から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

弔辞
・いちおう了→←遊←尊です。
・二期くらいのイメージ。
・なんか急にお墓を買いに行こうと言い出した尊。
#尊遊

 高校生だから大金なんて持っていない。分かりきった事実を前に、尊は一歩も引かなかった。「見に行くだけならいいじゃん、契約しなかったら良いんだろ?」胸を張る様は清々しく、今のうちに墓を買いたい、とのたまった後とは思えなかった。その上「遊作も行くんだよ」と急に腕を引かれたので二の句を継げない。仰いだ夏の空は朝っぱらから宇宙まで透けている。湯気の上澄みを思わせる熱風が二人の背中を押していた。いま、この圧力に誰もが抗えないのだろう。だから衝動というものがこの世にあるのかもしれないな、とは声に出さずに、遊作は取られた右手の中へ隠した。しなやかな弓から放たれる、尊のそういうところが心の底から好ましかった。

「何で墓を買いたいと思ったんだ」
 仮病で学校を休むのが嬉しいのか楽しいのか、尊の機嫌は上昇気流に乗っている。彼は米神から流れる汗を手の甲で拭うと、あー、と間延びした声を出してから「何でかなぁ、もうすぐ盆だからかな」と答えた。まるで他人事だ。盆が近付くと墓を衝動買いしたくなる、なんて頓珍漢な諺でもあるまいし、毎年こんな風に突然変異を起こされてはたまったものではない。尊の思考回路はこんなにも複雑怪奇であっただろうか? 先週に課題を失念して大慌てで縋りついてきたことや、ひと月前にカフェインの過剰摂取で眠れないと通話を繋いできたことを思い出してみるが、今日の尊と即座に結びつかなかった。
 既に遊作の右手は自由で、先ほどまで引っ張られていた腕はだらんと垂れ下がっているだけである。ただ、一歩分の距離を挟んで横並びに歩くのは遊作と尊にとってよくある立ち位置であるのに、学校でそうしている時と何処かしら違っているように感じられる理由が遊作には分からないでいた。妙に落ち着かない心地なのは、今日が気温三十五度に近い猛暑だからか、これから墓石を買いに行くからなのか、尊と二人だけで登校途中に逃げ出したからなのか――考えても結局、本当の理由は掴めないままで街なかを歩き続けることになった。
「あっついなぁ」
「……そうだな……」
 口に出さなければ暑くないのと同じ。以前に草薙が言っていた言葉を思い出し、遊作もそれに倣おうとしたがやはり暑いものは暑くて、汗は変わらず彼の背骨を伝い落ちていく。先ほど引き抜いてしまったネクタイは、丸めてポケットへと突っ込んだ。尊も同感であったようで(彼は今朝会った時からネクタイをしていなかった)彼の場合は今にも舌打ちをしそうなほどだ。
「太陽なんか燃え尽きて炭になれば良いのに」
「いっそお前が燃やせば良い、Soulburner」
「はは! 遊作にしては結構面白い冗談だね」
 だが現実はそうはいかない。ただの高校生に太陽は遠すぎて、誰に頼まれたわけでもないのに煌々と熱を発する球体に毒づくことしかできない。絶対的なルールの前で足踏みする愚か者に恵みの雨が降るわけがなく、乾いた喉を潤すため遊作は途中見つけた自動販売機で水を買うことにした。
「お前は何にする」
「スポドリ」
「あとで少しくれないか」
「積極的じゃん」
 にやつく口元を遊作の指がつねった。ひはひ、と泣き言をこぼす尊は何故か嬉しそうだ。
 眠りから覚め始めた街はどこへ行くのか分からない人達が交錯し、時折聞こえるクラクションで寝起きの悪さを露呈している。その中を突っ切って尊の足は進み続けた。名もなき誰かが視界に入れば切り捨てる勢いで、だが進めば進むほどその人々も減り、喧噪は次第に静かになっていく。強く刺す日光は道路に彼らの影を色濃く映し出した。まだ長いそれらは時折重なり、ひとつになってはまた離れ、またひとつになって、どこまでも陽炎に揺れていた。
 張り付いて心地が悪いのか、時々眼鏡を取って前髪をかき上げる尊が遊作の目には見知らぬ存在に映る。仮想空間の彼と現実世界の彼が混ざり合って『第三の穂村尊』がいるような――そのどれもが『本当の穂村尊』なのが、遊作の意識に波紋を広げていく。その輪をいっそう拡大せんと、彼の中にぽとぽとと雫が落ちた。ここに居るのは確かに尊である。しかし彼の後ろには自分の知らない彼が確かにいて、永遠に推し量ることはできない。過去を見ることなどできやしないのだ。不可逆の世界は遊作のなかに時折立ち寄っては一筋の悲しみを残していった。思い出をふるいにかけた残り滓は、いつも苦々しい後味がする。それでも、欠片だけでも知りたいと思った。自分の計り知れない穂村尊を知ることが、自らを知ることのように思えた。彼の一部分を確かに共有した、十年前の小さな自分のことを。
 歩き続ける間、暑さゆえに無言だった。どうすればこの熱気が消えるのだろうか、遊作の頭は思案する。例えば全ての熱をかき集めて点火したら即座に吹き飛ぶかもしれない。だがおそらく自分達も一緒に散り散りになるだろうから却下だな――ビル街を抜けても商店街を抜けても、この季節のまま世界が停止したように終わらない夏が二人を待ち構えていた。尊の目的地がどこなのか知らないけれども、終着点まできっとこのまま歩き続けるだろう。尊が行くのなら自分も行く、尊の中にいる自分を追い掛けるように。そんな夢想の真っ只中を、遊作は泳いでいた。
 汗だくになった遊作の足が止まったのは潮の匂いが風に混じっていることに気が付いた時である。先に足を止めたのは尊のほうであったが、彼が進まなければ遊作にも進む理由はないので必然的に二人同時に止まることになった。「どうした」遊作の疑問に答えるべく、尊の指が道路の先を示している。
「今日のところは、下見ってことで」
 いつも草薙が店を出す場所とはまた違う、水面がほど近い河口の堤防に彼らは立っていた。向こう側に木に囲まれた共同墓地があるのが見えて、あれを見に来るためだけにここに連れてこられたのかと思うと、誰かの墓を前にしても(死者に対して不躾にも)腹立たしい。不貞腐れそうな気持ちは僅かながら涼しい風が通り抜けたことで持ち直す。はーっと長い溜息を押し出してシャツの胸元をはためかせる。風を送っても体内は一向に冷めやらない。一方で尊は「あー暑い暑い」と言うものの、それ以外は普段とあまり変わらない様子で遊作の小さなプライドが少し傷つく。
「……本当に墓石を買いに行くのかと思った」
「そんなわけないでしょ。遊作って冗談が通じるのか通じないのか、たまに分かんないよね」
「おい」
「おっと! 怖い怖い」
 つい手が出たのは尊の影響かもしれなかった。大げさに避けるその襟足を子猫よろしく捕まえて説教する。「ぐえっ」シャツの襟を後ろから引っ張れば、汗で湿った髪が指に触れる。そこがまさか氷のごとく冷たくなっているとは想定しておらず、指先との温度差に一瞬だけ遊作の手が止まった。なんだこの体温――墓地の風景に、尊の首筋がいやに冷たく重なって、不意に脳裏をよぎったのは幽体になった尊だった。視界いっぱいに広がる白い日差しへほどけていく輪郭だった。
「……行き先は、最初に言っておけ」
 堤防を取り囲むコンクリートの壁に、遊作がどっと背を預ける。少し痛みを感じる程度の勢いをつけて、その衝撃でこびりついたイメージを消し去りたかったのに、うまくいかない。「遊作?」覗き込む尊はいつもと変わらず、急に声の沈んだ遊作を訝しんでいる。
「疲れた?」
「そんなにやわじゃない」
「どうかなぁ、少なくとも僕よりは体力ないんじゃない?」
 からから笑う友人に、ふっと、居座っていた空恐ろしい想像も薄まっていく。安堵した。尊が楽しげであればあるほど、遊作はいつも自分の心が引き上げられる感覚を覚えていた。純粋に感謝していた――いつだったか「お前が楽しそうだと俺も楽しいように感じる」と言った時、尊は声を上げて笑いながら泣いた。その時ばかりは遊作も困り果てた。以来、実直な気持ちを言う時は時と場合を選ぶようにしている。人目を憚らずに泣かれては、遊作には右往左往するだけしかできないので。
「まぁ僕も、見ず知らずの人の墓参りなんかする気はないんだけど」腕を天に向かって目一杯伸ばし、尊が身体の中で縮んだバネを一気に解放する。「そんなことしてもね」
「ならどうして来たんだ。暑くてこっちが墓地送りになりそうだぞ」
「やめなよそういう冗談」
 誰が言わせていると思ってるんだ! 遊作の反論は熱気に霞んで音にならない。溌剌さではいつも尊に敵わなかった。
「あ! あっちの階段から降りてみよう、砂浜行けそう」
「おい、尊」
 野放しにしておくと何をしでかすか分からないところは、猫というより犬かもしれなかった。今日のように目的に向かって脇目もふらず突き進むところも。
 海に沿ってのびる堤防には申し訳程度に街灯が並んでいる。塩害のためか錆びて崩れそうなものもあり、この場所だけは時計の針がぐんぐん進んでいるのかもしれない。どこか心許なくて、遊作の目は尊を探す。堤防の間、切り取られた空間に尊はいた。浜辺へ降りる階段があるらしかった。先を行く尊と遊作の間に一等強い風が吹く。ざあざあと波の音が際立って、追い立てられて、追い掛ける。
「尊」
 走っているわけでもないのに、尊はどんどん離れていく。

 ねぇ人ってさ、データになってもお墓の中に入れられるのかなぁ。追いついた時に聞こえた暢気な声は、自分達の行く末が燃えかすでも骨の残骸でもなく、形の残らない別の何かになることを受け入れているような調子である。
 砂浜は消波ブロックで区切られてそれほど広くない。所々で流木やら空き瓶やらビニールやら、波風によってかき集められたがらくた達が浜辺に転がっていた。互いに違うもの同士が身を寄せ合い、慰め合っている。その隣で少し離れて、尊が砂を弄ぶ。波打ち際まで数メートルといったところ、尊の足元には小さな砂の山が二つできていた。
「記録媒体に保存すればな」
「じゃあ僕の記憶を保存したい。遊作手伝ってよ」
「どうしてだ、目的が分からない」
「ここを掘ってそれを埋めて、木の棒でも立てておこうかと思って。『穂村尊、ここに眠る』って書いてさ」
「……そんなことをしてどうするんだ」
「六歳だった僕たちを眠らせてあげるんだよ」僕たち、という言葉を遊作は聞き逃さなかった。「あの頃の僕たちが、苦しみから解放されて、永遠に眠ることができるようにさ」
 砂の山は五つできあがっている。立ったままの遊作には、尊の表情を伺うことはできない。
「悪趣味だな」
「そうかも。こんなこと言う相手は遊作くらいだけど」
 話しながら、尊はかたわらに落ちていた流木を引きずり寄せた。大人の片腕ほどのそれを砂浜にずんっと突き刺して「これで即席の墓標完成」と得意げに言い放った。今日の尊はどこまでもこの調子のようだった。自暴自棄と茫然自失が同居しているようにも、しかし底抜けにおどけているようにも見える。そのせいでいつまで経っても脳裏から、あの光源を失った穂村尊は消えてくれない。薄れてもなおそこに鎮座し、ずっと遊作を見ていた。
「ねぇ、遊作も一緒のお墓に入ろうよ」
 突拍子のない言葉に「は?」と間抜けな声が出る。「入って」ではなく「入ろう」と言うところが尊らしさを滲ませている。きっと楽しいよ、と続きそうな一種の快活さを含んでいた。しかし生憎だが遊作は墓を建てる予定はないし、あったとしてもこんな場所は遠慮願いたかった。不要品の寄せ集めが行き着く場所は尊にだって似つかわしくない――黙り込んだ遊作のことを無視して尊は続ける。
「僕と遊作と、あと……仕方ないからあいつも入れてやってもいいけど」その物言いから、あいつというのが鴻上了見を指しているのだろうなと思われた。「だって遊作はあいつのことばっかりだもんな」語気の強さに加えて棘がある。だからあえて遊作は真面目な口調で返したのだ。
「尊の愛情は重いな」
「えっうそ!? これって重い!?」
 途端に顔を上げて大袈裟に悲しむ。泣いてはいなかった。良かった、と思う。尊の反応が面白くて「重い」「高校生が言う台詞じゃない」「大人でも言わない」と遊作の連続攻撃が放たれた。その度に「うっ」「そんなぁ」「きっつ」と反応するのがまた軽妙で、自分の返答はきっと本気かもしれなかった尊を躱す卑怯な手だと薄々分かっていて、狡猾さに遊作の目の奥が痛くなった。今ならあの時の尊みたいに、笑いながら泣くなんて芸当ができるかもしれないと思った。
 尊と永遠の眠りにつくことなんてできない。俺には尊の苦しみを本当に理解することができない。
 彼が失ったもの、彼が失いたくなかったもの、それらを取り除いて最後に残るものが六歳の遊作だった。誰かに救われた自分。その誰かを探し見つけた自分と、自分を探してくれていた誰かをなくした尊。尊がやりたかったことは――この唐突な生前葬は――あの頃の苦痛を火種にして過去の自分を焚き上げることなのだろう。あの頃の、ひとりぼっちの尊と遊作と、合意の得られていないもう一人を送る作業は粛々と続いている。墓標を前に、尊の手は何度も何度も砂を重ねた。砂は山になって、崩れて、また重ねて大きくなる。熱射は彼らを焼く。海の吹き曝しごときでは消えそうにない炎が、砂の墓を作り続ける尊と、遊作の周りをごうごうと囲んだ。
 どうか安らかに、僕たち。影が短くなる頃、尊の小さな声が落とされた。呟きは遊作の喉をゆっくり通り過ぎて内臓へ沈み、指先へ、つま先へ、記憶へと侵食を繰り返していく。その正体は波紋を揺らす小さな雫だった。かつて置き去りにされた彼らの、もう慰めることのできない肩だった。埋没した時間から切り離されて漂う幽霊だった。やはり俺たちは幽霊だったんだ。
「尊、たける」
 隣へしゃがんだ遊作の、迷う左手がついに尊の頭へと辿り着く。どこかで見た、子どもを甘やかす大人の真似をしようとしたのかもしれない。誰の真似か分からなかった、そこに顔はなかったから。「優しいなぁ遊作は……だから僕は……」彼は何かを伝えようとしていた。だが何も言ってほしくなかった、今日くらいは笑わずに泣いてほしかった。いつも自分の手を取る彼をひたすらに受け止めたかった。そうすればいつか尊の記憶の一部分になれるかもしれない、これが拙い模倣であったとしても。
 砂の山は巨大な望楼となって彼らを見送った。小さな足跡だけが残る空洞も、間もなく波に飲まれるだろう。その前に別れを告げる。さよなら、二度と会いませんように。



(了)畳む
ニル・アドミラリ
・了見→幼児遊作の前日譚。
#了遊 #現代パラレル

 世の中に何の期待も持てなくなっていると気付いたのは、了見がある春の朝、歯を磨いている時であった。鏡のなかの自分は腑抜けた面をしていた。父の顔はしばらく見ていない。時折、深夜に帰ってきているようではある。いつだったかその様子を盗み見たことがあったが、自分の知る父親とはまるで違っていたのがいまだに背筋の凍る感覚を思い出させる。キッチンのシンクにひとり凭れ、蛇口からとめどなく流れる水を眺めていた男は、息子の気配に気付くことはなかった。父親を照らす青白い光に青年は死神の影を見た。そこまで父を追い詰める研究とは何だ? あなたは何をしている? 訊ねることは禁忌へ足を踏み入れることであると、了見は分かっていた。真に肉親を憂うならば彼はそこで父親に声を掛けるべきで、そうしていたならばもしかすると父親の精神は保たれたかもしれない。しかしできなかった。恐ろしかった。その後悔はのちに青年をじりじりと焼いた。
 咥内を踏み荒らす絶望は吐き出してもなお胃からせり上がってくる。何度口を漱いでも変わらない不快感に、十八になって青年は生まれて初めて裸足で外へ出た。アスファルトが踵に傷をつけようが、周囲の視線が彼に刺さろうが、一人だけの要塞から下る道は痛く、冷たく、心地よかった。
 
 死ぬ前に美しいものを見ておきたいと願うのが人間の本能であれば『設計に誤りあり』と仕様書に赤字で書き記してやる。死にたくなる前に見るよう変更しておけ。
 誰に対してか分からない怒りに似た感情を抱いて、了見は公園に居た。冷え切った足はだいぶ前から痛みを感じなくなっていた。その足がひたひたと、胡乱な者のように向かったのがどうしてこの公園であったのか、理由は明白だ。幼い頃に家族で来た最後の場所がここだった。それだけのことで、それだけのことが青年にとって最も新しい朗らかな記憶だった。向こうを見れば昔の自分のような子どもがそこかしこにいる。誰もが笑っていて、この世のどこにも苦しみなどないと言いたげに、素知らぬ顔をしていた。それが殊更青年を隅へと追いやる。青々とした芝生の上で、彼は異端者だった。
 芸術品も絵画も、頭上を彩る桜並木でさえ、いかに美しかろうとも観賞者にそう感じることができなければ価値はない。見上げた了見の視界は空よりも花弁が占めている。美しいものを見ようとしていた青年の本能が、しかし何も感じることはなかった。あるのは花が咲いているという認識だけだ。辞書に記載された例文のように事象を拾い上げたのみである。きっと十年前であれば笑えたのであろうな――思ってみても、十年前の一場面が『自分の記憶』とは思えないほど、今とかけ離れていた。
「お兄ちゃん、ひとり?」
 過去の自分と相対していたがために、降って湧いたような声には了見も驚きを隠せなかった。何せ背後から突然、ひっそりと、小声で話しかけられたので。肩越しに振り返ると子どもがしゃがみ込んでいた。膝を抱えてこぢんまりした様子はいっそ弱々しくも見えるが、爛々とした目がそれを否定する。
「ぼくずっとかくれてるの、ないしょだからね」
「……ああ」
 合点がいく。桜の根元に隠れる子どもは、自分が来る前からずっといたのだった。「まだ見つかってないからぼくの勝ち」誰と何の勝負をしているのか了見には分からない。
 青年が正面に向き直ることによって子どもとの会話は途切れた。静けさを取り戻した空間に、はらはら、はらはらと降り続ける花びらの、一見不規則なように見えてほぼ等速運動であるのが、くたびれた心のなかで唯一「見て良かった」と思えるものだった。
「ぼくひとりっこなんだ」
 まだいたのか。というよりも何故話しかけてくるのか分からない。了見は子どもが苦手だった。子どもは今の自分が持たないものをすべて持っていた。彼らは昔の自分のように、無遠慮で、純朴過ぎて同情すら抱きそうになる。
「お兄ちゃんはおとななの?」
「……大人……」
 青年の口から答えは出なかった。完全な大人でも、完全な子どもでもないからこそ彼はここにいるのだった。裸足の足は春の光に中てられても温度を取り戻せそうにない。身につけている黒いパンツが薄汚れていることに今更気付いて、どの道のりでここへ来たのだったろう? 思い出そうとしても覚えていない。だがもうあの家から抜け出して、狂った――そう形容せざるを得なかった――研究者の父親、その息子という皮を剥いで、一切の外面を捨て去りたかった。私が大人ならば割り切れたのだろうか? なら私は大人ではない、だが子どもでも。青年の精神を絞り上げるのは彼自身で、ゆえに止めることができない。
 呼吸することを終えたくない。何故? 自分でいたいのだ。求められたい。誰に? 誰かに。こんこんと湧き出る泉のごとく、絶え間なく肯定してくれ! 銀混じりの髪を、彼の細長い指が掻きむしる。誰もが役割を演じている世界で役割を捨てた人間は果たして存在できるのだろうか? あるいは別の何者かに成り代わることなど。渇望されたならどれだけ気が晴れるだろう――。
「ねえ、ぼくよりおとななら、ぼくのお兄ちゃんになってよ」
「う、」
 気付けば幼児がすぐそばにいた。水晶のきらめきが見えた。緑がかった子どもの目が、濁ることなく了見を見つめていた。汗が滲む。息苦しい。
「ぼくね」
「やめろ」
 子どもは苦手だ、まるで過去を見ているようで。
「いつもひとりだからさみしい」
 無遠慮で。
「お兄ちゃんになって」
 純朴過ぎる。畳む
春の馬鹿者
・了見→幼児遊作の倫理観やばい話です。
・誘拐話です。
#了遊 #現代パラレル

 春のなかに幻を見ていた。了見にとって今年で二度目のことだった。
 桜が咲き誇る光景がそれを見せていたのかもしれない。あれからもう一年が経過したのか、仕込みに時間が掛かってしまったな――茫洋とした過去に思考が囚われそうになる。しかしながら了見の右手に繋がれた小さな手が引力を以てそうはさせなかった。歩みを進めるのが丘まで続く遊歩道で、二時間前にその小さい手をひいて事を始めたのだと思い出させる。
 再び右手が微かに揺れた。「お兄ちゃん」「少し待て」青年を自分に近づけんとする一切の努力が、それが無駄になるさまが、彼にとっては堪らなかった。蟻が大木を運ぶがごとく圧倒的な差があるにもかかわらず、子どもはいつも了見を引き寄せる。だが引き寄せると言っても、幼い力では青年の指先をほんの少し引くことしかできない。にもかかわらず諦めず、何度も何度も行われるのは芸術的な様式美に似ていた。水泡に帰すための。そこに了見が見出すのは愛おしさの類では到底なかった。焼き潰した自身の精神を幾度も練って、固め、ぎとぎとした欲望に混ぜ合わせたものだった。蓋をこじ開けてくるのはいつも、この非力な子どもを自分ひとりしか知らない世界に留めておきたい、そんな馬鹿げた庇護欲である。少なくとも了見は、それらが客観的事実として異常であり、自らが正しい人間の規範から外れていることを理解していた。
 この遊歩道が人の道ならば、本日をもって私は逸脱し、解脱したのだ。いいや正しくは、一年前のあの日からだったかもしれぬ。
 人でなしと蔑まされることなど了見にとっては問題にはなり得ない。問われれば「だから?」と返すだろう。裏付けるように、今日に至るまでの三百六十五日、この計画をやめるという選択肢が青年の中に浮かぶことは一度もなかった。
「お兄ちゃん、お腹すいたの?」
「何故そう思った」
「ここにシワがあるから」
 おとうさんはお腹すいた時いつもそうしてる。遊作の右手がその眉間を指差す。無論、遊作の眉間には皺などなく、了見の顔にだ。眉間を撫でて皺を伸ばす。ついでに笑顔のひとつでも浮かべられれば良かったかもしれないが、あいにく青年の表情にはその機能が付与されていない。
「腹が減ったわけではないが、喉が乾いたかもしれんな。座って何か飲むか」
「うん」
 嘘だった。了見は遊作の希望を汲んだまでだ。途中「足がちょっと痛い」と訴えることはあっても、ほとんどを自分の足で歩いていた。花、花、花の遊歩道を休まずに進んできたから、子どもの体力から鑑みるにそろそろ喉の渇きを訴える頃合いだろうと踏んだに過ぎない。春の昼下がりが輪をかける。この時期にしては例年よりも気温が高かった。
 振り返れば、もうどこにも人など居ない。桜の香りが彼らを覆い隠していた。遊作がいた公園からここまで大人の足で三十分以上は必要で、それを見込んで青年の計画は進んでいる。遊作の両親が子どもの不在に気付いているかもしれない、しかしすべてが遅かった。焦燥や不安が、幼児の父と母に襲いかかっていたとしてもどうでもよく、どうでもいい人間に対して思案する時間など了見にとって意味のない行為に等しく、彼の脳は再び目の前の事柄を捉えた。
 丘の頂上まで僅かだ。越えれば、その向こう側から降りて停めてある車に乗ればよい。時間的猶予は残されている、ここらで休んでも何ら問題はあるまいと判断して芝生に腰を下ろす。「来い」膝の間に遊作を座らせ抱き込むと「眠いの?」と声がした。
「何故そう思った」
「おかあさん、いつも寝るまえにこうしてる」
 それは眠いからではなく愛おしさからであろうな、一般的に親は子を抱き締めたりするらしい――言葉は了見の口から出ることはなかった。一般的な親がどうするか知識として知っていても経験として知らぬ、研究に執心する自身の父親は一般的な親ではなかったので。
 答える代わりに鞄の中からペットボトルを取り出し、蓋を開けて手渡す。「水?」「水ではない、砂糖とカリウムが入った水だ」「水なんだ」子どもは笑う。つられて笑いそうになるが、青年の表情が機能不全であるがゆえにうまく実行されなかった。鞄を開けた時、仕分けられた空間に『一般的』とはかけ離れたものが見えて、そういえば自分も同類なのであったなと再認識した。薬、ナイフ、工具にロープ。そして足のつかない資金洗浄済の現金。一気に現実が目に入ってきて、了見は無意識に視線を外した。彼にとって防衛反応だったかもしれない、幻を守るための。夢を見るための。
 再び正面を向くと遊作の頭がある。うなじに鼻を埋めた。すん、と嗅いでみると、不快さの入る隙間などこれっぽっちもない体臭がして、了見の肺を内側からくすぐる。大人ならばこうはいくまい、汗や脂の匂いが混じって悪臭になる(青年はそれを嫌悪していた)。初めて体感する匂いに青年のこめかみは震えた。鼻先に触れる柔らかい髪。腕が触れている至る所から感じる体温。五感すべてで遊作を味わう。瞬間、喉から腰にかけて悪寒にも似た感覚が走り抜けて、中毒死するなら今が良いとまで思った。だが死ぬわけにはいかない。飴色の痺れに、青年は幻がようやくかたちを持ったことを実感したのだった。
 去年。遊作が自分に声を掛けなければこうはならなかった、今日を迎えることなかった、今日を迎えようと思うこともなかった。私に関わるからこうなる。関わらなければ良かったのだ。ひとらしい感情、ひとらしい人格を何ひとつ教えられてこなかった私に――。
 すべてが遅かったのはどちらであったろう。
「一年前の今日、私に言ったことを覚えているか」
「んん?」
 ペットボトルから口を離して、遊作が了見を振り返る。瞬きをした瞳から翡翠を砕いたような輝きが溢れて、春の光に反射した。こんなにも近くで見るのは初めてで、了見の脳はくらりと揺れた。光の中には自分しか映っていなくて、これからも自分しか映らないのだと思うと、心臓が俄かにやかましくなる。その時彼の脳は、これが歓喜によるものだと理解した。まったく遊作は常に新たな知見をもたらす。歓喜! 歓喜とはこれほどのものか!
「……覚えてない」
「君は『お兄ちゃんになって』と言ったのだ、思い出せ」
「そうだっけ?」
「それから毎週、ひと月に約四回、十二ヶ月間、あそこの公園で遊んだな。合計で四十八回だ」
 麓の公園を指差す。青年には取り残された小さな楕円にしか見えなかった。
「そうなの?」
「そうだ」
「かけ算まだちゃんとできない」
「安心しろ、私が教えてやる。勉学だけではない、すべてだ」
「了見お兄ちゃんはかしこいよね」
「当然だ、君の本当の兄になるのだからな」
「えっ? それってどう……い……あ、れ……」
 おもむろに遊作の手からペットボトルが落ちた。緩慢、かつ一瞬間のことである。草むらに跳ね、液体を撒き散らしながら転がるそれを了見の足がぞんざいに止める。拾って中身を捨てると手元で水が跳ねた。薬とは存外効くものだな、と少し感心し、乱雑に鞄へと突っ込む。
「こういうことだ、遊作」
 幸福の塊に頬を寄せる。目尻へ口付けると子ども特有の柔らかい肉感が伝達され、あたかも成熟した果実のようにかぐわしく、甘美で、了見を惑わせた。脱力した子どもの重みに、この中には魂の重量は含まれているのだろうか? と逡巡する。答えはすぐに出た。そうでないと困るからだ。遊作を構成する一部たりともすり抜けてはならない。深い眠りに溺れた子どもを、青年の腕が抱きかかえた。水面に映る景色を掬いあげ、瓶詰にして閉じ込めるように。
 風が吹く。桜が散る。春の幻はとうに見えなくなっていた。畳む
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