から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

Ai遊←←←了
・どうしようもない三人。
#Ai遊 #現代パラレル

 分かってるんだろう、そいつがいるからお前は駄目になるんだ。了見の口から出た言葉には怒りよりも呆れが多く含まれていた。割合としては怒りが二割、呆れが八割という程度であった。アパートの入口、困ったような顔をする遊作に責める気はないんだとひっそり弁解する。お前は駄目じゃない、駄目にされているんだ、お前は悪くないんだ。今日だって制服に着替えていたんじゃないか、登校するつもりだったんだろう? お前は生来困っている他者を放っておけないお人好しな人間なんだ。だがもういいだろう、戻ってくれ私の知っているお前に。
「なぁ、それってオレのこと?」
「Ai」
 突如、ぬっと、遊作の背後から腕が生えた。二本の腕は遊作に絡まり、蔦が壁を巻き込んだように離れない。わざとそのような所作で現れる男は了見の機嫌を損ねることが得意中の得意である。これまで受けた挑発、嘲笑、侮蔑は了見の性格を悪化させたに違いなかった。従前は柔和であったはず。しかしここ最近は、対Aiに特化したものといえども、貶し言葉が格段に増えている。
「学校は明日行けば良いんじゃないの? 鴻上先生はこう言ってるけどよ」
「黙れ、貴様は関係ない」
 舌打ちをした了見へ寄越す視線の、見下したその性質にAiを「愚鈍な莫迦野郎」と内心罵る。ぎらついた目はナイフより鋭く、その冷徹さは殺意すら帯びていた。敵。この男は敵だ。鴻上了見にとっての敵は人類の敵となる。
「なぁ、遊作」
 Tシャツから伸びた腕は血色に欠けていた。なま白く、生命の鼓動というものを感じないのが、初めて見た時から了見の嫌悪感の一因になっていた。それが遊作を後ろから抱く恰好でいる。肩から首に絡んで、ぐっと力を籠めればぼきりと折れてしまうかもしれない、妙な不安を感じさせるのだった。何だってこんな男を拾ってしまったのだろうか――幼馴染の少年の思考が理解できない。
 得体の知れない男を『拾った』などと素っ頓狂なことを言い出した時、了見は自分の耳が壊れたものだと思った。だが半年前、遊作は確かにそう言い確かに男をアパートへ上げ同居生活を開始した。この際、事前相談など一切なかったことが了見へこの上ない衝撃を与えた。これまで夕飯の買い出しから高校のテスト勉強まですべて見ていたのは自分で、それが自分の役割であったし特権であったのに、遊作が奇妙な――道化のような不気味さを持ち合わせている――この男と出会った時からそれらはすべてお役御免となったので、今の了見は単なる幼馴染に成り下がってしまった(少なくとも本人にとっては)のであった。ある日突然、白紙の予定表を渡された気分だ。今日も明日も明後日も遊作との予定はすべて帳消しで未定。苛立ちは半年間ずっと蓄積され、Aiに会うたびに武器と化して放たれる。
「なぁ、遊作」
 少年の肩が跳ねる。また名前を呼ばれたからではなかった。
「うっ……」
 遊作の首筋を舐めた。男が、べろり、と。いま、舐めたのだ、私が、昔から、渇望していたあれを!
「おべんきょーならオレが教えてやってんじゃん?」
「そう、だな……」
「メシだってオレが作ってるし」
「ああ、……っ」
 二言三言の会話の間も、舐めたり頬ずりしたり、あまつさえ耳朶に口づけたりする。ちゅ、と音を立てて、聞こえるように。斜陽の中で行われる愛撫は了見の知る遊作を知らない遊作にする。十六歳の体躯をびくびくさせながら、狼狽える目をもって何かに耐える姿、そんなものは遊作ではないのに――この光景を了見は何度も目にしていた。青年がこのアパートに足を運ぶたび、Aiによって繰り広げられるこの『劇場』を見せつけられていたからだ。にやついた目で、しかしその内部には金色の色欲を宿らせて、遊作を篭絡せんとする男の存在は不要物そのものであった。
 排除が必要だ。
 腹立たしい。もっとも、それを受容している遊作に対しても。しかし少年を糾弾することはできなかった、この少年の中にあるひとりぼっちの星が嘆き哀しみながら日々を回転していることを了見はよくよく知っていたから。いわば孤独な生命体が孤独な星に降り立ったのを監視者らは観測したのだった。その正体が宇宙デブリ以下であると知っていたなら、あるいは事前に検知できていたなら、了見はいま制服の襟を男の涎で濡らす遊作を見るなんてことはなかった。その気になれば撃ち落とすなり締め上げるなり好きにできたのに、遊作自身が望んでしまっている現状があって、当の本人が「良いんだ」とのたまうのであれば手が出しにくい。
 Aiを取り上げれば遊作はきっと泣くだろう。幼い子どものようにわんわん泣くのだろう。
「なぁなぁ、オレ悪いことした?」
「いや、Aiは……すまない了見、また連絡する」
 遊作はこういう時、被害者の顔をする。それは無意識に、たとえば籠城した犯人に少しずつ絆されていくものだったかもしれなかった。どうしようもない顔をしてどうしようもないことを言う少年に自分は何と返せば良かったのだろう? 了見にはずっと分からない。自分は少年の星には辿り着けなかったのだ。
「じゃあなーもう来んなよ」
 軽い調子で扉を閉めるAiは笑っていた、この上なく愉快そうに。境界線を隔てて夕陽は途切れた。その中に突っ立ったまま、了見は暫し前を睨み付けていた。
 安いアパートの分厚くない扉だ、青年ほどの体格であれば蹴飛ばしてしまえば中に入ることはきっと容易い。だが、おそらく何かが崩壊する予感がしていた。遊作の中で絶妙な均衡を保っている何かが、自分の手によってばらばらになるような。恐れているのだ。ゆえに実行できない自分が心底憎かった。しかしそれ以上に、頬を引き攣らせた遊作の顔に欲情した自分を心底殺したくなった。
 あの金色の目は同類を憐れむものである。
 う、と聞こえた呻き声は了見自身のものだ。膨れ上がった熱のせいで了見の舌はざらざらに乾いていた――これを遊作の喉元に這わせたら一体どんな声が聞こえるのだろう――帰ったら抜く。畳む
火花
・遊作と同居人のAiと、遊作の友人である尊の夏。
・転生のようにも見える。
#Ai遊 #現代パラレル

 俺に対して滅多に怒らないAiが珍しく怒った時のことが、この時期になると思い出される。閉め切られた部屋いっぱいに水蒸気を充満させたような、その中で窒息するような、夏の日の夜叉。
 「花火やろうよ」と尊が連絡をくれたことが、嬉しくなかったわけではない。無邪気な子どものようにきゃあきゃあ喜ぶような感情ではなかったが、昇りたての朝日へ一歩踏み入れた心地に近い、自分の内側に小さな明るさが灯されたことを感じた。友人がいなかった俺にとって尊は希少価値の高い人物だ、本人にこう言ったら「化石みたいに扱わないでよ」と返されそうだが事実だ。なにせ他人が俺のなかの友人枠に振り分けられていることが稀なのだから。なお、Aiは特例だ。肉親でもない兄貴分の同居人なんて、ソースコードの例外処理や割り込み処理のようなものだろう。
 Aiには尊と出かけてくるということ、夜が少し遅くなるが深夜にはならない二点を告げてアパートを出る。尊とは街に流れる川沿いの河川敷で待ち合わせた。スマホの画面に並ぶ、イチ、ハチ、ゼロ、ゼロ。ジャージのポケットに仕舞い直す。この時、Tシャツで来たが虫よけを忘れたことに気付く。
 五分後。いやに赤い夕焼けの、太陽が地球に未練がましくしがみついている空の下から尊はやってきた。自分と似たような恰好で少し安心する、こういう出来事が初めてなので勝手が分からなかったから。彼の右手にはスーパーのビニール袋がひとつあって、しかも結構大きかったので、開口一番に「いくらだ? 半分出す」と言ったら彼に苦笑された。そこまで金銭面に細かく生きてきたわけではなく、互いに学生なのだから、こういった場合は割り勘が常だろうと判断しただけだ。
「大丈夫、貯まってたポイント使ったから実質ゼロ円」
「すごいな」
「何年分だろ、これですっきり使い切れたよ」
 飲み物とかも買ってきたんだ、と袋の中を見せてくれた。夕日で一層赤みを増した紅茶とジンジャーエールのボトルが入っていた。「あとお菓子」「不摂生だな」「今日は良いんだよ」もう片方の手にはバケツがあって、反対に何も持参せずやってきた自分を申し訳なく思う。そう述べると「気にすることないから」と彼は笑って眼鏡を直した。金具が小さく、かちゃりと鳴った。
 尊からバケツを受け取って、二人で砂利を踏み荒らし進む。河川敷はだんだんと足元から涼しくなってきていた。待ち合わせた駐車場から川の流れの傍まで移動する時、スニーカーの靴底が大きな石を踏んで僅かに痛みを感じたものの、慣れない足場に戸惑うのはその程度で済んだのは幸いだ。俺は行動派ではないので、ここに来るまで不安でなかったと言えば嘘になる。
 到着した場所は既に他方にも先客がおり、俺達はそれらの集団から適当な距離を取ることのできる場所を陣地と決めた。秘密基地というのはこういうものを指すのかもしれなかった。地球はようやく太陽を引っぺがすことに成功したらしく、西の空は徐々に深い紫色に染まりつつある夏休み。前を行く尊の背中に書かれたU2という文字が、どういう意味か分からない。俺はいつも何も書かれていない服ばかり選んでいたので。
 消火用に川の水を汲んでいる間、一緒に購入したというマッチと太いロウソクで、尊は器用にもロウの土台を石の上へと築いていた。その上にロウソクの根元を固定したところで少し風が吹き抜ける。風よけにロウソクの周囲を大きめの石で囲ってみたものの、高さが足りなくて風よけの意味をなさず、二人で笑う。火が消えそうになるたびに石を足したが、石を積んでも途中から崩れるのでやめた。炎を揺らす風は湿っていて、明日はもしかしたら雨が降るかもしれないと勝手に思う。
「火の用心、火の用心」
 呪いの言葉みたいに何度も繰り返すので「十分理解している」と答えたのだが、それでも尊は何度も繰り返した。ボヤでも何でも、油断からすべては始まるのは分かっている。が、それにしても呟きすぎであるのから、炎が親の仇のように思えてきた。そんなわけがあるか。
 スーパーで買ったという花火は手持ちのものから爆竹型など色々な種類が一袋にパッキングされていた。たった二人で使い切れるのか疑問に思ったのも束の間、尊の手が次から次へと着火しては手渡してくるので所謂わんこそば状態の花火リレーが始まった。風に乗ってやってくる肉の焼ける匂いに対抗しているのだろうか。人の目が少し気になったが(悪目立ちして注目を浴びるのは嫌だ)たった二人、しかも大声で騒ぐわけでもなくただ粛々と花火をしていたので、すぐにそんな心配は無用だったことを知る。その時、自分が思いのほか他人を気にしていることを実感し、できれば明日から空気になりたいと馬鹿なことを考えた。こういう思考をAiはいつも馬鹿にしていたからきっと馬鹿なことなのだろう。ただ今日に限って言えばその思考すら許されなかった、尊が「はいっ」と掛け声付きで手持ち花火を寄越すから空気は熱く発火するしかなくなる。こういうのが楽しいという感情なのだろうと思う、おそらくは――俺はしばしば感情の辞書を欲した。尊はといえば、火付け役の合間に自分の分の花火もちゃんと燃やしていたらしく、円を描いたり煙にむせたり忙しい。俺が火をつける側に回ろうとしても「いいから」と制されてしまうので、今度から花火奉行と呼ぶことにする。
 手持ち花火が尽きれば次は打ち上げや爆竹が待っていた。俺達は飲み物や菓子をつまみながらひたすら花火を消費した。これが夏休みの課題なら楽勝だよね、と笑う友人の周りはいま、二匹のねずみ花火が踊り狂っている。完全に太陽が去って、半月が半端な位置に貼り付けられた空は星があまり見えない。前に尊から聞いた、彼の実家があるというところならばきっと、とても多くの星が浮かんでいるのだろう。

 ちょうど二十一時になった時、尊のスマホが鳴ったことを契機に小さな花火大会は幕を閉じた。
「うわやば、ごめんねもう帰らないと」
「俺もそろそろ帰ろうかと思っていたところだ」
 本当のことだ。空になった飲み物のボトルや菓子の袋を片付けていたら俺のスマホも震えたのだ。きっと同居人からの催促だろうことは想像に難くない。バケツの中、焼けて半身が炭になった花火。少しも残らなかったロウソクの跡。過ぎ去った祭りの静けさが集約された陣地に別れを告げ、少し離れたところで別のグループが騒いでいるのを後目に集合した時と同じ場所へ戻る。
「また連絡するよ、じゃあね!」
「尊」
「ん? どうかした?」
「今日は楽しかった。ありがとう」
 友人との会話においてこれが正しい文章であったのか判断がつかなかった、しかしながら尊が一瞬停止したのちに「うん!」と笑みを浮かべてくれたことで助かった。嬉しい、楽しい、良かった、またな。別れたあと、そんな気持ちを引き連れながら帰路につく。閉店作業中の商店街も静まり返ったオフィスビルも、蒸し暑い夜を越えるために準備をしている。太陽が沈んでいる今だけが安息の時であると言いたげな影が、街灯を背負ってアパートまでの道に長く伸びていた。足早になっていることには自覚があった、今日はAiを甘やかしてもいいかと思うくらいには。
「ただいま」
「おかえりー! なあ連絡したんだけど返事、」
 鍵を差し込み自宅の扉を開けた瞬間、出迎えたAiの表情が笑顔から急転直下、文字通り転げ落ちるかのように変貌していくのには流石に驚愕を隠せなかった。帰宅を喜んでいたはずの目元は僅かではあるが、見るからに硬直し、口元は中途半端に開いたままで呆けている。どうしたってその様子はおかしかった、あたかも生気がするりと抜けてしまったみたいな。
「Ai」
 何があったか問う前に腕を引っ張られる。ぐっと、痛みが走る。靴裏を刺す石を思い出す。掴まれた手首の血が止まるイメージが浮かぶ。「おい!」連れていかれたのは風呂場だった。玄関からすぐの、シャワーと狭い浴槽しかないそこへ押し込まれて扉を閉められ、まるで俺を見たくない隠したいと言わんばかりの行動に理解が追い付かない。
「Ai!」
 扉を殴る。しかし自分の手が余計に痛くなっただけだった。拳を二度打ち当てたその時、遊作はやく風呂入って、と張りのない声がした。ふにゃふにゃのくせに低く、どこか悲しくなる声を、Aiから聞いたことはない。
「一体どうした」
「何でもない、何でもいいから風呂はいって」
 向こう側で扉を背に立っているのだろう、開けようとしたところでびくともしないため、結局諦めて風呂を決め込んだ。こんなAiは見たことがなく、自分の中の『Ai対応マニュアル』には頁すら存在しない。何がどうしたのか理解できないまま浴びる湯はそうそう心地良いものとは言い難く、耐え切れず溜息をつきながら全身を泡まみれにしていく。身体を擦るたび、帰り道に引き連れていた感情がぽろぽろ落ちていくようで、折角の今日というものがすっかりあやふやになってしまったことが悔やまれた。俺には友達付き合いというものはどこまでも向いていないのかもしれない、とさえ思う。面倒なことに、喜怒哀楽のうち怒と哀を感じるアンテナは異常に発達していて、混線したうえにいつも喜と楽をかき消すのだ。
 思考をやめる。シャワーを止め、適当に頭を拭き上げる頃にはアンテナの受信感度は上々で、本日の秘密基地情報はすっかり過去のものと化していた。
 風呂場から出たところで(今度は簡単に扉が開いた)ダイニングにAiが座り込んでいるのを見つける。シャツとスウェットを身に着けている間も微動だにしなかった。うちには椅子なんてものはなく長方形の机が床に置いてあるだけだったが、そこに突っ伏し、比較的大きい肉体をうまいこと折り畳んでいる。長い髪の隙間からいつもの流線形のピアスが覗いているくらいで、表情は伺えない。他、よくよく見れば家を出た時の服と違って既にルームウェアに着替えていることが確認できて、さっき風呂場が既に熱かったのはこいつのせいかとどうでもよいことに合点がいった。
「上がったぞ」
 声をかけたところで動かない。まるで電池が切れた人形そのものである。そういえばAiは時々「バッテリー切れ」とか何とか冗談を言うのだった――横を通り過ぎて窓際のベッドへ行こうとした瞬間、急にスイッチを入れられたかのようにAiが動いた。俊敏すぎる動きに対応が遅れる。座ったまま、横からぎゅうっと抱きついてきたAiから聞こえたのは「おかえり」という呟きだった。
「あ? ああ、ただいま」
 拍子抜けする声をしていた。先ほど出迎えた時の、風呂へ突っ込んだ時の波が消え失せた声はどこにいったのか、いつものAiだ。
 腰から太腿にかけてしがみつかれているせいで、これ以上歩みを進めることができない。とんだ肩透かしを食った気分にしゃがみ込むほかなく、ずるずると座って胡坐をかいた。股の間で塞ぎ込む男の頭を軽く撫でてやると、ぐす、と鼻をすする音がした。音で分かる、これはわざと出しているものだ。
「……結局何だったんだ」
「火薬の匂い」
「は?」
「嫌だ、この匂い。何してきたんだよ」
「え、……花火をした」
「ああ、そう、そうか」
 それだけ言って再び動かなくなったAiは常よりもずっと重く圧し掛かった。そのまま地面を突き抜け、星の中心へ向かって俺を道連れにするつもりなのかと思うほどの重量に立ち上がることを忘れた。代わりにただ、Aiを撫でた。少しずつ軽くなっていくように願って、ひとすじ、ひとすじ髪を梳いた。時々顔を腹へと押し付けてくるのが面白く、僅かな喜をアンテナが受信する。
 そのうち俺の背後に眠気がやってきた。足音をたてず襲い掛かる化け物みたいに、ぬうっと身体を床へ押しやる。分からない、けれども重要な何かを知ることができないまま、眠さに耐えられない二人は目を閉じた。
 現実から飛び立った先の空間で、花火が俺の身体を貫いた――夢の中、胸の奥で火薬が弾けて、煙から溢れた香りが体内を満たした。撃ち込まれたようだった。確かにこれは嫌だと思う。Aiも嫌うはずだ、と。
 苦々しく、甘く、肺を破壊する匂いで火花が散った。



 夜が明け切らないうちに目が覚めた時、全身が痛かった。床からベッドの中へと場所が変わっていた。抱え込んでいたはずが反対に抱え込まれていて、だから右腕が痛かったのかと理解する。互いに向き合いながら布団をかぶる時、どうしても身体が重なり合う体勢になるからだ。無理な姿勢とは言わないものの、この狭いベッドで引っ付いていればどこかしら固まったままになる。身体の下で縮こまった右腕を動かすと痺れを感じた。そのさらに下に別の腕の存在を認め、その腕も痺れているのではないかと勝手ながら思う。
 Aiの瞼は瞳を隠していた。その上を長い前髪が流れて、つい、退けてしまう。正面から見る顔は昨夜出迎えた時の不自然なものではなくなり、見覚えのあるものに戻っている。それだけのことに何故、こんなにも安心するのだろう。
 眺めていると、何も悪いことをしていないのに無性に謝りたくなった。夢のせいかもしれなかった。自分の中で爆発するあの匂いがAiに届く前に一言、悪かった、と告げる必要があった気がしてならない。
 けれども今は夜明け前だから、声は出さないでおく。その分も詫びたい気持ちを上乗せして、誰にも気付かれないようにキスをした。合わさるだけのものではあったけれども、普段ならばそうそうしないことなのでやけに気恥ずかしくなってすぐ離した――はずが離れていなくて、先ほど認めた腕が背に回っていることに気付く。こいつ起きてたな、いつからだ、くそ!
「う、ん……あ、Ai、んっ……」
 繰り返されるたびに深まる。ちゃり、ちゃり、Aiのピアスが踊る。俺とこいつの接点が面になって、強張っていた場所がふやけて、柔らんでいくのが耐えられない。ついでに言えば、しばしば吸い付く音をわざとらしく立てるので、今すぐここから抜け出して暴れたくなった。が、Aiが抱きついてくるので、どこにも行けない手がしがみつくようになるのがまた恥ずかしい。
 そうでもしなければ駄目になっていくのだ、俺が。
「ん、ゆうさく、……ほら」
 唇の隙間で呟かれると、声を咀嚼している気分になる。口開けて、と言外に滲ませる男が怖い。濡れた舌で、俺の舌を探られるのが怖い。あの花火の匂いが伝わってしまうのではないか、俺の内側に飲み込んでおいたものが引きずり出されるのではないか。緊張感に似た感情が、折り重なるキスの合間を縫って滲み出ていく。
 先に至るのはやめてほしい、あの夢がまだ真新しいうちは。
 口角に口付けられたり、唇を食まれたりされて、このまま受容してしまいたい欲が出てくる。だが心臓の近くで、肋骨の隙間から火花がちかちかと不規則に点滅しているのが見え隠れしていた。昨夜燃やした線香花火みたいだった。ぐっ、と抱かれても、早く早くと急かされても、いつもなら折れてしまうところだが今日は駄目だ。この光を知られないようにする義務があるのだと、神から、あるいは夢の中の俺から命じられている確信があったのだ。
 祈りが通じたのか、なかなか舌を許さない俺に痺れを切らしたのか、深まるばかりだった唇がそろそろと離れた。去り際に、れろ、と舐めていったけれど。
「んー残念……でもま、ありがとな遊作。かわいーことしてくれて」
「もう二度としない」
 そう言うとまたキスされた。「遊作がしなくてもオレからするって」にやつく男を拒否することは、できそうにない。
 口付けられている間、霧がかったような意識の隅で思ったことがあった。昨夜の重さの根源は確かに、この男が隠していた怒りだったのだろう。俺に見せたことのない、ともすれば見せたくなかった感情の切れ端は波長となって、アンテナに引っ掛かった。怒りの根っこがどこにあったのか、本当のところは知ることができなかった。
 そうして時間が経過して甘く苦い匂いが完全に消えても、季節が変わっても波長だけが残っている。再びやってきた夏の、血を薄く延ばしたような赤い空を見上げながら考える。今年もし、尊から花火に誘われたらどう理由をつけて断ろう? どう断っても怪しまれそうであったけれど、尊のことだから深追いはしてこないのだろう。おそらくもうすることのできない花火大会をひとり追悼した。
 俺がこんなに色々思案しているというのに、当の本人は「プレゼント」と言って火薬を使用した香水を渡してくるのだから困りものだ。七夕のことだった。あんなに嫌がっていた記憶はどこへ捨ててきたのか、苦手を克服したいのかはたまた諦めが悪いのか、判断できない奴である。俺に渡したくせに自分もつけるというので、それでは贈り物の意味がないのでは、と言及したら拗ねられたのでもう言わない。
 それでも、互いに同じ匂いになった日から、火花散る煙たい夢を見ることはなくなった。



(了)畳む
カレーは甘いか中辛か
・Aiの夢の話。
#Ai遊 #現代パラレル

 牛肉鶏肉豚肉合挽き肉ベーコンシーフードその他もろもろのタンパク源を提示したもののAiはすべてに首を振る。くたびれたTシャツに描かれた『Go to Hell.』の文字を見るたびに、遊作は「新しい服を買ったほうがいい」と言っているのだが、今日もAiは同じシャツを着ていた。青年が気に入っているらしい黒のジーンズはとても似つかわしいので文句が言いづらい。
「無理、マジで決まらねえ。なんかどれも同じっていうか違い? 美味さ? そういうの分かんない」
「なら何も入ってないカレーでいいな。尊に殴られるのはお前だ」
「ごめんオレが悪かったそれは虚無過ぎるし殴られたくもない」
 閉店間際の『蛍の光』に遊作は焦っていた。「さっさとしろ! 尊に怒られる」「ごめんってばえーとじゃあ牛肉、この高いやつ!」間もなく金曜夜二十一時、何故これからカレーを作る予定が入っているのか遊作は先週の自分を思い出し、その面を思い切りはたいた。何を、尊が食べたいと言ったからだろう! どうにも尊とAiには甘いのが遊作の弱点だった。
 冷蔵ケースの中で最もグラム単価が高い肉をマラソン選手の給水ポイントよろしく引っ掴み、足早に会計へと向かう。無人レジどころか店内のどこにも客はいない、もうすぐ自動防犯機能で出入口のシャッターが下されるだろう。そうなれば今夜の食事は無し――それは絶対に阻止しなければならない。アパートでは尊が下ごしらえをして待っている(二人は包丁所持禁止令が出ていた)はずなのだから。
「鴻上了見のIDで支払っちゃお」
 スマートウォッチをレジの端末へ掲げるのを、遊作は横目で見ていた。ベルト横にぼこっと出た手首の骨が、実のところ好みである。Aiの体格は一般的な青年のものと比較して決して筋肉質というわけではないが、そのわりに例えば胸板を押しても全く倒れないところや、買い出しの荷物持ちで段ボール箱を抱え上げるところが遊作にとっては端的に言って良かった。羨ましいと言い換えてよい、自分にないものを相手に求めるというのは遊作の悪癖のひとつであった――そしてAiはその癖を熟知している。肌寒い今日、Aiがわざわざ半袖のTシャツを着ているのはそのためだ。
「あとでお前が了見に自己申告しろよ」
「そこで止めないのが遊作様だよな」
 からから笑うAiの掌でレシートが潰された。目もくれず、ぐしゃっという音とともにごみ屑になった紙に、遊作の頭には先日Aiによって処理された害虫が思い起こされる。
 Aiの中には『大切なもの』ボックスと『それ以外』ボックスがあるらしかった。価値がないものだと認定されると、迷惑メールが迷惑メールボックスに振り分けられるように『それ以外』ボックスへと入れられる。そこへ入れられたら最後、人物事象にかかわらず死ぬまで(あるいは消えるまで)存在しないことと同義だ。Aiにとっては目の前に現れるものを仕分けするだけの単純作業。生きる価値を己で示せられるものだけが、青年の矛から逃れられる。
 そうして遊作は自分が『大切なもの』ボックスに入れられていることを理解していないまま、Aiを拾ってもう半年になる。いまだに「こいつの収入源はどこなんだろうか」と思いながらも、また多方面から忠告を受けながらも、狭いアパートに青年が居座ることを許容している。
 『蛍の光』は店内に流れ続けていた。尊のバイトが終わる時間に合わせるとどうしても遅くなるものの、こういう時間が遊作は嫌いではない。ただこの同居人が毎度保護者面でついてくることはどうにかしたい、と思っている。「十八歳未満は夜間に出歩いちゃいけませーん」と言われてしまえば反論できないのを分かっていて、Aiはいつもついてくる。
「あ」
 同居人が肉のパックをエコバッグに突っ込むのと同時に、遊作のスマートフォンが鳴った。ジーンズのポケットから取り出す。画面を確認し、再び「あ」という短い声。
「何だよ」
「了見からだ……『不正利用するのはいい加減にやめろ訴えるぞ。こんな時間に肉だけを買うとはどんな生活をしているのか理解できない。今から向かう。』……だそうだ」
「は? コメ足りる?」
 言い終わると同時に、蛍の光が終わった。金属板をチェーンソーで切ろうとしているようなけたたましい音に、Aiの叫び声が重なる。「やべ閉まる!!」遊作はゴールテープを切る最終ランナーの気分で全力疾走した。



 開いたAiの目には何も映っていなかった。何処かの安全な国で、何も悩まず何にも苦しめられないただの青年Aiはいない。遊作と尊に怒られながら生活費を工面したり、鴻上了見に時々本気で遊作のアパートから出ていくよう言われたり、雨が降った日に濡れた遊作の頭をタオルで拭いたりした自分は瞼のなか、データとして消えてしまった。広がる暗闇には自分の虚像が、朧げなのに確かな存在感をもって寝そべっている。ネットワーク上の画像にあった、象に似ていると思った。それを端から切り取って食し、自分の中身全てとそっくり入れ換えることができたなら、自分は自ら作り上げた夢のAiになれるかもしれない。そう思ってみるが、本当に自分であるのか保証できないまま第二のAiが生まれるだけだ。新たな『Ai』に遊作との記憶を導入したところで、ただのコピーとなった自分が『それ以外』ボックス行きになることは確実だった。
 カレー食いたいなぁ。
 0か1の世界の中で、Aiは再び目を閉じることにした。データはここにある。カレーは甘口が良いと、あの遊作に伝えないと。なにせ食べたことがないのだ。畳む
ニル・アドミラリ
・了見→幼児遊作の前日譚。
#了遊 #現代パラレル

 世の中に何の期待も持てなくなっていると気付いたのは、了見がある春の朝、歯を磨いている時であった。鏡のなかの自分は腑抜けた面をしていた。父の顔はしばらく見ていない。時折、深夜に帰ってきているようではある。いつだったかその様子を盗み見たことがあったが、自分の知る父親とはまるで違っていたのがいまだに背筋の凍る感覚を思い出させる。キッチンのシンクにひとり凭れ、蛇口からとめどなく流れる水を眺めていた男は、息子の気配に気付くことはなかった。父親を照らす青白い光に青年は死神の影を見た。そこまで父を追い詰める研究とは何だ? あなたは何をしている? 訊ねることは禁忌へ足を踏み入れることであると、了見は分かっていた。真に肉親を憂うならば彼はそこで父親に声を掛けるべきで、そうしていたならばもしかすると父親の精神は保たれたかもしれない。しかしできなかった。恐ろしかった。その後悔はのちに青年をじりじりと焼いた。
 咥内を踏み荒らす絶望は吐き出してもなお胃からせり上がってくる。何度口を漱いでも変わらない不快感に、十八になって青年は生まれて初めて裸足で外へ出た。アスファルトが踵に傷をつけようが、周囲の視線が彼に刺さろうが、一人だけの要塞から下る道は痛く、冷たく、心地よかった。
 
 死ぬ前に美しいものを見ておきたいと願うのが人間の本能であれば『設計に誤りあり』と仕様書に赤字で書き記してやる。死にたくなる前に見るよう変更しておけ。
 誰に対してか分からない怒りに似た感情を抱いて、了見は公園に居た。冷え切った足はだいぶ前から痛みを感じなくなっていた。その足がひたひたと、胡乱な者のように向かったのがどうしてこの公園であったのか、理由は明白だ。幼い頃に家族で来た最後の場所がここだった。それだけのことで、それだけのことが青年にとって最も新しい朗らかな記憶だった。向こうを見れば昔の自分のような子どもがそこかしこにいる。誰もが笑っていて、この世のどこにも苦しみなどないと言いたげに、素知らぬ顔をしていた。それが殊更青年を隅へと追いやる。青々とした芝生の上で、彼は異端者だった。
 芸術品も絵画も、頭上を彩る桜並木でさえ、いかに美しかろうとも観賞者にそう感じることができなければ価値はない。見上げた了見の視界は空よりも花弁が占めている。美しいものを見ようとしていた青年の本能が、しかし何も感じることはなかった。あるのは花が咲いているという認識だけだ。辞書に記載された例文のように事象を拾い上げたのみである。きっと十年前であれば笑えたのであろうな――思ってみても、十年前の一場面が『自分の記憶』とは思えないほど、今とかけ離れていた。
「お兄ちゃん、ひとり?」
 過去の自分と相対していたがために、降って湧いたような声には了見も驚きを隠せなかった。何せ背後から突然、ひっそりと、小声で話しかけられたので。肩越しに振り返ると子どもがしゃがみ込んでいた。膝を抱えてこぢんまりした様子はいっそ弱々しくも見えるが、爛々とした目がそれを否定する。
「ぼくずっとかくれてるの、ないしょだからね」
「……ああ」
 合点がいく。桜の根元に隠れる子どもは、自分が来る前からずっといたのだった。「まだ見つかってないからぼくの勝ち」誰と何の勝負をしているのか了見には分からない。
 青年が正面に向き直ることによって子どもとの会話は途切れた。静けさを取り戻した空間に、はらはら、はらはらと降り続ける花びらの、一見不規則なように見えてほぼ等速運動であるのが、くたびれた心のなかで唯一「見て良かった」と思えるものだった。
「ぼくひとりっこなんだ」
 まだいたのか。というよりも何故話しかけてくるのか分からない。了見は子どもが苦手だった。子どもは今の自分が持たないものをすべて持っていた。彼らは昔の自分のように、無遠慮で、純朴過ぎて同情すら抱きそうになる。
「お兄ちゃんはおとななの?」
「……大人……」
 青年の口から答えは出なかった。完全な大人でも、完全な子どもでもないからこそ彼はここにいるのだった。裸足の足は春の光に中てられても温度を取り戻せそうにない。身につけている黒いパンツが薄汚れていることに今更気付いて、どの道のりでここへ来たのだったろう? 思い出そうとしても覚えていない。だがもうあの家から抜け出して、狂った――そう形容せざるを得なかった――研究者の父親、その息子という皮を剥いで、一切の外面を捨て去りたかった。私が大人ならば割り切れたのだろうか? なら私は大人ではない、だが子どもでも。青年の精神を絞り上げるのは彼自身で、ゆえに止めることができない。
 呼吸することを終えたくない。何故? 自分でいたいのだ。求められたい。誰に? 誰かに。こんこんと湧き出る泉のごとく、絶え間なく肯定してくれ! 銀混じりの髪を、彼の細長い指が掻きむしる。誰もが役割を演じている世界で役割を捨てた人間は果たして存在できるのだろうか? あるいは別の何者かに成り代わることなど。渇望されたならどれだけ気が晴れるだろう――。
「ねえ、ぼくよりおとななら、ぼくのお兄ちゃんになってよ」
「う、」
 気付けば幼児がすぐそばにいた。水晶のきらめきが見えた。緑がかった子どもの目が、濁ることなく了見を見つめていた。汗が滲む。息苦しい。
「ぼくね」
「やめろ」
 子どもは苦手だ、まるで過去を見ているようで。
「いつもひとりだからさみしい」
 無遠慮で。
「お兄ちゃんになって」
 純朴過ぎる。畳む
春の馬鹿者
・了見→幼児遊作の倫理観やばい話です。
・誘拐話です。
#了遊 #現代パラレル

 春のなかに幻を見ていた。了見にとって今年で二度目のことだった。
 桜が咲き誇る光景がそれを見せていたのかもしれない。あれからもう一年が経過したのか、仕込みに時間が掛かってしまったな――茫洋とした過去に思考が囚われそうになる。しかしながら了見の右手に繋がれた小さな手が引力を以てそうはさせなかった。歩みを進めるのが丘まで続く遊歩道で、二時間前にその小さい手をひいて事を始めたのだと思い出させる。
 再び右手が微かに揺れた。「お兄ちゃん」「少し待て」青年を自分に近づけんとする一切の努力が、それが無駄になるさまが、彼にとっては堪らなかった。蟻が大木を運ぶがごとく圧倒的な差があるにもかかわらず、子どもはいつも了見を引き寄せる。だが引き寄せると言っても、幼い力では青年の指先をほんの少し引くことしかできない。にもかかわらず諦めず、何度も何度も行われるのは芸術的な様式美に似ていた。水泡に帰すための。そこに了見が見出すのは愛おしさの類では到底なかった。焼き潰した自身の精神を幾度も練って、固め、ぎとぎとした欲望に混ぜ合わせたものだった。蓋をこじ開けてくるのはいつも、この非力な子どもを自分ひとりしか知らない世界に留めておきたい、そんな馬鹿げた庇護欲である。少なくとも了見は、それらが客観的事実として異常であり、自らが正しい人間の規範から外れていることを理解していた。
 この遊歩道が人の道ならば、本日をもって私は逸脱し、解脱したのだ。いいや正しくは、一年前のあの日からだったかもしれぬ。
 人でなしと蔑まされることなど了見にとっては問題にはなり得ない。問われれば「だから?」と返すだろう。裏付けるように、今日に至るまでの三百六十五日、この計画をやめるという選択肢が青年の中に浮かぶことは一度もなかった。
「お兄ちゃん、お腹すいたの?」
「何故そう思った」
「ここにシワがあるから」
 おとうさんはお腹すいた時いつもそうしてる。遊作の右手がその眉間を指差す。無論、遊作の眉間には皺などなく、了見の顔にだ。眉間を撫でて皺を伸ばす。ついでに笑顔のひとつでも浮かべられれば良かったかもしれないが、あいにく青年の表情にはその機能が付与されていない。
「腹が減ったわけではないが、喉が乾いたかもしれんな。座って何か飲むか」
「うん」
 嘘だった。了見は遊作の希望を汲んだまでだ。途中「足がちょっと痛い」と訴えることはあっても、ほとんどを自分の足で歩いていた。花、花、花の遊歩道を休まずに進んできたから、子どもの体力から鑑みるにそろそろ喉の渇きを訴える頃合いだろうと踏んだに過ぎない。春の昼下がりが輪をかける。この時期にしては例年よりも気温が高かった。
 振り返れば、もうどこにも人など居ない。桜の香りが彼らを覆い隠していた。遊作がいた公園からここまで大人の足で三十分以上は必要で、それを見込んで青年の計画は進んでいる。遊作の両親が子どもの不在に気付いているかもしれない、しかしすべてが遅かった。焦燥や不安が、幼児の父と母に襲いかかっていたとしてもどうでもよく、どうでもいい人間に対して思案する時間など了見にとって意味のない行為に等しく、彼の脳は再び目の前の事柄を捉えた。
 丘の頂上まで僅かだ。越えれば、その向こう側から降りて停めてある車に乗ればよい。時間的猶予は残されている、ここらで休んでも何ら問題はあるまいと判断して芝生に腰を下ろす。「来い」膝の間に遊作を座らせ抱き込むと「眠いの?」と声がした。
「何故そう思った」
「おかあさん、いつも寝るまえにこうしてる」
 それは眠いからではなく愛おしさからであろうな、一般的に親は子を抱き締めたりするらしい――言葉は了見の口から出ることはなかった。一般的な親がどうするか知識として知っていても経験として知らぬ、研究に執心する自身の父親は一般的な親ではなかったので。
 答える代わりに鞄の中からペットボトルを取り出し、蓋を開けて手渡す。「水?」「水ではない、砂糖とカリウムが入った水だ」「水なんだ」子どもは笑う。つられて笑いそうになるが、青年の表情が機能不全であるがゆえにうまく実行されなかった。鞄を開けた時、仕分けられた空間に『一般的』とはかけ離れたものが見えて、そういえば自分も同類なのであったなと再認識した。薬、ナイフ、工具にロープ。そして足のつかない資金洗浄済の現金。一気に現実が目に入ってきて、了見は無意識に視線を外した。彼にとって防衛反応だったかもしれない、幻を守るための。夢を見るための。
 再び正面を向くと遊作の頭がある。うなじに鼻を埋めた。すん、と嗅いでみると、不快さの入る隙間などこれっぽっちもない体臭がして、了見の肺を内側からくすぐる。大人ならばこうはいくまい、汗や脂の匂いが混じって悪臭になる(青年はそれを嫌悪していた)。初めて体感する匂いに青年のこめかみは震えた。鼻先に触れる柔らかい髪。腕が触れている至る所から感じる体温。五感すべてで遊作を味わう。瞬間、喉から腰にかけて悪寒にも似た感覚が走り抜けて、中毒死するなら今が良いとまで思った。だが死ぬわけにはいかない。飴色の痺れに、青年は幻がようやくかたちを持ったことを実感したのだった。
 去年。遊作が自分に声を掛けなければこうはならなかった、今日を迎えることなかった、今日を迎えようと思うこともなかった。私に関わるからこうなる。関わらなければ良かったのだ。ひとらしい感情、ひとらしい人格を何ひとつ教えられてこなかった私に――。
 すべてが遅かったのはどちらであったろう。
「一年前の今日、私に言ったことを覚えているか」
「んん?」
 ペットボトルから口を離して、遊作が了見を振り返る。瞬きをした瞳から翡翠を砕いたような輝きが溢れて、春の光に反射した。こんなにも近くで見るのは初めてで、了見の脳はくらりと揺れた。光の中には自分しか映っていなくて、これからも自分しか映らないのだと思うと、心臓が俄かにやかましくなる。その時彼の脳は、これが歓喜によるものだと理解した。まったく遊作は常に新たな知見をもたらす。歓喜! 歓喜とはこれほどのものか!
「……覚えてない」
「君は『お兄ちゃんになって』と言ったのだ、思い出せ」
「そうだっけ?」
「それから毎週、ひと月に約四回、十二ヶ月間、あそこの公園で遊んだな。合計で四十八回だ」
 麓の公園を指差す。青年には取り残された小さな楕円にしか見えなかった。
「そうなの?」
「そうだ」
「かけ算まだちゃんとできない」
「安心しろ、私が教えてやる。勉学だけではない、すべてだ」
「了見お兄ちゃんはかしこいよね」
「当然だ、君の本当の兄になるのだからな」
「えっ? それってどう……い……あ、れ……」
 おもむろに遊作の手からペットボトルが落ちた。緩慢、かつ一瞬間のことである。草むらに跳ね、液体を撒き散らしながら転がるそれを了見の足がぞんざいに止める。拾って中身を捨てると手元で水が跳ねた。薬とは存外効くものだな、と少し感心し、乱雑に鞄へと突っ込む。
「こういうことだ、遊作」
 幸福の塊に頬を寄せる。目尻へ口付けると子ども特有の柔らかい肉感が伝達され、あたかも成熟した果実のようにかぐわしく、甘美で、了見を惑わせた。脱力した子どもの重みに、この中には魂の重量は含まれているのだろうか? と逡巡する。答えはすぐに出た。そうでないと困るからだ。遊作を構成する一部たりともすり抜けてはならない。深い眠りに溺れた子どもを、青年の腕が抱きかかえた。水面に映る景色を掬いあげ、瓶詰にして閉じ込めるように。
 風が吹く。桜が散る。春の幻はとうに見えなくなっていた。畳む
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