から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

世界であって世界でない君の世界
・高校生なふたり。
・遊星が電波です。
#ブル遊 #現代パラレル

 不動遊星という人はいつもラジオを聴いていた。屋上で、校舎の裏で、時には使われていない教室で。薄っぺらい箱型の旧式機械は、黒い身体をその人に預けて避雷針みたいな銀色のアンテナを突っ立てていた。ボクはその人のことをたまに見かけては、不良だって噂のその人にちょっと似合わないラジオが、そのラジオだけが彼を知っているように思えて、ちょっと羨ましかった。
 その日の放課後はテスト期間で早く始まった。昼過ぎには学校の人口はごっそり減って、ボクは提出書類を職員室に届けてから校舎を出た。近道しようと昇降口の裏手に回り込んだ時、そこに座り込んだ件の人物を偶然見つけて、反射的に「わっ」と声を上げてしまった。
「あぁごめんなさい!」
 謝ったのは彼にぶつかりそうになったからだ。しかし不動遊星は特に表情を変えるわけでもなく、金交じりの黒髪の間から目線を僅かに上げてこくりと小さく頷き、それから再び手元のラジオに目を落とした。まるでボクなんて酸素が少し揺らいだだけみたいなそんな態度で、ちょっと寂しかった。
 不動遊星は校舎の壁を背凭れに座り込みラジオを抱えていた。アンテナを左右に動かしたりして、スピーカーから流れるががっという音を観察しているようにみえる。電波の入りが悪いのだろうか。と思っていたら、ふと声が流れ始めた。この国の言葉じゃなかった。
「外国語?」
「あぁ」
 思わず声に出てしまっていたことに焦ったが返事があったことに驚愕した。というか、ボクは彼の声をこの時初めて耳にしたのだ。低い声。でも、想像していたよりずっとやさしい声。彼はボクではよく聞き取れない言葉を理解しているのかどうか定かではないが、海外の女優さんのような声に耳を傾けている。間も無くラジオは音楽を奏で始めた。ギターのアルペジオにベースラインが乗っかって、ドラムが叩かれる。昔の曲なのだろうか、聴いたことがない。ちっちっちっちっと、時計の針の音が早くなったみたいなシンバルのリズムが柔らかく、昼下がりに気持ちが良かった。
 不動遊星はいつもこんなことばかりしているのだろうか。ボク等の知らない国の、ボク等が知らない曲を聴いて。
「ねえ、君はどうしてそんな古いラジオを持って、こんなことをしているの」
 不躾な質問だと思う。けれどもボクは単純に浮かんだ疑問を解決しようと躍起になっていた。不動遊星は学者にとっての新種生物のような存在だったから。解明を望むのは発見者の欲求だろう。
「何処かで誰かが生きていることが分かるからさ」
「でも君はその人を知らないんでしょう」
「知っている必要はない。一人ではないことを感じられるなら」
「君は孤独なの」
「いいや。こうして世界に誰かが生きていることを知っているから、誰も孤独じゃない」
 不動遊星は共有していた。遠い誰かと、その音楽を共有していた。電波が運んできたそれが彼を孤独にさせない。そうして見えない場所で生きている誰かを感じていた。彼にとって身近な人間よりも現実的で、きっとボクなんかその足元にも及ばないような誰か。それは誰でもなくて誰にでも当て嵌まる、けれどボク等じゃない。不動遊星にとっての現実はこの場所ではない。
「君はそこから動かないんだね」
「俺にはこっちの世界が合っている」
 そこへ、ボクは足を踏み入れることが出来るのだろうか。君の有する世界は目に見えない。まずはボクもラジオを用意すべきだ。話はそこからだ。畳む
家出なんてするもんじゃない
・大学生なふたり。
・ヤマもオチもないです。
#ブル遊 #現代パラレル

 切符を左手の人差し指と親指で弄びながらブルーノは電車の座席に深く腰掛けた。所々削れたように表面が捲れた布地を撫でると、動物の舌のようなざらざらとした感触が掌にひろがった。向かいの席には誰も居ない。その上の窓から見える夕日に照らされた少し低めのビルや家々が通り過ぎていくのを眺めつつ、ブルーノはこれから帰る場所について考えた。同居人と住んでいる部屋についてだ。同じ大学に通っているわけではないが、互いの利害の一致によって一緒に住み始めてから一年が経った昨日、喧嘩をした。初めての喧嘩だった。今まで皆無と言っていいほど衝突もなく上手く生活してきたブルーノにとって、遊星という同居人の青年と口論まで発展したことは新聞の一面を飾るくらいの一大事だった。
 はぁ。ブルーノの重苦しい溜息が人気の少ない車内に漏れた。次の駅で降りなければ。このまま降りずに何処か遠くへ行きたい。そう考えてもみるが、そんな余裕もなければ実行する勇気もなかったので、ブルーノは駅名を告げる車掌の声に従って仕方なく立ち上がった。降り立ったいつもの駅のホームはいつものように人がまばらに居る程度で静かだ。改札を通り、夕暮れに沈む商店街を横目に見ながら彼は歩いた。十分もしないうちに到着したアパートの前には遊星がいつも乗っている赤い大型のバイクが停まっていて、同居人が帰宅していることをブルーノに知らせる。二階にある自室の窓を見上げると、閉められたカーテンの向こうに明かりが灯っているのが確認できた。何処からか漂ってくる醤油の匂いが気落ちしている彼の鼻を擽った。
 怒っているだろうか。昨晩の遊星との口論を思い出してブルーノは視線を落とす。しかしこのままじっとしている訳にもいかないのは明白である。一度白いスニーカーの爪先を見詰めてから、ブルーノは意を決して階段を駆け上がった。斜めに掛けたメッセンジャーバッグが重く感じる。ジャケットの裾をはためかせながら上がり切った先には五つの扉が並んでいて、手前から三つ目が自分達の部屋だ。触れたドアノブはきんきんに冷えていた。泥棒のように慎重に、ゆっくりとそれを回す。玄関に整列した遊星のブーツを見て、ほ、とブルーノは息をついた。自分は安堵したのだ、遊星が出て行かずに居てくれたことに対して。そう思うとブルーノは無性に遊星に対して申し訳なさが溢れてきて、急かされるように少し早足で部屋へと上がった。
「た、ただいま……」
 遊星はリビングで胡坐を掻いてパソコンを触っていた。画面は黒いTシャツに身を包んだ彼の身体に隠れていて玄関横のキッチンからはよく見えない。かち、かち、とマウスを操作する音が、家電の稼動している音に重なって部屋に響く。
「お帰り」
 ブルーノの方を向かずに遊星は返事をした。声色がやけに冷たく思えてしまって、ブルーノの足が止まる。先へ進めない。やっぱり怒ってる?
「あの、遊星」
「悪かった」
「え」
 相変わらずこちらを向かないまま、遊星は謝罪の言葉を述べた。表情は伺えないもののその背中が少し項垂れているように見えて、ブルーノは急いでリビングへと足を踏み入れた。そうして画面を見詰めている(ように思える)遊星の背中へと飛び付いて、「ごめんね、ごめんね」と、親にこっ酷く叱られた子供のように謝った。ぐ、と遊星の息が詰まる音が聞こえるまで。
「あっわぁぁごめん遊星!」
「っ、げほっ……いい、もういいから」
「お、怒ってない?」
「あぁ」
 ようやく見えた遊星の顔には僅かだが笑みが浮かんでいて、あぁ本当だとブルーノはやっと心底安心した。喉につっかえていたものが下りたようにすっきりとした気持ちでもう一度「ごめんね」と言うと、今度は逆に「もう聞き飽きた」と言われてしまう。いつもの遊星だ。
「腹が減った。飯にしよう」
「うん!」畳む
ある幽霊について
・ブルーノが幽霊です。
#ブル遊 #現代パラレル

「ちょっと重いんだが」
「あ、ごめん」
 色の剥がれ落ちたトタン屋根のガレージの中は、錆と油と工具の音に満ちている。人一人がバイクの修理用に使用するには十分な広さのその真ん中には、真っ赤に彩られた中型のバイクが鎮座していた。
 赤いボディを丹念に磨き上げる青年、遊星の首には、後ろから両腕が回されている。彼の背後には深緑色の髪を持つ青年がほんわかと微笑みを湛えていた。遊星の右肩に顎を置き、すりすりと犬が甘えるように顔を擦り寄せる。
「……ブルーノ、集中できない」
「はいはい分かったよ。でも遊星って結構残酷なんだね」
「何がだ?」
「重いとか集中できないとか言っちゃって、本当は何も感触はないだろ?」
 その言葉に、遊星の両目が微かに見開かれる。それから伏せて、「気を悪くさせたなら済まない」と、ぽつりと呟いた。

 ブルーノの存在を最初に認識したのは、遊星がこのガレージを見つけて作業所としてから一カ月が経った頃であった。
 学生である遊星は、夜間か休日しか趣味のバイクの整備をすることができない。その日もいつものように深夜近くになってもガレージで作業を行っていた。けれどもそこで一つ困った出来事が起こった。購入してきた部品を一つ失くしてしまったのである。一時間ほどガレージ内を探しても出てこない。もう諦めようと思った時、おずおずと、積み上げられたタイヤの影から青年が出てきたのである。こんな時間にこんな場所で知らない人間と出会うなんて、不審者と捉えるには十分な条件が揃っていた。窃盗犯か、はたまた放火犯か。
「だ、誰だ!!」
「ごごごごごめんなさい! えっと、その、あの、ここ、」
 怪しさ満点の男に臨戦態勢に入っていた遊星であったが、その青年の慌てふためく様子と床のある箇所を指差していることに気付き、その先に視線を動かした。
「……部品?」
 青年の指差した先には、まさに探しものが隠れていたのである。驚愕に部品と青年を何度も見た遊星は、ふと、青年の足元から後ろの壁にかけて違和感を感じた。何かがおかしいはずなのに、その正体が分からない。答えが喉まで出掛かっているのに、あと一つ決定的なスパイスが足りない。さっぱりしない頭に、電球が映し出すタイヤの影と青年が一緒に入り込んだ。その瞬間、遊星は違和感の根源を突き止めたのであった。
 青年には、影がなかった。
 ブルーノという青年は、自分の事を地縛霊だと自己紹介をしてきた。自分はレーサーで、数年前にバイク事故で死んだらしい、と、まるで新聞の隅っこの記事を読み上げるように彼は話した。遊星がバイクをいじっているのを見て、生前の記憶と元来のバイク好きの気持ちが湧き上がってきたのだとも言った。そういえば何時だったかレーサー事故のニュースをバイク雑誌で見た気がする。記憶の奥底から情報を引っ張り上げてきた遊星は、こっそりとその事故について調べることにした。結果、当時の事故現場がガレージの近くであったことが分かり、あの青年霊が記事に掲載されていた写真の人物と相違ないことも判明した。
 それから今年で一年。ブルーノは今や遊星のアドバイザーのような存在になっている。

 ブルーノは度々遊星を驚かしては遊んでいた。ガレージに来る遊星の後ろから突然声を掛けたりというのは日常茶飯事であったが、そうしているうちに慣れてきた遊星に対し、今度は物質に触れないという幽霊特有の能力を使って遊星の身体に触れるふりをするようになった。最近ではじゃれ合うように構ってきて、その様子は犬小屋に留守番させられている犬のようであった。離れていた主人が帰ってくれば犬は甘えるという構図である。もちろん、当人らにはそんな意図は全く有りはしないのだが。
「ボクは今の生活に不自由はしてないよ。君という良い友達もできたしね。ただ、やっぱり未練が強いみたいで、まだまだ成仏できる感じじゃないけど」
 そう言ってブルーノは遊星の隣に胡坐を掻いた。バイクの調整は終わる手前である。最後に工具一式を片付けて、遊星は大きな道具箱をばたんと閉めた。
「俺も、ブルーノが居ると楽しい」
「あはは、幽霊が友達なんてなかなかできない体験だよね。でも、ボクも楽しいよ」
「そうか」
 照れくさそうに笑いながら、ブルーノは白いジップアップジャケットに顎を埋めた。こちらまで照れてしまいそうで、遊星は面映しさを紛らわそうと道具箱を片付けるため立ち上がった。何ともない会話であるのにむず痒くなってしまうのは、ブルーノが持ち合わせているあどけない雰囲気のせいであろうか。
 ガレージの時計は夜中の一時を指している。もう家へ帰らなければならない。遊星はガレージの入り口横のスイッチを押した。かちりという音と共に明りが落とされる。タイヤも、バイクも、遊星の足元からも、室内にある全ての物からは影が消え去った。
 外はひっそりと初秋の空気を抱き抱えていた。僅かながら冷えた風は寂寞とした感覚をもたらしてくる。見上げると空はすっかり高くなっていた。カーディガンに袖を通す遊星の後ろでは、ガレージの入り口でブルーノが「綺麗だなぁ」と声を弾ませている。
「星は見ていて飽きないね」
「星が好きなのか?」
「好きとかって言うよりは、君が居ない時によく見てるから」
 ブルーノはガレージから離れず、活動している間はガレージで過ごしていた。そのため遊星はガレージの入り口で彼と別れる。消灯した室内を確認して扉を閉め、鍵をかければ遊星の一日が終わる。
「バイクに悪戯するなよ」
「酷いなぁ、したくてもできないって。じゃあお休み。寝坊しないようにね」
「あぁ、お休み」
「気を付けて帰ってよ」
 遊星は右手を、ブルーノは左手を掲げてお互い軽く手を振った。遊星の姿が闇夜に溶けるまで、ブルーノは彼を見送っていた。
 扉をすり抜け、今日も役目を無事終えた部屋へと戻る。四角く囲まれた部屋には一つだけ窓があった。ガラスの奥には秋の星座が佇んでいる。常闇に散りばめられた輝かしい欠片も、朝には光に飲み込まれて見えなくなってしまう。それを見る度にブルーノは思った。いつか自分も、こんな風にすぅっと溶けてしまって、遊星の中から失われてしまうのだろうか。
 本来自分はイレギュラーな存在だ。しかし遊星は居なくなれなど一度も言ったことがなかった。ブルーノの存在を完全に受け入れているのである。
「寂しいって、思っちゃ駄目なんだろうか」
 触れたくても触れられないことを。同じ月日を重ねられないことを。楽しいと思う以外に、もうひとつ言えない感情があることを。
 存在しないボクを存在させてくれるなんて、反則だよ。そう呟いて、ブルーノは瞳を閉じた。
 虚空の星が一つ、消えた気がした。畳む
夢うたい
・テリオンとプリムロゼ。
・指揮者になりたかったテリオン。
#現代パラレル

 交響曲の指揮者になりたかった。
 楽章が進むごとに、少しずつ悲壮感から解き放たれて壮大になっていく、ベートーヴェンの第九のように、最後に歓喜を叫びたかったのかもしれない。しかし自分にはそれが出来ないことが分かっていた。だから今、商店街でギターを弾いている。
 アルペジオくらいしかうまく弾けなかったが、静かな夜中の通りにはお似合いかもしれない。ギターは捨てられていたものを持ってきて、立ち読みした入門書で調律したが、意外と良い音がする、気がする。
 頭の中に五線譜があったら、浮かんだ音を直接てん、てん、てん、と黒い楕円に変換していって……と考えるが、五線譜が紙の上であの気難しい柄をしているので、俺には書けそうにないなと思い直す。
 学もなければ金もなかった。
 ダリウスのクソ野郎に何度も何度もせがまれて、金を貸したことが仇となった。予想はしていたがやはり返してくれなくなったので、ついにあと一週間でアパートを退去することになった。水道が通っていればまだ生きていけるのだが、それも当てにできなくなった。あのくそったれが最後に投げつけてきた「歌っとけ、お前にはそれくらいしか能がねぇ」との言葉に従うのはシャクだったが、金が欲しかったので、歌うことにした。今日で三日目。
 金木犀の匂いと唐揚げの匂いがする。腹が減った。
 ここで歌うと、飲み屋帰りの親父がたまに小銭を入れてくる。それが何人か集団で通りがかると結構な額が入るということを覚えた。今日の狙いもそれだ。
「素敵ね、その歌」
 だったのに、声の主は女だった。見上げると、まさしく「私が夜の女王です」といわんばかりの女が立っていた。スリットの入った赤いワンピース。じゃらじゃらした金のアクセサリー。揺れるたびに星みたいにちかちか光る。全てが高そうな代物。それに赤い唇が映えて、美人だな、と思った。単純に、なんとなく。
「私も入れていいかしら?」
 女はバッグから財布を取り出す。長財布は、なんかすごく分厚い。何が入ってんだ? 訝しんでいると、中から出てきたのは――札束。
「おい」
「謙遜しなくていいのよ」
「そうじゃない」
「貴方、困ってるんでしょ? お金なさそうだものね」
 でもこれは同情じゃないわ。女の唇が緩やかに付け加えた。
「一発逆転のジョーカーよ」
 ネイルで彩られた指先から、札束と、一枚のチラシが落ちる。ばさ、ひらり。正反対の音は、どこか現実離れしていた。
「それに応募なさいな。きっと、貴方の思うようになるでしょうから」畳む
お題『サイテリさんはコートに雪の結晶がついていた冬のある日、ありふれたコーヒースタンドでおみくじの結果についての話をしてください。』
・「エーテルの青年」番外編3。
#サイテリ #現代パラレル

 私は運気を持ち帰った。
 元日にこれほど冷え込んだのは何年ぶりか。トレンチコートの肩を払えば、サイラスの周りに粉雪が舞い散った。偶然立ち寄ったコーヒースタンドは人が居なかった。正月特有だろうか? 店先の小さな机でサイラスは考える。思考の合間にも暗い天井から白いものが降りてきて、店の照明がそのひとつひとつを映し出すたび、ほろほろと踊る。絶え間ない雪の舞踏会を、しばらく眺めていた。
 サイラスの視界の端で、信号が赤になった。その色にはっとして視線を落とす。薄い、細長い紙切れ。タンブラーの下敷きになっている「大吉」の文字に、昼間の光景を思い出した。彼が有する数少ない非日常、正月の光景だ。
 人人人。サイラスにとって、初詣は特段行きたかったわけではなかった、かと言って同僚の誘いを断るほどの理由を持ち合わせてもいなかった、立ち位置の分からない行事であった。御神籤の行列に並んだのも同様で、彼にとっては「どちらでもよかった」のである。が、手にした短冊状の紙切れを丁寧に折り畳んで財布にしまい込んだのは、やはり雰囲気に酔ってしまった結果かな、と彼はひとりごちた。正月を締めくくるコーヒーのお供は、スコーンでもチョコレートでもなく、味気ない御神籤だった。
 酔っただけかもしれない。でも、願掛けかもしれない。
 ひゅうっ。雪とともに風が走り去る。コーヒーよりも先に身体が冷え切ってしまいそうだな。彼はつい目を閉じた。
「……大凶なのは当たってたってわけか」
 その一瞬が過ぎた時、聞き覚えのある声がした。だがサイラスはこの声を久しく耳にしていなかった、あの春先の日からずっと。何故ならこの声を発する者を、ついぞ見つけ出すことが出来ずにいたからだ。いや途中までは、「彼」の輪郭を捉える程度までは、出来ていたかもしれぬ。だがこの目に再び収めることはもっと先の未来のことだと考えていた。サイラスにとってはそれくらい想定外で、世界が一気に真っ白くなる感覚が彼を襲った――目の前の男に、五感がすべて引っ張られるような。
「スリには気を付けろ、と言ったはずだがな」
 大きめのモッズコートは、夜のせいでカーキから墨色に変色していた。だが、脱色したような髪はあの時から変わらずに白い。こんな冬の日だから、あたたかい動物の毛皮と勘違いしそうな。
 その手には紙切れ。ひらひらと弄んで、「フン」とつまらなさそうに一瞥する。
「おたくは大吉か」
「……案外、当たっていると、思うよ」
 サイラスの喉から上擦った声が出たので、男――サイラスがひそやかに「彼」と呼ぶ青年は、怪訝な顔をするしかなかったとみえる。睨みつけるようではなくとも、眉をひそめてこちらを見た。
「……そうかもな」
 おたくに会ってしまうくらいだしな、と付け加えて、青年の手が御神籤を机に置いた。元のように、サイラスのタンブラーをペーパーウェイトがわりにして。
 少し伏せた顔が再び上がる時、前髪で隠れていないほうの目に、コーヒースタンドの光が反射した。きらりとした輝きに、サイラスの心中はまるで明け方の太陽を目の前にした心地になる。きっと「彼」が存在している空間は、自分にとっていつもまばゆい。音が身を潜める時刻でも、大雨のなか突っ立っていたとしても。サイラスがそう結論づけるほどに、「彼」がサイラスを占領する割合は大きく、その他大多数と比較できぬほどの価値があった。
 その価値が今夜、紙切れひとつでもたらされたのであれば、来年からは必ず初詣に行き御神籤をひこうとサイラスが誓うのは自明の理であった。
 私は運気を持ち帰った。それは今日この瞬間のためにあった。
 サイラスの視界の端では、信号が何度目かの反転を試みていた。赤から青へ、青が点滅し始めたら次は――。畳む
1 2 3 4 5 6 7