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@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

ニル・アドミラリ
・了見→幼児遊作の前日譚。
#了遊 #現代パラレル

 世の中に何の期待も持てなくなっていると気付いたのは、了見がある春の朝、歯を磨いている時であった。鏡のなかの自分は腑抜けた面をしていた。父の顔はしばらく見ていない。時折、深夜に帰ってきているようではある。いつだったかその様子を盗み見たことがあったが、自分の知る父親とはまるで違っていたのがいまだに背筋の凍る感覚を思い出させる。キッチンのシンクにひとり凭れ、蛇口からとめどなく流れる水を眺めていた男は、息子の気配に気付くことはなかった。父親を照らす青白い光に青年は死神の影を見た。そこまで父を追い詰める研究とは何だ? あなたは何をしている? 訊ねることは禁忌へ足を踏み入れることであると、了見は分かっていた。真に肉親を憂うならば彼はそこで父親に声を掛けるべきで、そうしていたならばもしかすると父親の精神は保たれたかもしれない。しかしできなかった。恐ろしかった。その後悔はのちに青年をじりじりと焼いた。
 咥内を踏み荒らす絶望は吐き出してもなお胃からせり上がってくる。何度口を漱いでも変わらない不快感に、十八になって青年は生まれて初めて裸足で外へ出た。アスファルトが踵に傷をつけようが、周囲の視線が彼に刺さろうが、一人だけの要塞から下る道は痛く、冷たく、心地よかった。
 
 死ぬ前に美しいものを見ておきたいと願うのが人間の本能であれば『設計に誤りあり』と仕様書に赤字で書き記してやる。死にたくなる前に見るよう変更しておけ。
 誰に対してか分からない怒りに似た感情を抱いて、了見は公園に居た。冷え切った足はだいぶ前から痛みを感じなくなっていた。その足がひたひたと、胡乱な者のように向かったのがどうしてこの公園であったのか、理由は明白だ。幼い頃に家族で来た最後の場所がここだった。それだけのことで、それだけのことが青年にとって最も新しい朗らかな記憶だった。向こうを見れば昔の自分のような子どもがそこかしこにいる。誰もが笑っていて、この世のどこにも苦しみなどないと言いたげに、素知らぬ顔をしていた。それが殊更青年を隅へと追いやる。青々とした芝生の上で、彼は異端者だった。
 芸術品も絵画も、頭上を彩る桜並木でさえ、いかに美しかろうとも観賞者にそう感じることができなければ価値はない。見上げた了見の視界は空よりも花弁が占めている。美しいものを見ようとしていた青年の本能が、しかし何も感じることはなかった。あるのは花が咲いているという認識だけだ。辞書に記載された例文のように事象を拾い上げたのみである。きっと十年前であれば笑えたのであろうな――思ってみても、十年前の一場面が『自分の記憶』とは思えないほど、今とかけ離れていた。
「お兄ちゃん、ひとり?」
 過去の自分と相対していたがために、降って湧いたような声には了見も驚きを隠せなかった。何せ背後から突然、ひっそりと、小声で話しかけられたので。肩越しに振り返ると子どもがしゃがみ込んでいた。膝を抱えてこぢんまりした様子はいっそ弱々しくも見えるが、爛々とした目がそれを否定する。
「ぼくずっとかくれてるの、ないしょだからね」
「……ああ」
 合点がいく。桜の根元に隠れる子どもは、自分が来る前からずっといたのだった。「まだ見つかってないからぼくの勝ち」誰と何の勝負をしているのか了見には分からない。
 青年が正面に向き直ることによって子どもとの会話は途切れた。静けさを取り戻した空間に、はらはら、はらはらと降り続ける花びらの、一見不規則なように見えてほぼ等速運動であるのが、くたびれた心のなかで唯一「見て良かった」と思えるものだった。
「ぼくひとりっこなんだ」
 まだいたのか。というよりも何故話しかけてくるのか分からない。了見は子どもが苦手だった。子どもは今の自分が持たないものをすべて持っていた。彼らは昔の自分のように、無遠慮で、純朴過ぎて同情すら抱きそうになる。
「お兄ちゃんはおとななの?」
「……大人……」
 青年の口から答えは出なかった。完全な大人でも、完全な子どもでもないからこそ彼はここにいるのだった。裸足の足は春の光に中てられても温度を取り戻せそうにない。身につけている黒いパンツが薄汚れていることに今更気付いて、どの道のりでここへ来たのだったろう? 思い出そうとしても覚えていない。だがもうあの家から抜け出して、狂った――そう形容せざるを得なかった――研究者の父親、その息子という皮を剥いで、一切の外面を捨て去りたかった。私が大人ならば割り切れたのだろうか? なら私は大人ではない、だが子どもでも。青年の精神を絞り上げるのは彼自身で、ゆえに止めることができない。
 呼吸することを終えたくない。何故? 自分でいたいのだ。求められたい。誰に? 誰かに。こんこんと湧き出る泉のごとく、絶え間なく肯定してくれ! 銀混じりの髪を、彼の細長い指が掻きむしる。誰もが役割を演じている世界で役割を捨てた人間は果たして存在できるのだろうか? あるいは別の何者かに成り代わることなど。渇望されたならどれだけ気が晴れるだろう――。
「ねえ、ぼくよりおとななら、ぼくのお兄ちゃんになってよ」
「う、」
 気付けば幼児がすぐそばにいた。水晶のきらめきが見えた。緑がかった子どもの目が、濁ることなく了見を見つめていた。汗が滲む。息苦しい。
「ぼくね」
「やめろ」
 子どもは苦手だ、まるで過去を見ているようで。
「いつもひとりだからさみしい」
 無遠慮で。
「お兄ちゃんになって」
 純朴過ぎる。畳む