から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

新世界より
・幽霊のテリオン。
・サイラス先生真夏の不思議体験。
※テリオンが幽霊です。いわゆる死ネタを含みますのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 ペンを走らせること。それが今、私が出来得るすべてである。先ほど私が耳にした言葉を、確かに書き残さねばならない、それには一刻の猶予もない。がりがりがりがり、ペン先が紙をえぐる音が、大木を倒さんとする鋸のように響いていた。このまま書き続ければ机を二等分してしまうかもしれないと思った。ペンは剣よりも強しという言葉は物理的であったか? それを確かめることができるかもしれない。しかしそんなことよりも、彼は何と言っていたか、口にした一言一句を記録しておきたいという使命だけが私の手を動かしていた。
「おい、いつまでそうしている」
 青年の中音が書斎の空気を振動させた。
「……もう少し、もう少し……」
 対して生返事であったのは自分でも分かっていたが蔑ろにしているわけではないのだ、理解してほしい。あと十秒、いや五秒あれば……四……三……二、というところで書き終わり、手を止める。ふうっ、と口から漏れたのは大きな溜息であったが、単に若干の疲労からであった。
 席を立つ。書斎の回転椅子が、きい、と小さく鳴いた。
「待たせてすまないね」
「待っていない、注意しただけだ」
「では要点を整理するとしよう」
「おい、聞いているのか」
「ええと、キミが現れたのは一時間前の午前一時半だったね」
「……らしいな」
 眼前の青年が、先ほど私が吐いた溜息と性質の異なるものを盛大にこぼした気がするが、気のせいであろう。
 私が一時間前に時計を見た際、確かに針は一と六を指していたから、あれは午前一時半の出来事であったに相違ない。疲労からついに幻覚を見始めたのかと驚きはしたけれども、現に目の前にいる存在と会話が成立しているから、現実であるなと認識した。
「で、私はキミに声を掛けたね。『貴方は誰ですか』と」
 足を進め、青年の座るソファへ近づく。一人掛けのそれに体を預けて、青年は私の全身をじろじろと眺めた。訝しげに寄せられた眉は辛うじて見えるが、目は片方だけしか認められず、もう片方は長い前髪で隠されている。卓上ランプの光を受けて象牙色に染まっていた彼の白髪は、私の動きに合わせて揺れた影に隠れて、今度は鼠色(まるで闇に舞う雪のようである)になってしまった。
「そうしてキミは答えた。『俺が見えるのか』と。大層驚いた様子で」
 足を組む青年の前に立つ。犯人を尋問する刑事はこんな気分なのだろうか。ぐっと屈んで青年を見ると、若葉を思い起こさせる瞳がくるりと丸くなった。
「推察するに、つまりキミは、通常人間には見えない存在――霊的存在、幽霊と呼ばれるものなのかな?」
「……その括りがよく分からんが、多分な」
 その答えを聞いて、私は飛び上がらんばかりの高揚感に包まれた。なんと不思議な存在が目の前に現れたのであろうか! いや私が幻を見ている説は捨て切れないが、それでも!
「こんな摩訶不思議な存在に出会えるなんて素晴らしいよ! その服、少なくとも現代のものではないね? キミは何年に生きていたんだい? その時代には何があった? 首都は? 地名は覚えているかい?」
「おい、」
「ああ聞きたいことが沢山あるがしかし時間が惜しいな、どうしてこんな時に私は一人なのだろうか、あと数人助手が同席していれば良かったんだが」
「あんたは、」
「いやちょっと待ってほしい、キミの存在を証明するにやはり私一人では足りないだろうね、そうだろうね……今からでも遅くない、誰か呼ぼうか……いやしかしもう深夜だね。以前も深夜に友人に電話して叱られたことがあったんだ、同じ轍を踏まないようにしないと」
「おい!!」
 相当大きい声だった。私の思考を文字通りぶった切るように叫び、怒りの含んだ目(片方だけだが)で睨みつける青年に、あ、と間の抜けた声を上げてしまう。
「すまない、自分のことばかりで……」
 今度は気のせいではない、青年は思い切り溜息をついてもう一度座った。革張りのソファがぎゅっと摩擦音を立てたのを聞いて、幽霊にも質量があるのかとまた一つ興味深いものを発見できた喜びで、思わず彼の両肩を掴んだ。
 ――はずであったが、素通りした私の両手はあえなくソファの表面に到達する。目の前には靄のような霞のようなものがあるばかりで、がくんと崩してしまった体勢を立て直してから、それが彼の肉体(であるべきもの)だと気付いた。
「……触れられないんだね。しかしキミは座っている。何故?」



 自分の名前を名乗ってから青年に名を訊ねると、「テリオン」と細い声で答えた。歳は二十二、私より八つも下であるとのこと。それ以外のことは訊ねても話してくれなかった。正確には言い淀んでいた。
 単純に言いたくないだけなのか、何か理由があるのかは不明だが、無理に聞き出す必要もないので(それで嫌気がさして余所へ行かれても困る)そっとしておくことにした。
「自分から触るのであれば、集中すればできる」
 昨夜、彼が椅子に座っていることについて原理を聞いた時、彼はそう答えた。「試しにこのペンを持ってみてくれないか」とボールペンを手渡すと、彼はゆっくりと、恐る恐るといった様子で、ペンを受け取る。
 そして確かに、ペンは床に転がることもなく、彼の手中に納まったのだ。素晴らしい! 感嘆のあまり、気が付けば深夜にもかかわらず大きな拍手をしていた。
「確かに、怪奇現象の中には幽霊が触れなければ起きないようなものもあるそうだ。成程キミの言うように、幽霊のほうから触れることが可能なんだね。これは記録しておかなければ」
「……よく分からんが、そうなんじゃないか」
「他にも聞きたいことがあるのだけれど、良いかな」
 彼が小さく頷いたのを、了承の意と受け取って訊ねる。
「キミは、自分がどうしてこの世に留まったままなのか、心当たりはあるかい」
 訊ねた時、私はある種の興奮を感じずにはいられなかった。それは人の暴露話を密かに共有する心地に似たものであった。しかしこの質問に対する回答はなく、前述と同じく彼は口を噤んでしまったので、私の興奮はすぐに消火される。
 何か触れてはいけない部分に触れたのかもしれない、気分を害したかも。
 彼は人間『であった』のだから、思い出したくないこと、語りたくないことだってあるだろう。先ほど感じた心地を含め、彼に対して失礼を詫びようとした瞬間、少し前から薄く明るんでいた書斎が、これ以上は我慢ならないというように朝日を受け入れ始めた。カーテンの下から光明が漏れ、朝を迎える準備ができたことを告げる。
 もう朝か。
 独り言とともに光を見ていた一瞬の合間、彼から視線を外し、再び戻すと、ソファは寸前までの主を失って空虚に佇むだけであった。
 彼は――テリオンは、日の出と共に消えてしまっていたのだ。
 霊的存在は、日の当たる時間帯には行動しない、らしい。らしい、というのは正確な情報かどうか不明であり、誰も証明できないからである。不明瞭な存在には不明瞭な情報しかなく、寝不足でかすむ目を擦りながら、私はネット上の真偽不明なそれらをしらみつぶしに読み漁るしかなかった。午前中に仮眠を取る予定は無に帰した。
 そうして私は昼下がりに、テリオンが消えた書斎で、彼が座っていたソファに腰かけ、彼と同じように足を組んで物思いに耽っている。夏季休暇中で良かったと思う、仕事と並行して考えられるような代物ではない。
 頬杖をつきながら昨夜のことを思い出す。
 テリオンという名の幽霊が現れたことに驚きはしたものの、私は恐怖のたぐいの感情を全くと言うほど抱いていなかった。というのも、この感覚には身に覚えがある。以前も似たようなことがあった、屈強な剣士の男や着飾った美しい踊子が出てきたことが。しかしその時は夢であった、目が覚めれば寝室の天井が視界に入ってきたから……あれは、確かに夢であったのだ。

 浮遊感。水に溺れたような。どこかから飛び降りたような。
 世界が薄い光の膜に覆われている。柔らかい陽の光が私を包んでいた。視界の先には煉瓦造りの建物が立ち並び、その隙間から木々が覗く街並みは、私の愛する故郷であると分かる。
 サイラス、と誰かが私の名を呼んだ。
 そうだ、私はある探し物のために街を出たのだ。振り向くと、いつか夢に見た剣士の男、そして踊子の女性。行くぞ、と男のほうが言った。
 私を呼ぶのは貴方達か。
 けれどもすまない、私は私の後ろを歩く人を待っているのだ。だから先に行ってほしい、そう答えた。その人はいつもわざと離れて歩くから、歩調を遅らせて歩くのが私の癖になっていた。
 はて、誰を待っているのだろう?

「おい」
 びくっ、と身体が跳ねて目が覚めた。
「……テ、リ、オン……」
 どうやら私は夢に落ちていたようだ。昨日睡眠を取れていなかった反動か、泥のように眠りこけていたのだった。
 あたりを見回すと、室内はもう夕刻を示す色で満たされていた。濃い橙が揺らめく空間のなか、テリオンが私を見下ろしている。青年の――それは一体どこのものであろうか、見覚えがあるような――民族衣装のようなシャツから、傷痕の残る引き締まった胸元が覗いて、思わず目を逸らした。逸らした先の床には、斜陽を受けた私の影だけがひとつ、くっきりと、フローリングに映り込んでいた。
「えらく気持ち良さそうに眠っていたな」
 声をかけられ、立ち上がる。視界が逆転して、頭ひとつ分下にテリオンが見える。
「……不思議な夢を見てね。それが心地良かったものだから」
 いまだぼんやりとした頭の中を整理するようにかぶりを振った。眠気覚ましに何か飲もうと思って、「キミも何か飲むかい?」と口にしてから、ああキミは幽霊だったと思い出す。
「飲めない」
「忘れていたよ、キミがあまりに普通でいるものだから」
 それほど彼の雰囲気は生きている人間のものに酷似しており、昨日のように触れられないのが不思議でならない。室内には確かに二人の人間が存在しているのに、片方には肉体がない。そんなことを、この光景を前にして信じられる人間がいるだろうか?
「忘れるな、俺は死んでいるんだ」
 呆れた声を苦笑でかわしながらキッチンへ立つ。リビングの端に設けた書斎は「私一人が使うだけ」というのを言い訳に、至る所に本を積んではそのままにしていたので、彼に見られるのは若干気が咎めた。なにせこの部屋には客人がほぼ来ないのだ、こちらから呼ばない限りは。しかし気にしない性格なのか、テリオンはその荒れた様子には目もくれずに、私と入れ替わってソファに座る。どうやら気に入ったらしい、幽霊にも好みがあるとすればこれもまた興味深い。
 冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出して、グラスに注ぐ。限りなく黒に近い焦げ茶色の液体が透明な領域を侵食していくのを見て、そういえばこの間、借りてきた本の上にコーヒーを溢しかけたんだったな、と苦い記憶が浮かび上がってくる。
 それでふと思いついたのだ。
「これから図書館へ行かないかい、一緒に」
 声を投げかけると、リビングの奥から返事があった。
「……図書館?」
「本を返しにいくついでに、キミが生きていた時代のことを調べようかと」
 まあ図書館が閉まるまであと一時間しかないけれどね。喋りながら、コーヒーを口に含む。舌の上を酸味を含んだ苦味が通過して、喉を潤し、胃に落ちていく。冷たい感覚が身体の中から私を脅かすようで、寝起きにアイスコーヒーは良くなかったな、とそれきりグラスを置いた。
「何故俺も行く必要がある」
「キミに教えてもらわないと、私は何も調べられないよ」
 それは彼から直接彼に関する話を聞きたいという気持ちに裏打ちされたものであった。本音を隠すように冗談めいた口調で返したつもりであったが、彼は「何も分からんと思うがな」と言うばかりで、しかし私はこの時、彼の言葉の意味を根本から理解できていなかった。

 アパートから一歩外に出た瞬間、真夏の熱風が身体を覆う。日が落ちる寸前でも、この季節は昼間の熱を忘れたくないというように、夕闇の中にひしと抱き続けている。じわじわと、汗がシャツに滲んでいく。
 そういえば、テリオンはこの世界の何を見てきたのだろう。例えば目の前の交差点を行き交う車。制御の効かない怪物のような白、黒、黄色や赤の塊を、彼は理解できるのだろうか? 先ほどエレベーターに乗った時は何事もなかったが、何事もなさ過ぎて気付かなかった。この文明社会を前に驚いていなくなってしまわないだろうか。心配になって彼の姿を確認する。が、どこにもいない。私の周りのどこにも。
 また消えてしまったのか。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。色も形も持たない風のように、彼はすぐどこかへ行ってしまう。それが彼らしく嬉しくて、そしていつも悲しい。
 ――『いつも』とは、いつのことだったろうか。
「……あ」
 車道をすたすたと歩く一風変わった青年は、間違いなくテリオンだった。歩行者用の信号は赤なのに、道を横切る彼の姿を誰も咎めない。車が止まるわけでもなければ、運転手は見向きもしない。まるでこの世界には存在しないもののように(果たしてそうであるが)彼に気付くこともないのは、私に対して、まさしく彼が幽霊であることを認めよと主張しているように見えた。
 車に触れるか触れないかのところで、テリオンは車体をひらりと避けて、まるでサーカスの曲芸師のように舞い踊る。私が彼に触れられないように、ぶつかったとしても当たらず轢かれることはないのだろうが、見ているこちらからすると冷や汗が止まらない。あ、とか、わあ、とか素っ頓狂な声を上げていたものだから、周りで同じく信号待ちをしている通行人らは私を奇異な目で見ていた。
 彼は、確かにそこにいるのに、そこにいない。私にしか見えず、私だけが存在を知っている。
 世界の裏側に隠された秘密を暴いてしまったら、こんな気持ちになるのかもしれない。この世の誰もがキミを知らなくても、私だけが知っていれば、そこには言葉にし得ない充足感がある気がした。
「さっさと来い」
 道の向かい側から投げかけられたテリオンの声。離れているのに、耳元で囁かれたように明瞭に私の耳に届いて、その直後信号が変わる。珍妙なものを観察するかのごとく私を遠巻きに見ていた人々が、青信号を合図に一斉に歩き出した。その流れに乗り遅れないように私も彼のほうへ歩み寄った。
「あんた、変人だと思われてるぞ」
 悪戯っぽく笑う顔に、少しむっとしてしまう。
「……キミがあんな危なっかしい動きをするからだよ……」
 今度はひそひそと小声で話すことに成功した。同じ轍は二度踏まない。



 残り一時間どころか三十分しかないが、本を物色して数冊借りるには何とか足りるだろうと踏んで、私は図書館の中を周回していた。
「キミが生きていた時代は西暦何年か、憶えているかい?」
「……そもそも『せいれき』とは何だ」
「え」
 聞き捨てならない言葉に、私は危うく館内の沈黙を破るところであった。思わず口元を覆う。「西暦って、四桁の数字の、年のことだよ」「何だそれは」「ええ?」歴史に関する書棚に到着した。しかしどの本を手に取ろうか決められない。
「……すまないが、キミの住んでいた土地のことを詳しく教えてくれないか」
 そこから、私がいかに仰天したか筆舌に尽くし難い。テリオンが口にするすべての情報が、私の知る限り、歴史上には存在せず、また不可思議なものばかりであったからだ。映画でしか見たことのないような話が私の周りを取り囲み、私を理解できない世界へと連れていく。つまり、私の住む世界とテリオンが生きていた世界は、同一ではなく全く別物であり、私達は未知なる世界にいる者同士であったのだ。
「ええと、つまり、キミが生きていた時代のことを知る術はないのだね……」
「だから言っただろう。何も分からんと思う、と」
「そういう意味だったのかい……はあ、とても残念だ。この上なく。私はキミがいた時のことを知りたかった。歴史が歴史であることを照合して、埋め合わせたかったのだけれど……」
「そんなことをして何の意味がある」
 さもつまらなさそうに言うものだから、つい声を大きくしてしまったことを、あとで後悔することになる。
「キミが生きていたことを証明できる!」
「……証明?」
「ああ! キミは確かに生きていたんだよ、それを確かめるのに歴史が最も適していると思ったんだ」
 ――そういえばこの世界には地球という我々が生きる星が浮かぶ銀河、そしてそれを包み込む宇宙という空間があるのだが、宇宙にはまだ分かっていないことが多くてね。実は我々の宇宙とは別の宇宙が存在して、我々の宇宙とそことが繋がっているのではないかという説もあるんだ。であればキミの世界はその別宇宙にあって、我々の世界と繋がっている可能性だってあるわけだよ、そうだろう? 我々はいまだちっぽけで故に宇宙について知らないことが多いのだが、もしかしたら百年後、いや五十年後には全く新しい説が生まれていて、それがキミのいた世界のことを証明する手段になり得るかもしれない!
 と続けざまに捲し立ててから、私は我に返った。館内には数えるほどしかいなかったが、まだ数人の利用者が残っていて、また係員が私を「けったいなものを見つけてしまったな」という目でちらちら見ている。
「……失礼」
 ひとつ咳払いをして、私は急ぎ足で出入口へと進んだ。テリオンはといえば、私の横で腹を抱えている。

 濃紺の空のもと、来た道を戻りながらテリオンが言った。「あんた、同じことを繰り返しているな」言葉の端々に笑いが見え隠れしている。同じこと、というのは、恐らく昨夜のことを指しているのだろう。彼が指摘する私の癖には自覚があるのだが、如何せん、この歳にもなると人間の性格とやらは変えることが難しいものである。
「そういえばキミは、驚かないね。車とか、エレベーターとか」
 私は恥ずかしくなって話題を変えようと試みた。
「……クルマ?」
「あの、道を走っている大きな機械のことだよ」
 視線で示すと、テリオンは「ああ」と的を得たように頷いた。
「……見慣れた。最初は驚いたがな」
 彼が私の先を歩く。日も暮れて人がまばらになった道を進む。通りを挟むように伸びるビルの窓には、ちらほらと、いまだ光が灯っていた。この時期に仕事だろうか、心の中で労りながらその前を通り過ぎる。
「ねえ、キミはいつから、自分というものを認識したんだい」
「さあな……気が付いたら、ここにいた」
「ここから違う場所へは?」
「行けない」
「飛んだりできないのかい?」
「そんな魔法は使えない」
 聞けば聞くほど、私の持つ幽霊のイメージ(勿論フィクションであることは承知の上だ)とは異なるようだ。
 自室へと戻ってきてから、私はここ一日のテリオンの話を頭の中で整理しながら、軽い夕食をとっていた。言うまでもなく彼は食べられないので、一人何をしていたかというと、またもや書斎机の前のソファで足を組み、何も発さず、ただ座っているのである。出来ることなら同じ食卓に座って話を聞かせてほしかったが、食事をしながらインタビューというのも(逆の立場ならまだしも)よろしくないであろうと踏みとどまった。
 彼は違う世界の人間、だった。その世界には魔術的なものが存在していて、人以外の動物、それも凶暴なものがおり、そして私の世界と変わらず戦争が起きたりするらしい。
 そんな別次元の彼に「空腹感は?」と問うと、短く「ない」と返ってきた。触感はあるらしいことを考えると、生きた人間が欲するものを死後は欲しなくなるのであろうか、食事は生命維持に必要不可欠な行為であるから。彼はもうそれを継続しようと努める必要がないわけだ。それがなにか、私の胸の奥に引っ掛かりを残して、途中から口に入れるものの味が分からなくなってしまった。
 呼吸はしているように見えても、そう見えるだけであって、彼の内側では血液が生成されることも心臓が脈を打つこともない。この部屋にはテリオンと名付けられた輪郭だけがあって、私はただそれを眺めている。しかしその内なるものを、瓶詰容器の蓋を開けて確かめるように、ただ彼の言葉によって知りたい、焦燥にも近い欲求が私を突き動かしていた。
「テリオン」
 食事を終え、私は書斎の椅子に腰かけた。必然的に相対することになった私達は、素行の悪い生徒と、それを呼び出した教師の図にも見える。自らの職がそうであるから余計に既視感があるのか、私は向かい合った我々の姿に懐かしさを感じずにはいられなかった。
 ペンを持つ。彼の話を書き留める準備をする。昨日記した文字の下に、今日は一体どのような話が連ねられるのであろう。
「キミは、キミの生きていた時には、どんなことをしていたんだい? どんな人と、どんなことを」
 話したくなければ話さなくても良い。でも、できれば聞きたい。そう言う自分の声が、融けかけた氷菓子のように柔らかくなっているのが、どうしてなのか分からなかった。しかしこれが効果的であったとみえる、テリオンは昨日は閉じたままだった唇を薄く開いて、物好きだな、と小さく呟く。
「――俺は……」

 俺は、人のものを盗んで生きてきた。
 生きるために盗んでいた。盗賊だった。一人だった。途中から途中までは、二人だった。だがまた一人になった。それで良かった。
 一人で良かったところを、俺を放っておかない奴らがいて、途中から一人でなくなった。
 旅をしていた。色んなところへ行った。砂漠も、雪山も、森も、遺跡も。
 途中、怪我をすれば薬屋が――俺を放っておかなかった奴の一人だが、そいつが、嫌だと言っても薬を寄越してくるから、それで治しながら、旅を続けた。
 腹が減れば酒場に出たり、野営する時には狩人が、これも俺を放っておかなかった奴の一人だが、野兎やらを捕って、皆で食ったこともあったな。悪くなかった。
 違う人生の、違う人間が寄せ集まって、旅をする日々は、まあ面白くないわけではなかった。
 ……その中でも、特にいけ好かない奴がいた。学者だったが、いつも何かに熱中していて、面倒な男だ。一度話し出すと止まらん。
 だが何故か俺に構ってくるから厄介だった。逐一俺の様子を確認してくるし、頼んでもいないのに何やら持ってくる。誰に対してもそうなんだと思っていたが、どうやら他の奴らに対しての頻度が俺より低かったことを考えると、何か別の意図があったみたいだった。全く、俺の何が面白かったんだか――。

 その学者の話になった途端、彼の口調が常の単調なものから抑揚のあるものに変化したので、ほう、と思わず感心したのである。彼にこのような変化をもたらす件の学者とは一体いかなる人物であろうか、と私は気になってつい「その人は、キミにとって好感の持てる人だったんじゃないのかい」と口を挟んでしまったのである。これがいけなかった。
「……今日はもう終いだ」
「えっ終わりなのかい」
「興が醒めた」
 そのまま彼はソファに身体を預けて、天井を見上げてしまった。
「……あんたの」
「え?」
「あんたの話をしろ」
「私の話かい」
「死人の話ばかりではつまらん」
 確かに不公平かもしれない。だが私は他人に語れるような誇らしい自伝を持ち合わせていないのだ。そう答えると「聞くだけとは良いご身分だ」と言われてしまった。
「申し訳ないね、今度までに面白い話のひとつやふたつ用意しておくよ」
「忘れるなよ、サイラス」
 視線を戻したテリオンがあまりに自然にそう口にしたので、幽霊というものはこちらが名乗らずとも名を知る技を身につけているのかもしれないな、と感心したのである。



 それから私は昼夜逆転の日々を過ごすことになった。夜にテリオンと会話をして、昼に寝る。こんな表現をすると自堕落な生活の代表者のようだが、余暇を利用しての結果なのだから責められるいわれはないつもりだ。
 彼から話を聞くのは、成功する日もあれば失敗する日もあった。一週間程度しか経っていないので、確率が高いのか低いのか判断できない。それでも、何も言ってくれないよりは比べ物にならないほど嬉しくて、それは砂漠の中から砂金を見つけるようなもので、何度も彼に質問を繰り返した。質問は時には掛け合いになって、真夏の夜に幽霊と言葉を交わすということが、私だけに許された特別な行為に感じたのだ。
 テリオンの話は事実面白かった。神官に商人、狩人なんて、この世ではお目にかかれない冒険奇譚だ。中でも彼にしか開けられないという宝箱の話には非常に興味をそそられたものだ。なにせ現代では宝箱どころか宝探しでさえアトラクションでしか行われないのだから、宝箱が存在するということだけでも興奮してしまうというもの。もし私の前にひとつの宝箱が用意されていたならば、その構造を解き明かすために一体どれほどの時間を費やしてしまうだろうか!
 一度だけ、テリオンの姿を残しておきたくて、スマホのカメラを向けたことがあった。だが彼の姿は画面には映らなかった。やはりか、と思うと同時に、彼を捉えておくのは私にしかできないと思うと、優越感に近い感情が湧いてきて、そんな自分自身に驚いた。私は自分のこの体験を、すべて纏めて友人と共有するつもりであったし、また休暇が終わったら友人を呼び寄せて彼に会わせてみたいと思っていたのだが、このまま私の中の秘密にしてしまおうか、という考えに天秤が傾き始めていた。結局、彼の映らないソファだけの写真が残された。
 さて、私は私の身に起こった妙な出来事についても述べておきたい。
 テリオンが現れてからというものの、あの不思議な夢が、日に日に色濃く描かれるようになってきたのである。
 初日こそ午後のうたた寝に見るような(まさしくそうであったし)夢であったが、その次の日はおぼろげな中身が徐々に型に収まっていくように明瞭になってきた。そうしてまたその次の日も。夢の中で、私は何人かの人々と言葉を交わした。どれも断片的で短く、紙芝居が入れ替わるかのごとく途切れ途切れであったものの、目覚めてからも内容を記憶するようになったので、私はテリオンの証言記録とは別に自分の夢についてメモを残すことにしたのだ。
 登場人物は、以前から現れる剣士の男と踊子の女性のほかに、なんと神官の女性、商人の少女と増えたのだ。彼女らの姿かたちは、テリオンが話した内容と相似していたので、きっと彼から聞いた話が夢に影響したのだろう。
 彼女らは若く、なのに自分の目的をはっきり有しており、夢の中であるといえども未来が有望な若人達には素晴らしい輝きがあり、私の心はその光によって磨かれるようであった。いつの時も、歳を重ねた者は若者の未来に対して羨望の眼差しを向けるものだ。私も同じく、そして彼らの行く末がどうか幸福に満ちたものであれ、と夢の中で祈っていた。
 その時、私の後ろからふらりと青年が現れた。私がいつも待っている――私が勝手に待っているだけであるが――あの青年だ。しかし夢の中で、彼の姿はいまだ形を得ず、私は存在だけを認知している。彼がいた、ただその事実だけを。彼の未来も輝かしいものであれ、と願いながら、その姿を見ることは叶わずに。
「おい」
 心地良い声がした。私を目覚めさせる声だ。今現在、私を眠りから起こすことができるのはただ一人だけである。
「……おはよう、テリオン」
「もう夜だがな」
 テリオンが書斎机のランプを灯した。スイッチをかちりと押すだけであるから、私の所作を見て覚えたものとみえる。光を受けて、彼の姿がはっきりを私の前に現れる。
「キミが現れてから私の一日が始まるようなものだから、おはようで合っているんだよ」
 なんだその言い分は、とテリオンは一蹴しながら、視線だけで私にソファから退くよう言ってきた。彼はこのソファがだいぶお気に召したとみえる。確かにアンティークにしては状態が良いし、座り心地も昔から使い込んでいたかのようにしっくりくるので、私も仮眠に使用するほどには気に入っている。「仰せのままに」と一礼しながら席を譲ると、彼は口角を僅かに上げて腰かけた。
「キミに聞きたいことがあるのだけれど」
「またか」
「すまないね、珍しい体験なものだから」
 私は大きな伸びをして、彼の向かい、書斎の椅子に座った。数日前の反省を活かし、アイスコーヒーは飲まなかった。あとで温かいスープでも飲もうと思う。
「キミは」
 私が彼にしてきた質問はすべて、二の足を踏むものではなかったのだが、これから口にする言葉は間違えれば彼を怒らせてしまうかもしれないな、と思うと少しだけ躊躇してしまった。不審に思った彼に「何だ」と促されて、もし気に障ったならあとで謝ろう、と開き直って言葉を続けた。
「……キミは、キミの旅仲間だった学者のこと、好きだったのかい」
 ほんの僅かなものであったが、私は見逃さなかった。彼の目が少し見開かれたのを。青葉を思わせる薄い緑、深い森にも似た濃い緑、その間に差し込む日差しのごとき光の雫。モザイクガラスのように多色に煌めくのが美しくて、しばしその色に見入っていた。
 テリオンの唇が、少し動く。どんな答えが返ってくるのか、一秒一秒待つのがもどかしい。だが結局、彼は明確には答えなかった。妙な質問をする、だとか、何故そこを気にするのか、などと言って、はぐらかしているのが分かった。
 ただ暫くして、ぽつりと、「命を懸けられる人間だった」とだけ答えたのが、私の身体に深い矢となって突き刺さったのだった。

 その日、私は久しぶりに夜のうちに眠った。いつ眠りについたのか分からないうちに眠っていた。もう少しテリオンと話したかったのに、彼が「もう眠れ」と囁く声がひどく身体に染み渡って――まるで乾いた土がようやく水を与えられたように――途端に夢に落ちたのだ。直前に、カーテンが閉まっているか確認したことと、逆転の生活が身体に堪えたのかな、と自嘲したことだけは覚えている。
 数日を経たことで、まるで現実のようにはっきりとした夢。しかしこの日は、その幻の世界がひどく慌ただしく、夢の中だというのに、私の背には冷たい汗が流れているのが分かった。
 私は短髪の青年の両肩を掴んで、強く嘆願していた。「助けてくれ、私を庇って彼が、」落ち着かない声は、私のものだ。私に揺さぶられている青年が、人を助けるために薬を作ることを生業としているのを、夢の中の私は理解していた。ひどく狼狽する自分を、もう一人の自分が冷静に見つめているような感覚であるのは、夢だからなのか。青年は私を落ち着かせようとするが、どれもうまくいかずに、途方に暮れているようだった。彼の顔が青ざめているのは、見間違いではあるまい。
 振り返る。剣士の男が、口元を押さえる踊子の女性を支えている。その隣では商人の少女が泣いていた。彼女を抱き締めているのは、狩人の女性だ。
 地面では神官の女性が跪き、額に汗を浮かべながら、両手を強く握って祈り続けていた。神への祈り。生命を繋ぎとめるための祈り。そのか細い指は震えている。彼女の前には――その膝元には、白髪の青年が横たえられている。
 私が、いつも待っている、テリオンが、血を流して。
 彼は身に着けている上着を赤黒く染め上げて、口元から短い息を繰り返していた。その姿を見て、私の肉体すべてが停止するのを感じた。心臓が氷漬けにされるのを感じた。世界が足元から崩れ落ちるのを感じた。
 これは夢であって夢ではない。この感情は幻想ではない。私はこれを覚えている。誰かの記憶を、私はなぞっているのだ。誰の記憶だ?
 テリオン。ああ、何故キミはそうやって。私はどうして、いつも、遅いのだ。
 悔恨の声がした。私の口から呪詛のように流れ出ているのであった。顔を覆う。指の隙間から、液体となった命が流れ落ちていくのを感じる。掬うことができなくて、引き留めることができなくて、嘆くしかない、無力な男。
 これは、私自身の記憶なのだ。

 息苦しさに目が覚める。突っ伏していた机から勢いよく身を起こしたせいで目眩がした。「なんだ、もう起きたのか」目の前で、テリオンが頬杖をついている。卓上ランプだけが灯された部屋で、ぼうと浮かび上がる姿が、肉体のない彼が、今はただただ儚く、霞のように映った。
「……夢を、見たんだ」
 心臓はいまだ落ち着かない。夢の延長線上で、私は急ぎテリオンの言葉を書き記したノートを机に広げた。隣に、私の夢のメモを。誰が、どんなことをしていたか。照らし合わせる。薬屋の青年に、狩人の女性。街の風景、人々の営み。そして、何故テリオンが私の前に現れたのか。頭が痛い。だがそれよりも、身体の内側が抉られるように痛かった。じくじくと傷口が開いていく。けれども止めることができない。私はこの先の事実を確認しなければならない。
 私の考えに誤りがなければ、私の夢とは、テリオンの世界とは。
「……私は……」
 私は、キミの中にいる、学者だったんだね。
 テリオンは驚かなかった。ただ静かに、答え合わせをする私の言葉を聞いていた。
「途中から私は、キミと、オルベリクと、プリムロゼの旅に加わった。キミはいつも皆と離れて歩くから、私はキミのことが気になって仕方なかった。そのままどこかへ行ってしまうんじゃないかって、気になって」
 それが、親愛になって、情愛になっていくなんて、自分ですら予想できるものではなかったのだ。
 神官のオフィーリア君、商人のトレサ君が加わって、そこに薬屋のアーフェン君、狩人のハンイット君が合流した。大所帯になった私達は、それぞれの目的のために協力し合って、旅をしていたね。
 街にずっといたら得られなかったであろう、沢山の経験がそこにはあった。
「けれども、途中で――」
 声がわななく。思い出したくもない悪夢が、私の脳裏に焼き付いている。拭っても拭っても消え去ることのない罪の記憶。
 旅の途中で、魔物の攻撃から私を庇ったテリオンが重傷を負って、その生命を止めた瞬間の記憶。
 その時の感情を、私は言葉として正しく表現することができない。哀惜、後悔、苦悩、それ以外のごたまぜの、絡み合った糸のような思いの数々が、あの頃のサイラス・オルブライトを縫い付けている。
「もう、終わったことだ」
 テリオンの声は冷静で、水がさらさらと滑り落ちるように、ただ部屋に流れた。

 彼は私を守った。私の未来を守った。彼の未来を引き換えにして。それが私を事切れる瞬間まで苛ませた。
 心の隅で、あの旅はいつまでも終わらないような気がしていた。誰も欠けることなく、完璧な円を描いたままで、終結するとばかり思っていた。キミがいなくなることなんてないと思っていた。どこかで忘れていたのだ、キミは私の想像より遥かに、キミ以外を見る人だということを。
 私は、キミに救われるような価値のある人間だったのかい。

 立ち上がる。足元が、泥の上を歩くように重く、ぬかるんでいた。テリオンの前に膝をつく。彼の靴の、爪先が見える。
 本当に、すまなかった。
 口にすると、口にする前よりも軽薄さが増したが、にもかかわらず私はこの他に彼に対する謝罪の言葉が出てこなかった。
「……何故あんたが詫びる」
「私はキミを死へと追いやった」
「そうじゃない。あれは俺の行動の結果だ。誰のせいでも、誰のためでもない」
「テリオン、」
「あんたは、あいつじゃない。この世界に生きる、別の『サイラス』だ。それに……悔やむ必要はない」
 言っただろう。命を懸けられる人間だったと。
 私の髪をゆるく梳く指は、テリオンのものだ。私の表面を確認してから、泣く子をあやすような手つきになって、それが私の深いところを慰める。
 ずっと伝えたい言葉があった。それを伝えられなかったことも、キミの未来を奪ったことも、ずっと悔やんでいた。なのにキミは、もういいんだ、って言うのかい。
「テリオン、もっと私に触れて、私に……」
 彼の右手が、私の頬をゆるく撫でた。初めて彼の身体を感じた。冷たくも温かくもない。感触だけがある。存在だけがある。顔を上げると、彼の目が細められる。
 堪らなくなって、縋りつくように彼を抱きすくめた。鼓動は聞こえない。けれども触れられる、彼に触れることができる。あの頃はできなかった、こうして感じることなど。
 テリオン、テリオン。
 何度も名前を呼んだ。そのたびに彼が「なんだ」と応えてくれるのが、迷い道からようやく抜け出せたような一筋の光と、近付きつつある道の終わりを指し示しているようで、はぐれないようにまた彼の名を呼ぶ。

 ねえ、テリオン。
 私はキミのことを、とても大切に思っていたよ。キミのすべてが欲しかった。私のすべてをあげたかった。
 もう叶わないけれど、ずっとそう思っていたよ。あの世界から私が消えるまで、ずっと。

 彼の首元で繰り返す言葉は、遠い過去の私が、どれほど望んでも口にできなかったものだ。それを今伝えたとして、どうにもならないことは分かっていた。あの頃の彼は戻らない。何も解決できない。それでも言わずにはいられなかったのは、あくまで私の望みで、一人の独善的な男の結末である。
 ふ、と彼が笑う気配がして、一度だけ身を離して、その顔を見る。
「生きているうちに聞きたかったが、死んでからでも悪くないもんだ」
 少しだけ緩んだ彼の口元が、記憶の中の彼と重なって、心臓の奥が熱い。
 キミはここから去るんだね。
 太陽が昇ったら、テリオンはもういなくなってしまうのだろう。それが嫌で嫌で、もう一度抱き締めて腕の力を強めるけれども、私の手では彼を縛り付けることはできないことを知っている。
 私は彼が自由でいるのが好きだった。どんな風景も、どんな財宝も、どんな人も、何も彼を留めることなどできなくて、それが私には眩しく映った。だからこそ言えなかった。告げることができなかった。私はそうやって先延ばしにして、気が付いた時にはいつも手遅れになっている。
 今だって、もっと早く気付けたら、もっとキミといられただろうに、なんて後悔している。
「テリオン、私にキスをして」
 言った後に、怒るだろうか、とまたしても思ったけれど、彼は少し目を泳がせただけだ。恥ずかしいのか、「一度だけだからな」と前置きをする。
「一度だけだなんて嫌だよ」
「せっつくな」
「何度でもしたい」
「ああ、もう」
 窘めるように私の唇をなぞる指の、ざらりとした感触。そのあと触れた彼の唇の、体温などあるはずがないのに感じた熱さは花火のようで、一瞬で消えてしまったけれど、「もう一度」と頼むと彼は再びキスを恵んでくれた。
 夜が過ぎ去って、朝が彼を連れていくまで、私達はキスをした。何度も何度も。彼を感じられるのが嬉しくて、哀しくて、瞼の隙間から生ぬるいものが溢れてきても、私は止められなかった。テリオンの親指がそれを拭って、どうしたものか、と困ったような顔をするので、またキスをせがんだ。泣き顔よりも、もっと別のものを彼に覚えていてほしかった。私の存在。私のすべて。私が、キミに渡せなかったものについて。
 この行為が、肉体のないテリオンの記憶に残るのか分からない。誰も証明できない。何故なら彼は幽霊なのだ。私だけが、彼を知っている。
 だが彼はきっと、忘れないでいてくれるだろうと思う。かつての記憶を忘れられなかった私のように、密やかに、宝箱の中にしまうように、残しておいてくれるだろう。それが、限りなく願いに近いものであっても、きっと。
 カーテンの奥に光が溜まっていく気配がする。もう少し、もう少しだけ私の前から離れないで、と祈るけれど、そんなものは通用しない。羽が触れたような感触を最後に、朝が私達の間に訪れて、そうっと瞼を開けると、再び世界に取り残された私がいるだけであった。
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 半年も経てば季節は様変わりし、鬱陶しい日差しは隠れて、この国では曇りか雪かばかりの日々が続く。身体の暖はトレンチコートで足りているが、首元が少し寒く感じて、マフラーを整えた。中央駅のホームは日曜の早朝ということもあって人はまばらだ。観光客か、私のように明日からの仕事に向けて出発する者か、粗方その二つに分類される。
 前に立つ若者二人は前者か後者か。ギターだろうか、一人は黒く細長い荷物を背負っている。もう一人のほうが話す「次の曲のこと考えてきたか」とか「雑誌の取材日は忘れてないだろうな」などという声に対し、ギターを背負うほうが適当に頷き返しているのが、二人の関係性を表していて興味深い。フードを被っているからよく分からないが、背負っているものと会話の内容から察するに、どこかのミュージシャンかもしれない。しかし私はそういう系統にはめっぽう疎く、俳優でさえ分からないので、有名人であったとしても知り得ないだろう。数ヶ月前もテレビでだったか、事故で昏睡状態だった有名人が奇跡的に息を吹き返したという、それはそれは感動的なニュースが流れていた気がするが、興味がなくて見ることさえしなかったくらいだから。
 私にはもう、そんな奇跡は起きない。
 高速列車を待つまでの間、その会話を盗み聞きさせてもらっていたのだが、あと五分ほどで終わりかと思うと少しの物足りなさを感じる。学校の生徒達を見ていると、オルステラの記憶がありありと浮かんできて、真綿で首を締めるように私を苦しめた。そのせいで夏からずっと仕事に身が入らず、かといって職を変えるのも踏ん切りがつかなくて、明日から暫くの間、地方都市の学会に参加することになっていた。少し環境を変えて気分転換でも、という同僚の勧めだ。道を歩いていても上の空であったから、見ず知らずの他人であるが、こうして誰かの話をゆっくり聞くのは久し振りである気がした。
 半年前、テリオンが消えてしまってから、私の時は一向に進んでいない。来る日も来る日も彼のことを考え、彼の言葉を思い出し、あの頃を夢に見ないかと眠りにつくが、オルステラの日々を見ることは二度となかった。夏が終わり、秋になり、冬が来ても、周りだけがひとりでに動いているみたいに取り残されている。それでもいつかまた夢に見ることができないかと願ってしまうのは、私がかつてのサイラス・オルブライトだからなのか、それともその記憶を引き継いでいるだけの、ただのサイラスだからなのか、もう判別することはできない。
 高速列車の到着を知らせるアナウンスがホームに響いた。私の列車はこの次だから、まだ時間があるのだが、座っているのも落ち着かなくて立ったままでいた。
 妙なことに、数分前から視界の端、向かいのホームにいる人達(こちらと同じくまばらなそれ)が、何やら私のほうを指さしているのに気付く。周りに何かあったか、と見渡してみるが何もない。不審物や、あるいは不審者がいるわけでもない。しかしこちらを見ながら密談のように話しているので、何ともいたたまれない。
 その時だった。
 瞬間、私の視界がぐるりと回転した。百八十度。自分の意思とは無関係に動かされた足が絡まりそうになるところを、何とか踏ん張る。先ほどまで向かいのホームを見ていたはずであるのに、今や自分が元いた場所を見ている。線路は私の背後だ。私の腕は誰かに掴まれている。え、と混乱のなか確認すると、先ほどまで前に立っていたギターの人が、私の左腕を掴んでいるではないか! しかも力強くて、正直少し痛い。
 私は瞬きの間に、その人物と入れ替わっていたのだ。何故?
「あんた背が高いから、盾になってくれ」
 フードの奥から声がした。若い、青年のようだ。数分前まで、隣の人に適当な返事を返していたのが嘘であるかのように、雲の消え去った空のような明瞭さではっきりと言葉を放つ。
 あ、と呆けた声が出た。
 私はこの声の主を、よく知っている。
 間を置かずに列車がやってくる。私の背後に滑り込む。風が舞い起こって、私の髪を荒々しく揺らした。列車が向かいのホームとの間に城壁を作る。それを合図に青年の手が離れる。
「助かった」
 後ろで、列車の扉が開いた。短い礼を述べて、青年が私の横を通り過ぎていく。同じく、彼の連れが「悪ぃ、あいつちょっと勝手なところがあってよ」と詫びていくのを耳にしながら、どうしてここまで耳に馴染む声が二つもするのだろうか、と頭の片隅で考えていた。
 いや、考えるまでもない。本能が告げている。
 私が、彼らの声を、私の奥底に染み込んだ声を、深く深く覚えているからだ。
 一等車両に乗った彼らを、慌てて目で追う。乗り込んだ後、ギターを降ろした彼――私の腕を掴んだ青年が、座席に腰かけてフードを下ろすのを、コマ送りの映画のように捉える。
 そういえば、数ヶ月前に一命を取り留めたという有名人は、ミュージシャンだった。歳はいくつだったか。ニュースで聞く前にテレビを消したから分からない。でも若かったはずだ。
 確かその頃はまだ夏で、私の前からテリオンが姿を消した少し後で――。
 車両の窓越しに目が合う。光が反射する、冬の吐息のような特徴的な髪色。窓の縁に頬杖をついて、僅かに口角を上げて、私を見る。

 テリオン。
 キミは、そこにいるのかい。

 列車の扉が閉まる。彼の視線が外される。出発し、彼が少しずつ遠ざかっていく。朝靄の中へほどけていくように、小さくなっていく車両を、私はいつまでも見送っていた。
 向かいのホームでは、あれはそうに違いない、とか何とかざわついていたが、それも一時で、ホームは間もなく静けさを取り戻した。次の列車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。次は十分後、十分後です。左から右へと流れる案内の声は、ひどく非現実的だ。
 彼が触れた左腕を、そうっと撫でる。そこから私の内部へ根を張るように、じわじわと、熱が拡がっていく。
 テリオン、キミはそこで生きているのか。鼓動を打ち鳴らし、血潮を巡らせて、誰にも妨げられない足で、またどこかへ行ってしまうのか。谷間を吹き抜ける風のように、キミはいつも前触れなく去ってしまうから。それがキミだったから。
 けれども、そこにいるのなら。それならば私はようやくこの場所に、私の価値を認めることができる。私も、ここにいてもいいんじゃないか、って。
 針が動き出す。私の中で、時が進む。
 キミと同じように、私もまた、遠い記憶とは違う道を歩み続けるだろう。枝分かれした可能性のひとつを、あったかもしれない未来を、私達は互いに進んでいく。あの、盗賊テリオンと学者サイラスでなくたって、私達は私達で、ここで呼吸し、生きていく。
 そうしたらまたいつか、キミに会えるような幸運が舞い込んでくるだろうか? きっと私のことなんて知らないだろう。でも、もし会えたなら、今度こそは私の話をしよう。面白い話をしよう。あの夏の日、キミにできなかった私の話を。
 この、新しい世界のどこかで。



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