から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

東雲
・シミュ次元ネタ。
・ネイルするAiとされる遊作。
・非日常になった世界の一場面。
#Ai遊 #IF

 どこかで耳にしたことのある旋律に遊作は天井を見上げた。思考する時の癖だった。どこで聴いたのか思い出せないがどこかで聴いたことだけは覚えている、だがAiはどこで知ったのだろう? と疑問に思った。音楽に親しくしているような素振りは見受けられなかったからだ。
 完璧な音程の鼻歌をBGMに、少年はひとつ息を吐いた。
 剥がれかけた天井の壁紙にある汚れはずっと前、遊作が引っ越してくる以前からこの部屋に住み着いている先住民である。陽の光の中で浮き彫りになった染みはもう取れそうにない。それをしばしば見上げながら二十分は経った頃か、時計を見ていないから体感ではあったものの多分そうだろうと踏んで「二十分もこのままだぞ」と小言が口を衝いて出た。
「まだ十五分でーす……うん……ふっ、へへ……」
「変な笑い方をするな」
 Aiの体内にあるクロックのほうが正確であるらしい。人間と比較すれば言うまでもないが、まだ十五分しか経っていないことを遊作は少し残念に思った。五分も誤差があったか。
 ふふ。足元で沸いた吐息とも溜息ともつかない微かな風が、草原の頭を撫でるみたいに遊作の爪先を駆け抜ける。風は温度を持たなかった。だがAiの唇(を模した部品)から押し出された、もしかすると内部の機器を冷却するファンが発生させたのかもしれないただの空気の流動が、遊作には生命の息吹に感じられた。少なくとも、ここにAiが居ることの証明材料として確固たる権威を持ち、それが少年を喜ばせた。
 ベッドの上で膝を山の形にして、腕を支柱に座っていれば、誰でも腰や尻が痛くなるであろう。Aiいわく十五分。その間ずっと足元でうずくまる男を視界に収めながら、痛みを辛抱して、時に天井を見上げつつ、放り出した両足を男の好きにさせていた。
 かたやAiは、左手に遊作の左足をたずさえ、右手にネイルポリッシュのブラシを持ち、画家のごとく着色に勤しんでいる。その周りには小瓶が三つ転がっていた。遊作は今朝の記憶を辿った。確か「足の爪塗らせて」と言い出したAiの手には四つあったはず、残りは――果たしてそれはあった。Aiの後ろ、テーブルの上にキャップが外された状態で置かれていた。つまりAiが今塗っているのはその中身であった。
 メッキをガリガリ剥がし混ぜたような金色の破片が、室内灯の光を孕んでまばゆい。
 ブラシがそれを含まなくなったら、Aiは律儀に振り返り小さな刷毛を小瓶へ浸す。そのたびに結い上げた髪(を模した部品)が犬の尾のように振られた。図体に似合わず何度も繰り返される行動は職人を連想させる。何の職人かは分からないが、何らかの職人の犬を想像して、脳内に浮かんだひどいイメージにかぶりを振った。
 Aiが動くたびにベッドはぎっぎっ、と泣く。成人男性相当のものに加えて少年一人分の重さに耐えるのはもう限界と言いたげに唸っていた。何度かAiが「もう買い替えろよ」と訴えてきたことがあるが、結局いつも耐えてくれるのだから持ち主はそれを壊れるまで使うつもりでいる。毎度変わらない遊作の返答にAiは呆れることしかできず、しかし懲りずに訴えを繰り返す。
 遊作自身は、ベッドが狭いのが好ましいわけではなかった。けれども、このまま小さな寝台を二人で蹂躙するのも悪くないと思ってしまう――自分の奥底で首をもたげる欲求を、遊作が口に出したことはない。言えば、Aiは嬉々として遊作を離さないだろうから。
 あと何往復すれば終わるのだろうか。遊作の目は天井と足元を行ったり来たりしながら時間を潰していた、しかしさすがに飽きる。この頼んでもいない作業(と言うしかなかった)の間に少年が自分から会話を振ることはなく、沈黙を繋ぐのはAi任せだ。それも塗っている最中は集中しているようで口数が少なかった。
「ふーん、ふふー、よっし出来た」
 遊作の気持ちを酌んだのか、あまりに唐突に旋律が止まった。おそらく曲の途中だったろう、不自然にぶっつり途切れてしまった。Aiは構いもせずポリッシュの瓶を閉じた。きゅ、と爪で床を引っ掻いたような音を最後に、元から鼻歌なんて流れていなかった様子で部屋にはからからと換気扇の稼働音だけが鳴っている。結局、遊作は作業が終わるまで曲の題名を思い出せず、消化不良気味な心地が腹の中に残った。
「どうよ! さっすがオレ様、完璧なAIワザだな。この金がギラギラしてて良いだろ?」
「よく分からない」
「もう! 遊作チャン相変わらず冷たいんだから!」
「……綺麗だとは思う」
「うんうん」
 きれーだよなあオレもそう思うわけ。笑うAiが嬉しそうなので、遊作も「これはこれでいいか」と頷く。目を細める男につられ、口元が緩む。
 飾られた足の爪を、遊作は不思議な心地で眺めた。爪先に一枚の膜をぴんと皺なく張ったような感じがある。両足の先端は菫に似た深い紫を下地にこしらえて、その上を大ぶりの金の屑が散っている。Aiがこの妙な趣味を始めてから、少年はそのきらめきがグリッターと呼ばれるものだと知ったが、知識が役立ったことは一度もない。使われる物も、Aiが勝手に手に入れてくるので他にどんな製品があるのかも知らずにいる。
 夜明け前の空を思い出すような、Aiにしては良い色だな。少年は内心独りごつ。色の選択もAIのディープラーニングによる結果なのだろうか、流行や好みを学習した……「その色、オレっぽかったから選んだんだよねえ」遊作の野暮な思考はAiの言葉で一刀両断された。体勢を戻してベッドに座るAiはどこか得意気だ。
「遊作チャンに塗りたくてさ。良い色だろ?」
「お前の色か」
「そ。よく似合ってるぜ」
 言われてみれば、電脳世界はさておき、Aiは紫を基調とする服が多かった。最近普段着として気に入っているらしいシャツも紫だ。また飾り物は大体が金色である。とりわけ象徴的なのはその瞳で、装飾品でないのに装飾品のごとく彼を一層派手にしていた。
 猫のような爬虫類のような、ぐりっとした二つの玉はいつでも遊作を映している。浮かぶのは自分と、どろどろになったAiの感情指数のみだ。その鈍い光に照らされるたび、少年の心臓は直に掴まれたように苦しくなる。
「いつもそうだが、そんなに俺を見ていて楽しいのか」
「楽しいよ。お前の全部、ぜーんぶ見てるの、すげえ楽しい」
 今もだ。光に重量があったならば、おそらく惑星一つ分ほどではないかと思われるほどに、重苦しくのしかかり血液を圧縮させる。ふつふつと沸き立ち全身を巡り、指先まで熱くさせる感覚は遊作の手に余って、Ai、と男の名を呼ぶしかなくなる。崩れる前に、Aiの冷たい指がひとつずつ拾う。
「どした? 遊作チャン」
 愉快そうな声だった。思い通りに駒を動かす王がそこにいた。こういう時に遊作は、Aiの内側にあるAIの気配を感じずにはいられない。自分の全てが透明で隠し事などできなくて、Aiは自分の知らない自分を知っているのではないか――脈拍や呼吸速度、じわりと滲んだ汗の量から計算され、ただの数値になった感情がAiに伝わってしまうことを想像する。ダムのように溜めておくことも、堰き止めておくことも許されずに、ざあざあと溢れる最も触れられたくない部分。
 少年は時々考える。非常に人間に近しいAiの感情は奔流に似ていて、その中で毎日を過ごしていると、この世とは途切れた別の場所で過ごしているかのような感覚を覚えることがある。そういう時、遊作は得体の知れない不安に駆られた。覚束ない足取りの子どもが道に迷って帰ることができないように、時のまばたきの狭間に落ちて誰かの迎えを待っている自分と、俯瞰的に見下ろす自分がいる。
 ここが何処か分からなくなる。自分と世界の境目が曖昧になって解けていく。
「遊作」
 けれども少年が遠い、知らない場所へ思いを馳せる旅人の目をしている時、Aiの声だけが少年を覚醒させるのであった。今日ももれなく、浮ついた思考を留める声が遊作を引き揚げた。その時だけはAiから低く、戯れを取り除いた音色が生まれる。

「どうして小指だけ真っ黒なんだろうか」
 ソファ代わりになったベッドで、端末を片手に動画を見たりニュースを見たりするのもそろそろやり尽くした。少し傾いた太陽は赤みを帯び、部屋の半分が染まっていた。
 茜の光の中、二人横並びに腰かけていた。遊作の視線の先、乾いた爪先の両端だけが黒である。親指から四本は太陽を迎える前であるのに、小指だけ忘れ去られたように夜のままだ。
 端末を手にしたままでAiは首をすくめた。人間でないのにそういう仕草をするのは、自分の真似をしているのかもしれないが、意味はきっとないのだろうと遊作は考えている。
「んー、なんかアクセント? スパイス的な?」
「そんなものか」
「そんなもんよ」
 に、と口角を上げるAiが「全部おんなじってつまんねーからさ」という呟きの中に企みを隠した。知りたいが、もっと近付いていたら焼け死んでしまうかもしれない熱量で、遊作をじっと捉えているのでそれ以上踏み込めない。少し恐ろしさすら覚える。だが、視線を外したくともできないのは、遊作自身がそれを望んでいないからかもしれなかった。再び心臓がぎゅっとなる。ずっとこうしていることがあたかも罪悪であるような錯覚がどこからかやってきて、少年の背筋に一筋の汗をもたらした。
 その感情を知ってか知らずか、唐突にAiが「ははは!」と笑うので驚く。「今からサンダルで出掛けようぜ! 夕方の海もいいじゃん? そんで見せびらかすのよ、その足」飛び出しそうな勢いで立ち上がる。一瞬間前と打って変わって、しかし少年にとっては真実助け船で(何かを発露するところであったから)自分もその空気に乗っかることにした。
「真冬に素足で出掛けるわけないだろ」
「えー? じゃあオレが抱っこしてやるからさあ」
「断る」
「即答じゃん。遊作のためなら専属の足になっても良いぜ」
「やめろ、願い下げだ」
「お前専属ネイリストも良いんだけど」
「それは毎回やってるだろ」
「専属シェフも良い。あ、パティシエはまだやったことなかったっけ? 教師、社長、運転手、使用人、隣人……どれも捨てがたいよな……」
 指折り職業の羅列を数える姿に、遊作はつい溜息をついてしまう。AIだから学習すれば何にだってなれるだろう、しかし何にもならなくていいのだ。
「Ai」
「ん?」
「お前はAiだ」
 俺から生まれて、俺と生きる、俺のためだけのAI。それはお前が一番よく理解しているんじゃないのか。
 よどみなく出された、心のままに編まれた言葉たちに、Aiはまばたきを忘れた。五秒。時が止まって、そこから復帰するために彼が要した秒数である。
「――はぁー……遊作チャンて、ほんとオレを喜ばせるの上手ね」
「喜ぶ言葉なのか、これが」
「そういうところがお前らしいよ」
 立ち上がっていたAiが身体の支えを放棄する。その腕が遊作を捕縛した。「ぐ、」腹に力を入れ、倒れ込むのは何とか阻止したものの、ベッドは何度目か知れない泣き声をあげた。これ以上辛い思いをするのは嫌だと、誰かの代理として涙を流しているようでもあった。
 汚れた空気、崩れた建物。狭かった空はビル群がいくつか無くなったことで見晴らしが良くなってしまった。人間の生活風景が既に過去のものとなった世界の端で、小さな小さな部屋の君主にかしずくAIは少年に見つからないようにひっそりと、底なしの哀しみに身を引き裂かれる。
 彼らのアパートどころか街から人が消えてから何日経ったか、口にするのをAiはやめていた。声に出してしまえば、止めることのできない砂時計が彼の前に置かれて、その流れをひたすら眺めるしかなくなる。この世はとうに地獄なのに、遊作だけを取り除こうとしてもいつもうまくいかない。少年が世界に繋ぎ止められている以上、その糸を切ることができない。
 遊作の言葉はAiにとって始まりの言葉であり、そして終わりの言葉でもある。
 涙が、その目尻から落ちることがあれば、多少なりとも慰めになったかもしれなかった。きっと遊作ならば優しく宥めるだろう。しかしそのようなことは起こらない、何故ならAiは人間ではない。事実を突きつけられるたびに「人間であったら良かったのにな」と思うものの、人間でなかったからこそ遊作から生まれ出たのだから、仮定の話をしても無意味であるとしてやめることにした。
 けれども、もし電気信号が肌触りを有していたならば、おそらくAiの一番奥にあるものは春風のように柔らかかっただろう。遊作が抱く印象にある、発火点に至るものでは決してなかった。
 ゆえに遊作が感じた風は、正しくAiの呼吸なのだ。
 Aiの隠し事には気付かないまま、その僅かな風を耳元で感じながら、少年が男の肩越しに覗き込んだ爪先は既に夜明け前の色彩ではなくなっていた。小指の黒点が空を飲み込んでしまって、もっともっと以前の、大昔から存在する不変の理が拡がっていた。まるで宇宙が生まれた瞬間のような。
 暫くすればまたAiは少年の爪を飾るだろう。不可侵で、誰にも覆せない経典を刻むために、世界を自分の絵の具で塗り潰すために、ずっと一人で。
「遊作、手ぇ握って?」
 いったん離れた男のねだる声に従って、遊作は差し出された二つの手を握った。握手とは異なる、互いを確認するための行動である。時々こうしてAiは手を合わせたがった。指を絡ませ合ったり甲を撫で合ったりすると、皮膚の感触の違いが浮き彫りになって、いのちが二つあることを改めて見つけることができるのだった。Aiの手首を撫でても血管は浮き出ていないし、遊作の掌には取れない皺がある。それらが喜ばしく、痛々しい。
 Aiが指の間に唇を寄せ、こそばゆさに遊作はついふふっ、と声を漏らした。仕返しを考えるが、自分にはできそうになくていつもされっぱなしでいる。だが一方的であるのも悪くなく、むしろ気分が良くもあった。だから提案してみることにしたのだ。
「明日の朝なら海へ行っていい。朝日が昇る前に行こう。久しぶりの外出だ」
「え、裸足で?」
「ああ。誰もいないだろうけどな」
「もう誰もいないほうが良い。誰かがいたらオレそいつのこと、」
「物騒なことを言うな」
 む、と眉を顰めるのを見たAiは「はいはい」と返す。しかし遊作の提案には大袈裟なほどに嬉しがって「やりー! 遊作が寝坊しないように今晩ずっと起きてるからなー!」などと言って遊作の両手をぶんぶん振り回した。「痛い」「そっかそっかー」聞こえないふりをするのは都合が悪い時の常套手段である。
 Aiが心底喜ぶのも無理はなかった、遊作が外へ出たのはかなり前のことであったから。いつもはAiが人目を気にしつつ、ネットワーク上を監視しつつ物品の調達をしているので(こういう時だけAiは自分が機械の肉体で良かったと思っていた)遊作が汚染された空気で苦しむこともほとんどない。現状、薬品類を入手するのもだんだん厳しくなってきている。何も変わらないでいてほしかったが、そんなことが通用する世界ではなくなってしまった。
 さて、振り回されている手の周回軌道上に一筋の緑が走っているのを見て、少年は訊ねたかったことを今更ながら思い出した。
「そういえばこの緑は何なんだ? 前は塗ってなかっただろ」
「ああ、今朝さあ遊作のやつ塗る前に塗った」
 男の手の爪はすべて緑に染まっている。芽吹いた若草の上に朝靄が寄りかかったような色味は、つややかに反射してそれぞれ雫を残していた。その中で一等太い指、右手の親指が遊作の唇をなぞった。何かを拭うかのような仕草であった。
 だから、距離の縮まった今では眼前にあの金色がある。遊作の心臓が一際波打つ。
 あ、と遊作の脳裏でひとつの考えが浮上する。宇宙が最初の爆発を迎えた時、きっとこの光彩が一気に溢れ出たのではないか。同じものが自分の足にある。そこから、深い孤独を撒き散らしながら、自分のもとへ駆けつけるまでの軌跡を辿ることができたなら、その先は銀河の向こう側へと繋がっている気がした。
 Aiの瞳が細まって、少年の像はぐにゃぐにゃに歪んだ。
「この色さあ、お前の眼の色だよ」
 オレの王様の色! そのまま親指を突っ込まれて遊作は何も言えない。ただ、もし明日太陽が昇らなくとも、海へ行くことだけ心に誓った。この宣誓だけは何があっても内緒にしておくべきものとして、遊作の中に仕舞われた。



 これを自動運転技術と呼んで良いものか審議しながらAiの服にしがみつく。両腕を回すのは今でも気恥ずかしさが残って、遊作にとって困難ではなくともなかなか気乗りしないことのひとつとして挙げられる。一段と冷えた朝が、余計そうさせる。
 「捨てられてたから拾ってきたぜ」そう言ってモーターサイクルを持ち帰ってきたのはいつだったか。
 犬や猫でもあるまいし、元に戻してこい、と言えなかったのは、それがおそらくは持ち主が街から逃げる時に邪魔になったか、こんなものでは逃げ切れないと判断して捨て置いた物だろうと察しがついたからかもしれない。雨が降る直前の空に似た灰色を、遊作が気に入ったこともある。加えて二人乗りで、手軽な移動手段がなかった彼らにとっては都合が良かった。
 無断で私物化した車体で街を駆ける。少し霞んで見える海は、ひと月前は遠くまで鮮明に見えていたはずであったのに、一枚、また一枚と薄い布を重ねるように確実に対岸が曖昧になっていた。街路樹さえ軍隊のパレードのごとく整列していたものが、いまやまばらだ。うち一本が枯れた時、遊作は「光が減ると命も減るのだな」と思ったのだった。
 跨るモーターサイクルと同じように、あちこちに行き場のない所有者不明の車体が放置されている。そのうちいくつかが視界を流れていった。咎める人間も処理する人間も足りない街は、これまでどれほど管理され統制されてきていたのかよく分かるありさまにまで収縮してしまって、倫理の糸が辛うじて社会を保っている。その糸を千切らんとする人間は皆どこかへ出て行ったので、暗黙かつ無言で協定を結んだ人々の生活だけが、縮こまった輪の中で継続しているのである。
 海岸線の冷えた空気は、冬の圧力だった。無遠慮に遊作の剥き出しの手から体温を奪っていく。「だから抱きついてなさいってば!」自分の背を掴む力が弱まっているのを察知したのか、Aiが叱るような声色で叫んだ。気を取られて、道路の段差に乗り上げた拍子に車体から落ちそうになるのを、寸前で引っ張られる。今度こそ手を回すはめになって、Aiにとっては喜ばしい。
「あっぶね! もー言わんこっちゃない!」
「悪い、ぼうっとしてた!」
 風を切る音にかき消されないよう、ひと際大きく返事をした。ガスマスクを隔てていては声を張る必要があったので。
 半年前、空気中のあらゆる成分が過去のそれと比して悪化の一途を辿ることが明白になった。その時、彼らはアパートの空調設備を自分達で強化し、より性能の良い空気清浄機能を取り付けたのであるが、安全が保たれた自宅とは異なり外でマスクをつけずに過ごせば、今では病院送りになるのにはたった一日しか必要としない。残った市民であれば皆が理解しているところで(各々の体調の変動によって各々が実感することで)、そのために病院を開けている誰かがいる。ただし正常に機能しているものは少なく、ほとんどが街と心中するような覚悟を決めた人間で辛うじて運営されている状況である。
 Aiが確認したことによると、これらの情報はいまやどこか違う街から配信されてくるものしか存在しない、とのことだった。この街のメディアがまともに機能しなくなってしまったので言わずもがな。それは外国であったかもしれないし、別の星であったかもしれない。誰かがこの街の現在を監視していて、それをネットワーク上に流しているのを彼は「こりゃ観察日記だな」と一蹴し、自分も同意したのだったな、と遊作は記憶している。
 この街は誰かにとっての娯楽である。
 単なる役割と化した自分達の生態が、毎日毎日飽きられもせずにモニター上に表示されているのだ。チャンネルのひとつに割り当てられた、遠いどこかの誰かとは無関係の話で、けれども今日もこうして生きていることが誰かに伝えられているかもしれない。あるいは届かないかもしれない。いつ揮発するか分からない情報が、誰に宛てた書簡でもなくネットワークに漂うさまを想像すると、自分のコピーがそうなっているように少年には感じられるのであった。
 少ない手持ちの服の中で最も厚みがあるピーコート(学校指定の支給品で、数回着用しただけである)では、モーターサイクルの速度で威力を増した寒さは完全には凌げない。耳はじんじんと冷たいのに、マスクで覆われた口元だけは温度が保たれているのが皮肉めいていた。対してAiは普段と変わりのない、薄紫のTシャツに黒のパンツという軽装だ。首元をネックゲイターで覆っているものの、結った髪が風でなびいても少しも寒そうではなく、当然ではあっても恨めしく感じながらその背にひたりと頬を寄せると、子どもが親に甘えるような仕草になった。
「いまどんな顔してるのか見てえなあ」
 耳元のピアスのように声を弾ませるAiに対し、ただ風を避けたかっただけだ、とは言わなかった。何度も叫んでいては喉がやられる。

 速度が緩やかに下降していく。風が弱まる。目的地に到着しました、案内を終了します、お疲れ様でした――そんな自動音声案内が聞こえてきそうな運転だったことを考慮すれば、これも一種のAI自動運転技術である。
 運転技術に限定せず、免許がなくともマニュアルをダウンロードすればすぐに運転はできるし、ネイルの仕上がりは回数を重ねるごとに美しくなっていく。食事をする必要はなく、大気汚染も気にならない。だから今も、ガスマスクなく浜辺に降り立つことができるのはAiが人間ではないからで、それがAiが遊作の隣に立っている最大の理由で、遊作の知らないところでAiを雁字搦めにしている。
「誰もいないな」
「誰もいなくて良かったぜ」
「見せびらかすんじゃなかったのか?」
「おう。さあ存分に見せてくれよ、オレに」
「お前にって、もう何回も見てるだろ」
「何回でも見たいもんなの」
 モーターサイクルを防波堤に停める。見下ろす先の砂浜は、いまだ藍色に満たされた空間の中でも分かるくらい人影がない。
 歩みを進める遊歩道は、海風で巻き上げられた砂の隠れ場所になっていた。その景色に、かつての心強い協力者が店を出していた場所を重ねてしまうのは、彼と会えなくなってしばらく経つことによる感傷のせいかもしれない――道から海辺に出れば波の音に寂寞も紛らわせることができ、遊作の心も僅かだが落ち着きを取り戻す。浜へ続くコンクリートの階段を降りたところで彼は靴を脱いだ。約束どおり裸足になろうとしたのだった。
「やっぱ抱っこしよっか?」靴を脱ぐのをAiは止めない。「寒いだろ?」
「いい、やめろ」
「なあなあ抱っこしたいー! ハグしたいー!」
「やめろ」
 事実、寒いことは寒かった。靴の下は裸足であったから、脱いだ途端に冷気が牙を剥いて少年の足を食らった。風が吹いていないだけましである。
 それでも、爪先の銀河系が目に入ると寒さなどはほとんど気にならなくなって、自分は存外気に入っていたのだなと思った。こんな遊びもたまには良いか、と思うのだ。たまに、という頻度で今後行われるかどうかは不明であっても、真冬に裸足で海を歩くなどということは、平凡だった頃には頼み込まれても決して了承しなかっただろう。だからこの先も行われるかもしれない可能性は十分ある。
 世界に引きずられるように、自分達も変化している。生物には生存の手段として順応する能力があるらしいから、自分も同じく、過去の自分からどこか変わっているのだろう。
 一歩、また一歩。遊作が進むごとに、ざくざくと夜を砕く音がした。砂の合間に爪先が輝いた。踏まれて粉々になった闇は、朝日が昇る前の濃紺から紫へ変わりつつある宇宙の入口へと飲み込まれていく。そこが、彼を出迎える。今朝配信された情報によれば、街の汚染レベルはひと月前より〇・二八パーセント悪化しているらしかった。にもかかわらず空がより美しく見えるのは、時々Aiの手によって爪先へ描かれる色が、目に焼き付いてしまっているからなのだろうか。
「なあ、寒いとか冷たいってどんな感じ?」
 少年と同じ歩幅で進む男の声には起伏がない。穏やかな海の凪と、どこか共通点がある。
「感覚の話か」
「そ。オレは想像することはできる。センサーで気温を計測することもできる。けど、実際のところ分かんねえからよ」
「そうだな……巨大な氷で徐々に圧縮されて、点になって消えたくなるような感じと言えば分かるか?」
「やばいってことは分かった。裸足にさせて悪かったとも思ってる。寒過ぎて消えんなよ」
「結局歩かせておいてよく言う」
「だってハグ嫌って言ったじゃん! ほら!」
 並行する足跡の上、差し出された左手を取った。あたたかくも冷たくもない手。人間ではないものの手。新緑に縁どられた手。その手が冷え切った少年の手を擦っても摩擦で発生する少しの熱しか宿らず、熱は膨らむことなくすぐに消えてしまうのだった。結局、握ることで熱を逃がさないようにしたらしいAiが「ありがとな」と口にするまで、波音だけを伴って四つの足跡が続いた。
「何がだ」
「今日、一緒に外に出てくれて」
「俺が来たいと思っただけだ」
「でもさ、嬉しいからやっぱ言っときたくてよ」
 遊作が右側を見上げると、自分を捉えるAiの目があった。波間に揺らぐ声とは真逆の、遊作を捕縛して決して逃さない瞳が二つある。沈殿する日々から呼び覚ます光がある。
 いつやってくるか分からない終わりをただ待つだけの今日が、昨日が、明日が、誰かの玩具でないことを確かめるために、ここへ来たのかもしれなかった。足裏の痛みを甘んじて受け入れる遊作を、金の眼球がメモリへ記録している。Aiの中へ残している。その視線を浴びる時、遊作はAiと向き合わざるを得ない。そのぎらついた瞳を見たくて仕方なくなる。
 この目には、俺が焼き付いているのだろうか。俺がお前の色を打ち消せないみたいに。
 そう思うと、ぞくぞくと総毛立つ感じが遊作を襲った。ガスマスクを取り外したのは半ば衝動であったけれども、そうしなければできないことなので、遊作が迷うことはなかった。自分には今、それが必要だった。与えてほしくなった。
「ちょっと何マスク外してんの駄目じゃ、っん」
 繋いだ手を引き寄せ、そのまま頭を抱えるように口付ける。別にマスクを外したとしても、現時点では少なくとも死に直結するわけではない。投薬治療をすればしばらく咳き込むだけで済む。だから、喉が痛くなっても肺が苦しくなっても、遊作はただキスがしたかった。間近で金色の光を浴びながら、爪先のきらめきを追い、遠い虚ろな影の向こう側へ行きたかった。
 波の音が消える。真空の中で、二つの命が立っている。
 何度も、何度も唇を寄せる。そのたびにAiから押し出される空気を酸素代わりに飲み込んだ。あの、柔らかな春風だった。ゆうさく、と声がしたと思えば、今度は反対にひたすらキスされる。唇の端から端まで、Aiの舌が形を確認するようになぞって、遊作の背筋にびりびりしたものが走った。
「んっ、んう……」
 そこから侵入した舌が、遊作の舌と絡まる。ぬるつく感触は自分の唾液によるもので(ソルティスは唾液を分泌しない)恥ずかしく感じたものの、止めることができない。互いに舌先で遊んで、隙間なく口付けたり、離れたりする。は、は、と短い呼吸をして、互いの目を覗き込んで、またキスをする。Aiの手が耳から首筋を撫でて、遊作の肩がびくりと跳ねた。それは欲求を膨張させる薬になって、冷え切った遊作の足に、指に、熱が宿る。
「……Ai、もっと」
 小さな声で求めると、喜びにかき混ぜられた色になって、あの目が自分を捉える。
「いくらでも」
 美しい弧を描いた唇に再び口付けられた心地よさに「ああ、変化だな」と遊作はおぼろげながら思った。生命体は自らを生かし続けるために必然的に変化する。俺もそうなった、至極単純なことだ――何せAiは俺のAIであるから俺に必要なのだ――空を占める紫が徐々に橙に上塗りされるまでその往復は続いた。
「ハグは駄目なくせに、キスは良いんだ?」
 離れた時の満足げな声に、思い返すと僅かに恥ずかしさがこみ上げてくる。
「したかったから、良い」
 そう答えると、Aiは「ふーん」と機嫌よく返しただけで、再び手を繋いで歩き出した。もう片方の手でマスクを弄びながら空を見ると、橙色はひと際強く空に出でて、遊作の瞼に強く残る色合いをすっかり食らってしまったのが、彼は少し残念だった。
「病院行くはめになっても知らねえからな」
「今日の指数はそこまでひどくなかっただろ。ひどかったら、出掛ける前にお前が止める」
「ばれてたか……でもここも、いつまでもつか分かんねえ。遊作だってそれは理解してるだろ」
「ああ」
「それに今日みたいに出られる日も少なくなる」
「そうだな」
「空気もよくないし」
「お前が酸素をくれればいい話だ」
 言葉が途切れて、夜明け前を踏み荒らす音だけが鳴った。それがどのくらい続いたか、五分か、十分か、もっと短いようにも思えたが、ふと歩みが止まった。
「……オレ、たまに遊作が怖えよ。そういうこと言うから」
 隣を見上げると、Aiは何かを耐えるような目をしていた。その原因がどこにあるのか、遊作には分からない。
「オレで命を繋いでるみたいなこと言うなよ。お前が望めばいつだってここから連れ出すし、どこにだって行くから」
 端々から今にもほろほろと、雨粒になってしまいそうな声だった。言葉が揺れるピアスみたいな雫の形になって、ああ、泣きそうだな、と思うが無論泣いてはいない。人に瓜二つであっても、苦しみに歪んでいても、意思がそうしたくても不可能である前提条件が遊作とAiの間に明記されているせいで、彼らはこんなにも異なる。
 波の音が再び聞こえ始めた。
 ざあざあ、ざあざあと騒ぎ始めた音に追いやられて「帰るか」と言ったのは遊作だった。もうすぐ夜が明ける。
「病院送りになる前に戻ったほうが良いだろ」
「……そだな。喉、大丈夫か」
「ああ。市街地から離れているからかもな」
 踵を返す。さっきの話の続きには応じたくなかった、おそらく自分は「ずっとお前の隣にいる」と答えるだろうから。言えば多分Aiは悲しむ。それが遊作は悲しい。悲しい気持ちはAiの中の星屑を覆い隠してしまうので。
 自分達の足跡を辿り、元の場所へ戻る道のりはそう長くはない。走ればすぐに終わる距離だ。それを緩慢な時計の秒針のように、ゆっくりと二人は進んだ。置き去りにされた靴が見えてきたところで、俄かにAiが手を引く。
「遊作」
「なんだ、手短に言ってくれ」
「キス」
 手短だろ? そうせがまれて、そうだな二文字だ、と苦笑交じりに手を伸ばした時、霞んだ海の向こうから日が昇り始めた。鈍色の閃光が冬の空気を払いのける瞬間、遊作は思いついた――歌も彩色も運転も万能なAIに与える最も適した仕事は、記録すること。その目で俺をただ記憶して、ただ残すこと。それがいい。あの小さな国が、目に見えない何かに圧し潰されて縮んで、点になって消える日まで。
 その記憶の蓄積が、やがてAiの命になるのだろう。



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