おとなりで恋という名の音が鳴り
・昔発行したコピ本の再録です。
・おとなりさん同士のふたり。
#ブル遊 #現代パラレル
おはよう、今日も良い天気だね!
目が覚めてすぐにスマートフォンを確認すると、こんなメールが届いていた。コンセントに差し込まれた充電器に繋がれて、機械は画面にこの一行を表示している。差出人は自分の受信メールのほぼ七割を占めている人間だ。良い天気。部屋の隙間から流れ込む光を確認する。確かにそうだった。
遊星は部屋のカーテンを開けた。待ち兼ねていたと言わんばかりに日光が駆け込む。若草色の向こうには、秋に差し掛かる空が眩い朝日を飾り付けていた。フローリングの床を照らす光は寝起きの目には明る過ぎる程だ。寝惚け眼を擦りながら、遊星は窓の向こう側の壁をちらと見遣る。薄い灰色をした隣の家の壁だ。数秒間見詰めてから、彼は寝巻きに手を掛けた。確か今日は有給を取ったと言っていたはずだ、着替えなければ。ぼんやりと思い出す。スマホの時計は既に八時半を過ぎている。
ジーンズとTシャツに着替えてから一階へと降りる。洗面所で顔を洗い、リビングへと向かった。薄暗い部屋は必要最低限の生活用品のみがある。テーブルには何も用意されていなかった。当たり前の、日常のワンシーンだ。
遊星の両親は長く海外で研究職に就いていたが、彼が高校に上がってすぐに実験中の事故で死んだ。数年経ち齢十八になった遊星は、いつもと変わらずまず冷蔵庫を開けた。習慣の動作である。牛乳パックを取り、食器棚からグラスを用意して注ぐ。真白い液体を一口飲んでから食事の支度だ。何を作ろうか。思案していると、リビングの壁に取り付けられたインターホンが音と共に点灯した。
画面を確認せずに遊星は玄関へと向かう。鍵を開けた先に見知った顔を捉えて、おはよう、と挨拶した。
「おはよう、今日も良い天気だね!」
それはさっきメールで見た。そう言う前に、来訪者は遊星に抱き付いた。
ブルーノ、と口をもごもごさせながら抵抗すると、青年は呆気無く両腕から遊星を開放した。
「あぁごめん」
遊星はにへらと笑うブルーノを見上げる。彼のロイヤルブルーの髪が日の光を浴びて輝いている。遊星はこの身長差が憎らしいと日々常々思っていた。兎も角背が高い隣人の青年、ブルーノは、なんという成り行きなのか、自分の恋人である。朝から高いテンションを引っ提げてやってきた彼は、すたすたと遊星の家へと上がり込んだ。リビングへ足を進めて、そこに食事の支度が全くないことを把握すると、勝手知ったるが如く冷蔵庫を開ける。
「今起きたばっかりなんだろ? 何が食べたい?」
「良い、自分で用意する」
「いつものことじゃない。あ、確か昨日ご飯炊いたんだっけ? なら和食にしよう」
「……じゃあ、頼む」
自分が鍋に手を掛ける前に、ブルーノは既にそれを用意している。彼は両親が仕事で留守がちな頃から遊星の世話を色々と焼いてくれている隣人だ。小さい頃から知っていて兄のように慕っていたのだが、遊星の高校卒業時に告白されて付き合い始めた。それからまだ半年経つか経たないかである。
好きなんだどうしようもなく。
そう言われて遊星が真っ先に感じたのは嬉しさだった。差別感も嫌悪感もそれ以外の何物でもない、ただ只管に歓喜が彼の心に湧き出でた。
ブルーノは昔から無頓着な遊星の生活を心配していた。それはブルーノが学生でも社会人になってからも変わらず、勉強をみたり食事の世話をしたりと、保護者の代理に近い存在だった。何も頼んだことは無いしお互いに約束したことでもない。ただやりたいからだと言っていたことを、味噌汁の準備をするブルーノの背中を見ながら思い出す。その親愛が恋愛に変わったのはいつなのかと、聞いたことはない。
「今日何処か行きたい所ある?」
野菜室から取り出した葱を刻みながらブルーノが問う。その横では鍋にたっぷりと注がれた湯が沸騰し始めていた。出汁の匂いが漂っている。
「いや、特には」
「じゃあブルーレイ一緒に観ない? いま、旧作安いからさ」
「あぁ、構わない」
ありがとうと言われ、遊星は少し照れる。そんな礼を言われる程のことじゃない。ブルーノがくれる無償の愛に比べれば、自分の礼など卑小過ぎることだと思っている。卵の殻が割れる音を聞きながら、遊星は漸くリビングのカーテンを開けた。世界は眩しかった。
塩胡椒のかかった目玉焼きに味噌汁に白米。それに冷蔵庫に入っていた漬物と生野菜のサラダがテーブルに並ぶ。遊星にとっては充分過ぎる朝飯がきっちり二人分用意されているのもいつものことだった。リビングの大きな窓から庭先を眺めていた遊星に声が掛かる。できたよ。振り返ると、変わらない笑顔で手招きするブルーノが杓文字片手に立っていた。
テーブルに向かい合わせになって座る。二人揃って両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます、ありがとう」
どういたしまして。瞳を細めるブルーノの青い髪が揺れた。
朝食を食べた後、遊星とブルーノは連れ立って家を出た。徒歩で行ける場所にあるレンタルショップは二人にとって既に馴染みのものとなっている。
棚をいくつか物色して、少し前にヒットした映画を借りることになった。ミステリー小説を実写化したもので、遊星はそのタイトルだけは知っていた。街中でもテレビでも何度か見掛けることが多かったので。
目的のブルーレイディスクを手に入れて直ぐに帰宅する。途中のバイク屋に目を爛々と輝かせるブルーノを見て、まるで大きな子供だなと遊星は口元を緩ませた。
ブルーノを一言で表すならば、素直。そう遊星は思っている。喜怒哀楽を押し付けがましくない程度に良く表現する。するりと好きだと言ったこともそのうちの一つなのだろう。朝から抱き締めてくるのも、きっと。
遊星の家を通り過ぎて、ブルーノの家の玄関へ向かう。数え切れないくらいくぐった扉を通ると、懐かしくもある慣れた匂いが遊星の鼻を擽った。ブルーノの家に来ると、遊星はまるで一瞬たりとも彼が離れないように抱き付いているかのような、全身を包まれている気分になるのだった。気恥ずかしくもあり嬉しくもある不思議な安堵感に、自然と遊星の心はほっとした。
ブルーノの両親はこの一軒家とは別に田舎に買った終の棲家へと既に移住している。つまり実質ブルーノも遊星と同じく一人暮らしである。現在の家の主は冷蔵庫からストレートティーのペットボトルを一本取り出し、自室のある二階へ繋がる階段を上った。遊星はその後ろをついていく。
ブルーノの部屋は彼を形容したかのようなものだ。起きてから直していないと思われる上布団、好きな小説や雑誌が乱雑に数冊積まれたパソコンデスク、床に放置されたままの新製品の携帯機器。その傍らに置いてある分厚い本の表紙に開発者用という単語が書かれていたのを見て、遊星の勘が働く。きっとまた趣味の開発でもやるのだろう、ブルーノは腕の良いエンジニアなのだから。
遊星はベッドを背凭れにして床に座った。ペットボトルが置かれた小さなテーブルを挟んで、テレビに繋がるプレーヤーにディスクをセットするブルーノを観察した。開閉ボタンを押す長い指や、縦に長い体躯は、自分達が随分大人びてしまった証拠のような気がする。変わらないのはその瞳だ。濃い藍色に灰褐色を薄く流し込んだような目の柔らかさは、今も昔も全く同じものだった。
自動再生が開始された。暗い画面に文字が白く浮き上がって、映像が流れる。まずは予告だ。どの映画もそうであるように、このディスクももれなく予告番組を再生した。それまでにブルーノが遊星の右隣へと座り胡坐を掻く。前座の映像達は三作品分だった。
「遊星」
さて本編が始まるというところで、右から名前を呼ばれた。遊星は振り返り視線を上げる。口元を軽く結んだブルーノが、あの目の色を揺らめかせながら見ていた。ふと顔が近付く。遊星の右肩にブルーノの左手が置かれる。必然的に互いの瞼が閉じられた一瞬間の後、唇が重なった。
「ん、」
遊星から鼻にかかった息が漏れる。映画は始まっている。柔らかく微かに湿った唇がくっついて、ちゅ、と小さく水音を立て、短いキスは終わった。
しかし次の瞬間、再び開いた遊星の双眸には、一瞬間前とは同じだけれど同じではないブルーノが映っていた。先程の彼とは些か端然とした目のブルーノが遊星を見下ろす。
「またか」
「また私で悪かったな」
全く悪いと思っていない風にブルーノが笑う。否、ブルーノだがブルーノではない彼。今のブルーノは普段の彼と比べて雰囲気が大分と大人びている。
「ブルーノは?」
「どうやら『また』我慢ならなかったようだ」
「落ちたのか」
「起こすか?」
「いや、……取り敢えずは、良い」
前髪をぐっと掻きあげて額を出し、ブルーノはふっと口角を上げた。その仕草が非常に様になっていて、間近で見ていた遊星の心拍数が少し上がる。
柔和な瞳には僅かに挑戦的な色が混じり、余裕溢れる雰囲気の今のブルーノは、普段の彼を表とするならば裏の『ブルーノ』だ。何らかの理由で思考がオーバーロードしてしまい、深層心理へ自ら落ちた時に出現する、表のブルーノの心の代弁者。それがこの『ブルーノ』の正体であった。
遊星が初めてこの『ブルーノ』に遭遇したのはそれほど昔のことではない。
今日のようにこうして遊んでいて、何度目か分からないキスをして、舌を絡め合わせた。否応無しに官能的な刺激に流されかけた時、唇を離したその先にはこの『ブルーノ』が居た。それはもう只管驚愕したものである。けれども人間の順応とは素晴らしいもので、本日で既に遭遇回数が十回を超えてしまったために、最近ではもう馴染んできてしまっているのだが。
『ブルーノ』はブルーノのことを認識しているし、ブルーノの意識を引き摺り出すこともできる。しかしブルーノは『ブルーノ』の存在を知らない。気が付いた時には落ち、気が付いた時には意識を浮上させられている。そのためか、意識が戻っては毎回「ボクは遊星が好き過ぎて夢見がちなのかな、たまに意識が飛んじゃうみたい」とへらへら笑っていた。本当はそうではないと伝えようか。そう考えたが、何故だか憚られた。まるで、いつものブルーノを否定してしまうような気がして。
『ブルーノ』は溜息を付いて腕を組んだ。映画は誰にも観られずに流れている。
「自分が情けなく思えてくるな。私はそこまで臆病者なのだろうか」
それは恋人に対して、という意味だろうか。それとも諸々の行為に対して?
「いや……分からないが、でも、」
「でも?」
少しだけ口を噤んで、それから遊星はぽつと呟いた。
「やさしい、んだと、思う」
きっと、ブルーノは自分を上手くコントロールできていないだけで。文字通り彼の優しさが裏目に出ているように思えた。自分を大切にしてくれているが故の結果が、今目の前で苦笑している人格の出現であると。
ふむ、という『ブルーノ』の声が零れる。その呟きに遊星ははっと意識を戻した。本人に何を言っているんだ俺は。いや、今は本人ではないから良いのか? そんなパラドックスに頭が混乱する。
「……では、私はそろそろ失礼しよう」
「え?」
「もう一人の私に惚気られては、少し肩身が狭いからな」
『ブルーノ』の顔に挑発的な笑みが浮かぶ。それにどくりと遊星の心臓が唸ったかと思うと、『ブルーノ』は両目を閉じ、瞼が彼の掌に覆われた。合図だ。一瞬間後、掌が解かれて再び目が開かれる。そこには既に意志の強そうなあの目はなく、在るのは普段通りのブルーノの優しい瞳だった。
「――あ、あれ? ボク……、」
きょろきょろと左右に首を振ってから遊星を見下ろしたブルーノは、ぱちくりと目を瞬かせている。何事も無かったかのように遊星はブルーノを覗き込んだ。
「どうした? ブルーノ」
「……ううん、何でもない。また飛んでたみたい」
へへ、と歯を見せて笑うブルーノに、遊星はまた何も言えなかった。
映画は続いている。
* * *
ブルーノが遊星の家に泊まるのはもう何度目になるか知らない。寧ろ遊星が一人で居ることを彼が心配するので結構な割合で泊まりに来ているのだ。遊星が風呂に入っている間に明日の朝食の下拵えを済ませたブルーノは、ぺたぺたという足音に目を細めつつ顔を上げた。間も無くその視線の先から遊星が現れる。
「明日は仕事だろう。良いのか?」
「大丈夫だよ」
もう何度やったか分からないやり取りだ。翌日仕事がある無しに関わらず、泊まりに来るとブルーノはきっちりと朝飯の支度までしていく。恰も義務であるかのように彼は遊星の世話を焼く。その姿を見る度に遊星はこそばゆい心地になった。誰かに気にかけてもらうことは、いつも柔らかい陽だまりのようなぬくもりを与えてくれる。あたたかすぎて少々居た堪れなくなるくらいに。
遊星の部屋へ上がり、セミダブルのベッドに二人並んで座る。先に風呂に入っていたブルーノから微かな体温がほわりと伝わってきて遊星の肩から流れ込んだ。風呂から上がってそれ程経っていない二人の身体は互いにまだ温かく、クーラーを付けた部屋に冷まされずにいる。Tシャツとジャージはまだまだ寝巻きの代わりを果たしそうだった。
「ゆーうせーい」
嬉々として、ブルーノの長い両腕が遊星を囲う。ぎゅうっと抱き付いた彼の体重が遊星に掛かり、ベッドへと倒れ込む。二人分の体重にスプリングがぎっと鳴いた。
「ブルーノ、重い」
「遊星は全然変わらないね」
「背は伸びている」
むっと眉を寄せてブルーノを睨んだ。けれども彼の表情はふふ、と笑いを携えたままだ。
「身体の大きさのことじゃないよ」
「じゃあ何だ?」
質問には答えず曖昧な笑みだけを浮かべて、ブルーノは唐突に起き上がった。遊星の身体が解放される。扉の方へと向かったブルーノは、その横の壁に付けられたスイッチを人差し指で押した。ぱちんと音がして即座に部屋に黒が広がる。
「もう寝よう」
その声が何処となく掴みどころのない色をしていたので、遊星は思わず上半身を起こしてブルーノを見詰めた。昼間は明るい彼の髪が、今は夜闇の流れる部屋に混ざり込んでよく見えない。暗闇に目がまだ慣れていなかった。輪郭のぼやけた影が段々と近付いてきて、ブルーノがベッドへと戻ってきていることは分かった。確認してから、遊星は壁際に添わされたベッドの端へと身体を寄せ、もう一人分のスペースを作る。ありがとう、とブルーノの声がして、それからベッドに寝そべる人数が増えた。
布団を被る。広くはない寝床で二人の身体は必然的に引っ付いた。身体を包む布を挟んで温かさが与えられる。宝物を誰にも見られたくない子供のように、ブルーノの腕は遊星を抱きすくめた。
「遊星は変わらないんだ」
「だから、何がだ」
先程から的を射ないことばかり言うブルーノに少々語尾を強めて訊ねた。首筋に埋もれた彼の唇が言葉を発する度に震えて遊星の皮膚を擽る。
「ボクは君が好きだよ」
そう呟いたかと思うと、突然遊星の唇にブルーノのそれが押し当てられた。んぐ、と息を詰まらせ、遊星は驚きに目を瞬かせる。激しい。瞬時に思ったのはそれだった。互いに横になっていた身体が回転する。唇はそのままに、ブルーノの身体が遊星をベッドへと押し付けた。
「んんぅ、ぐ、ん、っふ、」
体重に肺が押され、僅かに空いた隙間から嗚咽に近い呼吸が漏れる。何の感情もなく欲に任せたような、若しくはどんな感情も混合されて押し潰されたような、苦しいキスだった。
混乱で遊星の頭がぐわんぐわんと掻き回される。涙が滲んできた。
どうしてブルーノはこんなにきついキスをするのだろう。
疑問は不安を生み出す。頭の横に立てられたブルーノの腕をぐっと握り締めた。耐えられない、と思った時、ふっと身体が軽くなった。はぁ、はぁ、と荒い息をする遊星の上で、ブルーノが暗い瞳で見下ろしている。眉を寄せ、きゅっと締め付けられたような目だ。その奥に見知った感覚を見つけて、遊星は漸くあぁ、と声を絞り出した。
「また、落ちた、のか」
「――済まない、手荒な真似をしてしまったようだな」
『ブルーノ』は目を一度伏せてから深い溜息をついた。困った奴だ、と髪を掻き上げながら、遊星の上から退く。すっかり自由になった身体を弛緩させるように遊星は大きく呼吸をした。
身体が汗ばんでいる。上がった体温を下げるために布団を捲った。見上げた天井は相変わらず暗い。『ブルーノ』は再び横に寝そべっていたが、非常に疲弊した様子だということが先程の溜息から伺えた。
「……ブルーノ」
「何だ?」
何だい? といういつもの柔らかい返事ではなく、凛とした声が隣から返ってくる。あぁそうか、ブルーノは今『ブルーノ』なのだ。気付かず普段通りに名前を呼んでしまったことに漸く気付く。
「……何故、俺が変わらないと、言うんだ」
何が変わらないのか分からなかった。右腕で視界を覆う。遊星の中の暗闇が増した。その奥で、先程自分に折り重なってきたブルーノの残像が揺らめいている。
「遊星」
ぎっ、とスプリングを揺らして、『ブルーノ』が遊星の上へ上半身だけを被せる。そぅっと、視界を閉じる彼の腕を退かした。目を瞬かせる遊星の髪を『ブルーノ』の右手が柔く梳く。
「本当の私は、……きっと、恐ろしい」
「恐ろしい?」
かち合った視線をそのままに、『ブルーノ』の唇が遊星の頬に添えられた。音を立てて小さなキスが何度も与えられる。その仕草に遊星は驚愕した。
「ブ、ルーノ……、どうしたんだ……」
こんなことを『ブルーノ』からされるのは初めてのことだった。慣れない感覚に一つ一つにびくりと肩を震わせてしまう。ブルーノがいつもしていることなのに、今の彼の行為は全くの別人からされているような心地だった。そうやって何度かキスをされた後、最後に瞼に一つキスを落として『ブルーノ』の唇は離れた。
常より緩みのない両目が、暗闇の中で遊星を見下ろす。告げたくない秘密を告白するような面持ちで、その唇が開かれた。
「……君が、変わらないことが。私だけが、変わっていくことが」
「それは、どういう……」
「私が君に向けている感情は、きっと、ひどく汚くて、泥のような、禍々しい感情だ。けれども君は私を疑いもせず、受け入れ、私に好意を返してくれる。きっと、これから先も変わらずに――」
『ブルーノ』の声が一度途切れる。再び息を小さく吸い込み、彼の言葉は続く。
「その度に、まるで私だけが君を堪らなく愛しているかのような、そんな心地になってしまう」
「ブルーノ、」
「私と君の感情の量は恐らくイコールではない。おどろおどろしい私の欲望に、いつの日か、君が戦き、私の前から消えてしまうのではないかと、時折不安になるのだ」
「違う、違うんだ、ブルーノ」
闇に慣れた目の先で、『ブルーノ』の瞳が息を吹きかけた蝋燭の炎のように揺れていた。あと少し強く吹けば消えてしまいそうな弱々しいそれ。自嘲の笑みを一つ浮かべ、彼はその目を伏せ掌で覆った。
「喋り過ぎたな、私はもう失礼する」
「待ってくれブルーノ、俺は、」
「それは私の名であって私の名ではない。済まないな……また会おう、『私』の遊星」
ぐんっと、糸が切れたようにブルーノの身体が落ちる。首に抱き付くような形で、遊星の上へ身体の上半分のみ被さった彼は、すぅすぅと吐息を立てていた。『ブルーノ』は彼を起こさずに引き上げたらしい。遊星の身体に、ブルーノの半分の体重が掛かる。それが彼の苦しみの重さのように思えて、遊星はブルーノの背に腕を回してひしと抱き締めた。大きな体躯が、まるで子供のように思える。
ブルーノ。俺は。
呟きに返事はない。静寂の中へ溶けていくばかりで、遊星の意識も、いつしかその中へ逃げ込むように沈んでいった。
翌日、目が覚めた時には、既にブルーノは居なかった。おぼろげな光を孕むリビングのテーブルの上には、出来上がって間もないと思われる食事がぽつねんと孤独に鎮座していた。誰かに食されるのを待ち兼ねているようであり、誰にも手を付けられずに放っておいて欲しそうにも見えて、遊星は幾度となく目にしたそんな光景が以前とは違う心地をもたらしていることに気付いた。
自分は躊躇している、ブルーノからの無償の施しを受けることに。
手にしていたスマートフォンを握り締める。そこには半時間ほど前にメールが一通届いていた。『先に行くね、ご飯ちゃんと食べてよ!』いつものブルーノのメールに、遊星は無性に侘しさを感じた。
いつもこんな風に、自分の不安を押し殺していたのだろうか。俺に、何も不安を抱かせないために。
考えれば考えるほど混乱が遊星の頭を掻き乱した。そうして何も感じてやれなかった自分が腹立たしくあった。後悔や懺悔が終わらない螺旋階段を転がり落ちていくようだ。けれどもきっと、ブルーノの方がもっとあぐねていたに違いない。そう思う。昨夜、『ブルーノ』が言っていたように。
宇宙のような空虚な暗闇で、不確かに揺れていた彼の双眸を思い出す。それは感情の飽和を止められなかったと、やり切れない思いに駆られているようだった。そこまで至らせてしまったのは、きっと自分に他ならない。遊星はブルーノの二つの姿を瞼の内に描く。
自分は彼にこの心の内を言葉にしたことがあったろうか? 昔から与えられているばかりで、『ブルーノ』が言っていたように好意を返すことなんてできていなかったはずだ。それは彼が自分を好いていてくれるから、受け入れていることをそんな風に受け止めてくれているだけなのだ。
伝えなければ。
伝えなければいけない。
自分はもう庇護されてばかりの子供ではないのだから。
遊星の指がスマートフォンの画面を操作する。今晩うちで待っている。短い一文だけを記入し、送信する。画面をオフにして、遊星は世界が夜を迎えるのを待った。
* * *
雲のない黒い天蓋から半月が見下ろしている。ブルーノは背中からその淡い光を受けながら遊星の家の玄関前に立っていた。右手に持つ仕事用の鞄がいやに重く感じる。
仕事の合間に確認した遊星からのメールが、彼はずっと気になっていた。もしや自分は何か遊星にとって悪いことをしたのではないだろうか? 嫌われたのではないだろうか? 幽霊に怯えるようなはっきりとしない恐怖がブルーノの心を曇らせた。
最近、遊星と居る時に意識が飛んでしまうことが度々ある。その正体にブルーノは薄々勘付いていた、その瞬間はいつも遊星の肉体を求めている時であるから。
きっと自分は逃げている。自分の奥底に隠れている、檻の中の獣から。
幼い頃より知っているあの恋人を喰ってしまおうとする欲望が日々自分を侵食している。それから逃げているのだ。辛うじてその看守が自分を心の更に奥へと追い遣ってしまうから、ボクは紙一重のところで牙を剥かずにいる。
意識が途切れてしまった後に見る遊星は、自分を見ているにも係わらず違うものを見ているようだった。その時ブルーノは、遊星の視線に紛れる自分の中の全く異なる自分の姿を見出した。己の看守の姿を。
スマートフォンを操作し、再び遊星からのメールを見た。差出人の『不動 遊星』という文字がひどく愛おしい。遊星と付き合い始めてから、否、それよりも前から、彼を形容するものは全てがブルーノにとって愛情を賦与する対象だった。親鳥が雛に餌を与える気持ちでいたものが、いつしか萌芽のような思慕となったのはいつだっただろう。木の葉が紅く燃え上がるように恋情で染まってしまったのは。いいやきっと境界線なんてなかった。遊星の人間性に触れた瞬間が始まりだった。ただ、それだけだ。
スマホを仕舞う。少し冷えたブルーノの手が重たそうに家の扉を開けた。
「ただいまぁ……」
玄関の明かりは付いていない。ただリビングから漏れる蛍光灯の白い光が廊下を薄く照らしているばかりだ。
「遊星?」
返事はない。その代わりに慌ただしい足音がした。だだだだ、と走るような足音が家の奥から聞こえてきたかと思うと、遊星がリビングからばっと身を出した。彼の姿を確認してほっと息を付く。
「あ、居たんだ。居ないかと、」
思った。そう言葉にする前に、遊星の身体がブルーノの胴体に抱き付いた。勢いで背後の扉まで後ずさりする。どん、と背中に扉が当たった。
「えっ、……え?」
詰まったような声が出た。体当たりのような激しい勢いで抱き付かれ、ブルーノは混乱していた。遊星がこんな積極的な行動を取るのは見たことがなかったから。ブルーノの両手が所在なさげにうろたえる。
「ゆ、遊星、ねぇ、どうしたの? 何かあったの? 遊星、」
「ブルーノ」
遮るように、くぐもった遊星の声が薄暗い玄関に転がった。
「好きだ」
けれども至極はっきりと、書物に明示的に記された真実のように、遊星は喉を震わせた。
「俺は、ブルーノが、好きだ」
ブルーノの身体が硬直する。心臓が、まるで氷漬けにされたように冷えた後、炎で炙られるような熱さで沸き立つ。遊星は今、ボクに何て言ってる?
「ずっと、ちゃんと言ってなかった。済まない。俺は――」
俯いていた遊星の顔がそぅっと離れ、ブルーノを見上げた。輪郭が、廊下の奥から僅かに届いた光で浮き上がる。
「俺は、ブルーノのことを、愛している」
だから、もう怖がらないでくれ。
すっと開かれた遊星の黒い瞳に一つだけ輝く光が涙のように見える。そう思った時には、彼の顔が俄かに眼前へと近付いていた。
「ゆうせ……」
遊星の右手が、首をぐっと引き寄せた。唇がぶつかる。荒いキス。直後、遊星の舌先が半端に開いていたブルーノの口へと入り込み、甘ったるいキスへと変わる。
「ん、う、」
遊星からのキス、初めてだ。
目一杯の幸福感がブルーノを満たした。ずっと何処かで噛み合わなかったピースがかちりと填まったような、失くしてしまった扉の鍵を漸く手に入れたかのような、全てが一つに合わさった至高の瞬間を今、享受しているのだ。
右手に持っていた鞄を投げ捨てた。どっという鈍い音がしたが何も気にしなかった。両手で遊星の身体を抱きすくめて全身を閉じ込める。合わせた唇が水音を立て、絡む舌の上で唾液が混ざり合い、否応無しに官能的な興奮を本能へ注ぎ込んでくる。発情した動物のような息がどちらからともなく漏れた。
たっぷりと、欲のほとばしるキスを味わったあと、名残惜しそうに離れていく遊星の顔を覗き込む。熱に浮かれたような表情で見上げる恋人は、ブルーノの瞳に恐ろしく蠱惑的に映った。そうして見下ろす彼の瞳は、もうあの『ブルーノ』ではない。
「遊星……」
ひたと抱き締める。その身体は熱い。心地よい声が、熱情の混じった息と共にブルーノの耳元で響く。
「俺はもう、子供じゃない。ブルーノを想うだけで、こんな風に感情任せになってしまう、ただの一人の人間だ」
伝わっているだろうか? 心の中で溶ける、砂糖菓子のようなこの感情。
「ブルーノ。ブルーノだけが、この感情の原動力なんだ」
ブルーノの頬へそっと右手を添える。親指の腹で目元を拭うと、あたたかいものが付いた。見上げた自分は彼の瞳の中で笑っていた。ブルーノの唇が緩やかに弧を描いて、嬉しい、と形作った。へへ、と小さく笑う。いつも彼がする癖のような、くしゃりとした笑い方で。
「うれしい、ボク、今なら死んでもいいかもしれない」
「馬鹿、お前に死なれたら俺は一生孤独だろう」
「うん……うぅ……遊星……ゆうせいぃ」
えぐえぐと小さな嗚咽を上げながら抱き締めてくるブルーノの背に、遊星は腕を回した。これではまるで立場が逆だ。けれども親のように、只管この子供のような大人を甘やかしてしまいたくなった。
「ボク、遊星が好き、大好き、誰よりも何よりも大切にしたい。けど、時々心まで一緒になれたらいいのにって思うくらい、君のことを、激しく愛してしまう瞬間がある」
「あぁ」
「こんなボクを、遊星が嫌いになっちゃうんじゃないかって、不安になる」
「あぁ」
「それでも、良い? ボクで、良いの?」
「それが、ブルーノの全てだろう」
そのブルーノの全てを、俺は愛している。
人間が人間を愛することはきっと、泥臭くて、欲に塗れていて、臆病だ。しかしこの世の何も敵わない輝きと高潔さ、そして深く強いあたたかさを持つ感情の塊を分かち合いたいから、俺達は誰か愛してしまう。不変で永久的で、儚く脆い、けれども揺るぎないもの。
思いながら、遊星はブルーノを再び抱き締めた。指先が骨まで届けと言わんばかりに。
「俺は、ブルーノの全部が欲しいんだ」
あぁ、やっと伝えられた。体裁も何もかも取り払って、ただ言葉と想いでお前に触れる。俺は漸くブルーノに触れられたのだ。皮膚にではなく、肉体の奥底で脈動するその魂に寄り添っている。
願わなくとも俺達は一つになれる。伝えるという、たったこれだけのことで、二つの心がこっくりと溶けてしまう。難解で不可思議な現象。けれども世界中のどんなものよりもきっと単純な出来事。
ありがとう、とすぐ傍でブルーノの鼻声がして、遊星は緩やかに瞳を閉じた。
きっと『ブルーノ』はその代弁者としての役目を終えただろう。けれども予感がした。いつかまた、あの凛然とした『ブルーノ』に会える日が来るだろうという根拠のない、しかし確信をもった予感。もしその瞬間が来たら、俺も彼にありがとうと言いたい。そうして、祝福のキスを一つ贈りたい。
ブルーノが等身大の彼で居ることに。
そして、ブルーノがこの世界に存在していることに。
ではその時まで失礼するとしよう。ブルーノの奥から、彼の声が聞こえた気がした。
(了)
初出:2010年畳む
・昔発行したコピ本の再録です。
・おとなりさん同士のふたり。
#ブル遊 #現代パラレル
おはよう、今日も良い天気だね!
目が覚めてすぐにスマートフォンを確認すると、こんなメールが届いていた。コンセントに差し込まれた充電器に繋がれて、機械は画面にこの一行を表示している。差出人は自分の受信メールのほぼ七割を占めている人間だ。良い天気。部屋の隙間から流れ込む光を確認する。確かにそうだった。
遊星は部屋のカーテンを開けた。待ち兼ねていたと言わんばかりに日光が駆け込む。若草色の向こうには、秋に差し掛かる空が眩い朝日を飾り付けていた。フローリングの床を照らす光は寝起きの目には明る過ぎる程だ。寝惚け眼を擦りながら、遊星は窓の向こう側の壁をちらと見遣る。薄い灰色をした隣の家の壁だ。数秒間見詰めてから、彼は寝巻きに手を掛けた。確か今日は有給を取ったと言っていたはずだ、着替えなければ。ぼんやりと思い出す。スマホの時計は既に八時半を過ぎている。
ジーンズとTシャツに着替えてから一階へと降りる。洗面所で顔を洗い、リビングへと向かった。薄暗い部屋は必要最低限の生活用品のみがある。テーブルには何も用意されていなかった。当たり前の、日常のワンシーンだ。
遊星の両親は長く海外で研究職に就いていたが、彼が高校に上がってすぐに実験中の事故で死んだ。数年経ち齢十八になった遊星は、いつもと変わらずまず冷蔵庫を開けた。習慣の動作である。牛乳パックを取り、食器棚からグラスを用意して注ぐ。真白い液体を一口飲んでから食事の支度だ。何を作ろうか。思案していると、リビングの壁に取り付けられたインターホンが音と共に点灯した。
画面を確認せずに遊星は玄関へと向かう。鍵を開けた先に見知った顔を捉えて、おはよう、と挨拶した。
「おはよう、今日も良い天気だね!」
それはさっきメールで見た。そう言う前に、来訪者は遊星に抱き付いた。
ブルーノ、と口をもごもごさせながら抵抗すると、青年は呆気無く両腕から遊星を開放した。
「あぁごめん」
遊星はにへらと笑うブルーノを見上げる。彼のロイヤルブルーの髪が日の光を浴びて輝いている。遊星はこの身長差が憎らしいと日々常々思っていた。兎も角背が高い隣人の青年、ブルーノは、なんという成り行きなのか、自分の恋人である。朝から高いテンションを引っ提げてやってきた彼は、すたすたと遊星の家へと上がり込んだ。リビングへ足を進めて、そこに食事の支度が全くないことを把握すると、勝手知ったるが如く冷蔵庫を開ける。
「今起きたばっかりなんだろ? 何が食べたい?」
「良い、自分で用意する」
「いつものことじゃない。あ、確か昨日ご飯炊いたんだっけ? なら和食にしよう」
「……じゃあ、頼む」
自分が鍋に手を掛ける前に、ブルーノは既にそれを用意している。彼は両親が仕事で留守がちな頃から遊星の世話を色々と焼いてくれている隣人だ。小さい頃から知っていて兄のように慕っていたのだが、遊星の高校卒業時に告白されて付き合い始めた。それからまだ半年経つか経たないかである。
好きなんだどうしようもなく。
そう言われて遊星が真っ先に感じたのは嬉しさだった。差別感も嫌悪感もそれ以外の何物でもない、ただ只管に歓喜が彼の心に湧き出でた。
ブルーノは昔から無頓着な遊星の生活を心配していた。それはブルーノが学生でも社会人になってからも変わらず、勉強をみたり食事の世話をしたりと、保護者の代理に近い存在だった。何も頼んだことは無いしお互いに約束したことでもない。ただやりたいからだと言っていたことを、味噌汁の準備をするブルーノの背中を見ながら思い出す。その親愛が恋愛に変わったのはいつなのかと、聞いたことはない。
「今日何処か行きたい所ある?」
野菜室から取り出した葱を刻みながらブルーノが問う。その横では鍋にたっぷりと注がれた湯が沸騰し始めていた。出汁の匂いが漂っている。
「いや、特には」
「じゃあブルーレイ一緒に観ない? いま、旧作安いからさ」
「あぁ、構わない」
ありがとうと言われ、遊星は少し照れる。そんな礼を言われる程のことじゃない。ブルーノがくれる無償の愛に比べれば、自分の礼など卑小過ぎることだと思っている。卵の殻が割れる音を聞きながら、遊星は漸くリビングのカーテンを開けた。世界は眩しかった。
塩胡椒のかかった目玉焼きに味噌汁に白米。それに冷蔵庫に入っていた漬物と生野菜のサラダがテーブルに並ぶ。遊星にとっては充分過ぎる朝飯がきっちり二人分用意されているのもいつものことだった。リビングの大きな窓から庭先を眺めていた遊星に声が掛かる。できたよ。振り返ると、変わらない笑顔で手招きするブルーノが杓文字片手に立っていた。
テーブルに向かい合わせになって座る。二人揃って両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます、ありがとう」
どういたしまして。瞳を細めるブルーノの青い髪が揺れた。
朝食を食べた後、遊星とブルーノは連れ立って家を出た。徒歩で行ける場所にあるレンタルショップは二人にとって既に馴染みのものとなっている。
棚をいくつか物色して、少し前にヒットした映画を借りることになった。ミステリー小説を実写化したもので、遊星はそのタイトルだけは知っていた。街中でもテレビでも何度か見掛けることが多かったので。
目的のブルーレイディスクを手に入れて直ぐに帰宅する。途中のバイク屋に目を爛々と輝かせるブルーノを見て、まるで大きな子供だなと遊星は口元を緩ませた。
ブルーノを一言で表すならば、素直。そう遊星は思っている。喜怒哀楽を押し付けがましくない程度に良く表現する。するりと好きだと言ったこともそのうちの一つなのだろう。朝から抱き締めてくるのも、きっと。
遊星の家を通り過ぎて、ブルーノの家の玄関へ向かう。数え切れないくらいくぐった扉を通ると、懐かしくもある慣れた匂いが遊星の鼻を擽った。ブルーノの家に来ると、遊星はまるで一瞬たりとも彼が離れないように抱き付いているかのような、全身を包まれている気分になるのだった。気恥ずかしくもあり嬉しくもある不思議な安堵感に、自然と遊星の心はほっとした。
ブルーノの両親はこの一軒家とは別に田舎に買った終の棲家へと既に移住している。つまり実質ブルーノも遊星と同じく一人暮らしである。現在の家の主は冷蔵庫からストレートティーのペットボトルを一本取り出し、自室のある二階へ繋がる階段を上った。遊星はその後ろをついていく。
ブルーノの部屋は彼を形容したかのようなものだ。起きてから直していないと思われる上布団、好きな小説や雑誌が乱雑に数冊積まれたパソコンデスク、床に放置されたままの新製品の携帯機器。その傍らに置いてある分厚い本の表紙に開発者用という単語が書かれていたのを見て、遊星の勘が働く。きっとまた趣味の開発でもやるのだろう、ブルーノは腕の良いエンジニアなのだから。
遊星はベッドを背凭れにして床に座った。ペットボトルが置かれた小さなテーブルを挟んで、テレビに繋がるプレーヤーにディスクをセットするブルーノを観察した。開閉ボタンを押す長い指や、縦に長い体躯は、自分達が随分大人びてしまった証拠のような気がする。変わらないのはその瞳だ。濃い藍色に灰褐色を薄く流し込んだような目の柔らかさは、今も昔も全く同じものだった。
自動再生が開始された。暗い画面に文字が白く浮き上がって、映像が流れる。まずは予告だ。どの映画もそうであるように、このディスクももれなく予告番組を再生した。それまでにブルーノが遊星の右隣へと座り胡坐を掻く。前座の映像達は三作品分だった。
「遊星」
さて本編が始まるというところで、右から名前を呼ばれた。遊星は振り返り視線を上げる。口元を軽く結んだブルーノが、あの目の色を揺らめかせながら見ていた。ふと顔が近付く。遊星の右肩にブルーノの左手が置かれる。必然的に互いの瞼が閉じられた一瞬間の後、唇が重なった。
「ん、」
遊星から鼻にかかった息が漏れる。映画は始まっている。柔らかく微かに湿った唇がくっついて、ちゅ、と小さく水音を立て、短いキスは終わった。
しかし次の瞬間、再び開いた遊星の双眸には、一瞬間前とは同じだけれど同じではないブルーノが映っていた。先程の彼とは些か端然とした目のブルーノが遊星を見下ろす。
「またか」
「また私で悪かったな」
全く悪いと思っていない風にブルーノが笑う。否、ブルーノだがブルーノではない彼。今のブルーノは普段の彼と比べて雰囲気が大分と大人びている。
「ブルーノは?」
「どうやら『また』我慢ならなかったようだ」
「落ちたのか」
「起こすか?」
「いや、……取り敢えずは、良い」
前髪をぐっと掻きあげて額を出し、ブルーノはふっと口角を上げた。その仕草が非常に様になっていて、間近で見ていた遊星の心拍数が少し上がる。
柔和な瞳には僅かに挑戦的な色が混じり、余裕溢れる雰囲気の今のブルーノは、普段の彼を表とするならば裏の『ブルーノ』だ。何らかの理由で思考がオーバーロードしてしまい、深層心理へ自ら落ちた時に出現する、表のブルーノの心の代弁者。それがこの『ブルーノ』の正体であった。
遊星が初めてこの『ブルーノ』に遭遇したのはそれほど昔のことではない。
今日のようにこうして遊んでいて、何度目か分からないキスをして、舌を絡め合わせた。否応無しに官能的な刺激に流されかけた時、唇を離したその先にはこの『ブルーノ』が居た。それはもう只管驚愕したものである。けれども人間の順応とは素晴らしいもので、本日で既に遭遇回数が十回を超えてしまったために、最近ではもう馴染んできてしまっているのだが。
『ブルーノ』はブルーノのことを認識しているし、ブルーノの意識を引き摺り出すこともできる。しかしブルーノは『ブルーノ』の存在を知らない。気が付いた時には落ち、気が付いた時には意識を浮上させられている。そのためか、意識が戻っては毎回「ボクは遊星が好き過ぎて夢見がちなのかな、たまに意識が飛んじゃうみたい」とへらへら笑っていた。本当はそうではないと伝えようか。そう考えたが、何故だか憚られた。まるで、いつものブルーノを否定してしまうような気がして。
『ブルーノ』は溜息を付いて腕を組んだ。映画は誰にも観られずに流れている。
「自分が情けなく思えてくるな。私はそこまで臆病者なのだろうか」
それは恋人に対して、という意味だろうか。それとも諸々の行為に対して?
「いや……分からないが、でも、」
「でも?」
少しだけ口を噤んで、それから遊星はぽつと呟いた。
「やさしい、んだと、思う」
きっと、ブルーノは自分を上手くコントロールできていないだけで。文字通り彼の優しさが裏目に出ているように思えた。自分を大切にしてくれているが故の結果が、今目の前で苦笑している人格の出現であると。
ふむ、という『ブルーノ』の声が零れる。その呟きに遊星ははっと意識を戻した。本人に何を言っているんだ俺は。いや、今は本人ではないから良いのか? そんなパラドックスに頭が混乱する。
「……では、私はそろそろ失礼しよう」
「え?」
「もう一人の私に惚気られては、少し肩身が狭いからな」
『ブルーノ』の顔に挑発的な笑みが浮かぶ。それにどくりと遊星の心臓が唸ったかと思うと、『ブルーノ』は両目を閉じ、瞼が彼の掌に覆われた。合図だ。一瞬間後、掌が解かれて再び目が開かれる。そこには既に意志の強そうなあの目はなく、在るのは普段通りのブルーノの優しい瞳だった。
「――あ、あれ? ボク……、」
きょろきょろと左右に首を振ってから遊星を見下ろしたブルーノは、ぱちくりと目を瞬かせている。何事も無かったかのように遊星はブルーノを覗き込んだ。
「どうした? ブルーノ」
「……ううん、何でもない。また飛んでたみたい」
へへ、と歯を見せて笑うブルーノに、遊星はまた何も言えなかった。
映画は続いている。
* * *
ブルーノが遊星の家に泊まるのはもう何度目になるか知らない。寧ろ遊星が一人で居ることを彼が心配するので結構な割合で泊まりに来ているのだ。遊星が風呂に入っている間に明日の朝食の下拵えを済ませたブルーノは、ぺたぺたという足音に目を細めつつ顔を上げた。間も無くその視線の先から遊星が現れる。
「明日は仕事だろう。良いのか?」
「大丈夫だよ」
もう何度やったか分からないやり取りだ。翌日仕事がある無しに関わらず、泊まりに来るとブルーノはきっちりと朝飯の支度までしていく。恰も義務であるかのように彼は遊星の世話を焼く。その姿を見る度に遊星はこそばゆい心地になった。誰かに気にかけてもらうことは、いつも柔らかい陽だまりのようなぬくもりを与えてくれる。あたたかすぎて少々居た堪れなくなるくらいに。
遊星の部屋へ上がり、セミダブルのベッドに二人並んで座る。先に風呂に入っていたブルーノから微かな体温がほわりと伝わってきて遊星の肩から流れ込んだ。風呂から上がってそれ程経っていない二人の身体は互いにまだ温かく、クーラーを付けた部屋に冷まされずにいる。Tシャツとジャージはまだまだ寝巻きの代わりを果たしそうだった。
「ゆーうせーい」
嬉々として、ブルーノの長い両腕が遊星を囲う。ぎゅうっと抱き付いた彼の体重が遊星に掛かり、ベッドへと倒れ込む。二人分の体重にスプリングがぎっと鳴いた。
「ブルーノ、重い」
「遊星は全然変わらないね」
「背は伸びている」
むっと眉を寄せてブルーノを睨んだ。けれども彼の表情はふふ、と笑いを携えたままだ。
「身体の大きさのことじゃないよ」
「じゃあ何だ?」
質問には答えず曖昧な笑みだけを浮かべて、ブルーノは唐突に起き上がった。遊星の身体が解放される。扉の方へと向かったブルーノは、その横の壁に付けられたスイッチを人差し指で押した。ぱちんと音がして即座に部屋に黒が広がる。
「もう寝よう」
その声が何処となく掴みどころのない色をしていたので、遊星は思わず上半身を起こしてブルーノを見詰めた。昼間は明るい彼の髪が、今は夜闇の流れる部屋に混ざり込んでよく見えない。暗闇に目がまだ慣れていなかった。輪郭のぼやけた影が段々と近付いてきて、ブルーノがベッドへと戻ってきていることは分かった。確認してから、遊星は壁際に添わされたベッドの端へと身体を寄せ、もう一人分のスペースを作る。ありがとう、とブルーノの声がして、それからベッドに寝そべる人数が増えた。
布団を被る。広くはない寝床で二人の身体は必然的に引っ付いた。身体を包む布を挟んで温かさが与えられる。宝物を誰にも見られたくない子供のように、ブルーノの腕は遊星を抱きすくめた。
「遊星は変わらないんだ」
「だから、何がだ」
先程から的を射ないことばかり言うブルーノに少々語尾を強めて訊ねた。首筋に埋もれた彼の唇が言葉を発する度に震えて遊星の皮膚を擽る。
「ボクは君が好きだよ」
そう呟いたかと思うと、突然遊星の唇にブルーノのそれが押し当てられた。んぐ、と息を詰まらせ、遊星は驚きに目を瞬かせる。激しい。瞬時に思ったのはそれだった。互いに横になっていた身体が回転する。唇はそのままに、ブルーノの身体が遊星をベッドへと押し付けた。
「んんぅ、ぐ、ん、っふ、」
体重に肺が押され、僅かに空いた隙間から嗚咽に近い呼吸が漏れる。何の感情もなく欲に任せたような、若しくはどんな感情も混合されて押し潰されたような、苦しいキスだった。
混乱で遊星の頭がぐわんぐわんと掻き回される。涙が滲んできた。
どうしてブルーノはこんなにきついキスをするのだろう。
疑問は不安を生み出す。頭の横に立てられたブルーノの腕をぐっと握り締めた。耐えられない、と思った時、ふっと身体が軽くなった。はぁ、はぁ、と荒い息をする遊星の上で、ブルーノが暗い瞳で見下ろしている。眉を寄せ、きゅっと締め付けられたような目だ。その奥に見知った感覚を見つけて、遊星は漸くあぁ、と声を絞り出した。
「また、落ちた、のか」
「――済まない、手荒な真似をしてしまったようだな」
『ブルーノ』は目を一度伏せてから深い溜息をついた。困った奴だ、と髪を掻き上げながら、遊星の上から退く。すっかり自由になった身体を弛緩させるように遊星は大きく呼吸をした。
身体が汗ばんでいる。上がった体温を下げるために布団を捲った。見上げた天井は相変わらず暗い。『ブルーノ』は再び横に寝そべっていたが、非常に疲弊した様子だということが先程の溜息から伺えた。
「……ブルーノ」
「何だ?」
何だい? といういつもの柔らかい返事ではなく、凛とした声が隣から返ってくる。あぁそうか、ブルーノは今『ブルーノ』なのだ。気付かず普段通りに名前を呼んでしまったことに漸く気付く。
「……何故、俺が変わらないと、言うんだ」
何が変わらないのか分からなかった。右腕で視界を覆う。遊星の中の暗闇が増した。その奥で、先程自分に折り重なってきたブルーノの残像が揺らめいている。
「遊星」
ぎっ、とスプリングを揺らして、『ブルーノ』が遊星の上へ上半身だけを被せる。そぅっと、視界を閉じる彼の腕を退かした。目を瞬かせる遊星の髪を『ブルーノ』の右手が柔く梳く。
「本当の私は、……きっと、恐ろしい」
「恐ろしい?」
かち合った視線をそのままに、『ブルーノ』の唇が遊星の頬に添えられた。音を立てて小さなキスが何度も与えられる。その仕草に遊星は驚愕した。
「ブ、ルーノ……、どうしたんだ……」
こんなことを『ブルーノ』からされるのは初めてのことだった。慣れない感覚に一つ一つにびくりと肩を震わせてしまう。ブルーノがいつもしていることなのに、今の彼の行為は全くの別人からされているような心地だった。そうやって何度かキスをされた後、最後に瞼に一つキスを落として『ブルーノ』の唇は離れた。
常より緩みのない両目が、暗闇の中で遊星を見下ろす。告げたくない秘密を告白するような面持ちで、その唇が開かれた。
「……君が、変わらないことが。私だけが、変わっていくことが」
「それは、どういう……」
「私が君に向けている感情は、きっと、ひどく汚くて、泥のような、禍々しい感情だ。けれども君は私を疑いもせず、受け入れ、私に好意を返してくれる。きっと、これから先も変わらずに――」
『ブルーノ』の声が一度途切れる。再び息を小さく吸い込み、彼の言葉は続く。
「その度に、まるで私だけが君を堪らなく愛しているかのような、そんな心地になってしまう」
「ブルーノ、」
「私と君の感情の量は恐らくイコールではない。おどろおどろしい私の欲望に、いつの日か、君が戦き、私の前から消えてしまうのではないかと、時折不安になるのだ」
「違う、違うんだ、ブルーノ」
闇に慣れた目の先で、『ブルーノ』の瞳が息を吹きかけた蝋燭の炎のように揺れていた。あと少し強く吹けば消えてしまいそうな弱々しいそれ。自嘲の笑みを一つ浮かべ、彼はその目を伏せ掌で覆った。
「喋り過ぎたな、私はもう失礼する」
「待ってくれブルーノ、俺は、」
「それは私の名であって私の名ではない。済まないな……また会おう、『私』の遊星」
ぐんっと、糸が切れたようにブルーノの身体が落ちる。首に抱き付くような形で、遊星の上へ身体の上半分のみ被さった彼は、すぅすぅと吐息を立てていた。『ブルーノ』は彼を起こさずに引き上げたらしい。遊星の身体に、ブルーノの半分の体重が掛かる。それが彼の苦しみの重さのように思えて、遊星はブルーノの背に腕を回してひしと抱き締めた。大きな体躯が、まるで子供のように思える。
ブルーノ。俺は。
呟きに返事はない。静寂の中へ溶けていくばかりで、遊星の意識も、いつしかその中へ逃げ込むように沈んでいった。
翌日、目が覚めた時には、既にブルーノは居なかった。おぼろげな光を孕むリビングのテーブルの上には、出来上がって間もないと思われる食事がぽつねんと孤独に鎮座していた。誰かに食されるのを待ち兼ねているようであり、誰にも手を付けられずに放っておいて欲しそうにも見えて、遊星は幾度となく目にしたそんな光景が以前とは違う心地をもたらしていることに気付いた。
自分は躊躇している、ブルーノからの無償の施しを受けることに。
手にしていたスマートフォンを握り締める。そこには半時間ほど前にメールが一通届いていた。『先に行くね、ご飯ちゃんと食べてよ!』いつものブルーノのメールに、遊星は無性に侘しさを感じた。
いつもこんな風に、自分の不安を押し殺していたのだろうか。俺に、何も不安を抱かせないために。
考えれば考えるほど混乱が遊星の頭を掻き乱した。そうして何も感じてやれなかった自分が腹立たしくあった。後悔や懺悔が終わらない螺旋階段を転がり落ちていくようだ。けれどもきっと、ブルーノの方がもっとあぐねていたに違いない。そう思う。昨夜、『ブルーノ』が言っていたように。
宇宙のような空虚な暗闇で、不確かに揺れていた彼の双眸を思い出す。それは感情の飽和を止められなかったと、やり切れない思いに駆られているようだった。そこまで至らせてしまったのは、きっと自分に他ならない。遊星はブルーノの二つの姿を瞼の内に描く。
自分は彼にこの心の内を言葉にしたことがあったろうか? 昔から与えられているばかりで、『ブルーノ』が言っていたように好意を返すことなんてできていなかったはずだ。それは彼が自分を好いていてくれるから、受け入れていることをそんな風に受け止めてくれているだけなのだ。
伝えなければ。
伝えなければいけない。
自分はもう庇護されてばかりの子供ではないのだから。
遊星の指がスマートフォンの画面を操作する。今晩うちで待っている。短い一文だけを記入し、送信する。画面をオフにして、遊星は世界が夜を迎えるのを待った。
* * *
雲のない黒い天蓋から半月が見下ろしている。ブルーノは背中からその淡い光を受けながら遊星の家の玄関前に立っていた。右手に持つ仕事用の鞄がいやに重く感じる。
仕事の合間に確認した遊星からのメールが、彼はずっと気になっていた。もしや自分は何か遊星にとって悪いことをしたのではないだろうか? 嫌われたのではないだろうか? 幽霊に怯えるようなはっきりとしない恐怖がブルーノの心を曇らせた。
最近、遊星と居る時に意識が飛んでしまうことが度々ある。その正体にブルーノは薄々勘付いていた、その瞬間はいつも遊星の肉体を求めている時であるから。
きっと自分は逃げている。自分の奥底に隠れている、檻の中の獣から。
幼い頃より知っているあの恋人を喰ってしまおうとする欲望が日々自分を侵食している。それから逃げているのだ。辛うじてその看守が自分を心の更に奥へと追い遣ってしまうから、ボクは紙一重のところで牙を剥かずにいる。
意識が途切れてしまった後に見る遊星は、自分を見ているにも係わらず違うものを見ているようだった。その時ブルーノは、遊星の視線に紛れる自分の中の全く異なる自分の姿を見出した。己の看守の姿を。
スマートフォンを操作し、再び遊星からのメールを見た。差出人の『不動 遊星』という文字がひどく愛おしい。遊星と付き合い始めてから、否、それよりも前から、彼を形容するものは全てがブルーノにとって愛情を賦与する対象だった。親鳥が雛に餌を与える気持ちでいたものが、いつしか萌芽のような思慕となったのはいつだっただろう。木の葉が紅く燃え上がるように恋情で染まってしまったのは。いいやきっと境界線なんてなかった。遊星の人間性に触れた瞬間が始まりだった。ただ、それだけだ。
スマホを仕舞う。少し冷えたブルーノの手が重たそうに家の扉を開けた。
「ただいまぁ……」
玄関の明かりは付いていない。ただリビングから漏れる蛍光灯の白い光が廊下を薄く照らしているばかりだ。
「遊星?」
返事はない。その代わりに慌ただしい足音がした。だだだだ、と走るような足音が家の奥から聞こえてきたかと思うと、遊星がリビングからばっと身を出した。彼の姿を確認してほっと息を付く。
「あ、居たんだ。居ないかと、」
思った。そう言葉にする前に、遊星の身体がブルーノの胴体に抱き付いた。勢いで背後の扉まで後ずさりする。どん、と背中に扉が当たった。
「えっ、……え?」
詰まったような声が出た。体当たりのような激しい勢いで抱き付かれ、ブルーノは混乱していた。遊星がこんな積極的な行動を取るのは見たことがなかったから。ブルーノの両手が所在なさげにうろたえる。
「ゆ、遊星、ねぇ、どうしたの? 何かあったの? 遊星、」
「ブルーノ」
遮るように、くぐもった遊星の声が薄暗い玄関に転がった。
「好きだ」
けれども至極はっきりと、書物に明示的に記された真実のように、遊星は喉を震わせた。
「俺は、ブルーノが、好きだ」
ブルーノの身体が硬直する。心臓が、まるで氷漬けにされたように冷えた後、炎で炙られるような熱さで沸き立つ。遊星は今、ボクに何て言ってる?
「ずっと、ちゃんと言ってなかった。済まない。俺は――」
俯いていた遊星の顔がそぅっと離れ、ブルーノを見上げた。輪郭が、廊下の奥から僅かに届いた光で浮き上がる。
「俺は、ブルーノのことを、愛している」
だから、もう怖がらないでくれ。
すっと開かれた遊星の黒い瞳に一つだけ輝く光が涙のように見える。そう思った時には、彼の顔が俄かに眼前へと近付いていた。
「ゆうせ……」
遊星の右手が、首をぐっと引き寄せた。唇がぶつかる。荒いキス。直後、遊星の舌先が半端に開いていたブルーノの口へと入り込み、甘ったるいキスへと変わる。
「ん、う、」
遊星からのキス、初めてだ。
目一杯の幸福感がブルーノを満たした。ずっと何処かで噛み合わなかったピースがかちりと填まったような、失くしてしまった扉の鍵を漸く手に入れたかのような、全てが一つに合わさった至高の瞬間を今、享受しているのだ。
右手に持っていた鞄を投げ捨てた。どっという鈍い音がしたが何も気にしなかった。両手で遊星の身体を抱きすくめて全身を閉じ込める。合わせた唇が水音を立て、絡む舌の上で唾液が混ざり合い、否応無しに官能的な興奮を本能へ注ぎ込んでくる。発情した動物のような息がどちらからともなく漏れた。
たっぷりと、欲のほとばしるキスを味わったあと、名残惜しそうに離れていく遊星の顔を覗き込む。熱に浮かれたような表情で見上げる恋人は、ブルーノの瞳に恐ろしく蠱惑的に映った。そうして見下ろす彼の瞳は、もうあの『ブルーノ』ではない。
「遊星……」
ひたと抱き締める。その身体は熱い。心地よい声が、熱情の混じった息と共にブルーノの耳元で響く。
「俺はもう、子供じゃない。ブルーノを想うだけで、こんな風に感情任せになってしまう、ただの一人の人間だ」
伝わっているだろうか? 心の中で溶ける、砂糖菓子のようなこの感情。
「ブルーノ。ブルーノだけが、この感情の原動力なんだ」
ブルーノの頬へそっと右手を添える。親指の腹で目元を拭うと、あたたかいものが付いた。見上げた自分は彼の瞳の中で笑っていた。ブルーノの唇が緩やかに弧を描いて、嬉しい、と形作った。へへ、と小さく笑う。いつも彼がする癖のような、くしゃりとした笑い方で。
「うれしい、ボク、今なら死んでもいいかもしれない」
「馬鹿、お前に死なれたら俺は一生孤独だろう」
「うん……うぅ……遊星……ゆうせいぃ」
えぐえぐと小さな嗚咽を上げながら抱き締めてくるブルーノの背に、遊星は腕を回した。これではまるで立場が逆だ。けれども親のように、只管この子供のような大人を甘やかしてしまいたくなった。
「ボク、遊星が好き、大好き、誰よりも何よりも大切にしたい。けど、時々心まで一緒になれたらいいのにって思うくらい、君のことを、激しく愛してしまう瞬間がある」
「あぁ」
「こんなボクを、遊星が嫌いになっちゃうんじゃないかって、不安になる」
「あぁ」
「それでも、良い? ボクで、良いの?」
「それが、ブルーノの全てだろう」
そのブルーノの全てを、俺は愛している。
人間が人間を愛することはきっと、泥臭くて、欲に塗れていて、臆病だ。しかしこの世の何も敵わない輝きと高潔さ、そして深く強いあたたかさを持つ感情の塊を分かち合いたいから、俺達は誰か愛してしまう。不変で永久的で、儚く脆い、けれども揺るぎないもの。
思いながら、遊星はブルーノを再び抱き締めた。指先が骨まで届けと言わんばかりに。
「俺は、ブルーノの全部が欲しいんだ」
あぁ、やっと伝えられた。体裁も何もかも取り払って、ただ言葉と想いでお前に触れる。俺は漸くブルーノに触れられたのだ。皮膚にではなく、肉体の奥底で脈動するその魂に寄り添っている。
願わなくとも俺達は一つになれる。伝えるという、たったこれだけのことで、二つの心がこっくりと溶けてしまう。難解で不可思議な現象。けれども世界中のどんなものよりもきっと単純な出来事。
ありがとう、とすぐ傍でブルーノの鼻声がして、遊星は緩やかに瞳を閉じた。
きっと『ブルーノ』はその代弁者としての役目を終えただろう。けれども予感がした。いつかまた、あの凛然とした『ブルーノ』に会える日が来るだろうという根拠のない、しかし確信をもった予感。もしその瞬間が来たら、俺も彼にありがとうと言いたい。そうして、祝福のキスを一つ贈りたい。
ブルーノが等身大の彼で居ることに。
そして、ブルーノがこの世界に存在していることに。
ではその時まで失礼するとしよう。ブルーノの奥から、彼の声が聞こえた気がした。
(了)
初出:2010年畳む
Supply
・妙な訪問販売にひっかかるブルーノ。
・2014年発行のブル遊アンソロジー【StardustGazer】様へ参加させていただいた時の再録です。
#ブル遊
そのカプセルをひとつ、飲み込んでみて下さい。そう言って、妙な白衣の男はボクの前から姿を消した。正確に言えば去っていった。
目の前の机の上には赤色と白色が半々に塗られたカプセルが一つ転がっている。
ボクは遊星達が出掛けている間の留守番をしていた。ひたすらデバッグ作業を続けていた時、こんこんとノックの音が聞こえて、あれ宅急便かなと思って応対すればそこに立っていたのは見知らぬ男だった。一見ヤブ医者のような感じで、けれども高尚な学者のようにも見える。彼はボクに前述のようなカプセルを一つ手渡して、さっさと立ち去っていった。
訪問販売には気を付けろ。
遊星の言葉を思い出す。でもボクは何かを売られたわけじゃない、押し付けられはしたけれど。だから販売はされていない、と思われる。
再び机の上に目をやった。カプセルの半分を染める血を一滴たらしたような色はボクには珍しく映った。何故ならボクは自分の血を見たことがなかったからだ。ここに住み始めてからまだ包丁を使ったことはないし、工具で怪我をしたこともない。強いて言うならばカップラーメンを食べる時にポットのお湯で指先を少し火傷したくらいか。
白衣の男はこんなことを付け加えていったっけ。
「それを飲めば、貴方は人間に最も必要なものを手に入れることが出来ます」
「もっともひつようなもの?」
「はい。やさしくて脆くて、いついかなる時にも奪われることのない自分だけのもの、尊いもの――愛ですよ」
あの訪問販売の人が言った言葉が、何故か何処までもついて回るのだ。
カプセルはかれこれ三十分くらい放置されたままだった。デバッグ途中のプログラムも同じく、処理途中に置かれたカーソルだけが点滅を繰り返している。
腕を組んで首を捻った。傾いた頭が、ういいん、と思考をし始める音が聞こえた気がした。まるで機械のように唸るのは結構真剣に悩んでいる証拠だ。
「愛、あい、かぁ」
あんなに小さなカプセルに? 不思議だ。
ボクは人間だから愛だってあると思う。でも足りていないならこれで補充できるのかもしれない。ビタミン不足を解消する為に、ドラッグストアでタブレットを買うみたいに。
愛って何だろうか。
見たことがないのに、人は皆信じている。猫を撫でる時に感じるほわりとした心の温度も、愛の温度と呼ぶのだろうか。この世に山ほどある感情の中で、多分一番複雑でややこしい、扱いづらい、沢山枝分かれする大きなカテゴリ。ボクはどれくらい持っているだろう。
例えばジャックに今より優しくしてあげられる愛。
例えばクロウの仕事を手助けしようとするような愛。
例えば遊星に、今以上の気持ちを渡すことの出来る愛。
カプセルを飲むだけでこれらを増やすことが出来るのなら、とても素晴らしいことだと思う。
けれどもどうしても勇気が湧かなかった。カプセルを飲んでもしボクの中の愛が本当に増えたりしたら、何だかそれはまるでボクには愛が無かったんだと証明してしまうみたいで。
猫が猫じゃらしを捕まえるように、アキさんの右手がたしりと置かれた時、思わず冷や汗をかいてしまったのは内緒だ。Dホイールの座席に整列した指先は細長くて、こんなにすらりとした手が頑強とも呼べるDホイールを乗りこなすなんて一見想像し難い。けれど確かに彼女は黒薔薇の魔女として君臨していたのだから、美しい薔薇には棘があるなんてあながち間違ってはいないということかもしれない。
凛とした声が駆け抜ける、夕暮れ時。
「ブルーノ、何だか集中力が欠けているんじゃない?」
「えっ……そうかな?」
「何かあったのかしら? 今週の始めには貴方、もう変だったわよ」
それは多分、あの妙なカプセルを貰った翌日のことだ。
子供を窘める母親のような口調に、つい心の鍵も緩んでしまう。秘密というまでもなかったけれど、ボクはあのカプセルのことを一週間誰にも言わなかった。その間工具箱の隅で、あの血液が固まったような物体は手のひらサイズの密封式ポリ袋と共に静かに眠りについていた。
アキさんの目は大きくてぐっと迫りくるようで、ボクには到底逃げ切ることなんて出来そうになく、首根っこを捕まえられた子猫よろしく彼女と向き合った時にはすっかり事の顛末(という程のストーリーもスペクタクルもないけれど)を話す気になっていたのだ。
「……あの、アキさんは、人間に最も必要なものって何だと思う?」
「どうしたの? 急に」
訝しげな返答は心配も含まれているのがよく分かる。けれども知りたかった。彼女がボクと同じ立場にいる人だからかもしれない。遊星のことを、きっと深く想っているから。
伝え終えると、アキさんは少し苦笑いを混ぜた顔で「ブルーノったら」と零した。それから人差し指で軽く鼻先を突く。「いけないわね」と注意をしつつ。
「気を付けないと駄目じゃないの。全くお人好しって言うか……」
「お、お人好し?」
「そうよ。そんな怪しい人から怪しいものまで貰っちゃって。飲んでいないから良いけれど、何かあってからじゃ遅いのよ」
「う……仰る通りです……」
「でも、悩んじゃうのも分かるわ。『愛を飲んで増やせる』なんて、私だったら同じように迷うでしょうね」
「アキさんでも?」
意外だ。ボクの声に彼女は「当たり前よ」とまた苦笑した。
「さっき、『人間に最も必要なもの』って何かって聞いたじゃない? もし絶対にこれだけは譲れない、失くしたら人間じゃなくなっちゃう……そんなものがあるなら……やっぱり、その怪しい人が言うみたいに愛かもしれないって思うもの」
「どうして?」
「私、今まで沢山の人を傷付けたの。パパもママも。その時の自分を思い出すと今でも辛くて、苦しくて、その時の自分を消したくなるくらい――でもそうして思い出す度に分かるのは、その時の私には愛とか、愛から生まれる優しさとか、今よりずっと持っていなかったってことよ」
彼女は横顔を夕陽に紅く染めて、今度はにっこり笑ったけれど、隠し切れない寂しさが少し滲んでいた。
「アキさん――」
「愛がもっと沢山あったら、私は優しくなれていたかもしれないから」
彼女の瞳が瞬きと同時にちかっと光った。その瞳の向こう側にはきっと遊星がいるんだろうと思う。そして光の源は、彼女が抱いている感情なのだ。組み方は異なっても、ボクと一緒のカテゴリに有る、あの気持ち。
結局ボクはあのカプセルを飲むことはなく、翌日成分解析に出して中身を調べてもらうことにしたのだが、結果はただのビタミン剤だった。毒々しい色の見た目に反して、何の変哲もないレモンに似た味の粉が入っているだけで、興奮作用さえないのだと知った時少しがっかりしてしまった自分のことを思うと、本当は『愛のカプセル』であって欲しかったのだろうか。あの白衣の男は一体誰だったのか。本当にただの訪問販売の男だったのかそうではないのか、白昼夢だったのか、その正体を知ることはもう出来ないだろう。
とっくに正午も過ぎた作業場は少し蒸し暑くて、換気の為に窓を開けた。緩やかな風が耳元を過ぎていくのを感じていると「ただいま」という遊星の声がして振り向く。
「どうした? ブルーノ」
階段を下りてくる遊星はバーガーショップの袋を掲げて見せた。「腹、減り過ぎたか?」冗談めかした口調が彼をあどけなくさせる。
「あ、ごめんぼーっとしてた……おつかいありがとう」
「気にするな。休憩しよう、ジャックが帰ってくるとまた五月蠅いぞ。『俺が居ない間にハンバーガーを食うとは何事だ』ってな」
紙袋を受け取る瞬間、遊星の指先からは僅かに整備オイルの匂いがした。その油臭さも紙袋を開けた途端広がったチェダーチーズの匂いにかき消されてしまった。昼ご飯を食いはぐれたボク達の腹はずっと前から鳴りっぱなしで、早急に食糧を! と訴え続けている。
「いただきます」
「いただきまーす」
包装紙を捲ってハンバーガーに齧り付く。じわじわ広がる肉汁が美味しい。チーズがとろっと溶けて、二つ一緒にお腹に落ちていく瞬間、身体中が「満たされていく」って叫んでいるのが分かる。もう一口噛り付いて、また堪能。
もしも、だ。
食欲みたいに、欲しいと思って愛を求めて、そして他の人から補給されたら、巡り巡ってそれは自分の愛に足されることになるのだろうか――肉を味わいながら考えてみた。もしそうなら、ボクはずっと遊星の愛を受け取っていたい。噛みしめて、味わって、飲み込んで、ボクの中を一周したら、きっとボクの中にもある筈のあの気持ちと混ざり合ってくれる。
循環する愛情。ずっと枯れることを知らないままで。それならカプセルになんてしなくても、ボクは君を想い続けていけるのだ。
「ねえ、遊星」
「ん? ポテト欲しいか?」
「あ、欲しい、でもそれよりね、」
ボクも愛をあげるから、ボクにも愛をちょうだいね。畳む
・妙な訪問販売にひっかかるブルーノ。
・2014年発行のブル遊アンソロジー【StardustGazer】様へ参加させていただいた時の再録です。
#ブル遊
そのカプセルをひとつ、飲み込んでみて下さい。そう言って、妙な白衣の男はボクの前から姿を消した。正確に言えば去っていった。
目の前の机の上には赤色と白色が半々に塗られたカプセルが一つ転がっている。
ボクは遊星達が出掛けている間の留守番をしていた。ひたすらデバッグ作業を続けていた時、こんこんとノックの音が聞こえて、あれ宅急便かなと思って応対すればそこに立っていたのは見知らぬ男だった。一見ヤブ医者のような感じで、けれども高尚な学者のようにも見える。彼はボクに前述のようなカプセルを一つ手渡して、さっさと立ち去っていった。
訪問販売には気を付けろ。
遊星の言葉を思い出す。でもボクは何かを売られたわけじゃない、押し付けられはしたけれど。だから販売はされていない、と思われる。
再び机の上に目をやった。カプセルの半分を染める血を一滴たらしたような色はボクには珍しく映った。何故ならボクは自分の血を見たことがなかったからだ。ここに住み始めてからまだ包丁を使ったことはないし、工具で怪我をしたこともない。強いて言うならばカップラーメンを食べる時にポットのお湯で指先を少し火傷したくらいか。
白衣の男はこんなことを付け加えていったっけ。
「それを飲めば、貴方は人間に最も必要なものを手に入れることが出来ます」
「もっともひつようなもの?」
「はい。やさしくて脆くて、いついかなる時にも奪われることのない自分だけのもの、尊いもの――愛ですよ」
あの訪問販売の人が言った言葉が、何故か何処までもついて回るのだ。
カプセルはかれこれ三十分くらい放置されたままだった。デバッグ途中のプログラムも同じく、処理途中に置かれたカーソルだけが点滅を繰り返している。
腕を組んで首を捻った。傾いた頭が、ういいん、と思考をし始める音が聞こえた気がした。まるで機械のように唸るのは結構真剣に悩んでいる証拠だ。
「愛、あい、かぁ」
あんなに小さなカプセルに? 不思議だ。
ボクは人間だから愛だってあると思う。でも足りていないならこれで補充できるのかもしれない。ビタミン不足を解消する為に、ドラッグストアでタブレットを買うみたいに。
愛って何だろうか。
見たことがないのに、人は皆信じている。猫を撫でる時に感じるほわりとした心の温度も、愛の温度と呼ぶのだろうか。この世に山ほどある感情の中で、多分一番複雑でややこしい、扱いづらい、沢山枝分かれする大きなカテゴリ。ボクはどれくらい持っているだろう。
例えばジャックに今より優しくしてあげられる愛。
例えばクロウの仕事を手助けしようとするような愛。
例えば遊星に、今以上の気持ちを渡すことの出来る愛。
カプセルを飲むだけでこれらを増やすことが出来るのなら、とても素晴らしいことだと思う。
けれどもどうしても勇気が湧かなかった。カプセルを飲んでもしボクの中の愛が本当に増えたりしたら、何だかそれはまるでボクには愛が無かったんだと証明してしまうみたいで。
猫が猫じゃらしを捕まえるように、アキさんの右手がたしりと置かれた時、思わず冷や汗をかいてしまったのは内緒だ。Dホイールの座席に整列した指先は細長くて、こんなにすらりとした手が頑強とも呼べるDホイールを乗りこなすなんて一見想像し難い。けれど確かに彼女は黒薔薇の魔女として君臨していたのだから、美しい薔薇には棘があるなんてあながち間違ってはいないということかもしれない。
凛とした声が駆け抜ける、夕暮れ時。
「ブルーノ、何だか集中力が欠けているんじゃない?」
「えっ……そうかな?」
「何かあったのかしら? 今週の始めには貴方、もう変だったわよ」
それは多分、あの妙なカプセルを貰った翌日のことだ。
子供を窘める母親のような口調に、つい心の鍵も緩んでしまう。秘密というまでもなかったけれど、ボクはあのカプセルのことを一週間誰にも言わなかった。その間工具箱の隅で、あの血液が固まったような物体は手のひらサイズの密封式ポリ袋と共に静かに眠りについていた。
アキさんの目は大きくてぐっと迫りくるようで、ボクには到底逃げ切ることなんて出来そうになく、首根っこを捕まえられた子猫よろしく彼女と向き合った時にはすっかり事の顛末(という程のストーリーもスペクタクルもないけれど)を話す気になっていたのだ。
「……あの、アキさんは、人間に最も必要なものって何だと思う?」
「どうしたの? 急に」
訝しげな返答は心配も含まれているのがよく分かる。けれども知りたかった。彼女がボクと同じ立場にいる人だからかもしれない。遊星のことを、きっと深く想っているから。
伝え終えると、アキさんは少し苦笑いを混ぜた顔で「ブルーノったら」と零した。それから人差し指で軽く鼻先を突く。「いけないわね」と注意をしつつ。
「気を付けないと駄目じゃないの。全くお人好しって言うか……」
「お、お人好し?」
「そうよ。そんな怪しい人から怪しいものまで貰っちゃって。飲んでいないから良いけれど、何かあってからじゃ遅いのよ」
「う……仰る通りです……」
「でも、悩んじゃうのも分かるわ。『愛を飲んで増やせる』なんて、私だったら同じように迷うでしょうね」
「アキさんでも?」
意外だ。ボクの声に彼女は「当たり前よ」とまた苦笑した。
「さっき、『人間に最も必要なもの』って何かって聞いたじゃない? もし絶対にこれだけは譲れない、失くしたら人間じゃなくなっちゃう……そんなものがあるなら……やっぱり、その怪しい人が言うみたいに愛かもしれないって思うもの」
「どうして?」
「私、今まで沢山の人を傷付けたの。パパもママも。その時の自分を思い出すと今でも辛くて、苦しくて、その時の自分を消したくなるくらい――でもそうして思い出す度に分かるのは、その時の私には愛とか、愛から生まれる優しさとか、今よりずっと持っていなかったってことよ」
彼女は横顔を夕陽に紅く染めて、今度はにっこり笑ったけれど、隠し切れない寂しさが少し滲んでいた。
「アキさん――」
「愛がもっと沢山あったら、私は優しくなれていたかもしれないから」
彼女の瞳が瞬きと同時にちかっと光った。その瞳の向こう側にはきっと遊星がいるんだろうと思う。そして光の源は、彼女が抱いている感情なのだ。組み方は異なっても、ボクと一緒のカテゴリに有る、あの気持ち。
結局ボクはあのカプセルを飲むことはなく、翌日成分解析に出して中身を調べてもらうことにしたのだが、結果はただのビタミン剤だった。毒々しい色の見た目に反して、何の変哲もないレモンに似た味の粉が入っているだけで、興奮作用さえないのだと知った時少しがっかりしてしまった自分のことを思うと、本当は『愛のカプセル』であって欲しかったのだろうか。あの白衣の男は一体誰だったのか。本当にただの訪問販売の男だったのかそうではないのか、白昼夢だったのか、その正体を知ることはもう出来ないだろう。
とっくに正午も過ぎた作業場は少し蒸し暑くて、換気の為に窓を開けた。緩やかな風が耳元を過ぎていくのを感じていると「ただいま」という遊星の声がして振り向く。
「どうした? ブルーノ」
階段を下りてくる遊星はバーガーショップの袋を掲げて見せた。「腹、減り過ぎたか?」冗談めかした口調が彼をあどけなくさせる。
「あ、ごめんぼーっとしてた……おつかいありがとう」
「気にするな。休憩しよう、ジャックが帰ってくるとまた五月蠅いぞ。『俺が居ない間にハンバーガーを食うとは何事だ』ってな」
紙袋を受け取る瞬間、遊星の指先からは僅かに整備オイルの匂いがした。その油臭さも紙袋を開けた途端広がったチェダーチーズの匂いにかき消されてしまった。昼ご飯を食いはぐれたボク達の腹はずっと前から鳴りっぱなしで、早急に食糧を! と訴え続けている。
「いただきます」
「いただきまーす」
包装紙を捲ってハンバーガーに齧り付く。じわじわ広がる肉汁が美味しい。チーズがとろっと溶けて、二つ一緒にお腹に落ちていく瞬間、身体中が「満たされていく」って叫んでいるのが分かる。もう一口噛り付いて、また堪能。
もしも、だ。
食欲みたいに、欲しいと思って愛を求めて、そして他の人から補給されたら、巡り巡ってそれは自分の愛に足されることになるのだろうか――肉を味わいながら考えてみた。もしそうなら、ボクはずっと遊星の愛を受け取っていたい。噛みしめて、味わって、飲み込んで、ボクの中を一周したら、きっとボクの中にもある筈のあの気持ちと混ざり合ってくれる。
循環する愛情。ずっと枯れることを知らないままで。それならカプセルになんてしなくても、ボクは君を想い続けていけるのだ。
「ねえ、遊星」
「ん? ポテト欲しいか?」
「あ、欲しい、でもそれよりね、」
ボクも愛をあげるから、ボクにも愛をちょうだいね。畳む
エンドロール
・未来捏造。
・死ネタです。
#ブル遊 #IF
カレンダーの日付に赤い油性ペンで丸印をつけたブルーノに、遊星は苦笑いをこぼした。微笑はコーヒーによって苦さを増す。
「どうして明日の日付に丸してるんだ」
「え? だって明日はやっと新システムが完成するんだよ! お祝いしたいじゃないか」
紙の白さにインクの赤さがやけに毒々しく写った。ネオ童実野シティの根幹を担うモーメント、その制御システムであるフォーチュンが完成してから何年経ったのか、もう数えることも止めてしまった。ぼんやりとそう思いながら、遊星は照明の半分落とされた廊下へ目を遣り言った。「明日、起動に立ち会うんだろう。早く帰宅した方が良い」時刻は既に深夜だ。
「そうだけど、それはチーフである遊星もでしょ? ボクはそんなに疲れていないから大丈夫だよ。それに色々考えが巡っちゃって……」
「考え?」
「うん。何だか、明日までの道程がすごく長かった筈なのに、すごく短かったように思えるんだよ。不思議だ、こんなに大きなシステムが出来上がったのが夢みたいだ」
ブルーノは白衣を翻しながら両手を広げた。その背景には壁一面のガラス窓、向こう側には筒型の巨大な制御装置が鎮座している。長年の研究の結晶体。これからのシティを支えるシステムの全てが詰まっている機械を背負いながら、ブルーノは嬉しそうに笑った。
「覚えてる? 昔ボクが夢中になってD・ホイールを弄くっていた時、集中し過ぎだって君に怒られたことがあったよね。なのに遊星ってばこの間からずっと開発室に閉じこもりきりで、逆にボクが叱ったじゃない。今じゃ立場が全く逆だ」
「あぁ……そうだ、そうだったな」
懐かしかった。あまりにも懐かし過ぎて、遊星には自分とは全く関係の無い事柄のようにさえ思えた。開発者の道を選んでからも、カードを捲る感覚は指先に染み付いて片時も離れることはない。戦いに明け暮れた日々は写真のような鮮明さで遊星の目の前に浮かんできたが、過去の話だという内からの声がすぐにそれを掻き消した。
「遊星も休んでよ。まだ若いからって無理しちゃ駄目だからね。明日は忙しくなるだろうからさ!」
それじゃあ先に帰ってるね。未来に対する希望が、ブルーノの全身から溢れ出している。明日はきっと良い一日になる。そう確信している笑顔を見せて、彼は遊星に手を振り部屋を後にした。
一人になった部屋は恐ろしい程広く思えた。手元の資料を纏めながら明日のプランを考える遊星の目が手の甲の皺に落とされ、それが一段と深くなっていることに気付く。眩暈がした。しかし大分視力の落ちた眼がまだブルーノの表情を捉えられることに彼は安堵した。
ブルーノは予想以上に上手く動いているようだ。今頃はこのビルを出て、記録させたルートに従って帰路についていることだろう。
帰り際に見せたブルーノの姿が、遊星には幻のように見えていた。いや幻なのだ。そう自分に言い聞かせる。そうでなければならない。本物はもう居ない。
ブルーノは――あのブルーノは開発者不動遊星によって作られたアンドロイドだ。その事実を本人は全く知らない。遊星にとって長年の研究の成果は、本当はこの凄まじい程に大きな無生物ではなく一体のロボットだった。嘗て仲間であったブルーノの記憶と、今日まで恰も一緒に過ごしてきたかのような記憶を入れ込んだロボット。宇宙の果てで消えた記憶だけ失ったブルーノ。
今朝、やっと完成した彼には遊星と共に開発に励んだ日々が詰まっている。そしてその時間は遊星達が戦った日々から十年程しか経っていない。あの頃の情熱が冷め切らぬ時代のまま止まっている。
とんとんと机で資料を整えた時に白衣の袖から垣間見えた手首は関節がぼこりと浮かび上がっていた。老いた自分の姿はブルーノには見ることは出来ない。そう仕向けたのは遊星自身である、何故なら声と姿はまるで若いまま認識するように設計したのだから。
「情けないことだとは理解しているんだが……」
独り言が多くなったのはいつからだったろう? あまり覚えていなかった。時の流れは徒に過ぎてしまって、自分の痕跡をどんどん消していく。それなのに切望は褪せず色濃くなるばかりだ。無常さに足元を掬われそうだと、無意識に遊星は踏み止まった。
一先ず家に帰らなければならない。明日に向けて準備すべきことはまだ山のように残っていて、遊星の頭痛を少し強くした。資料が折れるのも気にせず遊星は鞄に突っ込む。どうせ全てデータ化してあるのだから構わない。
外に出ると海の匂いが遊星に被さった。シティを取り囲む水の砦は静かに波打っているのだろう。月も星も見えない空は今にも重たく圧し掛かってきそうで見上げる気すら起こさせなかった。輝きのない天井。明日は晴れるだろうか? 世界は暗いのに、眼の奥にちかちかと光が走るのはきっとネオンの残像の所為だ。誤魔化すように遊星は心の中で反芻した。
頭痛がして遊星は目が覚めた。
早朝の空からしたしたと降る雨の音が頭の中で反響して余計に痛みを助長させる。「お早う」と、中途半端に開いた寝室の扉から覗くブルーノは既に着替えていた。昔のまま、居候として住み続けているという形にしておいて良かった。但し場所は違い、今では全く別の、ただのコンドミニアムの一室だが。遊星は寝起きの頭で考えた。起こした上半身は気だるさに圧されて猫背になる。
「疲れているの?」
「そうかもしれない……少し遅くまで、仕事をしていたから……」
ぼそぼそと答えたが、性能の良いブルーノの聴覚は遊星の小さな声を正確に拾い上げた。「もし無理そうなら、ボクが代行するよ」耳鳴りすら聴こえる今の遊星にとっては有り難い言葉だがそうもいかなかった。何せブルーノが楽しみにしている。それが遊星の足を動かす大きな理由となった。
「大丈夫だ、行ける」
軋んだベッドのスプリングの揺れにさえ彼の視界は振れた。以前から身体の調子が良くないことはアキから聞いていたが、不調は最近遊星に顕著に表れてきている。年なんだから、と優秀な医者になった彼女に溜息をつかれたのはつい先月のことだった。ブルーノの不安そうな表情に小さく笑って応えて、遊星はふら付かないように一歩一歩踏みしめながら洗面所へと向かった。
扉を開けた瞬間飛び込んできたのは血色の悪い老人だった。鏡に映った自分の顔が、随分前に見た姿と重なる。四角く切り取られたそこには老け込んだ男がぼうっとした表情で立っていて、彼に静かに語り掛けてくる。
ゾーン。お前はやはり未来の俺だったのかもしれない。
自嘲の言葉はブルーノの製作に取り掛かってから絶えず彼の口から零れていた。結局自分はゾーンと同じことをしているに過ぎないのだということばかり考えてしまって、それは常に遊星を縛り付けている。ゾーンが遊星に縛られていたのであれば、今の遊星はゾーンに縛られていた。
「遅れてしまうよ」
扉越しに聞こえたブルーノの声は遠慮がちである。はた、と意識を戻して、遊星は慌てて「すぐ行く」と返答した。そうだ、俺は行かなくては。新たな未来の礎を見に。それが俺の義務。このシティを見続けるのが、俺の夢であり義務なんだ。
簡単に支度をし、白衣とセキュリティカードだけ引っ掛けて遊星達は部屋を出た。くすんだ白い扉を背景に、ブルーノの着ている服の紺色が雨空の所為で遊星の目に一層暗く映る。その暗さはこの場にブルーノが居ることが変則的であることを彼に突きつけてくる。同時に押し寄せて来る寂寞が遊星の足を部屋の扉の前で留まらせた。
「どうしたの? 忘れ物?」
がちゃん、とオートロックの重い施錠音が鳴った後で、不思議に思ったブルーノの手がドアノブに掛かったまま止まる。その姿は何十年も前と一つも変わらぬもので、綻んだ口元だとか、少し首を傾げた格好までもが、雨水の匂いと交じり合って遊星をぐわぐわと揺り動かした。
「あ、あぁ、いや、何でもない」
昨夜以上に遊星はブルーノの存在感に感情を掻き乱されていた。自分が行うことに対する正しさも何処からか聞こえる冷笑も全て忘れていたというのに。ブルーノの発する全てが彼の記憶を全身の隅々から引っ張り出してきて、遊星の心を緩やかに包み、その温もりで惑わすのだ。
「行こう」
振り切るように研究所へ足を向けた遊星の背中を、鈍色がかったブルーノの双眸が少しの侘しさを抱きながら見詰めていた。
雨は止みつつある。コンドミニアムの正門から未だ静かな通りへと踏み出すと、覚めやらぬ街に遊星とブルーノの影が薄っすらと浮かび上がった。濡れた地面に映り込む風景が、歩く度にくるくると表情を変える。
此処から研究所までは何かあればすぐ駆けつけられる位置にある。短い通勤距離の途中、遊星はブルーノの前を無言で歩いていた。遅くなった歩調に合わせ速度を落として付いてくる足音に耳を澄ませる。きっと今の俺はいつも以上に猫背だろうな。背後から投げ掛けられる視線を背負いながら遊星は考えた。
目の前に聳え立つ巨大な塔を見上げる。
モーメント。シティの中心。今日は新たな時代への節目だった。新しい、世界への跳躍。
歴史は移り変わる。いつでも只管前へ進む。俺とブルーノが居た時はもう遥か彼方へ行ってしまって、その亡霊に追いつきたくて、追い掛けてきた。過去に追いつくことは出来ないと知っている筈なのに。けれども俺は、もう。
心の海に沈殿していたものが浮上する。その瞬間、遊星の足が違う方向へと向けられた。研究所とは全く別の方へ。
「え? 遊星、研究所はそっちじゃないよ」
「いいんだ、ついてきてくれ」
「でも今日は、」
「今日だからだ」
焦る声を無理矢理宥めながら、遊星はブルーノの左手首を掴んだ。掴んでから、かさついた自分の指の感触に気付いて一瞬冷や汗を掻く。本当の俺が見抜かれるのではないだろうか? だがブルーノは何も言わず、渋々といった表情で連れられているだけだった。良かった、ばれていない。
それから二人は街を抜け、坂を上った。薄くなった雲の向こう側から、徐々に朝焼けへと身を焦がす空から僅かに小雨が降り続いている。傘は差さずにその中を歩き、しっとりと全身を潤わせてコンクリートの道を進む。すると足元が少しずつ緑の敷き詰められた道に変わっていく。なだらかな坂は少し長い。右へ曲がったり左へ曲がったりしながら、銀の玉を吊り下げた草をさくさくと踏みしめつつ歩いた。時折、街から吹き上げる湿った風が白衣の裾をはたはた揺らしていった。
歩き続けている間、何度か立ち眩みがしてその都度遊星の息が乱れる。「寝不足なんだ」言い訳だった。遊星の言葉に心配そうな表情を浮かべながらも、ブルーノは無言で腕を引かれて付いていった。ただの寝不足からではないことは、遊星には自覚があった。それでも何も言わずにいたい。今までと変わらぬ日常のままで。そうしてブルーノを掴む遊星の右手が完全に温まる頃、彼等は目的地に到着した。
「きれい」
ブルーノの小さな呟きが零れた。
そこは丘だった。シティを見渡せる展望台。遊星が嘗て、この街に決意を託した場所。
眼下に広がる街並みは輪郭が薄い橙色に輝いている。右側から聞こえる驚きの声に笑みを浮かべて、遊星は「そうだな」と呟く。掴んでいた手を離して白衣のポケットをごそごそと漁り、そこから携帯端末を取り出し操作し始めた。
「何しているの?」
「準備だ」
よく分からないと言いたげな顔でブルーノは見ている。「少し待っていてくれ」視線で返してから数秒後、端末は通話モードを実行した。耳に当て、遊星は喋り始める。
「あぁ、俺だ。済まないが今日は研究室へ行けそうにない……何、データは全て昨夜のうちにサーバーへ送ってあるから問題はない。頼みがあるんだが、そのデータを開くと起動の手順が書いてあるから、前回のシミュレーション通りにやってくれないか? そうだ、俺は別の場所から見ているから――済まないな、頼む」
その遣り取りをブルーノはぱちぱちと瞬きしながら聞いていた。「どういうこと?」通話を切り上げて遊星は悪戯が成功した子供のように笑った。
「今日は、ここから見たかったんだ」
「ボクに内緒にしていたんだね。びっくりするじゃない、もう」
「怒らないでくれ、この通りだから」
脹れたブルーノに両手を上げる。降参の合図だ。銃を突き付けられた役者のような格好に、ブルーノの顰められた眉が仕方ないと言いたげに緩まる。ほ、と遊星が安堵の息をついた直後、街の中心から光が発せられた。
「始まったんだな」
眩い光の放出が、シティを包み込む。まるで日の出のようなそれを浴びて、二人の影が一気に濃くなり丘へ縫い付けられた。
「うわあ……」
感嘆の溜息がブルーノから漏れる。制御装置から溢れる虹色を帯びた空気は遊星達の視界を白く染め上げた。その光景に、遊星は覚えがあった。何十年も前、今、隣に居ない筈のブルーノに触れることができた世界で、彼が消えていく瞬間に、確かに。
光は遊星の目の奥を貫いた。
そうして、彼を地面へと倒した。
「え、」
光の収束と同時に、遊星の身体は空を見上げる。冷たいコンクリートの地面がどんっと彼を受け止めて、衝撃がその身体全体に響き渡った。
「遊星、ゆうせ、ねえ、どうしたの? ねえ!」
自分を覗き込んでいるブルーノが、まるで遠くに居るかのように遊星には思えた。全身が鉛のように重い。背に腕を回して起き上がらせようとするブルーノに、「いい」と、囁くように告げる。
「よくない、駄目だよ、どうして、誰か」
おろおろと、迷子のように慌てふためくブルーノを遊星の目が愛おしそうにゆったりと眺める。
ブルーノ、俺を心配してくれているのか。
それはロボットなのかと問いたくなる程に美しいものを抱いていた。ブルーノの内側にあるそれは確かに、人間と変わらない、心だ、と遊星には感じられたのだ。在りそうに見えても無いはずの、柔らかい塊。
「なあ、ブルーノ」
「待って、待ってよ遊星、今誰か呼ぶから」
遊星の首が小さく左右に振られる。
「誰も呼ばなくて、いい。お前に、聞いて欲しいことが、ある」
「え」
光の残像は今も遊星の双眸に焼き付いて離れない。ぼんやりとした世界の中で、ブルーノが茜色の空を背景に覗き込んでいる。朝なのに夕焼けみたいな茜色。そう思うと少し面白くて、掠れた呼吸に混じって遊星は笑った。そうして、呟いた。
「お前の記憶が、全部、作り物の、ただの捏造だって言ったら……」
その言葉は鍵だった。ブルーノというロボットに宿った心をこじ開ける鍵。
「何の、話」
「お前は、本当は、あのブラックホールの中で、消えてしまったのに」
「知らない……ボクは、知らない」
「知っている筈だ、ブルーノ――お前を作ったのは、俺なんだから」
忘れさせた真実を、話そう。
ブルーノの奥底で、あの日消えた記憶が呼び起こされる。きりきりきり、と遊星の声に反応してメモリから読み込まれた記憶は、自分の消滅のそれ。
「ボク……ボクは、……消えた?」
「そうだ」
肺から空気が押し出される度に心臓を圧迫されるような感覚が遊星を襲う。まだ駄目だ、伝えなければ。
「随分時間が経った。今の俺は、本当はただの、皺くちゃな老人なんだ」
「でも、ねえ、どうして」
「夢だったんだ」
光に透けた紺碧の髪が風に揺れる。茜色にブルーノの空色がくっきりと浮かび上がった。
「お前にだけは、ずっと、昔の俺のまま、見ていて欲しかった。叶えられなかった、俺の、夢だったんだ。お前と、一緒に見たかった世界なんだ。その為だけに、お前を作った。どうしようもない、愚かな人間だと、罵ってくれていい……」
お前じゃなくても、良かったと言われるかもしれない。でも俺は、お前が良かった。ブルーノが良かった。
人間がロボットを人間に似せて作るのは、中身が機械であるそれらと心を通わせたいからだと、何処かで聴いた話を思い出していた。本来ならば持たないはずの心を機械に見出し、彼等を理解したいから。自分もそうであったのかもしれない。けれども根底にあるのは、嘗て昔、一緒に居たブルーノと再びまみえたかったという、本当なら叶えられぬ願いだ。
過去はいつだって輝いて見えていた。何十年経っても、触れることの出来ない宝物のように。時間を越えられないならせめて、お前に見せたかった。お前と、お前が居た素晴らしい世界を。
自分の我が儘の所為で、本当であり捏造の記憶をお前に与えてしまったことを、謝らなければならない。ひい、ひい、と、掠れる息の合い間に呟いたその言葉に、ブルーノは必死で耳を傾けた。歪んだ眉は眉間に何本もの皺を作った。目尻から垂れた雫が、シリコンで作られた頬を伝うのを拭う暇さえ惜しいと思う。涙が流せるように作ったのは間違いだったかもしれないと、遊星の頭によぎる。哀しみが劈く姿を見ているのはやはり辛いのだ。
「今ならゾーンの気持ちが、分かるような気がする。ゾーンは、やはり未来の俺だったんだろうか……」
ブルーノが必死で首を振り否定する。
「違う、違うよ、遊星は遊星だ」
「そう、か。なら……ブルーノも、ブルーノだったんだな」
はは、と乾いた喉で遊星は笑った。
なんだ、ここに居たのかブルーノ。
お前は確かに俺の知っているブルーノだった。それに気付かないままこの瞬間まで来てしまった俺は本当に情けない人間だ。たった一日とちょっとの間、それでも一番近くに居てくれたお前は、昔、俺の一番近くに居てくれたブルーノそのものだったんだ。何故ならお前の心は今、確かに俺の知っているお前と、全く、一欠けらの相違も無く、一致している!
「うん、うん、そうだ、ボクはブルーノなんだよ」
その言葉が聞きたかったのかもしれないと、遊星は思った。沢山ある言霊のうちでも、俺はブルーノが自身をそれだと認め、証明する声を求めていた。自分の作り上げた偽物に託した虚構はここで砕け散る。魂の震えがぴたりと重なり合うのは、ブルーノだけなんだ。
望んだ世界の延長線。遊星とブルーノはそこに立っていた。
「本物だ」
その声が最後だった。そうして遊星は、確かにブルーノと街を見送った。
結局、不動遊星という優秀な博士はブルーノを置いて死んでしまった。ただひとつ、街という大きな大きなものを遺してさっさと死んでしまったのだ。
腕の中で眠る老人と、その向こうに広がる建造物を見据えながら、ブルーノはぽつねんと考えた。
最期、君の目には何が映っていたのだろう。その先にボクは居たのかすら暴けない謎と化した。それでも、ボクは生きたブルーノには成れなかったけど、君が想っていたブルーノにはなれたのだろうか? ボクの命はいつでも終わらせることができる、けれどもいつまでも続くことができたかもしれない、矛盾の塊だ。君はそれと知っていて、どうしてボクを作ったの? 遊星。ボクはブルーノとして、もう一度生まれることが出来たのかな。
もう答えは聞けない。でも、きっとそうだったと思う。君が望んでいた最期。君が創り上げたこの街を、ボク等が居た街の完成を一緒に臨むことを叶えられたんだから。それなら、ボクにもちゃんと意味があったんだと信じたい。
やわらかい風はシティの中心部から丘に向けて吹き抜ける。蒼い、虹色の匂いが混じった音。その音を聴きながら、ブルーノは瞳を閉じた。
針の音がしんしんと深まる。
こち、こち、こち、かちり。
音が止まった瞬間、ブルーノには確かに、未来の足音が聞こえていた。
(了)
初出:2011年畳む
・未来捏造。
・死ネタです。
#ブル遊 #IF
カレンダーの日付に赤い油性ペンで丸印をつけたブルーノに、遊星は苦笑いをこぼした。微笑はコーヒーによって苦さを増す。
「どうして明日の日付に丸してるんだ」
「え? だって明日はやっと新システムが完成するんだよ! お祝いしたいじゃないか」
紙の白さにインクの赤さがやけに毒々しく写った。ネオ童実野シティの根幹を担うモーメント、その制御システムであるフォーチュンが完成してから何年経ったのか、もう数えることも止めてしまった。ぼんやりとそう思いながら、遊星は照明の半分落とされた廊下へ目を遣り言った。「明日、起動に立ち会うんだろう。早く帰宅した方が良い」時刻は既に深夜だ。
「そうだけど、それはチーフである遊星もでしょ? ボクはそんなに疲れていないから大丈夫だよ。それに色々考えが巡っちゃって……」
「考え?」
「うん。何だか、明日までの道程がすごく長かった筈なのに、すごく短かったように思えるんだよ。不思議だ、こんなに大きなシステムが出来上がったのが夢みたいだ」
ブルーノは白衣を翻しながら両手を広げた。その背景には壁一面のガラス窓、向こう側には筒型の巨大な制御装置が鎮座している。長年の研究の結晶体。これからのシティを支えるシステムの全てが詰まっている機械を背負いながら、ブルーノは嬉しそうに笑った。
「覚えてる? 昔ボクが夢中になってD・ホイールを弄くっていた時、集中し過ぎだって君に怒られたことがあったよね。なのに遊星ってばこの間からずっと開発室に閉じこもりきりで、逆にボクが叱ったじゃない。今じゃ立場が全く逆だ」
「あぁ……そうだ、そうだったな」
懐かしかった。あまりにも懐かし過ぎて、遊星には自分とは全く関係の無い事柄のようにさえ思えた。開発者の道を選んでからも、カードを捲る感覚は指先に染み付いて片時も離れることはない。戦いに明け暮れた日々は写真のような鮮明さで遊星の目の前に浮かんできたが、過去の話だという内からの声がすぐにそれを掻き消した。
「遊星も休んでよ。まだ若いからって無理しちゃ駄目だからね。明日は忙しくなるだろうからさ!」
それじゃあ先に帰ってるね。未来に対する希望が、ブルーノの全身から溢れ出している。明日はきっと良い一日になる。そう確信している笑顔を見せて、彼は遊星に手を振り部屋を後にした。
一人になった部屋は恐ろしい程広く思えた。手元の資料を纏めながら明日のプランを考える遊星の目が手の甲の皺に落とされ、それが一段と深くなっていることに気付く。眩暈がした。しかし大分視力の落ちた眼がまだブルーノの表情を捉えられることに彼は安堵した。
ブルーノは予想以上に上手く動いているようだ。今頃はこのビルを出て、記録させたルートに従って帰路についていることだろう。
帰り際に見せたブルーノの姿が、遊星には幻のように見えていた。いや幻なのだ。そう自分に言い聞かせる。そうでなければならない。本物はもう居ない。
ブルーノは――あのブルーノは開発者不動遊星によって作られたアンドロイドだ。その事実を本人は全く知らない。遊星にとって長年の研究の成果は、本当はこの凄まじい程に大きな無生物ではなく一体のロボットだった。嘗て仲間であったブルーノの記憶と、今日まで恰も一緒に過ごしてきたかのような記憶を入れ込んだロボット。宇宙の果てで消えた記憶だけ失ったブルーノ。
今朝、やっと完成した彼には遊星と共に開発に励んだ日々が詰まっている。そしてその時間は遊星達が戦った日々から十年程しか経っていない。あの頃の情熱が冷め切らぬ時代のまま止まっている。
とんとんと机で資料を整えた時に白衣の袖から垣間見えた手首は関節がぼこりと浮かび上がっていた。老いた自分の姿はブルーノには見ることは出来ない。そう仕向けたのは遊星自身である、何故なら声と姿はまるで若いまま認識するように設計したのだから。
「情けないことだとは理解しているんだが……」
独り言が多くなったのはいつからだったろう? あまり覚えていなかった。時の流れは徒に過ぎてしまって、自分の痕跡をどんどん消していく。それなのに切望は褪せず色濃くなるばかりだ。無常さに足元を掬われそうだと、無意識に遊星は踏み止まった。
一先ず家に帰らなければならない。明日に向けて準備すべきことはまだ山のように残っていて、遊星の頭痛を少し強くした。資料が折れるのも気にせず遊星は鞄に突っ込む。どうせ全てデータ化してあるのだから構わない。
外に出ると海の匂いが遊星に被さった。シティを取り囲む水の砦は静かに波打っているのだろう。月も星も見えない空は今にも重たく圧し掛かってきそうで見上げる気すら起こさせなかった。輝きのない天井。明日は晴れるだろうか? 世界は暗いのに、眼の奥にちかちかと光が走るのはきっとネオンの残像の所為だ。誤魔化すように遊星は心の中で反芻した。
頭痛がして遊星は目が覚めた。
早朝の空からしたしたと降る雨の音が頭の中で反響して余計に痛みを助長させる。「お早う」と、中途半端に開いた寝室の扉から覗くブルーノは既に着替えていた。昔のまま、居候として住み続けているという形にしておいて良かった。但し場所は違い、今では全く別の、ただのコンドミニアムの一室だが。遊星は寝起きの頭で考えた。起こした上半身は気だるさに圧されて猫背になる。
「疲れているの?」
「そうかもしれない……少し遅くまで、仕事をしていたから……」
ぼそぼそと答えたが、性能の良いブルーノの聴覚は遊星の小さな声を正確に拾い上げた。「もし無理そうなら、ボクが代行するよ」耳鳴りすら聴こえる今の遊星にとっては有り難い言葉だがそうもいかなかった。何せブルーノが楽しみにしている。それが遊星の足を動かす大きな理由となった。
「大丈夫だ、行ける」
軋んだベッドのスプリングの揺れにさえ彼の視界は振れた。以前から身体の調子が良くないことはアキから聞いていたが、不調は最近遊星に顕著に表れてきている。年なんだから、と優秀な医者になった彼女に溜息をつかれたのはつい先月のことだった。ブルーノの不安そうな表情に小さく笑って応えて、遊星はふら付かないように一歩一歩踏みしめながら洗面所へと向かった。
扉を開けた瞬間飛び込んできたのは血色の悪い老人だった。鏡に映った自分の顔が、随分前に見た姿と重なる。四角く切り取られたそこには老け込んだ男がぼうっとした表情で立っていて、彼に静かに語り掛けてくる。
ゾーン。お前はやはり未来の俺だったのかもしれない。
自嘲の言葉はブルーノの製作に取り掛かってから絶えず彼の口から零れていた。結局自分はゾーンと同じことをしているに過ぎないのだということばかり考えてしまって、それは常に遊星を縛り付けている。ゾーンが遊星に縛られていたのであれば、今の遊星はゾーンに縛られていた。
「遅れてしまうよ」
扉越しに聞こえたブルーノの声は遠慮がちである。はた、と意識を戻して、遊星は慌てて「すぐ行く」と返答した。そうだ、俺は行かなくては。新たな未来の礎を見に。それが俺の義務。このシティを見続けるのが、俺の夢であり義務なんだ。
簡単に支度をし、白衣とセキュリティカードだけ引っ掛けて遊星達は部屋を出た。くすんだ白い扉を背景に、ブルーノの着ている服の紺色が雨空の所為で遊星の目に一層暗く映る。その暗さはこの場にブルーノが居ることが変則的であることを彼に突きつけてくる。同時に押し寄せて来る寂寞が遊星の足を部屋の扉の前で留まらせた。
「どうしたの? 忘れ物?」
がちゃん、とオートロックの重い施錠音が鳴った後で、不思議に思ったブルーノの手がドアノブに掛かったまま止まる。その姿は何十年も前と一つも変わらぬもので、綻んだ口元だとか、少し首を傾げた格好までもが、雨水の匂いと交じり合って遊星をぐわぐわと揺り動かした。
「あ、あぁ、いや、何でもない」
昨夜以上に遊星はブルーノの存在感に感情を掻き乱されていた。自分が行うことに対する正しさも何処からか聞こえる冷笑も全て忘れていたというのに。ブルーノの発する全てが彼の記憶を全身の隅々から引っ張り出してきて、遊星の心を緩やかに包み、その温もりで惑わすのだ。
「行こう」
振り切るように研究所へ足を向けた遊星の背中を、鈍色がかったブルーノの双眸が少しの侘しさを抱きながら見詰めていた。
雨は止みつつある。コンドミニアムの正門から未だ静かな通りへと踏み出すと、覚めやらぬ街に遊星とブルーノの影が薄っすらと浮かび上がった。濡れた地面に映り込む風景が、歩く度にくるくると表情を変える。
此処から研究所までは何かあればすぐ駆けつけられる位置にある。短い通勤距離の途中、遊星はブルーノの前を無言で歩いていた。遅くなった歩調に合わせ速度を落として付いてくる足音に耳を澄ませる。きっと今の俺はいつも以上に猫背だろうな。背後から投げ掛けられる視線を背負いながら遊星は考えた。
目の前に聳え立つ巨大な塔を見上げる。
モーメント。シティの中心。今日は新たな時代への節目だった。新しい、世界への跳躍。
歴史は移り変わる。いつでも只管前へ進む。俺とブルーノが居た時はもう遥か彼方へ行ってしまって、その亡霊に追いつきたくて、追い掛けてきた。過去に追いつくことは出来ないと知っている筈なのに。けれども俺は、もう。
心の海に沈殿していたものが浮上する。その瞬間、遊星の足が違う方向へと向けられた。研究所とは全く別の方へ。
「え? 遊星、研究所はそっちじゃないよ」
「いいんだ、ついてきてくれ」
「でも今日は、」
「今日だからだ」
焦る声を無理矢理宥めながら、遊星はブルーノの左手首を掴んだ。掴んでから、かさついた自分の指の感触に気付いて一瞬冷や汗を掻く。本当の俺が見抜かれるのではないだろうか? だがブルーノは何も言わず、渋々といった表情で連れられているだけだった。良かった、ばれていない。
それから二人は街を抜け、坂を上った。薄くなった雲の向こう側から、徐々に朝焼けへと身を焦がす空から僅かに小雨が降り続いている。傘は差さずにその中を歩き、しっとりと全身を潤わせてコンクリートの道を進む。すると足元が少しずつ緑の敷き詰められた道に変わっていく。なだらかな坂は少し長い。右へ曲がったり左へ曲がったりしながら、銀の玉を吊り下げた草をさくさくと踏みしめつつ歩いた。時折、街から吹き上げる湿った風が白衣の裾をはたはた揺らしていった。
歩き続けている間、何度か立ち眩みがしてその都度遊星の息が乱れる。「寝不足なんだ」言い訳だった。遊星の言葉に心配そうな表情を浮かべながらも、ブルーノは無言で腕を引かれて付いていった。ただの寝不足からではないことは、遊星には自覚があった。それでも何も言わずにいたい。今までと変わらぬ日常のままで。そうしてブルーノを掴む遊星の右手が完全に温まる頃、彼等は目的地に到着した。
「きれい」
ブルーノの小さな呟きが零れた。
そこは丘だった。シティを見渡せる展望台。遊星が嘗て、この街に決意を託した場所。
眼下に広がる街並みは輪郭が薄い橙色に輝いている。右側から聞こえる驚きの声に笑みを浮かべて、遊星は「そうだな」と呟く。掴んでいた手を離して白衣のポケットをごそごそと漁り、そこから携帯端末を取り出し操作し始めた。
「何しているの?」
「準備だ」
よく分からないと言いたげな顔でブルーノは見ている。「少し待っていてくれ」視線で返してから数秒後、端末は通話モードを実行した。耳に当て、遊星は喋り始める。
「あぁ、俺だ。済まないが今日は研究室へ行けそうにない……何、データは全て昨夜のうちにサーバーへ送ってあるから問題はない。頼みがあるんだが、そのデータを開くと起動の手順が書いてあるから、前回のシミュレーション通りにやってくれないか? そうだ、俺は別の場所から見ているから――済まないな、頼む」
その遣り取りをブルーノはぱちぱちと瞬きしながら聞いていた。「どういうこと?」通話を切り上げて遊星は悪戯が成功した子供のように笑った。
「今日は、ここから見たかったんだ」
「ボクに内緒にしていたんだね。びっくりするじゃない、もう」
「怒らないでくれ、この通りだから」
脹れたブルーノに両手を上げる。降参の合図だ。銃を突き付けられた役者のような格好に、ブルーノの顰められた眉が仕方ないと言いたげに緩まる。ほ、と遊星が安堵の息をついた直後、街の中心から光が発せられた。
「始まったんだな」
眩い光の放出が、シティを包み込む。まるで日の出のようなそれを浴びて、二人の影が一気に濃くなり丘へ縫い付けられた。
「うわあ……」
感嘆の溜息がブルーノから漏れる。制御装置から溢れる虹色を帯びた空気は遊星達の視界を白く染め上げた。その光景に、遊星は覚えがあった。何十年も前、今、隣に居ない筈のブルーノに触れることができた世界で、彼が消えていく瞬間に、確かに。
光は遊星の目の奥を貫いた。
そうして、彼を地面へと倒した。
「え、」
光の収束と同時に、遊星の身体は空を見上げる。冷たいコンクリートの地面がどんっと彼を受け止めて、衝撃がその身体全体に響き渡った。
「遊星、ゆうせ、ねえ、どうしたの? ねえ!」
自分を覗き込んでいるブルーノが、まるで遠くに居るかのように遊星には思えた。全身が鉛のように重い。背に腕を回して起き上がらせようとするブルーノに、「いい」と、囁くように告げる。
「よくない、駄目だよ、どうして、誰か」
おろおろと、迷子のように慌てふためくブルーノを遊星の目が愛おしそうにゆったりと眺める。
ブルーノ、俺を心配してくれているのか。
それはロボットなのかと問いたくなる程に美しいものを抱いていた。ブルーノの内側にあるそれは確かに、人間と変わらない、心だ、と遊星には感じられたのだ。在りそうに見えても無いはずの、柔らかい塊。
「なあ、ブルーノ」
「待って、待ってよ遊星、今誰か呼ぶから」
遊星の首が小さく左右に振られる。
「誰も呼ばなくて、いい。お前に、聞いて欲しいことが、ある」
「え」
光の残像は今も遊星の双眸に焼き付いて離れない。ぼんやりとした世界の中で、ブルーノが茜色の空を背景に覗き込んでいる。朝なのに夕焼けみたいな茜色。そう思うと少し面白くて、掠れた呼吸に混じって遊星は笑った。そうして、呟いた。
「お前の記憶が、全部、作り物の、ただの捏造だって言ったら……」
その言葉は鍵だった。ブルーノというロボットに宿った心をこじ開ける鍵。
「何の、話」
「お前は、本当は、あのブラックホールの中で、消えてしまったのに」
「知らない……ボクは、知らない」
「知っている筈だ、ブルーノ――お前を作ったのは、俺なんだから」
忘れさせた真実を、話そう。
ブルーノの奥底で、あの日消えた記憶が呼び起こされる。きりきりきり、と遊星の声に反応してメモリから読み込まれた記憶は、自分の消滅のそれ。
「ボク……ボクは、……消えた?」
「そうだ」
肺から空気が押し出される度に心臓を圧迫されるような感覚が遊星を襲う。まだ駄目だ、伝えなければ。
「随分時間が経った。今の俺は、本当はただの、皺くちゃな老人なんだ」
「でも、ねえ、どうして」
「夢だったんだ」
光に透けた紺碧の髪が風に揺れる。茜色にブルーノの空色がくっきりと浮かび上がった。
「お前にだけは、ずっと、昔の俺のまま、見ていて欲しかった。叶えられなかった、俺の、夢だったんだ。お前と、一緒に見たかった世界なんだ。その為だけに、お前を作った。どうしようもない、愚かな人間だと、罵ってくれていい……」
お前じゃなくても、良かったと言われるかもしれない。でも俺は、お前が良かった。ブルーノが良かった。
人間がロボットを人間に似せて作るのは、中身が機械であるそれらと心を通わせたいからだと、何処かで聴いた話を思い出していた。本来ならば持たないはずの心を機械に見出し、彼等を理解したいから。自分もそうであったのかもしれない。けれども根底にあるのは、嘗て昔、一緒に居たブルーノと再びまみえたかったという、本当なら叶えられぬ願いだ。
過去はいつだって輝いて見えていた。何十年経っても、触れることの出来ない宝物のように。時間を越えられないならせめて、お前に見せたかった。お前と、お前が居た素晴らしい世界を。
自分の我が儘の所為で、本当であり捏造の記憶をお前に与えてしまったことを、謝らなければならない。ひい、ひい、と、掠れる息の合い間に呟いたその言葉に、ブルーノは必死で耳を傾けた。歪んだ眉は眉間に何本もの皺を作った。目尻から垂れた雫が、シリコンで作られた頬を伝うのを拭う暇さえ惜しいと思う。涙が流せるように作ったのは間違いだったかもしれないと、遊星の頭によぎる。哀しみが劈く姿を見ているのはやはり辛いのだ。
「今ならゾーンの気持ちが、分かるような気がする。ゾーンは、やはり未来の俺だったんだろうか……」
ブルーノが必死で首を振り否定する。
「違う、違うよ、遊星は遊星だ」
「そう、か。なら……ブルーノも、ブルーノだったんだな」
はは、と乾いた喉で遊星は笑った。
なんだ、ここに居たのかブルーノ。
お前は確かに俺の知っているブルーノだった。それに気付かないままこの瞬間まで来てしまった俺は本当に情けない人間だ。たった一日とちょっとの間、それでも一番近くに居てくれたお前は、昔、俺の一番近くに居てくれたブルーノそのものだったんだ。何故ならお前の心は今、確かに俺の知っているお前と、全く、一欠けらの相違も無く、一致している!
「うん、うん、そうだ、ボクはブルーノなんだよ」
その言葉が聞きたかったのかもしれないと、遊星は思った。沢山ある言霊のうちでも、俺はブルーノが自身をそれだと認め、証明する声を求めていた。自分の作り上げた偽物に託した虚構はここで砕け散る。魂の震えがぴたりと重なり合うのは、ブルーノだけなんだ。
望んだ世界の延長線。遊星とブルーノはそこに立っていた。
「本物だ」
その声が最後だった。そうして遊星は、確かにブルーノと街を見送った。
結局、不動遊星という優秀な博士はブルーノを置いて死んでしまった。ただひとつ、街という大きな大きなものを遺してさっさと死んでしまったのだ。
腕の中で眠る老人と、その向こうに広がる建造物を見据えながら、ブルーノはぽつねんと考えた。
最期、君の目には何が映っていたのだろう。その先にボクは居たのかすら暴けない謎と化した。それでも、ボクは生きたブルーノには成れなかったけど、君が想っていたブルーノにはなれたのだろうか? ボクの命はいつでも終わらせることができる、けれどもいつまでも続くことができたかもしれない、矛盾の塊だ。君はそれと知っていて、どうしてボクを作ったの? 遊星。ボクはブルーノとして、もう一度生まれることが出来たのかな。
もう答えは聞けない。でも、きっとそうだったと思う。君が望んでいた最期。君が創り上げたこの街を、ボク等が居た街の完成を一緒に臨むことを叶えられたんだから。それなら、ボクにもちゃんと意味があったんだと信じたい。
やわらかい風はシティの中心部から丘に向けて吹き抜ける。蒼い、虹色の匂いが混じった音。その音を聴きながら、ブルーノは瞳を閉じた。
針の音がしんしんと深まる。
こち、こち、こち、かちり。
音が止まった瞬間、ブルーノには確かに、未来の足音が聞こえていた。
(了)
初出:2011年畳む
人形師の家
・鬼柳さんのおつかいに行った時にアンドロイドブルーノに出会うジャックの話。
#ブル遊 #現代パラレル
子供の頃から俺はその家をお化け屋敷と呼んでいた。外観がまるで化け物の髪のように蔦に巻かれていてそれは屋敷と呼ぶには小さすぎる家の窓まで及んでいた。そのためにガラスの半分しか確認することが出来ず、日光を避けているようにも思えるその具合が俺にとってはおぞましい何かを隠しているようにしか思えなかったのだ。
主の男は若く玄関先に出て掃除をしたり路地裏を散歩したりする姿は時折見掛けたが、あまり老け込まない様子が更にその男を魔法使いの如く思わせた。十年経った今でも、男の様子は餓鬼の時の記憶と変わらぬように思う。
そうして俺は今そのお化け屋敷の居間に居る。
どうしても渡さなければならない書類があるから、と言われて町内の住民に頼まれ何故か俺が訪れることになったこの家は、意外や意外、内装は一般家庭と何ら変わらなかった。普通のキッチン、普通のソファ、普通のお茶請け。出されたクッキーを齧りながら、俺は机を挟んで向かいに座る男に目を遣った。
「町内会の委任状だったか? 記入したんだが、ここで渡せば良いだろうか」
「あぁ……」
紺色のジャケットを羽織った黒髪の青年(と思う)は俺から受け取った紙の端をぺりりと切り取った。そう、渡すように依頼されたのは町内会議に関する委任状だった。全く下らない用事だ。主の男、不動遊星は切り取られた短冊状の紙を俺の前に差し出す。不動遊星、と男にしては整った文字が並んでいた。
羅列を追っていた丁度その時、ひたひたと、俺の背後にあるキッチンから足音が聞こえてきた。ひたひた、ひたひた。住民は目の前の男だけだと思っていたのに、この家には本当に化け物が住んでいたのだろうか。そう背筋がひやりとしたのだが、予想外に柔らかい響きをした青年の声が聞こえてきたのだ。
「お待たせ遊星。豆から挽いてたら時間が掛かっちゃって」
「あぁ、有難うブルーノ」
ひたりと足音が途絶えたと思うと、俺の左側にぬぅっと男が現れた。真夏の空のような色の髪を僅かに揺らして、そいつは右手に持っていた盆からカップを一つ俺の前に置いた。白地に信号機のような色彩が線を描く上着の裾に湯気が泳いで、芳醇な香りが俺の鼻を擽った。
「どうぞ」
人の良さそうな笑みで、男は俺に珈琲を勧めた。それから遊星の前にも同様にカップを置いて、自身は再びひたひたと気味が悪い程静かな足音をさせて俺の後ろの方へと下がっていったのだった。同居人が居るとは欠片も知らなかった俺は呆気に取られながらも勧められた珈琲は口に含むことを忘れない(俺は香りの良い珈琲が好きなのだ)。舌の上に広がり、鼻に抜ける香ばしい珈琲の味は美味かった。
珈琲を飲み干してから、俺は委任状と共にお化け屋敷を出た。今となっては然程おどろおどろしさを感じないその家の玄関へと振り返ると、遊星が見送りに出てきていて軽く手を振っていた。中途半端に上げられた右手が二三回左右に振られる。挨拶を返さぬのも気分が悪くなるような気がして、俺は珈琲の礼も込めて右手を上げた。上げただけで振りはしなかったが、それでも遊星は一瞬ひどく驚いた表情を浮かべてから、それはそれは嬉しそうに、そして満足気に笑って家の中へと戻っていった。
不思議な人間だった。年齢も聞いたことがなかったし、生い立ちなんてもっと知らない。その不明さが遊星という人間を奇妙な存在にさせた。あの家だけが時間軸の外れに投げ出されたような感覚を味わいながら路地を真っ直ぐ進む。足元に浮遊感を感じるのは遊星の魔術の名残なのだろうか。そんな可笑しなことを考えながら、途中の道を曲がり、委任状を依頼した知り合いのところへ向かった。
知り合いはノックに反応して直ぐに出てきた。爺のように白っぽく脱色した髪を掻き毟りつつ、そいつは黒いTシャツに破れたジーンズという格好で「おぉジャックか」等と能天気に言う。
「鬼柳、お前の頼みをきいてきてやったというのに!」
「え? あぁ、あぁ! 助かったわサンキュー」
紙切れを突きつけてやると鬼柳は笑ってそれを受け取った。ふん、と一つ鼻を鳴らしてやる。
「あと、ブルーノとかいう男の分は貰ってこなかったから自分で行け」
ぴく、と、鬼柳の指先が止まる。
「え……お前、まさか……その、見たのか?」
「は?」
ブルーノという単語を発した途端、鬼柳の様子が変わった。そう、まさに化け物を見るような視線を泳がせて俺の返事を伺っている。面食らいながら肯定を返すと、鬼柳は溜息をついて左手を顔の正面で振った。
「そいつの分はいらねーよ。つか、もう忘れとけ」
「……どういう意味かさっぱり分からん」
自分だけ知らない真実が目の前にちらつかされていて苛々させられる。はっきり言うよう促すと、面倒くさそうな声が返ってきた。
「あー……そうか、お前内輪以外の人間と喋るの嫌いだったから知らねんだったわ。あのな、そいつは人形だ」
「はあ?」
「だから、人形だっての。まぁロボットだ。機械人形」
「……あんな、あんなに、なめらかに、動くものが、か」
「見たやつなんて、今じゃ多分お前だけだろうよ。俺だって昔人づてに話聞いただけだ、実際見たことなんかねぇ。でも等身大の人形を家に住まわして、町民とはほとんど関わり持たない男なんて、変な話ばっか流れるに決まってんだろ。きっとどっかおかしいんだ、不動遊星さんはよ」
ま、自分がどう思われてるかなんて本人は重々把握してるだろうがな。鬼柳はそう言って、この話は終わりだと言わんばかりに一方的に扉を閉めて家の中へと帰っていってしまった。俺はというと衝撃が全身を打ち砕いたように動けず、けれども一つ風が吹けば崩れそうな程眩暈がしていた。
あの青年が、ロボットだ、など。
余りに自然に動いていたものだったから、疑問を抱く隙など有りはしなかったのだ。然しながら思い返せば、ブルーノだけは珈琲を飲まず、気配という気配が薄く、見送りにも出てきていなかった。鬼柳の話を信じるならば、遊星が出させなかった、ということ以外考えらない。
人目に触れさせるには問題がある代物。魂のない空っぽの身体。見た目だけは人間そのものの、人間ではない人形。
ふらふらと揺れながら路地を引き返した。来た時よりも倍以上の時間を掛けて、ようやく遊星の家の玄関が確認できるところまで来た。其処には誰も居ない。閉じられた黒い扉が、今は開かずの門のように思えてしまう。もう二度とあの中へ入ることはできない気さえした。
赤い空につられて視線を上げると、二階の窓に掛けられた灰色のカーテンが揺れていた。僅かに窓が開いているらしい。其処から侵入した夕暮れの風が、部屋を隠す境界線を捲り上げる。
その奥に、重なった青色と黒色を見た。
自分の視力をこれ程までに呪ったことはない。間違いでなければ、それは接吻だった。ブルーノと遊星との静寂な秘密だった。黒髪に回された手が緩やかに滑るのを、遊星は小さく身を捩って受け止めていた。暴いてはいけない箱を開けてしまったような途方もない罪悪感に責め立てられ、俺は追われる様に一目散に其処から走り去った。
今でもあの家にはブルーノが居るのだろう。そうして恋人にするような口付けを遊星に与える。人間のように愛情に塗れた、嘘っぱちの人間が、今日も俺の眼球に焼き付いた窓枠から俺を見下ろしている。畳む
・鬼柳さんのおつかいに行った時にアンドロイドブルーノに出会うジャックの話。
#ブル遊 #現代パラレル
子供の頃から俺はその家をお化け屋敷と呼んでいた。外観がまるで化け物の髪のように蔦に巻かれていてそれは屋敷と呼ぶには小さすぎる家の窓まで及んでいた。そのためにガラスの半分しか確認することが出来ず、日光を避けているようにも思えるその具合が俺にとってはおぞましい何かを隠しているようにしか思えなかったのだ。
主の男は若く玄関先に出て掃除をしたり路地裏を散歩したりする姿は時折見掛けたが、あまり老け込まない様子が更にその男を魔法使いの如く思わせた。十年経った今でも、男の様子は餓鬼の時の記憶と変わらぬように思う。
そうして俺は今そのお化け屋敷の居間に居る。
どうしても渡さなければならない書類があるから、と言われて町内の住民に頼まれ何故か俺が訪れることになったこの家は、意外や意外、内装は一般家庭と何ら変わらなかった。普通のキッチン、普通のソファ、普通のお茶請け。出されたクッキーを齧りながら、俺は机を挟んで向かいに座る男に目を遣った。
「町内会の委任状だったか? 記入したんだが、ここで渡せば良いだろうか」
「あぁ……」
紺色のジャケットを羽織った黒髪の青年(と思う)は俺から受け取った紙の端をぺりりと切り取った。そう、渡すように依頼されたのは町内会議に関する委任状だった。全く下らない用事だ。主の男、不動遊星は切り取られた短冊状の紙を俺の前に差し出す。不動遊星、と男にしては整った文字が並んでいた。
羅列を追っていた丁度その時、ひたひたと、俺の背後にあるキッチンから足音が聞こえてきた。ひたひた、ひたひた。住民は目の前の男だけだと思っていたのに、この家には本当に化け物が住んでいたのだろうか。そう背筋がひやりとしたのだが、予想外に柔らかい響きをした青年の声が聞こえてきたのだ。
「お待たせ遊星。豆から挽いてたら時間が掛かっちゃって」
「あぁ、有難うブルーノ」
ひたりと足音が途絶えたと思うと、俺の左側にぬぅっと男が現れた。真夏の空のような色の髪を僅かに揺らして、そいつは右手に持っていた盆からカップを一つ俺の前に置いた。白地に信号機のような色彩が線を描く上着の裾に湯気が泳いで、芳醇な香りが俺の鼻を擽った。
「どうぞ」
人の良さそうな笑みで、男は俺に珈琲を勧めた。それから遊星の前にも同様にカップを置いて、自身は再びひたひたと気味が悪い程静かな足音をさせて俺の後ろの方へと下がっていったのだった。同居人が居るとは欠片も知らなかった俺は呆気に取られながらも勧められた珈琲は口に含むことを忘れない(俺は香りの良い珈琲が好きなのだ)。舌の上に広がり、鼻に抜ける香ばしい珈琲の味は美味かった。
珈琲を飲み干してから、俺は委任状と共にお化け屋敷を出た。今となっては然程おどろおどろしさを感じないその家の玄関へと振り返ると、遊星が見送りに出てきていて軽く手を振っていた。中途半端に上げられた右手が二三回左右に振られる。挨拶を返さぬのも気分が悪くなるような気がして、俺は珈琲の礼も込めて右手を上げた。上げただけで振りはしなかったが、それでも遊星は一瞬ひどく驚いた表情を浮かべてから、それはそれは嬉しそうに、そして満足気に笑って家の中へと戻っていった。
不思議な人間だった。年齢も聞いたことがなかったし、生い立ちなんてもっと知らない。その不明さが遊星という人間を奇妙な存在にさせた。あの家だけが時間軸の外れに投げ出されたような感覚を味わいながら路地を真っ直ぐ進む。足元に浮遊感を感じるのは遊星の魔術の名残なのだろうか。そんな可笑しなことを考えながら、途中の道を曲がり、委任状を依頼した知り合いのところへ向かった。
知り合いはノックに反応して直ぐに出てきた。爺のように白っぽく脱色した髪を掻き毟りつつ、そいつは黒いTシャツに破れたジーンズという格好で「おぉジャックか」等と能天気に言う。
「鬼柳、お前の頼みをきいてきてやったというのに!」
「え? あぁ、あぁ! 助かったわサンキュー」
紙切れを突きつけてやると鬼柳は笑ってそれを受け取った。ふん、と一つ鼻を鳴らしてやる。
「あと、ブルーノとかいう男の分は貰ってこなかったから自分で行け」
ぴく、と、鬼柳の指先が止まる。
「え……お前、まさか……その、見たのか?」
「は?」
ブルーノという単語を発した途端、鬼柳の様子が変わった。そう、まさに化け物を見るような視線を泳がせて俺の返事を伺っている。面食らいながら肯定を返すと、鬼柳は溜息をついて左手を顔の正面で振った。
「そいつの分はいらねーよ。つか、もう忘れとけ」
「……どういう意味かさっぱり分からん」
自分だけ知らない真実が目の前にちらつかされていて苛々させられる。はっきり言うよう促すと、面倒くさそうな声が返ってきた。
「あー……そうか、お前内輪以外の人間と喋るの嫌いだったから知らねんだったわ。あのな、そいつは人形だ」
「はあ?」
「だから、人形だっての。まぁロボットだ。機械人形」
「……あんな、あんなに、なめらかに、動くものが、か」
「見たやつなんて、今じゃ多分お前だけだろうよ。俺だって昔人づてに話聞いただけだ、実際見たことなんかねぇ。でも等身大の人形を家に住まわして、町民とはほとんど関わり持たない男なんて、変な話ばっか流れるに決まってんだろ。きっとどっかおかしいんだ、不動遊星さんはよ」
ま、自分がどう思われてるかなんて本人は重々把握してるだろうがな。鬼柳はそう言って、この話は終わりだと言わんばかりに一方的に扉を閉めて家の中へと帰っていってしまった。俺はというと衝撃が全身を打ち砕いたように動けず、けれども一つ風が吹けば崩れそうな程眩暈がしていた。
あの青年が、ロボットだ、など。
余りに自然に動いていたものだったから、疑問を抱く隙など有りはしなかったのだ。然しながら思い返せば、ブルーノだけは珈琲を飲まず、気配という気配が薄く、見送りにも出てきていなかった。鬼柳の話を信じるならば、遊星が出させなかった、ということ以外考えらない。
人目に触れさせるには問題がある代物。魂のない空っぽの身体。見た目だけは人間そのものの、人間ではない人形。
ふらふらと揺れながら路地を引き返した。来た時よりも倍以上の時間を掛けて、ようやく遊星の家の玄関が確認できるところまで来た。其処には誰も居ない。閉じられた黒い扉が、今は開かずの門のように思えてしまう。もう二度とあの中へ入ることはできない気さえした。
赤い空につられて視線を上げると、二階の窓に掛けられた灰色のカーテンが揺れていた。僅かに窓が開いているらしい。其処から侵入した夕暮れの風が、部屋を隠す境界線を捲り上げる。
その奥に、重なった青色と黒色を見た。
自分の視力をこれ程までに呪ったことはない。間違いでなければ、それは接吻だった。ブルーノと遊星との静寂な秘密だった。黒髪に回された手が緩やかに滑るのを、遊星は小さく身を捩って受け止めていた。暴いてはいけない箱を開けてしまったような途方もない罪悪感に責め立てられ、俺は追われる様に一目散に其処から走り去った。
今でもあの家にはブルーノが居るのだろう。そうして恋人にするような口付けを遊星に与える。人間のように愛情に塗れた、嘘っぱちの人間が、今日も俺の眼球に焼き付いた窓枠から俺を見下ろしている。畳む
・空っぽだと思ってるブルーノ。
#ブル遊
僕には何も入ってないから返す言葉も出てこないのかな、と真顔で言うブルーノの目尻では、小さな雫が落ちるのを必死で耐えていた。
「嬉しい時って、ひとは泣くものなの?」
「人は泣きたい時に泣くものだ」
「じゃあいま、僕が遊星から言われたことに、僕が悲しんでいるわけじゃない?」
「自分で言葉にしてみるんだ、ブルーノ」
「ことば」
ことば、ことば……。繰り返す薄い唇に、黒いグローブの生地が擦れた。途切れた呟きを拾い上げて、遊星が続ける。
「愛している。愛していた。これからも愛する」
彼の声は決して大きくはない。だって今は夜中だもの、当然だよね。大きな声を出したら、ジャック達が起きちゃうもんね。冷静なもう一人の自分が言う。でも遊星の声には、あの、勝利を確信した時のような不思議な色彩がじわりと滲んでいて、月光だけが漂う作業場に強く響いた。
雫はついに溢れた。目尻からぽつ、とうまれて、この世に落ちた。口元に添えられた布をいっそう黒くして、そして向かい合う青年の変化に気づく。
強いはずの彼の、霧のような揺らぎ。不安定さ。あ、僕が何か言わなくちゃ。何を?
すがりつく先は彼の肩口だった。細くて頼りないはずの体躯は、いつだって自分の拠り所で、だから。
「からっぽの僕に愛をくれてありがとう」畳む