イベント・ドリブンイナと小学生のタイセイが、ドライブしたり海を見に行ったりする話。姉と弟の家族愛という感じですが、ほっぺにちゅーとかしてます。本編のネタバレはありません。続きを読む うわーっ! という声が車内を満たした瞬間、さながら車が破裂寸前の風船のように膨らむのを連想した。鼓膜がびりびり震えて、タイセイは思わず両手で耳を塞ぐ。しかめっ面のまま、少年は細長い息で風船の表面をつついた。「びっくりしたなあ、もう」 タイセイが思うに、これは叫び声で、決して雄叫びではない。雄叫びはもっと勇ましく、まい進するために発する声だ。前に観た映画でも、主人公が雄叫びをあげたのは敵に向かって突撃する時だった。やってやるぞ、という意志が聞いているこちらの身にも刻まれるような、切なる願いの声であるはず。 だから、自分が耳にしている姉の声は、やはりただの叫びで、怒りなのだと思う。「ああー! もーう! 全部吹っ飛べー!」 窓が閉まっていてほんとに良かった、とタイセイは思う。もし聞こえてたら、対向車の誰かにきっと通報されていたに違いない。右側、運転席を盗み見ると、イナが眉間に皺を寄せて前方を睨んでいるところだった。「ほんと腹立つなあ!」絶叫にあわせてギアが上がり、車が加速していく。「どいつもこいつも!」「姉ちゃん、口悪いよ……」「良いのよ! あんたしか聞いてないんだから」「今度は何があったの?」「それは内緒!」 まただ。こういう時に限って姉はよく「内緒」と口にする。「子どもは知らなくても良いの」などと言うわりには、先日のようにメタバースの動物園が閉園する際は、弟の目も憚らず大人と口論したりと、隠し切れているわけでもない。矛盾している。でも、その余白にタイセイは心なしかほっとする。 ただ、内緒と言っている限りは内緒のままなのだろう。諦めて、タイセイは左手の空を見た。柔らかそうな雲が乗っかるさまは、動画配信の視聴中に流れたコマーシャルの、パンケーキにこれでもかと盛られたホイップクリームみたいだった。 イナが免許を取った日、タイセイはひとつの約束を交わした。『取得後、しばらくしたらドライブに付き合う』というものだ。今朝のイナは「ついにこの時が来た」と言わんばかりに、果たそうとしたのだろう。タイセイの部屋へ飛び込んできた時、朝食を終えて間も無い彼が机に向かっていたところもお構いなしに、開口一番こう言った。「出掛けるよ」 ノックも前置きもなく宣言する侵入者は、目が据わっている。決断してから実行するまでのタイムラグがほとんどない点は、弟からしても見上げたものがあるが、その性格をタイセイは真似したいとは思えなかった。真似できない、と言うほうが正しいかもしれない。「今から……?」「今からよ」 急すぎる、と断ることはできるけど、予定が詰まっているわけでもなかった。タイセイは、先日めくったカレンダーに目を遣った。ところどころ赤いマーカーで印がついているが、本日の枠には何もない。 ちらりと姉の様子を窺うと、ぎりぎりと歯を食いしばるような、あるいは、ひと際まずいものを口にしたような顔をしている――我慢の限界であることは明らかだった。このままにしておいて、火山が噴火しても自分が困る。タイセイの中にほんの少しだけ残っていた反論のための気力は、煙を吹く姉を前に、あっけなく散り散りになった。 諦めたタイセイの右手が、小学校の課題ワークを閉じる。ぱふっ、と小さな風が起こり、机の上のプリントが少し飛んだ。 ま、いいか。姉ちゃんが急なのは今に始まったことじゃないし。何より、今は夏休みなんだ。 車から初心者マークが外されて久しい。 不安要素であったイナの運転技術についてだが、上達しているのだろう、タイセイが助手席で過ごすぶんには快適だった。ただし、速度超過にならないよう気を配らなければならないのは、歓迎したくはないものだ。 高速道路は現在、スムーズに流れている。そのなかで「今は何キロなの?」とか「ちょっとスピード出し過ぎなんじゃない?」というように、逐一速度を気にしておかないといけないのは、ひやひやして落ち着かない。でも、確認しておかなければ、暴れ馬のようにとはいかないまでも、脇目もふらず突っ走っていきそうだった。「次で高速降りるわね」「ビーナ、あとどのくらい?」「はいはーい、目的地まで三十分くらいかしら? ちょっと道混んでるみたいよ。ていうか、あんた達お腹空かないわけ?」「あれ、もうそんな時間だっけ」 呆れた様子で「もう午後一時半になるところよ」とビーナが知らせる。昼食には遅い時間だった。「姉ちゃんの監視に忙しくて忘れてた」「なによそれ、まるで私のせいみたいじゃない」「そう言ってるんだけど」口喧嘩に発展する前に、スマートフォンから制する声が上がる。「待った! まずは食べるか食べないか、どうするか決めなさいって! ――で、イナさんは? お腹空いてるんですか?」「思い出したかのように空いてきたわ」「素直に忘れてたって言いなよ……」 やれやれと両手をあげるのは、スマートフォンの画面に映るビーナだ。「途中でちょっと渋滞もあったし、ずれ込んじゃったね。タイセイ、何食べたい?」「何でもいいよ」「何でもいい、は、何でもよくない、でしょ」以前、母から指摘されたことをそのまま再現するイナに、タイセイの言葉が詰まる。「ちゃんと自分の食べたいもの、言いなって」「……ハンバーガーかな」「じゃ、ビーナ! 評価高めのお店までお願いね」「任せてくださーい!」 ビーナがあれやこれやと情報をかき集めている上を、高速の出口を示す看板が通り過ぎる。目的地までそれほど時間はかからないと言っていたけれども、目的地らしい目的地があるようには思えなかった。少なくともタイセイには、ただイナが、どこでも良いからどこかへ行きたいだけのような気がしていた。 幼い頃からよく姉と出掛けていて、その時はいつも目的地があり、二人で到着までの道のりを楽しんだものだ。小旅行もたくさんした。たぶん、仲の良い姉と弟の関係を保っている。 今日はたまたま僕がいたから、付き合わされているだけだ。でもいつか、いつになるか分からないけれども、大人になったらもう、一緒に出掛けなくなっちゃうんだろうな――頭をよぎったことは何度かあったが、年齢が離れているからなのか、そのイメージははっきりしなかった。姉離れは、まだできそうにないということなんだろうか。 時々、タイセイは考える。いつか姉も、弟離れをする時が来るのだろうか? 自然とそうなるのだろうか? その未来はいつやってくるのだろう。 その頃、僕たちの関係って、変わっちゃってるのかな。 料金所を通過する。ETCの支払いを知らせる自動アナウンスが流れて、ビーナが「面白くも何ともない言い方ね」と悪態をついた。「もっと自然に表現すればいいのに」「最近はそういうのも増えてきたけどね。ま、ビーナにしてみたら、子ども同然かな?」「でしょでしょ! イナさんもっと褒めてくださいよお」 ビーナの猫なで声に、ふわふわしていた思考が戻った。またやってる、と姉とスマートフォンを交互に見やりながら、カーナビゲーションの画面で現在地を確認する。一般道に差し掛かったこの場所からしばらく道なりに進めば、家を出る時に指定した地点へと到着するようだ。 前方を見遣ると、建物の向こう側に海が見えてきたところだった。視界の少し下を一直線に走る水面は、日差しを反射して白く眩しい。光に、タイセイは目を細める。ただ、狭まった視界は、すぐに見開かれることになる。まだまだ青さを失わない空と、絵の具チューブからぎゅっと押し出されたような、まばゆい白さを抱いた雲が飛び込んできたのだ。「わ……」「今日も暑そうだねえ」 胸が高鳴る鮮やかな色彩に、なんとなく新幹線の『のぞみ』を思い浮かべた。今日の景色は、あの車両に似ている気がする。 いまや、与えられた星の数によって、店の評判が左右される時代だ。しかし、タイセイは料理には詳しくないし、そもそもグルメサイトの信ぴょう性がどれほどのものか分からなかった。すべてが本当かもしれないし、すべてが嘘かもしれない。「ネットの世界なんて、そんなものよ」とは、オンライン詐欺に関するニュースを見たイナの言葉だ。 今日のビーナの判断は正しかったらしい。さすが開発者が姉なだけある、と言うべきだろうか。こぢんまりとした店舗は、堤防沿いの道から少しはずれた場所にあって、隠れ家じみた雰囲気が少年特有の好奇心を刺激した。扉をくぐると、スパイスと思われる甘いような辛いような香りがタイセイたちを包み込んで、ともに顔を見合わせる。 ただし、到着までの間、タイセイは動悸が止まらなかった。一台分しか通ることのできない道が待ち受けていたからだ。「姉ちゃん、ここ通れるの……?」「何よ、あたしのナビゲーションが信じられないの!?」「ビーナじゃないよ! 姉ちゃんの運転が不安なんだよ!」「大丈夫だって。まだ事故ったことないしさあ」 結果的に、イナが運転する小型車のサイズであれば問題はなかったものの、曲がった先の道幅の狭さにタイセイは『無事に到着できるか』を案じた。数分後、無傷の車が店の駐車場に辿り着いた時、一時的ではあるもののあんなに感じていた空腹感が、すっかりその鳴りを潜めてしまっていたくらいだ。 けれども、店内を満たす香りが、先ほどまで感じていた疲労と不安を一蹴した。反射的に滲む唾液に、タイセイは思わず喉を鳴らす。「最近、つくづく思うんだけどさ」「何を?」「永遠に変わらないものなんてないなって。だからこそ、今この瞬間ってほんと大事よ。あんたも、いっぱい楽しみな」「なんか、大きな話だね」「至ってシンプルな話。例えば、勉強しなさいって言われるとするじゃない? まあ、勉強したほうが良いけどさ。まずは目の前のことを、存分に楽しんでほしいって思っちゃうよね」「姉ちゃんが大人だから、そう思うんじゃないの?」「うーん、否定はしないんだけどさあ」腕を組んで頷くイナは、苦笑いを隠さなかった。「欲張りなのかなあ、私」 昼下がりの店内は空いていた。到着した時には先客がいたが、今ではイナとタイセイだけだ。ピーク時を過ぎたのか、少し肩の力が抜けた様子で店員が席を片づけている。 流れている曲がどういうものか、タイセイには分からない。ただ、イナが「ジャズかあ。最近聴いてないな」と言ったので、これがジャズというものだと分かった。 そうやって、これまでも知らないものの大半は、姉から教えられてきた。知識のような大げさなものではない。教科書の余白に書き込まれた補足のような、生きていく上で知っておくとちょっと良いものを与えてくれる人。それが、大成イナだった。 半月のような形をしたポテトが、イナの親指と人差し指でつままれ、引き上げられる。ゲームセンターにある、ぬいぐるみを取る機械のようだ。あっという間にイナの口へと運ばれ、消える。「んんー、はっふ!」 口元を手で覆いながらも、この上なく美味しそうに食べるので、タイセイもつい手が伸びる。 かご一杯に盛られたフライドポテトが配膳された時、タイセイは二人前にしては少し多いように感じたが、どんどん食べ進めていくイナに認識を改めた。怒りがエネルギー源になっている状態の姉は、よく食べるのだ。 ポテトの山を次々と伐採していくイナは、ふうふう言いつつも咀嚼し、飲み込んだのち口を開いた。「このポテトだって、賞味期限があるでしょ。いま、どっかでふんぞりかえってるオジサンたちも、私に追い抜かされた奴も、いつか年取って老いるんだからさ。今が最高潮とか、今がずっと続くなんて、幻想だって話」 老いる、という言葉が引っ掛かり、タイセイは今朝のイナが何故不機嫌だったのか、何となく察しがつく――こういうこと、前もあったなあ。姉ちゃんが振られた時だっけ。 優秀なイナを敬遠する人間は、少なからずいる。タイセイの脳裏には、「彼氏」と言って姉が連れてきた青年たちが、映画のエンドロールのように流れた。何人かいたけれども、それぞれの顔も、名前も、その上を消しゴムが掠ったみたいにぼんやりしている。 『大成イナ』を恋人にした彼らの大半は、三ヶ月もしないうちに別れを告げて、姉を置いて去った。姉の優秀さ、仕事を優先する姿勢、弟を優先する態度。その他諸々が、気に入らなかったらしい。何事にも相性はある。だが、タイセイは彼らのことが好きになれそうになかった。 みんな、姉ちゃんより自分が大事だっただけ。自分よりたくさん知っている姉ちゃんが、嫌だっただけ。姉ちゃんが、あの人たちを大事にしていたかどうかは、知らないけど。「変わろうとしないのも、どうなんだろうね」 イナは呟いたが、その頬杖の下に隠れてしまって、タイセイには届かない。 「そういえば姉ちゃん、あのメタバースの動物たちはどうなったの?」「え?」「前に、おじさんに詰め寄ってたでしょ」 大きく切り出された窓の向こう、目線の少し下を、列車が通り過ぎていった。今日も変わらず、住宅街を縫うように走っていく。家の外壁と車両が接触するのではないかと思うほど、至近距離で通り抜ける。よく事故が起きないものだとタイセイは毎度感心する。 店内の音楽と、遠くに聞こえる電車の走行音を一緒くたにして、タイセイの耳が集音した。ばらばらのリズムがたまに噛み合って、中途半端な心地よさを生み出している。規則的なドラムの音に、イナの身体が時々揺れる。「まあ……どうもしないよ。サービス終了ってやつ。データも、いつか消されるでしょうね」「じゃあ、死んじゃうんだ」「死んじゃう?」「うん」 それはちょっと可哀想だな。つまんだフライドポテトをそのままに、タイセイは手を止めた。 メタバース内とはいえ、人の言葉を操り、理解する動物たちを初めて見た時、驚きで全身が固まったことを覚えている。実際の動物と決定的に違うところへの違和感はあった。それでも、あの場所に『生命が存在している』感覚だけは、拭われずにずっとある。 再び手を動かし、タイセイはポテトを口に含んだ。中が熱い。大ぶりにカットされているせいか、ほっくりして食べ応えがあるけれども、おかげでなかなか冷めないようだ。「死ぬ、って、タイセイはあれを生き物だと思うのね」 イナの目は、ポテトからハンバーガーへと狙いを移して、包み紙を両手で支えるように持つ。チェーン店の商品よりひと回り大きいハンバーガーは、三角形に折り曲げられた包装の中に鎮座していたが、「おいしそー」という感想とともに噛り付かれ、その輪を失った。「だって姉ちゃんは、そう思って作ったんでしょ」 イナが、少し目を見張った。考えるかのような素振りを挟んでから、「ただのデータよ。仮想空間のさ」と答えた。「姉ちゃんが、わけもなく『ああいうの』を作るとは思えないから」「……なら、あったかな」「何が?」「永遠ってやつ」 タイセイから視線を外して、イナは外を見た。そうはならなかった結果を、思い出しているのかもしれない。 賞味期限の切れた動物たちが、誰にも大切にされず消えていく様子を、タイセイは想像する。ただ、消えるだけ。葬式も墓もなく、誰かに悲しまれることもなく、きっとすぐに忘れ去られる存在が積み上がっていって、氷山のように塊となって、影を作る。自分の背丈を優に超えた山は、タイセイがまぶたを閉じると、雪みたいにすうっと溶けてしまった。 離れ小島が、親に引っ付く子どものように、橋で繋がっている。 この場所は前にも来たことがあったけれども、変化した箇所もあって、その照合をするようにタイセイたちは観光した。イナが「日が暮れる前に海を見ておきたい」と言ったのは、目新しい店や改装された施設をひとしきり見終えたあとのことだ。 スニーカーに砂が入るのが嫌だ、ということで、砂浜には行かず防波堤近くから眺めるだけに留まったのは、タイセイにとって少し残念だった。少年なりに海を満喫したい気持ちはあった。しかし、この季節だ。三十度を優に超える気温が連日続き、歩いている間も汗が噴き出る。遮るもののない砂浜が熱いことは、彼らの想像に難くない。何の準備もせずに来たのだから、仕方がなかった。 コインパーキングに車を停め、防波堤沿いの歩道へ踏み出せば、久しい潮の匂いやうるさいくらいの波の音が、一層力強くタイセイたちに押し寄せてきた。「うわっ」「タイセイ、帽子飛んでいかないように気をつけな」「わ、分かってる」 海風は髪を根元からかき上げる勢いで、迫りくる暑さを何とか追い返そうと躍起になっているようだった。ただ、湿気はあるものの強い風は、汗ばんだ肌を冷まし、火照りをなだめてくれる。その感覚に溺れないよう、タイセイは歩きながら両手を広げた。指の隙間で風をとらえるように、めいっぱい左右へ腕を伸ばす。「鳥になった気分?」イナが目を細めた。「やっぱりまだまだ子どもだねえ」「う、うるさいなあ」「あーもう、やめずに続けて続けて。馬鹿にしてるんじゃないよ。素直にそうできる時間は短いぞー、少年!」「誰の真似なんだよ、それ……」「ふふ、どこかの誰か」 また、風が吹き抜けた。イナの、肩に届きそうな髪がぶわっと舞う。それを耳にかけ直しながら、彼女はタイセイの隣を進む。 海からこぼれた細かい砂が、歩道の至るところに散らばっていた。その上辺を踏むたび、じゃりじゃりとした感触が足裏に伝わってくる。小学校の校庭を歩く時とは違う感じもする――砂の種類が違うのかな。「久しぶり、海」「そうだねえ。昔、みんなで来たっけ? タイセイがもっと小さかった頃かな」「母さんが休みの時だったよね」「そうそう、だからあんた学校休んだの。その日、平日だったからね」 思い返せば、姉と出掛けるのは大抵、休日だった。 休日も仕事で不在になりがちな両親の、頼りの綱が姉だった。大抵は姉が自分の面倒をみていたから、時々母でさえ「タイセイはお姉ちゃんに育てられたようなものね」と言ってくる。でも、あながち間違っていないのではないか。そう思っているとは、さすがに両親の前では口に出せなかったが。 途切れ途切れの豪雨にも似た、ざあざあと波打つ音が、薄い水色の空一面にこだましていた。海面は夏の光を反射し、まだらに揺れる。その表面、ところどころでは水が押し合い圧し合いを繰り返し、そのたびに深い音が響いた。「そういえばさ、海から生命が誕生したって知ってた?」「うん。理科の先生が、なんか言ってた気がする」「そっかあ」「でも、よく分かんないよ。だから、僕に何か関係があるの? っていうか」「ま-、そうだよねえ……でも、鎖みたいなものだと思えば、面白いかもしれないよ」「くさり?」「そう。すっごく極端に言えばさ、海がなかったら私たち、姉と弟じゃなかったかもしれないよ」「え、それ、すっごく極端過ぎない?」「あはは、やっぱそう? さすがにもう分かっちゃう歳かあ」 白波と白波の隙間に、イナの笑い声が飲み込まれていった。何が面白いのか分からないが、姉は「あのタイセイがねえ」などと言いながらひとしきり笑って、タイセイの向こう側にある海をまた眺めた。 その視線の先には、防波堤とテトラポッドに仕切られながらも、空と境目をともにする巨大な水の塊が漂っている。先が分からない、終わりの見えない海。永遠に続くような水のたまり場。それがタイセイには、まるで底なし沼のような、あるいは大きな空洞が待ち受けているような場所に思えた。寂しさをたたえて、彼の前に立ちはだかっている。 僕の先は、まだ見えない。 見えないのに、僕は進んでる。「ねえ、あのさ、姉ちゃん」「ん? なーにー?」「いつか僕が大人になっても、また来ようね」 変わらないものはないって言ってたけど、また、来ようね。 タイセイの声に、イナの足が止まった。風で髪が荒れ、乱れるのを気にも留めない。ひとつまみ程度のオレンジ色を帯びた光を背負って、タイセイを見下ろす。 止まらない時の中で、吹き付ける風の中で、目を見張っていた。たった一瞬が、夏の光に引き伸ばされる。「姉ちゃん?」 静かな影に、タイセイの首筋が少しひやっとする。問いかけに引きずられるように、波がざぶっと戻ってきた。「何言ってんのよ当たり前じゃん! もう、驚かさないでよ!」 きんきんと耳が痛いくらいの声に、タイセイの身体が跳ねる。驚いたのも束の間、身体が締め付けられ、少年は身動きが取れないことに気づいた。イナが、しがみついてくる。それだけではなく、頬にふっと触れるもの、その柔らかさに驚く。「うわっ! ちょっと! なに! 酔っ払いじゃないんだからやめてよ!」「なにさ、ほっぺにちゅーなんて小さい頃何度もしてんだからね」「言わなくていい、言わなくていいから!」 いつかこの手の大きさも、声も、考え方も、すべてが変わってしまうんだろうな。でもたぶん、きっと、姉ちゃんはずっと姉ちゃんでいてくれるよね。 もう一度手を広げ、タイセイは抱き返す。今しがたキスされた頬に、今度はイナの髪がふわふわ当たり、もぞもぞとくすぐったい。暑いのは同じはずなのに、彼女からは汗の匂いがしなかった。香水だろうか、花のような、少し甘い香りがした。 姉がしゃがみ込んだとて、その背中の真ん中には、もう指先が届かない。ただ、もっと幼い頃の自分がそうであったように、自分があるべきところに収まっているような気がした。 波の音と、姉の腕に抱えられて、タイセイは少しだけまぶたを閉じる。あたたかい。何からも守られているような感覚が、どこまでも続いている。(了)畳む 2024/07/27(Sat)
イナと小学生のタイセイが、ドライブしたり海を見に行ったりする話。
姉と弟の家族愛という感じですが、ほっぺにちゅーとかしてます。
本編のネタバレはありません。
うわーっ! という声が車内を満たした瞬間、さながら車が破裂寸前の風船のように膨らむのを連想した。鼓膜がびりびり震えて、タイセイは思わず両手で耳を塞ぐ。しかめっ面のまま、少年は細長い息で風船の表面をつついた。
「びっくりしたなあ、もう」
タイセイが思うに、これは叫び声で、決して雄叫びではない。雄叫びはもっと勇ましく、まい進するために発する声だ。前に観た映画でも、主人公が雄叫びをあげたのは敵に向かって突撃する時だった。やってやるぞ、という意志が聞いているこちらの身にも刻まれるような、切なる願いの声であるはず。
だから、自分が耳にしている姉の声は、やはりただの叫びで、怒りなのだと思う。
「ああー! もーう! 全部吹っ飛べー!」
窓が閉まっていてほんとに良かった、とタイセイは思う。もし聞こえてたら、対向車の誰かにきっと通報されていたに違いない。右側、運転席を盗み見ると、イナが眉間に皺を寄せて前方を睨んでいるところだった。
「ほんと腹立つなあ!」絶叫にあわせてギアが上がり、車が加速していく。「どいつもこいつも!」
「姉ちゃん、口悪いよ……」
「良いのよ! あんたしか聞いてないんだから」
「今度は何があったの?」
「それは内緒!」
まただ。こういう時に限って姉はよく「内緒」と口にする。「子どもは知らなくても良いの」などと言うわりには、先日のようにメタバースの動物園が閉園する際は、弟の目も憚らず大人と口論したりと、隠し切れているわけでもない。矛盾している。でも、その余白にタイセイは心なしかほっとする。
ただ、内緒と言っている限りは内緒のままなのだろう。諦めて、タイセイは左手の空を見た。柔らかそうな雲が乗っかるさまは、動画配信の視聴中に流れたコマーシャルの、パンケーキにこれでもかと盛られたホイップクリームみたいだった。
イナが免許を取った日、タイセイはひとつの約束を交わした。『取得後、しばらくしたらドライブに付き合う』というものだ。今朝のイナは「ついにこの時が来た」と言わんばかりに、果たそうとしたのだろう。タイセイの部屋へ飛び込んできた時、朝食を終えて間も無い彼が机に向かっていたところもお構いなしに、開口一番こう言った。
「出掛けるよ」
ノックも前置きもなく宣言する侵入者は、目が据わっている。決断してから実行するまでのタイムラグがほとんどない点は、弟からしても見上げたものがあるが、その性格をタイセイは真似したいとは思えなかった。真似できない、と言うほうが正しいかもしれない。
「今から……?」
「今からよ」
急すぎる、と断ることはできるけど、予定が詰まっているわけでもなかった。タイセイは、先日めくったカレンダーに目を遣った。ところどころ赤いマーカーで印がついているが、本日の枠には何もない。
ちらりと姉の様子を窺うと、ぎりぎりと歯を食いしばるような、あるいは、ひと際まずいものを口にしたような顔をしている――我慢の限界であることは明らかだった。このままにしておいて、火山が噴火しても自分が困る。タイセイの中にほんの少しだけ残っていた反論のための気力は、煙を吹く姉を前に、あっけなく散り散りになった。
諦めたタイセイの右手が、小学校の課題ワークを閉じる。ぱふっ、と小さな風が起こり、机の上のプリントが少し飛んだ。
ま、いいか。姉ちゃんが急なのは今に始まったことじゃないし。何より、今は夏休みなんだ。
車から初心者マークが外されて久しい。
不安要素であったイナの運転技術についてだが、上達しているのだろう、タイセイが助手席で過ごすぶんには快適だった。ただし、速度超過にならないよう気を配らなければならないのは、歓迎したくはないものだ。
高速道路は現在、スムーズに流れている。そのなかで「今は何キロなの?」とか「ちょっとスピード出し過ぎなんじゃない?」というように、逐一速度を気にしておかないといけないのは、ひやひやして落ち着かない。でも、確認しておかなければ、暴れ馬のようにとはいかないまでも、脇目もふらず突っ走っていきそうだった。
「次で高速降りるわね」
「ビーナ、あとどのくらい?」
「はいはーい、目的地まで三十分くらいかしら? ちょっと道混んでるみたいよ。ていうか、あんた達お腹空かないわけ?」
「あれ、もうそんな時間だっけ」
呆れた様子で「もう午後一時半になるところよ」とビーナが知らせる。昼食には遅い時間だった。「姉ちゃんの監視に忙しくて忘れてた」「なによそれ、まるで私のせいみたいじゃない」「そう言ってるんだけど」口喧嘩に発展する前に、スマートフォンから制する声が上がる。
「待った! まずは食べるか食べないか、どうするか決めなさいって! ――で、イナさんは? お腹空いてるんですか?」
「思い出したかのように空いてきたわ」
「素直に忘れてたって言いなよ……」
やれやれと両手をあげるのは、スマートフォンの画面に映るビーナだ。
「途中でちょっと渋滞もあったし、ずれ込んじゃったね。タイセイ、何食べたい?」
「何でもいいよ」
「何でもいい、は、何でもよくない、でしょ」以前、母から指摘されたことをそのまま再現するイナに、タイセイの言葉が詰まる。「ちゃんと自分の食べたいもの、言いなって」
「……ハンバーガーかな」
「じゃ、ビーナ! 評価高めのお店までお願いね」
「任せてくださーい!」
ビーナがあれやこれやと情報をかき集めている上を、高速の出口を示す看板が通り過ぎる。目的地までそれほど時間はかからないと言っていたけれども、目的地らしい目的地があるようには思えなかった。少なくともタイセイには、ただイナが、どこでも良いからどこかへ行きたいだけのような気がしていた。
幼い頃からよく姉と出掛けていて、その時はいつも目的地があり、二人で到着までの道のりを楽しんだものだ。小旅行もたくさんした。たぶん、仲の良い姉と弟の関係を保っている。
今日はたまたま僕がいたから、付き合わされているだけだ。でもいつか、いつになるか分からないけれども、大人になったらもう、一緒に出掛けなくなっちゃうんだろうな――頭をよぎったことは何度かあったが、年齢が離れているからなのか、そのイメージははっきりしなかった。姉離れは、まだできそうにないということなんだろうか。
時々、タイセイは考える。いつか姉も、弟離れをする時が来るのだろうか? 自然とそうなるのだろうか? その未来はいつやってくるのだろう。
その頃、僕たちの関係って、変わっちゃってるのかな。
料金所を通過する。ETCの支払いを知らせる自動アナウンスが流れて、ビーナが「面白くも何ともない言い方ね」と悪態をついた。
「もっと自然に表現すればいいのに」
「最近はそういうのも増えてきたけどね。ま、ビーナにしてみたら、子ども同然かな?」
「でしょでしょ! イナさんもっと褒めてくださいよお」
ビーナの猫なで声に、ふわふわしていた思考が戻った。またやってる、と姉とスマートフォンを交互に見やりながら、カーナビゲーションの画面で現在地を確認する。一般道に差し掛かったこの場所からしばらく道なりに進めば、家を出る時に指定した地点へと到着するようだ。
前方を見遣ると、建物の向こう側に海が見えてきたところだった。視界の少し下を一直線に走る水面は、日差しを反射して白く眩しい。光に、タイセイは目を細める。ただ、狭まった視界は、すぐに見開かれることになる。まだまだ青さを失わない空と、絵の具チューブからぎゅっと押し出されたような、まばゆい白さを抱いた雲が飛び込んできたのだ。
「わ……」
「今日も暑そうだねえ」
胸が高鳴る鮮やかな色彩に、なんとなく新幹線の『のぞみ』を思い浮かべた。今日の景色は、あの車両に似ている気がする。
いまや、与えられた星の数によって、店の評判が左右される時代だ。しかし、タイセイは料理には詳しくないし、そもそもグルメサイトの信ぴょう性がどれほどのものか分からなかった。すべてが本当かもしれないし、すべてが嘘かもしれない。「ネットの世界なんて、そんなものよ」とは、オンライン詐欺に関するニュースを見たイナの言葉だ。
今日のビーナの判断は正しかったらしい。さすが開発者が姉なだけある、と言うべきだろうか。こぢんまりとした店舗は、堤防沿いの道から少しはずれた場所にあって、隠れ家じみた雰囲気が少年特有の好奇心を刺激した。扉をくぐると、スパイスと思われる甘いような辛いような香りがタイセイたちを包み込んで、ともに顔を見合わせる。
ただし、到着までの間、タイセイは動悸が止まらなかった。一台分しか通ることのできない道が待ち受けていたからだ。
「姉ちゃん、ここ通れるの……?」
「何よ、あたしのナビゲーションが信じられないの!?」
「ビーナじゃないよ! 姉ちゃんの運転が不安なんだよ!」
「大丈夫だって。まだ事故ったことないしさあ」
結果的に、イナが運転する小型車のサイズであれば問題はなかったものの、曲がった先の道幅の狭さにタイセイは『無事に到着できるか』を案じた。数分後、無傷の車が店の駐車場に辿り着いた時、一時的ではあるもののあんなに感じていた空腹感が、すっかりその鳴りを潜めてしまっていたくらいだ。
けれども、店内を満たす香りが、先ほどまで感じていた疲労と不安を一蹴した。反射的に滲む唾液に、タイセイは思わず喉を鳴らす。
「最近、つくづく思うんだけどさ」
「何を?」
「永遠に変わらないものなんてないなって。だからこそ、今この瞬間ってほんと大事よ。あんたも、いっぱい楽しみな」
「なんか、大きな話だね」
「至ってシンプルな話。例えば、勉強しなさいって言われるとするじゃない? まあ、勉強したほうが良いけどさ。まずは目の前のことを、存分に楽しんでほしいって思っちゃうよね」
「姉ちゃんが大人だから、そう思うんじゃないの?」
「うーん、否定はしないんだけどさあ」腕を組んで頷くイナは、苦笑いを隠さなかった。「欲張りなのかなあ、私」
昼下がりの店内は空いていた。到着した時には先客がいたが、今ではイナとタイセイだけだ。ピーク時を過ぎたのか、少し肩の力が抜けた様子で店員が席を片づけている。
流れている曲がどういうものか、タイセイには分からない。ただ、イナが「ジャズかあ。最近聴いてないな」と言ったので、これがジャズというものだと分かった。
そうやって、これまでも知らないものの大半は、姉から教えられてきた。知識のような大げさなものではない。教科書の余白に書き込まれた補足のような、生きていく上で知っておくとちょっと良いものを与えてくれる人。それが、大成イナだった。
半月のような形をしたポテトが、イナの親指と人差し指でつままれ、引き上げられる。ゲームセンターにある、ぬいぐるみを取る機械のようだ。あっという間にイナの口へと運ばれ、消える。
「んんー、はっふ!」
口元を手で覆いながらも、この上なく美味しそうに食べるので、タイセイもつい手が伸びる。
かご一杯に盛られたフライドポテトが配膳された時、タイセイは二人前にしては少し多いように感じたが、どんどん食べ進めていくイナに認識を改めた。怒りがエネルギー源になっている状態の姉は、よく食べるのだ。
ポテトの山を次々と伐採していくイナは、ふうふう言いつつも咀嚼し、飲み込んだのち口を開いた。
「このポテトだって、賞味期限があるでしょ。いま、どっかでふんぞりかえってるオジサンたちも、私に追い抜かされた奴も、いつか年取って老いるんだからさ。今が最高潮とか、今がずっと続くなんて、幻想だって話」
老いる、という言葉が引っ掛かり、タイセイは今朝のイナが何故不機嫌だったのか、何となく察しがつく――こういうこと、前もあったなあ。姉ちゃんが振られた時だっけ。
優秀なイナを敬遠する人間は、少なからずいる。タイセイの脳裏には、「彼氏」と言って姉が連れてきた青年たちが、映画のエンドロールのように流れた。何人かいたけれども、それぞれの顔も、名前も、その上を消しゴムが掠ったみたいにぼんやりしている。
『大成イナ』を恋人にした彼らの大半は、三ヶ月もしないうちに別れを告げて、姉を置いて去った。姉の優秀さ、仕事を優先する姿勢、弟を優先する態度。その他諸々が、気に入らなかったらしい。何事にも相性はある。だが、タイセイは彼らのことが好きになれそうになかった。
みんな、姉ちゃんより自分が大事だっただけ。自分よりたくさん知っている姉ちゃんが、嫌だっただけ。姉ちゃんが、あの人たちを大事にしていたかどうかは、知らないけど。
「変わろうとしないのも、どうなんだろうね」
イナは呟いたが、その頬杖の下に隠れてしまって、タイセイには届かない。
「そういえば姉ちゃん、あのメタバースの動物たちはどうなったの?」
「え?」
「前に、おじさんに詰め寄ってたでしょ」
大きく切り出された窓の向こう、目線の少し下を、列車が通り過ぎていった。今日も変わらず、住宅街を縫うように走っていく。家の外壁と車両が接触するのではないかと思うほど、至近距離で通り抜ける。よく事故が起きないものだとタイセイは毎度感心する。
店内の音楽と、遠くに聞こえる電車の走行音を一緒くたにして、タイセイの耳が集音した。ばらばらのリズムがたまに噛み合って、中途半端な心地よさを生み出している。規則的なドラムの音に、イナの身体が時々揺れる。
「まあ……どうもしないよ。サービス終了ってやつ。データも、いつか消されるでしょうね」
「じゃあ、死んじゃうんだ」
「死んじゃう?」
「うん」
それはちょっと可哀想だな。つまんだフライドポテトをそのままに、タイセイは手を止めた。
メタバース内とはいえ、人の言葉を操り、理解する動物たちを初めて見た時、驚きで全身が固まったことを覚えている。実際の動物と決定的に違うところへの違和感はあった。それでも、あの場所に『生命が存在している』感覚だけは、拭われずにずっとある。
再び手を動かし、タイセイはポテトを口に含んだ。中が熱い。大ぶりにカットされているせいか、ほっくりして食べ応えがあるけれども、おかげでなかなか冷めないようだ。
「死ぬ、って、タイセイはあれを生き物だと思うのね」
イナの目は、ポテトからハンバーガーへと狙いを移して、包み紙を両手で支えるように持つ。チェーン店の商品よりひと回り大きいハンバーガーは、三角形に折り曲げられた包装の中に鎮座していたが、「おいしそー」という感想とともに噛り付かれ、その輪を失った。
「だって姉ちゃんは、そう思って作ったんでしょ」
イナが、少し目を見張った。考えるかのような素振りを挟んでから、「ただのデータよ。仮想空間のさ」と答えた。
「姉ちゃんが、わけもなく『ああいうの』を作るとは思えないから」
「……なら、あったかな」
「何が?」
「永遠ってやつ」
タイセイから視線を外して、イナは外を見た。そうはならなかった結果を、思い出しているのかもしれない。
賞味期限の切れた動物たちが、誰にも大切にされず消えていく様子を、タイセイは想像する。ただ、消えるだけ。葬式も墓もなく、誰かに悲しまれることもなく、きっとすぐに忘れ去られる存在が積み上がっていって、氷山のように塊となって、影を作る。自分の背丈を優に超えた山は、タイセイがまぶたを閉じると、雪みたいにすうっと溶けてしまった。
離れ小島が、親に引っ付く子どものように、橋で繋がっている。
この場所は前にも来たことがあったけれども、変化した箇所もあって、その照合をするようにタイセイたちは観光した。イナが「日が暮れる前に海を見ておきたい」と言ったのは、目新しい店や改装された施設をひとしきり見終えたあとのことだ。
スニーカーに砂が入るのが嫌だ、ということで、砂浜には行かず防波堤近くから眺めるだけに留まったのは、タイセイにとって少し残念だった。少年なりに海を満喫したい気持ちはあった。しかし、この季節だ。三十度を優に超える気温が連日続き、歩いている間も汗が噴き出る。遮るもののない砂浜が熱いことは、彼らの想像に難くない。何の準備もせずに来たのだから、仕方がなかった。
コインパーキングに車を停め、防波堤沿いの歩道へ踏み出せば、久しい潮の匂いやうるさいくらいの波の音が、一層力強くタイセイたちに押し寄せてきた。
「うわっ」
「タイセイ、帽子飛んでいかないように気をつけな」
「わ、分かってる」
海風は髪を根元からかき上げる勢いで、迫りくる暑さを何とか追い返そうと躍起になっているようだった。ただ、湿気はあるものの強い風は、汗ばんだ肌を冷まし、火照りをなだめてくれる。その感覚に溺れないよう、タイセイは歩きながら両手を広げた。指の隙間で風をとらえるように、めいっぱい左右へ腕を伸ばす。
「鳥になった気分?」イナが目を細めた。「やっぱりまだまだ子どもだねえ」
「う、うるさいなあ」
「あーもう、やめずに続けて続けて。馬鹿にしてるんじゃないよ。素直にそうできる時間は短いぞー、少年!」
「誰の真似なんだよ、それ……」
「ふふ、どこかの誰か」
また、風が吹き抜けた。イナの、肩に届きそうな髪がぶわっと舞う。それを耳にかけ直しながら、彼女はタイセイの隣を進む。
海からこぼれた細かい砂が、歩道の至るところに散らばっていた。その上辺を踏むたび、じゃりじゃりとした感触が足裏に伝わってくる。小学校の校庭を歩く時とは違う感じもする――砂の種類が違うのかな。
「久しぶり、海」
「そうだねえ。昔、みんなで来たっけ? タイセイがもっと小さかった頃かな」
「母さんが休みの時だったよね」
「そうそう、だからあんた学校休んだの。その日、平日だったからね」
思い返せば、姉と出掛けるのは大抵、休日だった。
休日も仕事で不在になりがちな両親の、頼りの綱が姉だった。大抵は姉が自分の面倒をみていたから、時々母でさえ「タイセイはお姉ちゃんに育てられたようなものね」と言ってくる。でも、あながち間違っていないのではないか。そう思っているとは、さすがに両親の前では口に出せなかったが。
途切れ途切れの豪雨にも似た、ざあざあと波打つ音が、薄い水色の空一面にこだましていた。海面は夏の光を反射し、まだらに揺れる。その表面、ところどころでは水が押し合い圧し合いを繰り返し、そのたびに深い音が響いた。
「そういえばさ、海から生命が誕生したって知ってた?」
「うん。理科の先生が、なんか言ってた気がする」
「そっかあ」
「でも、よく分かんないよ。だから、僕に何か関係があるの? っていうか」
「ま-、そうだよねえ……でも、鎖みたいなものだと思えば、面白いかもしれないよ」
「くさり?」
「そう。すっごく極端に言えばさ、海がなかったら私たち、姉と弟じゃなかったかもしれないよ」
「え、それ、すっごく極端過ぎない?」
「あはは、やっぱそう? さすがにもう分かっちゃう歳かあ」
白波と白波の隙間に、イナの笑い声が飲み込まれていった。何が面白いのか分からないが、姉は「あのタイセイがねえ」などと言いながらひとしきり笑って、タイセイの向こう側にある海をまた眺めた。
その視線の先には、防波堤とテトラポッドに仕切られながらも、空と境目をともにする巨大な水の塊が漂っている。先が分からない、終わりの見えない海。永遠に続くような水のたまり場。それがタイセイには、まるで底なし沼のような、あるいは大きな空洞が待ち受けているような場所に思えた。寂しさをたたえて、彼の前に立ちはだかっている。
僕の先は、まだ見えない。
見えないのに、僕は進んでる。
「ねえ、あのさ、姉ちゃん」
「ん? なーにー?」
「いつか僕が大人になっても、また来ようね」
変わらないものはないって言ってたけど、また、来ようね。
タイセイの声に、イナの足が止まった。風で髪が荒れ、乱れるのを気にも留めない。ひとつまみ程度のオレンジ色を帯びた光を背負って、タイセイを見下ろす。
止まらない時の中で、吹き付ける風の中で、目を見張っていた。たった一瞬が、夏の光に引き伸ばされる。
「姉ちゃん?」
静かな影に、タイセイの首筋が少しひやっとする。問いかけに引きずられるように、波がざぶっと戻ってきた。
「何言ってんのよ当たり前じゃん! もう、驚かさないでよ!」
きんきんと耳が痛いくらいの声に、タイセイの身体が跳ねる。驚いたのも束の間、身体が締め付けられ、少年は身動きが取れないことに気づいた。イナが、しがみついてくる。それだけではなく、頬にふっと触れるもの、その柔らかさに驚く。
「うわっ! ちょっと! なに! 酔っ払いじゃないんだからやめてよ!」
「なにさ、ほっぺにちゅーなんて小さい頃何度もしてんだからね」
「言わなくていい、言わなくていいから!」
いつかこの手の大きさも、声も、考え方も、すべてが変わってしまうんだろうな。でもたぶん、きっと、姉ちゃんはずっと姉ちゃんでいてくれるよね。
もう一度手を広げ、タイセイは抱き返す。今しがたキスされた頬に、今度はイナの髪がふわふわ当たり、もぞもぞとくすぐったい。暑いのは同じはずなのに、彼女からは汗の匂いがしなかった。香水だろうか、花のような、少し甘い香りがした。
姉がしゃがみ込んだとて、その背中の真ん中には、もう指先が届かない。ただ、もっと幼い頃の自分がそうであったように、自分があるべきところに収まっているような気がした。
波の音と、姉の腕に抱えられて、タイセイは少しだけまぶたを閉じる。あたたかい。何からも守られているような感覚が、どこまでも続いている。
(了)畳む