から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

anonymous
・転生ぽいようなそうでないような。
・行為を匂わす表現を含みます。
・読み手を選びそうな内容ですのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 不健康そうだな、と思った。一番最初に、彼を見た時だ。
 猫背で、手すりを前にだらしなく身体を預けている。日が暮れる直前の、夕焼けが染み込んだかのような服を着て、ふうっ、と煙をくゆらせていた。風がなくて静かな昼の胃袋へ、吐かれた煙がゆっくり拡散していく。それを眺めていた。講義前だった。
 一本どうだ?
 青年に声をかけられて、気付く。私は立ち止まっていたのだ。
「ああ、いや私は、吸わないんだ」
 そう手を顔の前で振ると、彼は「ふうん」とだけ言って、もたれかかったままで手招きした。小柄なのに態度がどこか尊大で、さながらライオンの子のような、可愛げがあるのに、迂闊に手を出すと噛まれてしまいそうな雰囲気をまとっている。
 しかし、その迂闊が、よもや私自身だとは思うまい。
 何かあるのだろうか。そうやって単に呼ばれたから近づいていったので、何も考えていなかったと言えばそれまでだが、私は小さな獣に歩み寄った。学内だから、とか、学生はみな真面目で素晴らしい精神の持ち主だ、などと油断していたのだ。
 青年の髪は脱色しているのか、一本残らず初雪のように白く、大丈夫なのか、と思った。何が大丈夫なのか、は分からないが。
 そうしてあと一歩で隣り合うというところで、突如、私の体は重心を失う。
 階段を踏み外したのかと思うくらい急激な落差。次いで、んぐ、と動物を踏み潰したような声が出た。正確には声になっておらず、息が逃げ場を失って悲鳴を上げただけである。
 シャツの襟元が、先ほど私を呼んだ青年によって掴まれ、引っ張られている。傍から見れば、私に掴みかかっているようにも見えるだろう。しかし喧嘩ではない、現に私は、彼の拳ではなく、唇を受け止めていたから。
 状況を把握するまでの間に――きっと一呼吸分だったと思うが――彼の唇の隙間から私の口内へ、煙が流れ込んできた。苦々しい。口から鼻へと抜ける匂いが。
 彼を押しのける。げほっげほっ、と情けなくむせた。喉が痛く、しかし少しだけ冷たくて(のちにそれがメンソールだということを知った)微々たる清涼感が舌に残る。
「いったい、げほっ、何を……」
 口元を拭う私をせせら笑うかのように、青年は、にや、と笑みを浮かべた。獲物を見定めたハンター、あるいは虐める相手を見つけた差別主義者のようだ。先ほどまで狩られる側だった動物が、今では狩る側に回っている。
「もっといるか?」
 無邪気で楽しげな声だった。
 結構だ! 立ち去りたくて踵を返す、それしかできなかった、秋口のある日。

 そんなことがあったのにもかかわらず、翌日、私は再びそこにいた。何故かと問われれば、通りかかったから、としか言えない。
 その場所は学内の端の、想定するに存在を忘れられたところにあって、その前を通らなければ目的の旧書庫に行けないのだ。旧書庫は私の活動拠点のようなものであるから、つまりその忘却の関所を越えないと、私は講師の仕事ができない。
 仕事ができず困るのはもとより、見知らぬ学生から嫌がらせ(と思っている)を受けて、私は講師といえども自分の立場を踏まえて青年を指導せねばならない、という使命に駆られていた。
 よって昨日と同時刻、その場所で待つことにしたのだった。
 改めて見ると、何もない場所である。
 人が四、五人いれば肩が当たってしまうくらいだ。手すりの下のほうには、雑草が有り余る生命力を声高に叫んでいる。灰皿もないことから、ここは喫煙所ではないのだろう。単なる隙間、忘れ去られた空白。欠落したページのように、ひっそり隠された場所。秘密基地のようだ、と子供じみたことを思う。
 ベンチなどあるわけがないので、昨日の青年同様、手すりにもたれて待っていた。
 しかしながら待ち人来らず。仕事もあるので、その日は一時間待って切り上げた。
 世の誰もが律儀だと笑うだろうが、次の日も、またその次の日も、関所を通過するたびに一時間、休憩と題して待っていたのだが、私以外の何者も来なかった。そもそもこのスペースに気付いたのも青年がいたからであって、それまで幾度となく通りかかっていたにもかかわらず気付けなかったのだ。私が気付かなくて、他の人間が気付けるだろうか? 旧書庫に立ち入ること自体が珍しいというのに。
 そうやって半月ほど、ねじ巻き人形のように、同じ行動を繰り返していたところである。
「……あんたか」
 やってきた青年の、まるでそこらへんの虫を相手にするような声に、少し落胆した。もしかしてここは青年の隠れ家で、占領されて気分を悪くしたのかもしれない。ならば失礼を詫びるべき――なのだが、その前に言っておかなければならないことがある。
「キミ、先日の行為は何かな」
「先日?」
 青年は視線を宙へと向けながら、ああ、と言った。「別に意味はない」その回答を腹立たしく思ったのは、齢三十年の大人にしては狭量すぎるだろうか。
「ああいうことは、見知らぬ人間にするものではないよ」
 手を差し出す。「一本くれないか」投げやりな言い方になったのは自覚していた。
「嫌煙家なんじゃないのか」
「そこまでは言っていない」
 嘘だ。私は煙草を好まない。匂いが身体中に染み付くし、煙は本をけがす。
 だが、一矢報いてやりたい、という塵芥以下の矜持が、私を駆り立てていた。
 青年が数歩近付く。黒いパーカーのポケットから小箱を取り出し「ほら」と差し出した。一本拝借。同じく渡されたライターで火を点ける。……すべて、先日見た映画の記憶をなぞったのだ。役者の猿真似だが、こんなところで役立つとは、つまらなくとも観た甲斐があったというもの。
 頑張ってくれ、私よ。
 慣れた風を装って、すうっと、煙を吸い込む。苦い。まずい。ああ、吐き出してしまいたい、今すぐ全部。
 むせる直前、青年の胸倉を掴む。相手は、勢いよく引っ張られバランスを崩す。その背を支えて(そうしなければ目的を達成できないので)先日の仕返しだと言わんばかりに口を合わせた。あたかも救助活動の人工呼吸で、その他一切の感情が入る余地などなく、ただ無理やり煙を与えるだけの行為。説教するだとか他にもやりようがあったはずであるのに、こうしたのは、目には目を歯には歯を、という昔の教えに従ったからだ。
 彼が私を押し返す。思いのほか強く、触れた背中は服越しでも分かるほどしっかりとしていて、人を見かけで判断してはいけないな、と自省した。
 ふうっ、と肺の中身をすべて出し切ってから、彼を解放した。まさしくこれは仕返しである。ぎらりと私を見上げる青年の悔しそうな目つきに、溜飲が少し下がった。
「分かるかな。キミにこうされて、とても苦しかったんだ。息が、まったくできない」
 そう述べると、眼前の視線が鳴りを潜めたように落ち着いて、ぱちぱちまばたきを繰り返す。そのまろい緑色が見え隠れする様が、まるで星の点滅のようだ。長い前髪に隠れて片目分しか見えないのが、少し残念だった。
 けれども直後、にや、とあの不敵な笑みを浮かべて、前言撤回。先ほどのは点滅ではなく秒読みなのだ、と思い直す。
「もっといるか?」
 ああ、地獄行きへのカウントダウンが始まった。



「テリオン、いつもの」
「俺はバーテンダーか」
「ある意味的を射ているね。私が注文すれば、キミは欲しいものを出してくれる」
 ソファに寝そべっていたテリオンの、じと、という視線が投げられた。それを右から左へといなす。
「一五〇点てところか」
「なんだい?」
「おたくの点数」
「それは何点満点で? 何が基準なのか教えてくれたまえ」
「さあな。……ほら」
 呼ばれて駆け寄った私の髪を、彼の手が梳いた。ペットをあやすような手つきだ。
 それから髪へ、頬へ、唇へキス。触れるだけのキスは、物足りない。
「満足か?」
「うん、とても満足だとは言えない」
 言うと、彼の目がさらにじとりとした。呆れられている。
 あれから間もなく知ったことだが、彼、テリオンは学生ではなかった。大学の授業を無断聴講していた一般人だ。
 どうしてあんな場所にいたのか、と問えば「用事があった」とのこと。その用事が何なのか、教えてはくれなかった。私達は――厳密には、私が彼を呼び『相手をしてもらっている』間は、そういう野暮な話は無しにしている。
 テリオンが何をしていて、どう生活しているのか、詳しく知らない。彼の私生活について知っているのは連絡先くらいで、呼べばいつだって来てくれる。連絡しても返事はない。だが彼は必ず来る。そういう間柄だった。
「左様ならば」
「……なんだ?」
「という挨拶がある。ある国の、別れの挨拶だ。今では『さよなら』と言われているらしいが、これは後に続く言葉が省略された形で、『左様ならば』何々、という意味だそうだよ」
「だから?」
「別れの挨拶なのに、続きがあるなんて、情緒的だと思わないかい」
「別に。挨拶はただの挨拶だ」
「キミらしいね。さて、テリオン」
「……どうした、改まって」
「左様ならば、セックスしよう」
 馬乗りになって、彼へキスをした。
 つまり、私は彼にずぶずぶ嵌まった、駄目な大人に成り下がったわけだ。

 彼の肉体は洗練されている。小柄ではあるが筋肉がついていて、触れるとしなるような弾力がある。私は彼の肉体に触れている時、あたかも芸術作品を鑑賞しているかのような奇妙な感覚に陥る。深く鑑賞すればするほど、さらに美しさが増すように思えるのだ。
 嫌がらせのキスをきっかけに、彼は私に会いに来ることが多くなった。というのは私の贔屓目だろうか。ともかく、私があの『空白の空間』に滞在中に、彼の来訪が重なることが増えたことは、紛れもない事実だった。
 最初は憎まれ口をたたいたり、他愛もないことを話していた。煙草に詳しくなかったので、銘柄や種類について訊ねてみたり。次には、この場所を知った経緯を。他には、ただよう金木犀の香りについてだとか。
 それから、何故授業をひっそりと聴いているのか。本校でなくとも、知識を得る場はいくらでもあるのに。
 訊ねると、彼はこぼした。
「知る必要があるから」
 思い出話をしているかのように、柔らかく、思慕に満ちた声で、何かをなぞっていた。
 その先には、何が見えているのだろう。何に対しても興味がなさそうなキミに、そんな顔をさせるのは誰だ? 私のあずかり知らぬ恋人か、もしくはこの世の機巧か。
 嫉妬した。
 嫉妬して、割り入ってしまいたかった。彼の表情を、私でも変えることができるのか試したかった。
 思ったら、止められない。人間は生きている限り、自らの内なる声に従い行動する生物だ。それが欲に塗れたものであればあるほど、障壁は低くなる。
 そんな目で見るな。
 そう言われて初めて、自分がいかに彼を見つめていたか気付いた。
「……私は、どんな目をしているかな」
「俺とやりたそうな目」
「冗談を。そもそもキミは男性だ」
「なら、試してみればいい」
 またあの笑みで、彼が私を捉える。
 証明してみせろ。
 その声に導かれ、彼に近寄る。催眠術でもかけられたような気分だった。手を動かせ、俺に触れろ。そんな声さえ聞こえる。気が付けば、何度も口付けていた。口付けたあと、自分の愚かしさに辟易した。あの『煙の交換』以来のそれは、相変わらず苦々しく、動物の交尾のように激しく、絡ませてくれる舌が底抜けに気持ち良くて、はっきり言って真っ昼間から非常に欲情した。
 おさまらなくなった私の欲望を笑いながら、彼の目が楽しそうに弧を描く。
「もっといるか?」
 私は望んで、今のような関係に持ち込んだのだ。

「今度、私の講義を聴いておくれよ」
「は……?」
 裸になった彼の、首筋から耳の後ろへと指をすべらせる。私の下で、身をよじるテリオンのうなじを舐めると、う、と短い声が上がった。
「キミ、一度も聴いたことがないだろう」
 知っていた。テリオンが私の講義にだけ、足を運んでくれないことを。
「こういう関係の人間を出席させるのは、歪んだ性癖だと思うがな」
「はは、そうかもしれないね。講義中に、キミばかり見つめてしまうかも。授業にならない」
「そんなだから、行かないんだ」
「でも、どうしてだい。考古学は面白みに欠けるのかな」
 その理由を知らなくとも、私はこれからも同じような関係を続けるだろう。しかし今日は、なんとなく訊いてみたいと思った。外は今朝からずっと雨であるし、テリオンは来ると決まって、一晩だけであるが、私のマンションに泊まっていく。きっとこのあとも、私に抱かれて、そのまま眠ってしまうのだろう。彼の事情を探りたかったのではなくて、起きているうちに、もう少し会話をしたかった。その延長線。
 だが失敗した。それ以上は何も言わずに、ただ私を抱き寄せ、柔らかなキスを恵み、彼は言う。
「知らないほうが良いこともある。そう習わなかったのか? なあ、『先生』――」
 そういう、底知れぬ湖のような存在だから、私は彼から逃げることができない。
 彼を抱いている間、私は地獄の中で喘いでいる。だが同時に、私の心にはある種の幸福が去来していた。テリオンを前にすると、何もかもほったらかして彼を存分に味わいたいような、貪りたい欲求と、私にだけは特別な何か――感情だとかを持ってほしいと切望する。そこへ、何も望むべきではない、と冷静な自分がやってきて、沸騰した湯の中へ大量の氷をどばどば入れたような、混ぜこぜの感情に溺れてしまう。みずみずしく甘い果実の表皮を愛撫しながら、頬張り、溢れ、滴り落ちる一滴一滴までも味わいたくなる。
 私達は明日もこうしている。多分、恐らく。
 では、その次は?
「……テリオン、太陽はね、あと五〇億年と少しで、なくなってしまうんだよ」
 身体中に熱が駆け巡り、暴れるのを抑えながら、ふと、先日読んだ本のことを口にした。太陽の寿命は、そろそろ折り返し地点に差し掛かっている。
 太陽がなくなるその頃には、当然私達は存在せず、地球もどうなっているのか分からない。けれども太陽が、世界が、我々が消えてなくなってしまっても、テリオンとは――なんだろうか、私は。何を望んでいるのだろう。
 彼は、呼吸を荒くして私の欲に応えている。茫々とした瞳に、果たして私は映っているのだろうか。萌ゆる緑の色は濃くて、その奥を覗き見ることが叶わない。
「そんなことより、早くいけ」
 ごもっとも。



 止まれ、お前はいかにも美しいから。
「なんだそれは」テリオンが隣で呟く。喉を疲弊させた後の、掠れた声も好きだ。こうして月に数回、彼と自堕落な日を過ごすようになって、一年ほど経つだろうか。相変わらず彼は来てくれる。反対に、彼から呼ばれたことは一度もなかった。
 それを打ち消すように、あるいは少しずつ冷えつつある世界を押し返すかのように、私は彼を抱いた。
「『ファウスト』の……ええと、ゲーテという文豪が書いた長編作の、一節だよ。ある男が、時、つまり今この瞬間に向けて言った台詞だ」
「……知らんな」
「ファウストは、悪魔に対して魂を売る契約を交わすんだ。私がある刹那に向かって、『お前は美しい』と言ったならば、私の魂を刈ってもいい、滅びてもいい――とね。引き換えに、自分は若返って人生をやり直すのさ」
「人生を、やり直す、か――」
 おや。
 テリオンが興味を持ってくれたのが嬉しくて、私は続ける。
「現実には、時は止まらないのだけれどね。ああ、時間と空間についてはアインシュタインの相対性理論が有名だが、それには特殊相対性理論と一般相対性理論の違いから話したほうが」
「長くなりそうだ、やめろ」
 これは、と思ったが、私の悪い癖が出て、すぐに打ち切られてしまった。
「……ああ、どちらも非常に長い話になるからやめておこう」
「そうしてくれ」
「しかし今キミは、新しいことを二つ知ったということだね」
「そうなるな……なんだ」
 ふふ、とつい声に出して笑ってしまったので、テリオンが眉をひそめた。「キミを笑ったのではないよ、拗ねないでおくれ」頭を撫でると、目を細めてそのまま枕へ突っ伏す。
 私はいま、自分の一部を彼と積算し、新たな共通項を創り出したのだ。これが嬉しくないわけがない!
 人はみな、異なる領域に描かれた円環だ。一つとして同じものはない。彼もまた、私と違う場所に描かれた円であるが、その一部分はさながら論理積のように重なり合っている。時間や会話がその代表だ。異なる円がふたつ寄り合う瞬間に、私は彼を知った気になれた。歓喜した。
 ――ここ最近、キミと過ごす時が永遠であればと思うことがある。そう言ったら笑うだろうか。
 まるで私は、あの作中の、悪魔メフィスト・フェレスに魂を売るファウストだ。この時を享受し、手中におさめることができるなら、魂など易々と受け渡すだろう。ただしその時、筋書きどおり、刹那が最上に美しいものでなくてはならない。であれば、最上に美しい刹那とはいつのことを示すか? 答えてみよ。
 全てだ。
 全ての時は美しい。テリオンの存在が、時の輪郭を鮮明に浮かび上がらせる。時間が一瞬間の連続であるならば、それらは七色にきらめきながら途切れなく降り注ぐ、スペクトルの雪だ。彼は未来永劫触れることのできない理を、プリズムへ経由させたように可視化して、私へと差し出してくれる。
 それを手にできることの、なんという幸福感。
 最初の頃に感じていたものとはまるで違って、夢魔が女神へと生まれ変わるかのごとく鮮やかに変貌し、私の前に現れた。私はその手から幸福を受け取り、咀嚼する。テリオンといる時、毎度そんな感覚に襲われて、私の精神はいつもおぼつかない足取りで彼を求めていた。
「あんたは、いつもそうやって何か言ってるな。こないだは、理想郷の話をしていた」
 くぐもった声で、テリオンが話す。
「ユートピアのことかな。トマス・モアの」
「それだ。……まるで、この世のすべてを知っている、って感じだ。生き字引とは、あんたのことかもな」
「嬉しいことを言ってくれるね」
 事実、嬉しい。テリオンは私の話に興味がないのではないか、そう思っていたから。
「こんなことが、嬉しいのか」
 うつ伏せのまま顔だけ向けて、テリオンが訊ねた。頷きながら、剥き出しの肩へとブランケットを掛けてやる。包まる彼の、少し幼く見える表情が、それを見れることがまた嬉しかった。
「キミが覚えていてくれることが嬉しいんだ。私の言った、キミにとって価値のない事柄であっても、キミの中に残しておいてくれたことが」
 そう言った時、彼の目尻に、再びあの感情が滲み出た。私ではない誰かを見ているあの色合いが、彗星のように表れて、瞬く間に消える。
「……そうか」
 消えたその破片を探して、彼に訊ねられれば良かったのかもしれない。背を向けた彼を、抱き締められれば良かったのかもしれない。
 だが私には、彼がそれ以上の重なりを恐れているように見えた。それが私の手をためらわせた。私の講義にだけは来てくれない、その理由を訊ねた時、僅かではあったが同じ感情を浮かべていたことを思い出す。
 目尻からこぼれ落ちそうなそれを舌で拭ったら、その正体を掴めるのではないか――想像するが、ありていに言えば勇気がなくて、またそれ以上知ってしまえば、もう会えなくなるような予感がした。
 ファウストのように、すべてが終わって、時計の針が落ちる気がしていた。

 翌日。テリオンが帰ったあと、仕事関係のメールをチェックした。すると、友人から久方ぶりにメールが届いており、驚く。
 本文には、ユキヒョウ保護活動についての進捗報告と、人手が足りないとのこと。
『――こちらは警戒心の強いユキヒョウになかなか接触できないでいる。人が立ち入らない場所に生息していることもあって、毎日が開拓者の気分だ。
 だが密猟者退治に必要な車両を、あなたの知り合いが寄付してくれたおかげで、移動も監視もしやすくなった。
 私のことを紹介してくれてありがとう。感謝する。
 ところで前述の件だが、私の所属する団体で職員の欠員が出た。誰か心当たりはないだろうか?
 常勤でなくてもよい。ただ必ず、尻尾を巻いて逃げるような輩ではないこと。もし候補者がいれば連絡を求む。
 敬意を込めて ハンイットより――』
 ハンイット君は、海外を拠点にユキヒョウ保護に尽力している獣医学者だ。以前、動物の化石について研究をしていた折に知り合ったのだが、若くして博識で、動物への愛にあふれた、何よりその勇敢さ(特に眼光の鋭さに表れていると思う)を持つ彼女には敬服せずにはいられない。
 昨年からはユキヒョウの生息地近くに拠点を構え、時折メールで報告をくれる。現地は辛うじて回線が繋がっているエリアがある程度で、不便な地を行き交って遊牧民のような生活を送る彼女は、いつ帰国するか分からない身の上だった。
 次に戻ってきた時には、テリオンの話をしようか、と思った。無論、彼との関係をどうのこうの告白するつもりは毛頭なくて、欠員補充について、もし私でも良ければ挙手する、という話だ。
 かねてから、私は動物考古学をより深めたいと願っていた。動物考古学は、古き時代の人々を知るために大変良いアプローチ方法である。人間についてより深く知ること。それはどこか、私自身を知ることのように感じられたから。
 我々は何処から来て何処へ向かうのか。そんな名画があったな、と思い出しながら、ブラウザで地図を開く。
 ハンイット君の活動拠点を検索、表示。
 そこからそれほど遠くない(と言っても車と飛行機での移動が必要だが)場所に、大きな自然保護区がある。前々からそこの発掘調査に興味があった。現在、私が時間にそれほど拘束されない、講師職で働いている理由でもある。来年には講師を辞めて、発掘調査へ加わりたいと考えていたところだ。
 それがテリオンと出会うまでの、私の未来絵図だった。
 今は、テリオンを置いて去るのが、心苦しい。勝手なものだと思う。
 私が去ったとしても、彼は一人ではないかもしれない。私のもとから家へと帰ったら、誰かが待っていて、その誰かと過ごしているのかもしれない。
 私に抱かれた身体で、誰かを抱くのだろうか。
 私がいなくなったら彼は、またあの忘れ去られた場所で、ぼんやりと一人過ごすのだろうか。
 次々と浮かび上がる想像図の、そのどれもが私に嫌悪感を抱かせる。
 私の中に停滞する感情は、間違いなく、彼に惹かれていることを裏付ける。まさか欲望が化学反応を起こして、恋愛に変化したであるとか、そんな訳はない。
 肉体関係があろうがなかろうが、きっと私は、彼を強く求めたのだろう。
 引力に従って林檎が落ちるように、あるいは明日が必ずやってくるように、疑いようもない自明の理として、彼に引き寄せられる。こんなことは、溺れた者の世迷い言だろうか。
 椅子に体重を預けて、目を閉じる。するとすぐさまテリオンが浮かんで、私の誘いに手を伸ばす様が投影される。コマ送りの映画のように次々と場面が切り替わって、次はベランダで煙草を吸う姿。その次は、私のマンションから出ていく前に、一杯だけコーヒーを飲んで休む姿。その次は、私のつまらない話を聞き流しながら、小さく相槌を打つ姿――。
 思い出すたびに、彼が、非常に思慮深い一面を持っていることが分かる。
 自分から踏み込んでこないのは、人との距離の取り方であったり、何処まで踏み込んでよいかを思案しているからだ。縄張りに自分が入れるかどうかを、ゆっくりと、慎重に確認している。
 彼は常に思考実験をしながら、私と向き合っているのだ。
 そこには必ず線引きがされていて、私達はそれぞれの国境を飛び越えることなく、互いの手の内を探り合う。私はテリオンのことを、テリオンは私のことを考えながら行われるそれが、嬉しく、心地よい。
 けれども、今なら。
 その向こう側――最も深い彼だけの領域――へと、手を伸ばしてもよいのではないか。許してくれるのではないか。その次、その次、と望んでしまう私を、受け入れてくれるのではないか。そう信じそうになってしまう。たとえ都合の良い、でっちあげだとしても。
 だからこそ彼には、どうしても、口に出せなかった。キミを離したくない、だとか、私の恋人になってほしい、だなんて言葉を、欲から手を出した私が言える立場ではない。それでも彼といたくて、そのままずるずると続けてしまって、この体たらく。
 自分が吐いた息は、予想以上に深いものとなった。振り切るように、メールの返信画面を起動する。
『私で良ければ挙手する。しかし、心残りがある――』
 物語には、いつかピリオドが打たれるものだ。私は書き始めてしまった彼との関係に対して、うまくピリオドを打てるのか。それとも。



 かぐわしい香りが、店を満たしている。だが私の指はこれっぽっちも動かなかった。銅像のように固まって、目の前に置かれた鹿肉をじいっと眺めている。
「あなたのそのような表情は、久々に見る」
 ハンイット君が、皿の上で鹿肉のローストを一口分、綺麗に切り分けた。ナイフの使い方を知り尽くした手だ。口に運んで、「うん、美味しいぞ」と満足げに微笑む。艶やかな髪を三つ編みに束ね、グレーのパンツスーツを着こなす彼女は、さながら歌劇の主役のようだ。
 その前でくたびれた男が一人。
「それで、本気なのか」
「……え? 何がだい?」
「うちで働くという話だ」
 そうだった。
 ハンイット君に返信した直後、「来月一時帰国することになった。師匠が帰ってくるらしい」と再度連絡があったのだ。師匠というのは彼女の、文字どおり師にあたる男性で、彼女とは別の国で狩猟生活をしていると聞いた。その人物は滅多に帰国しないので、この機会を逃すまいと彼女も帰国を決断したらしかった。
 そのついでに、食事でもどうか、と誘ったのだ。まだ、テリオンに告げる前だった。
「本気、だったよ。キミにメールした時は」
 三日前のことを思い出すと、心臓を握りつぶされているかのように苦しくなる。

「終わりにしようと思うんだ」
 いつも通り、呼び出した私の部屋。その前の、玄関口。靴を履いたままのテリオンが動きを止めた。
 ああ、言ってしまったな。
 口にした瞬間、苦々しいものが広がった。煙草の味よりも不味く、飲み込むことが難しい、嫌な味だ。
「……ああ、もう飽きたってか。分かった」
「そういう意味ではないよ」
「なら、どういう意味だ」
「今度、海外へ行くんだ。長期間。新しい仕事でね」
 断定表現にしたのは、自分への戒めだった。中途半端なままでいる自分を叱咤するためでもあった。
 けれども後悔した。テリオンが眉をひそめ、目を伏せたからだ。私にとってこの上なく衝撃的だった。彼のそのような表情を見たのは、これが初めてだったから。
 裏切られたような、絶望したような、宝物を失ったような。
 直後、見間違いだったのかと思うほど、瞬きしている間に、彼は先ほどまで表れていた表情を隠した。ただ「そうか」とだけ呟き、空気を震わせたかどうか分からないほど、微かな声を出す。
 あんたも俺を置いていくんだな。
 聞き取れたのは、私であったからだろう。その一言が、雨の雫が落ちて水たまりに波紋が広がるように、私の中をぐわんとかき乱す。
「どういう意味だい」
 今度は私が聞き返す番だった。しまった、とばかりにテリオンは顔を背ける。
「何でもない」
「何でもないわけがないだろう」かぶりを振る彼の腕を掴む。「放せ」「テリオン!」何故キミはそんな顔をするのか。今にもわあわあと溢れそうな心を抱えて、どうして一人で。
「放せと言っている!」
 より強く振りほどかれ、その反動で一歩下がる。
 彼を見る。あの目だ。
 彗星が降ってくる。
 キミはいつもひとりで、誰を想っているのだろう。私の奥に、別の誰かを透かして見るような、その目を見るたびに私は寂しい。
「――いつだ」
「え?」
「いつ、出発する」
 怒っているのか、低い声だった。ライオンが唸っている。彗星は消えてしまった。
「あ……ああ。一か月後だよ」
「分かった。見送りはしてやる」
 それだけ言って、テリオンは玄関のドアノブに手をかけた。「待ってくれ、まだ話があるんだ」「俺にはない。じゃあな」扉が開き、彼が出ていく。ゆっくりと閉じられ、遠ざかる足音のあとに、がちゃん。幕切れの音がした。
 私はピリオドすら打てなかったのだ。
 私は私を、どう説明すれば良かったのだろう。私達の関係を、どう区切れば正解だったのだろう。
 彼とは、さよなら、だけではいけないのに。
 左様ならば、左様ならば――。
 別れの言葉を反芻する。続けることは難しい。
 円が交差し、そのまま進めば、いつか離れる。離れるときはいつも、さよならだけで済ませたものを。

「心残りがあると言っていたな。今は?」
 ハンイット君との問答は続く。
「今も。……迷っていると言ったほうが、正しいんだろうね。すまない」
「あなたにしては、はっきりしない物言いだ」
 また一口、肉を食す。その所作の美しさたるや。しかし、指先にはいくつもの生傷があった。手首からは包帯が覗いている。彼女の普段の生活が、私といかに異なるかを示している。
「その『心残り』とやらは? 迷っている理由はなんだ?」
 即答できなかった。彼女と会ったら話そうと思っていたことがあったはずなのに、どれも説明し始めると陳腐な与太話になってしまいそうで、口にできない。
「無理に問い詰めるつもりはない。ただ、生半可な気持ちで来てもらっては困る。お互いの幸せのためだ」
「幸せ、かい」
「そうだ」
 彼女のフォークが、鹿肉の表面をつい、と撫でた。
「私は動物を保護する職業に就きながら、今、動物を食べている。これは矛盾した行為だと思うか?」
「いや、生きるために食すのだから、仕方のないことだと思うよ」
 小さく頷き、彼女は続ける。
「ユキヒョウは保護すべき種だが、一方で家畜を襲い、害獣として扱われている地域もある」
 また一口、切り分けられた肉が彼女の口元へ運ばれる。噛み砕かれて、彼女の中へ飲み込まれていく。
「私が思うに」
 ナイフとフォークを置き、彼女の口が、子供を窘めるかのごとく呟いた。
「価値は人それぞれ異なる。立場が変わればその重みも変わる。一辺倒で答えは出ないものだ。時々あなたは、考えすぎる節がある」
 学者とはそういうものか? 腕を組んで、ハンイット君は、ふう、と溜息にもならない息を吐いた。
 けれどもその言葉に、忘れていた原理原則を思い出す。
「――キミの言わんとしていることが分かったよ。何事も多角的に見なくてはいけない。それが思考の基本だったね」
「そういうことだ」
 彼女が「うむ」と頷く。
 例えばここにひとつの数式があったとして、その解もひとつしか得られないとする。イコールで結ばれる、数式の基本形だ。
 ここへ、私と私の幸福を、テリオンと彼の幸福を当てはめたら、果たしてその解はひとつだろうか?
 ノーだ。
 幸福には答えがない。数式は常に変化する。あてがう値も……まるでトリックアートだ。そんなものを、どうやってはじき出せばよいだろう? 私が幸福と感じるものが、テリオンのそれとは限らないのに?
 しかし、だからこそ私は、その答えを導き出したい。
 つまり、だ。
 考えていても仕方があるまい。こうして考えている暇があれば行動せよ。窮すれば通ず。
 失礼、とハンイット君へ断りを入れて、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージ画面を起動。見慣れた名前を選択。
『来週、出発前にキミと話がしたいんだ。一週間後の午前八時に、待っているから。』
 送信。
 返事はない。いつも。どれだけ待っていようとも。
 それでも彼はやってくる。何も言わず、ただ私に会いに来る。
 きっと、待ち合わせ場所に私がいなかったとしても、彼は永遠に待っているのだろう。私の部屋の前で、あの空白の場所で、待ちぼうけを食らったまま、ずっとひとりで。
 私は来週、この国を発つことになっている。
 それまでに、互いに手の内を探り合って、今度こそ私にカードを見せてくれるだろうか。

「時にハンイット君。幸福とはどういう状態を指すのだろうね」
「言葉遊びか?」
「かもしれない。キミはどう思う?」
 食事の終わり。デセールの最後の一口を頬張って、ハンイット君が答える。
「明日を欲すること」
 静かな言葉だった。古い詩を読み上げているようでもある。
「明日を、かい?」
「自然界では、動物はただ生き延びることを目的としている。幸せだとかそうでないとか、考えることはない」
「そうだね。ライオンは弱者を食らい、象はハンターから逃げる」
「だが人間は、思考する。今日が昨日よりも幸か不幸か、あるいは明日が今日よりも良い日になってほしいだとか。そう思うことが、既に幸福なのではないか?」
「成程。――そこに、自分の独りよがりで幸福を求める人間がいたら、悪だと思うかい」
「思わない。人は生来、幸福を追い求める生き物だ」
「思考し、悩み、後悔してまでも、明日を切望する、ということか」
 そう思い至って、私の中で、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
「そうだ。……ん? なんだ、いつもの調子が戻ってきたじゃないか。何を迷っていたんだ? 『心残り』とは?」
「迷っていたよ。先ほどまではね。でも、解決した。キミに相談して良かった。自分で自分の首を絞めていたのだよ、愚かな男だと笑ってくれ」
「私は相談された覚えはないぞ」
 私の言葉に、ハンイット君は首をかしげるばかり。
 心底思う。人間はどうしようもない生き物だ。しかし、だからといって、それが幸福を求めない理由にはならない。
 私は、テリオンとの明日を渇望しているのだ。
「それよりも、ほら。肉料理も食べていなかったじゃないか。せっかく誘ってくれたのに。食べなければ、今日ですら生き抜けないぞ」
 手つかずのデセールとともに私を叱りつける彼女は、まるで母親だ。「ああ、すまない。気を遣わせて」まったくもって、申し訳ない。
 食べよう。来週には戦いが待っている。



 宣言どおり、テリオンはやってきた。いつもなら彼が部屋を出ていく時間、あの日と同じ夕焼け色の服が、朝日の中で彼を包んでいた。そこだけが黄昏だった。
 玄関先、動かず対峙する彼へ語りかける。
「テリオン、入っておいで」
 開いたままの扉が、空間ごと彼を四角く浮かび上がらせていた。そのまますっぱりと、私のもとから切り離してしまいそうだ。
「あんたはもうすぐ、飛行機に乗るんだろう」
 視線を落としたままで、彼が呟いた。ひこうき、という単語が、言い慣れないみたいに揺れていた。
「そうだけど、まだ時間はあるよ。私はキミと話がしたいんだ」
「前にも言ったが、俺には話すことは何もない」
「私にはある」
 テリオンの左手を掴む。そのままぐっと引っ張って、無理やり、私の縄張りへと連れ込む。
「おい!」
「すまない」
 後ろで扉が閉じていく。ぽっかり空いた縦長の長方形が無くなって、テリオンが私と同じ場所に立つ。がちゃん。開始の合図。
「――この一ヶ月間、考えていたんだ」
 私の円に彼の円が近付いて、重なる。
「キミは何故あの時、私に声を掛けてくれたのかって」
「あの時……?」
「キミと、初めて会った日だよ」
 フラッシュバックする。ぼうっと煙草を吸っていた、あの姿。煙を吐き出して、此処ではない何処かを見ていたキミを、どれくらい眺めていただろうか。
 キミはその煙で、何をかき消そうとしていたんだろう。
 テリオンは何も言わない。ただ、ずっと俯いていた。
 掌のなかの手首。こんなに細く感じたことが、今まであっただろうか。
「もし、そこに理由があったとして……だったら、何だって言うんだ」
 ようやく聞こえた声は、語尾にあの彗星の尾を引っ掛けているように思えた。「らしくもない」そう零す。
 私らしさとは、どんなものなのだろう。私という人間は、キミにとって、どんな存在に見える?
「テリオン」
 私という個体を映し出して、その湖の中へ引きずり込んでくれ。
「キミに私がどう映っているのか、知りたい」
 力を込める。彼が強張るのが伝わってくる。
「来月、一度帰国するんだ。その時に再び会ってほしい。今から私と、約束をしてくれないかい」
「約束……?」
「私はキミが、何処に住んでいて、これまで何をしていて、何が好きで、何が嫌いか。キミのことを、何も知らなかったね」
 それはキミのやさしさだったのかもしれない。でも、それでは私は、ずっと寂しいままだ。
 私はキミの後ろにたなびく光をたどりたい。その先でキミを探したい。
 あの日、キミが煙の向こう側へ見ていたものを、私も共に見たいのだ。
「戻ってきたら、会いに行くから。教えてほしいんだ。話をしよう、たくさん。その次も、またその次も、私と約束してほしい。だから――」

 だからいつか、その瞳が見つめる誰かへ、もういい、と告げられたら。
 私の手をとってほしい。
 その誰かに勝てなくともいい。
 私はただ、待っている。

「……あんたには、参った」
 はあ、と大きな溜息。そして、顔を上げたテリオンの瞳に、私が丸く映り込む。
 深い湖の水面へと、プリズムを通して、時が七色に散らばる。
「分かった。……約束する」
 降参だ。
 彼の身体から力が抜けて、私はやっと、掴んでいた手を緩めた。掌に鼓動が伝わるたび、つられて私の心臓も速くなっていたから、少し身体が火照っていた。暑いね、もうすぐ冬なのにね。そう苦笑すると、「それはあんただけだ」といつもの口調で受け流される。でも、その手は確かに熱い。
 テリオンと過ごせた時間は、私達の命の長さから考えてみれば、とても短い。
 だというのに、感傷のような、望郷のような、果てのない慕情が私の中に沸き起こるのは何故だろう。遠い国からはるばるやってきました異邦人です、なんてこともあるまいに。
 でも、もしかしたら、キミはずっと旅をしてきたのかもしれない。その途中の、あの場所で、私はキミと交差した。
 ならばその先を、私は追いかけたい。行先が地獄であるならとうに知っている。天国であるなら望むところだ。
 そうしていつか、最果てへたどり着けたのなら。私はようやく、キミへ伝えられるだろう。
「テリオン。私が以前、『左様ならば』という言葉について話したことを、覚えているかい?」
「……覚えている。それがどうした」
「そのあと、キミならばどう続ける?」
「謎掛けか?」
「キミの答えが知りたいんだ」
 少しばかり、沈黙。それから「ふむ」と独り言ちて、テリオンの口が弧を描いた。
「……『左様ならば』、」
 左様ならば。
 またな、サイラス。
 私の名前を呼ぶ声。その言葉が、ずっと前から欲しかった。



(了)畳む