から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

グリーフワークの箱舟
#ユリルド

 飴玉の包みのような小さな紙が一枚、また一枚と箱の中に入れられていくのを眺めていると、紙吹雪の準備をしているみたいだなとルドガーは思った。彼の右手とユリウスの右手が机の真ん中に置かれた白い箱の上に交互に差し出されて、その度に折られた紙は落下していく。それが何往復かした時、机の上で重なり合っていた紙はやっと尽きた。
「書ききったなぁ」
「結構多かった気がするんだけど」
「まぁそれでも良いじゃないか。暇潰しだ」
 向かい合ったユリウスは、何ら変わらない兄としてルドガーの目に映った。いつもの兄だ。
 マンションがいつも以上に静かなのは、今日が休日だからなのだろうか。朝早くからこんな暇潰しに勤しむ奴なんてきっと俺達くらいだろうな。部屋に籠る一枚布を隔てて光を浴びせたような空気は、まだ日が昇って間もないことを示していた。住人の皆はまだ夢の中にいるのだろう、フロアを通り抜ける足音は聞こえてこない。
 ルドガーは重要な書類を漸く仕上げたような面持ちでペンを置いた。少し凝ってしまった肩を手で揉むと、「おやじくさいぞ」とユリウスに茶化された。
「仕方ないだろ、普段ペン握らないし……で、何書いたんだ?」
「それを言ったら面白くないだろう?」
「やろうって言い出したのは兄さんだろ」
「それでも内緒だ。楽しみがなくなる」

 やりたいことを書いて、箱に入れる。それをお互いに引いて、書かれた課題を順にこなしていく。そんな暇潰しをしないか?
 少し早い朝食の後のことだ。マグカップでコーヒーを啜っていた時、ユリウスが余りにも唐突にそう言い出したので、流石のルドガーも兄の意図を捉えきることが出来ずにコーヒーの苦味越しに再度聞き返した。
「……ごめん、一体どういう意味?」
「だから暇潰しだよ。単なるゲームだ」
「何でまた暇潰しなんて」
「今日は久しぶりにゆっくり過ごせるが、お前が退屈したら嫌だからな。面白そうだと思わないか、なぁ?」
「なんかそれ、くじ引きみたいだな。王様ゲームとか罰ゲームの……」
「何、良いことしか書かないさ。罰じゃなくてな」
 卓を挟んで寝間着のままでそう語るユリウスは、これから天体観測でも行くのか、或いは旅行にでも出掛けるのかというような雰囲気で、心躍らせている様子が見て取れた。今日はいつも以上に機嫌が良いらしい。そんな兄の申し出をルドガーが断るわけがなかった。彼がユリウスのこんなにも無邪気な表情を見たのは久しかったからだ。常に仕事に追われているのだから、自分のことなど関係なくただ好きなように過ごせばいいものを、と思ったが、その結論が兄の言う「暇潰し」らしいからルドガーも同意することにした。
こういう時にも弟のことを考慮してくれるのは嬉しいけれど、もう少し自分を優先しても良いと思う。
苦笑を交えながら白い紙を数枚用意したルドガーは、それらを掌に乗るくらいの大きさに切り分け始めた。無地の紙は学生時代の名残だ。こんな風に切り刻まれる運命だと知っていたなら、レポートだとか計算だとか、より有効的に使われれば紙も喜んだろうに。紙に同情する。
いつもは包丁を握るルドガーの手は、本日は異なる武器を装備した。鋏を持った彼の指が動いて、しゃきん。また動いて、しゃきん。尖った音が零れた。
幼い頃は「危ないから」と言われてユリウスが鋏を扱うのをただ見つめていたものだったが、今日はその逆で、机の向かい側に座ったユリウスは何か珍しいものでも観察しているかのような表情でルドガーがしゃきしゃきと紙を切っていくのを眺めていた。涼しい音が次から次へと奏でられるのが、未だ微睡の中から抜け出せない世界を起こすかの如く軽やかに、テンポよく転がる。
ルドガーはちら、と兄を盗み見た。眼鏡の奥では興味深そうに蒼が丸く光っている。今は料理をしているわけでもないのに、時折キッチンにやってきては感心した面持ちで弟の手元を見ていた時と同じようにまじまじと視線が注がれるのに少々緊張しながらも、ルドガーは鋏を動かし続けた。細長く切り、更に分割していく。ミルクで染めたような紙は一つ、また一つと刃が音を立てる度にひらりと短い距離を舞い、雪がひとさじ小枝から落ちるように机の上へ着地する。
 ユリウスは時折顎に指を添えたり手を組んだりしてルドガーを観察していた。怪我をしないように見張っているのだろうか、昔のように。そう思うくらい一瞬も目を離さずに、弟が全ての紙を四角へと形成し終えるまで兄の作業も続いた。
「これで良いのか?」
 机の上にはあちらこちらに紙が散らばって、まるで工作の後だ。
「あぁ。さ、書くぞ」
「書くってさ、何でも良いの?」
「何でも良いが、『やりたいこと』じゃないと駄目だからな」
「『やりたいこと』なぁ……取り敢えず、兄さんは着替えてからな」
「寝間着のままじゃ駄目か?」
「駄目です」
 ぶつくさ不貞腐れるユリウスを見るのも久し振りだった。
 着替えた後、出来上がった紙に各々で「課題」を書いていく間も、ユリウスは休日に浮かれる子供のように楽しそうだった。仕事のことも考えず、ただ今ここにある時間だけを存分に味わっている。
 こんな兄さんを見ていると、本当に幸せというものを感じる。
 ルドガーは手元のペンをくるりと一回転させてから、その先端を小さくなった紙へと宛がった。さて何を書こうか、希望は沢山ある。

二人の間、テーブルの上に置かれたちょうど両手で包める程度の箱は、ルドガーが先程まで口をつけていたマグカップが入っていたものである。二つで五百ガルドだったので、手ごろな価格に釣られて兄と自分の為に購入したのだ。だから今ユリウスが手袋に覆われた左手で持っているものも全く同じ形状をしている。戸棚の奥に仕舞われていた箱を持ち出してきて、蓋の部分をわざわざ切り離して紙を入れていくように仕立てたのはユリウスだ。
「こういうのは大勢でやるから面白いんじゃないのか?」
「ここには俺とお前しか居ないんだから、二人だけで良いじゃないか」
「まぁ良いんだけど」
 な? とユリウスが頷く。
「じゃあ俺から」
「こういう時は率先してやりたがるよな、兄さんって」
「兄貴だからな」
「理屈が分かんないよ」
 マグカップを置いて、嬉々として箱に手を突っ込んだユリウスは一先ずがさがさと中身を掻き混ぜた。こういう動きは乱雑で大ざっぱなのが兄さんらしいな、とルドガーは思う。けれども繊細さを伴って動く時もあった筈だ。そうだ、時計を整備していた時だとか――その時計は今、何処にある?
「よし、これだ」
何かが心の糸に引っ掛かったのを感じたが、原因を突き止める間も無く、ユリウスの声が跳ねるのに合わせてルドガーの視線は宙から兄の手元へと戻った。十分にごちゃまぜにされた中から引き抜かれた紙はしっかりと隅が合わさっていて、一目でルドガーが自分で折ったものだと分かった。ユリウスの場合はもっと適当に折っている。
 第一の「課題」が書かれたその紙は、ユリウスの大きな手との対比の所為で余計に小さく見えた。彼はガムでも開けるようにして広げ、中身を読み上げる。
「何々……『相手の一番好きなところを教える』?」
「あ、俺が書いたやつだ」
「お前、可愛いことを書くなぁ」
「言ってろ馬鹿兄……」
 くすりと笑われて、それからルドガーは自分の耳がぽっと熱くなったことに気付いた。こんな些細な言葉でも嬉しくなってしまうのが恥ずかしい。だが彼にとっては、兄から与えられる好意的な言葉のどんなものでも心を跳ねさせるに足るものなのだ。一粒落としたら瞬く間に溶け拡がり身体中色付いてしまう程の効力を、兄は持っている。
「そうだなぁ、お前の好きなところは山ほどあるが、一番と限定されるとなると困るな」
徐に腕を組んでユリウスは悩み始めた。よく「晩飯は何が良いかな」と悩む時の姿だった。ルドガーはそうやって唸る兄をこの席から何度も見たことがある。子供の時から積み重なった記憶の中のユリウスと重なっても、彼は一つも変わっていない。それが今日に限ってひどく嬉しかった。背が伸びても手の大きさが変わっても、いつまでも大切な兄のままだ。
 決めた。ユリウスはまるでメニューを選び終えた客のように頷く。
「やはり俺を好きでいてくれるところだな」
「何で?」
「何で、ってほら、俺は駄目な兄貴だし?」
 自嘲の欠片も見当たらず、心底そう思っているのだと胸を張ったユリウスに、ルドガーはむすっとした表情を向けた。「兄さんは何でもそうやって思い込む」一体何が駄目なのだろうか、きつく問い質したいくらいだ。弟をここまで育て上げてくれただけではなく、親であり兄であり、何より個として自分を愛してくれた兄のことを、間違っても駄目だと思うわけがないのに。
「何があっても、俺にとっては最高の兄さんだよ」
「それだよ」
「え?」
「お前がそう言ってくれることが、一番好きなところなんだ」
 春のように穏やかな笑みを浮かべるユリウスはどこか誇らしげだった。そんなにも喜ばしくなってくれるのならば駄目な兄貴だなんて口にしないでいただきたい。それに当のユリウス以上に、にやけそうな程嬉しかったのはルドガーの方だったからだ。
「……俺の方こそ、ありがと」
「こちらこそ」
 ユリウスが一つ笑う度、ルドガーは頭の先から爪先まで気恥ずかしさで満たされるのを感じた。ゆっくりと心臓の周りを撫でられるように柔らかい甘さを与えてくる。それが幸福の一種だと、彼には分かっている。
 彼等はそうして同調して、反響して、互いに与え合ってきた。このマンションフレールの部屋で。

「じゃあ、次は俺だな」
 むずむずと湧き上がってくる羞恥を取り払うように、ルドガーは箱の中に右手を入れてユリウスと同じように中身をがさがさと混ぜた。掌や手の甲に当たる紙の感触がこそばゆく、愛猫の毛並みを思い出させる。今日は彼を見ていない、出掛けているらしい。考えているうちに人差し指の腹に一瞬だけ紙の角がつんと当たった。これにしよう。摘まんで引き抜く。
 開くと、内容にそぐわない綺麗な文字が並んでいた。
「えっと……『一緒に寝転んでだらだらする』? 何だこれ」
「あぁ、俺が書いた」
「何でだらだらしたいの?」
「よくそうして休みの日は遊んでいただろう?」
「遊んでたっていうか、怠けてたっていうか」
「どちらでも同じだよ」
 そうかな、と首を傾げながら、取り敢えずその命令に従うべくルドガーは立ち上がった。鏡写しのようにユリウスもそうして、二人でソファの隣に敷かれたラグの上に移動する。
「……で?」
「寝転ぶ」
「え、それだけで良いの?」
「ああ」
にこにこと笑うユリウスが座り込んでごろりと寝そべるままに、ルドガーも本当にこれで良いのかと思いながらも兄の隣に寝転んだ。けれどもそうしてみると、本日の天候も相俟って存外の快適さがあった。
ルドガーはぐっと伸びをして四肢を解放した。やっと本格的に差し込み始めた日の光が、窓を挟んでソファの向こう側から二人の上に横たわる。そのぬくもりがじわじわと身体をあたためていくのは、まるで干したばかりの毛布にくるまっているようだ。
あれ、トリグラフはこんなにも太陽が見えただろうか。
燦々とガラスを輝かせる光に不思議に思ったが、心地良さに負けてルドガーの中に浮かんだ疑問は消えていった。
「気持ち良いな。ずっとこうしていたいくらいだ」
ユリウスの横顔が、まるで陽射しが眩しくてそうしているように目を細めるのを、ルドガーは視界の傍らで拾う。ふふ、と笑みを返したのは彼も同じように思っていたからだ。
二人で今までどおり、朝を共に過ごし、夜は共に夢を見る。いつもの空間で、いつもどおりに。
 緩やかな時間だった。こんな風に、何も変わらない日常が永久に続くならば、付随してやってくる幸せも失われることがない筈なのだ。けれどもそんな希望が簡単に掌からすり抜けていく感覚を、ルドガーは嫌と言う程知っているような気がしていた。一滴も残らず乾いてしまった泉のように、かつて幸福の全てを手放した覚えがある。だがいつだ? いつのことなのか知っている筈なのに、こんなにも平穏な時間の影に隠れてしまって見つけることが出来ない。
先程から何度か、ひらひらとその尾を見え隠れさせる何か。
その正体は何だ?
 太陽に少し大きい雲が被さる。遮られたぬくもりに、居た堪れない心地を誤魔化そうとルドガーは急かすように言った。
「なあ兄さん、くじ引きの続きしなくて良いの?」
「あ、忘れるところだった」
「忘れないでよ」
 いまいち抜けているところも兄さんらしい。思わず噴き出した時、ちょうど雲は過ぎ去り光は戻った。

 ユリウスが件の箱をテーブルからラグの上まで持ってくるのを、ルドガーはラグの上に伏せて眺めていた。犬や猫が飼い主を待っている気持ちはきっとこんな感じなのだろう、普段の倍以上に大きく見える兄の姿はまるで巨人だ。
今よりもずっと身長が低かった時は、自分より随分背の高いユリウスをそろそろと見上げる度にあまり変化のない兄の顔にひやっとした。昔のユリウスは今のように表情豊かな人間ではなかった。だから沈黙した獅子のような兄の目に、自分は何か悪いことをしでかしたのだろうかと不安になったのだ。例えば忙しい兄の手を煩わせるようなことだとか。ただ、その心配も質の悪い風邪のように少し長く居座っていたがそのうち去っていって、それからはユリウスを呼べば朗らかに笑ってくれることが増えていったのだけれど。
ルドガーは伏せたまま床に耳を当ててみた。すると聞こえるのは太鼓のように低く響く足音だ。どすどすどす。どすどす。また、どすどすどすどすどす。近付いてくる。そしてぴたりと止む。
「……何やってるんだ」
 見上げるとユリウスが箱を片手に呆れたような顔で俯瞰していた。
「あ、巨人が帰ってきた」
「いくらなんでも兄さん傷付くぞ」
「こうしてるとすごくでかく見えるからさ」
「そこまで身長はない筈なんだが……」
「その言葉に俺は傷付いた。ものすごく傷付いた。百八十は十分な身長なんですー俺より十センチも多いんですー」
「こら、拗ねるな拗ねるな」
 しゃがみこんだユリウスの右手が、宥める為に己の髪を梳くのを甘んじて受け入れる。「なんか猫になった気分。ルルの気持ちがよく分かるよ」ルドガーがそう言ったからか、ユリウスも「ほーら、よしよし」などと戯れ出した。こういうノリの良さは兄弟揃ってるな。共通項に思わずルドガーの口元がほころびる。
「で、次は?」
「あぁそうだったな。さて引くか」
「本来の目的を忘れがちな兄を促してやるのも弟の役目だな」
「そう言うなよ。ほーら、マタタビいるか?」
「いりません」
 喉を撫でようとしたユリウスの手は、まるで引っ掻かんとするルドガーによって阻止された。その仕草は彼等の愛猫が時折しているものにそっくりだったことをルドガーは気付かない。
「つれないな」
「俺は猫じゃないって」
恰も猫のようにつんと顔を背けて弟は言った。

 第三の「課題」。
「何々、……あぁ、自分で書いたものを引いてしまった……」
 兄が頭上で額を押さえているのは何故なのか。
「何て書いてあるんだ?」
「『キスする』」
「いよいよ罰ゲームらしくなってきたな」
 ルドガーの言葉に「心外だ」とユリウスは大袈裟に目を丸くした。「罰じゃないだろう?」「……まぁ、そうだけど」けれどもこのくじ引きは罰ゲームの面も持っていると思うのだ。何が書かれているか分からないというのは、意地の悪いことにとりわけ効果的であるから。
「素直で宜しい。俺の教育の賜物だな」
「どんな教育したのか一から言えるか?」
「部屋に押し入って、我慢出来ずに打ち明けてしまって、それから」
「分かったもう良い。もう言わなくて良いから」
「良いから?」
 ガラスレンズの奥で目が光る。ほら、そうやって意地の悪そうな顔をするだろ。ルドガーが不服そうな顔をしているのを分かっていて、ユリウスはいつも静かな要求を寄越してくるのだ。
機嫌を損ねたような唇で、ルドガーはほんのりと色を含ませた声を見下ろす兄へ零した。
「……さっさと、キスしてよ」
「畏まりました」

 第四の「課題」。
「えっと、『実は内緒にしていたことを言う』……うわ、俺のか」
「さぁ白状してもらおうか、ルドガー?」
 しまった、と冷や汗をかいても遅い。「えーっと、あの、別にないっていうか」濁らそうとしたが、ユリウスに通用するわけがなかった。
「ちゃんと言わないと駄目だぞ」
「ぐ……」
 捕まえるのも大変そうな程に視線を泳がせて、部屋中を一周させてからルドガーは観念したように口を開いた。二年前のことが時効なのかどうなのか、知るかこの野郎。
「……実は、兄さんが留守の間、兄さんの上着を勝手に着て、その、色々と……ごめん、寂しくてつい、あっでもちゃんと洗濯したから、」
「何でもっと早く言わなかったんだ! 俺は見たこともないのに!」
「普通見られたくないだろ察しろ!」
 やはり白状なんてするもんじゃない、という溜息さえ、時既に遅し。

 第五の「課題」。
「『美味しいものを作って振舞う』……」
 大変なものを引いてしまった。二人は同じ顔で、ユリウスが引いた紙を覗き込んだ。
「また俺が書いたやつだし……ていうか兄さんいいよ! これはパスしていいよお願いだからパスして!」
「いや、兄の威信に賭けてもやらねばならない」
「そんな威厳は今だけかなぐり捨ててよ……」
 これで結構プライドが高いところがあるのだから、ユリウスは一筋縄ではいかないのだ。しかもルドガーが関係している場合、兄としてのそれだけではないので余計だ。詰まる所、男の矜持である。
 味見のみで、出来上がったものが食卓に並ばなかったことは幸いか。

      *

 単純な願い事が書かれた紙を引く。その中には不可能なことなど何一つ書かれていなかった。どれもが手の届く場所にあるものばかりで、まるで彼等がそれぞれの中に沈殿していた平淡な願望を掬い上げて、その都度味わっていくような作業だった。五分間ずっと手を繋いでいるだとか、直して欲しいところを指摘するだとか、中にはどうしてそんなものを書いたんだという下らないものも交えながら完了した「課題」は机の上に並べられていった。それらを縫い繋げていったら彼等の手を纏めて括る輪になるのではないかというくらい繰り返して、さて箱を揺すっても微かな音しかしないなという頃、二人は幾度目かの「課題」を終えて向かい合って立っていた。
「さっきは『抱き付いて告白する』だったな。ものすごく恥ずかしかったんだけどもうあんなのないよな? 次は兄さんの番だよ?」
「俺は大満足だぞ」
「良いからさっさと引く」
「怒るなよ。しかし一つ一つじっくりやっていられないのが残念だ」
「仕方ないだろ。それこそ日が暮れるよ」
 例に倣い、ユリウスは左腕に抱えた箱の中を一つ混ぜた。「そろそろこれも完遂が近いぞ……お、あった」突っ込んだ右手を引き抜いて、摘まんだ紙を開きまた読み上げる。
「ええと、『この場を借りて謝りたいことがあったら謝る』」
「俺のやつだ」
「謝りたいことか。お前が気に入っていた圧力鍋を壊したこととか」
「兄さん、それ本当?」
「冗談だから、頼むからその目は止してくれ」
 こほん、とユリウスは咳払いをして、それから寂しさを帯びた、困ったような顔をした。昔、我儘を言った時だったか、そんな表情で苦笑いをされたことをルドガーは思い出した。確か「仕事に行かないで、家に居て」などと言ったような気がする。心細さ故に兄に縋り付いた、懐かしい心地が胸を満たした。
 対してユリウスはううん、と短く唸ってから、これまた短い溜息をついた。
「どうしたんだよ」
「いや、何でもない。ただ――ルドガー、俺はお前に謝りたいことが沢山あってな。だから、どれから始めればいいのか迷ってしまうんだ」
「そんなにもあったのか? 一度も俺の料理を残したことがない兄さんが?」
 その言葉にまた苦笑が深まったが、どうしても笑みを交えてしまうことを打ち消すようにユリウスは少し居住まいを正し、口を開いた。
「ルドガー……その、悪かった」
「何だよ改まって」
 先程とは打って変わって、まるで喉に詰まった嘆声を何とか吐き出そうとするように、ユリウスは続けた。
「お前に隠していた全てのことをずっと謝りたかった。謝りたいんだ」
「隠してたこと……?」
「俺のこと、クルスニク一族のこと、時計のこと、お前の母親のこと……全部だ」
 頑丈な鉄の扉を開けるかの如く重い声色だった。
宣告に近い兄のその声に、瞬間ルドガーの中で一つの鍵が開いた。クルスニク一族の骸殻能力を受け継いだ人間、時計を使って分史世界を破壊し続けてきた記憶、そしてそれから。
戻ってきたのは感覚も同じだ。
「あ、――」
それらは勢いよく水面に引き上げられたように、激しい飛沫を上げて今再び姿を現しルドガーの前に並んでいる。その一つ一つが薄暗い切っ先を喉元に突き付けてくる。
どうして忘れていたのか。忘れることが出来ていたのか。
いや、決してそうしていたのではなかった。仕舞い込んでいたのだ。しかしこの時になって、褪せた写真が突如として活動し始めるかのように鮮明に、はっきりとした足取りで帰ってきた。そうだ、俺はエルと出会ってからずっとそうやって生きてきたじゃないか。切っ先の一つが振るわれ、ルドガーの喉を掠める。兄さんと別れてからずっとそうだった。別の切っ先が一筋の傷を作る。そうして兄さんをどうした? 俺は、兄さんを――切っ先が煌めいてルドガーの喉を掻き切った。溢れ出したのは命を摘み取る時の感触と、頭をかち割るような終わりの音だ。
 忘れていたわけじゃなかったのに。悪いのは兄さんじゃないのに。
「違う……違うんだ! 謝りたいのは俺の方なのに……だって俺は、兄さんを、」
「いや、俺の番なんだから、聞いていてくれ」
「そんなのどうだっていいだろ!」
「頼むよルドガー。チャンスを与えてくれ」
 そうして癖のようにまた苦笑するユリウスの目が、まるでどうにかして涙を湛えまいとしているかのようで、ルドガーはそれきり口を噤んでしまった。
その喉の奥で、そして細い導線のようなその視線の先で、終わった筈の二つの鼓動がこの部屋で再びそのリズムを刻んでいるのは何故なのか――この部屋はただの空間なのだ。繋ぎ止める楔のない、彼等が彼等である為だけのもの。家族であり、兄弟であり、個である為の場所。だから居る。自分達がこうしていられるのは、此処が本当に存在し得る世界の形を失っているからだとルドガーは気付いた。
余りにも普通で、故に異質過ぎる。世界の何処にもない場所。
 だってこの部屋は、こうして兄さんと一緒に居た時間はもう戻ってこない筈だろ。失くしたくなかったものは。
 ふ、とユリウスの息が薄く漏れた。
「俺はお前を、ずっと守っていたかった。お前が何も知らないままで居ることが俺達の幸福の条件だと思っていた。知らないままで生きることが出来たなら――」
声が途切れた。ルドガーがつい、と見上げると、ユリウスは瞼をひたりと閉じていた。まるで彼が描いていたいつかの未来の残滓を、その裏に浮かべているように。
 兄さんは何を見ているのだろう。何を見ていたのだろう。
切り開くように前を見据え、いつでも強くあり続けたユリウスは、ルドガーにとって不動であり礎だった。崩れ去ることのない確固たるもので、だからずっと見失わずにいられたのだ。
「俺は……何も分かってなかった。兄さんがどんな思いでいたとか、何も知らないままで、ずっと兄さんの後ろに隠れてただけだ」
 だからユリウスの姿の先にあるものを見なかった。自分を守るその背中だけを見続けていれば、それだけで自分は歩けた。
 苦々しいものがルドガーの口の中に拡がる。ぐ、と唇を噛み締めると痛みが走った。
再び瞼を開けたユリウスは少し目を見張って、いや、と小さく頭を振った。うっすらと愁いの混じった双眸が、ルドガーを映して歓喜に変わる。
「お前は俺より分かっていたよ――真実は決して隠せはしない。影と同じだ、捨てることは出来ない。それを分かっていた。お前はずっと、影を連れたままの俺を見ていてくれたんだ」
世界の仕組みを知る前も、知った後も変わらずに。
「きっと俺が最初に告げていたところで、お前はそれでも俺と居てくれたんだろうな」
「当然だろこの馬鹿兄!」
「はは、悪い……最後までお前に見ていてもらえて、本当に嬉しかったんだ。だからずっと明かさなかったことを、自己満足でも言わせて欲しい――済まなかった、ルドガー」
もう、良いんだ。良いんだよ兄さん。それ以上言われてしまえば、自分の中で堰き止められているものが次々と破裂して、ルドガーはもう兄の顔を正面から見ることが出来なくなりそうだった。済まなかった。再び呟かれる声は短く、そして重厚な響きでルドガーの心臓を揺さぶる。弾丸になって進入し、波状になって拡がる。撃ち込まれた言葉は冷たい表面をしているのに、生まれたばかりの涙のように熱かった。
「俺は兄さんに謝って欲しいわけじゃないんだ。だから、もう良いんだよ」
「ルドガー、」
でも、と言いかけた兄の首に、ルドガーは腕を伸ばしてその身体を引き寄せた。そして唇に、そうっと蓋をした。キスを落とした。ふ、と重なるだけの。
「――分かってるよ、兄さんだけをずっと見てたから」
 そうだ、だから兄さんがまた自分ばかりを悪者にしてしまう前に、俺が次の「課題」を引かないと。きょとりとしたユリウスに小さく笑って、ルドガーの腕がゆっくりと解かれた。
「次、俺の番だよな」
「おいおい、急がなくても良いんだぞ。何ならさっきの続きを」
「それは駄目。多分明るいうちに終わらないから」
 恥ずかしいことを言った気がすると思ったのは口にした後だったがわざわざ言い直すのはもっと恥ずかしい。ルドガーは羞恥を散らすように兄の左腕に抱えられたままの箱へ右手を入れた。すると指先に紙が当たった。探るようにその周りに触れてみるが箱の感触しかしないところから、どうやらこの一枚だけが残ったようだ。引き抜いて、掌に収まった小さな紙を開く。
「――『ずっとして欲しかったことをしてもらう』」
 そうか、遂に一番望んでいたことがやってきたのか。
 それはルドガーが書いたものだった。兄に選ばれれば良いと祈る反面、自分が引かなければ彼はまた己の中に漂う水面を凍らせてしまわなければならなかった。自分の奥底に打ち付けられた矛盾の塊を覗かなくても良いように。そんな二律背反の願い事を彼は記した。
「へぇ、お前が書いたのか? 何が良いんだ? 言ってみなさい」
 別のことを言っても良かった。けれどもユリウスを欺くことなどルドガーには出来ない。そんなことをする理由も意味も、この場所には最早存在しないのだ――此処はあの、偽りだらけの世界の枠組みを失った場所なのだから。あるがまま、思うがままに、ただ『居る』だけの、望みの破片を沢山詰め込んだ狭小な部屋だ。それにこの兄を相手にしては、カーテンの中に隠れても自分の部屋へ逃げ込んでも最後には見つけられてしまうだろう。ユリウスはそういう人間だった。
 だから氷の鏡を割ろう。俺から姿を現そう。
「――兄さんは、俺のこと、責めないのか」
「ん?」
「俺はずっと、誰かに、兄さんに、本当は俺のことを責めて欲しかった気がしてた。分史世界を破壊し続けて、兄さんを、殺して――」
 翡翠色が映したユリウスの姿が、削り取られたガラスのように霞んで歪む。すうっと滲み始めてしまった涙は、ルドガーの視界を遂に濡らしてその頬へと流れ落ちた。
氷が溶ける。熱が弾ける。
「……俺のこと怒ってよ! 責めてくれよ! ルドガー・ウィル・クルスニクは兄貴も殺した酷い奴だって、言ってくれよ……!」
「ルドガー……」
「誰も俺を責めないんだ、当然だって目で見てくる、一族の宿命なんだからって……でもそんなのが正当だってどうして思えるんだよ! 俺は兄さんを道具にしたんだ! 兄さんだけじゃない、ミラも、分史世界も、エルの父親だって!」
 奪うばかりの自分が憎くて堪らない夜には分史世界と同じ夢を見て現実との境目が分からなくなることもあった。気が狂う。一つ世界を壊す度に自分の中の機関がぽっきり折れて使い物にならなくなっていく。そんな錯覚が足元からぞろりと這い上がってくる。
 糾弾されることもなければ許されることもないまま過ごした時間は、一体自分が正義の側にいるのか、それとも真逆の側にいるのかをひどく曖昧にさせた。標のない岐路に立っているような焦燥感に煽られる。どの道を選べば良いのか、正解なのか不正解なのか。
分史世界のミラ・マクスウェルに拳で殴りつけられたように、誰かの手から明確な敵意を、怒気を、憎悪を向けられたかった。そうでなければ自分は自分が呼吸をすることを認めてやることが出来ない。相応に断罪されなければ、掌に残るのは一人分の、他人からでもない走り書きの免罪符だけだ。そうして手ずから自分に優しくしたところで欺瞞にしか成り得ないのに、そんな僅かな慰めさえ生み出せない。
 誰が俺の正しさを証明出来る? 出来なければ俺は悪だ。でも悪だと指差す人が居ない、居ないんだ――なら、自分はどっちだ。
「ルドガー、俺の目を見なさい」
 強い語尾に、暴れ出していた言葉が止まる。ユリウスの右手が伸ばされて、ぐらぐらと熱く揺れるルドガーの双眸をゆっくりと拭った。親指に掬い取られていく雫が丸い形を流線形に変えてユリウスの手の甲へと滑り落ちるのを、ルドガーの目がぼやけたまま追った。
「ルドガー」
ユリウスの声が視線を引き寄せる。いけないことをした時、注意する時によくしていた目でルドガーを見据えていた。よく、ひやっとした目。けれども弟と視線がかち合うと、ふっと、絡まっていた糸をするりと解くように緩む瞳。
「よく頑張った」
「……にいさん」
「お前は全てを受け止めたんだ」
 世界の表にあった綺麗なところと、裏にあった薄汚いところまで、一つ残らず。
「俺もお前も、許すことも許されることも出来ない。けれどもその全てからお前は逃げなかった。他に何も必要ない、それだけで十分なんだ――お前は、最高の弟だよ」
「にいさん」
「だから全部、俺達だけで持っていこう」
 ユリウスの声が終わった瞬間、部屋の壁がはらりと、恰も花弁が剥がれ落ちるように消えた。白く、陽射しのように眩い色の中に彼等は居た。夜が明けた瞬間の、あの光に塗りつぶされた世界のように。それからほろほろと白がほどけていく短い時間がやってきて、使い込まれたソファが消え、何度も其処に立ったキッチンが消え、彼等二人の部屋の扉も、ルドガーが一粒の雫を目尻から落としている間に消えていった。今まで存在していた一つ一つが、過去を構成する全てが蒸発する。
ずっと求めていたんだ。ルドガーの瞳からまた雫が落ちた。時計を手にする前のような、ユリウスとの小さな安寧の城。静穏な場所。テーブルが消え、次に床が消えた。この部屋の歯車はもう動かない。
けれども確かに此処は息づいていた。二人分の追憶を原動力に、くっきりとした輪郭を持って彼等を抱き締めた。
いつか二人でもう一度と願って、そして二度と戻れないと思っていた居場所で、俺達が望んだことはもう何も残っていない。
紙は尽きた。箱も消えた。後悔も、懺悔も、希望も全て無くなった。失われたのではない、彼等の中に仕舞われただけだ。戻ってきたのだ。
「兄さん、もう大丈夫」
「そうか」
「うん。兄さんが知っていてくれるなら、それで俺は良いんだ――」
「なら、そろそろ行くか」
「うん」
 ユリウスは懐から懐中時計を取り出した。あぁやっぱり兄さんが持ってたんだな、だって兄さんはいつでも俺の大事なものを持っていてくれたから。ルドガーは胸を撫で下ろして、光に縁取られた二つの円を捉えた。
一つは金色の、もう一つは斜めに傷が走った銀色の懐中時計。
ふと、それらを見下ろすユリウスの口元が緩む。彼は銀の傷口を愛おしそうに――まるで忘れ難い思い出をそうするように親指で撫でてから、両手で二つともを開いた。ちっ、ちっ、ちっ、と、それらが一寸の遅れもなく音を重ね、同じ速度で秒針を進めるのを確かめて、それから今度は満足気に笑って閉じた。
ぱちん。軽快な音が二人の耳に響く。
もう開くことはない。閉じた瞬間、確かに針は止まったのだから。

A Phantom with a Stray Dog

 風が五月蠅く窓を唸らせる夜、その懐中時計はユリウスのものになった。
 屋敷の地下にある倉庫の奥で、数々の武器と共に仕舞い込まれた箱の中に眠っていた時計は、その身をてらてらと金色に光らせた。壁に埋め込まれたいくつかの小さな明かりが、嵐のように吹きすさぶ風のために時折揺れながらも、地下室の隅で隠れるように立つ少年の頬をぬるりと照らし続けた。けれども橙色の光は彼の双眸に届かない。磨りガラスのような目はじいっと右手の中の時計を見下ろすばかりである。
 セキュリティシステムも改竄済みだ、自分が犯人だと分かるはずはない。
 数秒の間、ユリウスはそうして立っていた。金時計から魔力が発せられているかの如く見入っていたのだ。それから思い出したように左手をコートのポケットに入れて、するりと取り出されたのは全く同じ外見の懐中時計、つまりイミテーションである。箱の中の空洞に偽物を置くと、精巧に造られたそれは恰も最初から己が本当であったかのように収まった。この時の為に準備しておいたものだ、易々と見抜かれはしないだろう――僅かに口元を歪ませて、少年は地下室をあとにした。
 この世の嫌なところを全て詰め込んだような一族の呪いが、少年の両目をすかすかと空虚なものにしている。
 分史世界の破壊。己の宿命から逃れる術もなく、必然的にその流れの中に引きずり込まれたユリウスは、自分の能力が周囲の期待に応えられるものではないことに気付いた。生き残る為に、死なない為に、自分を守る為に必要なことを選ぶ。それが運命ならば。
 だから彼は決めたのだ。屋敷に保管されていたもう一つの骸殻能力の根源を手にすることを。金の懐中時計を奪うことを。

 屋敷の自室はバクー家の長男に相応しくあらゆる装飾が施されており、眺めているだけで目がちかちかとして気色が悪いとユリウスは常々思っていた。金と手間を無駄に使用していた先代の気がしれない。嘆息して内ポケットに手を入れる。ちゃり、と小さな音と共に現れたのは黄金の懐中時計だった。
 何度も何度も欲していた時計。
 能力の底上げを可能にすると知ってから、ユリウスの中での最終であり唯一の生存手段がこの時計を強奪することだった。
「これで、俺は……」
 生き延びることが出来る。役に立つことが出来る。まるで希望が輝くように時計の輪郭が瞬いた。その光をいとおしそうに撫でる彼の右手はまだ幼さを残していた。だけれども、そこに違和感を感じた。骨張った関節を持つ指は見慣れた自分のものではない。コートの袖から伸びるのは一本の腕の筈なのにそこに重なるのは二つの掌だ。奇妙ではないか、この部屋には彼しか居ないのに。
「能力を上げる為か。普通の時計として使われたかったな」
 明らかに己の声とは異なる音だった。弾かれたようにばっと顔を上げると、少年の直ぐ前に青年がぬっと立っていた。記憶にない顔は哀憐に満ちた瞳でユリウスを見つめていて思わず背筋がぞわりとした。生気が感じられなかったからだ。銀髪に黒色が混じって、その隙間から二つの緑が覗いている。
「なっ……!」
「まだ子供なのに、大変だな」
「誰だ!!」
「言っても信じないだろうし」
「どうして此処に居る!」
「持ってこられたから」
「何を……!」
「時計を」
 それ、と青年が指差したのはユリウスの右手だ。しかし示された対象以上に少年は驚愕した。絵具でのっぺりと彩色したような男の腕は血の気が通っていないほど青白く、その先に見える足元には一人分の影しかない。ユリウスの後ろからは確かに人工ランプの光が流れ込んでいるにもかかわらず、なめし革のような木の床に伸びている姿は一本だけだった。
 青年は「ああ」と合点がいったように頷く。
「俺が死んでから残されてたみたいだけど、その時計は元々俺のなんだ」
 がたがたと窓ガラスが叫んでいる。それ以上に喚いていたのはユリウスの頭の中だった。



「もう二十八か、早いなあ。誕生日おめでとうユリウス」
 手をぱちぱちと叩くルドガーはまるで祭りにはしゃぐ子供のようである。苦笑しながら、ユリウスは二十八になった本日も仕事で一日が潰れることを考えて嫌気が差した。
「俺は疾うにお前を抜いてるんだが」
「年齢にしたらな」
 どう見ても男が独り言を言っているようにしか見えないが、ユリウスは隣に腰掛ける青年に向かって話し掛けているのだ。たとえ傍目には彼一人だけしか見えないとしても、その目は薄いインディゴのシャツに橙色のネクタイを締めた人物を捉えている。
 ユリウスは街道にごろごろと転がっている岩の一つを椅子代わりにして休憩を取っていた。昼時だ、食事をしなければ流石に辛い。分史世界に来てまで空腹で死ぬなんてことは絶対に避けなければならない。もしそんなことが起こったならばきっと羞恥と情けなさで死んでも死にきれない。自分の隣にまさしく死んでも死にきれていない存在が居るのを一瞬忘れてそう思った。
「確かに俺は二十歳で死んだけど、それから十年経ってユリウスと出会ったんだから経過年数で考えればまだだろ?」
「永遠に追い越すことが出来ないからその条件は除外だ」
 白いコートの裾をばさりと叩いて、ユリウスはずれた伊達眼鏡を直した。「度が入っていないのに、よくずっとかけ続けられるなあ。似合ってるけど」「癖なんだよ」十三歳の時にルドガーが見えるようになってしまってからもう十年以上経つのかと思うと、ユリウスは何故だか途方もない時間を費やしてきたような気になった。長いようで短い、なんて人生の標語のようなことを考える。

 ルドガーは幽霊だった。
「骸殻能力者だったんだけど、殺されたんだよな」
 時計を手にしたユリウスに、そう言って自分がクルスニク一族の宿命に囚われて死んだことや、ユリウスの家が時計を保管し続けていたことをつらつら述べた。驚きにアクアマリンのような目を見開き言葉も出せなかったユリウスだったが、奪ってしまった時計を今更戻すわけにもいかず、そのまま成長を見守る親のようにルドガーが付き添い続けて今まで来てしまった。
 屋敷で生活をしていた頃はこの青年の霊をどうしようかと色々悩んだものだが、ユリウスが理由をこじつけて一人で暮らすようになってからは、他人の目さえ気にしていればたとえ生活空間が同じでも大抵の問題はクリア出来ることに気付いた。使用人に見つかる可能性もなければ、空中に向かって話し掛けていることで後ろ指を指される心配もない。頭のいかれたおかしい奴だと思われる危険性は格段に減った。
 亡霊が憑いていたなんて知らなかったのだ。仕方ないだろう。幽霊と同居なんざ誰が予想していただろうか? ユリウスはそう言い訳をし続けている。
 街道を風が走り抜け、ユリウスの短い金髪が少し揺れた。けれども隣の青年には何の変化もない。風がルドガーの肌を撫でることもなければ、その若葉のような色の瞳を乾かすこともない。
 コートの右ポケットに手を入れると、硬い金属の感触がユリウスの指先に触れた。この金時計は確かに自分の骸殻能力を強化したが、結果的に足りなかった。それが腹立たしかった。姑息な手段に頼ったところで、屑は何処までいっても結局屑なのだと言われているような気がして、二つ目の時計を手にしたばかりの頃は腹の中が常にぐつぐつと煮え切っていたものだ。
「思えばあの頃のユリウスは荒れていた」
 鞄の中から軽食を取り出そうとしているとそんな声が聞こえたので、ユリウスは一瞬青年に心を読まれたのかと思った。ルドガーへと振り向くと彼は腕を組んで何やら頷いている。この亡霊は記憶力だけは確かで、恐ろしいことに自分が死んだ瞬間のことさえ覚えているのだという。それが幸か不幸かはいざ知らず、「こんな結末の映画を見た」と言わんばかりの気軽さで話してくるものだから、ユリウスはその度に「やめろ」ときつく言ったのだった。心臓が止まる瞬間について知りたいとは思わない。
「分史世界に進入するといつも家は燃やすわ人は殺すわ、野生のウルフみたいな感じだったな」
「時効だろう、時効」
「ユリウスの時効の概念は短すぎるよ。俺くらいにしておいたら?」
「死んだあとが時効だなんてまっぴらだ」
 本当に何もかもまっぴらだった。なのにこうして分史世界対策室の仕事をしている自分が、運命と妥協しているように思えてならない。それでも逃げることは出来ずやってくる必然に向かい合って生きている。むかむかと胃液がせり上がってきそうになるのを、取り出したサンドウィッチを口に突っ込むことで何とか抑え込んだ。数回咀嚼して飲み込む。ついでに分史世界での居心地の悪さも流して消化してくれと願った。
「俺も何か食べたいな」
「無茶を言うなよ」
「料理が好きだったんだ。仲間が美味しいって食べてくれて、それが嬉しかった」
 思い出話に浸るルドガーは、まるでその場に居るようにあれやこれやと事細かに表現してくれるのだが、ユリウスにとっては過去の遺物に対して考察している学者のようにしか見えない。現在から起算して約二十年近く前のことを言われても、彼にはいまいち想像出来なかった。
「今日だって誕生日ケーキ作ってやりたかったのに」
「別に必要ないさ。気持ちだけ有り難く受け取っておくよ」
「何か欲しいものとかある?」
「骸殻能力の向上方法が知りたい」
「そんなのあったらまずいだろ」
「あとは、ここが正史世界かどうか知る方法とか」
「もっとまずい」
「カナンの地を出現させなければ解決しないことだらけで、頭が痛いよ」
 もう一口パンを齧る。ローストチキンとレタスが挟まっただけの簡単な食事は味気ないにも程があったが、ユリウスにとっては携帯食でなければ良し、という程度の差しかない。砂を詰めたような固形の食品かそれ以外、という区分だったからだ。所謂普通の食事をとるようになったのも、ルドガーが余りに五月蠅いために渋々始めたのだった。
 同居人と言えるのかどうか分からない存在を連れて一人で暮らし始めた時から、ルドガーはユリウスの保護者ならぬ保護霊になった。起床してから就寝する間の何から何まで口を出した。開いた口が塞がらないほどの適当さでユリウスが生活していたからというのも理由だったが、武器は持てない、術も使えない、全くの非戦闘員となったルドガーにとって戦う以外に出来ることと言えば日常生活のフォローくらいだったのだ。屋敷育ちのユリウスが最初に辟易したのがこれである。
 ルドガーはくらげのように半透明の肉体をしているわけではないが、例えば何かにぶつかって物音がするわけではなかった。すり抜けてしまうからだ。それ以外はあまり人間と変わらない。声もはっきりと発することが出来る。但し金時計を手放せば認識することは出来ない為、ユリウスとルドガーは切っても切れない関係だった。
「時計以上に役に立つものはないから、いいか」
「ルドガーには悪いが、使えるうちは使わせてもらうぞ」
「まあ俺が居ないと時計は能力を失うかもしれないし……」
「何度も聞くが、それは確実な情報なのか?」
「いや、推測」
 溜息だけは食事では押し戻せそうになかった。

 手短な食事を終え、コーヒーで喉を潤して立ち上がると、同じようにルドガーも腰を上げた。「何処行くんだ?」「街だ」じゃりじゃりと砂を踏みしめるユリウスの足と異なり、ルドガーが歩いたところで何の音も立たない。
 分史世界は経年変化した写真のように色褪せて見えた。何度入り込んでもユリウスは偽物の空間を早く抜け出したくてならなかった。分史世界の空気に触れると自分の存在すら酸化していくのではないのか、そんな気分になるからだ。
 大小の石が転がっているのを横目に見ながら切り立った岩山の間を進む。所々に草が生えていて、時折吹く風も湿気を帯びている。街道に立っていた湖を示す看板は嘘ではないらしかった。暫くそのまま街道を歩いていたが、程なくして見覚えのある風景が現れてくる。
「ディールだ」
 ルドガーがどことなく呟いた。「俺の知ってるディールよりも活気がある」元の世界では確かにディールはそれ程まで賑わいを見せているわけではない。
「ここではウプサーラ湖が枯れていないらしいから、その所為だろう」
「じゃあきっと食材も沢山揃ってるんだろうなあ」
 食べることも料理をすることも出来ないのに、ことあるごとにルドガーはまるでそれが実現可能であるかのように口にした。生きている自分よりも余程人間らしい。ユリウスは胸の内で皮肉を零した。
 人間らしいからこそ、自分はあの氷漬けのような日々から脱却することが出来たのだが。
 分史世界の破壊を続ける中で、凄惨な行動を繰り返していたユリウスが両手をべっとりと赤黒く濡らしていたのを、何の感触もない掌が必死で拭おうとした日のことが頭の隅に浮かんだ。涙は確かに出ていないのに、ルドガーの両目からはぼたぼたと雫が落ちているように見えたのは、あの時大粒の雨が降っていたからかもしれない。刃で貫かれたように顔を歪める亡霊がこの上なく辛そうにするものだから、こんな下らないことで哀しくなるのなら止そうと思った。あれは十五歳の時だったか。
 立ち並ぶ店の数々に目を爛々とさせる青年は、それでも確かに死んでいる。誰にも声を掛けられることなく、気付かれることもない。
 自分達の世界より明るい陽射しが眩しくてユリウスは目を細めた。ガラスレンズの向こうに見えるのは見慣れた曇り空ではない。鮮やかなブルーの下地に筆で伸ばしたような雲がたなびいている。街の中心には青々と茂る木が植えられており、街一つとってもあらゆるところに自然が溢れていて思わず小さく感嘆の息を漏らした。
「こんな世界もあるんだな」
 常時煙ったような自分達の世界とは違う、空気も緑の匂いを含んでいるように思える。源霊匣の発展が異なるのかもしれない。暫く感動していたが当初の目的を思い出して、視線を街の建物へと移した。取り敢えず一通り回ろうとして、そこでいつも隣に居る青年が居ないことに気付く。気になるものでも見つけたのか、或いは猫でも追いかけているのか。そうひょいひょいと姿を消されては困るのだけれど。ルドガーの実直な性格がこうして時折子供のように変化して現れた。
「ユリウス!」
 名を呼ばれてはっと振り返ると、往来の中から一本腕が伸びている。左右に振られるそれに対して人々は何の関心も抱かない。こういう時に、ああやはり、とユリウスは感じるのだ。
やはり、死んでいるんだな。
 いくつか軒を連ねる商店の前で、ルドガーは手招きしていた。魚屋や果物屋がある中、多種多様の色合いが折り重なった一角があった。近付けば揺れるのは華やかな香りだ。
「花屋?」
「綺麗だなあ」
 この分史世界はこんなにも植物に恵まれているのかと目を見張った。橙色のような黄色から白、トマトのように赤いものまで色々な花が所狭しと並んでいる。何人かの客が指差しながら買うのを、ルドガーは観察するようにじっと見ていた。それから徐に口を開いたかと思えば、客の間から覗くユリウスに「あれ買ってくれないか?」とぼそぼそと耳打ちをする。
「何故だ」
「欲しくなった」
 ますます不思議だ。
 訝しげに眉を顰めているのがまるで怒っているように見えたらしい、花屋の店主がその様子に少し怯えたのがユリウスにも分かった。極まりが悪そうに表情を何とか戻して、仕方ない、と財布を出す。
「……この花を」
 手にしたのは、一本百ガルドの青紫色の花だった。

「こんなものどうするんだ」
 そそくさと花屋をあとにして、ユリウスは街のはずれへと歩きながらルドガーに訊ねた。
「ユリウスに誕生日のプレゼント」
「は?」
「スターチス。綺麗だろ?」
「まぁ、そうだが」
 手の中で弄びながらじろじろ眺める。茎を埋め尽くすように青紫の小さな花弁がいくつも連なっている。絞ったレースのような形が可愛らしく、鼻先に寄せると柔らかい甘さがふわりと香った。花など全くと言っていい程買うことがないので、久しく嗅いだ匂いに鼻孔がこそばゆくなる。
「取り敢えず、礼を言っておくべきかな?」
「こんな形で悪いんだけど――改めて、誕生日おめでとうユリウス」
「有難う、ルドガー」
「百ガルドはいつか返すよ」
「時効は生きている間だぞ」
 誕生日に花を、だなんて女性でもないのに、ユリウスは忘れかけていた何かを漸く思い出したような、安堵にも似た心地になった。スターチスは夜明け前の空のように深い色を抱いて、彼の指先になぞられて喜びに打ち震えるかの如くその身を揺らした。
「さて、時歪の因子を探さなければ」
 そして帰るのだ、あの世界に。そうしたらこの花を飾ろう。
 先を歩くユリウスの後ろで、ルドガーの足が唐突に止まる。「あ、」息をのんで、青年はその双眸を驚愕に染めた。自分に瓜二つの男が、しかしその髪は漆黒で、近寄りがたい雰囲気を纏って歩いていたからだ。
 男は花屋の店先で少し屈むと、並んだうちの一つを指差した。気付かれぬようそうっと近付いて男の手元を覗き見る。ルドガーの存在はユリウス以外には認識することが出来ないにもかかわらず、こうして生きている人間のように行動してしまうのが肉体を失ってもなお抜け切らない青年の癖だった。
「有難う」
「社長さんも大変ね。またいらして頂戴」
「ああ、また」
 立ち上がる男の上着が陽に当たってつやつやと光った。上等な生地だということが直ぐに分かる、それなのに嫌みのない服装は気品があり、黒い上下を着こなした姿は美しく磨かれた剣のように凛としている。
 先程ユリウスがしたようにすうっと香りを確かめる男が持っていたのは、同じ青紫色の花だ。
 スターチス。花言葉は、永遠に変わらぬ心。
 その唇が、にいさん、と形作る様を視界の端に納めながら、ルドガーは見失ったユリウスを慌てて追いかけた。

 

グリーフワークの箱舟
A Phantom with a Stray Dog(『亡霊と旅をする』改題)

*グリーフワーク
身近な人と死別して悲嘆に暮れる人がたどる心のプロセス。
悲しみから精神的に立ち直っていく道程。喪の作業。癒しの作業。
(goo辞書より)
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