
 彼は常に思考実験をしながら、私と向き合っているのだ。
 そこには必ず線引きがされていて、私達はそれぞれの国境を飛び越えることなく、互いの手の内を探り合う。私はテリオンのことを、テリオンは私のことを考えながら行われるそれが、嬉しく、心地よい。
 けれども、今なら。
 その向こう側――最も深い彼だけの領域――へと、手を伸ばしてもよいのではないか。許してくれるのではないか。その次、その次、と望んでしまう私を、受け入れてくれるのではないか。そう信じそうになってしまう。たとえ都合の良い、でっちあげだとしても。
 だからこそ彼には、どうしても、口に出せなかった。キミを離したくない、だとか、私の恋人になってほしい、だなんて言葉を、欲から手を出した私が言える立場ではない。それでも彼といたくて、そのままずるずると続けてしまって、この体たらく。
 自分が吐いた息は、予想以上に深いものとなった。振り切るように、メールの返信画面を起動する。
『私で良ければ挙手する。しかし、心残りがある――』
 物語には、いつかピリオドが打たれるものだ。私は書き始めてしまった彼との関係に対して、うまくピリオドを打てるのか。それとも。



 かぐわしい香りが、店を満たしている。だが私の指はこれっぽっちも動かなかった。銅像のように固まって、目の前に置かれた鹿肉をじいっと眺めている。
「あなたのそのような表情は、久々に見る」
 ハンイット君が、皿の上で鹿肉のローストを一口分、綺麗に切り分けた。ナイフの使い方を知り尽くした手だ。口に運んで、「うん、美味しいぞ」と満足げに微笑む。艶やかな髪を三つ編みに束ね、グレーのパンツスーツを着こなす彼女は、さながら歌劇の主役のようだ。
 その前でくたびれた男が一人。
「それで、本気なのか」
「……え? 何がだい?」
「うちで働くという話だ」
 そうだった。
 ハンイット君に返信した直後、「来月一時帰国することになった。師匠が帰ってくるらしい」と再度連絡があったのだ。師匠というのは彼女の、文字どおり師にあたる男性で、彼女とは別の国で狩猟生活をしていると聞いた。その人物は滅多に帰国しないので、この機会を逃すまいと彼女も帰国を決断したらしかった。
 そのついでに、食事でもどうか、と誘ったのだ。まだ、テリオンに告げる前だった。
「本気、だったよ。キミにメールした時は」
 三日前のことを思い出すと、心臓を握りつぶされているかのように苦しくなる。

「終わりにしようと思うんだ」
 いつも通り、呼び出した私の部屋。その前の、玄関口。靴を履いたままのテリオンが動きを止めた。
 ああ、言ってしまったな。
 口にした瞬間、苦々しいものが広がった。煙草の味よりも不味く、飲み込むことが難しい、嫌な味だ。
「……ああ、もう飽きたってか。分かった」
「そういう意味ではないよ」
「なら、どういう意味だ」
「今度、海外へ行くんだ。長期間。新しい仕事でね」
 断定表現にしたのは、自分への戒めだった。中途半端なままでいる自分を叱咤するためでもあった。
 けれども後悔した。テリオンが眉をひそめ、目を伏せたからだ。私にとってこの上なく衝撃的だった。彼のそのような表情を見たのは、これが初めてだったから。
 裏切られたような、絶望したような、宝物を失ったような。
 直後、見間違いだったのかと思うほど、瞬きしている間に、彼は先ほどまで表れていた表情を隠した。ただ「そうか」とだけ呟き、空気を震わせたかどうか分からないほど、微かな声を出す。
 あんたも俺を置いていくんだな。
 聞き取れたのは、私であったからだろう。その一言が、雨の雫が落ちて水たまりに波紋が広がるように、私の中をぐわんとかき乱す。
「どういう意味だい」
 今度は私が聞き返す番だった。しまった、とばかりにテリオンは顔を背ける。
「何でもない」
「何でもないわけがないだろう」かぶりを振る彼の腕を掴む。「放せ」「テリオン!」何故キミはそんな顔をするのか。今にもわあわあと溢れそうな心を抱えて、どうして一人で。
「放せと言っている!」
 より強く振りほどかれ、その反動で一歩下がる。
 彼を見る。あの目だ。
 彗星が降ってくる。
 キミはいつもひとりで、誰を想っているのだろう。私の奥に、別の誰かを透かして見るような、その目を見るたびに私は寂しい。
「――いつだ」
「え?」
「いつ、出発する」
 怒っているのか、低い声だった。ライオンが唸っている。彗星は消えてしまった。
「あ……ああ。一か月後だよ」
「分かった。見送りはしてやる」
 それだけ言って、テリオンは玄関のドアノブに手をかけた。「待ってくれ、まだ話があるんだ」「俺にはない。じゃあな」扉が開き、彼が出ていく。ゆっくりと閉じられ、遠ざかる足音のあとに、がちゃん。幕切れの音がした。
 私はピリオドすら打てなかったのだ。
 私は私を、どう説明すれば良かったのだろう。私達の関係を、どう区切れば正解だったのだろう。
 彼とは、さよなら、だけではいけないのに。
 左様ならば、左様ならば――。
 別れの言葉を反芻する。続けることは難しい。
 円が交差し、そのまま進めば、いつか離れる。離れるときはいつも、さよならだけで済ませたものを。

「心残りがあると言っていたな。今は?」
 ハンイット君との問答は続く。
「今も。……迷っていると言ったほうが、正しいんだろうね。すまない」
「あなたにしては、はっきりしない物言いだ」
 また一口、肉を食す。その所作の美しさたるや。しかし、指先にはいくつもの生傷があった。手首からは包帯が覗いている。彼女の普段の生活が、私といかに異なるかを示している。
「その『心残り』とやらは? 迷っている理由はなんだ?」
 即答できなかった。彼女と会ったら話そうと思っていたことがあったはずなのに、どれも説明し始めると陳腐な与太話になってしまいそうで、口にできない。
「無理に問い詰めるつもりはない。ただ、生半可な気持ちで来てもらっては困る。お互いの幸せのためだ」
「幸せ、かい」
「そうだ」
 彼女のフォークが、鹿肉の表面をつい、と撫でた。
「私は動物を保護する職業に就きながら、今、動物を食べている。これは矛盾した行為だと思うか?」
「いや、生きるために食すのだから、仕方のないことだと思うよ」
 小さく頷き、彼女は続ける。
「ユキヒョウは保護すべき種だが、一方で家畜を襲い、害獣として扱われている地域もある」
 また一口、切り分けられた肉が彼女の口元へ運ばれる。噛み砕かれて、彼女の中へ飲み込まれていく。
「私が思うに」
 ナイフとフォークを置き、彼女の口が、子供を窘めるかのごとく呟いた。
「価値は人それぞれ異なる。立場が変わればその重みも変わる。一辺倒で答えは出ないものだ。時々あなたは、考えすぎる節がある」
 学者とはそういうものか? 腕を組んで、ハンイット君は、ふう、と溜息にもならない息を吐いた。
 けれどもその言葉に、忘れていた原理原則を思い出す。
「――キミの言わんとしていることが分かったよ。何事も多角的に見なくてはいけない。それが思考の基本だったね」
「そういうことだ」
 彼女が「うむ」と頷く。
 例えばここにひとつの数式があったとして、その解もひとつしか得られないとする。イコールで結ばれる、数式の基本形だ。
 ここへ、私と私の幸福を、テリオンと彼の幸福を当てはめたら、果たしてその解はひとつだろうか?
 ノーだ。
 幸福には答えがない。数式は常に変化する。あてがう値も……まるでトリックアートだ。そんなものを、どうやってはじき出せばよいだろう? 私が幸福と感じるものが、テリオンのそれとは限らないのに?
 しかし、だからこそ私は、その答えを導き出したい。
 つまり、だ。
 考えていても仕方があるまい。こうして考えている暇があれば行動せよ。窮すれば通ず。
 失礼、とハンイット君へ断りを入れて、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージ画面を起動。見慣れた名前を選択。
『来週、出発前にキミと話がしたいんだ。一週間後の午前八時に、待っているから。』
 送信。
 返事はない。いつも。どれだけ待っていようとも。
 それでも彼はやってくる。何も言わず、ただ私に会いに来る。
 きっと、待ち合わせ場所に私がいなかったとしても、彼は永遠に待っているのだろう。私の部屋の前で、あの空白の場所で、待ちぼうけを食らったまま、ずっとひとりで。
 私は来週、この国を発つことになっている。
 それまでに、互いに手の内を探り合って、今度こそ私にカードを見せてくれるだろうか。

「時にハンイット君。幸福とはどういう状態を指すのだろうね」
「言葉遊びか?」
「かもしれない。キミはどう思う?」
 食事の終わり。デセールの最後の一口を頬張って、ハンイット君が答える。
「明日を欲すること」
 静かな言葉だった。古い詩を読み上げているようでもある。
「明日を、かい?」
「自然界では、動物はただ生き延びることを目的としている。幸せだとかそうでないとか、考えることはない」
「そうだね。ライオンは弱者を食らい、象はハンターから逃げる」
「だが人間は、思考する。今日が昨日よりも幸か不幸か、あるいは明日が今日よりも良い日になってほしいだとか。そう思うことが、既に幸福なのではないか?」
「成程。――そこに、自分の独りよがりで幸福を求める人間がいたら、悪だと思うかい」
「思わない。人は生来、幸福を追い求める生き物だ」
「思考し、悩み、後悔してまでも、明日を切望する、ということか」
 そう思い至って、私の中で、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
「そうだ。……ん? なんだ、いつもの調子が戻ってきたじゃないか。何を迷っていたんだ? 『心残り』とは?」
「迷っていたよ。先ほどまではね。でも、解決した。キミに相談して良かった。自分で自分の首を絞めていたのだよ、愚かな男だと笑ってくれ」
「私は相談された覚えはないぞ」
 私の言葉に、ハンイット君は首をかしげるばかり。
 心底思う。人間はどうしようもない生き物だ。しかし、だからといって、それが幸福を求めない理由にはならない。
 私は、テリオンとの明日を渇望しているのだ。
「それよりも、ほら。肉料理も食べていなかったじゃないか。せっかく誘ってくれたのに。食べなければ、今日ですら生き抜けないぞ」
 手つかずのデセールとともに私を叱りつける彼女は、まるで母親だ。「ああ、すまない。気を遣わせて」まったくもって、申し訳ない。
 食べよう。来週には戦いが待っている。



 宣言どおり、テリオンはやってきた。いつもなら彼が部屋を出ていく時間、あの日と同じ夕焼け色の服が、朝日の中で彼を包んでいた。そこだけが黄昏だった。
 玄関先、動かず対峙する彼へ語りかける。
「テリオン、入っておいで」
 開いたままの扉が、空間ごと彼を四角く浮かび上がらせていた。そのまますっぱりと、私のもとから切り離してしまいそうだ。
「あんたはもうすぐ、飛行機に乗るんだろう」
 視線を落としたままで、彼が呟いた。ひこうき、という単語が、言い慣れないみたいに揺れていた。
「そうだけど、まだ時間はあるよ。私はキミと話がしたいんだ」
「前にも言ったが、俺には話すことは何もない」
「私にはある」
 テリオンの左手を掴む。そのままぐっと引っ張って、無理やり、私の縄張りへと連れ込む。
「おい!」
「すまない」
 後ろで扉が閉じていく。ぽっかり空いた縦長の長方形が無くなって、テリオンが私と同じ場所に立つ。がちゃん。開始の合図。
「――この一ヶ月間、考えていたんだ」
 私の円に彼の円が近付いて、重なる。
「キミは何故あの時、私に声を掛けてくれたのかって」
「あの時……?」
「キミと、初めて会った日だよ」
 フラッシュバックする。ぼうっと煙草を吸っていた、あの姿。煙を吐き出して、此処ではない何処かを見ていたキミを、どれくらい眺めていただろうか。
 キミはその煙で、何をかき消そうとしていたんだろう。
 テリオンは何も言わない。ただ、ずっと俯いていた。
 掌のなかの手首。こんなに細く感じたことが、今まであっただろうか。
「もし、そこに理由があったとして……だったら、何だって言うんだ」
 ようやく聞こえた声は、語尾にあの彗星の尾を引っ掛けているように思えた。「らしくもない」そう零す。
 私らしさとは、どんなものなのだろう。私という人間は、キミにとって、どんな存在に見える?
「テリオン」
 私という個体を映し出して、その湖の中へ引きずり込んでくれ。
「キミに私がどう映っているのか、知りたい」
 力を込める。彼が強張るのが伝わってくる。
「来月、一度帰国するんだ。その時に再び会ってほしい。今から私と、約束をしてくれないかい」
「約束……?」
「私はキミが、何処に住んでいて、これまで何をしていて、何が好きで、何が嫌いか。キミのことを、何も知らなかったね」
 それはキミのやさしさだったのかもしれない。でも、それでは私は、ずっと寂しいままだ。
 私はキミの後ろにたなびく光をたどりたい。その先でキミを探したい。
 あの日、キミが煙の向こう側へ見ていたものを、私も共に見たいのだ。
「戻ってきたら、会いに行くから。教えてほしいんだ。話をしよう、たくさん。その次も、またその次も、私と約束してほしい。だから――」

 だからいつか、その瞳が見つめる誰かへ、もういい、と告げられたら。
 私の手をとってほしい。
 その誰かに勝てなくともいい。
 私はただ、待っている。

「……あんたには、参った」
 はあ、と大きな溜息。そして、顔を上げたテリオンの瞳に、私が丸く映り込む。
 深い湖の水面へと、プリズムを通して、時が七色に散らばる。
「分かった。……約束する」
 降参だ。
 彼の身体から力が抜けて、私はやっと、掴んでいた手を緩めた。掌に鼓動が伝わるたび、つられて私の心臓も速くなっていたから、少し身体が火照っていた。暑いね、もうすぐ冬なのにね。そう苦笑すると、「それはあんただけだ」といつもの口調で受け流される。でも、その手は確かに熱い。
 テリオンと過ごせた時間は、私達の命の長さから考えてみれば、とても短い。
 だというのに、感傷のような、望郷のような、果てのない慕情が私の中に沸き起こるのは何故だろう。遠い国からはるばるやってきました異邦人です、なんてこともあるまいに。
 でも、もしかしたら、キミはずっと旅をしてきたのかもしれない。その途中の、あの場所で、私はキミと交差した。
 ならばその先を、私は追いかけたい。行先が地獄であるならとうに知っている。天国であるなら望むところだ。
 そうしていつか、最果てへたどり着けたのなら。私はようやく、キミへ伝えられるだろう。
「テリオン。私が以前、『左様ならば』という言葉について話したことを、覚えているかい?」
「……覚えている。それがどうした」
「そのあと、キミならばどう続ける?」
「謎掛けか?」
「キミの答えが知りたいんだ」
 少しばかり、沈黙。それから「ふむ」と独り言ちて、テリオンの口が弧を描いた。
「……『左様ならば』、」
 左様ならば。
 またな、サイラス。
 私の名前を呼ぶ声。その言葉が、ずっと前から欲しかった。



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