から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

永遠
・約100年後のオルステラ。
・サイラスの曾孫(20代)とテリオンの奇妙な二人旅
※サイテリ前提ですがサイラス先生の影は大変薄いです。
※なんでも許せる方向け。
#サイテリ #IF

 よもや自分が家族の墓を荒らすことになるとは、数年前に想像できただろうか。深夜、墓地の奥、立派に建てられた墓標の前で、黙々とシャベルを動かす羽目になるとは。
 霧がかった空気が、ひやりとしているのに湯気かと思うほど鬱陶しく、むせそうになる。私は肉体労働に向いていない。体力もない。できれば今すぐにシャベルを放り投げたいのだ。
 しかし、言いつけを破ることは憚られた。オルブライトの一族は、そんなに生真面目な血筋であったろうか。そうではない。仮にそうであれば、ご先祖様の墓を荒らせ、などという言葉を遺すはずがないのだ。そんな、互いの尊厳も何もかも無視したような。
『墓の中から、大きなルビーを掘り出してほしい。真っ赤な、血の塊のようなルビーだ。そして念じること。私の前に現れてほしい。そう強くね』
 誰を、とは、誰も聞かされていなかった。父も、祖父も知らなかった。ただ念じること、と言われたそうな。曖昧で、論理的な魔術師一家にそぐわぬ内容は、先に何が待ち受けているのか分からない深い森のごとく私を迷わせた。土を掘り進めている今も、一分間に一度は手が止まる。これから自分がどうなるのか知ることができない、その空恐ろしさが、あたり一帯に充満していた。
 曾祖父の遺言が今まで実行されなかったのは、単にその時ではなかったからだ。そう父から教えられたのは先月のこと。『実行するのは、オルステラが黄昏時に入った頃合いでなければならない』のだそうだ。今まではその時でなかっただけのこと、ただそれだけのこと。
『実行の時は、陽が落ちる寸前のような、散り際の花のような、美しい瞬間でなければならない。そして旅をするんだ。昔の頃のように、沢山の国を巡ること――それが私の望みだよ』
 ひいおじいさん。私には、今のオルステラが、そんなに美しい大地とはとても思えないのです。
 我々一族が命をはぐくみ続けた国は、首の皮一枚で生きながらえており、大陸のほとんどの人間が別の土地へと移り住んでしまった。私も来年には、大多数のその他と同様に、アトラスダムから他国へと渡る予定だ。数十年前の戦でオルステラは深く傷ついた。あと少しで泡がはじけるように、崩れてしまうだろう。
 その前に、やっておかねばならないのでしょう? サイラスのひいおじいさん。でないと、真夜中に化けて出てきそうですから。
 辺りの土を掘り続けてどれほど経っただろうか。突如、がつんという金属音と共に、シャベルが先へと進むのを拒んだ。手に持っていたそれをようやく放り投げて、背丈ほどある穴ぼこの最下層を手でかき分ける。角ばった何かが埋まっている。事典ほどの大きさだ。爪の間に土が入り込んで気持ち悪かった。
 掘り出した箱は、暗闇の中でも分かるほど輝きを放ちながら、私の両手に捕まった。



「テリオンさんって、なんで死んだんですか?」
 ざくざくと、ビスケットが割れるような音を、どれくらい聞いているのか。私は額の汗を拭った。足をとられるとまではいかなくとも、砂漠はいつも人間を寄せ付けたくないみたいに、歩きにくいことこの上なく、そして暑い。
「何故そんなことを聞く」
「好奇心ですかね」
 反対に、彼はこの気候のなか汗のひとつもかかずに、熱風などどこ吹く風、私の前を歩いていた。紫のストールを巻いて、さらに上着も被っているのに涼しげだ。一定の距離間を保ちながら、離れることもなく近づくこともない。日差しが彼の髪をいっそうまばゆくさせて視界のなかで揺れる。
「ねえ、休みませんか……」
「弱いな」
「学者はね、体力がないんですよ。昔から」
「おたくは学者のようには見えないが」
 きっと今の私は、体中から湯気が出ているだろう。座り込んで足を投げ出す。息も絶え絶え、先ほどから足元の砂に落ち続ける雫はすべて汗だ。もう一度顔を拭う。腰の水筒を震える手で取り、あおった。中身は湯になっていた。
 マルサリムまであとどれくらいだろう。
 絶望にも似た気持ちになっていると、視界につま先が入ってきた。テリオンさんの靴だ。
「こういう時こそ、魔法を利用するんじゃないのか。さっさと水でも氷でも出せ」
 忘れていた。私はあまり魔法が得意ではなかったので。

「で、死因は?」
 危うく砂漠で干からびるところであったが、テリオンさんが示した先に洞窟があって、私は九死に一生を得ることができた。どうしてこんな場所を知っているんですか、と問うと「昔な」とだけ小さく答えて、陰に私を座らせる。
 冷えた岩肌が心地よい。うなじを伝う汗も、暫くすればひいていくだろう。
「しつこい奴だ」
 嘆息が聞こえる。「性分ですよ。こればかりは、曾祖父ゆずりだと、胸を張って言えます」疲労で声が掠れた。
 小規模な氷結魔法から生成された氷は、もう半分以上は融けてしまっているが、おかげで水筒の中身は湯から氷水になった。再び水筒をあおる。喉を鳴らして水を含むと、じわじわ、じわじわと、身体中に水が行き渡るのを感じた。
「誇るところじゃない」
「あなたのほうが、ずっと感じているのでは? 覚えがあるでしょう」
 私は知らないのです、と付け加えておく。
「記憶にないな」
「嘘が好きですね」
 返答はない。
 洞窟の暗闇に目が慣れ、意識も少し明瞭さを取り戻してきたあたりで、彼は言った。
「ここに、」
 指さすのはその胸だ。右手の親指で、ぐっと押している。
「弓が一本、うまいこと突き刺さったのさ」
「おお……それは痛そうですね」
「それで一発、あの世行きだ」
 今では銃が主流だ。重火器と魔法を組み合わせた大戦は、それは凄惨なものであったらしい。私が生まれる前であったからあまりなじみがなかったが、父は魔術師として召集されたと聞いた。弓矢を使っていた時代は随分と前だ。
「苦しいとかは?」
「悪趣味な質問をする」
「すみません」
「覚えていない。ただ、くたばったのは、俺が仕事にしくじったからだった気がするが」
「気がする、ですか」
「……亡霊に訊く話ではないな」
 確かに。訊いても、まるでお伽噺のようで、現実味は全くなかった。
 テリオンさんについては詳しく知らない。
 ただ父から、偉大なる学者であり魔術師であった祖父――つまり、私にとっての曾祖父――が遺した願いであるから、と。その遺言の、渦中の人物というだけで、私にとっては大昔のひと。しかも少々柄の悪い、私とは違う世界に住んでいるひと、という印象でしかない。

 墓荒らしの夜、くだんの箱を無事掘り出した私は、遺言に従ってオルブライト邸の一室で儀式を行った。
 箱の中に納まっていた大粒のルビー、その表面には隙間が見当たらないほど文字が彫り込まれていた。呪文であることは分かるが、何の呪文かは分からない。ただ、さすがに曾祖父も自分の身内を危険にさらすようなものを遺すまい、と考え、赤い宝石を握りしめて、祈る。
「どうか現れてください。誰か分かりませんが、私がひいおじいさんに呪い殺されないためにも、どうかどうか現れてください――」
 祈りというよりは、もはや懇願である。
 瞬間、指の隙間から夕焼けのような光が一気に溢れ、部屋を満たした。眩しさに目をつむってしまう。それは本当に、ぱん! と大きく手を叩く程度の、あるいは風船が一気に空気を放出するかのごとく、非常に僅かな時間であった。だがその時が過ぎ去ったのち、目の前に見知らぬ人物が立っていたら、人間誰しも呆気にとられるか叫ぶだろう。なお、私は後者だ。
 サイラス、とその人が口にしなければ、自分が行った儀式を今でも理解できていなかったかもしれない。彼は確かに、曾祖父が追い求めた術式の、大いなる成果であったのだ。死人の魂を呼び寄せるという、私には到底理解の及ばない、恐ろしい術の……ただし、そのことを理解したのは、かの人の正体を聞くことができた翌朝のことだ。
 彼は目を見開いて私を見ていたが、私の風貌が『サイラス』とは異なることに気付いた時、周囲を見回し始めた。何もかもが彼にとって違和感の塊であったようで(当然だ)私は事の次第をどう説明すればよいのか、何から口にすべきか瞬時に判断できず、暫くおどおどしていた。説明したところで納得するのか? 怒られるのではないか? 二十数年しか生きていないが、学会でも何処でも、叱責されることが気分の良いものではないことは知っている。
「あの、あなたは誰なんですか?」
 とりあえずそう言うことだけはできて、彼は私の声に振り返った。そして言った。
「お前こそ誰だ」
 怒りと共に。
 やはり叱られるのは嫌だ――そして、彼が現れてから朝日を見るまでの数時間、喉元に短剣を当てられながら尋問されたことは、もう忘れてしまいたい。

 半月前の出来事が、まるでつい先ほどのことのように明瞭に思い浮かぶのは、まだ若い証拠か。
 しかし、あといくつ国をまわれば曾祖父は満足してくれるのだろう。
 旅をすること。それは理解した。そして現在進行形で旅をしている。『復活した誰か』と旅をすることが曾祖父の願いであるのは、遺言から察してはいたのだ。
 だがその相手が、少し非社交的である上、曾祖父の知り合いというので。
 はあ。意識せず溜息をついていた。疲労もあるが、深く知らない人物と共に過ごすのは、少々、気を揉む。個人で動くことの多い学者にはあまりない経験だ。けれども気にしているのは私だけで、テリオンさんのほうにはそんな雰囲気は微塵も感じられない。
 彼の話では、かつて曾祖父と旅をしていたというではないか。そんな男が今では、その子孫とともに再び旅をしている。彼が曾祖父とどういう関係にあったかは詳しく知らないが、本当ならば曾祖父は私のような性格ではなかったのだろう。きっとおおらかで、何も気にせず、物事に対して常に冷静沈着、論理的思考を絵にかいたような理想的な学者であったに違いない。
 そう考えて、一人で少し落ち込んだ。自分には学はあるかもしれないが、魔術はそれほど得意ではないし、曾祖父には遠く及ばない。テリオンさんの知る曾祖父と私には大きな差があるだろう。知り合いの子孫がこんなのできっと落胆しているのでは、とまで思えてくる。
 一方、テリオンさんはというと、洞窟の入り口に立って腕を組んでいた。
「落ち着いたか」
 逆光でよく分からないが、その視線は私を捉えているようでそうではない、常に輪郭だけを見ている感じがするのだった。
「テリオンさん」
「……なんだ」
「私は、似ていますか」
 そう訊ねると、お決まりの言葉を彼は口にした。
「全く似ていないな」
 彼はいつも嘘ばかりだ。



 マルサリムは辛うじてある程度の住民が居たが、あと十年もすれば、ここも他の街と同じように数えるほどの人しか居ないようになってしまうのだろうか。到着してすぐにそう思えるほど、大戦の傷跡はいまだ深く、街の影が私の目に暗く映った。
 だがそれよりも、テリオンさんのほうが気にかかった。彼は戦争のことを知らない。私のように学舎で、必修の歴史として教えられることもない。彼の記憶の中にある風景と、今我々が目にしている風景がどれほど離れているのか、想像もつかなかった。
「……ええと、何かご感想は」
 無言のままの彼にどうやって声を掛けようか。迷った挙句に出てきた言葉がこれだった。なんとつまらない台詞。観光に来ているわけではないのに。
 恐る恐る訊ねる私が可笑しかったのか、その言葉が妙だったのか、テリオンさんの目が前髪の隙間から私を一瞥し、その口元が失笑を浮かべる。
「すみません」
「……いちいち謝るな。おたくは何か罪でも犯したのか?」
「罪……罪と言えば、墓荒らしと、死者の魂を眠りから起こしたことでしょうか」
 あなたもご存知のとおり。言わずとも伝わっているだろう。
「サイラスの強欲さに巻き込まれたのであれば、罪のうちには入らない」
 テリオンさんの声が風に消えていく。
 世間には共犯という言葉がある。であれば私は立派な共犯者だろう。
 私の手によって永遠から呼び覚まされたテリオンさんが、恨み言のひとつも言わないことに、しばしば恐縮してしまう。死者の精神については想像できないが、魂だけで存在するというのは、ひどく寂しいものなのではないだろうか。かつて自分が訪れた街の変貌ぶりを見て、心を痛めたりしていないだろうか。
 砂交じりの風は彼の髪を揺らすけれど、彼は何とも感じないのか、ただ立っているだけ。

 ひいおじいさん。あなたはテリオンさんに、そんな思いをさせたくて術を遺したのですか?
 魂だけでも蘇らせたいなんて、人が決して手を出してはいけない領域なのではないですか?

 その晩、崩れた天井に帆布が掛かった酒場でエールを飲んだ。何故エールかというと、テリオンさんに「エールを注文しろ」と言われたからである。
 雷魔法を転用した電灯は、ほとんど野営に近いような店を明るく照らしていた。街は確かに至る所が荒れているものの、人々が荒れているわけではなかった。私のような得体の知れない旅人でも、ほとんどの住人が笑顔で出迎えてくれた。それだけでも私の心は安堵したものだ。
 クリアブルックのような田舎町や、フレイムグレースのような宗教都市であればまだしも、大きな街になればなるほど、戦いでは攻撃対象になったと聞く。マルサリムも私の街も同じく、かつ私の故郷は王都であることが拍車をかけた。比較的魔術師が多く住んでいたことは身を守るうえでは幸いであったが、それは徴兵も多かったことを意味する。戦いが終われば、王が、街が無事でも、人が無事ではなかった。精神を病む者も、戦争を思い出したくなくて街を去る者も多くいたらしい。
 今はどの街も、残った人々が、少しでも街が元の姿に戻れるように力を振り絞っている。
 私は単に幸運であったに過ぎない。
 たまたま父が戦争を生き延び、褒賞金を貰い、遅まきながら私が誕生し、破壊を免れた王立学院にも通えた。ただこの点に関しては結局、曾祖父サイラス・オルブライトの名が影響したことは、いくら私でも分かっていた。ひいおじいさんは、学院の最上位まで到達した稀有な人であったから。
 歴史の波の中、人は幸運のかけらを手にすることで、何とか生きながらえているのかもしれない。星屑のようなかけらを。
 全く減らないジョッキを傾けながら考えていると、ぼうっとしていた私を起こすように、隣からテリオンさんの声がした。
「サイラスは酒が強かったぞ」
 え、と思わず言ってしまった。そんな話は身内から聞いたことがなかったので。
 驚いて彼を見ると、にや、と意地悪そうな笑みを浮かべていた。「おたくはどうなんだ」挑戦的な目に、私の中の闘争心が僅かに揺らめく。
 目の前のジョッキに口をつけ、ごっごっ、と一気に飲み干した。こんな風に飲むのは本意ではない。が、曾祖父と比べられたことが私を少しばかり苛つかせた。だからつい、勢いで――。
 たった一杯のエールで潰れた私は、すぐそばで聞こえた「エール三杯。あと適当に肴を」という声に、誰の声だろうか、とぼんやり思っていた。
 テリオンさんであるはずがないのだ。死者は酒を嗜まない。

 翌朝、少しの頭痛と共に目が覚めた私は、まず自分が宿屋で横になっていることを不思議に思った。
「起きたか」
 声のするほうへと顔を向けると、白いものを見つけた。あの人の髪だ。朝日を明かりに短剣の手入れをしている。
 角度を変えるたびに煌めく刀身が、私の記憶を震わせる。その輝きは、彼が私を問いただした夜のことを嫌でも忘れさせてくれない。視界に入るたび、反射的に身構えてしまいそうになる。
「……すみません……運んでくださったんですか?」
 上半身を起こすと、一瞬の浮遊感。酒がまだ抜け切っていないようだ。
 手元の短剣から目を離さずに喋る青年の声が、静かに耳へと流れ込む。「俺ができると思うのか?」「それは……失礼しました」またしても当然のことを訊ねてしまった。
「酒場に居た奴らが運んだ」
「情けない姿を……いてて……」
「水を飲め。それから財布と石を確認しろ」
 ベッドサイドを切っ先で示され、そこに水差しがあることにようやく気付く。水の存在を認識すると、急激に喉の渇きを感じた。グラスに注ぐことを省き、花瓶のような筒をぐいっとあおる。昨日、砂漠をうろついていた時のように何口か飲んで、ふう、と息をつく。
 と、落ち着いている場合ではない。
 先ほど言われた彼の言葉を思い出し、懐を確かめた。間もなく右手には硬貨の入った革袋の感触があり、すぐ隣で、尖ったものに触れた。隠していたルビーだ。彼の依代とも言うべき宝石は、硬貨とは違う小ぶりな革袋に入れて、首から下げていた。
「だ、大丈夫です。『あなた』も」
「なら良い……だがひとつ訂正しろ。それは俺じゃない。勝手に石ころにするな」
「あ、すみません……」
 その切っ先が再び喉元に当てられぬよう、すぐさま謝罪を述べる。
 昨日は何杯飲んだろう? 記憶にあるのは一杯だけだ、しかしそれだけでこの有様。
 普段から酒はあまり飲まないので、嫌な予感はしていたのだ。けれども少しくらい、曾祖父に劣らない部分を見せたかった。意地の張り合いというか、身内の矜持というか。だが結果は、悪酔いした頭に二重の攻撃をくらっただけである。
 慣れないことはするものではないよ、全ては仮説と検証を経てからだ。さてキミは、自分がどの程度酒が飲めるか検証したことはあるかい?
 あなたならそう言うでしょうか、ひいおじいさん。



 あの日の夜。私が短剣に脅されながらいきさつを白状している間、テリオンさんは表情豊かに感情を表していたので、旅を進める中で変化の少ない人だとは予想していなかった。
 彼はオルブライト邸の一室で、薄暗い電灯のもと、その瞳を驚愕に見開いたり、と思えば子供の悪戯に手を焼く親のように頭を振ったりしていたのだ。
「確かにサイラスは、放っておくと突拍子もないことをやる男だった」
「そうなのですか」
「しかし、おたくは違うらしい」
 あいつの言葉にまんまと従うくらいだからな、と獲物を値踏みするような目が光り、私を震え上がらせる。
「私はただの、凡庸な学者ですよ。お願いですから、短剣を、しまってください」
 両手を上げたとて、何も意味はない。だが同情か憐憫か、とりあえず供述が嘘ではないことだけは伝わって、間もなく私は釈放となった――元から拘束などなく、手足は自由そのものであったけれども。彼の刃と眼光の鋭さが太い鎖となって、身動き一つ取れずにいたのである。
 感情の起伏のほとんどない人。
 それは、まったくないということを意味しているのではない。巡ってきた街を思い返せば、それが分かる。

 地図を開いた。
 各所に印された我々の足跡が、絡まった麺のような筋を描いていた。朱色の線はアトラスダムから始まり、コーストランド地方へと南下して、気まぐれな猫の足跡のようにうねっている。
 リプルタイドは港町の輝きを忘れぬといわんばかりに、海面から砕いたガラスのような光を放っていた。新鮮な魚を使った料理に目がくらんで、すぐ近くで放置されたままの半壊した軍艦を一瞬忘れてしまったのは、少し反省している。比較的人が多く残るグランポートでは珍しい異国の本を見つけ、眺めているうちにスリに遭いそうになってテリオンさんに叱られた。
 ゴールドショアの貴族街。きっとかつては着飾った人たちで賑わっていただろうに、今では主を失った館がずらりと並んでいるだけだ。財産を持って逃げ出すことを否定するわけではない。それも人の生きる選択のうちのひとつだろう。その中でも残った一部の貴族が、大戦の後、もぬけの殻になった館を病院や孤児院へ変えたらしい。屋敷の外壁には、建物の雰囲気には少し似つかわしくない看板が掛けられていたのを覚えている。
 貴族はいけ好かないが、中にもそういう人がいるのだ。十のうち九割が悪だからといって、残りの一割も同じく悪であるわけではない。
 再び地図をなぞる。
 ストーンガードの地名を見て、私の脳裏にある出来事が思い出された。ストーンガードでは、製本所を再建するかどうか、十年以上悩んでいるという人に出会った。戦火で全焼した、つまり機械も原材料も失われたわけだが、今は探せば、投資をすれば手に入る時代。実際、私も学生時代には何冊も本を買っていた。ただそれらが、ストーンガード製ではないだけだ。問題はそこだ。
 私はその人物にこう述べた。
「旅人の戯言と思って聞いてほしいが、私にとって本は知識の宝庫であり、これから先も人の想いを綴るのは本になるであろうから、ぜひ再建してほしい」
 苦労を知らない若者の、しかし切なる願いであったから。どこの国でも製本はできるだろう、だがその場所はひとつでも多いほうが良い。それに、私の家にあるストーンガード製の本は、とても美しかったのだ。
 あの人がその後どうしたのか、今は分からないが、いつか知ることができるだろうか。無責任な私が放った一言が、どう芽を出したか、もしくは枯れたか、できることならこの目で確かめてみたい。
 街をあとにする時、テリオンさんに「学者の子孫はやはり学者だな」と言われ、そういえば曾祖父の遺品に山のような本があったな、と思い当たる。本は好きだ。その中に、手にした人々の記憶が詰まっている気がする。頁をめくるたびに、その記憶のひとつひとつをも解読しているような気分になれる。
 ハイランド地方も、サンランド地方も、リバーランド地方も、街のどこかには人がいた。見るからに裕福そうな人もいれば、そうでない人も。どの街にも、同じように。
 ウッドランド地方で耳にした獣の遠吠え。あれは何だったのだろう。この旅では珍しく野営をしていた時であったから、寝ているうちに獣に襲われたらどうしようかと考えてしまったが、私の姿があまりに間抜けそのものだったのだろう。テリオンさんの冷たいまなざしに我に返った。自分がテントを張ったのは、森からは程遠い、しかも街道のそばだ。他にも野宿者は居たし、テリオンさんが火の番を買って出てくれたし(人間ではない点がいささか気になるが)不安要素などどこにもない。単に自分の世間知らずが露呈しただけだった。
 引っ掛かったのは、クリフランド地方に立ち寄った時だ。ボルダーフォールで、テリオンさんは丘の上を眺めていた。その様子は閉じられた箱のように頑なで、まるで誰かを弔うようで、私は声を掛けることができなかった。丘の上の大きな屋敷跡。今では形ばかりとなった、けれどもさぞ立派だったと分かるそこには、かつて誰が住んでいたのだろう?
 同じようなことがノースリーチでもあったように思う。ノースリーチの街並みがほとんどそのままであるのは、雪山が自然の城壁となって街を守ったからか。無論、食糧自給の面からすれば『戦時中は保存食で何とか食いつないだらしい』と父から聞いたから、かなりの苦境であったことは想像できる。
 ノースリーチには小さな、古びた教会がある。昔は廃墟同然となっていたところを、戦没者の慰霊にと、フレイムグレースの聖火教会が管轄に入れた。どんな時代であれ、宗教は傷ついた人の心の拠りどころになる。雪の中で光る小さな教会の明かりを、テリオンさんが離れた場所からじっと眺めていたのは、彼が記憶の中の景色を追いかけていたからだろうか。
 私は彼を知らない。しかし、一滴の雫がこぼれ落ちる程度ではあるが、過去の彼を垣間見ることができた気がした。
 彼と私と、そして曽祖父との距離が、少し近付いたように感じた。



 雪道を歩いていると、少し前にうだるような空気の中を右往左往していたことが幻であったかのように感じる。視界のほとんどを埋めつくす白さも、ローブの隙間から入り込む冷たさも、実はまやかしであるかもしれない。そう思いそうになる。
 フレイムグレースの大聖堂が、すぐそこまで迫っていた。時々何処かで雪の落ちる音がして、ざざあっ、と波にも似た音が飛び込んでくる。もしや魔物か? と思うのだが、そうであれば私より先にテリオンさんが反応することを、私は旅のなかで学習していた。
 彼は危険予知に長けた人間だ。
 表情があまり変わらないぶん、視線で語る人だった。その目が、少しでも怪しいと思われる場所には、足を踏み入れる前に罠がないか確認するよう指示をくれる。彼に同行しているうちに、私は頭の中にある旅の手ほどきに『初めて訪れる場所ではまず適当な石や木の枝などを放り投げること』という一文を追記した。補足するなら、正しくは、私の旅に彼が同行しているのだが。
 他にも興味深い助言をもらったことがある。
「人物画とは絶対に目を合わせるな」
 人物画とはまた古めかしい……と思ったが、写真技術が一般まで普及し始めたのは曾祖父の死後だ。そう考えれば合点がいく。ただその助言は、まじないというか験担ぎというか、実用的なものではない。彼もそんなたぐいを信じるのだろうか?

 ひらひら、ひらひら。小鳥の羽のように舞う雪が、頬に当たって融けるのを感じた。
 街並みを進んだ奥、大聖堂が雪景色に浮かび上がるさまは、水面で揺れ動く虚像のように儚げで、しかし番人のごとく鎮座しており、私たちをその影の中へすっぽりと覆い隠した。ノースリーチの教会の何倍だろう。さすが総本山というべきか。
「大きい、ですね」
「ああ」
「昔もこんなに立派だったのですか?」
「……変わらない。ここは、何も――」
 彼の目が大聖堂の広場から街へと移る。一体何が見えているのだろう。消え去った時代の遺産? 私の知らない、美しかった頃のオルステラ?
 白い髪が揺れる。ほの暗い景色の中へ、今にも消えていきそうだ。
 電灯というものが広く使われるようになってからも、フレイムグレースでは主に聖火を灯りとして用いているようである。宗教都市ならではの伝統なのだろうか、それが街の荘厳な雰囲気を保ち続けている。
 炎の輝きは、魂の鼓動のようだ。
 風が吹けば躍動し、その姿は定まらない。一方で、静寂の中では凛と佇む。人間がそのうちに抱く魂も、きっと聖火のように、静と動の往来を繰り返しているのではないか。
 ならテリオンさんは、今どちら側に立っているのだろう。
 何故曽祖父が彼を呼び覚ましたのか、その理由を知ることができないまま、私の旅はまもなく終着点に到達する。この街が、地図上で唯一印のされていない場所だった。ここでしまいだ。私たちの不思議な旅の最後を、大聖堂の鐘が彩る。
 でも。
 これから彼はどうなるのか? それを私は知らない。曽祖父の遺言にもない未知の領域の前に、私たちは立っていた。
 大聖堂の中へ踏み入る。入り口に立つ神官へお辞儀をしながら(言うまでもなくテリオンさんはしなかったが)建物の奥へと進むたびに、靴底に引っ付いた雪がぎゅうぎゅうと悲鳴を上げる。なのに、前を歩くテリオンさんからは足音一つしない。当然と言えば当然か。
 細長い絨毯の上を進むと、最奥で、ひときわ大きな聖火が燃えていた。ごうごうと炎が揺れる姿は、意思を持つ生命体のような印象を受ける。近付くと、その巨大さゆえか、目元あたりがちりちりと熱く感じた。
「結局曾祖父は、私に何をさせたかったんでしょう」
 私の独り言は喉で留まらず、教会の中にころりと響いた。
 旅をして、世界中をテリオンさんと見て回った。言ってしまえばそれだけだった、少なくとも私にとっては。
 だがテリオンさんにしてみれば、この旅の意味は大きく異なるだろう。彼は自分が生きてきた日々と今の時代の差を、拒否権もなく見せつけられてきたわけだ。私の普通が、彼には異常に映ったに違いない。
 崩れかけた建物に、傷ついた人々。こんなオルステラが美しいと、曾祖父は本当に考えていたのだろうか?

 サイラスのひいおじいさん、あなたの目的とは、一体何だったのですか。

 大聖堂のベンチ、その最前列に腰かける。ひとり分の距離を挟んで、私達は無言のまま、静かだった。たまに聞こえる炎の爆ぜる音に、時が止まっているのではないことを感じながら、ただ座っていた。
 間の空席はきっと、この旅の発案者の分だ。互いに何も言わなくとも、テリオンさんもそう考えているだろう。確証のない確信が、私の中にはあった。
 そこに今、サイラス・オルブライトが居たなら。居てくれたなら。
 テリオンさんの隣に座って、なんと声を掛けるだろう? 挨拶か、謝罪か。いずれにせよ私には分からない。
「……おたくには、分からなくていい」
 心を読まれたと思った。テリオンさんの声に、私の心臓がぎくりとした。
 大聖堂の中にはもう誰もいない。夜が近付き、何人か居た神官たちは何処かへ行ってしまった。残されたのは我々二人。話していても不審に思われることはない。
「サイラスが何をさせたかったなんて、分からなくていい。あの変人を理解できるのは、おそらく俺だけだ」
「すごい、随分な自信ですね」
 人目を気にする必要もないせいで、少し大きな声になってしまった。偉大な曾祖父が変人呼ばわりされるのを、生まれて初めて耳にしたからである。
 しかしそれ以上に、曾祖父を理解できるなんて、そんな言葉がテリオンさんから出るなんて、私の想定を超えたことだった。旅の中でそんな話をしていた覚えはない。
 なら、あなたにとって。
「……テリオンさんにとって、曾祖父とはどんな人だったんですか? ただの変人でしたか?」
 窺うように彼を見ると、瞳が二、三度瞬いていた。珍しいな、と思った。まるで虚を突かれたような様子が、どこか新鮮だ。聖火の光が白い髪に滲んで、縁どりが薄くぼやけていた。
「――変人だ。なにせ、俺のような人間を好む奴だったから」
「好む、とは」
「……あいつは、何も言っていなかったんだな」
「どういうことですか」
 仕方ないといった風に、彼の口から溜息が漏れる。それは序章。これから、私が知ってはいけないことが、堰を切ったように溢れ出してくる予感だ。
 その時だった。彼がおもむろに立ち上がり、右腕を振りかぶったのは。 
「サイラスは――」
 言葉とともに飛んでいく。聖火へと向かって、星のような何かが。
 え? と思う間もなく、その軌跡を追う。間もなく光は聖火に飲み込まれた。ぼっ。小さな音がした。
 光っていたのは、確か赤い、石のような。

「サイラスは俺の、情人だった」

 告げられた言葉の重さと、私の首に下げられていた魂の重さが、入れ替わっている。
 はっ、と慌てて懐を探る。ない。確かにここにあるはずのルビーが、ない。
 まさか。隣の彼を見上げる。にい、と口角を上げるのは見覚えがある。彼が何らかの思惑を成功させた時に浮かべる、あの意地悪そうな。
 ルビーの融点は高い。炎の中へ投げ込まれたとて、燃え尽きることはないだろう。だがきっとテリオンさんのことだから。
「安心しろ。投げる前に、術式を少し削っておいた。そのうちこの術も解除されるだろう」
 やっぱり! という感情と、いやそれよりも! という思いが混ぜ合わさって、私の中で烈火のごとく燃え盛る。
「なんで投げたんですか!? というかどうして触れられるんですか!? あなたは死んだ人なんでしょう!?」
 立ち上がってテリオンさんと対峙する。疑問ばかりが矢継ぎ早に出て、あっという間に彼を質問攻めにしていた。
「曾祖父のことだって、あれから何も聞かなくて、どうして!」
「落ち着け、学者先生」
「落ち着くもなにも! おかしいでしょう! あなたはもうここに居られなくなるんですよ!」
「死んでいない」
 焦っていた。曾祖父の想いを反古にしたのではないか、私にはまだやり残したことがあるのではないか。どうしよう、と狼狽しかかっていた頭が、彼の一言でぐんと引き戻される。 
「……え?」
「あれは嘘だ」
「……何が、」
「俺が、弓で死んだということ。俺は生きているし、サイラスもまだ生きている――ここではなく、俺の時代で」
 ひとつひとつ、彼の言葉を噛み砕いて、整理する。
 彼は、生きている。
 そして、サイラス・オルブライトも、生きている。彼の時代で。
 ということは。彼は、死した存在ではなくて。魂が呼び戻されたのではなくて。
「つまり、サイラスが編み出した術は、過去の俺を連れてくる術だったってわけだ」
 異なる場所、異なる時代から、物体を呼び出す術。
 自分が今まで学び、経験してきた全てを覆されたような。天変地異が起きたような、思考が転回する感覚。足元の絨毯がうねり出して、既成概念を打ち壊す怪物となり、私をがぶりと食ってしまう幻覚が見える。
「……そんな、そんなこと不可能です。時間の法則を無視することなんて、できるわけがない」
 再び混乱の濁流に飲み込まれそうになる私を、テリオンさんの声が掬いあげた。
「やってのけるのが、あいつなのさ」
 その声の、細められた瞳の、なんと柔らかいことか。
 まるで若葉の表面をつややかに流れ落ちる雨粒。あるいはガラス越しに差し込む昼下がりの陽光。形のないあたたかいものが、彼の言葉からほろほろと零れていく。
「このオルステラを旅できたのは、……人が、生きようともがく世界は、悪くなかった」
 彼の言葉で、私はやっと気付いた。
 巡ってきた土地で、街で、何とか生きようとする人々。彼は、そんな人々を見ていたのか。眺めていたのか。
 私の見てこなかったものを、あなたは見ていた。荒らされた宝石箱の底に残った、僅かな希望のひかりを。
 曾祖父があなたに見せたかったものを、あなたはちゃんと見ていたのだ。
 傷ついても、傷つけても、人は生きていく。何の意味もないような、その行為自体に価値があると、あなたは言うのでしょうか。
「あなたも、そうやって生きているのですか……?」
 私の目の前に立っているあなたは。かつてのオルステラで、今も生きているあなたは。
 問いの答えは、聞かずとも分かっていた。それでも私は、彼の声で聞きたかったのだ。
 その口元が、小さく音を紡ぐ。
「生きている。俺も、サイラスも」
 曾祖父の大切な人の、いのちの音を。
「あなたが生きているなら……何故、何故私は、この時代に生まれたんでしょう。何故私はここに居るんでしょう。あなたが曾祖父の想い人であったなら……」
 私の存在は、彼と曾祖父が、彼らの望んだ結果にならなかったことの証明となる。
 なのにどうして、彼は私と旅をしたのか? 何故私に、彼を呼ぶ役目が与えられたのか?
 何故、何故、何故。学者は答えを求めてばかり。彼らにとっての私の存在とは? 情けない、論理的でない、ただ感情のままの問い。駄目だ、視界がかすむ。
「泣くな、学者先生」
 あいつに似た顔で泣かれると、困る。
 そう言う彼に、あなたでも困るんですね、と言いたかった。そして、似てないなんてやっぱり嘘だったんですね、と。でももう、うまく喋ることができない。
 私の頭に、少しごつごつした、しかし柔らかいものが置かれた。テリオンさんの手だと理解した瞬間に、声が聞こえてくる。
「俺がここに立っていることが、その理由だろうよ」
 幼子をあやすような掌の温度。その時確かに、三つのいのちが、聖火に照らされていたのだ。



 汽笛の音が大きく鳴り響いた。船に乗り込む同期の学者たちを見送りながら、両手を振る。遠ざかっていく旅客船、そこには空き部屋がひとつあることだろう。結構な値段の、良い部屋だったと思う。
 ローブのポケットに手を突っ込み、チケットを取り出した。先ほど出発したばかりの船の乗船券だ。もう用済みの、使われることのなかった、ただの紙切れ。
 それを、真っ二つに破った。
 小気味いい音とともに千切れた券を、もう一度しまい直す。これから忙しくなる。アトラスダムへ戻ったら新しい仕事が待っている。オルステラの傷を癒すために、国は再び舵を切らねばならない。雇用、教育、その他諸々――現状の制度では不足がある。まずは提案書をまとめよう。こういう時に曾祖父の七光りを利用しなくてどうする。オルブライトの家がこれまで成し遂げてきた数々の功績に、私も名を連ねるためには、一秒も無駄にしていられない。ああそうだ、魔法も学び直さなければ!

 滅びゆくから美しいのではなく、生きようとするから美しい。
 散る瞬間が美しいのではなく、とどまろうとするから美しい。
 ねえテリオンさん。あの時の距離は、埋まっていますか。ちゃんとサイラス・オルブライトの隣に居ますか。
 あなたたちの生きている時代は、どうですか。
 私のこの時代は、とても、とても。



「キミと未来を生きることができないなら、いつかキミに未来を見せたい」
 確かそんなふざけたことを言っていた気がする。いつだったか、俺があいつと寝た翌朝、もうあいつとはこれきりにしてやろうと決めた日のこと。そう言っていた。多分、分かっていたんだろう。
 強い言葉だな、と思った。サイラスの言う未来には、そこかしこにあんたの影があって、きっと俺はあんたの元から去ったことを後悔してしまうんじゃないか。少しの不安が俺の中によぎって、何も返さないままでいたか。
 隣で、見覚えのある黒髪が潰れている。このマルサリムもぼちぼち崩れていたが、それに負けず劣らず机に崩れ落ちた男が一人。
 エール一杯で見事に眠りこけてしまった男は、あいつの曾孫だというが、この酒の弱さだけは全く似ていない。それを除けば、若いころのサイラスはきっとこんな感じであっただろうと容易に想像できるような、小綺麗な見た目をしていた。うなじが見えなければサイラスそのものだ。
 いや、もしかしたら、本当にサイラスなのかもしれない。

「やはり、私はキミと居たいよ。死んだ後も共に居ることができたなら――肉体には限界があるから、キミも私も時を超えないと無理だね」
「何を馬鹿なことを言っている。早く服を着ろ」
「うん、でも、不可能ということはまだ証明されていない。誰も成功したことがないだけであって、試す価値はある。そうだ確か、物質と空間の関係について研究していた人物が居たはずだよ! そこに何か情報があるかもしれない」
 とか言いながら奴は上半身裸のままで部屋をうろつき始めたので、すっかり話を切り出すきっかけを逃してしまったのだった。

 例えば一度死んだ後に、誰かがかつての自分を呼び出すことができたなら。それが自分自身であったなら。それを何度も繰り返すことができたなら。
「こいつもサイラス、あいつもサイラス……」
 なんという恐ろしい事態。文字通り、世界の至るところにあいつが存在しているってわけだ。
 もしかすると、昔話に出てくるような永遠の命とは、そうして完成するのかもしれない。
 あいつの言葉を思い出す。
「それなら、できることなら、キミと出会う前の私をキミに会わせてみたい。記憶も何も消し去って、また最初からキミに出会いたいよ」
 馬鹿真面目にのたまうものだから、俺はまたしても何も言うことができずに、結局そのままあいつの部屋を後にした。朝焼けに世界が起こされる前の、ほのかに明るいアトラスダムの街が、今でも忘れられない。
 もしこいつがあの時のサイラスの言葉どおりなら、それもまた一興。
 さて今のうちに腹を満たしておこう。空のジョッキを掲げて、俺はエールの追加を高らかに叫んだ。


(終幕)畳む