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@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

3. ユリイカ

 自分だけが時の輪から外れてしまったのかと思うほど、一分一秒が悠長で、早く早くと急かす自分自身をアカネは持て余していた。時間の進みを、こんなにも遅く感じたことはない。
 スマートフォン上で数字がまたひとつ進む。半刻のうち、そのチェックを何度繰り返していただろう。割り当てられた自室のベッドに腰掛け、足を組んだところで、ルーティンのように同じことをしているだけだ。
 画面の数字は既に真夜中まで二時間を切ったところで、映画によくあるような時限爆弾を連想させるカウントダウンならぬカウントアップに、アカネは肌がじりじりと炙られるような錯覚をおぼえる。
 時間を決めておくべきだった。
 何時に来てほしい、と言えば良かったのに、タイセイと話していた時のアカネはすっかり失念していたのだ。かといって、その手に持つ文明の利器で『もう来るところ?』などと確認する気にもなれなかった。
 それで返信が来なかったり、忘れられていたりしたら――ビーナが内蔵されているところで可能性は低いが――次会う時は普通ではいられないような予感が、アカネの中で極めて確証に近い形で生まれることは、分かりきっている。
 先日の、学校での出来事が頭をよぎった。
「また今度」という言葉の、雲をつかむような不透明感。けれども、それすらなければ、タイセイと自分の交点がさらに陰ってしまう気がしてならない。
 だから、約束をする。
 次。明日。来月。未来。そしたら君はきっと来る。これまでだってそうだった。会うたびに、僕らを繋ぐものが色濃くなっていく気がして、約束する。
 これからも、そうなんだろうか。そうであってほしいけれど。
 ひたすら続くエアコンの稼働音に、耳も頭もぼんやりとしてきた時だ。部屋の扉を叩く軽快な音が、アカネを叩き起こした。

 開口一番「ごめん遅くなって!」と(小声だが、しっかりと)言う少年に、先ほどまで抱え込んでいたものなどすべて消え去ってしまって、アカネの口元はやっと綻んだ。申し訳なさと焦りを隠さないタイセイに「落ち着いて」と言えば、さらに「ごめん」と返される。
「そういえばタイセイ、スマホは? 連絡しようと思っていたところなんだ」
「あ、置いてきた。充電中なんだ。遅れてほんとにごめんね……」
「いや、責めてるわけじゃない。気にしないでくれ」
 とにかく、ラッキーだとアカネは内心ほっとした。連絡するつもりだった、とは出まかせだが、ビーナには聞かれたくない。聞けば「ビーナは寝てる」とのことで、なるほど充電中ということは睡眠中でもあるのか、と妙に納得する。AIにも休息が必要なのだろうか。そのあたりの感覚が、まだよく掴めない。
「どうぞ、入って」
「あっ、お邪魔します……」
 アカネの隣を通り過ぎる時、清潔感のある香りが尾を引いた。髪も、よく見れば全体がしっとりとしている。それだけなのに、自分と同じく、Tシャツに学校指定のジャージを着た少年が『限られた人間だけが知る大成タイセイ』になる。
 アカネの中に構築された、学生でもなく運転士としてでもない、少年が持つ別の顔が、ふっと横切る。それが消える前、重なるようにタイセイが訊ねた。
「あの、話ってなに? 何か困ったことでもあったの?」
「ああ、うん――」
 二人も居れば少し狭く感じる部屋は、壁付けの机と椅子一脚しか腰を下ろすところはなく、「とりあえず、座って」とタイセイをベッドに座らせる。アカネの無意識が、そうさせていた。
 これから自分が口にするのは、その上で行われるであろう行為についてだ。審議する舞台へ、主役を用意しなければならない。始まりになるか終わりになるか、分からないけれど、その前に見ておきたかった。
 『大成タイセイ』の上から下まで、隅々と。
「えっと、アカネ?」
「すまない、少しだけ待ってて」
 正面の椅子に座って、アカネは彼を眺めた。さながらここが美術館か、あるいは博物館であるかのようだ。対象物の本質を問いただそうする目が、タイセイを空間に縫い留める。
「……あの……?」
 尋問にも似た構図のなか、アカネの線上で、タイセイは自分を映す目を窺う。握られたまま、膝の上に固定された手は、石のように動かない。
 たった数秒だ。
 けれども、ひどくゆっくりと落ちる砂時計のように、アカネの中で千分の一が連続する。
 有り体に言えば、それは鑑賞だった。『大成タイセイ』の成分を把握するための鑑賞――これは誰が知るタイセイなんだろう、僕だけが知るタイセイはどれくらいあるんだろう――少年の要素としてアカネが存在しているかを了知するための、極めて短い、水がひとしずく跳ねるくらいの。
 その中でアカネは、ふと、ある輪郭がはっきりとしてくるのを感じる。昼間、シオンと話していた時、自分が誤魔化したもの。名付けることはできたけれども、敢えてしなかったものの正体。

 ――僕は、君を侵略したいんだな。

 型にすとんと、腹落ちした。
 タイセイをずっと抱きたかったことも、自分が知るだけの領域を拡張したい願望も、好意という二文字に収めるには大きすぎて、もっともっと深くて、ドロドロしたものだった。
 君のほんとうを知るのは僕だけでいい。強さも、そこに隠れた美しさだって、誰にも知られなくていい。真価とか、意義だとか、旗印みたいなものを全部取り払って、ただの『大成タイセイ』になる瞬間が僕は欲しいんだ。
「タイセイ」
 ひとつひとつを丁寧に音に出すように、アカネが名前を呟くに従って、タイセイは居住まいを正した。
「う、うん」
「これから言うことは、君にとって嫌悪したり、苦痛に思うかもしれないんだけど」
「え」
「僕は、君を、僕のことだけで塗り潰したい。頭の中も、身体の中も。そう、思ってる」
 すまない。
 付け足すように謝りの言葉が出たのは、自分の手に余る感情の正体に気づいた時、同時に悲しくなったからだった。
 好きなのに、どうして君を大切にできないんだろう。自分を抑えられない。君の価値を僕だけが評価したい。そう思う自分を許してほしい。どこまで僕を受け入れてくれるのか試したい。誰もが君を大切にしてほしい。なのに、それが嫌だ。
 ひどいじゃないか、こんな気持ち。
 アカネは眉根を寄せた。感情が大きな振り子のようにぐらぐらして落ち着かない。ほとんど操られているみたいな、節々が脱力した動きで、ぬっと立ち上がる。そのままタイセイの隣に座れば、体重でベッドが揺れた。つられて、タイセイの肩も揺れた気がした。
 動けないまま、「は」と少年の口が開く。しかし、それが何かを音にする前に、アカネの指先が少年の肩へ辿り着くほうが早かった。触れて、握るように掴んで、伸び、抱きすくめる。
「あの、アカネ……っ」
 耳元で聞こえた声には、もう夜なのに、まるで真昼の太陽から絞り出されたような熱が滲んでいる。そこから鼓膜に染み込んで、じんわりと思考へ拡散して、アカネの目の奥をあたためる。その温度を味わいながら、彼は唇を開く。
「君としたい。君のことを抱きたい」
「だ、」
「キスだけじゃ嫌だ。触るだけでも足りない。もっと、もっとしたい」
「もっと……?」
 言葉だけでは、もう間に合わなかった。ドクドクと、あばらの内側に何とかしまっていたものを、溢れさせたい。
「あの、んう、――」
 きっと、どう返せばよいか分からなかったのだろう。開いたままだったタイセイの口を、アカネの唇が塞いだ。何度口付けても充足することのない渇望の源が、タイセイを好きになった時から消えずにあって、閉じようと試みているが出来ないでいる。
 恋は、ないものねだりばかりだな。
 舌を出し、唇の端をれろ、と舐めると、タイセイの身体が二、三度震えたのがアカネにも伝染する。少年たちの間に小さな雷のごとく、ひりひりとしたものが交錯して、痛み分けをするようにキスが続いた。ちゅく、ちゅく、と舌が絡まり、彼らを囲う空間を侵食していった。溜まっていく熱のありかが互いに分かるほどに、身体を寄せ合って、ただ繰り返す。
「……っあ、アカネ、あのね、んっ」
「なに?」
「ん、あ……っ!」
 言葉を遮りたいわけではないけれど、触れたくて、アカネの指はタイセイの首筋をなぞった。そこから顎へ添わせ、手のひらで頬を撫でる。ところどころ少年から溢れる吐息は、ずんと重く、アカネにのしかかる。そのまま倒れ込みそうになるところを、タイセイの手のひらが押し留めた。
「僕、その、初めてキスしたのは、アカネだったんだ」
 キス。
 藪から棒に話し始めたタイセイに、ん? とアカネの動きが止まる。今、良い感じだった気がするんだけど、それは気のせいか?
「……こないだの話かな?」ふと、少年が姉にされたという『ほっぺにちゅー』事件(というほどでもないが)のことだと気づく。「もう気にしていないよ」
「そ、それもあるけど!」
「あるけど?」
「……キスだけじゃ、ないよ。こんな風にドキドキしたり、ずっと一緒にいたいのは、アカネが初めてで」
 言葉とともに視線はずっと下をうろついていて、交わらないまま、少年は続ける。「ずっと、こういうの分からなくて、その」握り締めた拳の中はじっとりと汗ばんでいることを、アカネは知らない。
「いつもアカネのことが離れなくて、学校でも、……したいと思う時だって、あるよ」
 したい、って、何を?
 どくり、どくり、と鳴り響く音とともに、アカネは待つことしかできない。
「分からないんだ。アカネと、もっと近づきたいって思う。でもこういう時、どうすればいいの」
「タイセイ」
「アカネと、一緒にいたい……君がしたいこと、一緒に、したい――」
 言い終えるまでに、アカネは少年に再び抱きついていた。そうしなければ、歓喜とは違う何かが、この部屋ごと自分を潰してしまいそうだった。
 感情に重量があったなら、もしかするとアカネは、タイセイから手渡されたもの以外は、もう持てないかもしれない。
「……アカネ」
「うん」
「僕は大丈夫だよ。だって君のことで、もういっぱいだから」
「タイセイは、僕の機嫌をとるのが上手いね」からかうように言ったのは、自分を保つためかもしれなかった。「僕のほうが、君でたくさんで、苦しい」
 あの一滴の時間、大成タイセイの中には自分だけしか存在していなかったのだと思うと、限界まで膨らんだ何かがミシミシとひび割れてしまいそうな気がした。その僅かな亀裂から、少年を希求する声がとろりと溢れて、たまらずアカネはタイセイの頬に口付けた。
「ん……」
「――イナさんにキスされたのは、どっち?」
「え、お、覚えてないよ」
「じゃあ、こっちにも」
「んっ」
 両の頬に唇を寄せると、くすぐったそうにタイセイが少し笑う。つられてアカネの頬も緩む。気にしてないんじゃなかったのか、と自分の矛盾に呆れながら、手のひらでキスの跡を残すように、タイセイの頬を撫でた。
 少し俯いて、少年が口を開く。
「全部初めてだから、恥ずかしい」タイセイの声は、秘密の言葉を交わすかのようだ。「それでも、良いの?」
「初めてじゃなかったら、嫌だったかもな」
「えっ」
「まあ、それはさておき。僕だって同じだよ、君と」
「ほ、ほんと?」
「ああ」
「……でも、初めてすることは、ぜんぶ、アカネとがいいから、良かった……」
 ぽつり、タイセイが呟いた言葉は、ひどい殺し文句だった。心の内側を暴くようにアカネの中を踏み荒らして、その根に張った欲を、覆い隠そうとした皮を、べりり、と破ろうとする。
 何も知らない風な、アカネとしか触れ合ったことのない少年がもたらす、思いもよらない爆弾。地雷のようで、どこにあるか分からない。付き合い始めた頃から時折それに振り回されていたけれども、ここにきて、アカネはその威力をようやく実感している気がする。
「あの、」と続ける少年の声を聞くのが、少し怖くなる。なのに、知りたい。まるで中毒だ。タイセイを欲しがる気持ちは、ピンと張った膜になり、いつちぎれるか分からない。
「朝、アカネから話があるって言われた時、もしかしたらと思って」
「え?」
「どうしようかと思って、それで」
「あ、ああ」
「どうすればいいか分からなくて、こないだも、ネットで調べたんだけど」
 ネットで。こないだ。
「できるだけ、やってみたんだけど」
 やってみた。
「それで、さっき、来る前、準備してみたんだけど……」
 さっき。準備。
 ……さっき?
 まさか今夜、遅くなった理由っていうのは。
 気づけばアカネは、自分を支えていた手を押しのけていた。少年ふたり分の体重は、苦しげにも聞こえる息を伴い、ベッドの悲鳴に変わる。