から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

SNSにご用心
・「エーテルの青年」番外編。
#サイテリ #現代パラレル

「なんて顔をしている」
 この世のまずい料理を一気に口にしたら、きっと今のテリオンのようになるのだろうな。操作していた手を止めて、オルベリクは自分のスマートフォンから向かいの青年へ視線を移した。
 相手から無言で渡されたのは、同じ型のスマートフォン。画面をタップすれば、彼のSNSのメッセージ画面が表示されている。
「……偽装アカウント、覚えてるだろ」
 声に疲労感が滲み出ている。絞ればどす黒い液体が出てきそうな、重い声である。
「ああ。アーフェンが毎回付き合わされている、あれだろう」
 オルベリクも何度か見たことがあった。盗人稼業を隠すための、つまりアリバイ工作のためのSNSアカウントのことだ。そこに映し出されているのは、あたかも日常を楽しんでいるひとりの若者の姿。正反対のテリオン。口元を緩めた写真は、一見すると何ら不思議なところなどない。だがオルベリクのように、テリオンを知る者が目にすれば、悪寒が走るかもしれない。常日頃の青年と似ても似つかぬ姿に。
 自らがそのアカウントの投稿内容へ登場することはなかったが、毎回『付き合わされている』青年についてはよく知っている。オルベリクは頭の中の記憶領域をサーチした。危険な仕事を請け負うテリオンの、いわゆる闇医者を担当している、気の良い男だ。
「で? なんだこの山のメッセージは。何か関係があるのか?」
「……読んでみろ」
「良いのか?」
 ため息とともに「ああ」と答え、テリオンは天を仰いでソファに身を預けた。「疲れた、寝る……」言い残して目を閉じる。スマートフォンはもう午前三時を示していて、二人が次のターゲットにまつわる作業を始めてから、とうに半日以上は過ぎていた。どうりで目が痛いはずだ――目頭を揉み解してから、その手で件の画面を確認する。
 映り出されたのは、同一アカウントからの、おびただしい(と言うのが適切だとオルベリクは感じた)数のメッセージ。スクロールし続けてようやくたどり着いた最新のものには、
『よく一緒に写っている短髪の青年のアカウントを探しているんだが見つからなくてね。彼は友人かい?』
 とあった。
 アーフェンのことだな。すぐに理解した。笑顔の似合う青年を思い出しながら、不可思議なメッセージの送り主を画面に表示する。
「……大学准教授?」
 果たしてそんな知り合いがテリオンにいただろうか? 思案するが、思い当たらない。当の本人は寝てしまったために、少々のためらいがあったが、オルベリクは引き続き端末を拝借することにした。先月のうちに、テリオンからSNSの操作方法を教えてもらっておいて、ある意味良かったかもしれない。
 送り主の投稿内容を確認してみると、至って普通の、ありきたりな、日常の数々が書き込まれていた。学生だろうか、オルベリクの前で眠る青年と同じくらいの若者たちが写っている画像もある。
 ふむ、と顎に手を添える。
 普通の人物のようだが、生憎、我々には『普通』の知り合いがいない。
 オルベリクの指が、もう一度メッセージ欄へと移る。過去へ遡ってみよう。
 先週。
『この前あげられていた写真は隣町の駅前にある古い喫茶店だったね。キミはカフェが好きなのかい? あの日カフェにいたのはそのせいかい? では今度一緒にどうかな?』
 半月前。
『あの青年は誰なのか、キミとどういう関係なのか、考えるだけで眠れなくて最近不眠気味だよ。頼むから教えて欲しい。』
 先月。
『なぜ返信をくれないんだい。何かしたかな。』
 ――これ以上は止したほうがいい。本能が「危険だ」とささやいている。
 果たしてこの人物がテリオンとどういう関係かは不明だが、ひとまず我々を陥れようとする人物ではなさそうだ……ふう、と息を吐いて、スマートフォンを机に置いた。
 今度詳しく聞いてみるか。今はまず、エアハルトの起訴時の状況について調べを進めなければ。

 明朝。オルベリクの部屋にチャイムが鳴り響く。間延びした音は、マンションにアーフェンが到着したことを知らせていた。
 オートロックを開錠して到着を待っていると、いまだ眠り続けるテリオンの頭がもぞりと動いた。オルベリク自身は眠らず――それは彼自身の体力の賜物であるが――日の出を迎えたので、このまま朝食でも用意するか、と大きな伸びをした。力を抜くと、全身の筋肉が弛緩して少しばかり身体が軽くなった気がした。
 そのうちに部屋の扉が開く音がして、まもなく「よー」と、大きくも小さくもない声がする。
「おお旦那」
「早いな。今日は何をするんだ」
「偽装工作」
 やってきた青年は、意地の悪そうな笑みを浮かべてから、右手に持つ袋を床に下ろした。がちゃがちゃと、金属のぶつかる音にオルベリクが訝しげに覗くと、袋の中には金網やらトングやら、はたまた木炭まで入っている。
「一体何をするんだ……?」
「夏らしいことだぜ。海辺でバーベキュー」
「また、テリオンには似合わないことをする」
「右に同じ」
 いまだ眠る青年をよそに、二人は苦笑した。
 そこら辺に居そうな、毎日を謳歌する一般人。それを装うための作業に毎度付き合うアーフェンも、利害の一致とはいえ、よくやるものだと感心する。
「でさあ、これ買いに行ってた時によ、ダチに『SNSやってないのか』って言われたもんで、俺も作ろうかと思ってんだけどよ」
 アーフェンの言葉に、オルベリクは固まった。数時間前に見た、あの長々とした文字の羅列が浮かぶ。言葉の端々から滲み出る妄執が、アーフェンを襲う気がしてならない。
 ならば言うべきことはただ一つ。
「やめておけ」畳む
色のない狐
・サイラスの助手をする元罪人のテリオン。
・テリオンを放っておけないオルベリクとオフィーリア 。
・アトラスダムでの日々と食事と、人の可能性について。
#サイテリ #IF

 書類を手渡した時の固まった顔を見て、嘘だろうと思った。この学院の女どもが、この男にきゃあきゃあ喚いているのが。挙げ句の果て、しばし宙を見つめて「ええと、すまないが、もう一度お願いできるかい?」とのたまったので、話すことはこれだから面倒だと思った。
「……だから、寮の手続きの書類だ。サイラス兄さん」
「それ、それだよ!」
「……なんだ」
「兄さんとは?」
「……オルベリクから、そう呼ぶように言われている」
 俺の言葉に男は豆鉄砲でも食らったような様子で、一呼吸の間、口を中途半端に開けた呆け面でいた。それから少し頭を振って黒髪を揺らし、ふーっと長い息を吐いて、口を開く。
「待ってくれ、どういう意味だ?」
「……俺はオルベリクから、あんたの遠縁のやつとして扱われると聞いているんだが」
「……」
 初耳か、オルベリクの奴め。
 思わず舌打ちした。昼下がりの研究室に拡散した不穏な音は、生憎、この空気をかき消してくれることはなかった。
 誰からだったか、舌打ちするのは悪い癖だと言われた記憶があるが、人間二十を過ぎれば癖は習慣となり、薄い衣のように引っ付いて離れてくれない。もっとも、自分は悪い癖だと思ったことはなかった。

 少しの間、アトラスダムにある王立学院で助手として働いてこい。
 牢から出た矢先に言われた言葉は、俺を閉口させるに十二分だった。そもそも何故、俺を真っ先に出迎えたのがあの男――オルベリクであったのか、いまいち理解できないでいる。旅の途中で出会ったよしみか、流れ者の剣士は何かと俺の世話を焼く。観察してみれば俺だけではなく、奴が居を構える小さな村でも何かと忙しなくしていた。数年前の記憶ではあるが、恐らく今も変わらないでいるのだろう。
「じゃあな。確かに渡したぞ」
「あ、テリオン君、ちょっと!」
 『兄』に書類を押し付けて、俺は扉を思い切り閉めた。向こう側で何か聞こえた気がするが、気がしただけだ。閉じた勢いで、扉の『サイラス・オルブライト』という木札が左右に揺れるのを横目に、廊下を進む。時々寄せらせる不躾な視線も、薄っぺらい笑顔を貼り付けて応じれば、名も知らない学院の生徒達の警戒心はあっという間に解ける。
 ――こんな平和ぼけした様子で、こいつらは将来使い物になるのか?
 勉学に無縁であった俺にとって、ここは何とも居心地の悪い場所だ。
 学院を出てそのままアトラスダムの中央通りをしばらく歩く。途中の角を曲がれば、喧噪から離れたところに少し古びた建物がある。地方から出てきた人間向けの学生寮だ。その一角に、俺の仮住まいは用意されていた。
 学院での居心地の悪さを除けば、暫くは住処の心配をしなくてもよい。僅かながら金も手に入る。次の獲物、盗みの対象を探すにも、まあこの程度なら隠れ蓑によいかと思って、刑期を終えたばかりの俺はオルベリクの話を受けることにした。しかし、その対象が目立つ学者の、とは知らなかったが。
 学院に籍を置くには保証人が必要とのことで(大層なことだ)、それで急ごしらえの兄ができたわけであるが、オルベリクの昔馴染みだというあのサイラスという男は、有能らしく齢三十にしてなかなか良い立場にあるとのこと。俺とは似ても似つかない、髪の色など正反対。おまけに、誰からも声を掛けられない俺とは違い、男女問わずあいつに話しかけようと躍起になっている。
 この差があるにもかかわらず、オルベリクがなおもサイラスに協力を仰いだのは、奴の遠縁の者という情報付きで雇われるのであれば周りもすんなりと受け入れてくれるであろう――との目論見ゆえであった。あとは俺の、学者風の演技で見た目を飾り付ければよろしかろう。
 寮に足を踏み入れる。個室がいくつかあるが、俺の部屋は一階にあった。便利でよいことだ。
 建物内の日当たりは良いわけでもないが、悪いわけでもない。太陽が顔を出している時間が短くなったとはいえ、昼間は明かりが不要なくらいには日が入る。食事は各々好きにすればよいとのことで食堂はなく、小ぢんまりしている。必要十分な敷地には少し好感が持てた。
 自室の鍵を開けて入れば、扉の軋む音の向こう側に、机と棚、ベッドがひとつ。大人が三人くらい入れば狭苦しくなるような、しかし一人にあてがわれるには不満のない広さ。片付けられてそう時間も経っていないであろう部屋には、背負い鞄が床に置かれたままで、そういえば昨日の夜にやってきてからほったらかしだったと思い出す。とは言うものの、元罪人、盗賊を生業とする俺には荷物という荷物はほとんどない。
 内側から鍵をかけ、ベッドに腰掛けた。鞄は見ないふりをして横になる。学者のローブというのは少し重く、身軽さに欠けるので(だが丈夫そうではある)、この服の世話になることを考えると憂鬱になった。まだ日は高く眠るには早いが、その憂鬱さが俺の瞼を閉じさせていく。『兄』のことは頭から消えていた。



 授業を受けることが俺の仕事ではない。あくまで俺はサイラスの小間使いで、学生とは少し立場が違う。そのため、かかわる人間はごく限られている。
「おはようございます、テリオンさん」
 寮を出て一歩、後ろから声をかけてきたのは、その限られたうちの一人だった。本を抱きかかえた、同じ寮生のオフィーリア。二つ年下の、確か神官の女。神官のくせに、着ているのは俺と同じ黒いローブ。対照的な色彩をまとうことに違和感を抱かなかったのか。光に揺れる、結われた金髪が黒い服と比べて目立っていたから、ほんの少しそんなことを思った。
 ああ、とだけ答えて正面に向き直り、裏通りを進む。昨日よりも少し冷える朝だ。寮の前の通りは、石畳が霧を吹き付けられたように濡れていた。こんな様子では、季節が進み真冬になれば、路面は凍結するだろう。過去、滑って尻もちをつく学生が居たに違いない。
「朝食は食べました?」
 後ろから高い声が投げかけられ、背中に当たって落ちた。「……なんでそんなことを訊く」「わたしもまだなんです」だから何なんだ。
 こいつは会うたび楽しげだ。そんなにも朗らかにいる理由が分からない。この女を含め、世の中は理解できない奴らが多くて、とにかく相手をするのに骨が折れる。水と油、というより、歯車が食い違っているような感覚がする。
「一緒にいかがですか? その角を曲がった先の喫茶店、行ってみたいんです」
「俺が承るとでも思っているのか?」
「はい」
「……馬鹿なことを言うのも大概にしたほうがいい」
「えっ? 学友と一緒にごはんを食べたいのは、そんなに馬鹿な考えなのですか……?」
 俺はいつからあんたの学友になったんだ、そもそも学生じゃない。呆れて、そう言ってやろうと思って、俺はようやく振り返った。すると神官の女は、平然とした面持ちで立っている。その顔は、なんというか、何も変わったことを言った覚えはないと書いてあるような。たとえるならば、「呼吸とは?」と問われたら、「空気を吸って吐くこと」と答えるのは何ら妙ではない。それくらい、何かおかしいことを言いましたか? と俺を覗き込む。
 これは駄目だ。言葉が通じん。歯車がぎちぎち音を立てている。
「……わかった、わかった」
「ありがとうございます! おなかが減って、このままでは講義で寝てしまいそうだったんです。助かりました」
 寝て何か問題があるのか、とは言わなかった。口から発するものすべてが、意味をなさないような気がした。
 この女、オフィーリアの前で『学者風の自分』をしていないのには理由がある。
 編入試験で一緒になったオフィーリアとは、試験前に一度、街で鉢合わせたのだ――入学するわけでもないのに何故試験を受けねばならなかったのか、雇い入れ時の手続きに疑問を抱いたが、最低限の知識がなければ職員も務まらないというもっともらしい理由を述べられては受けざるを得なかった。
 オフィーリアと会った時、自分は単なる一人の人間で、つまり牢屋から出て間もないただの男。対してこいつは、アトラスダムで迷子の相手をしている途中、俺に助けを求めてきた神官。
 何故、見知らぬ土地で迷子の相手をしたのか。自殺行為にも程がある。
 俺にとっては、アトラスダムは詳しくないが、何も知らない土地でもなかった(過去、盗みを働いた経験によって)ので、二言三言、道案内のための言葉を交わした。だけで終わるはずが、その後、試験会場で会うことになろうとは。分かっていれば助け船など出さなかったのだが、時すでに遅し。
 結局、今更何を取り繕ったところで意味もない。よって、何もしないことにした。そんなことは知ってか知らずか、この女は会うたびに話しかけてくる。その数も、今日で両手を超えたところだ。

 神官なのにどうして王立学院へ来たのか、俺には全く関係なく興味もなかったが、オフィーリアという女は訊かずともすらすら話し始める。
「聖火教会へいらっしゃる方々と話をしているうちに、自分には知識が足りないと感じたんです」
 ふうふう、ホットミルクのマグカップに息を吹きかけてから、一口飲んだ。「蜂蜜が入っています、甘いです」美味そうに言うが、別に俺は欲しくない。
 早朝からテーブルを挟んで、学者の男女が二人、仲睦まじく朝食を食べている――傍から見ればそう映っているのだろうか。であれば残念なことだが、俺たちは知り合って日が浅い、ただの顔見知りだ。
「もっと色々知りたいと思いまして。せっかく教会へご相談に来ていただいても、ちゃんとお答えできないのは申し訳ありませんから」
 勝手に申し訳ないと思っていればよいものを。
 女の手はマグカップを置いて、次はパンを選択する。マグカップの中身を吸い込ませたような、白いパンだった。小さなボールのようにその手におさまる。女は行儀良く半分にちぎり、もふ、と口へ運んだ。
 大昔のことだ。パンという食べ物が小麦粉からできていると知った時、粉から何故こんなものが出来上がるのか、訝しく思った。いつの記憶か分からないほど、昔のこと。そもそも、子供だったのかそうでなかったのかあやふやだ。いつからが子供で、いつからが子供でないのか、自分の過去にとっては曖昧すぎた。
 女は柔らかい塊をもふもふ食す。こちらはさっさと食べ終わったので、ただその様子を見せられているだけである。こんな時間も、食べる気のなかった朝食も、すべては不可抗力の結果生み出された余分な時間。
 たまたま、今日がそうだっただけだ。
 足を組んだまま、行儀悪くコーヒーを含んだ。年季の入った椅子が少し鳴いた。コーヒーは不味くない。だが特別美味いわけでもない。どこまでいってもコーヒーに変わりなくて、黒く、苦く、そして朝にはお似合いの味をしている。
 ローブの無駄に長い裾だけが邪魔で、学者の奴らはよくこんなものを着て歩いていられるものだと感心した。
「美味しいですね」
 オフィーリアの満足げな声。どうしてそんなに四六時中ご機嫌がよろしいのか疑問だ。ホットミルクがそんなに美味かったのだろうか。
 遂に俺の口からは、耐えることなく、こらえることなく、仰々しく溜息が溢れ出た。「どうでもいいが、俺はもう行くぞ」「え、もうそんな時間ですか!」壁の時計を見ろ、時計を。
「あんたがホットミルクを飲み終えるまでは、猶予があるだろうよ」
 本当のことだ。講義が始まるまでは、まだ時間がある。しかしこっちは、その時間に合わせていては仕事に遅れる。仕事に遅れればその分、あの話の長そうな仮の兄上殿が根掘り葉掘り聞いてきそうで、想像するだけで嫌気がさした。
 残りのコーヒーを飲み干して、席を立つ。店主にリーフを渡して、扉をくぐった。半刻前よりは日の当たる領域が増えている。
 ――オルベリクの考えが分からない。何が面白くて、俺をあの学者の助手に推挙したのか。
 オルベリクを恨むわけではない、この話を受けると決めたのは自分であるから。しかし、意図が読めなかった。
「あのっテリオンさん! お食事代、ありがとうございます! 今度返しますから!」
 小走りで駆け寄ってくる足音に調子は合わせず、大通りを進む。神官、兼学者見習い様の声は意外とでかく、朝もやと同化してぼわりと反響した。もう少し静かにできないのか、と振り返らずに思う。
 濡れていた石畳はほとんど乾いていた。少しだけ、朝日にきらめきを残しながら。



「早いね、予定の十分前に到着だ」
 俺の顔と卓上時計の針を交互に見て、男は笑顔で頷いた。束ねられた黒髪が馬の尾のように揺れる。数歩先の白い光の中に、細長くて黒い影。この時間、東向きの部屋は明るすぎて眩しい。寮を見習ってもらいたいくらいだった。
「……今日の仕事は? サイラス兄さん」
「うん、慣れないねえ、その呼び方は」
「慣れてもらわないとこっちが困る」
「私もだ。是非、キミにも私に慣れてもらいたいと思っているよ」
 サイラス・オルブライトの研究室に入れば、様々な本、様々な物がそこらじゅうに溢れかえり、もしやこの部屋の掃除をするのが俺の仕事ではないだろうな、と疑った。昨日ここへ訪れた時、ふと目にした本の上には、既に新たな本が積まれている。同じ光景が部屋の四方八方で見られた。気付かないほうが良かったかもしれない。職業柄、物の配置を記憶する習慣があるが、それが嫌な方向へと発揮されたわけである。
「そういえば昨日、生徒から言われたよ。『あの新しい助手の方は、さすが遠縁だけあって礼儀正しい』とね」
 聞こえていないふりをする。代わりに、着崩れてもいないローブを直した。
「テリオン君。私はね、疑問なんだ。どうして他人の前で、わざわざ優等生を演じているんだい?」
「……関係ない」
「おや、私の遠縁の子は優等生ではなかったかな」
 どうやら俺の予想よりも、サイラスという人間は、順応性が高いようだった。
「私やオルベリク、オフィーリア君の前では、キミはそんな風でいるじゃないか」
「……あんたの助手になると知っていれば、もう少しましな態度でいたさ」
「助手という仕事は、オルベリクから聞いていたんだろう?」
「『あんた』の、とは聞いていない」
 有名な男の助手と聞いていればやめただろう。なにせ人目につくからだ。俺がどうやって稼いできたか知っている剣士のこと、まさかこんな男の助手の仕事を紹介するとは思わなかった。
 そこでふと思い至る――俺は、あの剣士を、内心どこかで信用していたのだろうか? と。まさか。しばらく道連れに旅した、ただ利害が一致しただけの相手に?
「処世術と言えば納得か? 『兄さん』よ」
 顔を覗かせた可能性を振り払うように、右側に積まれた本の頂上から一冊手に取った。少し厚みのある革張りの本の表紙には、『フラットランド地方の地形変動と他国との関係について』という、生きる上でまったく役に立たなさそうな文言が書かれていた。それをそのまま、円盤よろしくサイラスへと放り投げる。
「おっ、と」
 落とさなかったのは意外だった。学者先生らは皆、反射神経が欠けていると思っていたので。
「次の講義で使うんだろう」
「よく分かったね! 言っていなかったのに」
「……たまたまだ」
 本当にそうだった。今朝オフィーリアの手にこの本があって、オフィーリアは朝一の講義に出る様子で、サイラスの視線がこの本に注がれていた。それらから推測しただけ。
「ありがとう。では講義へ行ってくるよ」
「おい、仕事を寄越せ」
「あ、そうだったね。すまない、あまり助手を雇ったことがないものでね……正直思い付かないんだが……そうだねえ」
 そこで奴の目が、部屋を見回していることに気付く。
「今は講義中に手伝ってもらうことがなくてね。すまないが、そこらへんの本を本棚へしまっておいてくれないか?」
 嫌な予感というのは当たるものだ。これまでもそうだった。

 兄上殿が講義に行っている間、部屋には誰も来なかった。恐らくはこの時間、この部屋にサイラスが居ないことを知っているのだろう。昨日書類を持ってきた時には、先に数人の生徒――女ばかりでうるさかったこと――が先客として居たからだ。
 馴染みのない部屋で、本の片付けを進める。入り口正面には窓。向かって左右に本棚。時々、生徒の声が聞こえてくる。二階ということもあって、窓の向こうを誰かが行き交うこともなく、そういう点は都合が良かった。あの男の生徒なら、窓から覗き込むことくらいやりかねない気がした。
 いくつか手に取って分かったが、この部屋には多種多様な本がある。中には古代文字に関するものもあった。既に滅んだ文明の、今や使われることのない文字を誰が好き好んで学ぶと思っていたが、最低でも一人は存在することがこれで証明されたわけである。
 ここに通う学生らは、何らかの目的があって学んでいるのだろう。サイラスは目的があって教職に就き、何かを研究しているらしいし、オフィーリアも「知りたい」という目的を持っていた。
 俺が文字を読めるようになったのはどうしてだったか。
 古い記憶が、うっすらと、今朝がた石畳を覆っていた朝霧のように浮かぶ。俺が文字を読めるようになったのは、ひっ迫した生活の中でそれが必要であったからに過ぎない。高尚な目的など無い。ましてや教育という存在を知る機会さえも。
 何かを求めて進むのか、何かに追われて進むのか。どちらを選択したか異なるだけで、その先の道はこんなにも違う。差がある。
 哀しいだとか虚しいわけでもない。ただ、かき消すことのできない過去と現実が、俺の前後に立ちはだかっている。それが僅かな胸苦しさをもたらして、呼吸が薄くなった。手が止まった。
 つまらない演技の余白。朝飲んだコーヒーの黒い淵。完全なる上の空。
 朝霧の中から手招きするおぼろげな何かが、視界を覆っていく。だから、散漫していたのだ。自分の周りへの意識が。こんなに近い気配に、普段なら気付かないわけがないだろうに。
「どうかしたのかい?」
 左後ろ、肩のすぐ近くから聞こえた声に、手元の本が落ちた。その角が足の甲に攻撃を与えて、ぐっ、と唸り声をあげそうになるのを何とかこらえる。
「おや! 大丈夫かい……うん、痛そうだね」
「……放っておけ」
 情けない。見られたくない。鬱陶しい。一度に訪れた三重苦によって、先ほど感じた俺を取り囲むものは、すっかり何処かへ追いやられてしまっていた。
 良かった。
 何が? ――分からない。だが、あの薄暗い靄のような得体の知れないものが、固体と化して見えるようになる前に消えたことは、俺の呼吸を保つには必要なことであったとみえる。普段と変わらない息が戻って、すべてが正常値になった。
「しかし、こんなにも片付けてもらえるとは嬉しいよ。綺麗にしてくれてありがとう」
 サイラスの感想には応じず、「おい、講義は」と問う。すると「おや」と少しの驚きをもって、男は指で自席のほうを示した。
「第一講義ならもう終わったよ。一度も時計を見なかったのかい? ほら」
 そこで初めて卓上時計を見た。本が退けられてまことの姿を現した時計は、もう講義が終わって少し経ったことを示しており、何故気付かなかった! と文句を言ってきそうな雰囲気さえ醸し出している。仕方がないだろう、俺は忙しかったのだ。
「なら次の仕事を寄越してくれ、兄さん」
「うん、そうなのだけれど……準備が必要で、明日にならないと出来ない仕事しかなくてね」
「それなら、今日の俺の役目は終わりってことだな。寮へ戻る」
「あ、待ちなさい。そうではないよ」
「何があるというんだ」
「まずは、一緒に昼食でもいかがかな? 昼までそれほど時間がないし、ここに居なさい」

 かつかつとブーツを鳴らす男には、ついていっても良いことはないものだ。
 王立学院から出てすぐ、大通りの目立つところで店を構える料理屋へ案内された時、その洒落た雰囲気に気後れしそうになったのは言わないでおく。だが、こういう店へ足を運んだ経験が少ないからであって、入ってしまえばただの店。そう言い聞かせる。
「今までどんなものに扮してみたんだい?」
「……人の話が好きだな、サイラス兄さんは」
「私は学者以外に経験がないから、聞かせてもらえると擬似体験のようで楽しいんだ」
 昼休憩中の、しかも店内であれば遭遇確率は低いかもしれないが、近くを生徒が通る可能性があるために、こんな場所でもサイラスに対して例の役割を演じ続ける必要があった。苦ではない、こういうものは慣れと割り切りがすべてである。つまり、こんな店で飯を食うことも、慣れて割り切ってしまえばどうってことはないはずなのだ。
 千切られた葉物の上で、艶々と光るトマト。四つ切にされたその身へ、フォークを一刺しした。悲鳴を上げられる前に口へ放り込む。この街のことはよく知らない、しかし料理の質が良いだろうことは理解した。舌の上ですっと溶けたトマトの残り香。青臭さが全く感じられない。さすが王都だけあって、質の良い素材が集まってくるものとみえる。サラダとパスタが置かれた角テーブルの上は、男二人で向き合うには少々派手に思うが、それは追い払って食事へと意識を傾ける。
「オルベリクから、少し話を聞いたよ。コブルストンの近くで、旅の途中のキミに出会ったと言っていた」
 トマトの次はパスタ。フォークへ巻き付けて一口。適度な弾力の麺がソースと絡んで、香味野菜とともに胃へと落ちていく。ハーブだろうか、少し苦さを帯びた酸味がした。飲み込んだ時を見計らって、サイラスは話を続けた。
「その時、キミは剣士の恰好をしていたらしいね。だから剣士は経験済みなんだろう? 他には?」
「……色々だ」
「不都合でなければ教えてくれないかな」
 サイラスの皿は、既に半分以上が空白だった。袖元から覗く真白なシャツのせいか、残りの麺をフォークに巻き付ける仕草の中に、育ちの良さが見え隠れして、何故俺はこいつと飯を食っているのだろうと今更ながら考えた。オルベリクとも飯を食う時はあったが、ここまでではなく、互いに似たり寄ったりの作法だったと思う。
 そういえば、剣士という職業は。
 リプルタイドへ向かう前、コブルストンという小さな村の近く。魔物相手の太刀筋が、あまりに粗雑極まりなかったのだろう(見られていないと油断していた)、村へ戻る途中のオルベリクにまがい物だと見抜かれたことが、俺とあいつの始まりだったのだ。
 見ず知らずの俺に「教える」と言うなんて、しかも「報酬は不要だ」と言うから酔狂にも程があるが、習得して損はないために仕込んでもらうことにした。正しい(と一応述べておく)剣士の技はそこで得た。俺がコブルストンに――同じ場所に暫く滞在したのは、あれが初めてだった気がする。だがその後、芸を披露する前に牢屋行きとなったわけで、いまだ剣技は日の目を見ていない。
 剣舞よろしくフォークを回転させて、最後のトマトへ突き刺す。無駄に会話が続くせいで食事のほうはあまり進んでいなかった。トマトとともに葉物も串刺しにして食す。異なる歯ごたえを楽しむことなく飲み込み、皿へ視線を落とした。まだ食べ終わらない野菜と麺が、早くしろ、早くしろ、と訴えかけてくるようで、それを退けるべく口を開く。
「……商人、薬師、踊子」
 商人は貴族の屋敷へ忍び込むために。薬師は村人を油断させるために。踊子はその日の金を手っ取り早く稼ぐために。
 すべて、装った目的は職業とは何ら無関係。剣士と違い、技は盗み見て覚えたもの。真似事はできても本物には追いつけぬ程度の技量であるから、いつまで通用するか。何処まで追求すればいいのか。深度が中途半端な潜水のように、深い場所へ辿り着かないまま、浮いたり沈んだりしているようだ。
 時折、自分が何者になりたいのか、何者であるべきなのか。日がふっと陰るかのごとく、思考が混濁することがある。余計なことを考えてしまうのは、それこそ『悪い癖』だろうに。
「そうなんだね。では、学者は初めてか」
「……だったら何だ」
「うん? 嬉しいな、と思って」
「……嬉しいだと?」
「キミが学者という、新しい経験を積むわけだから。経験は、知識では到底補えない。助手とはいえ学者の端くれだ、是非色んな経験を積んでほしいと思うよ。私も出来る限り協力させてもらいたい」
 ふざけた言葉に顔を上げると、サイラスは目を細めて指を組んでいた。その上に顎を置き、この上ない楽しみを噛みしめるように、うんうん頷いている。その口の中には料理の後味しかないはずなのに、とても甘い、美味い菓子でも食べたのかと思うほどの表情。
「……幸せ者だな」
 呟きは店のざわめきに紛れ込ませた。幸せ者だ。無論、この男が。他人の話でそこまで飛躍できるとは。望んで学者の経験を積みたいわけではないし、あんたに協力を仰いだ覚えもないんだが。
 残りのパスタをフォークで乱雑にひっくるめ、口へ押し込む。悔しいことに味だけは変わらず美味かった。こいつの、店を選ぶ感覚だけは認めてやる。
 内心そう褒めた時、サイラスが「明日からもお願いしたいんだ」と言ってきたので、はて何のことかと手が止まった。
「昼になると、何故か生徒がよくやってきてね。講義の内容に興味を持ってくれてとても嬉しいのだけれども、食事ができず午後の講義へ向かうのは少々辛いときがあるんだ」
 何故か、って何故か分からないのか。あんたとお喋りしたいからだろう。
「……腹が減って集中できないから飯が食いたい。そうはっきり言えばいい」
「キミは率直に言う性格なんだね。けれども、折角足を運んでくれる生徒達を邪険には扱えないだろう?」
「なら食わずにいるんだな、優しいサイラスお兄さん」
「なんだか刺々しいね……? だからテリオン君、キミに昼食の相手をお願いしたいんだ」
 昼飯一回、安くても約五百リーフ。この食事ならば約千リーフ。助手の月給は高くない。塵も積もれば何とやら。
 頭の中で瞬時に計算された当面の食費が、悪い条件ではあるまい? と告げてきて、「仕事の一環なら受けてやる」と答える以外は良い方法が浮かばなかったのだ。



「それで、サイラスさんとお食事をされていたんですね。あのお店にお二人でいるのをお見かけした時は、少し驚きました」
「……望んだわけじゃない。あんたとの『これ』もそうだ」
「でもこうして、朝食にまたご一緒していただけるのは……わたしは、とても嬉しいです」
 どいつもこいつも、おめでたいやつ。持ち上げたコーヒーカップ、その表面に陽の光が映り込み、波紋ができて揺らめいた。
 初勤務から数日後、再びオフィーリアに捕まった。そうして今、またしても同じ店で朝食に付き合わされ、食いたいわけでもないパンとコーヒー、そしてホットミルクを前にしている。この前のサイラスとの一件を見ていたらしい、「どうしたんですか?」と訊ねられた。どうもこうも、と返しても良かったが、知りたいと顔に書かれているのを見れば、言ったところで何にもならないし何度も聞かれるのも手間なことを、あえて伏せておく必要はないかと思った。
 他人と食事をするのが続くのはいつ以来か。しかも、残飯でもくすねたものでもない、まともな食事が。
「近頃のサイラスさん、午後の講義が大変ご機嫌が良いようで。生徒さん達がそう話していました」
 パンを食べて、オフィーリアが言う。サイラスの機嫌が良い理由は知らんが、あらかた腹が膨れて満足だからではなかろうか。
 ところで、こいつはサイラスのことを「サイラスさん」と呼ぶ。というのは、旧知の仲である共通の知り合いがいて、サイラスとは以前から顔見知りだったらしい。サイラスの方も「先生」と呼ばれるのは慣れないとのことで、これまでどおり「サイラスさん」と呼んでいる――と、オフィーリア自身がついさっき説明した。
「昨日、講義に一緒に出られていましたよね。サイラスさんのお手伝いをされに」
 気付いたのは少し意外だった。その時の俺はローブのフードを深めに被っており、視界は足元近くに限定されていた。向かい合う相手の表情を確認することは難しい状態であったのだが、オフィーリアの言葉どおりに受け取れば「すぐに分かった」という。
 手伝いといっても、実験器具の持ち運びや準備をした程度で、生徒とは会話すらしていない。昨日はある鉱石に火と水の魔法を交互にかけるとどうなるか、その変化を観察するという講義で、器具を並べる俺の手元をまじまじ覗き込む視線に辟易したものだ。誰の視線かと思えばサイラスのもので、生徒ではなく何故あんたがじろじろ見ている、そんなに危なっかしい手つきだったか、と口を開きそうになったところを耐えた。あれは忍耐力を鍛える講義だったか。
「テリオンさんの雰囲気が出ていましたから、分かったんですよ」
 柔和な笑みをたたえて、オフィーリアはマグカップに口付けた。
 もし「どんな雰囲気だ」と訊ねたなら、きっとこいつのことだから、俺には到底似合わない言葉を並べてきただろう。それを聞いてみたいような、聞きたくないような、どっちつかずの気分で俺もコーヒーを啜る。白く、丸いパンは、丸いまま。
「わたしは短期留学なので短い間ではありますが、やっぱり一人の食事は寂しく感じます。初めてテリオンさんを朝食にお誘いした時、実は……とても緊張したのですが、ご一緒して下さって嬉しかった」
 今日もです。一緒に食事をして下さって、嬉しいです。
 そう頬を緩めるので、何ともむずがゆいものが俺の身体に走って、蹴散らすようにパンを掴んで噛り付いた。柔らかい、小麦の焼けた匂いが、ほのかに甘い生地が、さっきまで舌に漂っていた苦味を打ち消していく。
「パン、美味しいですよね」
 正面から少し高い声がした。そいつの飲んでいるホットミルクのような、俺が噛り付いたパンのような、まろい声。
 不味くはない。ので、頷いておくことにする。
 ――助手としての業務には「誰かと朝食および昼食を一緒に食べること」が含まれますよ。今まで見てきた風景とは異なりますよ。
 そう誰かが耳打ちでもしてくれれば良かったものを。誰か、とは誰だ。存在しないものに突っかかることはできないし、何かが変わるわけでもない。変わらないことは、俺の仕事に、飯代を払わなくてもよい代わりに食事に付き合うという項目が追加された、ということである。ただし、朝食代は例外だ。オフィーリアに支払わせる理由はない。俺が渋々付き合っているだけなのだ。
 こいつは、俺が盗賊だということを知っても、こうして食事をする気になるのだろうか。
 サイラスは十中八九知っている。オルベリクを介して、俺の背景をほとんど把握しているだろう。その上で雇ってもよいと判断したのだから、幾ばくか、俺に対する信用があるとみえる。
 しかしオフィーリアをはじめ、サイラス以外のアトラスダムの連中は、何も知らない。本当に俺を「サイラスの遠縁の者」としか見ていない。人間は残念なことに、与えられた情報が信頼に足る人物から発されたものであれば、たとえ嘘であれ毒であれ飲み込んでしまうようにできているようだ。
 職も中身も偽り人を騙してきたことは数知れず。にもかかわらず、自分の『本当』を知らない人間を相手にすることの、裏切りに似た感覚。雨水が溜まって濁っていくように、それは身体の内側から一切流れ出ることなく俺を浸し、澱んでぐちゃぐちゃになった罪悪の意識と融合させようとする。そのまま一つになって、すべて自分だけのために、利己的に考えられるなら、こんな妙な心地にならずに済んだのだろうか。
 俺はどうしてここに座っているのか。サイラスと、オフィーリアと食事を続けているのか。
 この街で、何をしたいのだろう。

 夕方、サイラスが「頼みたいことがある」と言ってきた。日暮れ近くに仕事の話を切り出すのは珍しい。助手業務を始めて暫く経ったので、そうかやっと学者らしい仕事ができたのか、と思ったが、違った。
「薬師に扮したことがあると言っていたね。その……頭痛に効く薬は、調合できるのかな」
「はあ?」
 自席で手を組みながら真剣に言うものだから、どれほど深刻な話かと思えば。間抜けな声を上げたところにノックの音が飛び込んできたので、俺達の会話が一時停止する。立ち上がり、扉へ向かおうとするサイラスを「俺が出る」と制した。唇に指を立て、喋るなよ、と念を押して。
 女生徒が一人立っていた。サイラスの講義に出席していた覚えがある。応対したのが俺であることに驚いている、と同時に落胆を滲ませた表情。あんたの求める男でなくて残念だったな。思いつつ、極力緩やかに話しかけた。
「ああ、申し訳ない。サイラス兄さんは取り込み中で、不在にしています……ええ、そうですね……また明日お願いできますか?」
 出来の良い『サイラスの身内』を演じるのに苦労はない。慣れと割り切り。昼食の料理屋と同じ。
 ご丁寧な『サイラスの身内』は生徒を見送る。廊下の端を折れて完全に見えなくなったのを見計らい、扉を閉めると、サイラスがすぐそこに立っていた。
「……なんだ、その目は」
「いやあ、本当に素晴らしい演技力だと感動してしまって」
「分かったから座れ、見つかったらどうする……で? 頭痛が何だって?」
 ぐいっと押しやると、長身は可動壁のように動いた。そのままサイラス専用の(俺がそう定義しているだけだが)椅子へと身体を戻す。
「ああ、その……ここ最近眠りが浅くてね。頭が少し痛いんだ。薬師を経験したことのあるキミなら、痛み止めを調合できるのではないかと」
「寝ろ」
「え?」
「寝ろ。とっとと寝ろ。今すぐ帰って寝て明日の朝まで起きるな」
「今すぐとはまた……」
「あんたがここ最近、何やら遅くまで熱心にやっているのは知っている。自業自得とは言わんが、不調だと思うなら問題に対処しろ」
 喋りながら手を動かす。今、薬師の道具は持っていないが、研究室には乳鉢と乳棒、その他計量に必要な器具が揃っている。加えて手持ちの鞄の中には、確かスイミンカの葉とブドウの樹液があったはずだ。これで良いだろう。
 壁際の棚から道具一式を取り出し、応接用の机の上に陣取って並べる。それから素材を手に取って、サイラスへ一つ仕事を与えた。
「おい、このスイミンカの葉を凍らせろ」
「えっ? 魔法でかい?」
「それ以外に方法があるのか?」
「……ないね」
 氷結魔法を調節して葉を凍らせるなんて芸当、こいつくらいしか出来ないだろう。実践するのに少々骨が折れたようで、部屋の隅で何やら唸っていたが、結果的に上手くいったようだった。ただし、聞こえてきた音から推測するに、床が少し凹んだらしい。
 まずはスイミンカの葉を乳鉢の中ですり潰す。薬研ほどではないが、凍った葉は乳棒でも簡単に粉末状になった。そこへ計量したブドウの樹液を少しずつ混ぜていく。仕上げに、研究室のティーセットに添えてあった蜂蜜を。するとさっきまで苦々しい雰囲気を放っていた匂いが、途端に甘い果実のように変化した。
 出来上がったものは見た目こそ悪いものの、睡眠導入剤にはちょうど良い程度の効果を発揮する。ちょうどブドウの樹液が入っていた小瓶が空になったので、匙でそこへ移してサイラスへ渡した。
「これを寝る前に飲め。よく眠れるはずだ」
「すごいね、キミの手さばきは……ありがとう」
「……別に大したことじゃない。それより早く回復しろ。でないと周りの生徒がうるさくてたまらない。戸締りは俺がやるから、もう帰れ」
「はは、そうだね。では今日はこれで失礼するよ。本当に、ありがとう」
 小瓶を大切にしまうのを見て、そんな大層な薬ではないのにと思う。頭痛がするはずなのに、そんな気配を微塵も感じさせずに部屋を後にしたサイラスの、去り際に見せた嬉しげな顔は何だったのだろう。
 薬師らしいことをしたのは、思えばこれが初めてだったのかもしれない。誰かから感謝らしい感謝をされたのも、多分。王立学院からの帰り道、月光を踏みしめながらそう考えた。
 翌日。えらくすっきりした顔で俺を出迎えたサイラスは、「あれは独自に配合したものかい?」「蜂蜜を入れたのは何故だい?」などと、眠り薬についての質問を朝っぱらからぶちかまし、俺に一蹴されることとなる。



 向かい合って食事をして、講義の助手や本の整理をして、また向かい合って食事をする。一人になる時間が、以前の半分ほどの日々が暫く続いた頃だった。
「サイラスから手紙が届いたのでな。どんな様子かと見に来た」
 ある休みの日の夕方、いつもどおり夕飯を食わずにそのまま寝入ろうかと野良猫のごとくベッドに沈んでいたところだった。ドアを叩く控えめな、しかしどう考えても男の拳の音。開ければ、最近目にしていなかった薄藍色の剣士の服が飛び込んできて、しかしそれ以外は見えず視線を上へとやると、見覚えのある顔。
「……オルベリク」
「壮健そうだな。変わりはないか」
「……まあな」
「なら、少し付き合え。お前のことだ、また夕餉を食わずにいるんだろう」
 コブルストンでの生活を覚えていたらしい、オルベリクはジョッキを持つ仕草をして、夕暮れに身を任せようとする街へ俺を連れ出した。
 何故、こいつらは誰かと飲んだり食ったりしたがるのだろう。その謎を解明することを、サイラスに議題として提案したならば、あの頭脳の暇つぶしになるかもしれない。だが面倒なほど考察してくるに違いない。
 頭の片隅に、講義の時のあいつが浮かぶ。均された道のように整然とした語り口。それに聞き入る生徒たち。女の生徒に至ってはある種の信仰と化している。だが、まあ、なんとなく分かる気がした。サイラスの話は、言葉は、不思議なことに土に染み入る清い水のごとく、すうっと響くから。
 身体に馴染んできたローブは羽織らず、軽装で(ただし生徒に見つかってもよい程度のもので)酒場へと向かう。ひゅうっと通りを過ぎる風の冷たさは、季節が冬へと進んだことを立派に証明していた。ストールで首元を閉じておく。
 体格の良いオルベリクが隣に立つと、途端に自分が小人にでもなった気分になるが、俺以外でも恐らくそうだろう。その腰に携えられた剣の金属音が、すっかり暗くなった世界に小さく拍子を刻んだ。犬が木張りの床を歩く時の、爪と床がぶつかり合う音に似ている。こいつが大きな犬になって街を練り歩くのを想像したが、あまり似合わんな、と取りやめた。
 この時期は僅かな時間で太陽が落ちる。代わりに、空に穴をあけたように月が浮かんで、街をぼうっと照らしていた。寮から少し離れた、街の広場の一角に酒場はある。大小二つの影が入り口をくぐれば、程よいざわめきが飛び込んでくる。アトラスダムは王都だけあって人も多いが、落ちぶれた奴が多いわけではない。どこか上品な酒場の雰囲気がそれを表していた。
 葡萄酒を二つ注文して、壁際のテーブルに陣取る。「この時期は香辛料と果物を入れた温かい葡萄酒が出るんだ」そうサイラスが言っていたのを覚えていたせいだ、いつもなら頼まない。だがそれを差し引いても、この酒場にはエールより葡萄酒のほうがお似合いのように感じたのである。加えて、この剣士はそちらのほうを好んでいた。
 傍の小窓からは、酒場から漏れた明かりが石畳に映り込んでいる様子が見える。その輪郭は上から降り注ぐ月明りに滲んで、闇に溶けていた。
「……あんたが来たってことは、そろそろ潮時か」
「よく分かったな」
「未来永劫、この仕事が続くことはないからな」
 視線を戻す。言葉を探す剣士の、少し申し訳なさそうな目。でかい図体に不釣り合いの様子に「気にしていない」と応じたのは、気遣ったわけではない。
「……あんたがこの仕事を紹介した理由が分かった。コブルストンでのことを、引き摺っているんだろう」
 オルベリクは答えなかった。ただ目を伏せて、小さく「済まなかった」と言った。
「……村人だって、良かれと思って衛兵を呼んだんだ。悪人はそいつじゃない」
「たとえそうだとしても、脱獄できたのにしなかったのは、俺のためではないのか」
「考え過ぎだ」
「……ならば、そういうことにしておこう」
 牢屋を出た途端、何故オルベリクが居たのか? アトラスダムに来てからその理由についてしばしば考えたが、可能性はやはり一つしかない。この剣士は律儀なことに、過去の出来事をずっと悔やんでいたらしい。
 コブルストンに滞在して数ヶ月が経ったある日、村に近隣の街の衛兵がやってきた。言うまでもない、俺を捕らえるためだった。呼んだのは村人のうちの一人。オルベリクを慕う若い男。
 そいつは正しいことをした。俺を怪しい人物と踏んだ勘は大当たりだったってわけだ。前の街で行った盗みは何だったか。足がつくようなことも証拠になるようなものもなかったが、騒ぎになるのは嫌いであるし、先ほどの話ではないが、オルベリクの立場が悪くなるのも面倒だった。何も言わず捕まったことが最大の証拠とみて、意気揚々と俺を連行する衛兵らの表情は、過去に何度も見た覚えのあるもの。
 犯した罪の規模など無関係に、悪人は例外なく裁かれるべきで、悪人には罪滅ぼし以外の生き方は許されない。そういう、正義の代行者の顔をしていた。
 葡萄酒が運ばれてきた。湯気の立つ、白くて大きな陶器のグラスが二つ。表面を見ると、深い赤紫色の液体の中に、厚く切った果物が浮かんでいる。それを互いに手に持ち、掲げた。乾杯の合図。
 一口含むと、香辛料の少しひりつく味、そして柑橘の香りが鼻に抜けて、熱い葡萄酒の風味と合わさり甘酸っぱく喉を駆けていく。口に合ったのか、オルベリクは頷きながら「美味い」と呟いた。
「甘い酒はあまり飲んだことがなかったのだが、こういうものもあるのだな」
「……寒い時期に出る酒らしい。香辛料が身体を温めるんだと」
「ほう。サイラスが言っていたのか」
 察しの良い剣士にはすぐ分かったようだ。言わないほうが良かったか。
「サイラスはどうだ。手紙には、お前の働きぶりが良いと書いてあったぞ」
「……別に、どうもしない。それよりいつだ、仕事の期限は」
「一週間後にしてある。それを逃すと、恐らく山越えが厳しくなる。変えるか?」
「いや、そのままでいい」
 妥当な期間だ。助手の仕事の期間について最初に何も言わなかったのは、オルベリクなりに考えがあったのだろう。サイラスのような学者の助手である、と言わなかったのと同じように。
 同じ場所へ長く居座ると、盗賊稼業を続けることはできない。この仕事を続けるか、続けないか。選択する権利を俺に委ねるところが、義を重んじるオルベリクらしかった。
 サイラスはどうだ?
 どうもしない。サイラスと数ヶ月かかわったところで、何も変わらない。オフィーリアも周りの人間も、身元が保証された『サイラスの付属物』として俺を扱っているだけで、それ以上でも以下でもないのだ。きっとオルベリクは、サイラスの近くに俺を置くことで何かを得てほしかったのだろうが、生憎の結果となったわけである。
 ただ唯一、他人と居る時間が増えたのは、変化と呼ぶべきなのか。いまだ分からないでいる。
 ぐ、と葡萄酒を含んだ。喉から胃に落ちるまでの僅かな距離でさえ、通り過ぎる熱さがまどろっこしくてかなわなかった。

 翌朝、オルベリクと王立学院を訪れると、暫く会っていなかった友との突然の再会に、サイラスが今にも踊り出しそうなほど喜んだ。しかし「あと一週間よろしく頼む、兄さん」と伝えると、ぴたりと動きが止まったので、あたかもねじ巻き人形のように見えた。ねじを巻けば踊り、終われば止まる。
「……オルベリク、そんなに短かったかな?」
「雇用期間は決めていなかったからな。だが、テリオンにも予定がある」
「そうか、そうだね……」
 物分かりが良いのは学者ならではなのだろうか? ともあれ、予定らしい予定はないにせよ、コブルストンの近くにそびえる山脈を越えて暫く行くと交易に栄える街があると聞いたので、次はそこへ行こうと考えてはいた。何やら良い品物がありそうな匂いがする。
「ならこの一週間は大切にしなければならないね。せっかく学者らしくなってきたのだから」
「そうなのか」
 オルベリクの言葉に首を振る。
「別にそんなことはない」
「いや、テリオンは学者の才があるよ! 実に器用だし、臨機応変に判断できるから、私は是非勧めたいね」
「やめろ」



 一日一日を大切に、なんて敬虔な神官じゃあるまいし、俺は変わらず仕事をこなすだけであって、サイラスも何か特別変わったことを依頼するわけでもなかった。ただ、本人はいつもより忙しない様子で、あれこれと何かを書面にまとめたり、別の教師に大量の書類を渡したりしていた。また眠れないだとかぼやくのではないかと思っていたが、意外と弱音を吐くわけでも不調を訴えることもなく、時間が過ぎていく。
 さて、自分がこの街を去ることを、オフィーリアに告げるべきかどうか。結論として、告げないことにした。俺が居なくなったことで何か影響があるわけでもないので、そのままでよいと判断したのだ。
 だから出発前日の朝に、寮の前で「どうして言ってくれなかったんですか」と言われた時は、何故知っているのかと驚いた。
「明日出発するなんて、聞いていません……サイラスさんから聞いて……」
「……あんたには言っていなかったからな」
 あのお喋りめ。と、心のうちでサイラスを叱っておく。
 寮の壁は濡れて色が黒ずんで、常ならば多少は風情のある景観も台無しだ。こんなところで二人、頭からフードを被って話していても、何の得にもならない。
「これから仕事がある。じゃあな」
「あの、わたし……知っていました。テリオンさんが、盗賊だってこと」
 語尾が小さくなって、雨粒と一緒になって落ちた。歩き始めた俺の足を止めるには十分な言葉が、オフィーリアの口から発せられる。
「前に、フレイムグレースで噂を……小さな村で捕まったと。信者のかたに、その時の様子を見ていた人がいて……」
 告白するような声は震えていた。そんなに恐ろしいなら言わなければ良かったのに。とうとうすべてを無視できなくなったことを悟り、「ならどうして」と口に出てしまえば、あとは止まらなかった。
「あんた、どうして俺に話しかけた? どうして会うたびに食事に誘った?」
 しとしと、雨がローブに当たる音が耳元で弾けて、消えていく。何度も、何度も。
 オフィーリアの、一転して強い声が響いた時、その音が雨の中を駆け抜けるのを目にした。
「そんなの、簡単です。わたしがテリオンさんと、一緒に居たかったからですよ」
 ただ、それだけなんです。か細い声で言うので、泣いているのかと思った。実際は、その目からは何も溢れていない。なのにきらきらと、濡れた花のように光るので、俺はあんたにそんな顔をさせたかったんじゃないと、そう思った。
 だが、明日俺はこの街を出る。オフィーリアには伝えなかった。それは変わらない。
 でも、たとえ変わらなくても。
「……嫌じゃ、なかった」
「え?」
「……あんたと、朝、飯を食うのは」
 真実だった。呆れたこともあったし、面倒だと思ったことも数えきれない。だが、嫌ではなかった。それだけは、本当だった。
 そう言うと、目の前で花が薄く開いた。オフィーリアの笑み。子供のようなあどけなさが残っているくせに、すべてを愛す聖母にも似て、頬を緩ませる。
 物事は、本当はひどく単純な構造で成り立っているのかもしれない。雲が集まれば雨が降るように明快な法則があって、すべてはそれで解決できるのかもしれない。

 冬場にしては気温が高い日だった。降り続いた雨は徐々に強まり、昼前に出発した俺達のローブは、午後にはほとんど水浸しになってしまっていた。数歩先、ほら穴の入り口で空の様子を伺うサイラスが「もう少しで止むと思う」と言ったが、その信憑性やいかに。あいにく、俺はこの学者先生のことを教祖とも予言者とも思っていないので、求める結果――今回の場合は雨が止むという未来――が得られることだけを求めている。
「すまないね、明日は出発だというのに」
「……構わない」
 アトラスダムから少し離れた森の中は、雨雲のせいもあり薄暗い。このほら穴だけがぼうっと明るく、あたかも森の中に灯された蝋燭の中心点のようだ。
 明日、俺はアトラスダムを出発する。数ヶ月ぶりの旅。
 オルベリクが迎えに来て、コブルストンまではともに行くと言っていた。そこから先はまた一人。久方ぶりの一人。金も工面できたし、しばらく持つだろう。
 サイラスが火炎魔法でおこした焚火の傍には、本日の収穫物を入れた革袋の影と俺達の足跡。岩の上に座り直し、掌を火にかざす。ローブを乾かし始めてから結構な時間が経った。雨宿りにしては長くなったが、冷えて体調を崩しても出発に差し支えがあるので、サイラスのこの行動は正解だ。
 焚火の傍へ戻ってきた男の表情を、隣から盗み見る。そこから読み取ったところでは、本日の研究活動では一定の成果が得られたらしかった。研究活動とは雨水のろ過に関するもので、特定の鉱石を使用してろ過した場合、通常とは異なる特殊な性質を帯びた水になる……というものらしい。転用して、川の水や雨水の浄化にも利用できるのではないか? というのがサイラスの考えだった。人口が多いだけあり、王都の水道事情にはいまだ課題がある様子。それを解決できる鍵をこいつが持っているのなら、アトラスダムは今後安泰だろう。
 もう夕刻に差し掛かる頃だと思われるが、歩き回ったせいでそろそろ小腹も減ってきて、乾いてきたローブの懐から小袋を取り出した。ローブは案外丈夫らしく、小袋は水滴一つ付いていなかった。中から乾燥させた果物を出し、うち数個をサイラスへ渡す。
「やる」
「ん? おや、これは……プラムかい?」
「食っておけ。さっき、何度か魔法を使っただろう」
「……ああ、ありがとう! 覚えていてくれたんだね」
 えらく感謝されたが、そんなに腹が減っていたのだろうか。自分の分を口に入れ、噛みしめた。少しずつ果実の味が染み出してきて、あの熱い葡萄酒にも似た甘酸っぱさが舌の上に広がった。
 ほら穴に、雨粒と葉がぶつかる音がこだまする。ざざあっという音であったり、ぽたぽたという音であったり、大小それぞれの音が合わさって曲を奏でるように跳ねていた。珍しく沈黙を保つサイラスも、その音に耳を傾けていたのだろうと思う。王立学院の空気とはまったく違う、静かで人の気配がなくて、煩わしいものすべてが取っ払われたような空気に、二人分の呼吸が乗っかる。
 揺れる火を眺める。橙色の奥に、寮を出て王立学院へ向かう道の朝焼けが見えた。炎の色は太陽が空を焼く色によく似ている。そこへオフィーリアの声が響いた。サイラスの出迎えが映った。オルベリクと合わせた剣の音がした。
 人とかかわることはこの上なく面倒だ。
 しかし面倒なことの裏にはいつも、俺の知らない、見えない何かが隠れていて、時折それを暴いてしまいたいような欲求に駆られることがある。なのにその瞬間、あの暗幕のような霧がかかって、やめておけと視界を塞ぐ。結局いつも、雲のように掴むことができないでいる。

 「そろそろ行こうか」という声に炎から顔を上げた。サイラスが立ち上がり、再び穴の入り口から外を伺っているところである。いつ移動したのか気付かなかったのは不覚と言わざるを得ない。焚火に足で砂を掛ける。炎が小さくなったところへ、戻ったサイラスが「念のために」と手を出した。小さく呪文を唱えると、何もなかった空間に突然氷が発生して、焚火があった部分を埋めつくした。隙間から白い煙が立ち上るのを確認して、ほら穴から外へ出る。
 雨が止み、暗さが少し解消されて、森の中は歩くのに支障がない程度には明るくなっていた。これならば日が暮れる前に街へと戻ることができそうである。誰が築いたか分からない、獣道と山道の中間のような道を進む。前にサイラス、後ろに俺。細かい雨が残る森の中は、ところどころ木の根が飛び出している上に、濡れた落ち葉が足を滑らせようと待ち構えている。
「足元、気を付けておくれ」
「誰に言っている。俺は盗賊だぞ、『兄さん』よ」
「ああ、これは失礼したね」
 前で笑う気配がした。
 視界の先にあるローブの裾。結構な量の泥が跳ねてしまっているが、これも今日一日でおさらばだと思えば気にならなかった。時々、離れていないかどうか、サイラスの背を確認する。オルベリクより一回り小さいが、俺よりは一回り大きい、間を取ったような姿。おかげで向こう側はすっかり見えなかった。
 こいつは、俺を助手にしてどうだったのだろうか。オルベリクへの手紙には何と書いたのだろうか。俺を助手にして、何か得るものがあったのだろうか。
 そう考えていると、突如その黒い背が止まった。もう少しで激突するところを何とか踏みとどまり、「おい、急に止まるな」と言えば「すまない、ちょっと珍しくてつい」と苦笑交じりの声が返ってくる。
「……何が珍しいんだ」
「ああ、虹が出ていてね」
「……虹?」
 サイラスが進む。続いて俺も。もうすぐ森の出口であろう手前が小高い丘になっていて、二人そこに並ぶ形になった。風が強く吹き、ローブが音を立ててはためく。平原の向こうにアトラスダムの街が見えた。薄紫と灰色との上空に、恐らくさっきまで森に掛かっていたであろう炭のような雨雲と、様々な色が折り重なった半円ができている。
 虹。
 虹だった。
 存在は知っていた、話に聞いたことがある程度には。だが今まで見たことはない。今この瞬間、初めて目にした色彩が、俺の両目を通して頭の中を引っ掻き回して、得も言われぬ感情が内側から湧いてくる。
 その姿は橋のようで、あるいは境界のようで、この世とは違う何処かへ繋がる道のような気がした。
「……虹は……何処から、伸びているんだ」
 ようやっと出た言葉に、サイラスが申し訳ないという風に首をかしげる。
「それがね、分からないんだ。虹の麓には、誰も辿り着いたことがないんだそうだよ」
 あんたでも分からないことがあるのか。そう言い返せば良かったものを、俺の口は中途半端に開いたままで二の句を継げられずにいた――まさしく初めて研究室を訪れた時のサイラスのように。
 サイラスはしばらくの間、虹について何やら喋っていた。だが俺にとってそれはどうでも良かった。虹は弓のようにしなり、空をまたいでいる。両端は見えない。湿った空気が唇の隙間から入り込んで、その中に虹の粒が含まれているように思えて、血液を巡るたび爪先まで色彩が行き渡る心地になった。このままこの場所で呼吸を続けていれば、あの色になれるのではないか? 俺のすべてが塗りつぶされて、一つになれるのではないか?
 その麓には何があるのか。誰も到達したことのない場所には、何が。
「――美しい、ものなんだな」
 気付けば声が漏れていた。自分のものだと認識した時には遅かった。我に返ると、隣で「そうだね、とても綺麗だ」と声がして、空からサイラスへ視線を戻す。至上の宝玉を見たとでもいうような男の目が細められて、笑って、信じられない言葉を吐いた。
「私も、綺麗だと思うよ。虹を美しいと思う、キミの心が」
「……おい、何を言っている」
「何を……って、そのままの意味だけれど」
「俺は盗賊だ」
「知っているよ。オルベリクから聞いている」
「盗賊が綺麗な心を持っているわけがないだろう」
「盗賊は美しいと感じることが禁止されているのかい?」
「そういう意味じゃない、そういうんじゃ……」
 あの美しさは、人を騙して、物を盗んで、牢にも入ったような人間が求めて良いものでは――。
 サイラスの言葉の裏側が、再びあの黒い霧で見えなくなる寸前、目の前から声がした。
「美しいものに惹かれるのが、人間の本当の姿だよ」
 サイラスの腕が急に伸びてきたので、振り払うことも忘れて、ただその手に引き寄せられてしまったのを、どう言い訳すれば良いのだろう。
 冷たいローブの生地。冬の風にさらされて冷えた男の頬が、耳に当たっていた。腕の中におさまって何も言えずにいる俺に、サイラスの声がひと際大きく響く。
「虹を美しいと思ったキミが、本当のキミなのではないかな」
「どう、いう……」
「それで良いんだ。欲しいものを欲しいと、美しいものを美しいと思って。私はそう言えるキミが、素晴らしいと思う」
 求めてもいないのに、許しを与えるような声で呟くものだから。

 良いのか。俺は、このままで良いのか。

 良いと言ってくれる人間のいることが、ふっと身体が浮くような心地になることを、俺は知らなかった。
 そうか、オルベリクはきっと、俺に『これ』を知ってほしかったのだろう。ただの義理だけでも十分なものを、あの男は、この男は。
 風の中でふたり、飛ばされないよう抱き合っているみたいで、身体を押し退けんとする空気の冷たさを感じる隙間なんて、微塵もなかった。ただ聞き慣れてしまった声が、びゅうびゅう吹く風などものともせずに続けられる。
「キミは、人をとても大切にする。私の身内役を完璧に演じていたのは、私を気にしていたからだね。私に不利益がないよう、ずっと」
 耳元で聞こえる声は静かなのにとても重く、指一本ですら動かすことができない。
「最初、キミを食事に誘うのは、とても勇気が要ったよ。初めてキミの扉を叩くことだったから。でもキミは、扉を開けてくれた。拒絶しなかった」
「……俺、は……」
「それがね、私の知る限りの何よりも、嬉しかったんだよ」
 学者のくせに力強く、俺の身体を捕まえたままあの声がする。研究室の匂いが、ローブに染み込んだ雨と火の匂いが、俺とサイラスをくるんでいた。
「私はキミの過去を知らない。どんな罪を犯してきたかも。でも、……どうか、未来まで閉ざさないでほしい。求めることは罪ではない。それは、罪ではないんだ」
 盗賊でも学者でも、商人でも踊子でも剣士でも薬師でも、それ以外のすべてにだって、何にだってなれる。キミが求めるのならば。
 そう言ってサイラスの体温が離れて、俺達の間に再び雨上がりの風が吹き抜ける頃、何処からかまたぽつりと水滴が落ちた。一滴、二滴と落ちた先、俺の頬に、サイラスの唇が寄せられて雫を掬う。再び近付いた温度がつい惜しくなって、手を伸ばして、そのローブを掴んだ。求めた。サイラスを。
 これは罪だろうか。一瞬と一瞬の狭間で、あんたを欲したことを――だが俺は、もう一度、その腕で抱いてほしかったのだ。
 最後の日になって、ようやく分かった。こいつが皆から慕われるのは、その言葉が正直で、真っ直ぐで、偽らざる心の証だからなのだろう。だから皆がこいつの言葉を欲する。自分を肯定し、認めてくれるから。
 その言葉を、俺にも寄越すのか。
 手を離すことができない。ばさばさ、旗のようにローブが波打つ。風は相変わらず俺を連れて行こうとするのに。
「惹かれているのが、私の本当だと……そうであっても、キミは私を……受け入れて、くれるのかな」
 少し上で、青色がきらめいた。サイラスの瞳。間近で見たのは初めてだ。その奥で、夕闇の空に浮かぶ星に似た、光が見えた。
 そんなの、俺に聞かずとも。そう思って理解する。
 人はいつも、誰かの許しがなければ生きていけないような気でいるけれども、そんなもの本当は必要ない。あんたも、俺も。
 サイラスに出会わなければ、気付かないままでいただろう。虹を見なければ、知らずにいただろう。
 あんたに手を伸ばさなければ、いつまでも、黒い霧を振り払うことができずにいたんだろうな。
「テリオン」
 名を呼ぶ声が、まるでその口からではない、遠くの国から聞こえたような気がした。声に応えたい。応えても、良いだろうか。
 物事はきっと、思うよりもずっとずっと単純だ。
 求めていたあの裏側へ指先が触れたのは、幻ではない。
[newpage]
 再び片付いた部屋の扉を閉めると、分厚い本を読み終えたような心地がした。実際はそんな本を読んだことなどないのだが、長い物語にすべて目を通したらこんな気持ちになるのだろうか。やっと裏表紙まで到達した達成感と、もう終わりかという寂寥感が、交互に顔を出している感じだ。
 寮を出るとオルベリクが腕を組んで待っていた。腰に下げた立派な剣が、空からの霞んだ光を受け、鈍く輝く。
「サイラスへ会いに行かなくとも良いのか?」
 眉間に皺を寄せて聞くことではないのだが、最後にやり残したことはないか気にしているのだろう、その心遣いだけ受け取っておくことにした。
「良い。すべて昨日のうちにやり終えた」
「……そうか」
 いつもの朝。違うのはオフィーリアの声がしないくらいだ。ところどころ凍結しかけた石畳を注意深く進んで大通りへ出ると、ぽつぽつと人が歩いているくらいで、休日の朝はこんなもんだったかと思い浮かべる。非番の日はほとんど寮に篭もり、昼前まで眠りこけていたので、気付かなかったか。
 足を踏み出す。これまでとは逆の、街の出入り口へ向かう。衛兵へ会釈し、朝もやのアトラスダムから一歩出ると、広大な平原が待ち構えていた。
「それで、グランポートへ行くのだろう?」
 荷物を抱え直しながらオルベリクが問う。それに首を振ると、訝しげな顔をされた。
「いや、やめた……麓を、」
「麓……?」
「虹の麓を、探しに行く」
 ただの、おとぎ話。そう付け加えた。
 けれどもそこへ、俺は行きたい。
 オルベリクは笑わなかった。それどころか至極真面目に頷いて、記憶を辿るように目を閉じる。
「虹か。ほとんど見たことがないが、その麓には宝が眠っているという伝説を耳にしたことがある」
「……そうかい」
 その伝説を追うのも面白いかもしれんな。
 虹の麓へ辿り着いたら、手紙を書いてやろう。麓には何があるのだろうか。財宝か、あるいはただの水たまりか。何であれ、そこに辿り着いた者が居ないことだけでも、次の目的にふさわしい。
 そうして、今度あいつに会う時には黒いローブを着てやって、『虹の麓について』としたためた論文を叩きつけてやろう。雄弁な学者として学院へ乗り込んでやる日のことを、サイラスの悔しそうな顔が見られるかもしれない日のことを思い描く。しかしきっと、あいつは悔しがることなどなく、誇らしげに俺を褒め称えるのだろう。その様を想像して、ほんの僅か――あいつが拭った水滴の一粒程度、心が躍った。
 そう遠くない日、後ろからあいつが追いかけてくるとは、そしてオルベリクと別れた後は二人で旅をすることになるとは知らずに、夢物語に夢を見る子供のごとく地を踏みしめる。
 出発だ。何処にもない場所へ。誰も知らないその先へ。



(了)畳む
永遠
・約100年後のオルステラ。
・サイラスの曾孫(20代)とテリオンの奇妙な二人旅
※サイテリ前提ですがサイラス先生の影は大変薄いです。
※なんでも許せる方向け。
#サイテリ #IF

 よもや自分が家族の墓を荒らすことになるとは、数年前に想像できただろうか。深夜、墓地の奥、立派に建てられた墓標の前で、黙々とシャベルを動かす羽目になるとは。
 霧がかった空気が、ひやりとしているのに湯気かと思うほど鬱陶しく、むせそうになる。私は肉体労働に向いていない。体力もない。できれば今すぐにシャベルを放り投げたいのだ。
 しかし、言いつけを破ることは憚られた。オルブライトの一族は、そんなに生真面目な血筋であったろうか。そうではない。仮にそうであれば、ご先祖様の墓を荒らせ、などという言葉を遺すはずがないのだ。そんな、互いの尊厳も何もかも無視したような。
『墓の中から、大きなルビーを掘り出してほしい。真っ赤な、血の塊のようなルビーだ。そして念じること。私の前に現れてほしい。そう強くね』
 誰を、とは、誰も聞かされていなかった。父も、祖父も知らなかった。ただ念じること、と言われたそうな。曖昧で、論理的な魔術師一家にそぐわぬ内容は、先に何が待ち受けているのか分からない深い森のごとく私を迷わせた。土を掘り進めている今も、一分間に一度は手が止まる。これから自分がどうなるのか知ることができない、その空恐ろしさが、あたり一帯に充満していた。
 曾祖父の遺言が今まで実行されなかったのは、単にその時ではなかったからだ。そう父から教えられたのは先月のこと。『実行するのは、オルステラが黄昏時に入った頃合いでなければならない』のだそうだ。今まではその時でなかっただけのこと、ただそれだけのこと。
『実行の時は、陽が落ちる寸前のような、散り際の花のような、美しい瞬間でなければならない。そして旅をするんだ。昔の頃のように、沢山の国を巡ること――それが私の望みだよ』
 ひいおじいさん。私には、今のオルステラが、そんなに美しい大地とはとても思えないのです。
 我々一族が命をはぐくみ続けた国は、首の皮一枚で生きながらえており、大陸のほとんどの人間が別の土地へと移り住んでしまった。私も来年には、大多数のその他と同様に、アトラスダムから他国へと渡る予定だ。数十年前の戦でオルステラは深く傷ついた。あと少しで泡がはじけるように、崩れてしまうだろう。
 その前に、やっておかねばならないのでしょう? サイラスのひいおじいさん。でないと、真夜中に化けて出てきそうですから。
 辺りの土を掘り続けてどれほど経っただろうか。突如、がつんという金属音と共に、シャベルが先へと進むのを拒んだ。手に持っていたそれをようやく放り投げて、背丈ほどある穴ぼこの最下層を手でかき分ける。角ばった何かが埋まっている。事典ほどの大きさだ。爪の間に土が入り込んで気持ち悪かった。
 掘り出した箱は、暗闇の中でも分かるほど輝きを放ちながら、私の両手に捕まった。



「テリオンさんって、なんで死んだんですか?」
 ざくざくと、ビスケットが割れるような音を、どれくらい聞いているのか。私は額の汗を拭った。足をとられるとまではいかなくとも、砂漠はいつも人間を寄せ付けたくないみたいに、歩きにくいことこの上なく、そして暑い。
「何故そんなことを聞く」
「好奇心ですかね」
 反対に、彼はこの気候のなか汗のひとつもかかずに、熱風などどこ吹く風、私の前を歩いていた。紫のストールを巻いて、さらに上着も被っているのに涼しげだ。一定の距離間を保ちながら、離れることもなく近づくこともない。日差しが彼の髪をいっそうまばゆくさせて視界のなかで揺れる。
「ねえ、休みませんか……」
「弱いな」
「学者はね、体力がないんですよ。昔から」
「おたくは学者のようには見えないが」
 きっと今の私は、体中から湯気が出ているだろう。座り込んで足を投げ出す。息も絶え絶え、先ほどから足元の砂に落ち続ける雫はすべて汗だ。もう一度顔を拭う。腰の水筒を震える手で取り、あおった。中身は湯になっていた。
 マルサリムまであとどれくらいだろう。
 絶望にも似た気持ちになっていると、視界につま先が入ってきた。テリオンさんの靴だ。
「こういう時こそ、魔法を利用するんじゃないのか。さっさと水でも氷でも出せ」
 忘れていた。私はあまり魔法が得意ではなかったので。

「で、死因は?」
 危うく砂漠で干からびるところであったが、テリオンさんが示した先に洞窟があって、私は九死に一生を得ることができた。どうしてこんな場所を知っているんですか、と問うと「昔な」とだけ小さく答えて、陰に私を座らせる。
 冷えた岩肌が心地よい。うなじを伝う汗も、暫くすればひいていくだろう。
「しつこい奴だ」
 嘆息が聞こえる。「性分ですよ。こればかりは、曾祖父ゆずりだと、胸を張って言えます」疲労で声が掠れた。
 小規模な氷結魔法から生成された氷は、もう半分以上は融けてしまっているが、おかげで水筒の中身は湯から氷水になった。再び水筒をあおる。喉を鳴らして水を含むと、じわじわ、じわじわと、身体中に水が行き渡るのを感じた。
「誇るところじゃない」
「あなたのほうが、ずっと感じているのでは? 覚えがあるでしょう」
 私は知らないのです、と付け加えておく。
「記憶にないな」
「嘘が好きですね」
 返答はない。
 洞窟の暗闇に目が慣れ、意識も少し明瞭さを取り戻してきたあたりで、彼は言った。
「ここに、」
 指さすのはその胸だ。右手の親指で、ぐっと押している。
「弓が一本、うまいこと突き刺さったのさ」
「おお……それは痛そうですね」
「それで一発、あの世行きだ」
 今では銃が主流だ。重火器と魔法を組み合わせた大戦は、それは凄惨なものであったらしい。私が生まれる前であったからあまりなじみがなかったが、父は魔術師として召集されたと聞いた。弓矢を使っていた時代は随分と前だ。
「苦しいとかは?」
「悪趣味な質問をする」
「すみません」
「覚えていない。ただ、くたばったのは、俺が仕事にしくじったからだった気がするが」
「気がする、ですか」
「……亡霊に訊く話ではないな」
 確かに。訊いても、まるでお伽噺のようで、現実味は全くなかった。
 テリオンさんについては詳しく知らない。
 ただ父から、偉大なる学者であり魔術師であった祖父――つまり、私にとっての曾祖父――が遺した願いであるから、と。その遺言の、渦中の人物というだけで、私にとっては大昔のひと。しかも少々柄の悪い、私とは違う世界に住んでいるひと、という印象でしかない。

 墓荒らしの夜、くだんの箱を無事掘り出した私は、遺言に従ってオルブライト邸の一室で儀式を行った。
 箱の中に納まっていた大粒のルビー、その表面には隙間が見当たらないほど文字が彫り込まれていた。呪文であることは分かるが、何の呪文かは分からない。ただ、さすがに曾祖父も自分の身内を危険にさらすようなものを遺すまい、と考え、赤い宝石を握りしめて、祈る。
「どうか現れてください。誰か分かりませんが、私がひいおじいさんに呪い殺されないためにも、どうかどうか現れてください――」
 祈りというよりは、もはや懇願である。
 瞬間、指の隙間から夕焼けのような光が一気に溢れ、部屋を満たした。眩しさに目をつむってしまう。それは本当に、ぱん! と大きく手を叩く程度の、あるいは風船が一気に空気を放出するかのごとく、非常に僅かな時間であった。だがその時が過ぎ去ったのち、目の前に見知らぬ人物が立っていたら、人間誰しも呆気にとられるか叫ぶだろう。なお、私は後者だ。
 サイラス、とその人が口にしなければ、自分が行った儀式を今でも理解できていなかったかもしれない。彼は確かに、曾祖父が追い求めた術式の、大いなる成果であったのだ。死人の魂を呼び寄せるという、私には到底理解の及ばない、恐ろしい術の……ただし、そのことを理解したのは、かの人の正体を聞くことができた翌朝のことだ。
 彼は目を見開いて私を見ていたが、私の風貌が『サイラス』とは異なることに気付いた時、周囲を見回し始めた。何もかもが彼にとって違和感の塊であったようで(当然だ)私は事の次第をどう説明すればよいのか、何から口にすべきか瞬時に判断できず、暫くおどおどしていた。説明したところで納得するのか? 怒られるのではないか? 二十数年しか生きていないが、学会でも何処でも、叱責されることが気分の良いものではないことは知っている。
「あの、あなたは誰なんですか?」
 とりあえずそう言うことだけはできて、彼は私の声に振り返った。そして言った。
「お前こそ誰だ」
 怒りと共に。
 やはり叱られるのは嫌だ――そして、彼が現れてから朝日を見るまでの数時間、喉元に短剣を当てられながら尋問されたことは、もう忘れてしまいたい。

 半月前の出来事が、まるでつい先ほどのことのように明瞭に思い浮かぶのは、まだ若い証拠か。
 しかし、あといくつ国をまわれば曾祖父は満足してくれるのだろう。
 旅をすること。それは理解した。そして現在進行形で旅をしている。『復活した誰か』と旅をすることが曾祖父の願いであるのは、遺言から察してはいたのだ。
 だがその相手が、少し非社交的である上、曾祖父の知り合いというので。
 はあ。意識せず溜息をついていた。疲労もあるが、深く知らない人物と共に過ごすのは、少々、気を揉む。個人で動くことの多い学者にはあまりない経験だ。けれども気にしているのは私だけで、テリオンさんのほうにはそんな雰囲気は微塵も感じられない。
 彼の話では、かつて曾祖父と旅をしていたというではないか。そんな男が今では、その子孫とともに再び旅をしている。彼が曾祖父とどういう関係にあったかは詳しく知らないが、本当ならば曾祖父は私のような性格ではなかったのだろう。きっとおおらかで、何も気にせず、物事に対して常に冷静沈着、論理的思考を絵にかいたような理想的な学者であったに違いない。
 そう考えて、一人で少し落ち込んだ。自分には学はあるかもしれないが、魔術はそれほど得意ではないし、曾祖父には遠く及ばない。テリオンさんの知る曾祖父と私には大きな差があるだろう。知り合いの子孫がこんなのできっと落胆しているのでは、とまで思えてくる。
 一方、テリオンさんはというと、洞窟の入り口に立って腕を組んでいた。
「落ち着いたか」
 逆光でよく分からないが、その視線は私を捉えているようでそうではない、常に輪郭だけを見ている感じがするのだった。
「テリオンさん」
「……なんだ」
「私は、似ていますか」
 そう訊ねると、お決まりの言葉を彼は口にした。
「全く似ていないな」
 彼はいつも嘘ばかりだ。



 マルサリムは辛うじてある程度の住民が居たが、あと十年もすれば、ここも他の街と同じように数えるほどの人しか居ないようになってしまうのだろうか。到着してすぐにそう思えるほど、大戦の傷跡はいまだ深く、街の影が私の目に暗く映った。
 だがそれよりも、テリオンさんのほうが気にかかった。彼は戦争のことを知らない。私のように学舎で、必修の歴史として教えられることもない。彼の記憶の中にある風景と、今我々が目にしている風景がどれほど離れているのか、想像もつかなかった。
「……ええと、何かご感想は」
 無言のままの彼にどうやって声を掛けようか。迷った挙句に出てきた言葉がこれだった。なんとつまらない台詞。観光に来ているわけではないのに。
 恐る恐る訊ねる私が可笑しかったのか、その言葉が妙だったのか、テリオンさんの目が前髪の隙間から私を一瞥し、その口元が失笑を浮かべる。
「すみません」
「……いちいち謝るな。おたくは何か罪でも犯したのか?」
「罪……罪と言えば、墓荒らしと、死者の魂を眠りから起こしたことでしょうか」
 あなたもご存知のとおり。言わずとも伝わっているだろう。
「サイラスの強欲さに巻き込まれたのであれば、罪のうちには入らない」
 テリオンさんの声が風に消えていく。
 世間には共犯という言葉がある。であれば私は立派な共犯者だろう。
 私の手によって永遠から呼び覚まされたテリオンさんが、恨み言のひとつも言わないことに、しばしば恐縮してしまう。死者の精神については想像できないが、魂だけで存在するというのは、ひどく寂しいものなのではないだろうか。かつて自分が訪れた街の変貌ぶりを見て、心を痛めたりしていないだろうか。
 砂交じりの風は彼の髪を揺らすけれど、彼は何とも感じないのか、ただ立っているだけ。

 ひいおじいさん。あなたはテリオンさんに、そんな思いをさせたくて術を遺したのですか?
 魂だけでも蘇らせたいなんて、人が決して手を出してはいけない領域なのではないですか?

 その晩、崩れた天井に帆布が掛かった酒場でエールを飲んだ。何故エールかというと、テリオンさんに「エールを注文しろ」と言われたからである。
 雷魔法を転用した電灯は、ほとんど野営に近いような店を明るく照らしていた。街は確かに至る所が荒れているものの、人々が荒れているわけではなかった。私のような得体の知れない旅人でも、ほとんどの住人が笑顔で出迎えてくれた。それだけでも私の心は安堵したものだ。
 クリアブルックのような田舎町や、フレイムグレースのような宗教都市であればまだしも、大きな街になればなるほど、戦いでは攻撃対象になったと聞く。マルサリムも私の街も同じく、かつ私の故郷は王都であることが拍車をかけた。比較的魔術師が多く住んでいたことは身を守るうえでは幸いであったが、それは徴兵も多かったことを意味する。戦いが終われば、王が、街が無事でも、人が無事ではなかった。精神を病む者も、戦争を思い出したくなくて街を去る者も多くいたらしい。
 今はどの街も、残った人々が、少しでも街が元の姿に戻れるように力を振り絞っている。
 私は単に幸運であったに過ぎない。
 たまたま父が戦争を生き延び、褒賞金を貰い、遅まきながら私が誕生し、破壊を免れた王立学院にも通えた。ただこの点に関しては結局、曾祖父サイラス・オルブライトの名が影響したことは、いくら私でも分かっていた。ひいおじいさんは、学院の最上位まで到達した稀有な人であったから。
 歴史の波の中、人は幸運のかけらを手にすることで、何とか生きながらえているのかもしれない。星屑のようなかけらを。
 全く減らないジョッキを傾けながら考えていると、ぼうっとしていた私を起こすように、隣からテリオンさんの声がした。
「サイラスは酒が強かったぞ」
 え、と思わず言ってしまった。そんな話は身内から聞いたことがなかったので。
 驚いて彼を見ると、にや、と意地悪そうな笑みを浮かべていた。「おたくはどうなんだ」挑戦的な目に、私の中の闘争心が僅かに揺らめく。
 目の前のジョッキに口をつけ、ごっごっ、と一気に飲み干した。こんな風に飲むのは本意ではない。が、曾祖父と比べられたことが私を少しばかり苛つかせた。だからつい、勢いで――。
 たった一杯のエールで潰れた私は、すぐそばで聞こえた「エール三杯。あと適当に肴を」という声に、誰の声だろうか、とぼんやり思っていた。
 テリオンさんであるはずがないのだ。死者は酒を嗜まない。

 翌朝、少しの頭痛と共に目が覚めた私は、まず自分が宿屋で横になっていることを不思議に思った。
「起きたか」
 声のするほうへと顔を向けると、白いものを見つけた。あの人の髪だ。朝日を明かりに短剣の手入れをしている。
 角度を変えるたびに煌めく刀身が、私の記憶を震わせる。その輝きは、彼が私を問いただした夜のことを嫌でも忘れさせてくれない。視界に入るたび、反射的に身構えてしまいそうになる。
「……すみません……運んでくださったんですか?」
 上半身を起こすと、一瞬の浮遊感。酒がまだ抜け切っていないようだ。
 手元の短剣から目を離さずに喋る青年の声が、静かに耳へと流れ込む。「俺ができると思うのか?」「それは……失礼しました」またしても当然のことを訊ねてしまった。
「酒場に居た奴らが運んだ」
「情けない姿を……いてて……」
「水を飲め。それから財布と石を確認しろ」
 ベッドサイドを切っ先で示され、そこに水差しがあることにようやく気付く。水の存在を認識すると、急激に喉の渇きを感じた。グラスに注ぐことを省き、花瓶のような筒をぐいっとあおる。昨日、砂漠をうろついていた時のように何口か飲んで、ふう、と息をつく。
 と、落ち着いている場合ではない。
 先ほど言われた彼の言葉を思い出し、懐を確かめた。間もなく右手には硬貨の入った革袋の感触があり、すぐ隣で、尖ったものに触れた。隠していたルビーだ。彼の依代とも言うべき宝石は、硬貨とは違う小ぶりな革袋に入れて、首から下げていた。
「だ、大丈夫です。『あなた』も」
「なら良い……だがひとつ訂正しろ。それは俺じゃない。勝手に石ころにするな」
「あ、すみません……」
 その切っ先が再び喉元に当てられぬよう、すぐさま謝罪を述べる。
 昨日は何杯飲んだろう? 記憶にあるのは一杯だけだ、しかしそれだけでこの有様。
 普段から酒はあまり飲まないので、嫌な予感はしていたのだ。けれども少しくらい、曾祖父に劣らない部分を見せたかった。意地の張り合いというか、身内の矜持というか。だが結果は、悪酔いした頭に二重の攻撃をくらっただけである。
 慣れないことはするものではないよ、全ては仮説と検証を経てからだ。さてキミは、自分がどの程度酒が飲めるか検証したことはあるかい?
 あなたならそう言うでしょうか、ひいおじいさん。



 あの日の夜。私が短剣に脅されながらいきさつを白状している間、テリオンさんは表情豊かに感情を表していたので、旅を進める中で変化の少ない人だとは予想していなかった。
 彼はオルブライト邸の一室で、薄暗い電灯のもと、その瞳を驚愕に見開いたり、と思えば子供の悪戯に手を焼く親のように頭を振ったりしていたのだ。
「確かにサイラスは、放っておくと突拍子もないことをやる男だった」
「そうなのですか」
「しかし、おたくは違うらしい」
 あいつの言葉にまんまと従うくらいだからな、と獲物を値踏みするような目が光り、私を震え上がらせる。
「私はただの、凡庸な学者ですよ。お願いですから、短剣を、しまってください」
 両手を上げたとて、何も意味はない。だが同情か憐憫か、とりあえず供述が嘘ではないことだけは伝わって、間もなく私は釈放となった――元から拘束などなく、手足は自由そのものであったけれども。彼の刃と眼光の鋭さが太い鎖となって、身動き一つ取れずにいたのである。
 感情の起伏のほとんどない人。
 それは、まったくないということを意味しているのではない。巡ってきた街を思い返せば、それが分かる。

 地図を開いた。
 各所に印された我々の足跡が、絡まった麺のような筋を描いていた。朱色の線はアトラスダムから始まり、コーストランド地方へと南下して、気まぐれな猫の足跡のようにうねっている。
 リプルタイドは港町の輝きを忘れぬといわんばかりに、海面から砕いたガラスのような光を放っていた。新鮮な魚を使った料理に目がくらんで、すぐ近くで放置されたままの半壊した軍艦を一瞬忘れてしまったのは、少し反省している。比較的人が多く残るグランポートでは珍しい異国の本を見つけ、眺めているうちにスリに遭いそうになってテリオンさんに叱られた。
 ゴールドショアの貴族街。きっとかつては着飾った人たちで賑わっていただろうに、今では主を失った館がずらりと並んでいるだけだ。財産を持って逃げ出すことを否定するわけではない。それも人の生きる選択のうちのひとつだろう。その中でも残った一部の貴族が、大戦の後、もぬけの殻になった館を病院や孤児院へ変えたらしい。屋敷の外壁には、建物の雰囲気には少し似つかわしくない看板が掛けられていたのを覚えている。
 貴族はいけ好かないが、中にもそういう人がいるのだ。十のうち九割が悪だからといって、残りの一割も同じく悪であるわけではない。
 再び地図をなぞる。
 ストーンガードの地名を見て、私の脳裏にある出来事が思い出された。ストーンガードでは、製本所を再建するかどうか、十年以上悩んでいるという人に出会った。戦火で全焼した、つまり機械も原材料も失われたわけだが、今は探せば、投資をすれば手に入る時代。実際、私も学生時代には何冊も本を買っていた。ただそれらが、ストーンガード製ではないだけだ。問題はそこだ。
 私はその人物にこう述べた。
「旅人の戯言と思って聞いてほしいが、私にとって本は知識の宝庫であり、これから先も人の想いを綴るのは本になるであろうから、ぜひ再建してほしい」
 苦労を知らない若者の、しかし切なる願いであったから。どこの国でも製本はできるだろう、だがその場所はひとつでも多いほうが良い。それに、私の家にあるストーンガード製の本は、とても美しかったのだ。
 あの人がその後どうしたのか、今は分からないが、いつか知ることができるだろうか。無責任な私が放った一言が、どう芽を出したか、もしくは枯れたか、できることならこの目で確かめてみたい。
 街をあとにする時、テリオンさんに「学者の子孫はやはり学者だな」と言われ、そういえば曾祖父の遺品に山のような本があったな、と思い当たる。本は好きだ。その中に、手にした人々の記憶が詰まっている気がする。頁をめくるたびに、その記憶のひとつひとつをも解読しているような気分になれる。
 ハイランド地方も、サンランド地方も、リバーランド地方も、街のどこかには人がいた。見るからに裕福そうな人もいれば、そうでない人も。どの街にも、同じように。
 ウッドランド地方で耳にした獣の遠吠え。あれは何だったのだろう。この旅では珍しく野営をしていた時であったから、寝ているうちに獣に襲われたらどうしようかと考えてしまったが、私の姿があまりに間抜けそのものだったのだろう。テリオンさんの冷たいまなざしに我に返った。自分がテントを張ったのは、森からは程遠い、しかも街道のそばだ。他にも野宿者は居たし、テリオンさんが火の番を買って出てくれたし(人間ではない点がいささか気になるが)不安要素などどこにもない。単に自分の世間知らずが露呈しただけだった。
 引っ掛かったのは、クリフランド地方に立ち寄った時だ。ボルダーフォールで、テリオンさんは丘の上を眺めていた。その様子は閉じられた箱のように頑なで、まるで誰かを弔うようで、私は声を掛けることができなかった。丘の上の大きな屋敷跡。今では形ばかりとなった、けれどもさぞ立派だったと分かるそこには、かつて誰が住んでいたのだろう?
 同じようなことがノースリーチでもあったように思う。ノースリーチの街並みがほとんどそのままであるのは、雪山が自然の城壁となって街を守ったからか。無論、食糧自給の面からすれば『戦時中は保存食で何とか食いつないだらしい』と父から聞いたから、かなりの苦境であったことは想像できる。
 ノースリーチには小さな、古びた教会がある。昔は廃墟同然となっていたところを、戦没者の慰霊にと、フレイムグレースの聖火教会が管轄に入れた。どんな時代であれ、宗教は傷ついた人の心の拠りどころになる。雪の中で光る小さな教会の明かりを、テリオンさんが離れた場所からじっと眺めていたのは、彼が記憶の中の景色を追いかけていたからだろうか。
 私は彼を知らない。しかし、一滴の雫がこぼれ落ちる程度ではあるが、過去の彼を垣間見ることができた気がした。
 彼と私と、そして曽祖父との距離が、少し近付いたように感じた。



 雪道を歩いていると、少し前にうだるような空気の中を右往左往していたことが幻であったかのように感じる。視界のほとんどを埋めつくす白さも、ローブの隙間から入り込む冷たさも、実はまやかしであるかもしれない。そう思いそうになる。
 フレイムグレースの大聖堂が、すぐそこまで迫っていた。時々何処かで雪の落ちる音がして、ざざあっ、と波にも似た音が飛び込んでくる。もしや魔物か? と思うのだが、そうであれば私より先にテリオンさんが反応することを、私は旅のなかで学習していた。
 彼は危険予知に長けた人間だ。
 表情があまり変わらないぶん、視線で語る人だった。その目が、少しでも怪しいと思われる場所には、足を踏み入れる前に罠がないか確認するよう指示をくれる。彼に同行しているうちに、私は頭の中にある旅の手ほどきに『初めて訪れる場所ではまず適当な石や木の枝などを放り投げること』という一文を追記した。補足するなら、正しくは、私の旅に彼が同行しているのだが。
 他にも興味深い助言をもらったことがある。
「人物画とは絶対に目を合わせるな」
 人物画とはまた古めかしい……と思ったが、写真技術が一般まで普及し始めたのは曾祖父の死後だ。そう考えれば合点がいく。ただその助言は、まじないというか験担ぎというか、実用的なものではない。彼もそんなたぐいを信じるのだろうか?

 ひらひら、ひらひら。小鳥の羽のように舞う雪が、頬に当たって融けるのを感じた。
 街並みを進んだ奥、大聖堂が雪景色に浮かび上がるさまは、水面で揺れ動く虚像のように儚げで、しかし番人のごとく鎮座しており、私たちをその影の中へすっぽりと覆い隠した。ノースリーチの教会の何倍だろう。さすが総本山というべきか。
「大きい、ですね」
「ああ」
「昔もこんなに立派だったのですか?」
「……変わらない。ここは、何も――」
 彼の目が大聖堂の広場から街へと移る。一体何が見えているのだろう。消え去った時代の遺産? 私の知らない、美しかった頃のオルステラ?
 白い髪が揺れる。ほの暗い景色の中へ、今にも消えていきそうだ。
 電灯というものが広く使われるようになってからも、フレイムグレースでは主に聖火を灯りとして用いているようである。宗教都市ならではの伝統なのだろうか、それが街の荘厳な雰囲気を保ち続けている。
 炎の輝きは、魂の鼓動のようだ。
 風が吹けば躍動し、その姿は定まらない。一方で、静寂の中では凛と佇む。人間がそのうちに抱く魂も、きっと聖火のように、静と動の往来を繰り返しているのではないか。
 ならテリオンさんは、今どちら側に立っているのだろう。
 何故曽祖父が彼を呼び覚ましたのか、その理由を知ることができないまま、私の旅はまもなく終着点に到達する。この街が、地図上で唯一印のされていない場所だった。ここでしまいだ。私たちの不思議な旅の最後を、大聖堂の鐘が彩る。
 でも。
 これから彼はどうなるのか? それを私は知らない。曽祖父の遺言にもない未知の領域の前に、私たちは立っていた。
 大聖堂の中へ踏み入る。入り口に立つ神官へお辞儀をしながら(言うまでもなくテリオンさんはしなかったが)建物の奥へと進むたびに、靴底に引っ付いた雪がぎゅうぎゅうと悲鳴を上げる。なのに、前を歩くテリオンさんからは足音一つしない。当然と言えば当然か。
 細長い絨毯の上を進むと、最奥で、ひときわ大きな聖火が燃えていた。ごうごうと炎が揺れる姿は、意思を持つ生命体のような印象を受ける。近付くと、その巨大さゆえか、目元あたりがちりちりと熱く感じた。
「結局曾祖父は、私に何をさせたかったんでしょう」
 私の独り言は喉で留まらず、教会の中にころりと響いた。
 旅をして、世界中をテリオンさんと見て回った。言ってしまえばそれだけだった、少なくとも私にとっては。
 だがテリオンさんにしてみれば、この旅の意味は大きく異なるだろう。彼は自分が生きてきた日々と今の時代の差を、拒否権もなく見せつけられてきたわけだ。私の普通が、彼には異常に映ったに違いない。
 崩れかけた建物に、傷ついた人々。こんなオルステラが美しいと、曾祖父は本当に考えていたのだろうか?

 サイラスのひいおじいさん、あなたの目的とは、一体何だったのですか。

 大聖堂のベンチ、その最前列に腰かける。ひとり分の距離を挟んで、私達は無言のまま、静かだった。たまに聞こえる炎の爆ぜる音に、時が止まっているのではないことを感じながら、ただ座っていた。
 間の空席はきっと、この旅の発案者の分だ。互いに何も言わなくとも、テリオンさんもそう考えているだろう。確証のない確信が、私の中にはあった。
 そこに今、サイラス・オルブライトが居たなら。居てくれたなら。
 テリオンさんの隣に座って、なんと声を掛けるだろう? 挨拶か、謝罪か。いずれにせよ私には分からない。
「……おたくには、分からなくていい」
 心を読まれたと思った。テリオンさんの声に、私の心臓がぎくりとした。
 大聖堂の中にはもう誰もいない。夜が近付き、何人か居た神官たちは何処かへ行ってしまった。残されたのは我々二人。話していても不審に思われることはない。
「サイラスが何をさせたかったなんて、分からなくていい。あの変人を理解できるのは、おそらく俺だけだ」
「すごい、随分な自信ですね」
 人目を気にする必要もないせいで、少し大きな声になってしまった。偉大な曾祖父が変人呼ばわりされるのを、生まれて初めて耳にしたからである。
 しかしそれ以上に、曾祖父を理解できるなんて、そんな言葉がテリオンさんから出るなんて、私の想定を超えたことだった。旅の中でそんな話をしていた覚えはない。
 なら、あなたにとって。
「……テリオンさんにとって、曾祖父とはどんな人だったんですか? ただの変人でしたか?」
 窺うように彼を見ると、瞳が二、三度瞬いていた。珍しいな、と思った。まるで虚を突かれたような様子が、どこか新鮮だ。聖火の光が白い髪に滲んで、縁どりが薄くぼやけていた。
「――変人だ。なにせ、俺のような人間を好む奴だったから」
「好む、とは」
「……あいつは、何も言っていなかったんだな」
「どういうことですか」
 仕方ないといった風に、彼の口から溜息が漏れる。それは序章。これから、私が知ってはいけないことが、堰を切ったように溢れ出してくる予感だ。
 その時だった。彼がおもむろに立ち上がり、右腕を振りかぶったのは。 
「サイラスは――」
 言葉とともに飛んでいく。聖火へと向かって、星のような何かが。
 え? と思う間もなく、その軌跡を追う。間もなく光は聖火に飲み込まれた。ぼっ。小さな音がした。
 光っていたのは、確か赤い、石のような。

「サイラスは俺の、情人だった」

 告げられた言葉の重さと、私の首に下げられていた魂の重さが、入れ替わっている。
 はっ、と慌てて懐を探る。ない。確かにここにあるはずのルビーが、ない。
 まさか。隣の彼を見上げる。にい、と口角を上げるのは見覚えがある。彼が何らかの思惑を成功させた時に浮かべる、あの意地悪そうな。
 ルビーの融点は高い。炎の中へ投げ込まれたとて、燃え尽きることはないだろう。だがきっとテリオンさんのことだから。
「安心しろ。投げる前に、術式を少し削っておいた。そのうちこの術も解除されるだろう」
 やっぱり! という感情と、いやそれよりも! という思いが混ぜ合わさって、私の中で烈火のごとく燃え盛る。
「なんで投げたんですか!? というかどうして触れられるんですか!? あなたは死んだ人なんでしょう!?」
 立ち上がってテリオンさんと対峙する。疑問ばかりが矢継ぎ早に出て、あっという間に彼を質問攻めにしていた。
「曾祖父のことだって、あれから何も聞かなくて、どうして!」
「落ち着け、学者先生」
「落ち着くもなにも! おかしいでしょう! あなたはもうここに居られなくなるんですよ!」
「死んでいない」
 焦っていた。曾祖父の想いを反古にしたのではないか、私にはまだやり残したことがあるのではないか。どうしよう、と狼狽しかかっていた頭が、彼の一言でぐんと引き戻される。 
「……え?」
「あれは嘘だ」
「……何が、」
「俺が、弓で死んだということ。俺は生きているし、サイラスもまだ生きている――ここではなく、俺の時代で」
 ひとつひとつ、彼の言葉を噛み砕いて、整理する。
 彼は、生きている。
 そして、サイラス・オルブライトも、生きている。彼の時代で。
 ということは。彼は、死した存在ではなくて。魂が呼び戻されたのではなくて。
「つまり、サイラスが編み出した術は、過去の俺を連れてくる術だったってわけだ」
 異なる場所、異なる時代から、物体を呼び出す術。
 自分が今まで学び、経験してきた全てを覆されたような。天変地異が起きたような、思考が転回する感覚。足元の絨毯がうねり出して、既成概念を打ち壊す怪物となり、私をがぶりと食ってしまう幻覚が見える。
「……そんな、そんなこと不可能です。時間の法則を無視することなんて、できるわけがない」
 再び混乱の濁流に飲み込まれそうになる私を、テリオンさんの声が掬いあげた。
「やってのけるのが、あいつなのさ」
 その声の、細められた瞳の、なんと柔らかいことか。
 まるで若葉の表面をつややかに流れ落ちる雨粒。あるいはガラス越しに差し込む昼下がりの陽光。形のないあたたかいものが、彼の言葉からほろほろと零れていく。
「このオルステラを旅できたのは、……人が、生きようともがく世界は、悪くなかった」
 彼の言葉で、私はやっと気付いた。
 巡ってきた土地で、街で、何とか生きようとする人々。彼は、そんな人々を見ていたのか。眺めていたのか。
 私の見てこなかったものを、あなたは見ていた。荒らされた宝石箱の底に残った、僅かな希望のひかりを。
 曾祖父があなたに見せたかったものを、あなたはちゃんと見ていたのだ。
 傷ついても、傷つけても、人は生きていく。何の意味もないような、その行為自体に価値があると、あなたは言うのでしょうか。
「あなたも、そうやって生きているのですか……?」
 私の目の前に立っているあなたは。かつてのオルステラで、今も生きているあなたは。
 問いの答えは、聞かずとも分かっていた。それでも私は、彼の声で聞きたかったのだ。
 その口元が、小さく音を紡ぐ。
「生きている。俺も、サイラスも」
 曾祖父の大切な人の、いのちの音を。
「あなたが生きているなら……何故、何故私は、この時代に生まれたんでしょう。何故私はここに居るんでしょう。あなたが曾祖父の想い人であったなら……」
 私の存在は、彼と曾祖父が、彼らの望んだ結果にならなかったことの証明となる。
 なのにどうして、彼は私と旅をしたのか? 何故私に、彼を呼ぶ役目が与えられたのか?
 何故、何故、何故。学者は答えを求めてばかり。彼らにとっての私の存在とは? 情けない、論理的でない、ただ感情のままの問い。駄目だ、視界がかすむ。
「泣くな、学者先生」
 あいつに似た顔で泣かれると、困る。
 そう言う彼に、あなたでも困るんですね、と言いたかった。そして、似てないなんてやっぱり嘘だったんですね、と。でももう、うまく喋ることができない。
 私の頭に、少しごつごつした、しかし柔らかいものが置かれた。テリオンさんの手だと理解した瞬間に、声が聞こえてくる。
「俺がここに立っていることが、その理由だろうよ」
 幼子をあやすような掌の温度。その時確かに、三つのいのちが、聖火に照らされていたのだ。



 汽笛の音が大きく鳴り響いた。船に乗り込む同期の学者たちを見送りながら、両手を振る。遠ざかっていく旅客船、そこには空き部屋がひとつあることだろう。結構な値段の、良い部屋だったと思う。
 ローブのポケットに手を突っ込み、チケットを取り出した。先ほど出発したばかりの船の乗船券だ。もう用済みの、使われることのなかった、ただの紙切れ。
 それを、真っ二つに破った。
 小気味いい音とともに千切れた券を、もう一度しまい直す。これから忙しくなる。アトラスダムへ戻ったら新しい仕事が待っている。オルステラの傷を癒すために、国は再び舵を切らねばならない。雇用、教育、その他諸々――現状の制度では不足がある。まずは提案書をまとめよう。こういう時に曾祖父の七光りを利用しなくてどうする。オルブライトの家がこれまで成し遂げてきた数々の功績に、私も名を連ねるためには、一秒も無駄にしていられない。ああそうだ、魔法も学び直さなければ!

 滅びゆくから美しいのではなく、生きようとするから美しい。
 散る瞬間が美しいのではなく、とどまろうとするから美しい。
 ねえテリオンさん。あの時の距離は、埋まっていますか。ちゃんとサイラス・オルブライトの隣に居ますか。
 あなたたちの生きている時代は、どうですか。
 私のこの時代は、とても、とても。



「キミと未来を生きることができないなら、いつかキミに未来を見せたい」
 確かそんなふざけたことを言っていた気がする。いつだったか、俺があいつと寝た翌朝、もうあいつとはこれきりにしてやろうと決めた日のこと。そう言っていた。多分、分かっていたんだろう。
 強い言葉だな、と思った。サイラスの言う未来には、そこかしこにあんたの影があって、きっと俺はあんたの元から去ったことを後悔してしまうんじゃないか。少しの不安が俺の中によぎって、何も返さないままでいたか。
 隣で、見覚えのある黒髪が潰れている。このマルサリムもぼちぼち崩れていたが、それに負けず劣らず机に崩れ落ちた男が一人。
 エール一杯で見事に眠りこけてしまった男は、あいつの曾孫だというが、この酒の弱さだけは全く似ていない。それを除けば、若いころのサイラスはきっとこんな感じであっただろうと容易に想像できるような、小綺麗な見た目をしていた。うなじが見えなければサイラスそのものだ。
 いや、もしかしたら、本当にサイラスなのかもしれない。

「やはり、私はキミと居たいよ。死んだ後も共に居ることができたなら――肉体には限界があるから、キミも私も時を超えないと無理だね」
「何を馬鹿なことを言っている。早く服を着ろ」
「うん、でも、不可能ということはまだ証明されていない。誰も成功したことがないだけであって、試す価値はある。そうだ確か、物質と空間の関係について研究していた人物が居たはずだよ! そこに何か情報があるかもしれない」
 とか言いながら奴は上半身裸のままで部屋をうろつき始めたので、すっかり話を切り出すきっかけを逃してしまったのだった。

 例えば一度死んだ後に、誰かがかつての自分を呼び出すことができたなら。それが自分自身であったなら。それを何度も繰り返すことができたなら。
「こいつもサイラス、あいつもサイラス……」
 なんという恐ろしい事態。文字通り、世界の至るところにあいつが存在しているってわけだ。
 もしかすると、昔話に出てくるような永遠の命とは、そうして完成するのかもしれない。
 あいつの言葉を思い出す。
「それなら、できることなら、キミと出会う前の私をキミに会わせてみたい。記憶も何も消し去って、また最初からキミに出会いたいよ」
 馬鹿真面目にのたまうものだから、俺はまたしても何も言うことができずに、結局そのままあいつの部屋を後にした。朝焼けに世界が起こされる前の、ほのかに明るいアトラスダムの街が、今でも忘れられない。
 もしこいつがあの時のサイラスの言葉どおりなら、それもまた一興。
 さて今のうちに腹を満たしておこう。空のジョッキを掲げて、俺はエールの追加を高らかに叫んだ。


(終幕)畳む
新世界より
・幽霊のテリオン。
・サイラス先生真夏の不思議体験。
※テリオンが幽霊です。いわゆる死ネタを含みますのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 ペンを走らせること。それが今、私が出来得るすべてである。先ほど私が耳にした言葉を、確かに書き残さねばならない、それには一刻の猶予もない。がりがりがりがり、ペン先が紙をえぐる音が、大木を倒さんとする鋸のように響いていた。このまま書き続ければ机を二等分してしまうかもしれないと思った。ペンは剣よりも強しという言葉は物理的であったか? それを確かめることができるかもしれない。しかしそんなことよりも、彼は何と言っていたか、口にした一言一句を記録しておきたいという使命だけが私の手を動かしていた。
「おい、いつまでそうしている」
 青年の中音が書斎の空気を振動させた。
「……もう少し、もう少し……」
 対して生返事であったのは自分でも分かっていたが蔑ろにしているわけではないのだ、理解してほしい。あと十秒、いや五秒あれば……四……三……二、というところで書き終わり、手を止める。ふうっ、と口から漏れたのは大きな溜息であったが、単に若干の疲労からであった。
 席を立つ。書斎の回転椅子が、きい、と小さく鳴いた。
「待たせてすまないね」
「待っていない、注意しただけだ」
「では要点を整理するとしよう」
「おい、聞いているのか」
「ええと、キミが現れたのは一時間前の午前一時半だったね」
「……らしいな」
 眼前の青年が、先ほど私が吐いた溜息と性質の異なるものを盛大にこぼした気がするが、気のせいであろう。
 私が一時間前に時計を見た際、確かに針は一と六を指していたから、あれは午前一時半の出来事であったに相違ない。疲労からついに幻覚を見始めたのかと驚きはしたけれども、現に目の前にいる存在と会話が成立しているから、現実であるなと認識した。
「で、私はキミに声を掛けたね。『貴方は誰ですか』と」
 足を進め、青年の座るソファへ近づく。一人掛けのそれに体を預けて、青年は私の全身をじろじろと眺めた。訝しげに寄せられた眉は辛うじて見えるが、目は片方だけしか認められず、もう片方は長い前髪で隠されている。卓上ランプの光を受けて象牙色に染まっていた彼の白髪は、私の動きに合わせて揺れた影に隠れて、今度は鼠色(まるで闇に舞う雪のようである)になってしまった。
「そうしてキミは答えた。『俺が見えるのか』と。大層驚いた様子で」
 足を組む青年の前に立つ。犯人を尋問する刑事はこんな気分なのだろうか。ぐっと屈んで青年を見ると、若葉を思い起こさせる瞳がくるりと丸くなった。
「推察するに、つまりキミは、通常人間には見えない存在――霊的存在、幽霊と呼ばれるものなのかな?」
「……その括りがよく分からんが、多分な」
 その答えを聞いて、私は飛び上がらんばかりの高揚感に包まれた。なんと不思議な存在が目の前に現れたのであろうか! いや私が幻を見ている説は捨て切れないが、それでも!
「こんな摩訶不思議な存在に出会えるなんて素晴らしいよ! その服、少なくとも現代のものではないね? キミは何年に生きていたんだい? その時代には何があった? 首都は? 地名は覚えているかい?」
「おい、」
「ああ聞きたいことが沢山あるがしかし時間が惜しいな、どうしてこんな時に私は一人なのだろうか、あと数人助手が同席していれば良かったんだが」
「あんたは、」
「いやちょっと待ってほしい、キミの存在を証明するにやはり私一人では足りないだろうね、そうだろうね……今からでも遅くない、誰か呼ぼうか……いやしかしもう深夜だね。以前も深夜に友人に電話して叱られたことがあったんだ、同じ轍を踏まないようにしないと」
「おい!!」
 相当大きい声だった。私の思考を文字通りぶった切るように叫び、怒りの含んだ目(片方だけだが)で睨みつける青年に、あ、と間の抜けた声を上げてしまう。
「すまない、自分のことばかりで……」
 今度は気のせいではない、青年は思い切り溜息をついてもう一度座った。革張りのソファがぎゅっと摩擦音を立てたのを聞いて、幽霊にも質量があるのかとまた一つ興味深いものを発見できた喜びで、思わず彼の両肩を掴んだ。
 ――はずであったが、素通りした私の両手はあえなくソファの表面に到達する。目の前には靄のような霞のようなものがあるばかりで、がくんと崩してしまった体勢を立て直してから、それが彼の肉体(であるべきもの)だと気付いた。
「……触れられないんだね。しかしキミは座っている。何故?」



 自分の名前を名乗ってから青年に名を訊ねると、「テリオン」と細い声で答えた。歳は二十二、私より八つも下であるとのこと。それ以外のことは訊ねても話してくれなかった。正確には言い淀んでいた。
 単純に言いたくないだけなのか、何か理由があるのかは不明だが、無理に聞き出す必要もないので(それで嫌気がさして余所へ行かれても困る)そっとしておくことにした。
「自分から触るのであれば、集中すればできる」
 昨夜、彼が椅子に座っていることについて原理を聞いた時、彼はそう答えた。「試しにこのペンを持ってみてくれないか」とボールペンを手渡すと、彼はゆっくりと、恐る恐るといった様子で、ペンを受け取る。
 そして確かに、ペンは床に転がることもなく、彼の手中に納まったのだ。素晴らしい! 感嘆のあまり、気が付けば深夜にもかかわらず大きな拍手をしていた。
「確かに、怪奇現象の中には幽霊が触れなければ起きないようなものもあるそうだ。成程キミの言うように、幽霊のほうから触れることが可能なんだね。これは記録しておかなければ」
「……よく分からんが、そうなんじゃないか」
「他にも聞きたいことがあるのだけれど、良いかな」
 彼が小さく頷いたのを、了承の意と受け取って訊ねる。
「キミは、自分がどうしてこの世に留まったままなのか、心当たりはあるかい」
 訊ねた時、私はある種の興奮を感じずにはいられなかった。それは人の暴露話を密かに共有する心地に似たものであった。しかしこの質問に対する回答はなく、前述と同じく彼は口を噤んでしまったので、私の興奮はすぐに消火される。
 何か触れてはいけない部分に触れたのかもしれない、気分を害したかも。
 彼は人間『であった』のだから、思い出したくないこと、語りたくないことだってあるだろう。先ほど感じた心地を含め、彼に対して失礼を詫びようとした瞬間、少し前から薄く明るんでいた書斎が、これ以上は我慢ならないというように朝日を受け入れ始めた。カーテンの下から光明が漏れ、朝を迎える準備ができたことを告げる。
 もう朝か。
 独り言とともに光を見ていた一瞬の合間、彼から視線を外し、再び戻すと、ソファは寸前までの主を失って空虚に佇むだけであった。
 彼は――テリオンは、日の出と共に消えてしまっていたのだ。
 霊的存在は、日の当たる時間帯には行動しない、らしい。らしい、というのは正確な情報かどうか不明であり、誰も証明できないからである。不明瞭な存在には不明瞭な情報しかなく、寝不足でかすむ目を擦りながら、私はネット上の真偽不明なそれらをしらみつぶしに読み漁るしかなかった。午前中に仮眠を取る予定は無に帰した。
 そうして私は昼下がりに、テリオンが消えた書斎で、彼が座っていたソファに腰かけ、彼と同じように足を組んで物思いに耽っている。夏季休暇中で良かったと思う、仕事と並行して考えられるような代物ではない。
 頬杖をつきながら昨夜のことを思い出す。
 テリオンという名の幽霊が現れたことに驚きはしたものの、私は恐怖のたぐいの感情を全くと言うほど抱いていなかった。というのも、この感覚には身に覚えがある。以前も似たようなことがあった、屈強な剣士の男や着飾った美しい踊子が出てきたことが。しかしその時は夢であった、目が覚めれば寝室の天井が視界に入ってきたから……あれは、確かに夢であったのだ。

 浮遊感。水に溺れたような。どこかから飛び降りたような。
 世界が薄い光の膜に覆われている。柔らかい陽の光が私を包んでいた。視界の先には煉瓦造りの建物が立ち並び、その隙間から木々が覗く街並みは、私の愛する故郷であると分かる。
 サイラス、と誰かが私の名を呼んだ。
 そうだ、私はある探し物のために街を出たのだ。振り向くと、いつか夢に見た剣士の男、そして踊子の女性。行くぞ、と男のほうが言った。
 私を呼ぶのは貴方達か。
 けれどもすまない、私は私の後ろを歩く人を待っているのだ。だから先に行ってほしい、そう答えた。その人はいつもわざと離れて歩くから、歩調を遅らせて歩くのが私の癖になっていた。
 はて、誰を待っているのだろう?

「おい」
 びくっ、と身体が跳ねて目が覚めた。
「……テ、リ、オン……」
 どうやら私は夢に落ちていたようだ。昨日睡眠を取れていなかった反動か、泥のように眠りこけていたのだった。
 あたりを見回すと、室内はもう夕刻を示す色で満たされていた。濃い橙が揺らめく空間のなか、テリオンが私を見下ろしている。青年の――それは一体どこのものであろうか、見覚えがあるような――民族衣装のようなシャツから、傷痕の残る引き締まった胸元が覗いて、思わず目を逸らした。逸らした先の床には、斜陽を受けた私の影だけがひとつ、くっきりと、フローリングに映り込んでいた。
「えらく気持ち良さそうに眠っていたな」
 声をかけられ、立ち上がる。視界が逆転して、頭ひとつ分下にテリオンが見える。
「……不思議な夢を見てね。それが心地良かったものだから」
 いまだぼんやりとした頭の中を整理するようにかぶりを振った。眠気覚ましに何か飲もうと思って、「キミも何か飲むかい?」と口にしてから、ああキミは幽霊だったと思い出す。
「飲めない」
「忘れていたよ、キミがあまりに普通でいるものだから」
 それほど彼の雰囲気は生きている人間のものに酷似しており、昨日のように触れられないのが不思議でならない。室内には確かに二人の人間が存在しているのに、片方には肉体がない。そんなことを、この光景を前にして信じられる人間がいるだろうか?
「忘れるな、俺は死んでいるんだ」
 呆れた声を苦笑でかわしながらキッチンへ立つ。リビングの端に設けた書斎は「私一人が使うだけ」というのを言い訳に、至る所に本を積んではそのままにしていたので、彼に見られるのは若干気が咎めた。なにせこの部屋には客人がほぼ来ないのだ、こちらから呼ばない限りは。しかし気にしない性格なのか、テリオンはその荒れた様子には目もくれずに、私と入れ替わってソファに座る。どうやら気に入ったらしい、幽霊にも好みがあるとすればこれもまた興味深い。
 冷蔵庫からペットボトルのコーヒーを取り出して、グラスに注ぐ。限りなく黒に近い焦げ茶色の液体が透明な領域を侵食していくのを見て、そういえばこの間、借りてきた本の上にコーヒーを溢しかけたんだったな、と苦い記憶が浮かび上がってくる。
 それでふと思いついたのだ。
「これから図書館へ行かないかい、一緒に」
 声を投げかけると、リビングの奥から返事があった。
「……図書館?」
「本を返しにいくついでに、キミが生きていた時代のことを調べようかと」
 まあ図書館が閉まるまであと一時間しかないけれどね。喋りながら、コーヒーを口に含む。舌の上を酸味を含んだ苦味が通過して、喉を潤し、胃に落ちていく。冷たい感覚が身体の中から私を脅かすようで、寝起きにアイスコーヒーは良くなかったな、とそれきりグラスを置いた。
「何故俺も行く必要がある」
「キミに教えてもらわないと、私は何も調べられないよ」
 それは彼から直接彼に関する話を聞きたいという気持ちに裏打ちされたものであった。本音を隠すように冗談めいた口調で返したつもりであったが、彼は「何も分からんと思うがな」と言うばかりで、しかし私はこの時、彼の言葉の意味を根本から理解できていなかった。

 アパートから一歩外に出た瞬間、真夏の熱風が身体を覆う。日が落ちる寸前でも、この季節は昼間の熱を忘れたくないというように、夕闇の中にひしと抱き続けている。じわじわと、汗がシャツに滲んでいく。
 そういえば、テリオンはこの世界の何を見てきたのだろう。例えば目の前の交差点を行き交う車。制御の効かない怪物のような白、黒、黄色や赤の塊を、彼は理解できるのだろうか? 先ほどエレベーターに乗った時は何事もなかったが、何事もなさ過ぎて気付かなかった。この文明社会を前に驚いていなくなってしまわないだろうか。心配になって彼の姿を確認する。が、どこにもいない。私の周りのどこにも。
 また消えてしまったのか。
 彼はどこに行ってしまったのだろう。色も形も持たない風のように、彼はすぐどこかへ行ってしまう。それが彼らしく嬉しくて、そしていつも悲しい。
 ――『いつも』とは、いつのことだったろうか。
「……あ」
 車道をすたすたと歩く一風変わった青年は、間違いなくテリオンだった。歩行者用の信号は赤なのに、道を横切る彼の姿を誰も咎めない。車が止まるわけでもなければ、運転手は見向きもしない。まるでこの世界には存在しないもののように(果たしてそうであるが)彼に気付くこともないのは、私に対して、まさしく彼が幽霊であることを認めよと主張しているように見えた。
 車に触れるか触れないかのところで、テリオンは車体をひらりと避けて、まるでサーカスの曲芸師のように舞い踊る。私が彼に触れられないように、ぶつかったとしても当たらず轢かれることはないのだろうが、見ているこちらからすると冷や汗が止まらない。あ、とか、わあ、とか素っ頓狂な声を上げていたものだから、周りで同じく信号待ちをしている通行人らは私を奇異な目で見ていた。
 彼は、確かにそこにいるのに、そこにいない。私にしか見えず、私だけが存在を知っている。
 世界の裏側に隠された秘密を暴いてしまったら、こんな気持ちになるのかもしれない。この世の誰もがキミを知らなくても、私だけが知っていれば、そこには言葉にし得ない充足感がある気がした。
「さっさと来い」
 道の向かい側から投げかけられたテリオンの声。離れているのに、耳元で囁かれたように明瞭に私の耳に届いて、その直後信号が変わる。珍妙なものを観察するかのごとく私を遠巻きに見ていた人々が、青信号を合図に一斉に歩き出した。その流れに乗り遅れないように私も彼のほうへ歩み寄った。
「あんた、変人だと思われてるぞ」
 悪戯っぽく笑う顔に、少しむっとしてしまう。
「……キミがあんな危なっかしい動きをするからだよ……」
 今度はひそひそと小声で話すことに成功した。同じ轍は二度踏まない。



 残り一時間どころか三十分しかないが、本を物色して数冊借りるには何とか足りるだろうと踏んで、私は図書館の中を周回していた。
「キミが生きていた時代は西暦何年か、憶えているかい?」
「……そもそも『せいれき』とは何だ」
「え」
 聞き捨てならない言葉に、私は危うく館内の沈黙を破るところであった。思わず口元を覆う。「西暦って、四桁の数字の、年のことだよ」「何だそれは」「ええ?」歴史に関する書棚に到着した。しかしどの本を手に取ろうか決められない。
「……すまないが、キミの住んでいた土地のことを詳しく教えてくれないか」
 そこから、私がいかに仰天したか筆舌に尽くし難い。テリオンが口にするすべての情報が、私の知る限り、歴史上には存在せず、また不可思議なものばかりであったからだ。映画でしか見たことのないような話が私の周りを取り囲み、私を理解できない世界へと連れていく。つまり、私の住む世界とテリオンが生きていた世界は、同一ではなく全く別物であり、私達は未知なる世界にいる者同士であったのだ。
「ええと、つまり、キミが生きていた時代のことを知る術はないのだね……」
「だから言っただろう。何も分からんと思う、と」
「そういう意味だったのかい……はあ、とても残念だ。この上なく。私はキミがいた時のことを知りたかった。歴史が歴史であることを照合して、埋め合わせたかったのだけれど……」
「そんなことをして何の意味がある」
 さもつまらなさそうに言うものだから、つい声を大きくしてしまったことを、あとで後悔することになる。
「キミが生きていたことを証明できる!」
「……証明?」
「ああ! キミは確かに生きていたんだよ、それを確かめるのに歴史が最も適していると思ったんだ」
 ――そういえばこの世界には地球という我々が生きる星が浮かぶ銀河、そしてそれを包み込む宇宙という空間があるのだが、宇宙にはまだ分かっていないことが多くてね。実は我々の宇宙とは別の宇宙が存在して、我々の宇宙とそことが繋がっているのではないかという説もあるんだ。であればキミの世界はその別宇宙にあって、我々の世界と繋がっている可能性だってあるわけだよ、そうだろう? 我々はいまだちっぽけで故に宇宙について知らないことが多いのだが、もしかしたら百年後、いや五十年後には全く新しい説が生まれていて、それがキミのいた世界のことを証明する手段になり得るかもしれない!
 と続けざまに捲し立ててから、私は我に返った。館内には数えるほどしかいなかったが、まだ数人の利用者が残っていて、また係員が私を「けったいなものを見つけてしまったな」という目でちらちら見ている。
「……失礼」
 ひとつ咳払いをして、私は急ぎ足で出入口へと進んだ。テリオンはといえば、私の横で腹を抱えている。

 濃紺の空のもと、来た道を戻りながらテリオンが言った。「あんた、同じことを繰り返しているな」言葉の端々に笑いが見え隠れしている。同じこと、というのは、恐らく昨夜のことを指しているのだろう。彼が指摘する私の癖には自覚があるのだが、如何せん、この歳にもなると人間の性格とやらは変えることが難しいものである。
「そういえばキミは、驚かないね。車とか、エレベーターとか」
 私は恥ずかしくなって話題を変えようと試みた。
「……クルマ?」
「あの、道を走っている大きな機械のことだよ」
 視線で示すと、テリオンは「ああ」と的を得たように頷いた。
「……見慣れた。最初は驚いたがな」
 彼が私の先を歩く。日も暮れて人がまばらになった道を進む。通りを挟むように伸びるビルの窓には、ちらほらと、いまだ光が灯っていた。この時期に仕事だろうか、心の中で労りながらその前を通り過ぎる。
「ねえ、キミはいつから、自分というものを認識したんだい」
「さあな……気が付いたら、ここにいた」
「ここから違う場所へは?」
「行けない」
「飛んだりできないのかい?」
「そんな魔法は使えない」
 聞けば聞くほど、私の持つ幽霊のイメージ(勿論フィクションであることは承知の上だ)とは異なるようだ。
 自室へと戻ってきてから、私はここ一日のテリオンの話を頭の中で整理しながら、軽い夕食をとっていた。言うまでもなく彼は食べられないので、一人何をしていたかというと、またもや書斎机の前のソファで足を組み、何も発さず、ただ座っているのである。出来ることなら同じ食卓に座って話を聞かせてほしかったが、食事をしながらインタビューというのも(逆の立場ならまだしも)よろしくないであろうと踏みとどまった。
 彼は違う世界の人間、だった。その世界には魔術的なものが存在していて、人以外の動物、それも凶暴なものがおり、そして私の世界と変わらず戦争が起きたりするらしい。
 そんな別次元の彼に「空腹感は?」と問うと、短く「ない」と返ってきた。触感はあるらしいことを考えると、生きた人間が欲するものを死後は欲しなくなるのであろうか、食事は生命維持に必要不可欠な行為であるから。彼はもうそれを継続しようと努める必要がないわけだ。それがなにか、私の胸の奥に引っ掛かりを残して、途中から口に入れるものの味が分からなくなってしまった。
 呼吸はしているように見えても、そう見えるだけであって、彼の内側では血液が生成されることも心臓が脈を打つこともない。この部屋にはテリオンと名付けられた輪郭だけがあって、私はただそれを眺めている。しかしその内なるものを、瓶詰容器の蓋を開けて確かめるように、ただ彼の言葉によって知りたい、焦燥にも近い欲求が私を突き動かしていた。
「テリオン」
 食事を終え、私は書斎の椅子に腰かけた。必然的に相対することになった私達は、素行の悪い生徒と、それを呼び出した教師の図にも見える。自らの職がそうであるから余計に既視感があるのか、私は向かい合った我々の姿に懐かしさを感じずにはいられなかった。
 ペンを持つ。彼の話を書き留める準備をする。昨日記した文字の下に、今日は一体どのような話が連ねられるのであろう。
「キミは、キミの生きていた時には、どんなことをしていたんだい? どんな人と、どんなことを」
 話したくなければ話さなくても良い。でも、できれば聞きたい。そう言う自分の声が、融けかけた氷菓子のように柔らかくなっているのが、どうしてなのか分からなかった。しかしこれが効果的であったとみえる、テリオンは昨日は閉じたままだった唇を薄く開いて、物好きだな、と小さく呟く。
「――俺は……」

 俺は、人のものを盗んで生きてきた。
 生きるために盗んでいた。盗賊だった。一人だった。途中から途中までは、二人だった。だがまた一人になった。それで良かった。
 一人で良かったところを、俺を放っておかない奴らがいて、途中から一人でなくなった。
 旅をしていた。色んなところへ行った。砂漠も、雪山も、森も、遺跡も。
 途中、怪我をすれば薬屋が――俺を放っておかなかった奴の一人だが、そいつが、嫌だと言っても薬を寄越してくるから、それで治しながら、旅を続けた。
 腹が減れば酒場に出たり、野営する時には狩人が、これも俺を放っておかなかった奴の一人だが、野兎やらを捕って、皆で食ったこともあったな。悪くなかった。
 違う人生の、違う人間が寄せ集まって、旅をする日々は、まあ面白くないわけではなかった。
 ……その中でも、特にいけ好かない奴がいた。学者だったが、いつも何かに熱中していて、面倒な男だ。一度話し出すと止まらん。
 だが何故か俺に構ってくるから厄介だった。逐一俺の様子を確認してくるし、頼んでもいないのに何やら持ってくる。誰に対してもそうなんだと思っていたが、どうやら他の奴らに対しての頻度が俺より低かったことを考えると、何か別の意図があったみたいだった。全く、俺の何が面白かったんだか――。

 その学者の話になった途端、彼の口調が常の単調なものから抑揚のあるものに変化したので、ほう、と思わず感心したのである。彼にこのような変化をもたらす件の学者とは一体いかなる人物であろうか、と私は気になってつい「その人は、キミにとって好感の持てる人だったんじゃないのかい」と口を挟んでしまったのである。これがいけなかった。
「……今日はもう終いだ」
「えっ終わりなのかい」
「興が醒めた」
 そのまま彼はソファに身体を預けて、天井を見上げてしまった。
「……あんたの」
「え?」
「あんたの話をしろ」
「私の話かい」
「死人の話ばかりではつまらん」
 確かに不公平かもしれない。だが私は他人に語れるような誇らしい自伝を持ち合わせていないのだ。そう答えると「聞くだけとは良いご身分だ」と言われてしまった。
「申し訳ないね、今度までに面白い話のひとつやふたつ用意しておくよ」
「忘れるなよ、サイラス」
 視線を戻したテリオンがあまりに自然にそう口にしたので、幽霊というものはこちらが名乗らずとも名を知る技を身につけているのかもしれないな、と感心したのである。



 それから私は昼夜逆転の日々を過ごすことになった。夜にテリオンと会話をして、昼に寝る。こんな表現をすると自堕落な生活の代表者のようだが、余暇を利用しての結果なのだから責められるいわれはないつもりだ。
 彼から話を聞くのは、成功する日もあれば失敗する日もあった。一週間程度しか経っていないので、確率が高いのか低いのか判断できない。それでも、何も言ってくれないよりは比べ物にならないほど嬉しくて、それは砂漠の中から砂金を見つけるようなもので、何度も彼に質問を繰り返した。質問は時には掛け合いになって、真夏の夜に幽霊と言葉を交わすということが、私だけに許された特別な行為に感じたのだ。
 テリオンの話は事実面白かった。神官に商人、狩人なんて、この世ではお目にかかれない冒険奇譚だ。中でも彼にしか開けられないという宝箱の話には非常に興味をそそられたものだ。なにせ現代では宝箱どころか宝探しでさえアトラクションでしか行われないのだから、宝箱が存在するということだけでも興奮してしまうというもの。もし私の前にひとつの宝箱が用意されていたならば、その構造を解き明かすために一体どれほどの時間を費やしてしまうだろうか!
 一度だけ、テリオンの姿を残しておきたくて、スマホのカメラを向けたことがあった。だが彼の姿は画面には映らなかった。やはりか、と思うと同時に、彼を捉えておくのは私にしかできないと思うと、優越感に近い感情が湧いてきて、そんな自分自身に驚いた。私は自分のこの体験を、すべて纏めて友人と共有するつもりであったし、また休暇が終わったら友人を呼び寄せて彼に会わせてみたいと思っていたのだが、このまま私の中の秘密にしてしまおうか、という考えに天秤が傾き始めていた。結局、彼の映らないソファだけの写真が残された。
 さて、私は私の身に起こった妙な出来事についても述べておきたい。
 テリオンが現れてからというものの、あの不思議な夢が、日に日に色濃く描かれるようになってきたのである。
 初日こそ午後のうたた寝に見るような(まさしくそうであったし)夢であったが、その次の日はおぼろげな中身が徐々に型に収まっていくように明瞭になってきた。そうしてまたその次の日も。夢の中で、私は何人かの人々と言葉を交わした。どれも断片的で短く、紙芝居が入れ替わるかのごとく途切れ途切れであったものの、目覚めてからも内容を記憶するようになったので、私はテリオンの証言記録とは別に自分の夢についてメモを残すことにしたのだ。
 登場人物は、以前から現れる剣士の男と踊子の女性のほかに、なんと神官の女性、商人の少女と増えたのだ。彼女らの姿かたちは、テリオンが話した内容と相似していたので、きっと彼から聞いた話が夢に影響したのだろう。
 彼女らは若く、なのに自分の目的をはっきり有しており、夢の中であるといえども未来が有望な若人達には素晴らしい輝きがあり、私の心はその光によって磨かれるようであった。いつの時も、歳を重ねた者は若者の未来に対して羨望の眼差しを向けるものだ。私も同じく、そして彼らの行く末がどうか幸福に満ちたものであれ、と夢の中で祈っていた。
 その時、私の後ろからふらりと青年が現れた。私がいつも待っている――私が勝手に待っているだけであるが――あの青年だ。しかし夢の中で、彼の姿はいまだ形を得ず、私は存在だけを認知している。彼がいた、ただその事実だけを。彼の未来も輝かしいものであれ、と願いながら、その姿を見ることは叶わずに。
「おい」
 心地良い声がした。私を目覚めさせる声だ。今現在、私を眠りから起こすことができるのはただ一人だけである。
「……おはよう、テリオン」
「もう夜だがな」
 テリオンが書斎机のランプを灯した。スイッチをかちりと押すだけであるから、私の所作を見て覚えたものとみえる。光を受けて、彼の姿がはっきりを私の前に現れる。
「キミが現れてから私の一日が始まるようなものだから、おはようで合っているんだよ」
 なんだその言い分は、とテリオンは一蹴しながら、視線だけで私にソファから退くよう言ってきた。彼はこのソファがだいぶお気に召したとみえる。確かにアンティークにしては状態が良いし、座り心地も昔から使い込んでいたかのようにしっくりくるので、私も仮眠に使用するほどには気に入っている。「仰せのままに」と一礼しながら席を譲ると、彼は口角を僅かに上げて腰かけた。
「キミに聞きたいことがあるのだけれど」
「またか」
「すまないね、珍しい体験なものだから」
 私は大きな伸びをして、彼の向かい、書斎の椅子に座った。数日前の反省を活かし、アイスコーヒーは飲まなかった。あとで温かいスープでも飲もうと思う。
「キミは」
 私が彼にしてきた質問はすべて、二の足を踏むものではなかったのだが、これから口にする言葉は間違えれば彼を怒らせてしまうかもしれないな、と思うと少しだけ躊躇してしまった。不審に思った彼に「何だ」と促されて、もし気に障ったならあとで謝ろう、と開き直って言葉を続けた。
「……キミは、キミの旅仲間だった学者のこと、好きだったのかい」
 ほんの僅かなものであったが、私は見逃さなかった。彼の目が少し見開かれたのを。青葉を思わせる薄い緑、深い森にも似た濃い緑、その間に差し込む日差しのごとき光の雫。モザイクガラスのように多色に煌めくのが美しくて、しばしその色に見入っていた。
 テリオンの唇が、少し動く。どんな答えが返ってくるのか、一秒一秒待つのがもどかしい。だが結局、彼は明確には答えなかった。妙な質問をする、だとか、何故そこを気にするのか、などと言って、はぐらかしているのが分かった。
 ただ暫くして、ぽつりと、「命を懸けられる人間だった」とだけ答えたのが、私の身体に深い矢となって突き刺さったのだった。

 その日、私は久しぶりに夜のうちに眠った。いつ眠りについたのか分からないうちに眠っていた。もう少しテリオンと話したかったのに、彼が「もう眠れ」と囁く声がひどく身体に染み渡って――まるで乾いた土がようやく水を与えられたように――途端に夢に落ちたのだ。直前に、カーテンが閉まっているか確認したことと、逆転の生活が身体に堪えたのかな、と自嘲したことだけは覚えている。
 数日を経たことで、まるで現実のようにはっきりとした夢。しかしこの日は、その幻の世界がひどく慌ただしく、夢の中だというのに、私の背には冷たい汗が流れているのが分かった。
 私は短髪の青年の両肩を掴んで、強く嘆願していた。「助けてくれ、私を庇って彼が、」落ち着かない声は、私のものだ。私に揺さぶられている青年が、人を助けるために薬を作ることを生業としているのを、夢の中の私は理解していた。ひどく狼狽する自分を、もう一人の自分が冷静に見つめているような感覚であるのは、夢だからなのか。青年は私を落ち着かせようとするが、どれもうまくいかずに、途方に暮れているようだった。彼の顔が青ざめているのは、見間違いではあるまい。
 振り返る。剣士の男が、口元を押さえる踊子の女性を支えている。その隣では商人の少女が泣いていた。彼女を抱き締めているのは、狩人の女性だ。
 地面では神官の女性が跪き、額に汗を浮かべながら、両手を強く握って祈り続けていた。神への祈り。生命を繋ぎとめるための祈り。そのか細い指は震えている。彼女の前には――その膝元には、白髪の青年が横たえられている。
 私が、いつも待っている、テリオンが、血を流して。
 彼は身に着けている上着を赤黒く染め上げて、口元から短い息を繰り返していた。その姿を見て、私の肉体すべてが停止するのを感じた。心臓が氷漬けにされるのを感じた。世界が足元から崩れ落ちるのを感じた。
 これは夢であって夢ではない。この感情は幻想ではない。私はこれを覚えている。誰かの記憶を、私はなぞっているのだ。誰の記憶だ?
 テリオン。ああ、何故キミはそうやって。私はどうして、いつも、遅いのだ。
 悔恨の声がした。私の口から呪詛のように流れ出ているのであった。顔を覆う。指の隙間から、液体となった命が流れ落ちていくのを感じる。掬うことができなくて、引き留めることができなくて、嘆くしかない、無力な男。
 これは、私自身の記憶なのだ。

 息苦しさに目が覚める。突っ伏していた机から勢いよく身を起こしたせいで目眩がした。「なんだ、もう起きたのか」目の前で、テリオンが頬杖をついている。卓上ランプだけが灯された部屋で、ぼうと浮かび上がる姿が、肉体のない彼が、今はただただ儚く、霞のように映った。
「……夢を、見たんだ」
 心臓はいまだ落ち着かない。夢の延長線上で、私は急ぎテリオンの言葉を書き記したノートを机に広げた。隣に、私の夢のメモを。誰が、どんなことをしていたか。照らし合わせる。薬屋の青年に、狩人の女性。街の風景、人々の営み。そして、何故テリオンが私の前に現れたのか。頭が痛い。だがそれよりも、身体の内側が抉られるように痛かった。じくじくと傷口が開いていく。けれども止めることができない。私はこの先の事実を確認しなければならない。
 私の考えに誤りがなければ、私の夢とは、テリオンの世界とは。
「……私は……」
 私は、キミの中にいる、学者だったんだね。
 テリオンは驚かなかった。ただ静かに、答え合わせをする私の言葉を聞いていた。
「途中から私は、キミと、オルベリクと、プリムロゼの旅に加わった。キミはいつも皆と離れて歩くから、私はキミのことが気になって仕方なかった。そのままどこかへ行ってしまうんじゃないかって、気になって」
 それが、親愛になって、情愛になっていくなんて、自分ですら予想できるものではなかったのだ。
 神官のオフィーリア君、商人のトレサ君が加わって、そこに薬屋のアーフェン君、狩人のハンイット君が合流した。大所帯になった私達は、それぞれの目的のために協力し合って、旅をしていたね。
 街にずっといたら得られなかったであろう、沢山の経験がそこにはあった。
「けれども、途中で――」
 声がわななく。思い出したくもない悪夢が、私の脳裏に焼き付いている。拭っても拭っても消え去ることのない罪の記憶。
 旅の途中で、魔物の攻撃から私を庇ったテリオンが重傷を負って、その生命を止めた瞬間の記憶。
 その時の感情を、私は言葉として正しく表現することができない。哀惜、後悔、苦悩、それ以外のごたまぜの、絡み合った糸のような思いの数々が、あの頃のサイラス・オルブライトを縫い付けている。
「もう、終わったことだ」
 テリオンの声は冷静で、水がさらさらと滑り落ちるように、ただ部屋に流れた。

 彼は私を守った。私の未来を守った。彼の未来を引き換えにして。それが私を事切れる瞬間まで苛ませた。
 心の隅で、あの旅はいつまでも終わらないような気がしていた。誰も欠けることなく、完璧な円を描いたままで、終結するとばかり思っていた。キミがいなくなることなんてないと思っていた。どこかで忘れていたのだ、キミは私の想像より遥かに、キミ以外を見る人だということを。
 私は、キミに救われるような価値のある人間だったのかい。

 立ち上がる。足元が、泥の上を歩くように重く、ぬかるんでいた。テリオンの前に膝をつく。彼の靴の、爪先が見える。
 本当に、すまなかった。
 口にすると、口にする前よりも軽薄さが増したが、にもかかわらず私はこの他に彼に対する謝罪の言葉が出てこなかった。
「……何故あんたが詫びる」
「私はキミを死へと追いやった」
「そうじゃない。あれは俺の行動の結果だ。誰のせいでも、誰のためでもない」
「テリオン、」
「あんたは、あいつじゃない。この世界に生きる、別の『サイラス』だ。それに……悔やむ必要はない」
 言っただろう。命を懸けられる人間だったと。
 私の髪をゆるく梳く指は、テリオンのものだ。私の表面を確認してから、泣く子をあやすような手つきになって、それが私の深いところを慰める。
 ずっと伝えたい言葉があった。それを伝えられなかったことも、キミの未来を奪ったことも、ずっと悔やんでいた。なのにキミは、もういいんだ、って言うのかい。
「テリオン、もっと私に触れて、私に……」
 彼の右手が、私の頬をゆるく撫でた。初めて彼の身体を感じた。冷たくも温かくもない。感触だけがある。存在だけがある。顔を上げると、彼の目が細められる。
 堪らなくなって、縋りつくように彼を抱きすくめた。鼓動は聞こえない。けれども触れられる、彼に触れることができる。あの頃はできなかった、こうして感じることなど。
 テリオン、テリオン。
 何度も名前を呼んだ。そのたびに彼が「なんだ」と応えてくれるのが、迷い道からようやく抜け出せたような一筋の光と、近付きつつある道の終わりを指し示しているようで、はぐれないようにまた彼の名を呼ぶ。

 ねえ、テリオン。
 私はキミのことを、とても大切に思っていたよ。キミのすべてが欲しかった。私のすべてをあげたかった。
 もう叶わないけれど、ずっとそう思っていたよ。あの世界から私が消えるまで、ずっと。

 彼の首元で繰り返す言葉は、遠い過去の私が、どれほど望んでも口にできなかったものだ。それを今伝えたとして、どうにもならないことは分かっていた。あの頃の彼は戻らない。何も解決できない。それでも言わずにはいられなかったのは、あくまで私の望みで、一人の独善的な男の結末である。
 ふ、と彼が笑う気配がして、一度だけ身を離して、その顔を見る。
「生きているうちに聞きたかったが、死んでからでも悪くないもんだ」
 少しだけ緩んだ彼の口元が、記憶の中の彼と重なって、心臓の奥が熱い。
 キミはここから去るんだね。
 太陽が昇ったら、テリオンはもういなくなってしまうのだろう。それが嫌で嫌で、もう一度抱き締めて腕の力を強めるけれども、私の手では彼を縛り付けることはできないことを知っている。
 私は彼が自由でいるのが好きだった。どんな風景も、どんな財宝も、どんな人も、何も彼を留めることなどできなくて、それが私には眩しく映った。だからこそ言えなかった。告げることができなかった。私はそうやって先延ばしにして、気が付いた時にはいつも手遅れになっている。
 今だって、もっと早く気付けたら、もっとキミといられただろうに、なんて後悔している。
「テリオン、私にキスをして」
 言った後に、怒るだろうか、とまたしても思ったけれど、彼は少し目を泳がせただけだ。恥ずかしいのか、「一度だけだからな」と前置きをする。
「一度だけだなんて嫌だよ」
「せっつくな」
「何度でもしたい」
「ああ、もう」
 窘めるように私の唇をなぞる指の、ざらりとした感触。そのあと触れた彼の唇の、体温などあるはずがないのに感じた熱さは花火のようで、一瞬で消えてしまったけれど、「もう一度」と頼むと彼は再びキスを恵んでくれた。
 夜が過ぎ去って、朝が彼を連れていくまで、私達はキスをした。何度も何度も。彼を感じられるのが嬉しくて、哀しくて、瞼の隙間から生ぬるいものが溢れてきても、私は止められなかった。テリオンの親指がそれを拭って、どうしたものか、と困ったような顔をするので、またキスをせがんだ。泣き顔よりも、もっと別のものを彼に覚えていてほしかった。私の存在。私のすべて。私が、キミに渡せなかったものについて。
 この行為が、肉体のないテリオンの記憶に残るのか分からない。誰も証明できない。何故なら彼は幽霊なのだ。私だけが、彼を知っている。
 だが彼はきっと、忘れないでいてくれるだろうと思う。かつての記憶を忘れられなかった私のように、密やかに、宝箱の中にしまうように、残しておいてくれるだろう。それが、限りなく願いに近いものであっても、きっと。
 カーテンの奥に光が溜まっていく気配がする。もう少し、もう少しだけ私の前から離れないで、と祈るけれど、そんなものは通用しない。羽が触れたような感触を最後に、朝が私達の間に訪れて、そうっと瞼を開けると、再び世界に取り残された私がいるだけであった。
[newpage]
 半年も経てば季節は様変わりし、鬱陶しい日差しは隠れて、この国では曇りか雪かばかりの日々が続く。身体の暖はトレンチコートで足りているが、首元が少し寒く感じて、マフラーを整えた。中央駅のホームは日曜の早朝ということもあって人はまばらだ。観光客か、私のように明日からの仕事に向けて出発する者か、粗方その二つに分類される。
 前に立つ若者二人は前者か後者か。ギターだろうか、一人は黒く細長い荷物を背負っている。もう一人のほうが話す「次の曲のこと考えてきたか」とか「雑誌の取材日は忘れてないだろうな」などという声に対し、ギターを背負うほうが適当に頷き返しているのが、二人の関係性を表していて興味深い。フードを被っているからよく分からないが、背負っているものと会話の内容から察するに、どこかのミュージシャンかもしれない。しかし私はそういう系統にはめっぽう疎く、俳優でさえ分からないので、有名人であったとしても知り得ないだろう。数ヶ月前もテレビでだったか、事故で昏睡状態だった有名人が奇跡的に息を吹き返したという、それはそれは感動的なニュースが流れていた気がするが、興味がなくて見ることさえしなかったくらいだから。
 私にはもう、そんな奇跡は起きない。
 高速列車を待つまでの間、その会話を盗み聞きさせてもらっていたのだが、あと五分ほどで終わりかと思うと少しの物足りなさを感じる。学校の生徒達を見ていると、オルステラの記憶がありありと浮かんできて、真綿で首を締めるように私を苦しめた。そのせいで夏からずっと仕事に身が入らず、かといって職を変えるのも踏ん切りがつかなくて、明日から暫くの間、地方都市の学会に参加することになっていた。少し環境を変えて気分転換でも、という同僚の勧めだ。道を歩いていても上の空であったから、見ず知らずの他人であるが、こうして誰かの話をゆっくり聞くのは久し振りである気がした。
 半年前、テリオンが消えてしまってから、私の時は一向に進んでいない。来る日も来る日も彼のことを考え、彼の言葉を思い出し、あの頃を夢に見ないかと眠りにつくが、オルステラの日々を見ることは二度となかった。夏が終わり、秋になり、冬が来ても、周りだけがひとりでに動いているみたいに取り残されている。それでもいつかまた夢に見ることができないかと願ってしまうのは、私がかつてのサイラス・オルブライトだからなのか、それともその記憶を引き継いでいるだけの、ただのサイラスだからなのか、もう判別することはできない。
 高速列車の到着を知らせるアナウンスがホームに響いた。私の列車はこの次だから、まだ時間があるのだが、座っているのも落ち着かなくて立ったままでいた。
 妙なことに、数分前から視界の端、向かいのホームにいる人達(こちらと同じくまばらなそれ)が、何やら私のほうを指さしているのに気付く。周りに何かあったか、と見渡してみるが何もない。不審物や、あるいは不審者がいるわけでもない。しかしこちらを見ながら密談のように話しているので、何ともいたたまれない。
 その時だった。
 瞬間、私の視界がぐるりと回転した。百八十度。自分の意思とは無関係に動かされた足が絡まりそうになるところを、何とか踏ん張る。先ほどまで向かいのホームを見ていたはずであるのに、今や自分が元いた場所を見ている。線路は私の背後だ。私の腕は誰かに掴まれている。え、と混乱のなか確認すると、先ほどまで前に立っていたギターの人が、私の左腕を掴んでいるではないか! しかも力強くて、正直少し痛い。
 私は瞬きの間に、その人物と入れ替わっていたのだ。何故?
「あんた背が高いから、盾になってくれ」
 フードの奥から声がした。若い、青年のようだ。数分前まで、隣の人に適当な返事を返していたのが嘘であるかのように、雲の消え去った空のような明瞭さではっきりと言葉を放つ。
 あ、と呆けた声が出た。
 私はこの声の主を、よく知っている。
 間を置かずに列車がやってくる。私の背後に滑り込む。風が舞い起こって、私の髪を荒々しく揺らした。列車が向かいのホームとの間に城壁を作る。それを合図に青年の手が離れる。
「助かった」
 後ろで、列車の扉が開いた。短い礼を述べて、青年が私の横を通り過ぎていく。同じく、彼の連れが「悪ぃ、あいつちょっと勝手なところがあってよ」と詫びていくのを耳にしながら、どうしてここまで耳に馴染む声が二つもするのだろうか、と頭の片隅で考えていた。
 いや、考えるまでもない。本能が告げている。
 私が、彼らの声を、私の奥底に染み込んだ声を、深く深く覚えているからだ。
 一等車両に乗った彼らを、慌てて目で追う。乗り込んだ後、ギターを降ろした彼――私の腕を掴んだ青年が、座席に腰かけてフードを下ろすのを、コマ送りの映画のように捉える。
 そういえば、数ヶ月前に一命を取り留めたという有名人は、ミュージシャンだった。歳はいくつだったか。ニュースで聞く前にテレビを消したから分からない。でも若かったはずだ。
 確かその頃はまだ夏で、私の前からテリオンが姿を消した少し後で――。
 車両の窓越しに目が合う。光が反射する、冬の吐息のような特徴的な髪色。窓の縁に頬杖をついて、僅かに口角を上げて、私を見る。

 テリオン。
 キミは、そこにいるのかい。

 列車の扉が閉まる。彼の視線が外される。出発し、彼が少しずつ遠ざかっていく。朝靄の中へほどけていくように、小さくなっていく車両を、私はいつまでも見送っていた。
 向かいのホームでは、あれはそうに違いない、とか何とかざわついていたが、それも一時で、ホームは間もなく静けさを取り戻した。次の列車の到着を知らせるアナウンスが聞こえる。次は十分後、十分後です。左から右へと流れる案内の声は、ひどく非現実的だ。
 彼が触れた左腕を、そうっと撫でる。そこから私の内部へ根を張るように、じわじわと、熱が拡がっていく。
 テリオン、キミはそこで生きているのか。鼓動を打ち鳴らし、血潮を巡らせて、誰にも妨げられない足で、またどこかへ行ってしまうのか。谷間を吹き抜ける風のように、キミはいつも前触れなく去ってしまうから。それがキミだったから。
 けれども、そこにいるのなら。それならば私はようやくこの場所に、私の価値を認めることができる。私も、ここにいてもいいんじゃないか、って。
 針が動き出す。私の中で、時が進む。
 キミと同じように、私もまた、遠い記憶とは違う道を歩み続けるだろう。枝分かれした可能性のひとつを、あったかもしれない未来を、私達は互いに進んでいく。あの、盗賊テリオンと学者サイラスでなくたって、私達は私達で、ここで呼吸し、生きていく。
 そうしたらまたいつか、キミに会えるような幸運が舞い込んでくるだろうか? きっと私のことなんて知らないだろう。でも、もし会えたなら、今度こそは私の話をしよう。面白い話をしよう。あの夏の日、キミにできなかった私の話を。
 この、新しい世界のどこかで。



(了)畳む
夜明け
・聖火教会の神官テリオンと義妹のオフィーリア。
・テリオンに恋するサイラス。
・ちょっとオフィ→テリぽい。
※なんでも許せる方向けです
#サイテリ #IF

 鐘が鳴った。二秒おきに三回。木の椅子に長く座っていたせいで腰が痛くなってきて、ジジイのようだな、と溜息をついた。もちろん気付かれないようにだ。
「ありがとうございます神官様」
 老婆の言葉に手を合わせる。
「どうかあなたに、聖火のお導きがありますように」
 信心深い老婆は俺の動きに合わせた、ように思う。告解部屋は薄暗く、狭い。部屋を仕切る格子窓の向こうで人影が揺れ、少しの足音と、扉の開閉音で老婆が立ち去ったと理解する。そこでようやく、俺は本日最もでかい舌打ちをした。
 ああ面倒だ。
 そもそも罪を告白した程度で神様とやらがそれを許すと思っているのだろうか。昔、過去に犯した盗みの数々を(教会の人間には知られていないが)神の前で詫びたことがあるが、その懺悔で生きている間の罪が返上できるならば、くたばったら俺はすぐに天使にでもなれるわけだ。
 なりたくはない。詫びた時も、罪があれば告白し懺悔しなさい、と司教に言われたから形式的にやっただけだ。
 肩を回して、凝り固まった筋肉をほぐす。今日はあと一人、告解部屋の予約が入っていた。基本的に相手の名前は知らない。罪人の名前など知る必要もない。誰であるか、または誰であろうが、ただ告白に耳を貸す。それが『神官』の俺に与えられた仕事なのだから。
 さっき鐘が三度鳴ったということは、そろそろオフィーリアが茶の準備を始める頃だろう。きっとまた茶菓子も用意して――毎度のことながらご苦労なこった。しかしそれだけが、聖火教会の総本山で勤めに励む日々の、唯一の楽しみであることには気付いている。
 コンコン、とノックが小さく響いた。「どうぞ、お入りください」あたかも神官らしい声で入室を促す。安心させるように、ゆっくりと。
 だが格子窓の先に、あまり会いたくない奴の雰囲気を感じて、茶会の時間には間に合いそうにないなと心の中でオフィーリアに謝った。
「やあこんにちは、神官様。よろしいですか」
 無言。あるいは沈黙。
 それ以外に対処法はない。サイラス・オルブライトとはそういう相手だ。



 私はとても罪深い人間です。勉学を教えること、教わること、その目的はあまたあるかと存じますが、すべてが清く貴きものであるのに、私はその過程で神の遣いに恋をしました。
 私がその一歩を踏み出したのは、教会管轄の孤児院で行われていた学びの会からでした。王立学院で教鞭をとる私が、その教師として招かれるのは理解できました。しかし、いつも教えている学生の年齢とはかなり離れた子たちが相手ですから、少々不安であったのも事実でした。ですから助手を、と教会に頼んだところ、二名の神官が派遣されたのです。彼らは兄妹ですがまったく似ておりません。太陽のように輝く妹と、月のようにたたずむ兄。彼が私の恋慕の相手です。はい、彼です。私は自然発生的に彼と出会ったのです。いいえ、これこそ神のお導きというべきでしょうか。
 彼はやさしかった。口ではなく態度であらわす人でした。文字の分からぬ小さな子にそれとなく助言を出し、読み書きを教えました。安易に解答を開示せず導く手法は、神官であれども、まさしく教師のそれでした。しかし、うまくできた時に褒めるのはいつも太陽のほうでした。彼は褒めることが得意ではなかったようです。ですがそれが私には慎ましく映りました。光は影があってこそ輝きを増します。彼のおかげで妹はひときわ眩しく光を放ちます。二人は常に反射し合うのです。
 彼は妹と違い、いつもケープのフードを目深に被っていたので、ずっとその表情をうかがうことができませんでした。しかしその日は突然やってきました。何度目となる学びの会であったでしょうか。ある時、孤児院に暴漢が押し入ったのです。子供たちが泣け叫び、逃げまどい、騒然とするなか、不逞の輩は太陽の女性に手を出そうとしました。幸い私には魔術の心得がございましたので、すぐに詠唱を始めました。ですがそれより速く、教会の真ん中に疾風が吹き荒れました。春に木々の間を走り抜けるような風をまとって、青年が駆けたのです。手に煌くものが短剣であったと気付いた時には、暴漢は床に伏せていました。本当に、あっ、という間に、青年が男を押さえ込んでいたのです。勢いよく走ったせいでフードが外れて、白のような銀のような髪が露わになります。こちらを――正確には私の前にいた太陽の女性を確認する、その矢のごとき眼光に射竦められて、私は動けませんでした。手に持っていたはずの魔術書が落ちる音で、ようやく我に返ったのです。
「テリオンさん!」
「無事か、オフィーリア」
 駆け寄る女性の心配そうな声に、柔らかな声が返されました。青年の声でした。
「怪我は、怪我はありませんか?」
「何ともない、……あんたが無事ならそれでいい」
 その時、兄の口元には笑みが浮かんでいなければ、私は今こうして懺悔していないでしょう。
 義理とはいえ、二人がもし兄と妹でなかったならば、彼らは恋人同士ではなかろうか。そう思えるほど、二人は愛に満ちた表情をこぼしていたのです。互いが互いを認め、支え合う愛の、なんと眩いことでしょう。初めて彼の名を知ったその日のことを、ずっと忘れることができません。慈悲深い彼から、ひとしずくでよいから、私にもその愛を与えてもらいたいという願望が芽生えた日でもあるからです。
 つまり、そのやさしく愛に満ちた青年に、私は恋をしてしまったのです。

「――そうして私は、彼に会いたい、ただそれだけのために、毎週フレイムグレースに足を運んでおります」
 げっそりした。
 途中、フードをかぶり直して耳を塞いだくらいだ。何がかなしくて、自分に対する『告白』を、毎週聞かされなくてはならないのか。しかも長い。長すぎて欠伸が出そうだ。
 今しがた、半時間を過ぎたことを知らせる鐘が鳴った。小腹も空いてきたし、さっさと切り上げてオフィーリアの茶を飲みたい。
「これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
「聖火神の御名において、貴方の罪は赦されるでしょう」
 適当に言った。神には悪いが。
「ああ、ありがとうございます神官様……」
 やれやれこれで本日のお勤めも終了だ。
「すみませんが」
 と思っていたのに、そいつはあろうことか声をかけてきた。
 小さな空間に声が反響する。低くて、なのに鍵盤の上でワルツを踊るような声。
 この声は苦手だ。俺をこの場に縛り付けて、離してくれない声だ。
「先日の返答を聞かせていただけませんか」
「……告解は終わったのでしょう。どうぞ、ご退室を」
「テリオン君」
 勝手に名前を呼ぶのはやめろ。以前からそう言っているのだが、この男は無遠慮というか、まったくやめる気配がなかった。真正面から相手をしても勝ち目がないことは分かっている。しかし、長話に付き合わされた後の最悪な精神状態で、円滑に相手できるわけがないのだ。
 ひとつ、盛大な溜息をついてやる。
「……しつこいな。さっさと帰れ」
「ああ、やっと話してくれたね。嬉しいよ。キミはいつも真面目に務めを果たしているから、他の話をしてくれないね。もう少しくだけても良いのに」
 頼む、嫌味であってくれ。でなければ、こいつの脳内はとっくにおかしくなっている。
「それが神官に対する言葉か?」
「おっと、申し訳ございません。つい本音が出てしまいまして」
 いけしゃあしゃあと。格子のおかげではっきり見えないが、おそらくその顔には笑みが浮かんでいるのだ。あの、誰もが見惚れるような顔で、俺を見て――。
 想像して、は、と思わず息を吐いた。考えるだけで、身体中に感情の粒子が駆け巡る感覚。耳元が熱い。フードを整えるふりをして誤魔化す。
 その様子を知ってか知らずか、サイラスの話は続く。「それで、考えてくれたかな」「……何をだ」分かっている。何度も言われているのだから。
「アトラスダムに来てほしいと言ったことだよ」
「夢を見るなら夜に見ろ」
「夢なら常に見ているよ。キミとアトラスダムで過ごす夢だ。きっと、とても素敵な日々に違いない。私はアトラスダムの王立学院で、キミは助手として勉学を教える。素晴らしいと思わないかい」
 そうだろう? そうだと言ってくれ。
 喜びに打ち震える声とは対照的に、言葉の端々に嘆願がのぞいている。不安。恐怖。俺の答えを待ち続ける苦しみ。自分の感情が、自分だけのものではないと証明したい気持ち。
 申し訳なさと大きな喜びが、俺の中に渦巻く。あんたの中が、俺で溢れていることに対しての感情――浅ましい俺の心に、賢いあんたは気付いているのだろうか。
 サイラスが格子窓へ指を這わせる。そこを打ち破ることができたなら、きっとあんたは、簡単に俺の手へと触れてしまうんだろう。
「テリオン君。私はキミに恋をしていて、キミはそれを知っている」
「……何度も言ったはずだ。俺はあんたの気持ちには応えられない」
 そうだ、自分にも言い聞かせた。時には暗示のように、時には呪いのように、何度も何度も。
 そのたびに、俺の指先まで満たしていたあの粒子が、跡形もなく消え去る。
「それでも私はまた来るよ。キミが、キミ自身で、心のうちを明かしてくれるまで、何度だって来るから」
 どうして俺なんかにそんな言葉を吐くのだろう。答えを待っているのは怖い、俺が頷かないのが嫌だ。そう言えば、言われれば楽になれるのに。
 あんたは知らないのだろう。
 あんたがここを去ったあと、その指で触れたところを同じようになぞっていることを。あんたが来た日の夜は、大聖堂の聖火の前で懺悔していることを。信じてもいない神に跪いて、赦しを乞うていることを。
 俺はここから出られない。オフィーリアを置いて去ることなど、あってはならない。
「……どうかあんたに、聖火のお導きがありますように」
 そう返すことだけが、今の自分に出来得る最大の返答だった。



 中途半端な時間のせいで、食堂はしんとしている。職員や神官は見当たらず、オフィーリアがひとり、長い食卓の端にもたれていた。足音を消して近付いたのだが、あと数歩というところで気付かれた。流石だな、と言うべきか。
「あっ、テリオンさん!」
 振り向いた反動で、その手のなかのティーポットを落としそうになる。慌てて持ち直して、そっと食卓の上へと置いた。全ての流れが、一枚のキャンバスへ描かれた絵に見えた。絵が動いている。
 神に愛された人間とは、オフィーリアのような女のことを言うのだろうな、といつも思う。
 天国で神がサイコロでも振って対象者を決めているのか、はたまた指名制なのか、投票制か。しかし俺が選ばれることは決してない。それでいいと思う。自分に運がないとか、不遇だとか、そんな不満は一切ない。光が当たるのはいつも俺以外の誰かで、それが当然。世のことわり。光は眩しくて、目が痛くなる。俺には似つかわしくない。夜のほうが、よっぽど楽だ。
「……遅くなった」
「良いんです。でもごめんなさい、アップルパイは冷めてしまいました……」
「構わない。……悪かった、間に合わなくて」
 サイラスと逢引のようなことをしていたから遅れた、とは言い難く、バツが悪くなって視線を逸らす。それがあまりに後ろめたく見えたのか、オフィーリアは手を振って、「良いのです! 私が勝手にしていることなんですから!」と弁解した。ともに揺れる金の髪が、小さな肩を行ったり来たりしている。
 似ても似つかぬ妹。当然だ、血は繋がっていない。
「……食って良いのか、アップルパイ」
「勿論です。ふふ、お好きですもんね」
 細められた目は、甘く煮詰めたフィリングと同じ色をしている。
 オフィーリアは戦争孤児だった。
 戦いで肉親を奪われたこいつとは違い、俺は気が付いた時には親という存在がいなかったので、一人で生きていく術を身につけることが必須事項だった。明日まで自分が生きていられるか誰も保障してくれないのだから、まず食い物を得ることが先決だ。
そのために、行き着く場所のそこらじゅうで盗みを働いたが、いったん警戒されるとその町では犯罪をおかしにくくなる。次の町、また次の町と渡り歩いたものの、ガキの足で移動できる距離は限られていて、転々としたのちにフレイムグレースに辿り着いた頃には、ついにうずくまってしまった。雪が頭に降り積もる中、ふと視界の端に入ったのが教会だった。
 宗派によって差があるものの、基本的に教会は俺のような境遇の人間を放置しない――そんなことが噂になれば、信者からの信頼はおろか、教会の立ち位置も悪くなるからだろうか。とにかく、教会は俺を保護して『施し』を与えた。行くあても気力もなかった俺は、そのまま洗礼を受けて信者になることにした。そうすれば、優先的に孤児院へ引き取られるだろう。そう踏んだのだ。
 結果的に、孤児院ではなく司教のもとに引き取られた。そこにいたのが、二つ下のオフィーリアだった。
「眩しいですか?」
 それが十年ほど前か。
 記憶へ溺れる直前、今に引き戻される。食堂に、珍しく西日が差し込んでいた。今日は雪雲が去ったのだろうか。
 カーテンをひいてきますね。そう言って窓際へと進むオフィーリアを見送って、ティーポットへ手を伸ばす。たぷんと揺れるのを感じたので、中身は残っているようだが、冷め切っているのはグローブ越しでも分かった。
 もう五つの鐘も鳴ってしまったから、しばらくすれば夕餉の時刻だ。しかしオフィーリアが淹れた紅茶を捨てることは俺の選択肢にはない。また、半月型のアップルパイも。
 ポットを傾ける。空のままのカップへ紅茶を注ぐ。白い器の中へ、液体が溜まっていく。時間が経ってしまったからだろう、焦がした砂糖のような色になった紅茶は、小さな水たまりを作った。
 手に取ると、紅茶に自分の影が映り込んだ。白い神官服が赤褐色に染まって、まるで悪魔の遣いみたいに、ぬるりと揺れる。
 テリオン君、また来週。
 去り際のサイラスの声が、耳元で繰り返される。
 あいつが来るようになって、今日で十五回になるだろうか。孤児院に派遣され、初めてサイラスを見た日から数えると、もう半年は過ぎたことになる。
 孤児院で開かれていた学びの会は、暴漢事件のあと打ち切られるように中止となった。成人して暫くしたら聖火騎士団の入団試験を受けるつもりでいたので(そっちのほうが性に合っている気がした)、日頃から身体を鍛えていたのだが、それが功を奏した。あの時、オフィーリアが怪我のひとつでもしていたら、俺は自分を決して許せなかっただろう。
 この世のどこにも肉親がおらず、しかし縁だけで家族となった、オフィーリアと俺。
 最初は互いを遠巻きに見ていた気がする。それもそうだ、ある日突然「新しい家族ですよ」と他人を連れてこられて頷けるはずもない。数年前にオフィーリアが修道院へ入るまでは司教の家で同居していたが、はじめは一言も会話しなかったし、俺も話しかけようとしなかった。
 だがオフィーリアは、俺が一体どういう奴なのか知ろうとしたのか、少しずつ悪戯を仕掛けてきた。これが俺にとっては予想外だった。虫も殺せなさそうな見た目をして、やることは蟻の行列を踏み潰すガキと同じ。夕飯がシチューだった日には、俺の皿にだけ山盛りの人参を入れてきたり(勿論司教に叱られていた)、俺が瓶に入れておいた聖水を葡萄酒と入れ替えたり(信者にあるまじき行為だ)、すぐにばれる下らない悪戯を繰り返す。
 対して俺は、我慢ならなくて怒る、ということもなく、淡々と流すだけ。相手をするのが面倒だったし、興味もなかった。ただ生活ができれば良かったので。
 そうして過ごしていた、ある日のことだ。
 夜、司祭に与えられた自室へ向かう俺の前に、あいつが立ちはだかった。仁王立ちだ。怒りからか、顔が少し赤くなっていたと記憶している。
 そして言い放つ。
「私のことを、幽霊のように扱うのはやめて下さい。あなたを家族だと思っているのは、私だけなのですか」
 今にも涙が溢れそうな目で俺を睨む。
 ただ悪戯を仕掛けてくるだけの女と思っていたが、意思があったのだな、と初めて感じた言葉だった。そして、そうか自分はこいつの家族だったのか、とも思った。まったく考えたこともなかったが、オフィーリアはオフィーリアなりに、俺と家族になるため努力していたらしい。
 道端の小石を気にする奴などいない。俺が自分に与えていた価値はその程度のものだったから、まさか自分を本気で気にかける人間がいるとは想像だにしなかった。
 二人そろって、ひとりで生きるしかなかった時期があって、苦しくて、いつか苦しみさえ麻痺してしまうことを知っている。
 姿かたちは違えど、俺達の根っこは同じで、そこから共に芽を出した子葉のようなもの。鏡合わせのごとく、相手を見るたびに自分を思い出す。相手が孤独でいると、自分も孤独でいるような。だから放っておけない。放っておくと、自分がますます孤独になる気がするから。
 片方の葉が枯れたら、もう片方も枯れる。相手を守ることが、すなわち自分を守る。それを、オフィーリアは本能的に気付いていたのだろう。だからいつも笑っていられるし、馬鹿馬鹿しい悪戯で俺を笑わそうとする。
 ――どれだけ優しい言葉を並べられても、深い同情を与えられても、同じ痛みを知る人間以上に響くものはない。
 だから俺は、こいつがひとりで大丈夫だと言える日まで、どこへも行かない。この箱庭の中で生きることが自分の選択だ。
 サイラスの言葉が、どれほど極上の味わいであろうとも。
 溺れていた記憶の海から這い出す。皿に鎮座するアップルパイを、フォークで適当に切り分け、口に運ぶ。
 さく、さく、しゃく。
 冷めていても、あいつのアップルパイは美味かった。この味を口にできなくなるのは、ずっと遠い未来のような気がしていた。



「……これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
 いつもどおりの週末。いつもどおりのサイラス。いつもどおりの告解部屋。今日で二十回目。
 サイラスの、聞いていると胸の奥があぶられるような声に耳を傾けていると、この時間が早く過ぎ去ってほしいような、ずっと続いてほしいような気分になる。
 鐘が鳴る。一つ、二つ、三つ……。今日は昼間に告解部屋へ訪れる信者が多く、いつもよりも遅い時間にサイラスの相手をすることになってしまった。サイラスは毎度、最終の番になるよう告解の予約を入れてくる。理由は、自惚れでなければ、きっと俺だろう。
 夕刻のフレイムグレースに響き渡る鐘の音は、俺の心臓までうるさく届いて、がんがんと鳴らす。神の槍が胸を刺すように、強く響く。
 その痛みを追い払うように、フードで狭まった視界の中、手を合わせた。
「……聖火神の、御名において、……貴方の罪は赦されるでしょう」
 神様とやら。
 もし本当にいるのならば、俺はとうに断罪されているはずなのに、いまだに罰を受けずここにいる理由はなんだ。
「ありがとうございます、神官様」
 俺がこの場所に居続ける理由はなんだ。
 なあ、サイラス。俺の罪を知っているか。
 神へ祈るふりをしながら、悔い改めるふりをしながら、心の中で述べるのは、いつもあんたに対することばかりだ。
 あの、すらりと伸びる指に、俺よりも大きい手に触れる日は、きっと来ない。それでも毎夜夢に見る。アトラスダムの街を。王立学院から帰ってくるあんたを。適当に働いたあと、あんたを待ち伏せする自分を。あんたはきっと遠くからでも俺を見つける。それから、この上なく幸せそうに笑うんだろうな。
 大馬鹿者め。
 夢は叶わないから夢だ。しかしその瞬間だけは、誰にも邪魔されない、自分だけの楽園が手に入る。幻でも、見せかけの天国みたいなこの場所よりずっと良い。オフィーリアの兄でもなく、神官でもなく、ただの俺である世界は、夢の中にしか存在しない。それでいい。
 サイラス。俺はあんたの前で、ちゃんと俺らしくできているんだろうか。

「キミは、何か思い悩んでいるのかな」
 五つ目の鐘が鳴り終わる頃、サイラスがぽつりと呟いた。
「……何だと?」
「いつもならば、すぐに言ってくれる赦しの言葉が、今日は少し遅れていたのでね」
 ふむ、と思案するように指摘されて、全身の血が一気に沸き立つのを感じた。
 告解部屋とは、信者の罪の告白を聞いたあとに神の赦しを与えるものだ。だからいつも、赦しの言葉で締められる。それが何ということか、自分の心に気を取られて――これでは「何かある」と気付いてくれと言わんばかりじゃないか。
 恥ずかしさで死にそうだ。俺はそこまで、こいつのことで手一杯だというのか。
「テリオン君」
 俺を呼ぶ声に、顔を上げる。格子窓の向こうに、サイラスが見える。はっきりとは見えないが、その視線に自分が捕まっていることだけは分かった。
「もうひとつだけ、私の話を聞いてくれるかな」
 少しの苦笑、それから、かぶりを振る様子。「話というか、ただの言い訳かな」そして続ける。
「私のこの心が、ただの恋で終わるなら。そう考えたこともあったんだ」
 サイラスの唇が、あの軽やかな声で、深い色をたたえた言葉を紡いでいく。
「だが私は、忘れられない。ここを去った瞬間から、キミのことが頭から離れない。届かないと分かっているものに手を伸ばす、だから焦がれる。そう言われるかもしれないね。けれども、やはり違うな。キミと会うたびに知るのは、自分の愚かさだよ。キミの手を隠すグローブを外して、その肌に直接触れて、私の熱を感じてほしいと望んでしまうんだ。キミを知りたい、けれどもそれ以上に、キミに私を刻み付けたいんだ」
 何を言われているのか、理解するまでどれほど要しただろう。
 ――俺は今、サイラスに、とんでもないことを言われているのではなかろうか?
 気付いたところで、頭はすぐには正気に戻らない。呆気にとられている俺を、サイラスが追撃する。
「キミに触れればきっと、キミは私を忘れないだろう? 忘れてほしくないんだ。私がそうであるように、キミにも私のことで悩み、苦しんで、喜びを感じてほしい。なんて卑しいのだろうね。こんな心が単なる恋心とは、到底言えない。……私は、神に赦してもらえなくとも良いんだ。ただキミだけが、私の心を赦してくれるならば、それだけで――」
 サイラスのあの指が、格子窓に触れた。俺が手を伸ばせば、指先が触れ合うその距離で。
 だがそうしてしまえば、俺はこんな程度じゃ済まなくなって、きっと今すぐ扉を開けて、『そっち側』へ行ってしまう。神官でも何でもない、地に落ちたひとりの人間になって、あんたを求めてしまう。そうなれば、もう終わりだ。
「……駄目だ、俺は……」
 声を絞り出す。
「俺は、あんたには――」
 一言、一言口にするたび、世界が狭まっていく。サイラスの姿は、視界の外へ追いやられてしまった。だが見なくとも、手に取るように分かる。きっとあんた、今、泣きそうな顔をしているんだろう。あの澄んだ空の向こうみたいな綺麗な目を、きゅっと細めて。
 ああ、あんたも相当な馬鹿だな。俺はとっくに、あんたと同じ心を持っているのに。
 眠れない夜なんてざらにあった。あんたのことばかり考えて、だ。あんたは俺にないものを何でも持っている。だからこそ遠くて、欲しい。
 何も持たない俺のような人間を求める稀なやつを、どうして忘れることができるというのだろう。世の中に、あんたのような物好きが他にいるか。いるとすれば、オフィーリアくらいだ。
 俺にはオフィーリアしかいなかった。オフィーリアだけが家族で、俺自身で、過去の自分を慰める唯一の人間だった。
 だけどそんなことなんて構わずに、あんたはいつでも俺の中に踏み入ってくる。ずかずか入ってきて、俺を守る壁をすり抜けてきて、ともに未来を見ようと言う。過去なんて無関係で、あんたの目はいつも道の先を見据えている。
 けれども。
 どうしたって、自分の鏡を捨て置くことなど出来ない。それは今までの俺を捨てることと同じなのだ。過去の自分。苦しみにまみれた自分。オフィーリアと出会い、割れた破片同士がぴたりと合わさるように、あいつのかたわらにいた自分。
 それをまた、自らの手で割ってしまえと言うのだろうか。
「……あんたのところへは、行けない」
「テリオン君、何故なんだい」
「言ったところで分からない。分かってほしくない……これ以上、俺を分かろうとするな」
 頼む。
 そう縋ると、サイラスは静かに部屋を出て行った。ただ一言、「すまなかった」とだけ言って。
 どうかあんたに、聖火のお導きがありますように。
 祈ることしか、俺にはできなかった。信じてもいない神に祈って、何になるというのだろう。

 それから間もなくのことだ。告解部屋にノックの音が響く。小さな、遠慮がちな音。今日の告解はすべて終わったはずだった。
「……テリオンさん、いらっしゃいますか?」
 声の主に少々驚く。オフィーリアだ。きい、と蝶番が鳴って、ゆっくりと部屋へ入ってくる。不安げな顔を隠すように、その金髪が揺れた。
「……どうした」
「あの、なかなか戻られなかったので、心配になって」
「違う。……どうしてそっち側に入った。そっちは、罪を告白する方だろう」
 さっきまでサイラスがいた場所へ、今度はオフィーリアがいたのだ。自分が座る神官側の扉ではなく、何故告白側にいるのだろうか。
 しかしオフィーリアは「これで良いのです」と、苦笑交じりに言った。
「テリオンさん。少しだけ、私に時間をくださいね」
 どういうことだ、と問う前に、オフィーリアが向こう側へ腰掛けて、口を開いた。

 私がテリオンさんと初めて会った日から、もう十年以上経ちました。私を家族として認めてくれたこと、本当に嬉しくて、私はいつもテリオンさんのことを自慢しているのを知っているでしょうか。同僚からもういいと言われるくらいです。あなたのことを話していると、あの無愛想な人が、と驚かれます。どこが無愛想なのでしょうね。こんなにも感情豊かな方なのに。
 いつだったか、私がテリオンさんと二人で出掛けたことがあったでしょう? たしか、教会の行事に必要な神具が足りなくて。女一人では多分重いだろうからと、テリオンさんがついてきてくれたんですよね。あの日、街を歩いていた時、私が言いがかりをつけられたことを覚えていますか。神官は何もしなくても金が貰えて楽だな、とか言われた気がします。それだけで済めば良かったのですが、手を上げられそうになったんですよね。それを、あなたはすぐに庇ってくれました。相手の人の手を掴んで、すぐに追い返してくれて。ああ、私はひとりではないのだと、あなたがいるのだと思えたのです。
 でもそのあと、逆上したその人が教会まで乗り込んできて。市民に手を上げるのは何事だ、なんて、自分のことを棚に上げたことを言ってきて。あなたは反省のためにと、一晩独房へ入れられてしまって、私は檻の前で泣きました。自分が女だから、自分が弱いから、あなたをこんな目に遭わせたのだと思いました。
 けれどもテリオンさん、あなたは言ってくれましたね。家族を守るためにやったことだ、悪いとは微塵も思っていない、どうってことない、って。独房にいるのに胸を張って言うものだから、何だかおかしくて、嬉しくて……私達は、家族なんだと。それでまた泣いてしまって。結局二人、一晩中喋っていて、気が付いたら朝になっていましたね。あとで司教様に怒られてしまいました。
 そんなあなたが、最近ふと、困ったように溜息をついているのが気になっているのです。あなたを悩ませているのは、何なのでしょう。それは私が力になれることなのでしょうか。
 それともそれは、私の思い違いでなければ、……あの、サイラスさんのことなのでしょうか。ここ半年ほど、ずっと、告解のお相手をされていたから。
 思うのです。もしかしたらサイラスさんは、テリオンさんをここから連れ出したいんじゃないか、って。
 もしそうであるなら、……私から、テリオンさんを奪わないでほしいと思うのです。たった一人の兄なのです。
 これは強欲なのでしょうか。きっとそうなのでしょうね。神様、私は欲深い人間です――。

 オフィーリアの独白を、ただ聞いていた。しかし声が震え始めたことに気付いて、はっと顔を上げると、手を合わせ、肩を僅かに揺らして、神に祈りを捧げる女がいた。
「聖火神エルフリックよ、どうか私をお赦し下さい、私をお赦し下さい――」
 どうしてあんたが許しを乞うのだ。まるで聖書を読み上げるかのような柔らかい声で、自分は罪人だと主張するのだ。そんなことをしなくても、俺は。
 俺はどこにも行かない。ここで一生を終える。あんたの家族として、ずっと。
 何故、すぐに答えられないのだろう。
「……ごめんなさい。もうすぐ食事の時間ですね、行きましょう」
 告解部屋から出ていくオフィーリアに、どんな言葉をかければ良かったのか。何が正解で、何が不正解なのか。
 神様、あんたなら分かってるのか。なあ。
 返事はどこからもない。ただ、きんきんと、無音が響くばかりだ。


[newpage]
 サイラスの連続訪問記録は二十回で打ち止めとなった。
 それを皮切りに、俺の日常は聖火騎士団への入団試験へ向けて加速していった。停滞していた川の流れが堰を切って溢れるように、あるいは景色が一瞬のまばたきの間に消えゆくように、あっという間に過ぎ去る。告解部屋の担当から外すよう上へ依頼し、鍛錬に当てる時間を増やした。多忙に次ぐ多忙。慣れない勉学に頭痛を覚えながら、教会内の図書を漁る日々。合間を縫うようにオフィーリアと会い、茶のもてなしを受ける。オフィーリアが修道院へ入ってから、教会以外で会う機会がないので、それだけは死守した。
 というのは建前であって、互いの調子を確認するように会話し、ああまだ自分はまともである、と安堵するのだ。オフィーリアと会う時はいつも、あいつではなく、自分の複製と会っている気分でいた。まるで調律のように。狂いそうな自分を軌道修正するための儀式。それがなくなったら、俺はとうとう狂人になってしまうだろう。
 忙しない日々が続くなか、試験内容に関する本を確認していた時のことだった。入団試験の準備に必要な本が一冊足りないことに気付いた。その本の内容は出題範囲外だが、ないとなかなか困るので、仕方なく街の書店へ足を運ぶ。自分の住居を除いては、じっくりと街並みに目を向ける機会は少なくなっていたから、久しぶりに見る街の風景を雪とともに味わった。時折投げかけられる「神官様」という言葉に薄ら寒いものを感じるのには、気付かない振りをした。
 書店の門をくぐる。いくつかランプが灯されていても、壁一面が本でずらりと埋め尽くされているからか、昼間でも店全体がぼんやりと暗かった。だがその題目は魔術書から始まり、歴史、料理、日曜大工の本までなんでもござれ。さすが聖火教会のお膝元、宗教にまつわる本の品揃えは他の追随を許さない。
 そういえば以前、サイラスがべた褒めしていたか。
 フレイムグレースの書店は素晴らしい。まるごと買い取りたいくらいだ。でも全財産を投げ打つことになるので私は生きてゆけないから、もしそうなったらキミが私を養ってくれないか?
 くだらない話だったから一蹴したのだ。大体俺よりあいつのほうが良い給料なのは明白であるのに、そんな冗談を言うから、馬鹿にしているのかと罵った。
 頭の中であいつの声が再生される。暫く耳にしていないせいで、やたらと甘ったるくなった響きが、俺を感傷の泥沼へと引っ張ろうとする。
 ひとつ首を振って、その手を振りほどいた。
 書店の店主へ本について訊ねる。すると唸り声と謝罪を返される。なんと在庫がないとのこと。ストーンガードで製本されているのだが、次回いつ納品されるか分からないらしい。
 在庫がありそうな店は、と店主に問うと、あまり聞きたくなかった街の名前が耳を打った。
 アトラスダムにありますよ。馬車ならそれほど時間をかけずに行けますので、よろしければ足を運ばれては?

 アトラスダムの記憶は薄い。かなり前、まだ教会で保護される前に立ち寄ったことがあったか、それくらいだ。つまり俺はこの街で、いくつか品物をいただいたことがある。
 人で賑わう街並みは活気に溢れ、フレイムグレースとは違う騒々しさが若干息苦しい。非番を利用してやってきたものの(そもそも神官服は目立ちすぎる)、一歩足を踏み入れた瞬間、あいつに似た雰囲気がそこらじゅうに感じられて、今すぐ帰りたくなった。と言っても次の馬車は五時間後だ。日が高いうちにさっさと用事を済ませて外の街道でもぶらつけば、この押し潰されたような気分も今日の天気のように少しは晴れるだろうか。
 書店を目指す。人懐っこい人物を装って(こういう演技だけは得意だった)適当に道を尋ねると、街の奴らは事細かに教えてくれた。学者さんがよく出入りしてるから、お目当てのものは絶対にあるはずだよ。そんな情報まで手に入れてしまったので、肩に重石が乗ったように身体が鈍くなる。万が一、を考えると、足取りも否応なしに重くなるというものだ。
 幸い、店へはすぐに到着した。壮観、というのだろうか。でかい本棚がいくつも並んだ店内には、日中だというのに見覚えのあるローブを着た輩が何人かいて、それだけで反射的に足が地面にくっついてしまう。店の人間に声をかけられるまで入り口でそうしていたから、ただでさえ学者の身なりでもない俺は、さぞ不審に映ったことだろう。
 学者はもっと引きこもってばかりだと思っていたが、意外と活動的らしい。だが早く終わらせるが吉に違いない。
「この店にこういった本はあるか」
 店主らしき人物へ題目を告げると、短い返事とともに書棚の位置を教えられる。奥から二つ目の、上から五段目の棚の、左から三つ目の仕切りにある、右から十二冊目。即答だった。フレイムグレースの三倍以上はある本棚の中から探し当てるのは至難の業であろうに、店主の頭の中には本の地図が全てが詰まっているのかと思うと、この街はサイラスみたいな奴ばかりが住んでいるのだろうか。想像して、眩暈を覚えた。この街は俺の頭では到底理解できない奴らの巣窟だ。
 土地の違いなのか建物の設計なのか、本棚が壁のように並んでいても思ったより明るい。本の題目も、目を凝らさなくとも読める。言われた場所へ歩みを進めると、整列した兵隊みたいな背表紙の中に、すぐさま件の本を見つけた。店主の言った場所に確かにあった。これで自分の用は済んだ、あとは金を支払って終わり。
 だというのに、唐突に耳に入ってきた話し声に、指先が凍りつく。

 ――聞いたか。オルブライトの論文、また王立学院の記念講演に推薦されたらしいぞ。
 ――やはりか。あいつには敵わんな。天才は神に選ばれたからこそ天才なのかね。
 ――だがあの頭脳のおかげで、……の研究は五十年は進んだ。その功績は俺達では決して……。

 逃げ帰るとはこういうことを言うのだろう。投げ捨てるように代金を支払って、店を出る。時折人にぶつかりながら、街を出て、街道を走り抜けた。馬車の何倍かかるか分からない、夜中に着くことになるかもしれない、それでも一秒も速くこの街から立ち去りフレイムグレースへ戻りたかった。
 サイラス。サイラス。サイラス!
 俺とは違う陽の当たる場所の人間。俺の遥か前を歩く人間。
 俺とあんたは違いすぎる。俺達の間にたたずむ空白が、俺をどこまでも遠くへ追いやる。
 それが思い違いであれば。けれども確かめるには、俺はとことん臆病者なのだ。

 翌日、睡眠不足の頭で教会へ顔を出した時、どことなく周囲の視線が痛いことには気が付いた。慣れたものであったからそのまま受け流していたが、どうやら今度は性質が異なるらしい。それに気付かされたのは、日が沈もうとしている時刻だった。
「おかえりなさい、テリオンさん」
 夕刻の挨拶にしては妙であるが、オフィーリアには出かけると言ってあったので、そのことを踏まえてなのだろう。ただ、奇妙な挨拶よりも先に、オフィーリアの表情が曇っていたことのほうが気にかかった。
「何かあったのか」
 訊ねると、いつもは深い飴色を思わせる瞳が揺らいでいた。
「……実はこの間、教会へ投書があったのですが、それが教会内で少し……」
 ここ暫く一人で過ごす時間が多かったので、投書が話題になっていることについてはまったく知らなかった。
 教会は一般の信者に向けて、様々な制度を提供しているが、そのなかに投書箱がある。教会を訪れる誰もが利用できるものだ。
 真面目な嘆願書めいたものが多いが、中には教会に対する中傷も含まれている。しかしよくあることで、話題になることは少ない。
「目立つ色の紙だったので、担当の神官が気になってすぐに読んだそうです。そしたら」
 言い淀むので「どうした」と促した。
「……テリオンさんが、破戒している、と……」
 なるほどそうきたか、と合点がいった。
 つまり、俺が戒律を破って悪さをしている。そう、誰かが告げ口をしたということだ。身に覚えがないわけではない。以前にオフィーリアを殴ろうとした男のように、逆恨みをする人間はどこにでもいるものだ。特に俺のような、すぐ態度に出すような人間が神官をしていれば、恰好の的であろう。
 あとは――サイラスのことか。同性が同性に好意を寄せるのは、宗教上、大罪だったはずだ。どこかで悪い噂が立ったか。
 ついに神様とやらに裁かれる時が来たらしい。
「詳しくは書かれていなかったようですが、明日、司教様が審問する、と聞いています。ですから今晩、独房で過ごすように、と伝言を承りました」
 逃亡防止のためであろうことはすぐに理解した。時折、酒に溺れた神官や姦淫を犯した職員が、罰から逃げ出さないように入らされていたのは知っている。オフィーリアに言付けを頼んだのも、大方、こいつが言うならば俺が大人しく言うことを聞くであろうと考えたのだろう。
「分かった。……そんなことをあんたに言わせるとは、悪かったな」
「テリオンさん、あなたは本当は……」
 言葉の続きを聞きたくなくて立ち去る。その続きを聞けばきっと、正面から立ち向かわなくてはならなくなる気がしていた。あの時相対したみたいに、再びオフィーリアと。そして、俺自身と。



 夜のフレイムグレースは一層冷える。毛布と火鉢があるといえど、檻のせいで暖かい空気は逃げて一向に部屋の温度は上がらないし、そもそも神官服のケープが薄いのが悪い。コートを持ち込めば良かった。
 はあ。吐いた息は、ランプひとつしかない暗がりの室内でも、すぐに白く濁ったのが分かった。
 明日審問を受けて、俺が何も認めなかったらどうなるのだろう。その時は認めるまで責め続けられるのだろうか。それもいいかもしれない。
 この感情と戦うのもそろそろ疲れてきた。
 思い通りにならないのは慣れている。自分に陽が当たらないのも。だが、誰かに求められて、それに応えられないのは、苦くて痛い。世界の中で、何も持っていない自分が殊更はっきり浮かび上がって、ただ時間だけが過ぎていく無情さが、俺を押しつぶそうとする。何も残せずに、無意味に、淡々と生きていくだけが俺の生き方なのだと、紙に書かれて貼り付けられたような感覚。
 これが神が与えたもうた罰かもしれない。
 サイラスは多分、俺を本当に好いてくれていたのだろう。
 だがそれも今夜までだ。明日の審問が終われば、俺が罪を認めようと認めまいと、別の任地に飛ばされる。もっとも、運が悪ければ破門。
 聖火騎士団の試験準備もすべて水の泡か。
 ここに戻ってこられるのはいつのことになるやら。いや、戻ってこられないかもしれない。
 ――その方がありがたい。あいつのことを考えなくて済む。
 今度は砂漠の中の教会へ派遣されるかもしれない。そう思うと見飽きた風景も手放しがたいものに感じて、昔オフィーリアにせがまれて作った雪うさぎだとか、祈りを捧げ続けた大聖堂の静けさとかが、どうしてか頭の中に浮かんでくる。
 目を瞑った。真っ暗になった視界に、フレイムグレースの雪景色が映し出される。どこまでも続く白地に、ところどころ炎の橙色が滲んで、教会へ向かう人々を見送る。そこに立っているはずのオフィーリアと俺の姿だけが、雪の中にぼやけてよく分からない。これはいつの記憶だろうか。
 俺がいなくなったら、オフィーリアはどうなるのだろう。どこまでも相手を信じるやつだから、この閉ざされた世界で騙されずに、うまく立ち回れるのか心許無い。
 いや、違う。
 誰もを信じられるのが、あいつの武器なのだ。あいつは本当は強くて、俺がいなくとも生きていける。
 誰かがいないと生きていけなくなったのは、俺のほうだ。
 オフィーリア。サイラス。あいつらに会うことがなければ、きっと今でも、一人で。
 思考の中に潜む影にのまれる寸前、突如、鐘が鳴り響いた。
 大聖堂の鐘ではない。かんかんかん、と甲高くけたたましいこの音は、火事の時に鳴らされる音だ。
 次いで、街のざわめき。独房の壁にある通気口から、微かではあるが、森のほうで火事だ、とか何とか聞こえてくる。雪の降りしきるこの街で火事とは珍しい。 
「――テリオンさん!」
「……オフィーリア……!?」
 通気口を覗こうとしていた時、予想外の人物の声がして、思わず踏み台にしたベッドから足を踏み外すところだった。
「なんであんたが……!」
「しっ、静かに……見張りの神官は今、火の様子を見に行っているはずです。少し離れていて下さいね……!」
 オフィーリアが杖を構える。それは神官の奇跡の技とは違うもので。
「……雷よ!」
 瞬間、薄暗い独房にばりばりと稲光が走った。檻の入り口に取り付けられた錠前が、ぶすぶすと黒い煙を上げながら、床へ落ちる。
 雷魔法だ。いつの間に、そんな技を。
「ふふ、驚きましたか? 実は以前、サイラスさんにお願いして、少しだけ手ほどきを受けたんですよ」
「あいつに?」
「はい。私ひとりでも、自分の身を守れるようになりたくて」
 短剣の扱いは不得手ですから。そう苦笑しながら、オフィーリアが檻の扉を開ける。
「テリオンさんに、謝らなければいけないことがあります。……実は、投書の件は、私が行ったのです。テリオンさんに、独房へ入っていただくために」
 いわゆる自作自演ですね。そう白状する姿を目の前にしても、どうしたことか、何も反論できない。
 昔から、オフィーリアが無茶苦茶なことをする時には、常に理由があることを知っている。
「フレイムグレースから、聖火教会から離れるには、それしかないと思ったのです……本当に、本当にごめんなさい」
 頭を下げるオフィーリアに、どうして、だとか問い詰めたいことは山ほどあったが、それよりも早く「さあ、走りますよ」と手を引かれる。
「おい! もしかしてあの火事も……!?」
「はい、私です。生木をいくつか束ねて燃やしただけですが、思っていたより騒ぎになってしまいましたね……あ、燃え移らない場所で燃やしましたよ!」
「こんなことをして、あんたもただじゃ済まないぞ! 破門になっても良いのか!」
「懺悔なら、あとでいくらでもします。罰は受けます。でも、家族を守るためですから、悪いなんて思っていないですけれど」
 聞き覚えのある台詞を返されて、こんな状況なのに、走りながら少し笑った。

 独房のある塔から大聖堂の裏を抜け、街はずれへと走る。遠くに煙が立ち上っているのが見えた。念のため二人ともフードを深く被ってはいたが、街の中心はボヤ騒ぎでそれどころではないらしく、また神官の姿も珍しくないからだろう、俺達を気にする奴らはいなかった。
 進むたびに人の気配がなくなっていく。家々は過ぎ去り、雪と岩と木だけの景色へと変化していく。
 まさかオフィーリアが、こんな大胆なことをしでかすとは。俺の知らないうちにサイラスから魔法を学んでいたことも気付かなかった。自分の知らないオフィーリアの時間があるのだと今更ながら思い知らされて、自分がオフィーリアのすべてを知った気でいたことを恥じた。
 雪で足を滑らせないよう気を付けながら走り続けて、街の端へ着く頃にはすっかり息も上がっていた。冷たい空気で喉が痛い。
「はあ、はあっ……すみません、急がなければと、思ったので……修道院に気付かれるのも、時間の問題で……っ」
 そうだった。こいつのことだから、修道院からこっそり抜け出してきたのだろう。堂々と「今から陽動のために火事を起こしてきます」なんて、言えるはずがない。
「おい、オフィーリア……なんで、俺を逃がしたんだ……」
 ぜえはあと息を荒くするオフィーリアに、自分も呼吸を整えながら問う。フードの隙間からでも分かる、色白の頬が赤くなって、神官服に映えた。
「……私は、テリオンさんがいなくなるのは、……嫌です……」
 でも、とオフィーリアが続ける。
「テリオンさんが幸せでないほうが、もっと嫌なんです」
 神託のような声だった。
「あなたをここに縛り付けていたのが、他でもない私だというのは、分かっていました。それをあなたに強いたのも――でも、もう、私達は、違う道へ進まなければいけないのです。私はずっと、それを避けていたのです」
「何を、」
「私はもう、大丈夫です。今日、明日が大丈夫じゃなくても、いつの日か大丈夫になります」
 テリオンさんとお茶ができなくても、お勤めの時に会えなくて寂しくても、あなたが幸福であることのほうが余程大切なんです。あなたがあなたの望む人生を歩む。そうであってほしいのです。
 オフィーリアの言葉が、はらはらと、雪に交じって俺に降りそそぐ。
「テリオンさんは、こことは違う、別の場所で生きてゆきたいのではないですか? そこに、あなたの未来があるのではないですか?」
「オフィーリア、俺は……」
「行ってください、さあ」
 ずっと握っていた手を離して、その細い指が、とん、と俺の胸を軽く突いた。
 なあ、俺は。
 俺は、あんたに何かを返せたのか。
 あんたに、兄として、何かできたのか。
 聞きたかった。答えてほしかった。だが、オフィーリアの泣き顔から目が離せない。
 微笑みながら涙を流して、掠れた、しかし竪琴を鳴らすように呟く。

「ねえ、テリオンさん。私達、家族でしたよね。私は、あなたの家族でしたよね」

 零れ落ちる涙の美しいこと。粉雪になってきらめき、消えていく光の粒たち。
 あんたを泣かせるのは、俺の特権なのか。ならば、そんなに綺麗な涙を見るのが俺だけなんて、勿体ないな、と思う。
 そのひとつを、冷たくなったグローブの先で拭った。そのまま、金髪を隠すフードを少し上げる。被っていた雪がさらりと落ちた。
 何事かと不思議そうな顔をするオフィーリアを見ながら、そんな風にぼうっとしていると誰かに口付けをされてしまうぞ、と心の中で苦笑する。
 その額に、小さくキスを贈る。
「……あんたに、聖火神の祝福があらんことを」
 最初で最後の祝福だ。神を信じちゃいない俺からは、効き目がないかもしれないが。
 そう言って、雪の中で二人、笑った。それきり口を開かず、互いに背を向け、歩き出す。
 さよなら、オフィーリア。さよなら、昔の俺。
 さよならだ、すべてのものよ。



 走った。疾走した。
 どれくらいか分からない。フレイムグレースから南へ、南へと走り続ける。昨日も走った道を、昨日とは比べ物にならないくらい早く走る。足に神官服の裾がまとわりつくので、途中、短剣で破いてやった。
 森を抜けて、暗い街道を駆け抜ける。魔物を追い払いながらひたすらに走り続けているうちに、雪がやみ始め、景色が少しずつ変わり、次第に左手に海が見えてきた。東の空には炎の色が真横に伸びている。いまだ群青の水面から潮風が吹き荒んで髪をかき乱すが、そのままにしてただ走り続けた。
 足は痛いどころじゃない、喉は乾きっぱなし、時々咽せて苦しい。その上、この先に自分の欲しいものがあるか、確証なんてない。
 なのに何故、あの街へ向かっているのか。居心地が悪くて、癪に障る、でもあいつがいる街。
 おもむろに、いくつもの白い筋が、海と空の境目を割るように現れて拡がった。
 水平線を追い越して、太陽が顔を出す。空が燃える。世界が反転する。
 閃光に撃たれて、立ち止まる。眩しくて、目が痛くて、けれど泣きたくなるくらいあたたかい。
 夜明けだ。

 例えばいまこの瞬間に、俺が死んだとして。
 時は止まらずに流れて、夜が明ければ人々は呼吸し、生きて、また夜が来て、月が現れ、また日が昇る。
 サイラスはあの街で、いつもどおりの日々を過ごす。俺のことはいつか思い出になって、古びて本棚にしまい込まれる。
 俺は誰かに、何かを残すこともなく、霧のように散らばって、薄まって、消えていく。
 たったそれだけのことが、どうしてこんなにもさびしいのか。嫌だと叫びたいのか。
 その理由を、俺はとうに知っているのだ。

「テリオン!」
 ああ、神様聞こえるか。あんたに懺悔し続けた男の声がする。そんなに焦ってどうした、いつもの調子はどこへ行った。
 俺はついにおかしくなったのか。走り続けたせいで頭が狂って、幻覚を見るようになったってのか。
 ――違う。光に満ちた空間の奥、そこから駆け寄ってくるのは、見覚えのあるローブは、確かに。
「な、んで……ここに……」
 サイラスだった。
 俺の一歩先で止まる。肩で息をしていても、髪を振り乱していても、額の汗を拭う動きひとつとっても様になる、腹が立つ男サイラス・オルブライトだな、と分かる。
「商人から、フレイムグレースで火災があったと聞いて、心配で……! 馬車はないし、走ってきたのだけれど、一体何があったんだい!? その恰好は!? ああ、どこもかしこもぼろぼろじゃないか!」
 言われて、自分の姿を確認する。白い神官服は裾のほうから黒く汚れているし、自分で切ったこともあって目も当てられない状態だ。ケープは魔物とやりあった時に裂かれたのか傷だらけだった。まるで脱走兵のような見た目に、いや脱走してきたのだから正しいな、と一人で納得した。
 それよりあんた久しく見ていなかったが何してたんだ。元気だったか。会いたかった。悪かった。何から言おうか迷ったが、最初に出てきた言葉は「逃げてきた」だった。けれどもうまく喋ることができなくて、げほげほと情けなく咳き込んだ。
「え? 逃げてきたって?」
 よく聞き取れたな、感心だ。唾を飲み込んで咳払いをする。さて今度はうまく話せるだろうか。
「神官ごっこはもうやめだ。おい、アトラスダムへ行くぞ」
 どういうことなんだい、とサイラスの置いてけぼりをくらった顔が面白くて、からからの喉で笑った。「テリオン?」さっきから気になっていたが何故呼び捨てなのだろうか、許した覚えはない。
 しかしこいつは元から許さなくても勝手にする奴だった。今に始まったことではないのだ。勝手に俺に恋をするし、勝手に告白する。そして、勝手に俺に未来をくれると言う。
 だから俺も勝手にしてやる。
 まずはご挨拶に飛びついてやろうか。それかキスのひとつでもくれてやろうか。いやそれとも……どれも愉快で、サイラスの驚く顔が浮かんでたまらない。
 朝焼けがだんだん白く侵食されていく。光が俺達を飲み込んでいく。サイラスの黒髪がつややかな輪を帯びて、無性に触れたくなって、手を伸ばした。
 世界中の神様とやら、もしいるのならばとくと聞くがいい。あんたらの手の届かない世界で喚く人間の声を。さあお待ちかね、大罪人の演説、負け犬の遠吠えが始まるぞ!



(了)畳む
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