から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

希求する
・「新世界より」後日譚。
#サイテリ #現代パラレル

 全体を統率するのは、あのカノンと同じコード進行。少し哀しみを帯びた美しい曲調は耳馴染みが良い。音階の渦の中へと放り込むように、聴く者の心を誘い出して、その身体から引っぺがす。魂が肉体の同居人であるならば、家のドアをこじ開けて、閉じこもっていた引きこもりを強制的に連れ出すようなものだろう。
 その中で、ある一つのキーワードがいっそう強く、私の中に跡を残す。歌詞としては存在しない、間奏部分のバックコーラス。彼自身が歌っているそれを、ひとつひとつ丁寧に、化石を掘り起こすように拾い集めれば、この世界では誰一人として知らぬ言語のある言葉に成り代わる。彼と私を除いて、誰も知らない。
『手紙が欲しい』
 古代ホルンブルグ語なんて、どうして知っていたんだろうか。
 驚きのあまり、記憶の蓋を開けそびれるところだった。遠い昔、あの世界の中で、私はかつてオルベリクと古代ホルンブルグ語の話をしたことがあったのだ。あれは確かダスクバロウで遺跡を見つけたあとのことだったか。今はもうない母国の、その古い言語について、オルベリクが興味を持った。
 言語の成り立ち、文法、単語。酒のつまみのような簡単なものではあったが、話が弾んだ。空気の澄んだ夜のこと。
 火の番をするテリオンの後ろ姿を覚えている。一言も発することはなかったが、確かに私達の輪の中に居た。オルベリクもそれを感じ取っていた。だから最後、彼に話しかけたのだ。
「ほう、古代ホルンブルグ語では『手紙』はそのように言うのだな――テリオン、レイヴァース家に手紙で近況報告でもしたらどうだ?」
「……何で俺が」
「きっと相手も喜ぶ。それに、相手を喜ばせるためだけに出しても、バチは当たらんだろう」
 オルベリクの言葉にも、彼は振り向かなかった。ただ、どう返すべきか迷ったのだろう、戸惑いと恥じらいを紛らわせるかのように薪をくべて、エールの瓶をあおった。火の粉が深い海のような天で泳いで、紅い星となるのを、私はじっと眺めていた。
 夜は長く、彼との時間は非常に短くて、神が私に与えたもうた時の尺度があっけなく狂っていく。いつだって止まることを知らず、気が付けば指の隙間から流れ落ちている運命が、この手に戻ることはなかった。
 今はどうだろう。私は。キミは。
 手紙を書くとして、さて何を書こうか? 普通に出したとしても恐らく届くまい。私はただの教師。テリオンは一流のシンガーソングライター。
「まるで雲の上の存在……高嶺の花だな」
 独り言の向こう側で、配信されたばかりの彼の曲がリピートされている。何度目かは数えていないが、朝から晩までずっと流しっぱなしであるから、もうすぐ記念すべき百回目かもしれない。スマートフォンの充電をすべきだろうか。
 一介のファンを装って手紙を出すか。いやいや、それならいつ相手に届くことか。せめて自分がもっと彼に近しい存在であれば、しかし有名人でもあるまいに――。
「……そうか、成程」
 戦いにおいては常に、相手と同じ土俵に立つ必要がある。虎穴に入らずんば虎子を得ず、とは何処の国の言葉だったかな。

   *   *   *

 レコーディングを終えた後、出迎えていたのはマネージャーのアーフェンだった。見知った顔が満足げに頷くのを横目で見やりながらボトルを手に取る。冷たい水が喉を通り過ぎていく感覚の、寒気を覚えるようなそれが、去年の自分の状況を思い起こさせた。
 少し前。自分は、病院のベッドの上で生死の境界線を行ったり来たりしていた。そう聞いた。新聞の隅で目にする事故欄のように、他人事にしか感じられないが、紛れもない事実。
 そのあたりの記憶はひどく曖昧だ。ずいぶん長く旅行をしていたような気もするし、そうでないような気もする。終わらない映画を観続けていたようにも思う。だが、ずっと隣に居た感触が、身体全体に残っていた。目が覚めた時、隣には誰もいなかったけれども、その正体が何なのか理解した。
 冬のプラットホームで見たあいつの驚く顔が、忘れられない。
「あの状態の後に作った曲がラブソングだなんて、しかもすれ違った末に離ればなれになる筋書きだなんて、一体どういう神経だよ」
 出来上がったばかりの曲を聴かせた時の、アーフェンの苦笑を思い出す。
 それから一年。いまだ求めるものは届かない。
 その間、物語の続きをせがむ子供みたいに、俺は溢れてくる音と言葉を貪ってひたすら曲をリリースし続けた。どれもこれも、あの事故のあとに書いた曲の派生もので、しまいにはアーフェンに「悲恋小説家にでもなったのか?」と呆れられたほどである。 
 だが現在、少なくとも腕を組んで笑みを浮かべている様子を見る限り、外れではなかったのだろう。今にも「これはまた売れるぞ」なんてどうでもいい言葉を口にしそうな。路上で歌っていた頃に戻りたいとは思わないが、金の算段に悩まないのも考えものだな、と思うばかりだ。
「だけどよ、バックコーラスも自分で歌うのは珍しいな。そもそもコーラスなんて、今まであんま入れなかったじゃねえか」
「……別に、気が向いただけだ」
「ふうん?」
 それきり興味がなくなったようで、アーフェンは向かいのベンチに腰を掛けてタブレット端末をいじくり始めた。次回のスケジュール調整に、雑誌へのコメント寄稿。宣伝への顔出しについて。「仕事なら何でもやる」と言うと「そういうところは助かるぜ」と同じく仕事人の面構えで応じた。
「そういえば珍しい仕事が来てたな」
「……珍しい仕事?」
「こないだベストセラーになった本の作家がサイン会をやるんだが、そのオープニングアクトだ。えーっと、サイラス・オルブライト? っていう新進気鋭の。ほらよ、ご丁寧にも本人から直々に依頼の手紙が、うわっ!」
「貸せ」
「何だよいきなり!」
 手紙。手紙。白いカードと美しい文字の羅列。オルベリクの声が蘇る。相手を喜ばせるためだけに出したって、そんなもの。こんなカード一枚で、俺は。
 紛れもなく望んでいた。求めていた。否定することはできない。
「この仕事、俺が直接返事をする。セッティングしろ」
「はあ? まあいいけどよ。知り合いか? あ、この作家のファンか?」
「黙って仕事をしろ」
 俺はあれから、物語の続きを聞きたくて、ずっと生きてきたのだ。畳む
お題『メール(手紙)のやりとりを楽しくしているサイテリ』
・「エーテルの青年」番外編2。
#サイテリ #現代パラレル

‪‪『もう二度と送ってくるな』‬
 そのダイレクトメッセージが届いた時、私の中でかの『威風堂々』が響き渡り、次に走り出さんほどの歓喜が大波となって私を飲み込んだことを、この世の言葉でどのように表現すればよいだろう。いや、どんな言葉をもってしても言い表せない。それほど青天の霹靂であったから、乗っていた電車の座席から突然立ち上がり周囲を驚かせたのも仕方があるまい。
 我々人間は日々言語を操っているのに、感情を代弁するに足りぬ日が来るとは!
 進行方向に重心が掛かり、身体が斜めになったところで再び座席に座り直し(何事もなかったように振る舞ったが効果は薄いだろう)もう一度手の中の端末を確認した。この数ヶ月間、何度も何度もメッセージを送り続けたあの青年からの返信が、一通だけ、ぽつねんと、確かに表示されていた。過去に送ったメッセージが既読になっていることは確認していたが、先方から反応があったのはこれが初めてだ。比率でいうと百分の一となる。私は百の懇願の上に、ようやく一の真実を得たのである。
 二度と送ってくるな、と命令口調で彼は仰るが、承服しかねるその故を、私の内情を知る者は理解してくれるであろう。内情を知る者とは、つまり万物を創造せし神である。生者にはもはや私の心は理解できまい、死者の心を理解できないように。
 私は彼に何も送らないという選択肢を有しない。不可能なのだ。それは彼へ到達する道を自ら閉ざすということであるから。いま彼は何処で何をしているのであろう? この国にいるのであれば、私は彼と同じ空気を肺に取り込んでいることになるのだろうか? であれば、私の好みでない排気ガス混じる都会の空気でさえ愛しく思えるのだから、人間の価値観とはあまりに身勝手なものだ。
 匂い。私は古びた本の匂いのほうが好きだ。だからいつか、私の好きなあの匂いを――僅かに黴の混じった、私の郷愁を駆り立てる匂いを、彼と共に愉しみたい。人目を避け、物陰に隠れてひっそりと煙草に火をつける少年のような、何か後ろめたい、けれども自分だけしか知らない瞬間を共有するような心躍る時を彼と過ごすのが、私の願望である。
 だから今日も彼へ送ろう。どうかこれ以上私の前を行かないで、私がその隣へ追いつくまで待っていてくれるように、祈りを込めて文字を打ち込もう。
 エーテルの君よ。私はいま車窓の向こう側に消えていく景色を眺めているよ。ビルの連なりばかりで味気ないが、この中にキミも見た風景があるのだろうか?
 拝啓。
『キミはいま何処にいる?』
 敬具。畳む
SNSにご用心
・「エーテルの青年」番外編。
#サイテリ #現代パラレル

「なんて顔をしている」
 この世のまずい料理を一気に口にしたら、きっと今のテリオンのようになるのだろうな。操作していた手を止めて、オルベリクは自分のスマートフォンから向かいの青年へ視線を移した。
 相手から無言で渡されたのは、同じ型のスマートフォン。画面をタップすれば、彼のSNSのメッセージ画面が表示されている。
「……偽装アカウント、覚えてるだろ」
 声に疲労感が滲み出ている。絞ればどす黒い液体が出てきそうな、重い声である。
「ああ。アーフェンが毎回付き合わされている、あれだろう」
 オルベリクも何度か見たことがあった。盗人稼業を隠すための、つまりアリバイ工作のためのSNSアカウントのことだ。そこに映し出されているのは、あたかも日常を楽しんでいるひとりの若者の姿。正反対のテリオン。口元を緩めた写真は、一見すると何ら不思議なところなどない。だがオルベリクのように、テリオンを知る者が目にすれば、悪寒が走るかもしれない。常日頃の青年と似ても似つかぬ姿に。
 自らがそのアカウントの投稿内容へ登場することはなかったが、毎回『付き合わされている』青年についてはよく知っている。オルベリクは頭の中の記憶領域をサーチした。危険な仕事を請け負うテリオンの、いわゆる闇医者を担当している、気の良い男だ。
「で? なんだこの山のメッセージは。何か関係があるのか?」
「……読んでみろ」
「良いのか?」
 ため息とともに「ああ」と答え、テリオンは天を仰いでソファに身を預けた。「疲れた、寝る……」言い残して目を閉じる。スマートフォンはもう午前三時を示していて、二人が次のターゲットにまつわる作業を始めてから、とうに半日以上は過ぎていた。どうりで目が痛いはずだ――目頭を揉み解してから、その手で件の画面を確認する。
 映り出されたのは、同一アカウントからの、おびただしい(と言うのが適切だとオルベリクは感じた)数のメッセージ。スクロールし続けてようやくたどり着いた最新のものには、
『よく一緒に写っている短髪の青年のアカウントを探しているんだが見つからなくてね。彼は友人かい?』
 とあった。
 アーフェンのことだな。すぐに理解した。笑顔の似合う青年を思い出しながら、不可思議なメッセージの送り主を画面に表示する。
「……大学准教授?」
 果たしてそんな知り合いがテリオンにいただろうか? 思案するが、思い当たらない。当の本人は寝てしまったために、少々のためらいがあったが、オルベリクは引き続き端末を拝借することにした。先月のうちに、テリオンからSNSの操作方法を教えてもらっておいて、ある意味良かったかもしれない。
 送り主の投稿内容を確認してみると、至って普通の、ありきたりな、日常の数々が書き込まれていた。学生だろうか、オルベリクの前で眠る青年と同じくらいの若者たちが写っている画像もある。
 ふむ、と顎に手を添える。
 普通の人物のようだが、生憎、我々には『普通』の知り合いがいない。
 オルベリクの指が、もう一度メッセージ欄へと移る。過去へ遡ってみよう。
 先週。
『この前あげられていた写真は隣町の駅前にある古い喫茶店だったね。キミはカフェが好きなのかい? あの日カフェにいたのはそのせいかい? では今度一緒にどうかな?』
 半月前。
『あの青年は誰なのか、キミとどういう関係なのか、考えるだけで眠れなくて最近不眠気味だよ。頼むから教えて欲しい。』
 先月。
『なぜ返信をくれないんだい。何かしたかな。』
 ――これ以上は止したほうがいい。本能が「危険だ」とささやいている。
 果たしてこの人物がテリオンとどういう関係かは不明だが、ひとまず我々を陥れようとする人物ではなさそうだ……ふう、と息を吐いて、スマートフォンを机に置いた。
 今度詳しく聞いてみるか。今はまず、エアハルトの起訴時の状況について調べを進めなければ。

 明朝。オルベリクの部屋にチャイムが鳴り響く。間延びした音は、マンションにアーフェンが到着したことを知らせていた。
 オートロックを開錠して到着を待っていると、いまだ眠り続けるテリオンの頭がもぞりと動いた。オルベリク自身は眠らず――それは彼自身の体力の賜物であるが――日の出を迎えたので、このまま朝食でも用意するか、と大きな伸びをした。力を抜くと、全身の筋肉が弛緩して少しばかり身体が軽くなった気がした。
 そのうちに部屋の扉が開く音がして、まもなく「よー」と、大きくも小さくもない声がする。
「おお旦那」
「早いな。今日は何をするんだ」
「偽装工作」
 やってきた青年は、意地の悪そうな笑みを浮かべてから、右手に持つ袋を床に下ろした。がちゃがちゃと、金属のぶつかる音にオルベリクが訝しげに覗くと、袋の中には金網やらトングやら、はたまた木炭まで入っている。
「一体何をするんだ……?」
「夏らしいことだぜ。海辺でバーベキュー」
「また、テリオンには似合わないことをする」
「右に同じ」
 いまだ眠る青年をよそに、二人は苦笑した。
 そこら辺に居そうな、毎日を謳歌する一般人。それを装うための作業に毎度付き合うアーフェンも、利害の一致とはいえ、よくやるものだと感心する。
「でさあ、これ買いに行ってた時によ、ダチに『SNSやってないのか』って言われたもんで、俺も作ろうかと思ってんだけどよ」
 アーフェンの言葉に、オルベリクは固まった。数時間前に見た、あの長々とした文字の羅列が浮かぶ。言葉の端々から滲み出る妄執が、アーフェンを襲う気がしてならない。
 ならば言うべきことはただ一つ。
「やめておけ」畳む
色のない狐
・サイラスの助手をする元罪人のテリオン。
・テリオンを放っておけないオルベリクとオフィーリア 。
・アトラスダムでの日々と食事と、人の可能性について。
#サイテリ #IF

 書類を手渡した時の固まった顔を見て、嘘だろうと思った。この学院の女どもが、この男にきゃあきゃあ喚いているのが。挙げ句の果て、しばし宙を見つめて「ええと、すまないが、もう一度お願いできるかい?」とのたまったので、話すことはこれだから面倒だと思った。
「……だから、寮の手続きの書類だ。サイラス兄さん」
「それ、それだよ!」
「……なんだ」
「兄さんとは?」
「……オルベリクから、そう呼ぶように言われている」
 俺の言葉に男は豆鉄砲でも食らったような様子で、一呼吸の間、口を中途半端に開けた呆け面でいた。それから少し頭を振って黒髪を揺らし、ふーっと長い息を吐いて、口を開く。
「待ってくれ、どういう意味だ?」
「……俺はオルベリクから、あんたの遠縁のやつとして扱われると聞いているんだが」
「……」
 初耳か、オルベリクの奴め。
 思わず舌打ちした。昼下がりの研究室に拡散した不穏な音は、生憎、この空気をかき消してくれることはなかった。
 誰からだったか、舌打ちするのは悪い癖だと言われた記憶があるが、人間二十を過ぎれば癖は習慣となり、薄い衣のように引っ付いて離れてくれない。もっとも、自分は悪い癖だと思ったことはなかった。

 少しの間、アトラスダムにある王立学院で助手として働いてこい。
 牢から出た矢先に言われた言葉は、俺を閉口させるに十二分だった。そもそも何故、俺を真っ先に出迎えたのがあの男――オルベリクであったのか、いまいち理解できないでいる。旅の途中で出会ったよしみか、流れ者の剣士は何かと俺の世話を焼く。観察してみれば俺だけではなく、奴が居を構える小さな村でも何かと忙しなくしていた。数年前の記憶ではあるが、恐らく今も変わらないでいるのだろう。
「じゃあな。確かに渡したぞ」
「あ、テリオン君、ちょっと!」
 『兄』に書類を押し付けて、俺は扉を思い切り閉めた。向こう側で何か聞こえた気がするが、気がしただけだ。閉じた勢いで、扉の『サイラス・オルブライト』という木札が左右に揺れるのを横目に、廊下を進む。時々寄せらせる不躾な視線も、薄っぺらい笑顔を貼り付けて応じれば、名も知らない学院の生徒達の警戒心はあっという間に解ける。
 ――こんな平和ぼけした様子で、こいつらは将来使い物になるのか?
 勉学に無縁であった俺にとって、ここは何とも居心地の悪い場所だ。
 学院を出てそのままアトラスダムの中央通りをしばらく歩く。途中の角を曲がれば、喧噪から離れたところに少し古びた建物がある。地方から出てきた人間向けの学生寮だ。その一角に、俺の仮住まいは用意されていた。
 学院での居心地の悪さを除けば、暫くは住処の心配をしなくてもよい。僅かながら金も手に入る。次の獲物、盗みの対象を探すにも、まあこの程度なら隠れ蓑によいかと思って、刑期を終えたばかりの俺はオルベリクの話を受けることにした。しかし、その対象が目立つ学者の、とは知らなかったが。
 学院に籍を置くには保証人が必要とのことで(大層なことだ)、それで急ごしらえの兄ができたわけであるが、オルベリクの昔馴染みだというあのサイラスという男は、有能らしく齢三十にしてなかなか良い立場にあるとのこと。俺とは似ても似つかない、髪の色など正反対。おまけに、誰からも声を掛けられない俺とは違い、男女問わずあいつに話しかけようと躍起になっている。
 この差があるにもかかわらず、オルベリクがなおもサイラスに協力を仰いだのは、奴の遠縁の者という情報付きで雇われるのであれば周りもすんなりと受け入れてくれるであろう――との目論見ゆえであった。あとは俺の、学者風の演技で見た目を飾り付ければよろしかろう。
 寮に足を踏み入れる。個室がいくつかあるが、俺の部屋は一階にあった。便利でよいことだ。
 建物内の日当たりは良いわけでもないが、悪いわけでもない。太陽が顔を出している時間が短くなったとはいえ、昼間は明かりが不要なくらいには日が入る。食事は各々好きにすればよいとのことで食堂はなく、小ぢんまりしている。必要十分な敷地には少し好感が持てた。
 自室の鍵を開けて入れば、扉の軋む音の向こう側に、机と棚、ベッドがひとつ。大人が三人くらい入れば狭苦しくなるような、しかし一人にあてがわれるには不満のない広さ。片付けられてそう時間も経っていないであろう部屋には、背負い鞄が床に置かれたままで、そういえば昨日の夜にやってきてからほったらかしだったと思い出す。とは言うものの、元罪人、盗賊を生業とする俺には荷物という荷物はほとんどない。
 内側から鍵をかけ、ベッドに腰掛けた。鞄は見ないふりをして横になる。学者のローブというのは少し重く、身軽さに欠けるので(だが丈夫そうではある)、この服の世話になることを考えると憂鬱になった。まだ日は高く眠るには早いが、その憂鬱さが俺の瞼を閉じさせていく。『兄』のことは頭から消えていた。



 授業を受けることが俺の仕事ではない。あくまで俺はサイラスの小間使いで、学生とは少し立場が違う。そのため、かかわる人間はごく限られている。
「おはようございます、テリオンさん」
 寮を出て一歩、後ろから声をかけてきたのは、その限られたうちの一人だった。本を抱きかかえた、同じ寮生のオフィーリア。二つ年下の、確か神官の女。神官のくせに、着ているのは俺と同じ黒いローブ。対照的な色彩をまとうことに違和感を抱かなかったのか。光に揺れる、結われた金髪が黒い服と比べて目立っていたから、ほんの少しそんなことを思った。
 ああ、とだけ答えて正面に向き直り、裏通りを進む。昨日よりも少し冷える朝だ。寮の前の通りは、石畳が霧を吹き付けられたように濡れていた。こんな様子では、季節が進み真冬になれば、路面は凍結するだろう。過去、滑って尻もちをつく学生が居たに違いない。
「朝食は食べました?」
 後ろから高い声が投げかけられ、背中に当たって落ちた。「……なんでそんなことを訊く」「わたしもまだなんです」だから何なんだ。
 こいつは会うたび楽しげだ。そんなにも朗らかにいる理由が分からない。この女を含め、世の中は理解できない奴らが多くて、とにかく相手をするのに骨が折れる。水と油、というより、歯車が食い違っているような感覚がする。
「一緒にいかがですか? その角を曲がった先の喫茶店、行ってみたいんです」
「俺が承るとでも思っているのか?」
「はい」
「……馬鹿なことを言うのも大概にしたほうがいい」
「えっ? 学友と一緒にごはんを食べたいのは、そんなに馬鹿な考えなのですか……?」
 俺はいつからあんたの学友になったんだ、そもそも学生じゃない。呆れて、そう言ってやろうと思って、俺はようやく振り返った。すると神官の女は、平然とした面持ちで立っている。その顔は、なんというか、何も変わったことを言った覚えはないと書いてあるような。たとえるならば、「呼吸とは?」と問われたら、「空気を吸って吐くこと」と答えるのは何ら妙ではない。それくらい、何かおかしいことを言いましたか? と俺を覗き込む。
 これは駄目だ。言葉が通じん。歯車がぎちぎち音を立てている。
「……わかった、わかった」
「ありがとうございます! おなかが減って、このままでは講義で寝てしまいそうだったんです。助かりました」
 寝て何か問題があるのか、とは言わなかった。口から発するものすべてが、意味をなさないような気がした。
 この女、オフィーリアの前で『学者風の自分』をしていないのには理由がある。
 編入試験で一緒になったオフィーリアとは、試験前に一度、街で鉢合わせたのだ――入学するわけでもないのに何故試験を受けねばならなかったのか、雇い入れ時の手続きに疑問を抱いたが、最低限の知識がなければ職員も務まらないというもっともらしい理由を述べられては受けざるを得なかった。
 オフィーリアと会った時、自分は単なる一人の人間で、つまり牢屋から出て間もないただの男。対してこいつは、アトラスダムで迷子の相手をしている途中、俺に助けを求めてきた神官。
 何故、見知らぬ土地で迷子の相手をしたのか。自殺行為にも程がある。
 俺にとっては、アトラスダムは詳しくないが、何も知らない土地でもなかった(過去、盗みを働いた経験によって)ので、二言三言、道案内のための言葉を交わした。だけで終わるはずが、その後、試験会場で会うことになろうとは。分かっていれば助け船など出さなかったのだが、時すでに遅し。
 結局、今更何を取り繕ったところで意味もない。よって、何もしないことにした。そんなことは知ってか知らずか、この女は会うたびに話しかけてくる。その数も、今日で両手を超えたところだ。

 神官なのにどうして王立学院へ来たのか、俺には全く関係なく興味もなかったが、オフィーリアという女は訊かずともすらすら話し始める。
「聖火教会へいらっしゃる方々と話をしているうちに、自分には知識が足りないと感じたんです」
 ふうふう、ホットミルクのマグカップに息を吹きかけてから、一口飲んだ。「蜂蜜が入っています、甘いです」美味そうに言うが、別に俺は欲しくない。
 早朝からテーブルを挟んで、学者の男女が二人、仲睦まじく朝食を食べている――傍から見ればそう映っているのだろうか。であれば残念なことだが、俺たちは知り合って日が浅い、ただの顔見知りだ。
「もっと色々知りたいと思いまして。せっかく教会へご相談に来ていただいても、ちゃんとお答えできないのは申し訳ありませんから」
 勝手に申し訳ないと思っていればよいものを。
 女の手はマグカップを置いて、次はパンを選択する。マグカップの中身を吸い込ませたような、白いパンだった。小さなボールのようにその手におさまる。女は行儀良く半分にちぎり、もふ、と口へ運んだ。
 大昔のことだ。パンという食べ物が小麦粉からできていると知った時、粉から何故こんなものが出来上がるのか、訝しく思った。いつの記憶か分からないほど、昔のこと。そもそも、子供だったのかそうでなかったのかあやふやだ。いつからが子供で、いつからが子供でないのか、自分の過去にとっては曖昧すぎた。
 女は柔らかい塊をもふもふ食す。こちらはさっさと食べ終わったので、ただその様子を見せられているだけである。こんな時間も、食べる気のなかった朝食も、すべては不可抗力の結果生み出された余分な時間。
 たまたま、今日がそうだっただけだ。
 足を組んだまま、行儀悪くコーヒーを含んだ。年季の入った椅子が少し鳴いた。コーヒーは不味くない。だが特別美味いわけでもない。どこまでいってもコーヒーに変わりなくて、黒く、苦く、そして朝にはお似合いの味をしている。
 ローブの無駄に長い裾だけが邪魔で、学者の奴らはよくこんなものを着て歩いていられるものだと感心した。
「美味しいですね」
 オフィーリアの満足げな声。どうしてそんなに四六時中ご機嫌がよろしいのか疑問だ。ホットミルクがそんなに美味かったのだろうか。
 遂に俺の口からは、耐えることなく、こらえることなく、仰々しく溜息が溢れ出た。「どうでもいいが、俺はもう行くぞ」「え、もうそんな時間ですか!」壁の時計を見ろ、時計を。
「あんたがホットミルクを飲み終えるまでは、猶予があるだろうよ」
 本当のことだ。講義が始まるまでは、まだ時間がある。しかしこっちは、その時間に合わせていては仕事に遅れる。仕事に遅れればその分、あの話の長そうな仮の兄上殿が根掘り葉掘り聞いてきそうで、想像するだけで嫌気がさした。
 残りのコーヒーを飲み干して、席を立つ。店主にリーフを渡して、扉をくぐった。半刻前よりは日の当たる領域が増えている。
 ――オルベリクの考えが分からない。何が面白くて、俺をあの学者の助手に推挙したのか。
 オルベリクを恨むわけではない、この話を受けると決めたのは自分であるから。しかし、意図が読めなかった。
「あのっテリオンさん! お食事代、ありがとうございます! 今度返しますから!」
 小走りで駆け寄ってくる足音に調子は合わせず、大通りを進む。神官、兼学者見習い様の声は意外とでかく、朝もやと同化してぼわりと反響した。もう少し静かにできないのか、と振り返らずに思う。
 濡れていた石畳はほとんど乾いていた。少しだけ、朝日にきらめきを残しながら。



「早いね、予定の十分前に到着だ」
 俺の顔と卓上時計の針を交互に見て、男は笑顔で頷いた。束ねられた黒髪が馬の尾のように揺れる。数歩先の白い光の中に、細長くて黒い影。この時間、東向きの部屋は明るすぎて眩しい。寮を見習ってもらいたいくらいだった。
「……今日の仕事は? サイラス兄さん」
「うん、慣れないねえ、その呼び方は」
「慣れてもらわないとこっちが困る」
「私もだ。是非、キミにも私に慣れてもらいたいと思っているよ」
 サイラス・オルブライトの研究室に入れば、様々な本、様々な物がそこらじゅうに溢れかえり、もしやこの部屋の掃除をするのが俺の仕事ではないだろうな、と疑った。昨日ここへ訪れた時、ふと目にした本の上には、既に新たな本が積まれている。同じ光景が部屋の四方八方で見られた。気付かないほうが良かったかもしれない。職業柄、物の配置を記憶する習慣があるが、それが嫌な方向へと発揮されたわけである。
「そういえば昨日、生徒から言われたよ。『あの新しい助手の方は、さすが遠縁だけあって礼儀正しい』とね」
 聞こえていないふりをする。代わりに、着崩れてもいないローブを直した。
「テリオン君。私はね、疑問なんだ。どうして他人の前で、わざわざ優等生を演じているんだい?」
「……関係ない」
「おや、私の遠縁の子は優等生ではなかったかな」
 どうやら俺の予想よりも、サイラスという人間は、順応性が高いようだった。
「私やオルベリク、オフィーリア君の前では、キミはそんな風でいるじゃないか」
「……あんたの助手になると知っていれば、もう少しましな態度でいたさ」
「助手という仕事は、オルベリクから聞いていたんだろう?」
「『あんた』の、とは聞いていない」
 有名な男の助手と聞いていればやめただろう。なにせ人目につくからだ。俺がどうやって稼いできたか知っている剣士のこと、まさかこんな男の助手の仕事を紹介するとは思わなかった。
 そこでふと思い至る――俺は、あの剣士を、内心どこかで信用していたのだろうか? と。まさか。しばらく道連れに旅した、ただ利害が一致しただけの相手に?
「処世術と言えば納得か? 『兄さん』よ」
 顔を覗かせた可能性を振り払うように、右側に積まれた本の頂上から一冊手に取った。少し厚みのある革張りの本の表紙には、『フラットランド地方の地形変動と他国との関係について』という、生きる上でまったく役に立たなさそうな文言が書かれていた。それをそのまま、円盤よろしくサイラスへと放り投げる。
「おっ、と」
 落とさなかったのは意外だった。学者先生らは皆、反射神経が欠けていると思っていたので。
「次の講義で使うんだろう」
「よく分かったね! 言っていなかったのに」
「……たまたまだ」
 本当にそうだった。今朝オフィーリアの手にこの本があって、オフィーリアは朝一の講義に出る様子で、サイラスの視線がこの本に注がれていた。それらから推測しただけ。
「ありがとう。では講義へ行ってくるよ」
「おい、仕事を寄越せ」
「あ、そうだったね。すまない、あまり助手を雇ったことがないものでね……正直思い付かないんだが……そうだねえ」
 そこで奴の目が、部屋を見回していることに気付く。
「今は講義中に手伝ってもらうことがなくてね。すまないが、そこらへんの本を本棚へしまっておいてくれないか?」
 嫌な予感というのは当たるものだ。これまでもそうだった。

 兄上殿が講義に行っている間、部屋には誰も来なかった。恐らくはこの時間、この部屋にサイラスが居ないことを知っているのだろう。昨日書類を持ってきた時には、先に数人の生徒――女ばかりでうるさかったこと――が先客として居たからだ。
 馴染みのない部屋で、本の片付けを進める。入り口正面には窓。向かって左右に本棚。時々、生徒の声が聞こえてくる。二階ということもあって、窓の向こうを誰かが行き交うこともなく、そういう点は都合が良かった。あの男の生徒なら、窓から覗き込むことくらいやりかねない気がした。
 いくつか手に取って分かったが、この部屋には多種多様な本がある。中には古代文字に関するものもあった。既に滅んだ文明の、今や使われることのない文字を誰が好き好んで学ぶと思っていたが、最低でも一人は存在することがこれで証明されたわけである。
 ここに通う学生らは、何らかの目的があって学んでいるのだろう。サイラスは目的があって教職に就き、何かを研究しているらしいし、オフィーリアも「知りたい」という目的を持っていた。
 俺が文字を読めるようになったのはどうしてだったか。
 古い記憶が、うっすらと、今朝がた石畳を覆っていた朝霧のように浮かぶ。俺が文字を読めるようになったのは、ひっ迫した生活の中でそれが必要であったからに過ぎない。高尚な目的など無い。ましてや教育という存在を知る機会さえも。
 何かを求めて進むのか、何かに追われて進むのか。どちらを選択したか異なるだけで、その先の道はこんなにも違う。差がある。
 哀しいだとか虚しいわけでもない。ただ、かき消すことのできない過去と現実が、俺の前後に立ちはだかっている。それが僅かな胸苦しさをもたらして、呼吸が薄くなった。手が止まった。
 つまらない演技の余白。朝飲んだコーヒーの黒い淵。完全なる上の空。
 朝霧の中から手招きするおぼろげな何かが、視界を覆っていく。だから、散漫していたのだ。自分の周りへの意識が。こんなに近い気配に、普段なら気付かないわけがないだろうに。
「どうかしたのかい?」
 左後ろ、肩のすぐ近くから聞こえた声に、手元の本が落ちた。その角が足の甲に攻撃を与えて、ぐっ、と唸り声をあげそうになるのを何とかこらえる。
「おや! 大丈夫かい……うん、痛そうだね」
「……放っておけ」
 情けない。見られたくない。鬱陶しい。一度に訪れた三重苦によって、先ほど感じた俺を取り囲むものは、すっかり何処かへ追いやられてしまっていた。
 良かった。
 何が? ――分からない。だが、あの薄暗い靄のような得体の知れないものが、固体と化して見えるようになる前に消えたことは、俺の呼吸を保つには必要なことであったとみえる。普段と変わらない息が戻って、すべてが正常値になった。
「しかし、こんなにも片付けてもらえるとは嬉しいよ。綺麗にしてくれてありがとう」
 サイラスの感想には応じず、「おい、講義は」と問う。すると「おや」と少しの驚きをもって、男は指で自席のほうを示した。
「第一講義ならもう終わったよ。一度も時計を見なかったのかい? ほら」
 そこで初めて卓上時計を見た。本が退けられてまことの姿を現した時計は、もう講義が終わって少し経ったことを示しており、何故気付かなかった! と文句を言ってきそうな雰囲気さえ醸し出している。仕方がないだろう、俺は忙しかったのだ。
「なら次の仕事を寄越してくれ、兄さん」
「うん、そうなのだけれど……準備が必要で、明日にならないと出来ない仕事しかなくてね」
「それなら、今日の俺の役目は終わりってことだな。寮へ戻る」
「あ、待ちなさい。そうではないよ」
「何があるというんだ」
「まずは、一緒に昼食でもいかがかな? 昼までそれほど時間がないし、ここに居なさい」

 かつかつとブーツを鳴らす男には、ついていっても良いことはないものだ。
 王立学院から出てすぐ、大通りの目立つところで店を構える料理屋へ案内された時、その洒落た雰囲気に気後れしそうになったのは言わないでおく。だが、こういう店へ足を運んだ経験が少ないからであって、入ってしまえばただの店。そう言い聞かせる。
「今までどんなものに扮してみたんだい?」
「……人の話が好きだな、サイラス兄さんは」
「私は学者以外に経験がないから、聞かせてもらえると擬似体験のようで楽しいんだ」
 昼休憩中の、しかも店内であれば遭遇確率は低いかもしれないが、近くを生徒が通る可能性があるために、こんな場所でもサイラスに対して例の役割を演じ続ける必要があった。苦ではない、こういうものは慣れと割り切りがすべてである。つまり、こんな店で飯を食うことも、慣れて割り切ってしまえばどうってことはないはずなのだ。
 千切られた葉物の上で、艶々と光るトマト。四つ切にされたその身へ、フォークを一刺しした。悲鳴を上げられる前に口へ放り込む。この街のことはよく知らない、しかし料理の質が良いだろうことは理解した。舌の上ですっと溶けたトマトの残り香。青臭さが全く感じられない。さすが王都だけあって、質の良い素材が集まってくるものとみえる。サラダとパスタが置かれた角テーブルの上は、男二人で向き合うには少々派手に思うが、それは追い払って食事へと意識を傾ける。
「オルベリクから、少し話を聞いたよ。コブルストンの近くで、旅の途中のキミに出会ったと言っていた」
 トマトの次はパスタ。フォークへ巻き付けて一口。適度な弾力の麺がソースと絡んで、香味野菜とともに胃へと落ちていく。ハーブだろうか、少し苦さを帯びた酸味がした。飲み込んだ時を見計らって、サイラスは話を続けた。
「その時、キミは剣士の恰好をしていたらしいね。だから剣士は経験済みなんだろう? 他には?」
「……色々だ」
「不都合でなければ教えてくれないかな」
 サイラスの皿は、既に半分以上が空白だった。袖元から覗く真白なシャツのせいか、残りの麺をフォークに巻き付ける仕草の中に、育ちの良さが見え隠れして、何故俺はこいつと飯を食っているのだろうと今更ながら考えた。オルベリクとも飯を食う時はあったが、ここまでではなく、互いに似たり寄ったりの作法だったと思う。
 そういえば、剣士という職業は。
 リプルタイドへ向かう前、コブルストンという小さな村の近く。魔物相手の太刀筋が、あまりに粗雑極まりなかったのだろう(見られていないと油断していた)、村へ戻る途中のオルベリクにまがい物だと見抜かれたことが、俺とあいつの始まりだったのだ。
 見ず知らずの俺に「教える」と言うなんて、しかも「報酬は不要だ」と言うから酔狂にも程があるが、習得して損はないために仕込んでもらうことにした。正しい(と一応述べておく)剣士の技はそこで得た。俺がコブルストンに――同じ場所に暫く滞在したのは、あれが初めてだった気がする。だがその後、芸を披露する前に牢屋行きとなったわけで、いまだ剣技は日の目を見ていない。
 剣舞よろしくフォークを回転させて、最後のトマトへ突き刺す。無駄に会話が続くせいで食事のほうはあまり進んでいなかった。トマトとともに葉物も串刺しにして食す。異なる歯ごたえを楽しむことなく飲み込み、皿へ視線を落とした。まだ食べ終わらない野菜と麺が、早くしろ、早くしろ、と訴えかけてくるようで、それを退けるべく口を開く。
「……商人、薬師、踊子」
 商人は貴族の屋敷へ忍び込むために。薬師は村人を油断させるために。踊子はその日の金を手っ取り早く稼ぐために。
 すべて、装った目的は職業とは何ら無関係。剣士と違い、技は盗み見て覚えたもの。真似事はできても本物には追いつけぬ程度の技量であるから、いつまで通用するか。何処まで追求すればいいのか。深度が中途半端な潜水のように、深い場所へ辿り着かないまま、浮いたり沈んだりしているようだ。
 時折、自分が何者になりたいのか、何者であるべきなのか。日がふっと陰るかのごとく、思考が混濁することがある。余計なことを考えてしまうのは、それこそ『悪い癖』だろうに。
「そうなんだね。では、学者は初めてか」
「……だったら何だ」
「うん? 嬉しいな、と思って」
「……嬉しいだと?」
「キミが学者という、新しい経験を積むわけだから。経験は、知識では到底補えない。助手とはいえ学者の端くれだ、是非色んな経験を積んでほしいと思うよ。私も出来る限り協力させてもらいたい」
 ふざけた言葉に顔を上げると、サイラスは目を細めて指を組んでいた。その上に顎を置き、この上ない楽しみを噛みしめるように、うんうん頷いている。その口の中には料理の後味しかないはずなのに、とても甘い、美味い菓子でも食べたのかと思うほどの表情。
「……幸せ者だな」
 呟きは店のざわめきに紛れ込ませた。幸せ者だ。無論、この男が。他人の話でそこまで飛躍できるとは。望んで学者の経験を積みたいわけではないし、あんたに協力を仰いだ覚えもないんだが。
 残りのパスタをフォークで乱雑にひっくるめ、口へ押し込む。悔しいことに味だけは変わらず美味かった。こいつの、店を選ぶ感覚だけは認めてやる。
 内心そう褒めた時、サイラスが「明日からもお願いしたいんだ」と言ってきたので、はて何のことかと手が止まった。
「昼になると、何故か生徒がよくやってきてね。講義の内容に興味を持ってくれてとても嬉しいのだけれども、食事ができず午後の講義へ向かうのは少々辛いときがあるんだ」
 何故か、って何故か分からないのか。あんたとお喋りしたいからだろう。
「……腹が減って集中できないから飯が食いたい。そうはっきり言えばいい」
「キミは率直に言う性格なんだね。けれども、折角足を運んでくれる生徒達を邪険には扱えないだろう?」
「なら食わずにいるんだな、優しいサイラスお兄さん」
「なんだか刺々しいね……? だからテリオン君、キミに昼食の相手をお願いしたいんだ」
 昼飯一回、安くても約五百リーフ。この食事ならば約千リーフ。助手の月給は高くない。塵も積もれば何とやら。
 頭の中で瞬時に計算された当面の食費が、悪い条件ではあるまい? と告げてきて、「仕事の一環なら受けてやる」と答える以外は良い方法が浮かばなかったのだ。



「それで、サイラスさんとお食事をされていたんですね。あのお店にお二人でいるのをお見かけした時は、少し驚きました」
「……望んだわけじゃない。あんたとの『これ』もそうだ」
「でもこうして、朝食にまたご一緒していただけるのは……わたしは、とても嬉しいです」
 どいつもこいつも、おめでたいやつ。持ち上げたコーヒーカップ、その表面に陽の光が映り込み、波紋ができて揺らめいた。
 初勤務から数日後、再びオフィーリアに捕まった。そうして今、またしても同じ店で朝食に付き合わされ、食いたいわけでもないパンとコーヒー、そしてホットミルクを前にしている。この前のサイラスとの一件を見ていたらしい、「どうしたんですか?」と訊ねられた。どうもこうも、と返しても良かったが、知りたいと顔に書かれているのを見れば、言ったところで何にもならないし何度も聞かれるのも手間なことを、あえて伏せておく必要はないかと思った。
 他人と食事をするのが続くのはいつ以来か。しかも、残飯でもくすねたものでもない、まともな食事が。
「近頃のサイラスさん、午後の講義が大変ご機嫌が良いようで。生徒さん達がそう話していました」
 パンを食べて、オフィーリアが言う。サイラスの機嫌が良い理由は知らんが、あらかた腹が膨れて満足だからではなかろうか。
 ところで、こいつはサイラスのことを「サイラスさん」と呼ぶ。というのは、旧知の仲である共通の知り合いがいて、サイラスとは以前から顔見知りだったらしい。サイラスの方も「先生」と呼ばれるのは慣れないとのことで、これまでどおり「サイラスさん」と呼んでいる――と、オフィーリア自身がついさっき説明した。
「昨日、講義に一緒に出られていましたよね。サイラスさんのお手伝いをされに」
 気付いたのは少し意外だった。その時の俺はローブのフードを深めに被っており、視界は足元近くに限定されていた。向かい合う相手の表情を確認することは難しい状態であったのだが、オフィーリアの言葉どおりに受け取れば「すぐに分かった」という。
 手伝いといっても、実験器具の持ち運びや準備をした程度で、生徒とは会話すらしていない。昨日はある鉱石に火と水の魔法を交互にかけるとどうなるか、その変化を観察するという講義で、器具を並べる俺の手元をまじまじ覗き込む視線に辟易したものだ。誰の視線かと思えばサイラスのもので、生徒ではなく何故あんたがじろじろ見ている、そんなに危なっかしい手つきだったか、と口を開きそうになったところを耐えた。あれは忍耐力を鍛える講義だったか。
「テリオンさんの雰囲気が出ていましたから、分かったんですよ」
 柔和な笑みをたたえて、オフィーリアはマグカップに口付けた。
 もし「どんな雰囲気だ」と訊ねたなら、きっとこいつのことだから、俺には到底似合わない言葉を並べてきただろう。それを聞いてみたいような、聞きたくないような、どっちつかずの気分で俺もコーヒーを啜る。白く、丸いパンは、丸いまま。
「わたしは短期留学なので短い間ではありますが、やっぱり一人の食事は寂しく感じます。初めてテリオンさんを朝食にお誘いした時、実は……とても緊張したのですが、ご一緒して下さって嬉しかった」
 今日もです。一緒に食事をして下さって、嬉しいです。
 そう頬を緩めるので、何ともむずがゆいものが俺の身体に走って、蹴散らすようにパンを掴んで噛り付いた。柔らかい、小麦の焼けた匂いが、ほのかに甘い生地が、さっきまで舌に漂っていた苦味を打ち消していく。
「パン、美味しいですよね」
 正面から少し高い声がした。そいつの飲んでいるホットミルクのような、俺が噛り付いたパンのような、まろい声。
 不味くはない。ので、頷いておくことにする。
 ――助手としての業務には「誰かと朝食および昼食を一緒に食べること」が含まれますよ。今まで見てきた風景とは異なりますよ。
 そう誰かが耳打ちでもしてくれれば良かったものを。誰か、とは誰だ。存在しないものに突っかかることはできないし、何かが変わるわけでもない。変わらないことは、俺の仕事に、飯代を払わなくてもよい代わりに食事に付き合うという項目が追加された、ということである。ただし、朝食代は例外だ。オフィーリアに支払わせる理由はない。俺が渋々付き合っているだけなのだ。
 こいつは、俺が盗賊だということを知っても、こうして食事をする気になるのだろうか。
 サイラスは十中八九知っている。オルベリクを介して、俺の背景をほとんど把握しているだろう。その上で雇ってもよいと判断したのだから、幾ばくか、俺に対する信用があるとみえる。
 しかしオフィーリアをはじめ、サイラス以外のアトラスダムの連中は、何も知らない。本当に俺を「サイラスの遠縁の者」としか見ていない。人間は残念なことに、与えられた情報が信頼に足る人物から発されたものであれば、たとえ嘘であれ毒であれ飲み込んでしまうようにできているようだ。
 職も中身も偽り人を騙してきたことは数知れず。にもかかわらず、自分の『本当』を知らない人間を相手にすることの、裏切りに似た感覚。雨水が溜まって濁っていくように、それは身体の内側から一切流れ出ることなく俺を浸し、澱んでぐちゃぐちゃになった罪悪の意識と融合させようとする。そのまま一つになって、すべて自分だけのために、利己的に考えられるなら、こんな妙な心地にならずに済んだのだろうか。
 俺はどうしてここに座っているのか。サイラスと、オフィーリアと食事を続けているのか。
 この街で、何をしたいのだろう。

 夕方、サイラスが「頼みたいことがある」と言ってきた。日暮れ近くに仕事の話を切り出すのは珍しい。助手業務を始めて暫く経ったので、そうかやっと学者らしい仕事ができたのか、と思ったが、違った。
「薬師に扮したことがあると言っていたね。その……頭痛に効く薬は、調合できるのかな」
「はあ?」
 自席で手を組みながら真剣に言うものだから、どれほど深刻な話かと思えば。間抜けな声を上げたところにノックの音が飛び込んできたので、俺達の会話が一時停止する。立ち上がり、扉へ向かおうとするサイラスを「俺が出る」と制した。唇に指を立て、喋るなよ、と念を押して。
 女生徒が一人立っていた。サイラスの講義に出席していた覚えがある。応対したのが俺であることに驚いている、と同時に落胆を滲ませた表情。あんたの求める男でなくて残念だったな。思いつつ、極力緩やかに話しかけた。
「ああ、申し訳ない。サイラス兄さんは取り込み中で、不在にしています……ええ、そうですね……また明日お願いできますか?」
 出来の良い『サイラスの身内』を演じるのに苦労はない。慣れと割り切り。昼食の料理屋と同じ。
 ご丁寧な『サイラスの身内』は生徒を見送る。廊下の端を折れて完全に見えなくなったのを見計らい、扉を閉めると、サイラスがすぐそこに立っていた。
「……なんだ、その目は」
「いやあ、本当に素晴らしい演技力だと感動してしまって」
「分かったから座れ、見つかったらどうする……で? 頭痛が何だって?」
 ぐいっと押しやると、長身は可動壁のように動いた。そのままサイラス専用の(俺がそう定義しているだけだが)椅子へと身体を戻す。
「ああ、その……ここ最近眠りが浅くてね。頭が少し痛いんだ。薬師を経験したことのあるキミなら、痛み止めを調合できるのではないかと」
「寝ろ」
「え?」
「寝ろ。とっとと寝ろ。今すぐ帰って寝て明日の朝まで起きるな」
「今すぐとはまた……」
「あんたがここ最近、何やら遅くまで熱心にやっているのは知っている。自業自得とは言わんが、不調だと思うなら問題に対処しろ」
 喋りながら手を動かす。今、薬師の道具は持っていないが、研究室には乳鉢と乳棒、その他計量に必要な器具が揃っている。加えて手持ちの鞄の中には、確かスイミンカの葉とブドウの樹液があったはずだ。これで良いだろう。
 壁際の棚から道具一式を取り出し、応接用の机の上に陣取って並べる。それから素材を手に取って、サイラスへ一つ仕事を与えた。
「おい、このスイミンカの葉を凍らせろ」
「えっ? 魔法でかい?」
「それ以外に方法があるのか?」
「……ないね」
 氷結魔法を調節して葉を凍らせるなんて芸当、こいつくらいしか出来ないだろう。実践するのに少々骨が折れたようで、部屋の隅で何やら唸っていたが、結果的に上手くいったようだった。ただし、聞こえてきた音から推測するに、床が少し凹んだらしい。
 まずはスイミンカの葉を乳鉢の中ですり潰す。薬研ほどではないが、凍った葉は乳棒でも簡単に粉末状になった。そこへ計量したブドウの樹液を少しずつ混ぜていく。仕上げに、研究室のティーセットに添えてあった蜂蜜を。するとさっきまで苦々しい雰囲気を放っていた匂いが、途端に甘い果実のように変化した。
 出来上がったものは見た目こそ悪いものの、睡眠導入剤にはちょうど良い程度の効果を発揮する。ちょうどブドウの樹液が入っていた小瓶が空になったので、匙でそこへ移してサイラスへ渡した。
「これを寝る前に飲め。よく眠れるはずだ」
「すごいね、キミの手さばきは……ありがとう」
「……別に大したことじゃない。それより早く回復しろ。でないと周りの生徒がうるさくてたまらない。戸締りは俺がやるから、もう帰れ」
「はは、そうだね。では今日はこれで失礼するよ。本当に、ありがとう」
 小瓶を大切にしまうのを見て、そんな大層な薬ではないのにと思う。頭痛がするはずなのに、そんな気配を微塵も感じさせずに部屋を後にしたサイラスの、去り際に見せた嬉しげな顔は何だったのだろう。
 薬師らしいことをしたのは、思えばこれが初めてだったのかもしれない。誰かから感謝らしい感謝をされたのも、多分。王立学院からの帰り道、月光を踏みしめながらそう考えた。
 翌日。えらくすっきりした顔で俺を出迎えたサイラスは、「あれは独自に配合したものかい?」「蜂蜜を入れたのは何故だい?」などと、眠り薬についての質問を朝っぱらからぶちかまし、俺に一蹴されることとなる。



 向かい合って食事をして、講義の助手や本の整理をして、また向かい合って食事をする。一人になる時間が、以前の半分ほどの日々が暫く続いた頃だった。
「サイラスから手紙が届いたのでな。どんな様子かと見に来た」
 ある休みの日の夕方、いつもどおり夕飯を食わずにそのまま寝入ろうかと野良猫のごとくベッドに沈んでいたところだった。ドアを叩く控えめな、しかしどう考えても男の拳の音。開ければ、最近目にしていなかった薄藍色の剣士の服が飛び込んできて、しかしそれ以外は見えず視線を上へとやると、見覚えのある顔。
「……オルベリク」
「壮健そうだな。変わりはないか」
「……まあな」
「なら、少し付き合え。お前のことだ、また夕餉を食わずにいるんだろう」
 コブルストンでの生活を覚えていたらしい、オルベリクはジョッキを持つ仕草をして、夕暮れに身を任せようとする街へ俺を連れ出した。
 何故、こいつらは誰かと飲んだり食ったりしたがるのだろう。その謎を解明することを、サイラスに議題として提案したならば、あの頭脳の暇つぶしになるかもしれない。だが面倒なほど考察してくるに違いない。
 頭の片隅に、講義の時のあいつが浮かぶ。均された道のように整然とした語り口。それに聞き入る生徒たち。女の生徒に至ってはある種の信仰と化している。だが、まあ、なんとなく分かる気がした。サイラスの話は、言葉は、不思議なことに土に染み入る清い水のごとく、すうっと響くから。
 身体に馴染んできたローブは羽織らず、軽装で(ただし生徒に見つかってもよい程度のもので)酒場へと向かう。ひゅうっと通りを過ぎる風の冷たさは、季節が冬へと進んだことを立派に証明していた。ストールで首元を閉じておく。
 体格の良いオルベリクが隣に立つと、途端に自分が小人にでもなった気分になるが、俺以外でも恐らくそうだろう。その腰に携えられた剣の金属音が、すっかり暗くなった世界に小さく拍子を刻んだ。犬が木張りの床を歩く時の、爪と床がぶつかり合う音に似ている。こいつが大きな犬になって街を練り歩くのを想像したが、あまり似合わんな、と取りやめた。
 この時期は僅かな時間で太陽が落ちる。代わりに、空に穴をあけたように月が浮かんで、街をぼうっと照らしていた。寮から少し離れた、街の広場の一角に酒場はある。大小二つの影が入り口をくぐれば、程よいざわめきが飛び込んでくる。アトラスダムは王都だけあって人も多いが、落ちぶれた奴が多いわけではない。どこか上品な酒場の雰囲気がそれを表していた。
 葡萄酒を二つ注文して、壁際のテーブルに陣取る。「この時期は香辛料と果物を入れた温かい葡萄酒が出るんだ」そうサイラスが言っていたのを覚えていたせいだ、いつもなら頼まない。だがそれを差し引いても、この酒場にはエールより葡萄酒のほうがお似合いのように感じたのである。加えて、この剣士はそちらのほうを好んでいた。
 傍の小窓からは、酒場から漏れた明かりが石畳に映り込んでいる様子が見える。その輪郭は上から降り注ぐ月明りに滲んで、闇に溶けていた。
「……あんたが来たってことは、そろそろ潮時か」
「よく分かったな」
「未来永劫、この仕事が続くことはないからな」
 視線を戻す。言葉を探す剣士の、少し申し訳なさそうな目。でかい図体に不釣り合いの様子に「気にしていない」と応じたのは、気遣ったわけではない。
「……あんたがこの仕事を紹介した理由が分かった。コブルストンでのことを、引き摺っているんだろう」
 オルベリクは答えなかった。ただ目を伏せて、小さく「済まなかった」と言った。
「……村人だって、良かれと思って衛兵を呼んだんだ。悪人はそいつじゃない」
「たとえそうだとしても、脱獄できたのにしなかったのは、俺のためではないのか」
「考え過ぎだ」
「……ならば、そういうことにしておこう」
 牢屋を出た途端、何故オルベリクが居たのか? アトラスダムに来てからその理由についてしばしば考えたが、可能性はやはり一つしかない。この剣士は律儀なことに、過去の出来事をずっと悔やんでいたらしい。
 コブルストンに滞在して数ヶ月が経ったある日、村に近隣の街の衛兵がやってきた。言うまでもない、俺を捕らえるためだった。呼んだのは村人のうちの一人。オルベリクを慕う若い男。
 そいつは正しいことをした。俺を怪しい人物と踏んだ勘は大当たりだったってわけだ。前の街で行った盗みは何だったか。足がつくようなことも証拠になるようなものもなかったが、騒ぎになるのは嫌いであるし、先ほどの話ではないが、オルベリクの立場が悪くなるのも面倒だった。何も言わず捕まったことが最大の証拠とみて、意気揚々と俺を連行する衛兵らの表情は、過去に何度も見た覚えのあるもの。
 犯した罪の規模など無関係に、悪人は例外なく裁かれるべきで、悪人には罪滅ぼし以外の生き方は許されない。そういう、正義の代行者の顔をしていた。
 葡萄酒が運ばれてきた。湯気の立つ、白くて大きな陶器のグラスが二つ。表面を見ると、深い赤紫色の液体の中に、厚く切った果物が浮かんでいる。それを互いに手に持ち、掲げた。乾杯の合図。
 一口含むと、香辛料の少しひりつく味、そして柑橘の香りが鼻に抜けて、熱い葡萄酒の風味と合わさり甘酸っぱく喉を駆けていく。口に合ったのか、オルベリクは頷きながら「美味い」と呟いた。
「甘い酒はあまり飲んだことがなかったのだが、こういうものもあるのだな」
「……寒い時期に出る酒らしい。香辛料が身体を温めるんだと」
「ほう。サイラスが言っていたのか」
 察しの良い剣士にはすぐ分かったようだ。言わないほうが良かったか。
「サイラスはどうだ。手紙には、お前の働きぶりが良いと書いてあったぞ」
「……別に、どうもしない。それよりいつだ、仕事の期限は」
「一週間後にしてある。それを逃すと、恐らく山越えが厳しくなる。変えるか?」
「いや、そのままでいい」
 妥当な期間だ。助手の仕事の期間について最初に何も言わなかったのは、オルベリクなりに考えがあったのだろう。サイラスのような学者の助手である、と言わなかったのと同じように。
 同じ場所へ長く居座ると、盗賊稼業を続けることはできない。この仕事を続けるか、続けないか。選択する権利を俺に委ねるところが、義を重んじるオルベリクらしかった。
 サイラスはどうだ?
 どうもしない。サイラスと数ヶ月かかわったところで、何も変わらない。オフィーリアも周りの人間も、身元が保証された『サイラスの付属物』として俺を扱っているだけで、それ以上でも以下でもないのだ。きっとオルベリクは、サイラスの近くに俺を置くことで何かを得てほしかったのだろうが、生憎の結果となったわけである。
 ただ唯一、他人と居る時間が増えたのは、変化と呼ぶべきなのか。いまだ分からないでいる。
 ぐ、と葡萄酒を含んだ。喉から胃に落ちるまでの僅かな距離でさえ、通り過ぎる熱さがまどろっこしくてかなわなかった。

 翌朝、オルベリクと王立学院を訪れると、暫く会っていなかった友との突然の再会に、サイラスが今にも踊り出しそうなほど喜んだ。しかし「あと一週間よろしく頼む、兄さん」と伝えると、ぴたりと動きが止まったので、あたかもねじ巻き人形のように見えた。ねじを巻けば踊り、終われば止まる。
「……オルベリク、そんなに短かったかな?」
「雇用期間は決めていなかったからな。だが、テリオンにも予定がある」
「そうか、そうだね……」
 物分かりが良いのは学者ならではなのだろうか? ともあれ、予定らしい予定はないにせよ、コブルストンの近くにそびえる山脈を越えて暫く行くと交易に栄える街があると聞いたので、次はそこへ行こうと考えてはいた。何やら良い品物がありそうな匂いがする。
「ならこの一週間は大切にしなければならないね。せっかく学者らしくなってきたのだから」
「そうなのか」
 オルベリクの言葉に首を振る。
「別にそんなことはない」
「いや、テリオンは学者の才があるよ! 実に器用だし、臨機応変に判断できるから、私は是非勧めたいね」
「やめろ」



 一日一日を大切に、なんて敬虔な神官じゃあるまいし、俺は変わらず仕事をこなすだけであって、サイラスも何か特別変わったことを依頼するわけでもなかった。ただ、本人はいつもより忙しない様子で、あれこれと何かを書面にまとめたり、別の教師に大量の書類を渡したりしていた。また眠れないだとかぼやくのではないかと思っていたが、意外と弱音を吐くわけでも不調を訴えることもなく、時間が過ぎていく。
 さて、自分がこの街を去ることを、オフィーリアに告げるべきかどうか。結論として、告げないことにした。俺が居なくなったことで何か影響があるわけでもないので、そのままでよいと判断したのだ。
 だから出発前日の朝に、寮の前で「どうして言ってくれなかったんですか」と言われた時は、何故知っているのかと驚いた。
「明日出発するなんて、聞いていません……サイラスさんから聞いて……」
「……あんたには言っていなかったからな」
 あのお喋りめ。と、心のうちでサイラスを叱っておく。
 寮の壁は濡れて色が黒ずんで、常ならば多少は風情のある景観も台無しだ。こんなところで二人、頭からフードを被って話していても、何の得にもならない。
「これから仕事がある。じゃあな」
「あの、わたし……知っていました。テリオンさんが、盗賊だってこと」
 語尾が小さくなって、雨粒と一緒になって落ちた。歩き始めた俺の足を止めるには十分な言葉が、オフィーリアの口から発せられる。
「前に、フレイムグレースで噂を……小さな村で捕まったと。信者のかたに、その時の様子を見ていた人がいて……」
 告白するような声は震えていた。そんなに恐ろしいなら言わなければ良かったのに。とうとうすべてを無視できなくなったことを悟り、「ならどうして」と口に出てしまえば、あとは止まらなかった。
「あんた、どうして俺に話しかけた? どうして会うたびに食事に誘った?」
 しとしと、雨がローブに当たる音が耳元で弾けて、消えていく。何度も、何度も。
 オフィーリアの、一転して強い声が響いた時、その音が雨の中を駆け抜けるのを目にした。
「そんなの、簡単です。わたしがテリオンさんと、一緒に居たかったからですよ」
 ただ、それだけなんです。か細い声で言うので、泣いているのかと思った。実際は、その目からは何も溢れていない。なのにきらきらと、濡れた花のように光るので、俺はあんたにそんな顔をさせたかったんじゃないと、そう思った。
 だが、明日俺はこの街を出る。オフィーリアには伝えなかった。それは変わらない。
 でも、たとえ変わらなくても。
「……嫌じゃ、なかった」
「え?」
「……あんたと、朝、飯を食うのは」
 真実だった。呆れたこともあったし、面倒だと思ったことも数えきれない。だが、嫌ではなかった。それだけは、本当だった。
 そう言うと、目の前で花が薄く開いた。オフィーリアの笑み。子供のようなあどけなさが残っているくせに、すべてを愛す聖母にも似て、頬を緩ませる。
 物事は、本当はひどく単純な構造で成り立っているのかもしれない。雲が集まれば雨が降るように明快な法則があって、すべてはそれで解決できるのかもしれない。

 冬場にしては気温が高い日だった。降り続いた雨は徐々に強まり、昼前に出発した俺達のローブは、午後にはほとんど水浸しになってしまっていた。数歩先、ほら穴の入り口で空の様子を伺うサイラスが「もう少しで止むと思う」と言ったが、その信憑性やいかに。あいにく、俺はこの学者先生のことを教祖とも予言者とも思っていないので、求める結果――今回の場合は雨が止むという未来――が得られることだけを求めている。
「すまないね、明日は出発だというのに」
「……構わない」
 アトラスダムから少し離れた森の中は、雨雲のせいもあり薄暗い。このほら穴だけがぼうっと明るく、あたかも森の中に灯された蝋燭の中心点のようだ。
 明日、俺はアトラスダムを出発する。数ヶ月ぶりの旅。
 オルベリクが迎えに来て、コブルストンまではともに行くと言っていた。そこから先はまた一人。久方ぶりの一人。金も工面できたし、しばらく持つだろう。
 サイラスが火炎魔法でおこした焚火の傍には、本日の収穫物を入れた革袋の影と俺達の足跡。岩の上に座り直し、掌を火にかざす。ローブを乾かし始めてから結構な時間が経った。雨宿りにしては長くなったが、冷えて体調を崩しても出発に差し支えがあるので、サイラスのこの行動は正解だ。
 焚火の傍へ戻ってきた男の表情を、隣から盗み見る。そこから読み取ったところでは、本日の研究活動では一定の成果が得られたらしかった。研究活動とは雨水のろ過に関するもので、特定の鉱石を使用してろ過した場合、通常とは異なる特殊な性質を帯びた水になる……というものらしい。転用して、川の水や雨水の浄化にも利用できるのではないか? というのがサイラスの考えだった。人口が多いだけあり、王都の水道事情にはいまだ課題がある様子。それを解決できる鍵をこいつが持っているのなら、アトラスダムは今後安泰だろう。
 もう夕刻に差し掛かる頃だと思われるが、歩き回ったせいでそろそろ小腹も減ってきて、乾いてきたローブの懐から小袋を取り出した。ローブは案外丈夫らしく、小袋は水滴一つ付いていなかった。中から乾燥させた果物を出し、うち数個をサイラスへ渡す。
「やる」
「ん? おや、これは……プラムかい?」
「食っておけ。さっき、何度か魔法を使っただろう」
「……ああ、ありがとう! 覚えていてくれたんだね」
 えらく感謝されたが、そんなに腹が減っていたのだろうか。自分の分を口に入れ、噛みしめた。少しずつ果実の味が染み出してきて、あの熱い葡萄酒にも似た甘酸っぱさが舌の上に広がった。
 ほら穴に、雨粒と葉がぶつかる音がこだまする。ざざあっという音であったり、ぽたぽたという音であったり、大小それぞれの音が合わさって曲を奏でるように跳ねていた。珍しく沈黙を保つサイラスも、その音に耳を傾けていたのだろうと思う。王立学院の空気とはまったく違う、静かで人の気配がなくて、煩わしいものすべてが取っ払われたような空気に、二人分の呼吸が乗っかる。
 揺れる火を眺める。橙色の奥に、寮を出て王立学院へ向かう道の朝焼けが見えた。炎の色は太陽が空を焼く色によく似ている。そこへオフィーリアの声が響いた。サイラスの出迎えが映った。オルベリクと合わせた剣の音がした。
 人とかかわることはこの上なく面倒だ。
 しかし面倒なことの裏にはいつも、俺の知らない、見えない何かが隠れていて、時折それを暴いてしまいたいような欲求に駆られることがある。なのにその瞬間、あの暗幕のような霧がかかって、やめておけと視界を塞ぐ。結局いつも、雲のように掴むことができないでいる。

 「そろそろ行こうか」という声に炎から顔を上げた。サイラスが立ち上がり、再び穴の入り口から外を伺っているところである。いつ移動したのか気付かなかったのは不覚と言わざるを得ない。焚火に足で砂を掛ける。炎が小さくなったところへ、戻ったサイラスが「念のために」と手を出した。小さく呪文を唱えると、何もなかった空間に突然氷が発生して、焚火があった部分を埋めつくした。隙間から白い煙が立ち上るのを確認して、ほら穴から外へ出る。
 雨が止み、暗さが少し解消されて、森の中は歩くのに支障がない程度には明るくなっていた。これならば日が暮れる前に街へと戻ることができそうである。誰が築いたか分からない、獣道と山道の中間のような道を進む。前にサイラス、後ろに俺。細かい雨が残る森の中は、ところどころ木の根が飛び出している上に、濡れた落ち葉が足を滑らせようと待ち構えている。
「足元、気を付けておくれ」
「誰に言っている。俺は盗賊だぞ、『兄さん』よ」
「ああ、これは失礼したね」
 前で笑う気配がした。
 視界の先にあるローブの裾。結構な量の泥が跳ねてしまっているが、これも今日一日でおさらばだと思えば気にならなかった。時々、離れていないかどうか、サイラスの背を確認する。オルベリクより一回り小さいが、俺よりは一回り大きい、間を取ったような姿。おかげで向こう側はすっかり見えなかった。
 こいつは、俺を助手にしてどうだったのだろうか。オルベリクへの手紙には何と書いたのだろうか。俺を助手にして、何か得るものがあったのだろうか。
 そう考えていると、突如その黒い背が止まった。もう少しで激突するところを何とか踏みとどまり、「おい、急に止まるな」と言えば「すまない、ちょっと珍しくてつい」と苦笑交じりの声が返ってくる。
「……何が珍しいんだ」
「ああ、虹が出ていてね」
「……虹?」
 サイラスが進む。続いて俺も。もうすぐ森の出口であろう手前が小高い丘になっていて、二人そこに並ぶ形になった。風が強く吹き、ローブが音を立ててはためく。平原の向こうにアトラスダムの街が見えた。薄紫と灰色との上空に、恐らくさっきまで森に掛かっていたであろう炭のような雨雲と、様々な色が折り重なった半円ができている。
 虹。
 虹だった。
 存在は知っていた、話に聞いたことがある程度には。だが今まで見たことはない。今この瞬間、初めて目にした色彩が、俺の両目を通して頭の中を引っ掻き回して、得も言われぬ感情が内側から湧いてくる。
 その姿は橋のようで、あるいは境界のようで、この世とは違う何処かへ繋がる道のような気がした。
「……虹は……何処から、伸びているんだ」
 ようやっと出た言葉に、サイラスが申し訳ないという風に首をかしげる。
「それがね、分からないんだ。虹の麓には、誰も辿り着いたことがないんだそうだよ」
 あんたでも分からないことがあるのか。そう言い返せば良かったものを、俺の口は中途半端に開いたままで二の句を継げられずにいた――まさしく初めて研究室を訪れた時のサイラスのように。
 サイラスはしばらくの間、虹について何やら喋っていた。だが俺にとってそれはどうでも良かった。虹は弓のようにしなり、空をまたいでいる。両端は見えない。湿った空気が唇の隙間から入り込んで、その中に虹の粒が含まれているように思えて、血液を巡るたび爪先まで色彩が行き渡る心地になった。このままこの場所で呼吸を続けていれば、あの色になれるのではないか? 俺のすべてが塗りつぶされて、一つになれるのではないか?
 その麓には何があるのか。誰も到達したことのない場所には、何が。
「――美しい、ものなんだな」
 気付けば声が漏れていた。自分のものだと認識した時には遅かった。我に返ると、隣で「そうだね、とても綺麗だ」と声がして、空からサイラスへ視線を戻す。至上の宝玉を見たとでもいうような男の目が細められて、笑って、信じられない言葉を吐いた。
「私も、綺麗だと思うよ。虹を美しいと思う、キミの心が」
「……おい、何を言っている」
「何を……って、そのままの意味だけれど」
「俺は盗賊だ」
「知っているよ。オルベリクから聞いている」
「盗賊が綺麗な心を持っているわけがないだろう」
「盗賊は美しいと感じることが禁止されているのかい?」
「そういう意味じゃない、そういうんじゃ……」
 あの美しさは、人を騙して、物を盗んで、牢にも入ったような人間が求めて良いものでは――。
 サイラスの言葉の裏側が、再びあの黒い霧で見えなくなる寸前、目の前から声がした。
「美しいものに惹かれるのが、人間の本当の姿だよ」
 サイラスの腕が急に伸びてきたので、振り払うことも忘れて、ただその手に引き寄せられてしまったのを、どう言い訳すれば良いのだろう。
 冷たいローブの生地。冬の風にさらされて冷えた男の頬が、耳に当たっていた。腕の中におさまって何も言えずにいる俺に、サイラスの声がひと際大きく響く。
「虹を美しいと思ったキミが、本当のキミなのではないかな」
「どう、いう……」
「それで良いんだ。欲しいものを欲しいと、美しいものを美しいと思って。私はそう言えるキミが、素晴らしいと思う」
 求めてもいないのに、許しを与えるような声で呟くものだから。

 良いのか。俺は、このままで良いのか。

 良いと言ってくれる人間のいることが、ふっと身体が浮くような心地になることを、俺は知らなかった。
 そうか、オルベリクはきっと、俺に『これ』を知ってほしかったのだろう。ただの義理だけでも十分なものを、あの男は、この男は。
 風の中でふたり、飛ばされないよう抱き合っているみたいで、身体を押し退けんとする空気の冷たさを感じる隙間なんて、微塵もなかった。ただ聞き慣れてしまった声が、びゅうびゅう吹く風などものともせずに続けられる。
「キミは、人をとても大切にする。私の身内役を完璧に演じていたのは、私を気にしていたからだね。私に不利益がないよう、ずっと」
 耳元で聞こえる声は静かなのにとても重く、指一本ですら動かすことができない。
「最初、キミを食事に誘うのは、とても勇気が要ったよ。初めてキミの扉を叩くことだったから。でもキミは、扉を開けてくれた。拒絶しなかった」
「……俺、は……」
「それがね、私の知る限りの何よりも、嬉しかったんだよ」
 学者のくせに力強く、俺の身体を捕まえたままあの声がする。研究室の匂いが、ローブに染み込んだ雨と火の匂いが、俺とサイラスをくるんでいた。
「私はキミの過去を知らない。どんな罪を犯してきたかも。でも、……どうか、未来まで閉ざさないでほしい。求めることは罪ではない。それは、罪ではないんだ」
 盗賊でも学者でも、商人でも踊子でも剣士でも薬師でも、それ以外のすべてにだって、何にだってなれる。キミが求めるのならば。
 そう言ってサイラスの体温が離れて、俺達の間に再び雨上がりの風が吹き抜ける頃、何処からかまたぽつりと水滴が落ちた。一滴、二滴と落ちた先、俺の頬に、サイラスの唇が寄せられて雫を掬う。再び近付いた温度がつい惜しくなって、手を伸ばして、そのローブを掴んだ。求めた。サイラスを。
 これは罪だろうか。一瞬と一瞬の狭間で、あんたを欲したことを――だが俺は、もう一度、その腕で抱いてほしかったのだ。
 最後の日になって、ようやく分かった。こいつが皆から慕われるのは、その言葉が正直で、真っ直ぐで、偽らざる心の証だからなのだろう。だから皆がこいつの言葉を欲する。自分を肯定し、認めてくれるから。
 その言葉を、俺にも寄越すのか。
 手を離すことができない。ばさばさ、旗のようにローブが波打つ。風は相変わらず俺を連れて行こうとするのに。
「惹かれているのが、私の本当だと……そうであっても、キミは私を……受け入れて、くれるのかな」
 少し上で、青色がきらめいた。サイラスの瞳。間近で見たのは初めてだ。その奥で、夕闇の空に浮かぶ星に似た、光が見えた。
 そんなの、俺に聞かずとも。そう思って理解する。
 人はいつも、誰かの許しがなければ生きていけないような気でいるけれども、そんなもの本当は必要ない。あんたも、俺も。
 サイラスに出会わなければ、気付かないままでいただろう。虹を見なければ、知らずにいただろう。
 あんたに手を伸ばさなければ、いつまでも、黒い霧を振り払うことができずにいたんだろうな。
「テリオン」
 名を呼ぶ声が、まるでその口からではない、遠くの国から聞こえたような気がした。声に応えたい。応えても、良いだろうか。
 物事はきっと、思うよりもずっとずっと単純だ。
 求めていたあの裏側へ指先が触れたのは、幻ではない。
[newpage]
 再び片付いた部屋の扉を閉めると、分厚い本を読み終えたような心地がした。実際はそんな本を読んだことなどないのだが、長い物語にすべて目を通したらこんな気持ちになるのだろうか。やっと裏表紙まで到達した達成感と、もう終わりかという寂寥感が、交互に顔を出している感じだ。
 寮を出るとオルベリクが腕を組んで待っていた。腰に下げた立派な剣が、空からの霞んだ光を受け、鈍く輝く。
「サイラスへ会いに行かなくとも良いのか?」
 眉間に皺を寄せて聞くことではないのだが、最後にやり残したことはないか気にしているのだろう、その心遣いだけ受け取っておくことにした。
「良い。すべて昨日のうちにやり終えた」
「……そうか」
 いつもの朝。違うのはオフィーリアの声がしないくらいだ。ところどころ凍結しかけた石畳を注意深く進んで大通りへ出ると、ぽつぽつと人が歩いているくらいで、休日の朝はこんなもんだったかと思い浮かべる。非番の日はほとんど寮に篭もり、昼前まで眠りこけていたので、気付かなかったか。
 足を踏み出す。これまでとは逆の、街の出入り口へ向かう。衛兵へ会釈し、朝もやのアトラスダムから一歩出ると、広大な平原が待ち構えていた。
「それで、グランポートへ行くのだろう?」
 荷物を抱え直しながらオルベリクが問う。それに首を振ると、訝しげな顔をされた。
「いや、やめた……麓を、」
「麓……?」
「虹の麓を、探しに行く」
 ただの、おとぎ話。そう付け加えた。
 けれどもそこへ、俺は行きたい。
 オルベリクは笑わなかった。それどころか至極真面目に頷いて、記憶を辿るように目を閉じる。
「虹か。ほとんど見たことがないが、その麓には宝が眠っているという伝説を耳にしたことがある」
「……そうかい」
 その伝説を追うのも面白いかもしれんな。
 虹の麓へ辿り着いたら、手紙を書いてやろう。麓には何があるのだろうか。財宝か、あるいはただの水たまりか。何であれ、そこに辿り着いた者が居ないことだけでも、次の目的にふさわしい。
 そうして、今度あいつに会う時には黒いローブを着てやって、『虹の麓について』としたためた論文を叩きつけてやろう。雄弁な学者として学院へ乗り込んでやる日のことを、サイラスの悔しそうな顔が見られるかもしれない日のことを思い描く。しかしきっと、あいつは悔しがることなどなく、誇らしげに俺を褒め称えるのだろう。その様を想像して、ほんの僅か――あいつが拭った水滴の一粒程度、心が躍った。
 そう遠くない日、後ろからあいつが追いかけてくるとは、そしてオルベリクと別れた後は二人で旅をすることになるとは知らずに、夢物語に夢を見る子供のごとく地を踏みしめる。
 出発だ。何処にもない場所へ。誰も知らないその先へ。



(了)畳む
永遠
・約100年後のオルステラ。
・サイラスの曾孫(20代)とテリオンの奇妙な二人旅
※サイテリ前提ですがサイラス先生の影は大変薄いです。
※なんでも許せる方向け。
#サイテリ #IF

 よもや自分が家族の墓を荒らすことになるとは、数年前に想像できただろうか。深夜、墓地の奥、立派に建てられた墓標の前で、黙々とシャベルを動かす羽目になるとは。
 霧がかった空気が、ひやりとしているのに湯気かと思うほど鬱陶しく、むせそうになる。私は肉体労働に向いていない。体力もない。できれば今すぐにシャベルを放り投げたいのだ。
 しかし、言いつけを破ることは憚られた。オルブライトの一族は、そんなに生真面目な血筋であったろうか。そうではない。仮にそうであれば、ご先祖様の墓を荒らせ、などという言葉を遺すはずがないのだ。そんな、互いの尊厳も何もかも無視したような。
『墓の中から、大きなルビーを掘り出してほしい。真っ赤な、血の塊のようなルビーだ。そして念じること。私の前に現れてほしい。そう強くね』
 誰を、とは、誰も聞かされていなかった。父も、祖父も知らなかった。ただ念じること、と言われたそうな。曖昧で、論理的な魔術師一家にそぐわぬ内容は、先に何が待ち受けているのか分からない深い森のごとく私を迷わせた。土を掘り進めている今も、一分間に一度は手が止まる。これから自分がどうなるのか知ることができない、その空恐ろしさが、あたり一帯に充満していた。
 曾祖父の遺言が今まで実行されなかったのは、単にその時ではなかったからだ。そう父から教えられたのは先月のこと。『実行するのは、オルステラが黄昏時に入った頃合いでなければならない』のだそうだ。今まではその時でなかっただけのこと、ただそれだけのこと。
『実行の時は、陽が落ちる寸前のような、散り際の花のような、美しい瞬間でなければならない。そして旅をするんだ。昔の頃のように、沢山の国を巡ること――それが私の望みだよ』
 ひいおじいさん。私には、今のオルステラが、そんなに美しい大地とはとても思えないのです。
 我々一族が命をはぐくみ続けた国は、首の皮一枚で生きながらえており、大陸のほとんどの人間が別の土地へと移り住んでしまった。私も来年には、大多数のその他と同様に、アトラスダムから他国へと渡る予定だ。数十年前の戦でオルステラは深く傷ついた。あと少しで泡がはじけるように、崩れてしまうだろう。
 その前に、やっておかねばならないのでしょう? サイラスのひいおじいさん。でないと、真夜中に化けて出てきそうですから。
 辺りの土を掘り続けてどれほど経っただろうか。突如、がつんという金属音と共に、シャベルが先へと進むのを拒んだ。手に持っていたそれをようやく放り投げて、背丈ほどある穴ぼこの最下層を手でかき分ける。角ばった何かが埋まっている。事典ほどの大きさだ。爪の間に土が入り込んで気持ち悪かった。
 掘り出した箱は、暗闇の中でも分かるほど輝きを放ちながら、私の両手に捕まった。



「テリオンさんって、なんで死んだんですか?」
 ざくざくと、ビスケットが割れるような音を、どれくらい聞いているのか。私は額の汗を拭った。足をとられるとまではいかなくとも、砂漠はいつも人間を寄せ付けたくないみたいに、歩きにくいことこの上なく、そして暑い。
「何故そんなことを聞く」
「好奇心ですかね」
 反対に、彼はこの気候のなか汗のひとつもかかずに、熱風などどこ吹く風、私の前を歩いていた。紫のストールを巻いて、さらに上着も被っているのに涼しげだ。一定の距離間を保ちながら、離れることもなく近づくこともない。日差しが彼の髪をいっそうまばゆくさせて視界のなかで揺れる。
「ねえ、休みませんか……」
「弱いな」
「学者はね、体力がないんですよ。昔から」
「おたくは学者のようには見えないが」
 きっと今の私は、体中から湯気が出ているだろう。座り込んで足を投げ出す。息も絶え絶え、先ほどから足元の砂に落ち続ける雫はすべて汗だ。もう一度顔を拭う。腰の水筒を震える手で取り、あおった。中身は湯になっていた。
 マルサリムまであとどれくらいだろう。
 絶望にも似た気持ちになっていると、視界につま先が入ってきた。テリオンさんの靴だ。
「こういう時こそ、魔法を利用するんじゃないのか。さっさと水でも氷でも出せ」
 忘れていた。私はあまり魔法が得意ではなかったので。

「で、死因は?」
 危うく砂漠で干からびるところであったが、テリオンさんが示した先に洞窟があって、私は九死に一生を得ることができた。どうしてこんな場所を知っているんですか、と問うと「昔な」とだけ小さく答えて、陰に私を座らせる。
 冷えた岩肌が心地よい。うなじを伝う汗も、暫くすればひいていくだろう。
「しつこい奴だ」
 嘆息が聞こえる。「性分ですよ。こればかりは、曾祖父ゆずりだと、胸を張って言えます」疲労で声が掠れた。
 小規模な氷結魔法から生成された氷は、もう半分以上は融けてしまっているが、おかげで水筒の中身は湯から氷水になった。再び水筒をあおる。喉を鳴らして水を含むと、じわじわ、じわじわと、身体中に水が行き渡るのを感じた。
「誇るところじゃない」
「あなたのほうが、ずっと感じているのでは? 覚えがあるでしょう」
 私は知らないのです、と付け加えておく。
「記憶にないな」
「嘘が好きですね」
 返答はない。
 洞窟の暗闇に目が慣れ、意識も少し明瞭さを取り戻してきたあたりで、彼は言った。
「ここに、」
 指さすのはその胸だ。右手の親指で、ぐっと押している。
「弓が一本、うまいこと突き刺さったのさ」
「おお……それは痛そうですね」
「それで一発、あの世行きだ」
 今では銃が主流だ。重火器と魔法を組み合わせた大戦は、それは凄惨なものであったらしい。私が生まれる前であったからあまりなじみがなかったが、父は魔術師として召集されたと聞いた。弓矢を使っていた時代は随分と前だ。
「苦しいとかは?」
「悪趣味な質問をする」
「すみません」
「覚えていない。ただ、くたばったのは、俺が仕事にしくじったからだった気がするが」
「気がする、ですか」
「……亡霊に訊く話ではないな」
 確かに。訊いても、まるでお伽噺のようで、現実味は全くなかった。
 テリオンさんについては詳しく知らない。
 ただ父から、偉大なる学者であり魔術師であった祖父――つまり、私にとっての曾祖父――が遺した願いであるから、と。その遺言の、渦中の人物というだけで、私にとっては大昔のひと。しかも少々柄の悪い、私とは違う世界に住んでいるひと、という印象でしかない。

 墓荒らしの夜、くだんの箱を無事掘り出した私は、遺言に従ってオルブライト邸の一室で儀式を行った。
 箱の中に納まっていた大粒のルビー、その表面には隙間が見当たらないほど文字が彫り込まれていた。呪文であることは分かるが、何の呪文かは分からない。ただ、さすがに曾祖父も自分の身内を危険にさらすようなものを遺すまい、と考え、赤い宝石を握りしめて、祈る。
「どうか現れてください。誰か分かりませんが、私がひいおじいさんに呪い殺されないためにも、どうかどうか現れてください――」
 祈りというよりは、もはや懇願である。
 瞬間、指の隙間から夕焼けのような光が一気に溢れ、部屋を満たした。眩しさに目をつむってしまう。それは本当に、ぱん! と大きく手を叩く程度の、あるいは風船が一気に空気を放出するかのごとく、非常に僅かな時間であった。だがその時が過ぎ去ったのち、目の前に見知らぬ人物が立っていたら、人間誰しも呆気にとられるか叫ぶだろう。なお、私は後者だ。
 サイラス、とその人が口にしなければ、自分が行った儀式を今でも理解できていなかったかもしれない。彼は確かに、曾祖父が追い求めた術式の、大いなる成果であったのだ。死人の魂を呼び寄せるという、私には到底理解の及ばない、恐ろしい術の……ただし、そのことを理解したのは、かの人の正体を聞くことができた翌朝のことだ。
 彼は目を見開いて私を見ていたが、私の風貌が『サイラス』とは異なることに気付いた時、周囲を見回し始めた。何もかもが彼にとって違和感の塊であったようで(当然だ)私は事の次第をどう説明すればよいのか、何から口にすべきか瞬時に判断できず、暫くおどおどしていた。説明したところで納得するのか? 怒られるのではないか? 二十数年しか生きていないが、学会でも何処でも、叱責されることが気分の良いものではないことは知っている。
「あの、あなたは誰なんですか?」
 とりあえずそう言うことだけはできて、彼は私の声に振り返った。そして言った。
「お前こそ誰だ」
 怒りと共に。
 やはり叱られるのは嫌だ――そして、彼が現れてから朝日を見るまでの数時間、喉元に短剣を当てられながら尋問されたことは、もう忘れてしまいたい。

 半月前の出来事が、まるでつい先ほどのことのように明瞭に思い浮かぶのは、まだ若い証拠か。
 しかし、あといくつ国をまわれば曾祖父は満足してくれるのだろう。
 旅をすること。それは理解した。そして現在進行形で旅をしている。『復活した誰か』と旅をすることが曾祖父の願いであるのは、遺言から察してはいたのだ。
 だがその相手が、少し非社交的である上、曾祖父の知り合いというので。
 はあ。意識せず溜息をついていた。疲労もあるが、深く知らない人物と共に過ごすのは、少々、気を揉む。個人で動くことの多い学者にはあまりない経験だ。けれども気にしているのは私だけで、テリオンさんのほうにはそんな雰囲気は微塵も感じられない。
 彼の話では、かつて曾祖父と旅をしていたというではないか。そんな男が今では、その子孫とともに再び旅をしている。彼が曾祖父とどういう関係にあったかは詳しく知らないが、本当ならば曾祖父は私のような性格ではなかったのだろう。きっとおおらかで、何も気にせず、物事に対して常に冷静沈着、論理的思考を絵にかいたような理想的な学者であったに違いない。
 そう考えて、一人で少し落ち込んだ。自分には学はあるかもしれないが、魔術はそれほど得意ではないし、曾祖父には遠く及ばない。テリオンさんの知る曾祖父と私には大きな差があるだろう。知り合いの子孫がこんなのできっと落胆しているのでは、とまで思えてくる。
 一方、テリオンさんはというと、洞窟の入り口に立って腕を組んでいた。
「落ち着いたか」
 逆光でよく分からないが、その視線は私を捉えているようでそうではない、常に輪郭だけを見ている感じがするのだった。
「テリオンさん」
「……なんだ」
「私は、似ていますか」
 そう訊ねると、お決まりの言葉を彼は口にした。
「全く似ていないな」
 彼はいつも嘘ばかりだ。



 マルサリムは辛うじてある程度の住民が居たが、あと十年もすれば、ここも他の街と同じように数えるほどの人しか居ないようになってしまうのだろうか。到着してすぐにそう思えるほど、大戦の傷跡はいまだ深く、街の影が私の目に暗く映った。
 だがそれよりも、テリオンさんのほうが気にかかった。彼は戦争のことを知らない。私のように学舎で、必修の歴史として教えられることもない。彼の記憶の中にある風景と、今我々が目にしている風景がどれほど離れているのか、想像もつかなかった。
「……ええと、何かご感想は」
 無言のままの彼にどうやって声を掛けようか。迷った挙句に出てきた言葉がこれだった。なんとつまらない台詞。観光に来ているわけではないのに。
 恐る恐る訊ねる私が可笑しかったのか、その言葉が妙だったのか、テリオンさんの目が前髪の隙間から私を一瞥し、その口元が失笑を浮かべる。
「すみません」
「……いちいち謝るな。おたくは何か罪でも犯したのか?」
「罪……罪と言えば、墓荒らしと、死者の魂を眠りから起こしたことでしょうか」
 あなたもご存知のとおり。言わずとも伝わっているだろう。
「サイラスの強欲さに巻き込まれたのであれば、罪のうちには入らない」
 テリオンさんの声が風に消えていく。
 世間には共犯という言葉がある。であれば私は立派な共犯者だろう。
 私の手によって永遠から呼び覚まされたテリオンさんが、恨み言のひとつも言わないことに、しばしば恐縮してしまう。死者の精神については想像できないが、魂だけで存在するというのは、ひどく寂しいものなのではないだろうか。かつて自分が訪れた街の変貌ぶりを見て、心を痛めたりしていないだろうか。
 砂交じりの風は彼の髪を揺らすけれど、彼は何とも感じないのか、ただ立っているだけ。

 ひいおじいさん。あなたはテリオンさんに、そんな思いをさせたくて術を遺したのですか?
 魂だけでも蘇らせたいなんて、人が決して手を出してはいけない領域なのではないですか?

 その晩、崩れた天井に帆布が掛かった酒場でエールを飲んだ。何故エールかというと、テリオンさんに「エールを注文しろ」と言われたからである。
 雷魔法を転用した電灯は、ほとんど野営に近いような店を明るく照らしていた。街は確かに至る所が荒れているものの、人々が荒れているわけではなかった。私のような得体の知れない旅人でも、ほとんどの住人が笑顔で出迎えてくれた。それだけでも私の心は安堵したものだ。
 クリアブルックのような田舎町や、フレイムグレースのような宗教都市であればまだしも、大きな街になればなるほど、戦いでは攻撃対象になったと聞く。マルサリムも私の街も同じく、かつ私の故郷は王都であることが拍車をかけた。比較的魔術師が多く住んでいたことは身を守るうえでは幸いであったが、それは徴兵も多かったことを意味する。戦いが終われば、王が、街が無事でも、人が無事ではなかった。精神を病む者も、戦争を思い出したくなくて街を去る者も多くいたらしい。
 今はどの街も、残った人々が、少しでも街が元の姿に戻れるように力を振り絞っている。
 私は単に幸運であったに過ぎない。
 たまたま父が戦争を生き延び、褒賞金を貰い、遅まきながら私が誕生し、破壊を免れた王立学院にも通えた。ただこの点に関しては結局、曾祖父サイラス・オルブライトの名が影響したことは、いくら私でも分かっていた。ひいおじいさんは、学院の最上位まで到達した稀有な人であったから。
 歴史の波の中、人は幸運のかけらを手にすることで、何とか生きながらえているのかもしれない。星屑のようなかけらを。
 全く減らないジョッキを傾けながら考えていると、ぼうっとしていた私を起こすように、隣からテリオンさんの声がした。
「サイラスは酒が強かったぞ」
 え、と思わず言ってしまった。そんな話は身内から聞いたことがなかったので。
 驚いて彼を見ると、にや、と意地悪そうな笑みを浮かべていた。「おたくはどうなんだ」挑戦的な目に、私の中の闘争心が僅かに揺らめく。
 目の前のジョッキに口をつけ、ごっごっ、と一気に飲み干した。こんな風に飲むのは本意ではない。が、曾祖父と比べられたことが私を少しばかり苛つかせた。だからつい、勢いで――。
 たった一杯のエールで潰れた私は、すぐそばで聞こえた「エール三杯。あと適当に肴を」という声に、誰の声だろうか、とぼんやり思っていた。
 テリオンさんであるはずがないのだ。死者は酒を嗜まない。

 翌朝、少しの頭痛と共に目が覚めた私は、まず自分が宿屋で横になっていることを不思議に思った。
「起きたか」
 声のするほうへと顔を向けると、白いものを見つけた。あの人の髪だ。朝日を明かりに短剣の手入れをしている。
 角度を変えるたびに煌めく刀身が、私の記憶を震わせる。その輝きは、彼が私を問いただした夜のことを嫌でも忘れさせてくれない。視界に入るたび、反射的に身構えてしまいそうになる。
「……すみません……運んでくださったんですか?」
 上半身を起こすと、一瞬の浮遊感。酒がまだ抜け切っていないようだ。
 手元の短剣から目を離さずに喋る青年の声が、静かに耳へと流れ込む。「俺ができると思うのか?」「それは……失礼しました」またしても当然のことを訊ねてしまった。
「酒場に居た奴らが運んだ」
「情けない姿を……いてて……」
「水を飲め。それから財布と石を確認しろ」
 ベッドサイドを切っ先で示され、そこに水差しがあることにようやく気付く。水の存在を認識すると、急激に喉の渇きを感じた。グラスに注ぐことを省き、花瓶のような筒をぐいっとあおる。昨日、砂漠をうろついていた時のように何口か飲んで、ふう、と息をつく。
 と、落ち着いている場合ではない。
 先ほど言われた彼の言葉を思い出し、懐を確かめた。間もなく右手には硬貨の入った革袋の感触があり、すぐ隣で、尖ったものに触れた。隠していたルビーだ。彼の依代とも言うべき宝石は、硬貨とは違う小ぶりな革袋に入れて、首から下げていた。
「だ、大丈夫です。『あなた』も」
「なら良い……だがひとつ訂正しろ。それは俺じゃない。勝手に石ころにするな」
「あ、すみません……」
 その切っ先が再び喉元に当てられぬよう、すぐさま謝罪を述べる。
 昨日は何杯飲んだろう? 記憶にあるのは一杯だけだ、しかしそれだけでこの有様。
 普段から酒はあまり飲まないので、嫌な予感はしていたのだ。けれども少しくらい、曾祖父に劣らない部分を見せたかった。意地の張り合いというか、身内の矜持というか。だが結果は、悪酔いした頭に二重の攻撃をくらっただけである。
 慣れないことはするものではないよ、全ては仮説と検証を経てからだ。さてキミは、自分がどの程度酒が飲めるか検証したことはあるかい?
 あなたならそう言うでしょうか、ひいおじいさん。



 あの日の夜。私が短剣に脅されながらいきさつを白状している間、テリオンさんは表情豊かに感情を表していたので、旅を進める中で変化の少ない人だとは予想していなかった。
 彼はオルブライト邸の一室で、薄暗い電灯のもと、その瞳を驚愕に見開いたり、と思えば子供の悪戯に手を焼く親のように頭を振ったりしていたのだ。
「確かにサイラスは、放っておくと突拍子もないことをやる男だった」
「そうなのですか」
「しかし、おたくは違うらしい」
 あいつの言葉にまんまと従うくらいだからな、と獲物を値踏みするような目が光り、私を震え上がらせる。
「私はただの、凡庸な学者ですよ。お願いですから、短剣を、しまってください」
 両手を上げたとて、何も意味はない。だが同情か憐憫か、とりあえず供述が嘘ではないことだけは伝わって、間もなく私は釈放となった――元から拘束などなく、手足は自由そのものであったけれども。彼の刃と眼光の鋭さが太い鎖となって、身動き一つ取れずにいたのである。
 感情の起伏のほとんどない人。
 それは、まったくないということを意味しているのではない。巡ってきた街を思い返せば、それが分かる。

 地図を開いた。
 各所に印された我々の足跡が、絡まった麺のような筋を描いていた。朱色の線はアトラスダムから始まり、コーストランド地方へと南下して、気まぐれな猫の足跡のようにうねっている。
 リプルタイドは港町の輝きを忘れぬといわんばかりに、海面から砕いたガラスのような光を放っていた。新鮮な魚を使った料理に目がくらんで、すぐ近くで放置されたままの半壊した軍艦を一瞬忘れてしまったのは、少し反省している。比較的人が多く残るグランポートでは珍しい異国の本を見つけ、眺めているうちにスリに遭いそうになってテリオンさんに叱られた。
 ゴールドショアの貴族街。きっとかつては着飾った人たちで賑わっていただろうに、今では主を失った館がずらりと並んでいるだけだ。財産を持って逃げ出すことを否定するわけではない。それも人の生きる選択のうちのひとつだろう。その中でも残った一部の貴族が、大戦の後、もぬけの殻になった館を病院や孤児院へ変えたらしい。屋敷の外壁には、建物の雰囲気には少し似つかわしくない看板が掛けられていたのを覚えている。
 貴族はいけ好かないが、中にもそういう人がいるのだ。十のうち九割が悪だからといって、残りの一割も同じく悪であるわけではない。
 再び地図をなぞる。
 ストーンガードの地名を見て、私の脳裏にある出来事が思い出された。ストーンガードでは、製本所を再建するかどうか、十年以上悩んでいるという人に出会った。戦火で全焼した、つまり機械も原材料も失われたわけだが、今は探せば、投資をすれば手に入る時代。実際、私も学生時代には何冊も本を買っていた。ただそれらが、ストーンガード製ではないだけだ。問題はそこだ。
 私はその人物にこう述べた。
「旅人の戯言と思って聞いてほしいが、私にとって本は知識の宝庫であり、これから先も人の想いを綴るのは本になるであろうから、ぜひ再建してほしい」
 苦労を知らない若者の、しかし切なる願いであったから。どこの国でも製本はできるだろう、だがその場所はひとつでも多いほうが良い。それに、私の家にあるストーンガード製の本は、とても美しかったのだ。
 あの人がその後どうしたのか、今は分からないが、いつか知ることができるだろうか。無責任な私が放った一言が、どう芽を出したか、もしくは枯れたか、できることならこの目で確かめてみたい。
 街をあとにする時、テリオンさんに「学者の子孫はやはり学者だな」と言われ、そういえば曾祖父の遺品に山のような本があったな、と思い当たる。本は好きだ。その中に、手にした人々の記憶が詰まっている気がする。頁をめくるたびに、その記憶のひとつひとつをも解読しているような気分になれる。
 ハイランド地方も、サンランド地方も、リバーランド地方も、街のどこかには人がいた。見るからに裕福そうな人もいれば、そうでない人も。どの街にも、同じように。
 ウッドランド地方で耳にした獣の遠吠え。あれは何だったのだろう。この旅では珍しく野営をしていた時であったから、寝ているうちに獣に襲われたらどうしようかと考えてしまったが、私の姿があまりに間抜けそのものだったのだろう。テリオンさんの冷たいまなざしに我に返った。自分がテントを張ったのは、森からは程遠い、しかも街道のそばだ。他にも野宿者は居たし、テリオンさんが火の番を買って出てくれたし(人間ではない点がいささか気になるが)不安要素などどこにもない。単に自分の世間知らずが露呈しただけだった。
 引っ掛かったのは、クリフランド地方に立ち寄った時だ。ボルダーフォールで、テリオンさんは丘の上を眺めていた。その様子は閉じられた箱のように頑なで、まるで誰かを弔うようで、私は声を掛けることができなかった。丘の上の大きな屋敷跡。今では形ばかりとなった、けれどもさぞ立派だったと分かるそこには、かつて誰が住んでいたのだろう?
 同じようなことがノースリーチでもあったように思う。ノースリーチの街並みがほとんどそのままであるのは、雪山が自然の城壁となって街を守ったからか。無論、食糧自給の面からすれば『戦時中は保存食で何とか食いつないだらしい』と父から聞いたから、かなりの苦境であったことは想像できる。
 ノースリーチには小さな、古びた教会がある。昔は廃墟同然となっていたところを、戦没者の慰霊にと、フレイムグレースの聖火教会が管轄に入れた。どんな時代であれ、宗教は傷ついた人の心の拠りどころになる。雪の中で光る小さな教会の明かりを、テリオンさんが離れた場所からじっと眺めていたのは、彼が記憶の中の景色を追いかけていたからだろうか。
 私は彼を知らない。しかし、一滴の雫がこぼれ落ちる程度ではあるが、過去の彼を垣間見ることができた気がした。
 彼と私と、そして曽祖父との距離が、少し近付いたように感じた。



 雪道を歩いていると、少し前にうだるような空気の中を右往左往していたことが幻であったかのように感じる。視界のほとんどを埋めつくす白さも、ローブの隙間から入り込む冷たさも、実はまやかしであるかもしれない。そう思いそうになる。
 フレイムグレースの大聖堂が、すぐそこまで迫っていた。時々何処かで雪の落ちる音がして、ざざあっ、と波にも似た音が飛び込んでくる。もしや魔物か? と思うのだが、そうであれば私より先にテリオンさんが反応することを、私は旅のなかで学習していた。
 彼は危険予知に長けた人間だ。
 表情があまり変わらないぶん、視線で語る人だった。その目が、少しでも怪しいと思われる場所には、足を踏み入れる前に罠がないか確認するよう指示をくれる。彼に同行しているうちに、私は頭の中にある旅の手ほどきに『初めて訪れる場所ではまず適当な石や木の枝などを放り投げること』という一文を追記した。補足するなら、正しくは、私の旅に彼が同行しているのだが。
 他にも興味深い助言をもらったことがある。
「人物画とは絶対に目を合わせるな」
 人物画とはまた古めかしい……と思ったが、写真技術が一般まで普及し始めたのは曾祖父の死後だ。そう考えれば合点がいく。ただその助言は、まじないというか験担ぎというか、実用的なものではない。彼もそんなたぐいを信じるのだろうか?

 ひらひら、ひらひら。小鳥の羽のように舞う雪が、頬に当たって融けるのを感じた。
 街並みを進んだ奥、大聖堂が雪景色に浮かび上がるさまは、水面で揺れ動く虚像のように儚げで、しかし番人のごとく鎮座しており、私たちをその影の中へすっぽりと覆い隠した。ノースリーチの教会の何倍だろう。さすが総本山というべきか。
「大きい、ですね」
「ああ」
「昔もこんなに立派だったのですか?」
「……変わらない。ここは、何も――」
 彼の目が大聖堂の広場から街へと移る。一体何が見えているのだろう。消え去った時代の遺産? 私の知らない、美しかった頃のオルステラ?
 白い髪が揺れる。ほの暗い景色の中へ、今にも消えていきそうだ。
 電灯というものが広く使われるようになってからも、フレイムグレースでは主に聖火を灯りとして用いているようである。宗教都市ならではの伝統なのだろうか、それが街の荘厳な雰囲気を保ち続けている。
 炎の輝きは、魂の鼓動のようだ。
 風が吹けば躍動し、その姿は定まらない。一方で、静寂の中では凛と佇む。人間がそのうちに抱く魂も、きっと聖火のように、静と動の往来を繰り返しているのではないか。
 ならテリオンさんは、今どちら側に立っているのだろう。
 何故曽祖父が彼を呼び覚ましたのか、その理由を知ることができないまま、私の旅はまもなく終着点に到達する。この街が、地図上で唯一印のされていない場所だった。ここでしまいだ。私たちの不思議な旅の最後を、大聖堂の鐘が彩る。
 でも。
 これから彼はどうなるのか? それを私は知らない。曽祖父の遺言にもない未知の領域の前に、私たちは立っていた。
 大聖堂の中へ踏み入る。入り口に立つ神官へお辞儀をしながら(言うまでもなくテリオンさんはしなかったが)建物の奥へと進むたびに、靴底に引っ付いた雪がぎゅうぎゅうと悲鳴を上げる。なのに、前を歩くテリオンさんからは足音一つしない。当然と言えば当然か。
 細長い絨毯の上を進むと、最奥で、ひときわ大きな聖火が燃えていた。ごうごうと炎が揺れる姿は、意思を持つ生命体のような印象を受ける。近付くと、その巨大さゆえか、目元あたりがちりちりと熱く感じた。
「結局曾祖父は、私に何をさせたかったんでしょう」
 私の独り言は喉で留まらず、教会の中にころりと響いた。
 旅をして、世界中をテリオンさんと見て回った。言ってしまえばそれだけだった、少なくとも私にとっては。
 だがテリオンさんにしてみれば、この旅の意味は大きく異なるだろう。彼は自分が生きてきた日々と今の時代の差を、拒否権もなく見せつけられてきたわけだ。私の普通が、彼には異常に映ったに違いない。
 崩れかけた建物に、傷ついた人々。こんなオルステラが美しいと、曾祖父は本当に考えていたのだろうか?

 サイラスのひいおじいさん、あなたの目的とは、一体何だったのですか。

 大聖堂のベンチ、その最前列に腰かける。ひとり分の距離を挟んで、私達は無言のまま、静かだった。たまに聞こえる炎の爆ぜる音に、時が止まっているのではないことを感じながら、ただ座っていた。
 間の空席はきっと、この旅の発案者の分だ。互いに何も言わなくとも、テリオンさんもそう考えているだろう。確証のない確信が、私の中にはあった。
 そこに今、サイラス・オルブライトが居たなら。居てくれたなら。
 テリオンさんの隣に座って、なんと声を掛けるだろう? 挨拶か、謝罪か。いずれにせよ私には分からない。
「……おたくには、分からなくていい」
 心を読まれたと思った。テリオンさんの声に、私の心臓がぎくりとした。
 大聖堂の中にはもう誰もいない。夜が近付き、何人か居た神官たちは何処かへ行ってしまった。残されたのは我々二人。話していても不審に思われることはない。
「サイラスが何をさせたかったなんて、分からなくていい。あの変人を理解できるのは、おそらく俺だけだ」
「すごい、随分な自信ですね」
 人目を気にする必要もないせいで、少し大きな声になってしまった。偉大な曾祖父が変人呼ばわりされるのを、生まれて初めて耳にしたからである。
 しかしそれ以上に、曾祖父を理解できるなんて、そんな言葉がテリオンさんから出るなんて、私の想定を超えたことだった。旅の中でそんな話をしていた覚えはない。
 なら、あなたにとって。
「……テリオンさんにとって、曾祖父とはどんな人だったんですか? ただの変人でしたか?」
 窺うように彼を見ると、瞳が二、三度瞬いていた。珍しいな、と思った。まるで虚を突かれたような様子が、どこか新鮮だ。聖火の光が白い髪に滲んで、縁どりが薄くぼやけていた。
「――変人だ。なにせ、俺のような人間を好む奴だったから」
「好む、とは」
「……あいつは、何も言っていなかったんだな」
「どういうことですか」
 仕方ないといった風に、彼の口から溜息が漏れる。それは序章。これから、私が知ってはいけないことが、堰を切ったように溢れ出してくる予感だ。
 その時だった。彼がおもむろに立ち上がり、右腕を振りかぶったのは。 
「サイラスは――」
 言葉とともに飛んでいく。聖火へと向かって、星のような何かが。
 え? と思う間もなく、その軌跡を追う。間もなく光は聖火に飲み込まれた。ぼっ。小さな音がした。
 光っていたのは、確か赤い、石のような。

「サイラスは俺の、情人だった」

 告げられた言葉の重さと、私の首に下げられていた魂の重さが、入れ替わっている。
 はっ、と慌てて懐を探る。ない。確かにここにあるはずのルビーが、ない。
 まさか。隣の彼を見上げる。にい、と口角を上げるのは見覚えがある。彼が何らかの思惑を成功させた時に浮かべる、あの意地悪そうな。
 ルビーの融点は高い。炎の中へ投げ込まれたとて、燃え尽きることはないだろう。だがきっとテリオンさんのことだから。
「安心しろ。投げる前に、術式を少し削っておいた。そのうちこの術も解除されるだろう」
 やっぱり! という感情と、いやそれよりも! という思いが混ぜ合わさって、私の中で烈火のごとく燃え盛る。
「なんで投げたんですか!? というかどうして触れられるんですか!? あなたは死んだ人なんでしょう!?」
 立ち上がってテリオンさんと対峙する。疑問ばかりが矢継ぎ早に出て、あっという間に彼を質問攻めにしていた。
「曾祖父のことだって、あれから何も聞かなくて、どうして!」
「落ち着け、学者先生」
「落ち着くもなにも! おかしいでしょう! あなたはもうここに居られなくなるんですよ!」
「死んでいない」
 焦っていた。曾祖父の想いを反古にしたのではないか、私にはまだやり残したことがあるのではないか。どうしよう、と狼狽しかかっていた頭が、彼の一言でぐんと引き戻される。 
「……え?」
「あれは嘘だ」
「……何が、」
「俺が、弓で死んだということ。俺は生きているし、サイラスもまだ生きている――ここではなく、俺の時代で」
 ひとつひとつ、彼の言葉を噛み砕いて、整理する。
 彼は、生きている。
 そして、サイラス・オルブライトも、生きている。彼の時代で。
 ということは。彼は、死した存在ではなくて。魂が呼び戻されたのではなくて。
「つまり、サイラスが編み出した術は、過去の俺を連れてくる術だったってわけだ」
 異なる場所、異なる時代から、物体を呼び出す術。
 自分が今まで学び、経験してきた全てを覆されたような。天変地異が起きたような、思考が転回する感覚。足元の絨毯がうねり出して、既成概念を打ち壊す怪物となり、私をがぶりと食ってしまう幻覚が見える。
「……そんな、そんなこと不可能です。時間の法則を無視することなんて、できるわけがない」
 再び混乱の濁流に飲み込まれそうになる私を、テリオンさんの声が掬いあげた。
「やってのけるのが、あいつなのさ」
 その声の、細められた瞳の、なんと柔らかいことか。
 まるで若葉の表面をつややかに流れ落ちる雨粒。あるいはガラス越しに差し込む昼下がりの陽光。形のないあたたかいものが、彼の言葉からほろほろと零れていく。
「このオルステラを旅できたのは、……人が、生きようともがく世界は、悪くなかった」
 彼の言葉で、私はやっと気付いた。
 巡ってきた土地で、街で、何とか生きようとする人々。彼は、そんな人々を見ていたのか。眺めていたのか。
 私の見てこなかったものを、あなたは見ていた。荒らされた宝石箱の底に残った、僅かな希望のひかりを。
 曾祖父があなたに見せたかったものを、あなたはちゃんと見ていたのだ。
 傷ついても、傷つけても、人は生きていく。何の意味もないような、その行為自体に価値があると、あなたは言うのでしょうか。
「あなたも、そうやって生きているのですか……?」
 私の目の前に立っているあなたは。かつてのオルステラで、今も生きているあなたは。
 問いの答えは、聞かずとも分かっていた。それでも私は、彼の声で聞きたかったのだ。
 その口元が、小さく音を紡ぐ。
「生きている。俺も、サイラスも」
 曾祖父の大切な人の、いのちの音を。
「あなたが生きているなら……何故、何故私は、この時代に生まれたんでしょう。何故私はここに居るんでしょう。あなたが曾祖父の想い人であったなら……」
 私の存在は、彼と曾祖父が、彼らの望んだ結果にならなかったことの証明となる。
 なのにどうして、彼は私と旅をしたのか? 何故私に、彼を呼ぶ役目が与えられたのか?
 何故、何故、何故。学者は答えを求めてばかり。彼らにとっての私の存在とは? 情けない、論理的でない、ただ感情のままの問い。駄目だ、視界がかすむ。
「泣くな、学者先生」
 あいつに似た顔で泣かれると、困る。
 そう言う彼に、あなたでも困るんですね、と言いたかった。そして、似てないなんてやっぱり嘘だったんですね、と。でももう、うまく喋ることができない。
 私の頭に、少しごつごつした、しかし柔らかいものが置かれた。テリオンさんの手だと理解した瞬間に、声が聞こえてくる。
「俺がここに立っていることが、その理由だろうよ」
 幼子をあやすような掌の温度。その時確かに、三つのいのちが、聖火に照らされていたのだ。



 汽笛の音が大きく鳴り響いた。船に乗り込む同期の学者たちを見送りながら、両手を振る。遠ざかっていく旅客船、そこには空き部屋がひとつあることだろう。結構な値段の、良い部屋だったと思う。
 ローブのポケットに手を突っ込み、チケットを取り出した。先ほど出発したばかりの船の乗船券だ。もう用済みの、使われることのなかった、ただの紙切れ。
 それを、真っ二つに破った。
 小気味いい音とともに千切れた券を、もう一度しまい直す。これから忙しくなる。アトラスダムへ戻ったら新しい仕事が待っている。オルステラの傷を癒すために、国は再び舵を切らねばならない。雇用、教育、その他諸々――現状の制度では不足がある。まずは提案書をまとめよう。こういう時に曾祖父の七光りを利用しなくてどうする。オルブライトの家がこれまで成し遂げてきた数々の功績に、私も名を連ねるためには、一秒も無駄にしていられない。ああそうだ、魔法も学び直さなければ!

 滅びゆくから美しいのではなく、生きようとするから美しい。
 散る瞬間が美しいのではなく、とどまろうとするから美しい。
 ねえテリオンさん。あの時の距離は、埋まっていますか。ちゃんとサイラス・オルブライトの隣に居ますか。
 あなたたちの生きている時代は、どうですか。
 私のこの時代は、とても、とても。



「キミと未来を生きることができないなら、いつかキミに未来を見せたい」
 確かそんなふざけたことを言っていた気がする。いつだったか、俺があいつと寝た翌朝、もうあいつとはこれきりにしてやろうと決めた日のこと。そう言っていた。多分、分かっていたんだろう。
 強い言葉だな、と思った。サイラスの言う未来には、そこかしこにあんたの影があって、きっと俺はあんたの元から去ったことを後悔してしまうんじゃないか。少しの不安が俺の中によぎって、何も返さないままでいたか。
 隣で、見覚えのある黒髪が潰れている。このマルサリムもぼちぼち崩れていたが、それに負けず劣らず机に崩れ落ちた男が一人。
 エール一杯で見事に眠りこけてしまった男は、あいつの曾孫だというが、この酒の弱さだけは全く似ていない。それを除けば、若いころのサイラスはきっとこんな感じであっただろうと容易に想像できるような、小綺麗な見た目をしていた。うなじが見えなければサイラスそのものだ。
 いや、もしかしたら、本当にサイラスなのかもしれない。

「やはり、私はキミと居たいよ。死んだ後も共に居ることができたなら――肉体には限界があるから、キミも私も時を超えないと無理だね」
「何を馬鹿なことを言っている。早く服を着ろ」
「うん、でも、不可能ということはまだ証明されていない。誰も成功したことがないだけであって、試す価値はある。そうだ確か、物質と空間の関係について研究していた人物が居たはずだよ! そこに何か情報があるかもしれない」
 とか言いながら奴は上半身裸のままで部屋をうろつき始めたので、すっかり話を切り出すきっかけを逃してしまったのだった。

 例えば一度死んだ後に、誰かがかつての自分を呼び出すことができたなら。それが自分自身であったなら。それを何度も繰り返すことができたなら。
「こいつもサイラス、あいつもサイラス……」
 なんという恐ろしい事態。文字通り、世界の至るところにあいつが存在しているってわけだ。
 もしかすると、昔話に出てくるような永遠の命とは、そうして完成するのかもしれない。
 あいつの言葉を思い出す。
「それなら、できることなら、キミと出会う前の私をキミに会わせてみたい。記憶も何も消し去って、また最初からキミに出会いたいよ」
 馬鹿真面目にのたまうものだから、俺はまたしても何も言うことができずに、結局そのままあいつの部屋を後にした。朝焼けに世界が起こされる前の、ほのかに明るいアトラスダムの街が、今でも忘れられない。
 もしこいつがあの時のサイラスの言葉どおりなら、それもまた一興。
 さて今のうちに腹を満たしておこう。空のジョッキを掲げて、俺はエールの追加を高らかに叫んだ。


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