から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

anonymous
・転生ぽいようなそうでないような。
・行為を匂わす表現を含みます。
・読み手を選びそうな内容ですのでご注意ください。
#サイテリ #現代パラレル

 不健康そうだな、と思った。一番最初に、彼を見た時だ。
 猫背で、手すりを前にだらしなく身体を預けている。日が暮れる直前の、夕焼けが染み込んだかのような服を着て、ふうっ、と煙をくゆらせていた。風がなくて静かな昼の胃袋へ、吐かれた煙がゆっくり拡散していく。それを眺めていた。講義前だった。
 一本どうだ?
 青年に声をかけられて、気付く。私は立ち止まっていたのだ。
「ああ、いや私は、吸わないんだ」
 そう手を顔の前で振ると、彼は「ふうん」とだけ言って、もたれかかったままで手招きした。小柄なのに態度がどこか尊大で、さながらライオンの子のような、可愛げがあるのに、迂闊に手を出すと噛まれてしまいそうな雰囲気をまとっている。
 しかし、その迂闊が、よもや私自身だとは思うまい。
 何かあるのだろうか。そうやって単に呼ばれたから近づいていったので、何も考えていなかったと言えばそれまでだが、私は小さな獣に歩み寄った。学内だから、とか、学生はみな真面目で素晴らしい精神の持ち主だ、などと油断していたのだ。
 青年の髪は脱色しているのか、一本残らず初雪のように白く、大丈夫なのか、と思った。何が大丈夫なのか、は分からないが。
 そうしてあと一歩で隣り合うというところで、突如、私の体は重心を失う。
 階段を踏み外したのかと思うくらい急激な落差。次いで、んぐ、と動物を踏み潰したような声が出た。正確には声になっておらず、息が逃げ場を失って悲鳴を上げただけである。
 シャツの襟元が、先ほど私を呼んだ青年によって掴まれ、引っ張られている。傍から見れば、私に掴みかかっているようにも見えるだろう。しかし喧嘩ではない、現に私は、彼の拳ではなく、唇を受け止めていたから。
 状況を把握するまでの間に――きっと一呼吸分だったと思うが――彼の唇の隙間から私の口内へ、煙が流れ込んできた。苦々しい。口から鼻へと抜ける匂いが。
 彼を押しのける。げほっげほっ、と情けなくむせた。喉が痛く、しかし少しだけ冷たくて(のちにそれがメンソールだということを知った)微々たる清涼感が舌に残る。
「いったい、げほっ、何を……」
 口元を拭う私をせせら笑うかのように、青年は、にや、と笑みを浮かべた。獲物を見定めたハンター、あるいは虐める相手を見つけた差別主義者のようだ。先ほどまで狩られる側だった動物が、今では狩る側に回っている。
「もっといるか?」
 無邪気で楽しげな声だった。
 結構だ! 立ち去りたくて踵を返す、それしかできなかった、秋口のある日。

 そんなことがあったのにもかかわらず、翌日、私は再びそこにいた。何故かと問われれば、通りかかったから、としか言えない。
 その場所は学内の端の、想定するに存在を忘れられたところにあって、その前を通らなければ目的の旧書庫に行けないのだ。旧書庫は私の活動拠点のようなものであるから、つまりその忘却の関所を越えないと、私は講師の仕事ができない。
 仕事ができず困るのはもとより、見知らぬ学生から嫌がらせ(と思っている)を受けて、私は講師といえども自分の立場を踏まえて青年を指導せねばならない、という使命に駆られていた。
 よって昨日と同時刻、その場所で待つことにしたのだった。
 改めて見ると、何もない場所である。
 人が四、五人いれば肩が当たってしまうくらいだ。手すりの下のほうには、雑草が有り余る生命力を声高に叫んでいる。灰皿もないことから、ここは喫煙所ではないのだろう。単なる隙間、忘れ去られた空白。欠落したページのように、ひっそり隠された場所。秘密基地のようだ、と子供じみたことを思う。
 ベンチなどあるわけがないので、昨日の青年同様、手すりにもたれて待っていた。
 しかしながら待ち人来らず。仕事もあるので、その日は一時間待って切り上げた。
 世の誰もが律儀だと笑うだろうが、次の日も、またその次の日も、関所を通過するたびに一時間、休憩と題して待っていたのだが、私以外の何者も来なかった。そもそもこのスペースに気付いたのも青年がいたからであって、それまで幾度となく通りかかっていたにもかかわらず気付けなかったのだ。私が気付かなくて、他の人間が気付けるだろうか? 旧書庫に立ち入ること自体が珍しいというのに。
 そうやって半月ほど、ねじ巻き人形のように、同じ行動を繰り返していたところである。
「……あんたか」
 やってきた青年の、まるでそこらへんの虫を相手にするような声に、少し落胆した。もしかしてここは青年の隠れ家で、占領されて気分を悪くしたのかもしれない。ならば失礼を詫びるべき――なのだが、その前に言っておかなければならないことがある。
「キミ、先日の行為は何かな」
「先日?」
 青年は視線を宙へと向けながら、ああ、と言った。「別に意味はない」その回答を腹立たしく思ったのは、齢三十年の大人にしては狭量すぎるだろうか。
「ああいうことは、見知らぬ人間にするものではないよ」
 手を差し出す。「一本くれないか」投げやりな言い方になったのは自覚していた。
「嫌煙家なんじゃないのか」
「そこまでは言っていない」
 嘘だ。私は煙草を好まない。匂いが身体中に染み付くし、煙は本をけがす。
 だが、一矢報いてやりたい、という塵芥以下の矜持が、私を駆り立てていた。
 青年が数歩近付く。黒いパーカーのポケットから小箱を取り出し「ほら」と差し出した。一本拝借。同じく渡されたライターで火を点ける。……すべて、先日見た映画の記憶をなぞったのだ。役者の猿真似だが、こんなところで役立つとは、つまらなくとも観た甲斐があったというもの。
 頑張ってくれ、私よ。
 慣れた風を装って、すうっと、煙を吸い込む。苦い。まずい。ああ、吐き出してしまいたい、今すぐ全部。
 むせる直前、青年の胸倉を掴む。相手は、勢いよく引っ張られバランスを崩す。その背を支えて(そうしなければ目的を達成できないので)先日の仕返しだと言わんばかりに口を合わせた。あたかも救助活動の人工呼吸で、その他一切の感情が入る余地などなく、ただ無理やり煙を与えるだけの行為。説教するだとか他にもやりようがあったはずであるのに、こうしたのは、目には目を歯には歯を、という昔の教えに従ったからだ。
 彼が私を押し返す。思いのほか強く、触れた背中は服越しでも分かるほどしっかりとしていて、人を見かけで判断してはいけないな、と自省した。
 ふうっ、と肺の中身をすべて出し切ってから、彼を解放した。まさしくこれは仕返しである。ぎらりと私を見上げる青年の悔しそうな目つきに、溜飲が少し下がった。
「分かるかな。キミにこうされて、とても苦しかったんだ。息が、まったくできない」
 そう述べると、眼前の視線が鳴りを潜めたように落ち着いて、ぱちぱちまばたきを繰り返す。そのまろい緑色が見え隠れする様が、まるで星の点滅のようだ。長い前髪に隠れて片目分しか見えないのが、少し残念だった。
 けれども直後、にや、とあの不敵な笑みを浮かべて、前言撤回。先ほどのは点滅ではなく秒読みなのだ、と思い直す。
「もっといるか?」
 ああ、地獄行きへのカウントダウンが始まった。



「テリオン、いつもの」
「俺はバーテンダーか」
「ある意味的を射ているね。私が注文すれば、キミは欲しいものを出してくれる」
 ソファに寝そべっていたテリオンの、じと、という視線が投げられた。それを右から左へといなす。
「一五〇点てところか」
「なんだい?」
「おたくの点数」
「それは何点満点で? 何が基準なのか教えてくれたまえ」
「さあな。……ほら」
 呼ばれて駆け寄った私の髪を、彼の手が梳いた。ペットをあやすような手つきだ。
 それから髪へ、頬へ、唇へキス。触れるだけのキスは、物足りない。
「満足か?」
「うん、とても満足だとは言えない」
 言うと、彼の目がさらにじとりとした。呆れられている。
 あれから間もなく知ったことだが、彼、テリオンは学生ではなかった。大学の授業を無断聴講していた一般人だ。
 どうしてあんな場所にいたのか、と問えば「用事があった」とのこと。その用事が何なのか、教えてはくれなかった。私達は――厳密には、私が彼を呼び『相手をしてもらっている』間は、そういう野暮な話は無しにしている。
 テリオンが何をしていて、どう生活しているのか、詳しく知らない。彼の私生活について知っているのは連絡先くらいで、呼べばいつだって来てくれる。連絡しても返事はない。だが彼は必ず来る。そういう間柄だった。
「左様ならば」
「……なんだ?」
「という挨拶がある。ある国の、別れの挨拶だ。今では『さよなら』と言われているらしいが、これは後に続く言葉が省略された形で、『左様ならば』何々、という意味だそうだよ」
「だから?」
「別れの挨拶なのに、続きがあるなんて、情緒的だと思わないかい」
「別に。挨拶はただの挨拶だ」
「キミらしいね。さて、テリオン」
「……どうした、改まって」
「左様ならば、セックスしよう」
 馬乗りになって、彼へキスをした。
 つまり、私は彼にずぶずぶ嵌まった、駄目な大人に成り下がったわけだ。

 彼の肉体は洗練されている。小柄ではあるが筋肉がついていて、触れるとしなるような弾力がある。私は彼の肉体に触れている時、あたかも芸術作品を鑑賞しているかのような奇妙な感覚に陥る。深く鑑賞すればするほど、さらに美しさが増すように思えるのだ。
 嫌がらせのキスをきっかけに、彼は私に会いに来ることが多くなった。というのは私の贔屓目だろうか。ともかく、私があの『空白の空間』に滞在中に、彼の来訪が重なることが増えたことは、紛れもない事実だった。
 最初は憎まれ口をたたいたり、他愛もないことを話していた。煙草に詳しくなかったので、銘柄や種類について訊ねてみたり。次には、この場所を知った経緯を。他には、ただよう金木犀の香りについてだとか。
 それから、何故授業をひっそりと聴いているのか。本校でなくとも、知識を得る場はいくらでもあるのに。
 訊ねると、彼はこぼした。
「知る必要があるから」
 思い出話をしているかのように、柔らかく、思慕に満ちた声で、何かをなぞっていた。
 その先には、何が見えているのだろう。何に対しても興味がなさそうなキミに、そんな顔をさせるのは誰だ? 私のあずかり知らぬ恋人か、もしくはこの世の機巧か。
 嫉妬した。
 嫉妬して、割り入ってしまいたかった。彼の表情を、私でも変えることができるのか試したかった。
 思ったら、止められない。人間は生きている限り、自らの内なる声に従い行動する生物だ。それが欲に塗れたものであればあるほど、障壁は低くなる。
 そんな目で見るな。
 そう言われて初めて、自分がいかに彼を見つめていたか気付いた。
「……私は、どんな目をしているかな」
「俺とやりたそうな目」
「冗談を。そもそもキミは男性だ」
「なら、試してみればいい」
 またあの笑みで、彼が私を捉える。
 証明してみせろ。
 その声に導かれ、彼に近寄る。催眠術でもかけられたような気分だった。手を動かせ、俺に触れろ。そんな声さえ聞こえる。気が付けば、何度も口付けていた。口付けたあと、自分の愚かしさに辟易した。あの『煙の交換』以来のそれは、相変わらず苦々しく、動物の交尾のように激しく、絡ませてくれる舌が底抜けに気持ち良くて、はっきり言って真っ昼間から非常に欲情した。
 おさまらなくなった私の欲望を笑いながら、彼の目が楽しそうに弧を描く。
「もっといるか?」
 私は望んで、今のような関係に持ち込んだのだ。

「今度、私の講義を聴いておくれよ」
「は……?」
 裸になった彼の、首筋から耳の後ろへと指をすべらせる。私の下で、身をよじるテリオンのうなじを舐めると、う、と短い声が上がった。
「キミ、一度も聴いたことがないだろう」
 知っていた。テリオンが私の講義にだけ、足を運んでくれないことを。
「こういう関係の人間を出席させるのは、歪んだ性癖だと思うがな」
「はは、そうかもしれないね。講義中に、キミばかり見つめてしまうかも。授業にならない」
「そんなだから、行かないんだ」
「でも、どうしてだい。考古学は面白みに欠けるのかな」
 その理由を知らなくとも、私はこれからも同じような関係を続けるだろう。しかし今日は、なんとなく訊いてみたいと思った。外は今朝からずっと雨であるし、テリオンは来ると決まって、一晩だけであるが、私のマンションに泊まっていく。きっとこのあとも、私に抱かれて、そのまま眠ってしまうのだろう。彼の事情を探りたかったのではなくて、起きているうちに、もう少し会話をしたかった。その延長線。
 だが失敗した。それ以上は何も言わずに、ただ私を抱き寄せ、柔らかなキスを恵み、彼は言う。
「知らないほうが良いこともある。そう習わなかったのか? なあ、『先生』――」
 そういう、底知れぬ湖のような存在だから、私は彼から逃げることができない。
 彼を抱いている間、私は地獄の中で喘いでいる。だが同時に、私の心にはある種の幸福が去来していた。テリオンを前にすると、何もかもほったらかして彼を存分に味わいたいような、貪りたい欲求と、私にだけは特別な何か――感情だとかを持ってほしいと切望する。そこへ、何も望むべきではない、と冷静な自分がやってきて、沸騰した湯の中へ大量の氷をどばどば入れたような、混ぜこぜの感情に溺れてしまう。みずみずしく甘い果実の表皮を愛撫しながら、頬張り、溢れ、滴り落ちる一滴一滴までも味わいたくなる。
 私達は明日もこうしている。多分、恐らく。
 では、その次は?
「……テリオン、太陽はね、あと五〇億年と少しで、なくなってしまうんだよ」
 身体中に熱が駆け巡り、暴れるのを抑えながら、ふと、先日読んだ本のことを口にした。太陽の寿命は、そろそろ折り返し地点に差し掛かっている。
 太陽がなくなるその頃には、当然私達は存在せず、地球もどうなっているのか分からない。けれども太陽が、世界が、我々が消えてなくなってしまっても、テリオンとは――なんだろうか、私は。何を望んでいるのだろう。
 彼は、呼吸を荒くして私の欲に応えている。茫々とした瞳に、果たして私は映っているのだろうか。萌ゆる緑の色は濃くて、その奥を覗き見ることが叶わない。
「そんなことより、早くいけ」
 ごもっとも。



 止まれ、お前はいかにも美しいから。
「なんだそれは」テリオンが隣で呟く。喉を疲弊させた後の、掠れた声も好きだ。こうして月に数回、彼と自堕落な日を過ごすようになって、一年ほど経つだろうか。相変わらず彼は来てくれる。反対に、彼から呼ばれたことは一度もなかった。
 それを打ち消すように、あるいは少しずつ冷えつつある世界を押し返すかのように、私は彼を抱いた。
「『ファウスト』の……ええと、ゲーテという文豪が書いた長編作の、一節だよ。ある男が、時、つまり今この瞬間に向けて言った台詞だ」
「……知らんな」
「ファウストは、悪魔に対して魂を売る契約を交わすんだ。私がある刹那に向かって、『お前は美しい』と言ったならば、私の魂を刈ってもいい、滅びてもいい――とね。引き換えに、自分は若返って人生をやり直すのさ」
「人生を、やり直す、か――」
 おや。
 テリオンが興味を持ってくれたのが嬉しくて、私は続ける。
「現実には、時は止まらないのだけれどね。ああ、時間と空間についてはアインシュタインの相対性理論が有名だが、それには特殊相対性理論と一般相対性理論の違いから話したほうが」
「長くなりそうだ、やめろ」
 これは、と思ったが、私の悪い癖が出て、すぐに打ち切られてしまった。
「……ああ、どちらも非常に長い話になるからやめておこう」
「そうしてくれ」
「しかし今キミは、新しいことを二つ知ったということだね」
「そうなるな……なんだ」
 ふふ、とつい声に出して笑ってしまったので、テリオンが眉をひそめた。「キミを笑ったのではないよ、拗ねないでおくれ」頭を撫でると、目を細めてそのまま枕へ突っ伏す。
 私はいま、自分の一部を彼と積算し、新たな共通項を創り出したのだ。これが嬉しくないわけがない!
 人はみな、異なる領域に描かれた円環だ。一つとして同じものはない。彼もまた、私と違う場所に描かれた円であるが、その一部分はさながら論理積のように重なり合っている。時間や会話がその代表だ。異なる円がふたつ寄り合う瞬間に、私は彼を知った気になれた。歓喜した。
 ――ここ最近、キミと過ごす時が永遠であればと思うことがある。そう言ったら笑うだろうか。
 まるで私は、あの作中の、悪魔メフィスト・フェレスに魂を売るファウストだ。この時を享受し、手中におさめることができるなら、魂など易々と受け渡すだろう。ただしその時、筋書きどおり、刹那が最上に美しいものでなくてはならない。であれば、最上に美しい刹那とはいつのことを示すか? 答えてみよ。
 全てだ。
 全ての時は美しい。テリオンの存在が、時の輪郭を鮮明に浮かび上がらせる。時間が一瞬間の連続であるならば、それらは七色にきらめきながら途切れなく降り注ぐ、スペクトルの雪だ。彼は未来永劫触れることのできない理を、プリズムへ経由させたように可視化して、私へと差し出してくれる。
 それを手にできることの、なんという幸福感。
 最初の頃に感じていたものとはまるで違って、夢魔が女神へと生まれ変わるかのごとく鮮やかに変貌し、私の前に現れた。私はその手から幸福を受け取り、咀嚼する。テリオンといる時、毎度そんな感覚に襲われて、私の精神はいつもおぼつかない足取りで彼を求めていた。
「あんたは、いつもそうやって何か言ってるな。こないだは、理想郷の話をしていた」
 くぐもった声で、テリオンが話す。
「ユートピアのことかな。トマス・モアの」
「それだ。……まるで、この世のすべてを知っている、って感じだ。生き字引とは、あんたのことかもな」
「嬉しいことを言ってくれるね」
 事実、嬉しい。テリオンは私の話に興味がないのではないか、そう思っていたから。
「こんなことが、嬉しいのか」
 うつ伏せのまま顔だけ向けて、テリオンが訊ねた。頷きながら、剥き出しの肩へとブランケットを掛けてやる。包まる彼の、少し幼く見える表情が、それを見れることがまた嬉しかった。
「キミが覚えていてくれることが嬉しいんだ。私の言った、キミにとって価値のない事柄であっても、キミの中に残しておいてくれたことが」
 そう言った時、彼の目尻に、再びあの感情が滲み出た。私ではない誰かを見ているあの色合いが、彗星のように表れて、瞬く間に消える。
「……そうか」
 消えたその破片を探して、彼に訊ねられれば良かったのかもしれない。背を向けた彼を、抱き締められれば良かったのかもしれない。
 だが私には、彼がそれ以上の重なりを恐れているように見えた。それが私の手をためらわせた。私の講義にだけは来てくれない、その理由を訊ねた時、僅かではあったが同じ感情を浮かべていたことを思い出す。
 目尻からこぼれ落ちそうなそれを舌で拭ったら、その正体を掴めるのではないか――想像するが、ありていに言えば勇気がなくて、またそれ以上知ってしまえば、もう会えなくなるような予感がした。
 ファウストのように、すべてが終わって、時計の針が落ちる気がしていた。

 翌日。テリオンが帰ったあと、仕事関係のメールをチェックした。すると、友人から久方ぶりにメールが届いており、驚く。
 本文には、ユキヒョウ保護活動についての進捗報告と、人手が足りないとのこと。
『――こちらは警戒心の強いユキヒョウになかなか接触できないでいる。人が立ち入らない場所に生息していることもあって、毎日が開拓者の気分だ。
 だが密猟者退治に必要な車両を、あなたの知り合いが寄付してくれたおかげで、移動も監視もしやすくなった。
 私のことを紹介してくれてありがとう。感謝する。
 ところで前述の件だが、私の所属する団体で職員の欠員が出た。誰か心当たりはないだろうか?
 常勤でなくてもよい。ただ必ず、尻尾を巻いて逃げるような輩ではないこと。もし候補者がいれば連絡を求む。
 敬意を込めて ハンイットより――』
 ハンイット君は、海外を拠点にユキヒョウ保護に尽力している獣医学者だ。以前、動物の化石について研究をしていた折に知り合ったのだが、若くして博識で、動物への愛にあふれた、何よりその勇敢さ(特に眼光の鋭さに表れていると思う)を持つ彼女には敬服せずにはいられない。
 昨年からはユキヒョウの生息地近くに拠点を構え、時折メールで報告をくれる。現地は辛うじて回線が繋がっているエリアがある程度で、不便な地を行き交って遊牧民のような生活を送る彼女は、いつ帰国するか分からない身の上だった。
 次に戻ってきた時には、テリオンの話をしようか、と思った。無論、彼との関係をどうのこうの告白するつもりは毛頭なくて、欠員補充について、もし私でも良ければ挙手する、という話だ。
 かねてから、私は動物考古学をより深めたいと願っていた。動物考古学は、古き時代の人々を知るために大変良いアプローチ方法である。人間についてより深く知ること。それはどこか、私自身を知ることのように感じられたから。
 我々は何処から来て何処へ向かうのか。そんな名画があったな、と思い出しながら、ブラウザで地図を開く。
 ハンイット君の活動拠点を検索、表示。
 そこからそれほど遠くない(と言っても車と飛行機での移動が必要だが)場所に、大きな自然保護区がある。前々からそこの発掘調査に興味があった。現在、私が時間にそれほど拘束されない、講師職で働いている理由でもある。来年には講師を辞めて、発掘調査へ加わりたいと考えていたところだ。
 それがテリオンと出会うまでの、私の未来絵図だった。
 今は、テリオンを置いて去るのが、心苦しい。勝手なものだと思う。
 私が去ったとしても、彼は一人ではないかもしれない。私のもとから家へと帰ったら、誰かが待っていて、その誰かと過ごしているのかもしれない。
 私に抱かれた身体で、誰かを抱くのだろうか。
 私がいなくなったら彼は、またあの忘れ去られた場所で、ぼんやりと一人過ごすのだろうか。
 次々と浮かび上がる想像図の、そのどれもが私に嫌悪感を抱かせる。
 私の中に停滞する感情は、間違いなく、彼に惹かれていることを裏付ける。まさか欲望が化学反応を起こして、恋愛に変化したであるとか、そんな訳はない。
 肉体関係があろうがなかろうが、きっと私は、彼を強く求めたのだろう。
 引力に従って林檎が落ちるように、あるいは明日が必ずやってくるように、疑いようもない自明の理として、彼に引き寄せられる。こんなことは、溺れた者の世迷い言だろうか。
 椅子に体重を預けて、目を閉じる。するとすぐさまテリオンが浮かんで、私の誘いに手を伸ばす様が投影される。コマ送りの映画のように次々と場面が切り替わって、次はベランダで煙草を吸う姿。その次は、私のマンションから出ていく前に、一杯だけコーヒーを飲んで休む姿。その次は、私のつまらない話を聞き流しながら、小さく相槌を打つ姿――。
 思い出すたびに、彼が、非常に思慮深い一面を持っていることが分かる。
 自分から踏み込んでこないのは、人との距離の取り方であったり、何処まで踏み込んでよいかを思案しているからだ。縄張りに自分が入れるかどうかを、ゆっくりと、慎重に確認している。
 彼は常に思考実験をしながら、私と向き合っているのだ。
 そこには必ず線引きがされていて、私達はそれぞれの国境を飛び越えることなく、互いの手の内を探り合う。私はテリオンのことを、テリオンは私のことを考えながら行われるそれが、嬉しく、心地よい。
 けれども、今なら。
 その向こう側――最も深い彼だけの領域――へと、手を伸ばしてもよいのではないか。許してくれるのではないか。その次、その次、と望んでしまう私を、受け入れてくれるのではないか。そう信じそうになってしまう。たとえ都合の良い、でっちあげだとしても。
 だからこそ彼には、どうしても、口に出せなかった。キミを離したくない、だとか、私の恋人になってほしい、だなんて言葉を、欲から手を出した私が言える立場ではない。それでも彼といたくて、そのままずるずると続けてしまって、この体たらく。
 自分が吐いた息は、予想以上に深いものとなった。振り切るように、メールの返信画面を起動する。
『私で良ければ挙手する。しかし、心残りがある――』
 物語には、いつかピリオドが打たれるものだ。私は書き始めてしまった彼との関係に対して、うまくピリオドを打てるのか。それとも。



 かぐわしい香りが、店を満たしている。だが私の指はこれっぽっちも動かなかった。銅像のように固まって、目の前に置かれた鹿肉をじいっと眺めている。
「あなたのそのような表情は、久々に見る」
 ハンイット君が、皿の上で鹿肉のローストを一口分、綺麗に切り分けた。ナイフの使い方を知り尽くした手だ。口に運んで、「うん、美味しいぞ」と満足げに微笑む。艶やかな髪を三つ編みに束ね、グレーのパンツスーツを着こなす彼女は、さながら歌劇の主役のようだ。
 その前でくたびれた男が一人。
「それで、本気なのか」
「……え? 何がだい?」
「うちで働くという話だ」
 そうだった。
 ハンイット君に返信した直後、「来月一時帰国することになった。師匠が帰ってくるらしい」と再度連絡があったのだ。師匠というのは彼女の、文字どおり師にあたる男性で、彼女とは別の国で狩猟生活をしていると聞いた。その人物は滅多に帰国しないので、この機会を逃すまいと彼女も帰国を決断したらしかった。
 そのついでに、食事でもどうか、と誘ったのだ。まだ、テリオンに告げる前だった。
「本気、だったよ。キミにメールした時は」
 三日前のことを思い出すと、心臓を握りつぶされているかのように苦しくなる。

「終わりにしようと思うんだ」
 いつも通り、呼び出した私の部屋。その前の、玄関口。靴を履いたままのテリオンが動きを止めた。
 ああ、言ってしまったな。
 口にした瞬間、苦々しいものが広がった。煙草の味よりも不味く、飲み込むことが難しい、嫌な味だ。
「……ああ、もう飽きたってか。分かった」
「そういう意味ではないよ」
「なら、どういう意味だ」
「今度、海外へ行くんだ。長期間。新しい仕事でね」
 断定表現にしたのは、自分への戒めだった。中途半端なままでいる自分を叱咤するためでもあった。
 けれども後悔した。テリオンが眉をひそめ、目を伏せたからだ。私にとってこの上なく衝撃的だった。彼のそのような表情を見たのは、これが初めてだったから。
 裏切られたような、絶望したような、宝物を失ったような。
 直後、見間違いだったのかと思うほど、瞬きしている間に、彼は先ほどまで表れていた表情を隠した。ただ「そうか」とだけ呟き、空気を震わせたかどうか分からないほど、微かな声を出す。
 あんたも俺を置いていくんだな。
 聞き取れたのは、私であったからだろう。その一言が、雨の雫が落ちて水たまりに波紋が広がるように、私の中をぐわんとかき乱す。
「どういう意味だい」
 今度は私が聞き返す番だった。しまった、とばかりにテリオンは顔を背ける。
「何でもない」
「何でもないわけがないだろう」かぶりを振る彼の腕を掴む。「放せ」「テリオン!」何故キミはそんな顔をするのか。今にもわあわあと溢れそうな心を抱えて、どうして一人で。
「放せと言っている!」
 より強く振りほどかれ、その反動で一歩下がる。
 彼を見る。あの目だ。
 彗星が降ってくる。
 キミはいつもひとりで、誰を想っているのだろう。私の奥に、別の誰かを透かして見るような、その目を見るたびに私は寂しい。
「――いつだ」
「え?」
「いつ、出発する」
 怒っているのか、低い声だった。ライオンが唸っている。彗星は消えてしまった。
「あ……ああ。一か月後だよ」
「分かった。見送りはしてやる」
 それだけ言って、テリオンは玄関のドアノブに手をかけた。「待ってくれ、まだ話があるんだ」「俺にはない。じゃあな」扉が開き、彼が出ていく。ゆっくりと閉じられ、遠ざかる足音のあとに、がちゃん。幕切れの音がした。
 私はピリオドすら打てなかったのだ。
 私は私を、どう説明すれば良かったのだろう。私達の関係を、どう区切れば正解だったのだろう。
 彼とは、さよなら、だけではいけないのに。
 左様ならば、左様ならば――。
 別れの言葉を反芻する。続けることは難しい。
 円が交差し、そのまま進めば、いつか離れる。離れるときはいつも、さよならだけで済ませたものを。

「心残りがあると言っていたな。今は?」
 ハンイット君との問答は続く。
「今も。……迷っていると言ったほうが、正しいんだろうね。すまない」
「あなたにしては、はっきりしない物言いだ」
 また一口、肉を食す。その所作の美しさたるや。しかし、指先にはいくつもの生傷があった。手首からは包帯が覗いている。彼女の普段の生活が、私といかに異なるかを示している。
「その『心残り』とやらは? 迷っている理由はなんだ?」
 即答できなかった。彼女と会ったら話そうと思っていたことがあったはずなのに、どれも説明し始めると陳腐な与太話になってしまいそうで、口にできない。
「無理に問い詰めるつもりはない。ただ、生半可な気持ちで来てもらっては困る。お互いの幸せのためだ」
「幸せ、かい」
「そうだ」
 彼女のフォークが、鹿肉の表面をつい、と撫でた。
「私は動物を保護する職業に就きながら、今、動物を食べている。これは矛盾した行為だと思うか?」
「いや、生きるために食すのだから、仕方のないことだと思うよ」
 小さく頷き、彼女は続ける。
「ユキヒョウは保護すべき種だが、一方で家畜を襲い、害獣として扱われている地域もある」
 また一口、切り分けられた肉が彼女の口元へ運ばれる。噛み砕かれて、彼女の中へ飲み込まれていく。
「私が思うに」
 ナイフとフォークを置き、彼女の口が、子供を窘めるかのごとく呟いた。
「価値は人それぞれ異なる。立場が変わればその重みも変わる。一辺倒で答えは出ないものだ。時々あなたは、考えすぎる節がある」
 学者とはそういうものか? 腕を組んで、ハンイット君は、ふう、と溜息にもならない息を吐いた。
 けれどもその言葉に、忘れていた原理原則を思い出す。
「――キミの言わんとしていることが分かったよ。何事も多角的に見なくてはいけない。それが思考の基本だったね」
「そういうことだ」
 彼女が「うむ」と頷く。
 例えばここにひとつの数式があったとして、その解もひとつしか得られないとする。イコールで結ばれる、数式の基本形だ。
 ここへ、私と私の幸福を、テリオンと彼の幸福を当てはめたら、果たしてその解はひとつだろうか?
 ノーだ。
 幸福には答えがない。数式は常に変化する。あてがう値も……まるでトリックアートだ。そんなものを、どうやってはじき出せばよいだろう? 私が幸福と感じるものが、テリオンのそれとは限らないのに?
 しかし、だからこそ私は、その答えを導き出したい。
 つまり、だ。
 考えていても仕方があるまい。こうして考えている暇があれば行動せよ。窮すれば通ず。
 失礼、とハンイット君へ断りを入れて、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出す。メッセージ画面を起動。見慣れた名前を選択。
『来週、出発前にキミと話がしたいんだ。一週間後の午前八時に、待っているから。』
 送信。
 返事はない。いつも。どれだけ待っていようとも。
 それでも彼はやってくる。何も言わず、ただ私に会いに来る。
 きっと、待ち合わせ場所に私がいなかったとしても、彼は永遠に待っているのだろう。私の部屋の前で、あの空白の場所で、待ちぼうけを食らったまま、ずっとひとりで。
 私は来週、この国を発つことになっている。
 それまでに、互いに手の内を探り合って、今度こそ私にカードを見せてくれるだろうか。

「時にハンイット君。幸福とはどういう状態を指すのだろうね」
「言葉遊びか?」
「かもしれない。キミはどう思う?」
 食事の終わり。デセールの最後の一口を頬張って、ハンイット君が答える。
「明日を欲すること」
 静かな言葉だった。古い詩を読み上げているようでもある。
「明日を、かい?」
「自然界では、動物はただ生き延びることを目的としている。幸せだとかそうでないとか、考えることはない」
「そうだね。ライオンは弱者を食らい、象はハンターから逃げる」
「だが人間は、思考する。今日が昨日よりも幸か不幸か、あるいは明日が今日よりも良い日になってほしいだとか。そう思うことが、既に幸福なのではないか?」
「成程。――そこに、自分の独りよがりで幸福を求める人間がいたら、悪だと思うかい」
「思わない。人は生来、幸福を追い求める生き物だ」
「思考し、悩み、後悔してまでも、明日を切望する、ということか」
 そう思い至って、私の中で、何かがすとんと腑に落ちた気がした。
「そうだ。……ん? なんだ、いつもの調子が戻ってきたじゃないか。何を迷っていたんだ? 『心残り』とは?」
「迷っていたよ。先ほどまではね。でも、解決した。キミに相談して良かった。自分で自分の首を絞めていたのだよ、愚かな男だと笑ってくれ」
「私は相談された覚えはないぞ」
 私の言葉に、ハンイット君は首をかしげるばかり。
 心底思う。人間はどうしようもない生き物だ。しかし、だからといって、それが幸福を求めない理由にはならない。
 私は、テリオンとの明日を渇望しているのだ。
「それよりも、ほら。肉料理も食べていなかったじゃないか。せっかく誘ってくれたのに。食べなければ、今日ですら生き抜けないぞ」
 手つかずのデセールとともに私を叱りつける彼女は、まるで母親だ。「ああ、すまない。気を遣わせて」まったくもって、申し訳ない。
 食べよう。来週には戦いが待っている。



 宣言どおり、テリオンはやってきた。いつもなら彼が部屋を出ていく時間、あの日と同じ夕焼け色の服が、朝日の中で彼を包んでいた。そこだけが黄昏だった。
 玄関先、動かず対峙する彼へ語りかける。
「テリオン、入っておいで」
 開いたままの扉が、空間ごと彼を四角く浮かび上がらせていた。そのまますっぱりと、私のもとから切り離してしまいそうだ。
「あんたはもうすぐ、飛行機に乗るんだろう」
 視線を落としたままで、彼が呟いた。ひこうき、という単語が、言い慣れないみたいに揺れていた。
「そうだけど、まだ時間はあるよ。私はキミと話がしたいんだ」
「前にも言ったが、俺には話すことは何もない」
「私にはある」
 テリオンの左手を掴む。そのままぐっと引っ張って、無理やり、私の縄張りへと連れ込む。
「おい!」
「すまない」
 後ろで扉が閉じていく。ぽっかり空いた縦長の長方形が無くなって、テリオンが私と同じ場所に立つ。がちゃん。開始の合図。
「――この一ヶ月間、考えていたんだ」
 私の円に彼の円が近付いて、重なる。
「キミは何故あの時、私に声を掛けてくれたのかって」
「あの時……?」
「キミと、初めて会った日だよ」
 フラッシュバックする。ぼうっと煙草を吸っていた、あの姿。煙を吐き出して、此処ではない何処かを見ていたキミを、どれくらい眺めていただろうか。
 キミはその煙で、何をかき消そうとしていたんだろう。
 テリオンは何も言わない。ただ、ずっと俯いていた。
 掌のなかの手首。こんなに細く感じたことが、今まであっただろうか。
「もし、そこに理由があったとして……だったら、何だって言うんだ」
 ようやく聞こえた声は、語尾にあの彗星の尾を引っ掛けているように思えた。「らしくもない」そう零す。
 私らしさとは、どんなものなのだろう。私という人間は、キミにとって、どんな存在に見える?
「テリオン」
 私という個体を映し出して、その湖の中へ引きずり込んでくれ。
「キミに私がどう映っているのか、知りたい」
 力を込める。彼が強張るのが伝わってくる。
「来月、一度帰国するんだ。その時に再び会ってほしい。今から私と、約束をしてくれないかい」
「約束……?」
「私はキミが、何処に住んでいて、これまで何をしていて、何が好きで、何が嫌いか。キミのことを、何も知らなかったね」
 それはキミのやさしさだったのかもしれない。でも、それでは私は、ずっと寂しいままだ。
 私はキミの後ろにたなびく光をたどりたい。その先でキミを探したい。
 あの日、キミが煙の向こう側へ見ていたものを、私も共に見たいのだ。
「戻ってきたら、会いに行くから。教えてほしいんだ。話をしよう、たくさん。その次も、またその次も、私と約束してほしい。だから――」

 だからいつか、その瞳が見つめる誰かへ、もういい、と告げられたら。
 私の手をとってほしい。
 その誰かに勝てなくともいい。
 私はただ、待っている。

「……あんたには、参った」
 はあ、と大きな溜息。そして、顔を上げたテリオンの瞳に、私が丸く映り込む。
 深い湖の水面へと、プリズムを通して、時が七色に散らばる。
「分かった。……約束する」
 降参だ。
 彼の身体から力が抜けて、私はやっと、掴んでいた手を緩めた。掌に鼓動が伝わるたび、つられて私の心臓も速くなっていたから、少し身体が火照っていた。暑いね、もうすぐ冬なのにね。そう苦笑すると、「それはあんただけだ」といつもの口調で受け流される。でも、その手は確かに熱い。
 テリオンと過ごせた時間は、私達の命の長さから考えてみれば、とても短い。
 だというのに、感傷のような、望郷のような、果てのない慕情が私の中に沸き起こるのは何故だろう。遠い国からはるばるやってきました異邦人です、なんてこともあるまいに。
 でも、もしかしたら、キミはずっと旅をしてきたのかもしれない。その途中の、あの場所で、私はキミと交差した。
 ならばその先を、私は追いかけたい。行先が地獄であるならとうに知っている。天国であるなら望むところだ。
 そうしていつか、最果てへたどり着けたのなら。私はようやく、キミへ伝えられるだろう。
「テリオン。私が以前、『左様ならば』という言葉について話したことを、覚えているかい?」
「……覚えている。それがどうした」
「そのあと、キミならばどう続ける?」
「謎掛けか?」
「キミの答えが知りたいんだ」
 少しばかり、沈黙。それから「ふむ」と独り言ちて、テリオンの口が弧を描いた。
「……『左様ならば』、」
 左様ならば。
 またな、サイラス。
 私の名前を呼ぶ声。その言葉が、ずっと前から欲しかった。



(了)畳む
蜃気楼
・サイラスに拾われたテリオン。
・在りし日の傍白。
#サイテリ #IF

 結局俺は、あんたを最後まで、父とも、兄とも、師とも、恋人とも呼べないままだったから、俺たちが一体どういう関係だったのかいまだに計りかねている。
 血のつながりがない分、人間は関係性に名前をつけたがる。これが自分達だけの問題ならまだ良かったのだが、他人から解答を求められるので面倒極まりなかった。
 ただ事実として、俺がいまこうして文字を書けているのは、ひとえにサイラスのおかげに他ならない。
 読み書きだけではない。生きるためのすべてを与えてくれたのがサイラスだった。俺にとってあんたは地図だった。星だった。真理だった。
 誰の目にも留まることはないだろうこれを、もし誰かが読めたとしても意味はない。誰もが信じず、誰によっても妄言にされるだけの、おぼろげな文字のかたまりだ。
 だから、飾りっぱなしで目もくれてもらえない絵のように、いつか褪せて忘れてもらいたい。そう願ってやまない。



 俺は死にたかったんじゃない。
 ごほごほと、苦い水を吐き出しながら言うと、男は胸を撫で下ろして「それは良かった」となごやかに述べた。この寒さに似合わない声だった。
 お互い濡れ鼠同然。側の川には氷が張っている。ついさっき俺が落ちたところは、見事な大穴が空いていた。月明りにかすんだ眼だったがそれだけは分かった、えらく真っ黒な丸ができていたからだ。
「しかし、とても冷たいね」
 真冬だからな。そして真夜中だ。
 膝をついて、男は俺の肩やら腕やらを手で払うのだが、全身が水びたしの人間にそんなことをして何になるのだろう。
「キミ、とにかく、あたたまらないと、ふたりともしんでしまうよ……はぁ、」
 さむい、とそいつは笑った。なぜ笑える余裕があるのか、とか、あんた誰なんだ、だとか、もう声を出す力がない。そいつの向こう側、濃い藍色のなかでちかちかしている星を見ているだけだった。
 なにせ俺はその時、空腹の絶頂だったのだ。

 見ず知らずの男は俺を引き摺って(本当にずるずると引き摺って行ったのでつま先が痛かった)家に連れ帰った。俺がそいつよりも背が低く小柄なので可能だったことだが、思い出すたびに、よくあのひょろい体でそんなことができたもんだと失笑してしまう。それくらい当時は今より貧弱な男だったのだ。
「橋の上から落ちたのを見た時はびっくりしたよ」
 何日ぶりかの湯を浴びたあと、俺を自殺志願者だと勘違いした男は苦笑した。「早まっちゃいけないね……ああ、私の思考のほうだよ」それは理解した。
 びしょ濡れになった服はどこかへ追いやられてしまった。代わりに何やらするするとした触り心地の服を着せられて、俺はベッドに寝かせられていた。もやのかかった視界には、積まれた本の数々に、うすぼんやりとした明かりだけが入ってきた。氷で打ったこともあって全身が痛く、そして相変わらず腹が減っていた。もう何日食ってないのか、覚えてすらいない。数えるのをやめたからだ。
 その空間は外よりは暖かかったが、ましという程度で、隙間風が入ってくるのか視界の端で紙が踊っていた。壁に貼り付けられたメモだろうか。今にも飛んでいきそうで、次に声が出たら「貼り直せ」と言ってやる。この何処か分からない場所で、誰とも分からないやつと、俺は何をしているんだろうか。
 ああ、寒いし痛いし、最悪だ。
 ぶる、と体が震えた。単なる反射的なものだったと思うのだが、男は「すまない、暖炉に火をつけていなかった!」と大声で叫んだ。うるさいやつだ。それからばさばさという物音――おそらく本が何冊か落ちる音――がして、何か見つけたのだろう、男は「あったあった」と喜びの声を上げた。
「――炎よ」
 ぼそぼそ何やら呟く声がする。と、突然、何の前触れもなく、視界の端がぽっと明るくなった。しばらくすると、ぱちぱちはぜる音が聞こえてきて、暖炉に火が灯ったのだと理解した。
 空間にぼんやり浮かび上がる男を見上げる。目がかすんでよく分からなかったが、悪意がないことだけは見てとれた。そいつは俺を殴らなかった(当時、俺の判断基準はそれだけだった)ので、自分は最低限身を守れる場所にいるのだと思うと、とたんに空腹より眠気がやってきて、瞼が重くなる。
「そんなに広くないから、暫くすれば暖かくなると思う。私は火を見ているよ。そのまま寝ていなさい」
 学者といってもまだ駆け出しだから、そんなに良い部屋には住めなくてね――男はへらっと笑った。よく笑う男だ。
「おやすみ、よい夢を」
 これが、俺が記憶しているなかで、最も嬉しかった言葉である。
 誰かにおやすみと言われて目を閉じることは、これほど胸が苦しくなるものなのか。頭の中が熱くなるものなのか。
 生まれてこのかた、おそらく十四年。人が安堵と呼ぶ感情を、この時初めて知ったのだ。

 俺がサイラス・オルブライトと名乗る男に世話を焼かれることになったいきさつは、三文芝居より仕様もない。
 幾ばくかの同情と、行き倒れの人間は放置してはならないという常識的観念に従って、俺を助けた。それ以外の何ものでもない。気まぐれに捨て犬を拾ったサイラスと、気まぐれな飼い主を見つけた俺。俺たちの関係ははじめ、それだけだった。
 もともと俺は、用が済めば部屋を、街を出ていくつもりだった。そもそも、誰かと共に居ることは、俺を否定することと同じだった。過去の「経験」が、それを受け入れがたいものにしていた――今でも、谷底の記憶がほら穴の中から俺を掴み、引きずり込もうとする。思い出したくなくとも、忘れることができない苦い味のせいで、自分を誰かと共有することを心底嫌っていた。
 けれども、人間は大なり小なり、誰もが事情を抱えているものだ。
 俺は眼前の課題として、生きるために、金と、飯と、雨風をしのげる場所が欲しくて、一方でサイラスは、しばしば無人となる部屋の管理人が欲しかった。
「だから私の部屋に居てくれないだろうか」
「あんたは馬鹿か」
 起き抜けに出されたスープは至上にうまかったのに、その味が吹っ飛ぶくらい意味不明なことを言う。空っぽの胃が久方ぶりに液体を与えられて、ぐる、と呻いた。思わず腹をさする。「もっと回復したらもっと食べられるよ。しかし少しでも口にできて良かった」俺のしぐさを空腹ゆえと思ったのか、サイラスは椅子に座ってうんうん頷いていたが、今その話はしていない。よく思い出すことだ。
 ベッドに腰かけて、目の前の男に向き直る。右側から陽が差し込んで少し眩しかった。それを受けて、男の束ねられた黒髪には光の帯ができていた。
「……あんたに、一応、感謝はしている」
 喋るくらいの体力はあるようだ。何も話せなくては何も伝えられない。
 ――俺は前の晩、あまりに空腹で足がもたつき、橋の上から落ちた。情けないこと、この上ないが。
 アトラスダムという大きな街があると聞いて、そこならばもっとましな物が手に入るのではないか(言わずもがな盗むことで)と思い歩いてきたのだが、寒さを防ぐものもなく、体は休息を欲しており、その結末として思考を放棄した俺は呆気なく川へと落ちたのだった。それを、たまたま通りかかったサイラスが気づいて助けた。調べ物で出掛けていた、その帰りだという。人として正しい行いだと考えてのことだろうが、真冬に、しかも氷の張る川へ迷いもせず入ってくるやつがいるか? 呆れて物も言えない。
 本題に戻る。
「で? なんで俺を住まわそうとする」
「さっき述べたとおりだよ。私は研究で、ひと月の半分もこの部屋に戻れなくてね。すると妙なことに、部屋の前にものが置かれていくんだ」
「もの?」
「ああ。果物とか、食事とか、時折金銭も」
 こいつは聖火神エルフリックか。いや、実際に貢ぎ物なのかもしれない。
「でも私はここに居ないから、受け取ることができなくてね。それに、誰からか分からないものを口にするのは、少々、……抵抗が」
 育ちの良い男なのだろう。俺なら遠慮なくいただくが。あまりの差に自分を鼻で笑って、それから言い放つ。
「あんたみたいな『大人』は、番犬がわりに子供を囲うのが普通なのか?」
 子供、という言葉に、自分で言っておきながらうんざりした。都合の良い時だけ子供扱いするのは、都合が悪くなった大人のやり口なのを、思い知っているからだ。
 困った風に腕を組み、サイラスは仰々しく、ううん、と唸ってみせる。
「あまり頼る人もいなくてね……それに、アトラスダムは治安は良い方なのだけれど」
 これは駄目だ、通じていない。
 空っぽのスープ皿を持ったまま、ベッドの上からそいつを観察した。
 昨夜は薄暗くてよく見えなかったが、なるほど良い面をしているなと思う。身なりもちゃんとしているし、本で埋め尽くされて狭いことを除けば、部屋には清潔感があった。しかし金になりそうなものは見当たらない。生活に必要な最低限の部屋という感じだ。
 食い物の貢ぎ物も、どうせこいつ目当ての女の仕業だろう。俺もここまで見てくれが良ければ自分を売って稼げたものだが――と、よからぬことを考える。
 金がなくては生きてはいけない。夢だけでは腹は膨れない。今日を生き延びる方法が必要だ……浅ましい盗人の餓鬼には、考えている時間があまりに少なかった。
 つまるところ、俺は、その誘いに乗ることにしたのだ。
「……いいだろう」
「本当かい!」
 ばっと身を乗り出したサイラスに思わず身構える。大人が急に動くのは苦手だった、そのほとんどに良い記憶がないから。軽く咳払いをし、気を取り直して言った。
「あんたには、まぁ……恩もある。ただし、俺は居るだけで何もしない」
「助かるよ! 家賃も勿体ないし困っていたんだ! 安月給だから出来ることは限られてしまうけれど、あ、そうそうまずこの部屋だが、居る間は好きに使ってもらって構わないよ! でも書物だけは捨てないように、」
「興味ない」
 切り捨てると、サイラスが固まった。この本の山が、こいつにとっては宝の山らしい。食えるわけでも金銀財宝でもないこれが。
 変わったやつもいたもんだ、と無言で皿を返す俺に「そういえば」と尋ねた。
「聞きたいことがあるんだ」
「なんだ」
「名前を教えてくれ」
 聞かれて、誰から貰ったのか知らない単語を返した。これが俺の名前であるかどうか知らないが、気がつけばこの名称で呼ばれていたので、名前として使っている。もし偽名だったとしても大した問題ではない。名前など値札と同じだ。
 なのに「テリオン、テリオン……」と何度も反芻するので、いたたまれなくなって、再びベッドへ潜り込んだ。
 三日後、体力が少し回復した俺を置いて、サイラスはとっとと出掛けていった。金目のものがないとしても、まったく警戒心のない奴だとため息をついて、この三日の間の出来事を思い返す。
 奴はよく話していた。ただし一方的に。俺の様子から話の半分も理解できていないとみると、今度は解説を始める。だから講釈は延々と長引いて終わらない。……覚書として、少し前まで死人同然だったことを書き添えておこう。
 これまで俺は、生きるために必要な文字――金勘定や数など、誤魔化されては困るもの――以外は読み書きができなかったから、サイラスが紙に書くもののほとんどが記号にしか見えなかった。その記号が記号ではなく、ひとつひとつに意味を持ち、つなげると言葉になる。言葉がつながれば今度は文になる。単にそれだけのことを、さも嬉しそうに話すものだから、おかしくなってつい戯れに「先生」と呼んでやると、奴は恥ずかしそうに「恐縮だ」と言った。



 奇妙な生活が始まったことで、俺は予定外にアトラスダムに居座ることとなった。
 サイラスは学院で研究をしていると言った。学院も研究も何のことか分かっていない俺に、またしてもありがたい授業が始まり、どういう存在か知ることになった。「今は助手みたいなものだけれど、研究の成果が認められれば教壇に立つことができるんだよ」そうかい、とだけ答えておいた。
 最初の宣言どおり、そいつは月の半分どこかに出かけていて、俺はその間の生活費として適当に金を渡されることで食い扶持をつないでいた。この金が多くもなく少なくもない絶妙な額だったおかげで、驚くべきことだが、盗みを働く必要がなくなり、来る日も来る日も暇を持て余していた。考えてみればあいつのことだ、すべてお見通しで金を渡していたのかもしれない。
 『番犬』がいるためか、少しずつ例の貢ぎ物も減った。つまりタダ飯が減ったので、渡された駄賃で好きな物を買い、好きなように食うということした。いたずらを覚えた餓鬼のように心躍ったことをよく覚えている。
 部屋はアトラスダムの端のほう、煉瓦造りの建物の二階にあった。時折、窓から街の様子を眺めていた。空に薄く伸びた雲の下、街の奥の、さらに奥のほうに大きな建物の頭上だけが見えていて、それがサイラスの働く場所なのだと知った時は、まさか貴族ではあるまいな、と疑ったものだ。
 無事、当面の衣食住を手に入れたわけだが、相変わらず部屋は片付かず(俺が片付けないので)床の見える部分は少なかった。出来ることと言えば、自分の獲物の手入れくらいか。それなのに、奴が出掛け、戻ってくるたびに物が増えるので、俺の領土は徐々に脅かされていく。侵略者は本だったり、植物だったり、時には石だったりした。
「なんだこれ」
「綺麗だろう? 化石だよ」
「宝石じゃないのか」
 夕焼色の小石をつまんで味気ない感想を述べると、奴は両手をあれやこれや動かして熱弁する。「その石の中にオルステラの歴史が描かれているんだよ!」正直言ってどうでもよかった。その頃、価値といえば食い物につながるかどうかであったので、売ったらいくらになるのかということしか考えられなかったのだ。

 季節が一巡りするまでに、ベッドがひとつ増えた。本の置き場が狭まったので、その次に棚が造られた。山積みの本がしまわれ、しかし空いた場所へすぐに新たな本が置かれていく。足の踏み場がなくなってくると、食事ですら立ってするほうが楽になってくる。ある時そうやって林檎を食っていたら、どたどたという音とともに部屋の扉が勢いよく開いた。
「テリオン!」
 サイラスにしては珍しく、走ってきたのだろう、ぜいぜいと息を切らしながら駆けこんできた。肩に羽織った黒いローブが、みっともなく着崩れている。
「あっ、こら、座って食べなさい」
「まだ学院にいる時間だろ」
 あんたのほうこそ食事中は静かにしろ。そう返すと「いや、それどころじゃないんだ聞いてくれ!」とせっつかれた。
「この間、出版社に投稿した論文が、金賞を取ったんだ! ほら、新聞に募集記事が載っていただろう? 嬉しくてつい学院を飛び出してきてしまった、キミに報告しなくてはと思ってね! 賞金も出るから、これで引っ越すことができる!」
 嬉々として叫ぶ男は今にも窓から飛び立ちそうだ。それは困る、俺の生活費が文字どおり飛んでいってしまう。――賞金とはいくらだったのだろう、当時聞きそびれたので結局分からずじまいだ。
「ここじゃ駄目なのか」
「駄目だよ。だってキミの部屋がないじゃないか」
「いらん」
「必要さ! だってキミは来年から学院に通うのだから!」
「寝言は寝て言え」
 あらかじめ言っておくと、この寝言がまことになることはなかった。サイラスはしつこく俺を学院に通わせたがっていたが、俺が断固拒否したからだ。
「キミくらいの年齢なら学舎に身を置くべきだよ」
「あんたは俺の親か?」
「ではないが、現実、保護者のようなものだから」
「あんたの物差しで俺を測るな」
 大人はいつも、きれいな箱に収めようとする。こちらの意思など無視して。それが嫌で、俺はいつも、何処からか、誰からか逃げ出していた。
「今度またその話を持ち出したら、俺は出ていく」
 その時アトラスダムに居たのは、『食う寝る生活』を送ることが可能であったからで、決してサイラスに情がわいたわけではなかった。自分にとって安全な場所が他にあるならば、出て行ってもかまわなかったのだ。
 犬に鼻先であしらわれ、飼い主は両手をあげる。
「……すまない、私が悪かった」
「分かればいい。それに、学院に通う必要なんてない、あんたが勝手に教えてくれるからな」
「なるほど、それは真理だね。やはりキミは賢い! 学ぶということは誰にでも開かれている門で、どこにおいても可能なことだ。大昔、とある哲学者は周囲の人たちへ疑問を投げかけ、対話を重ねた。場所など関係なかったんだ。学問の始まりは何でもない、疑問からなんだね。つまりキミが知りたいのであれば、」
「長い」
「……私はいつでも教えるから、いつでも訊ねてほしい」
「勝手に言ってろ」
 
 まさしく勝手に、サイラスの講義は突然始まり、突然終わるのが常だった。聞いてもいないのに、この世の理屈を語る。世界中の理屈を編纂したら、『サイラス・オルブライト全集』という本が出来上がるのではないかと思ったくらいだ。
 雨季に雨が降れば、なぜ雨が降るのか。
「この世界は奇跡がパイ生地のように折り重なって出来ている。あそこに海が見えるね? そこから蒸発した水分が空へ昇って雲になる。雲は雨となって、大地を潤す。染み込んだ雨水は海へと流れ込んで、またこの循環が始まるんだ」
「へえ」
 珍しく雪が降れば、なぜ雪は冷たいのか。
「雪は結晶の集まりだ。小さな粒がだんだん大きくなって降ってくる。その正体は氷と同じなわけだが、氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる。氷に触れる側、つまり人間のほうが温かい。その熱を奪われる、それが冷たく感じる理由なんだ」
「ほう」
 天の青さ、花の色、人の歴史。今まで俺が捨て置いてきたものを一つ一つ拾い上げていくように、サイラスの声が俺の中に文字を記す。文字は意味を持って知識となり、俺に語りかける。そのたびに無知を知った。俺が世界だと思っていたものが、どれほどせまっ苦しい枠組みの話であったかを。
 知らないということを知ることは最も尊いことだ。サイラスはことあるごとに、そう口にしていた。
「単に知っているだけでは、学んだとは言わないからね。さあ行こうじゃないか!」
 そして俺を色んな場所へ連れて行った。留守番はどうした、と聞けば「留守でいいんだ」と言う。「あんたそれでいいのか」「いいんだ」決まりきった問答が何度も何度も繰り返されて、俺は笑っていた。いつの間にか。
 無人の部屋をあとにして、俺達は馬鹿になったみたいに世界中を駆け回った。砂漠のはずれにある洞窟を探索しに。常闇の村に咲く珍しい草を見つけに。馬車で、徒歩で、どうやってでも辿り着く。くたびれたらそこら辺で休んで、サイラスの魔法で火をおこし、俺は寝床の準備をして、寝そべり、月を眺める。眺めているとサイラスがやってきて、天体について語り始める。弦楽器の旋律よりも、美女の匂いよりも効果のある眠り薬だった。
 旅先で見つけたものはどれも、俺にとっては取るに足らないものばかりだったが、高尚な学者先生にとっては違うらしい。日が暮れるまで座り込んで調べるなんてしょっちゅうで、そのたびに「先に宿へ帰る」と急かすが、何がそんなに面白いのか一歩も動かない。そうなれば石と同じ。力ずくで持ち帰るしかなかった。
 二年経っても、三年経っても、五年経っても、研究の手伝いだと言って俺を連れ出した。出来の悪い飼い犬に振り回されていたのに、月が隠れて太陽が昇るように、いつのまにか逆転し、俺がサイラスに振り回される日々。くだらない、なのにあっという間に時が過ぎていく。
 奴が居ない間は、置き土産の本を相手に時間を潰した。読める文字も多くなり、知ることにうっすらと楽しみを抱くことができたのは、『サイラス先生』の功績といえるだろう。あいつは本当に教師に向いている。論文の成果が認められて、学院でも教える側に立てた、と喜んでいたか。
 六年目になって、ついに奴は住まいを変えることを強行した。貯まった賞金で、思い出深い(皮肉だ)狭い部屋に別れを告げることを決めたのだ。この頃になると、貢ぎ物はまったく置かれなくなった。
「お役御免だな」独り言だったのだが、妙なところで几帳面な男は聞き逃さなかった。「何のことだい」「番犬業務のことだ」
 俺の図体はすっかりでかくなり、成人の歳になっていた。サイラスの背は到底追い越せそうになかったが、少しは伸びて、見た目ももう子供ではない。これならば仕事も見つかりそうだと踏んでいたので、アトラスダムを発って別の街へ行こうと算段していたところだった。
「キミにしては面白くない冗談だね」
「俺がいつ冗談を言った」
「キミがいなくなったら、私はどうやって洞窟の奥から戻ってくれば良いんだい?」
 ――そのとおり。こいつのわがままに付き合わされ、俺の役割はここ数年、座敷犬から護衛に変わっていた。何故ならばこいつは恐ろしいことに、魔法以外に身を守る術を持たない。魔力が枯渇すればひとたまりもないのに。どれだけ貴重な石を見つけようとも、俺に言わせてみれば「さあ強奪してくれたまえ」と差し出しているのも同然。同行している自分の身が危険にさらされるのは我慢ならなかったので、旅先では率先して戦っていたわけだが、結果的にサイラスを守ることになっていた。こいつは顔と頭だけは良いから、それすら戦略だったのかもしれないが。
「傭兵を雇え」
「嫌だな。それは私の主義に反する。研究の場に無粋な輩を招きたくない」
「俺は良いのか」
「勿論。むしろ何故いけないのか理由を知りたいね」
 さも当然とおっしゃる不遜な態度。「雇い主が私では不満かい」そういう問題ではない。しかし理屈をこねるサイラスを負かすのは、非常に骨の折れる作業であることを、俺は実戦で学んでいた。
「……犬は犬らしく、主人に従えば良いんだろう」
「おや、なんて良い子なのだろう! ご褒美をあげなければ! 何が良いかな? 新しい短剣にしようか。それとも魔術書のがよいかな」
「いらん」
 ああ、飼いならされた犬の末路だな、と思った。その後も相変わらず駄賃は支払われるので、俺はとうとう出て行く理由がなくなってしまって、サイラスが必要とあらば居てやらないこともない、と――そうやってごまかしているうちに、やがて陽が沈む。気が付けばまた、サイラスと同じ空間に立っている。隣を見ればそいつが居て、また俺を世界へと連れ出すのだ。
 思い返せば、この時既に気づいていた。俺の中で、ふっと息を吹きかければ今にも弾けてしまう、そんな正体不明の何かが膨らんでいることに。けれども蓋をして、隠しておいたのだ。知らないことを知っているのに、俺は知るのが怖かった。

 

 サイラスが発表する説は年々脚光を浴び、有名な賞を総なめにしていった。
 引っ越した先の一軒家の居間、二人ならば充分な広さの部屋に、沢山の見知らぬ奴らが何度もあふれかえっていた。集まれば即席の討論会が始まって、その様子はかつてサイラスの言っていた大昔の哲学者を思い起こさせる。なぞらえるなら、サイラスがかの偉大なる哲学者で、周りの奴らはその弟子だ。いつかそのうちの一人が、サイラスの名言集を発刊するかもしれない。だとしても俺は決して買わない。
 誰かと論戦でせめぎ合うのは楽しいようで、しばしば溌剌とした家主の声が響いたが、気分はすぐれなかった。俺の知らないそいつらは来るたびに、俺に一瞥をくれてから、まるで見なかったかのようにサイラスのことだけを視界に入れるようにする。早く捨て置け。幻聴は毎日俺の耳元で繰り返され、いつも俺を崖っぷちへと追いつめる――誰に言われずとも、俺が一番理解していた。
 俺を亡きものにしようとするそいつらがサイラスの教え子なら、俺は生徒でも、ましてや家族でも、何者でもない何か。誇れる過去もなく、輝かしい未来もない。ただ名前だけがある人間。
 ならば俺は何なのだろう。俺は何故ここに居るのだろうか。サイラスはいつも疑問を他人に問いかけていたが、俺が問いかけるのは、決まって自分に対してだった。
 あいつは学院で名を馳せて、どんどん偉くなっていく。いつも毅然と学問に向き合って、世界を知ることがいかに素晴らしいことなのか、少しでも俺に伝えようとしていた。学院の教職に追われ、家で講釈を垂れることが減っても、変わらず俺を連れてほっつき歩く。旅先から帰ってくれば途端に机へと一直線、よもすがらペンを動かすのがあいつの仕事。それを眺めるのが俺の権利。俺が耐え切れずに眠ってしまっても、ひたすら己の考えを形にすることに没頭し、朝になれば決まって「テリオンのおかげでまた良い題材が見つかったよ」と笑うのだ。俺は何もしていない、ただ付いて回るだけなのに、俺を連れまわすようになってからよくそう言うようになった。
 この頃までの出来事を思い出す時は、いつも、笑うサイラスの姿がある。水平線から世界が暴かれる瞬間のように、ぱっと眩しくて、そこらじゅうを照らすような空気に満ちていた。
 だが一度だけ、剣呑な雰囲気で学院から帰ってきたことがあった。俺を拾った時のサイラスと同じ歳になった、あの頃の、あの日のことは、述べたくない気持ちが強い。しかし、書き記すべきなのだろう。

「最悪だ」
 帰ってくるなり、開口一番、サイラスは低い声で言った。
「……どうした」
 短い言葉に含まれた、剣の切っ先のごとく尖ったものを、放っておくことができなかった。「ああ愚かしい」とぶつくさ言いながら、奴は荒々しく椅子に腰かけた。ここまで機嫌の悪いサイラスを見たのは、これが最初で最後だ。
 長い溜息をついてから、忌々しそうに口を開く。
「私の論文完成に、キミがどれほど貢献してくれているか。耳を貸さない人間ばかりで嫌になる」
 ああ、学院の奴らに何か言われたんだな、とすぐに察しがついた。そりゃあ、誰もが口をそろえて言うだろう。サイラス先生、何故あんな素性の知れない人間を置いておくのですか? 子供ではないのですよ、放っておきなさい。さっさと追い出しなさい、と。
 とうに日の暮れた空の向こうで、季節外れの遠雷が鳴っていた。この調子では夜中には雨になる。腹立たしさを隠さないサイラスと雷の音が嫌で、俺は柄にもなく奴を励まそうとしたのだ――それが失敗だった。俺は無知で、どの言葉がサイラスの引き金を引くか、分かっていなかった。
「あんたの周りには味方が山ほどいるってことだろう」
「けれどその誰ひとりとして、私を理解していない」
 悲しいことだね。本当に悲しんでいるとは思えない、冷えた声で言う。
 理解、理解か。人が本当に、誰かを理解できるものか。目に見えない、心とかいう代物を、どうやって解き明かすというんだ。そんなものは空論に過ぎない。もし、誰もが分かりあえていたならば、俺は今ここには居ないのだ。あの時――昔のことだが――谷底に落とされることもなかっただろうし、あんたに拾われることもなかった。
 思い出すと古傷が痛む。ああ、こっちまで気分が悪くなりそうだ。不機嫌な男の空気にあてられ、励まそうとした自分が愚かに思えた。俺は自分に苛ついていた。
「俺だって、そのひとりだ。あんたのことは分からない」
 サイラスはいつも正しい。正しくあろうとする。
 だが、あんたの正義はやさしく俺を追いつめる。今か今かと、奈落へ落ちるかどうか見張る観衆を背負いながら、審判のあんたは俺を庇う。俺を繋ぐ鎖が、薄っぺらい同情でできているうちに、さっさと切ってしまえば良かったのだ。俺が間違える前に、あんたに裁かれる前に、手放してくれたなら。
「分かるわけがない。あんたは賢者で、俺は愚者。何も持たない俺を、あんたが分からないように、俺も――」

 この時、そう吐き捨てなければ。
 俺は今でも、ただの犬っころとして、サイラスの隣で尻尾を振っていただろうに。

 椅子から腰を上げて、つかつかと俺の前に立ちはだかる。引き結んだ口元に、怒りとも哀れみともいえない感情が浮かんでいた。笑っている姿を見慣れているせいで、その時のサイラスを、自分の知るサイラスとは思えなかった。目の前の男が、高い壁のように感じたのだ。
 足元だけ見て、ただ、雷の音を聞こうとした。サイラスと俺のつま先が向かい合うの見ながら、この責め苦が早く終わることばかり祈っていた。
 一つ、二つ、遠くで雷鳴がとどろく。もっとうなれ。もっと叫べ。俺もサイラスも、口を開かぬまま突っ立って、互いに言葉を発しなかった。
 こんなことならばたてつくんじゃなかった。そう悔やんでも遅い。沈黙は嫌だ、沈黙は盾になってはくれない。
 いつまで経っても、餓鬼のまま、こいつに甘えている。
 自分が情けなかった。サイラスの周りの奴らにあざ笑われる自分が。サイラスに甘えている自分が。
 俺はいつか、こいつの元を去るべきなのだろう。いつかは分からないが、きっとそれがあるべき姿なのだ。それまではできる限り『良い子』でいてやりたかった。
 そう、視線を上げた時だった。

 黒と白。
 目の前を覆いつくす、サイラスの色。

「キミは私が見つけたんだよ、テリオン。私以上に、キミを知る人間がいるだろうか、そんなものがあれば、私は……ああ、何故今になって、そんなことを言うんだい……」
 抱き締めている。サイラスが、俺を。
 理解した瞬間、まるで月が地に落ちたような、世界がひっくり返った心地になった。サイラスのにおいで肺がいっぱいになって、頭がくらくらした。触れている部分から熱が伝導する。心臓の音、それが自分のものなのか、そうでないのか、とにかくどくどくうるさかった。融けそうな脳に、以前聞いた雪の話が思い出される。氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる……。
 俺が余計なことを言ってしまったから。だからサイラスがおかしくなったのだ。そう思うと余計に何とかしなければと焦り、怖かった。崩壊が恐ろしかった。奈落の入り口はいつもすぐそばで待っている。
 だから、ただサイラスをどうにか落ち着かせたくて、そろそろと腕を回した。落ち着け、落ち着け。あんたはいつも論理的で、正しくて――。
 それなのに、サイラスの力が一層強くなったので、ますます困惑する。甘えているのは俺のほうなのに、サイラスが甘えるように俺の頬に唇を寄せ、肩にすり寄る仕草がもどかしかった。
「サイ、ラス、」
「私はずるい人間だね」
 頬を、耳を、何かが掠めた。サイラスの髪だ。すぐそばで聞こえた声は、わずかに震えていた。何のことだ、という言葉は、音にならなかった。飲み込まれた。
 サイラスが俺の口をふさぐ。
 その寸前に垣間見た奴の顔は、ひどいものだった。叱られた子供が許しを請うような、申し訳なさそうな顔。
 口付けという行為がどういう意味を持つか、知らない俺ではない。だがそんなもの初めてで、どうすれば良いかなんて知らなかった。ただ、かたく結んだ俺の唇を、奴の舌が舐めて、身体がびくりと跳ねた。そんな俺には構わず、奴の腕はぎゅうと抱きすくめ、何度も口付けてくる。唇が濡れて、また舐められて。あの遠雷が俺に落ちたのだろうか。錯覚するほど全身がひたすら熱く、指先も目の奥もびりびり痺れて、苦しかった。なのに、サイラスから離れることができない。
 俺はこいつを求めているのか。どうして。
 情だとか愛だとか、そういう理屈が俺には分からない。形になって、目の前に出されるものだけを見て生きてきた。実体のない、不確かなものは、いつも俺を惑わす。
 ただ、俺の中にこんこんと湧き出てくるものをえぐり出して、サイラスの胸に突っ込んでやりたい。共有したい。そんな気持ちだった。
 しばらくの間、俺たちは口付けたり離したりを繰り返していた。どれくらい経ったのか、ひときわ大きい雷が鳴って、ようやく事態の大きさに気づいて、身を離した。互いに息が上がって、それがひそかに唇にかかって、恥ずかしくなる。
「……テリオン、ねえ、私のことが嫌いかい」
 正義の審判は意地の悪い質問をする。こいつにはそういう趣向があった。答えを持ち合わせているくせに、わざわざ確かめてくる。
 けれども俺のほうは、疑問に押しつぶされそうで、首を振るのが精いっぱいだった。

 何で、何でなんだ。サイラス。
 分からなかった。知りたかった。
 知らないことはいつも、目の前の男が知っている。
 知ることができる。俺はその権利を持っている。
 知ることができる。訊ねさえすれば――。

「あんたが、分からない……サイラス、あんた、何でも知っているんだろう。教えてくれ、なんで――」
 なんで俺に、こんなことをする。
 脳みそを内側から引っ掻き回されたように、ぐわぐわと、視界が回っていた。ふらつく俺の肩を、サイラスの両手がぐっと掴む。
「私を見なさい」
 飼い主の命令には逆らえない。俺の世界はそうやって出来ていた。いつから? いつの間にか。
 見上げたサイラスの目は、炎にあぶられた深い海のような色をしていた。俺の知らないサイラス。昨日までは知っていたサイラス。あんたはどちら側に立っている。
「私に訊ねてくれたのは、これが初めてだね」
 ひゅっと、喉が鳴る。そうだった。俺はいつでも与えられるばかりで、サイラスに聞いたことがなかった。今までずっと、それができたのに、しなかった。無知であることを知っていたのに。
「テリオン。あの頃とはもう、すべてが違う。キミは大人になって、私も歳を重ねた。もうキミは、子供ではない。私の可愛い子犬じゃないんだよ」
 変わってしまったのだ。
 俺はあの頃のままでも良かった。こんな気持ちを知らないままでも生きていけた。
 けれども、あんたは違ったんだ。あんたに連れられて旅していた、馬鹿なあの頃には、もう戻りたくないんだな。
「教えてあげよう。キミが望むならば、何だって。けれども、知ったら忘れてはいけないよ。ずっと、ずっと先まで、キミが抜け殻になるまで、覚えておきなさい。キミの中に、私を記すんだ」
 そうして再び口付けられた。
 その先は闇で、あのあたたかいサイラスは何処かへ行ってしまって、ただがむしゃらに、目の前の男にしがみつくことしか、なす術はなかった。
 ああ、あんたは夜だ。
 俺の手を引いて、迷わせて、突き落とそうとする、ほの暗いあの闇だ。
 その目で、その声で、あんたは俺を捕縛する。
 
 結局、俺たちは、どちらも孤独だったのだろう。
 
 俺は居場所が欲しかった。それがサイラスの隣であればいいと思った。こいつの隣はあたたかい。丸まって寝ているだけで、満たされるものがある。なのに、自分の中に生まれた『何か』に、名前を付けてやれなかった。それがいわゆる恋だとか愛などと呼ばれるものか、単に情だったのか、寂しさからなのか。俺はその時、見当がつかなかった。答えることができなかった。
 もしこれが、あんたと同じものであったとして、それをどうすれば確かめられるだろう。
 触れられず、見えないものを、あんたは信じるというのか。どうして。あんたはそのわけを、知っているというのか。
「テリオン、テリオン。私の――」
 俺を拾った時とはまったく違う、浮かされた声。気高く、学問のしもべだったあんたの、これが真実ならば、あんたを変えたのは何だったんだろう。
 俺を紐解くサイラスの指先。殴られるよりも暴力的なその熱を、このままずっと奪い続けたら、俺はぐずぐずに融けて、消えることができるのだろうか。あんたの向こう側にある、俺を責める幾千もの目から、ようやく逃げることができるのだろうか。
 転落する。
 このまま奈落の住人になって、俺をわらうすべてのものから、隠れてしまいたかった。なのに、あんたがそれを許さない。あんたは俺を引き揚げる。地上で蔑まされる俺を見て満足か。そう問いただせばよかったのかもしれない。
 この夜を境に、俺とサイラスを結び付けるものは、まったく変わってしまった。太陽の中心から噴出する赤い泥のように、とめどなく溢れてくる欲望が俺達の間に拡がって、いとも簡単に飲み込んでいった。それを持て余して、扉に鍵をかけて、あの弟子まがいの奴らを追っ払って、腑抜けた日を過ごしたこともあった。旅立つ予定をたてておきながら、わざと頓挫させて、困らせて、どちらからともなく引きずり込んだこともあったと思う。
 それから先のことは、割愛しよう。思い出そうとすればするほど、いつもまどろみのように掬うことができない。
 
 明日は記念すべき日だ。サイラスがめでたく教授の称号を得る。あいつのことだ。近い将来、もっと上の、学院の最上位に到達するだろう。
 俺はそれを強く望む。俺が世界の成り立ちを教えられたように、何も知らない奴らに、道を示してほしいと願う。
 知らないことは悲しい。
 知ることは嬉しい。
 それによって苦しみが生まれたとしても、知らぬまま去るよりはよっぽどいい。
 さてあいつは、明日の式典の準備があると言っていた。帰りは遅いだろうから、そろそろ出よう。
 いよいよ出発の時が来た。
 俺の役目はここで終わる。飼い犬は野良犬に戻ることにする。それが本来の、この世界での『正しい役割』だからだ。
 次は傭兵の仕事が待っている。雇い主の踊り子は、北へ行きたいと言っていた。雪で一面覆われた、真っ白な田舎町だ。傭兵業は久々ではあるが、腕をなまらせた記憶はない。俺の腕が立つことは知ってのとおり。前金も貰っていることだし、その分きっちり働くつもりだ。
 依頼主との待ち合わせまで時間もないので、手短に書くとしよう。

 サイラス。
 あの狭い部屋で、夜と朝の狭間に立っていた、あいまいなあの頃が好きだった。
 もしも俺が、あんたに拾われなかったら。もしもあんたが、俺を見つけなかったら。
 そんな仮定は星の数ほどある。すべてが夢で、すべてが希望の燃えかすだ。
 時は過ぎた。俺もあんたも、その中にとどまることはできない。
 俺はあんたに何も伝えることができなかった。今でも、それだけを悔やんでいる。
 いつか俺が抜け殻になったなら、俺を形づくっていたものの、一番きれいなところが雨になるだろう。
 それがあんたのいるこの街に、あの狭い部屋に、しとしと降ればいい。
 降って、地面に吸い込まれて、また乾いて、雲になって、再び雨となって、世界を循環して。
 あの夜の口付けを思い出しながら、あんたの唇を濡らすのだ。

 俺は俺を埋葬しにいく。あんたの知る俺に墓標を立てる。
 だから、見つけたとしても、思い出したとしても、いつか忘れてもらいたい。目覚めれば、すべて忘れる。俺達はそういう風にできている。
 おやすみ、サイラス。よい夢を。
 あんただけが俺の、」



 最後の一文は切り取られ、読むことができなかった。
 静かに本を閉じる。オルベリクの吐いた息は白い煙となり、本の輪郭をなぞった。
 この『日記』を見つけたのは偶然だ。山奥の古い家――埃がかぶっていない場所なんてないような、でもどこかこざっぱりしている――その一室、書斎と思しき部屋で、小さな箱の中に隠されていた。
 次の目的地へ向かう道すがら、山中で迷ってしまった挙句の果てに見つけた箱舟。雷雨の下、オルベリクを助けたその家は、人が住まなくなってどれくらい経つのか分からない。黴のにおいと冷えた空気に肩をすくめて、オルベリクは腰の剣を抱え直した。
 のちに下山し、母国へ戻った彼が知ったのは、この日記に登場するサイラス・オルブライトという人物が、百年以上も前のアトラスダム王立学院に居たこと、そして突然退任し、隠遁生活を送っていたということだけだった。有能な人物で、現在通説となっているほとんどが、彼の研究結果に支えられたものだという。しかし、その他のことは、いくら調べても、ついぞ分からなかった。
 真実は、おそらく、手記の主だけが知っている。
 古い家のなかには、二人分の家具が置いてあった。
 あの日、俺を招き入れたのはどちらであったろうか。
 あの手記の主はその後、踊り子を無事に送り届けられたのだろうか。
 切り取られていた最後の言葉は、誰のものであったろうか。
 知ることはできない。時を巻き戻すことはできない。ただ、今を生きることだけが、人に与えられた不可侵の権利である。



(了)畳む
エーテルの青年
・サイテリというかサイ→テリ。
・義賊的テリオンと人生狂わされるサイラス。
#サイテリ #現代パラレル

 大学の謝恩会は思いのほか楽しかった。あまり外に出て飲み歩くことのない私にとっては数少ない交流の場でもあったし、尊敬する教授から「先日の論文、なかなか興味深いテーマだったね。拝読したよ」と声をかけられたので、余計に嬉しかったのもある。少し酒を含んだせいなのか、足元がやけに軽かった。初夏になる直前の、花冷えを名残惜しんでいるような空気が心地よい。
 けれども失敗だったな、と嘆息する。まさかスマホを大学に忘れてきてしまうなんて。
 研究棟へと続く並木道には自分しかいなかった。もうすぐ日付が変わろうとしているのだ、卒業論文の時期でもないのにこんな夜中に誰かいるほうが妙だった。はーっと息を吐いて、研究室に置き去りにした端末に思いを馳せる。手元にないと流石に困る。明日もし急用で休まなければならなくなっても、スマホがなければ私には何の連絡手段もない。
 歩みを進めると、木々の奥からのっぺりとした壁が現れた。ひとりだけの夜にはなんだか空恐ろしく思えて、私は急いで鞄からカードキーを取り出す。職員用入り口の認証機器にかざすと、赤色だったライトが緑に変わって、間もなくかちゃんと解錠された。
 一歩中へ入る。慣れ親しんだ空間が目に入ってきた。開けた扉から外灯の光が流れ込んで、青白いそれは冷えた廊下に少しのおどろおどろしさを付け加えた。
 う、と少し躊躇う。
 心霊のたぐいを信じているわけではないのだが、先が見えない廊下が、あたかも大口を開けた異空間である気がして、足が止まってしまったのだった。……大人げない、が扉は開けっ放しにさせていただこう。断じて恐怖しているわけではないと自分に言い聞かせて。
 静かで、静かすぎて耳が痛い。深夜になるとこんなに様変わりするとは。
 しかし私にとっては幸いな(と言っておこう)ことに、私の研究室は一階にあった。入ってすぐ、手前にはまず『尊敬する教授』の研究室がある。今日の謝恩会で声をかけてくださったかただ。そこを通り過ぎて数メートル進めば自分の、と部屋が均等に並んでいる。
 早くスマホを取りに行って帰ろう。少し足早になる。廊下から吹き込んだ風が、私を追い立てていた。開けっ放しにした扉から、さあっと駆け抜ける風が――。

 どこかで、窓が開いている?

 三歩進んだところ、教授の研究室の前で足を止めた。
 ドアの下から、本当に僅かにではあるが、薄い光が漏れていたのだ。妙だなと思う。まさか教授、窓を閉め忘れたのだろうか? いやいやまさか、そこまで間抜けな人ではなかったはずだ。
 しかし仮にそうであるならば、閉めずに放置するのはよろしくないであろう。
 ふむ、と私は顎に指を添えた。思考する時の癖だ。開けるべきか開けないでおくべきか――迷っているうちに恐怖心はすっかり隅に追いやられてしまった。ああ、先ほどまでは恐怖していたと認めようとも。それはもう忘れて、さて最重要課題について考えよう。
 目の前の、他人の研究室へ入ってもよいものだろうか。研究室は研究者の城みたいなものだから、そこへ侵入するのは夜盗のようで気が引ける。しかしまあ現実、防犯上問題があることは間違いない。
 私はひとり頷いた。
 失礼にあたるのは承知の上で、緊急事態だと割り切り、意を決して研究室の扉を開けることにしたのだ。
 
 この時、実のところ、私はうっすらと気づいていた。
 部屋の中には何かが居る。
 そう考えたからこそ、扉を開けたのである。
 
「……」
 ただ、その何かが、人間だとは想定していなかった。
 放心。その言葉が最適であろう。
 数メートル先、書類の山の間から、細くて黒い体がのぞいていた。唯一、頭のほうだけが白くて、すぐに髪だと理解する。その隙間にきらりと光るもの――男の目が私を捉えた。雰囲気から驚いている様子がうかがえるが、逆光で表情が見えない。
 男は四角いものを小脇に抱えていた。何かは分からない。それよりも肩越しにカーテンが揺れていて、ここに風が流れていたのか、とそちらのほうに気を取られた。そう思えるほどに、ほんの数秒の間、私は確かに冷静だったのだ。
 しかし一瞬間ののち、舌打ちが聞こえた。私からではない、もう一人の、向かい合う男から。
 ああ思い出した。私は今、危機的状況に対面しているのだった。
「待て!」
 やっと出た声は掠れていた。こんな時間に入り込むなんて、よからぬ輩に違いない。逃がしてはならない。しかし男は焦った風はなく、ただ静かな声色で「待つ奴がいるか」と鼻で笑った。返答があったことに、そして存外若い声にうっかり足がもたつく。青年の声だ。こういった場合どう返すべきなのだろう、なにせ初めてのことだから……ああもう、逡巡している余裕などないというのに!
 その間にも、青年は身を翻して、窓枠に右手をかけた。と思ったら、その手を軸にひらりと窓から抜け出でて、のろまな私を置いて走ってゆく。まずい、追いかけなければと思う気持ちに反して、私の足は床にべったりと引っ付いてしまって、一歩も離れることができないでいた。唯一可能であったのは、窓枠の向こう側、どんどん小さくなっていく青年を目で追うことだけである。霞のような外灯の光の奥へと消えていく、しなやかな青年の姿を。
 あっけにとられたままの私を、いっそう強く吹いた風が現実へと引き戻した。窓の向こうで、木々の葉がざあざあこすれ合って嘆いている。いつの間にやら私はどこか分からない空間へと飛んでいたようだ。やはり今夜この場所は異空間と化していたのだろうか。私はそこへ考えなしに足を踏み入れた無防備な愚か者であったのだろうか。
 小一時間考えたものの結論は出なかった。
 このまま居座るのも変であるから、私は窓を閉めて部屋をあとにした。このことは誰にも言ってはいけない気がする。特段、神を信じてはいないが、目に見えない何か強い力に「秘密にしておきなさい」と言いつけられたような気分だった。防犯カメラだとか、そういうシステムがあるはずなのに反応していなかったのを考えると、あの青年が何かしらの対策を施していたのだろう。つまり、私が誰かにことの顛末を報告しても、信じてもらえないどころか、私が犯人に仕立て上げられる可能性のほうが高い。私の足元をすくおうとする人間によって……悲しいかな、私は自分自身が学内の一部の者から疎まれていることを知っていた。
 教授には心のなかで謝罪を述べておく。大変失礼いたしました。何が盗まれたのかは明日、否応なしに判明するかと思われます。
 来た時とは反対に、まるで御伽噺の存在に出会ってしまったかのような、私だけが知る秘密を抱えたことに、年甲斐もなく高揚していた。秘密! 秘密だなんて、生まれて初めてではなかろうか。脳天から蜂蜜を塗りたくられた気持ち。砂糖を口いっぱいに頬張っているような心地。犯行現場に居合わせてしまったというのに、なぜこのような感覚に襲われるのであろう?
 おかげで、スマホのことはすっかり頭から消えてしまっていた。



 まるで猫みたいだったな、と思い出すたびに感心してしまう。それほど『彼』の身のこなしは感心するものだったのだ。
 夜盗になるどころか夜盗に遭遇してしまった日のことが、私の中から消えてくれない。とはいえ、まだ一週間しか経っていないので、すぐに鮮明に思い出せるからというのもある。
 あの夜が明けた次の日、大学で騒動になったのは、私の尊敬する、不法侵入の被害に(知らず知らず)遭った教授が、研究室に置いておいたノートパソコンを何者かに盗まれたというニュースだった。中身は学生のレポートやら成績やら、はたまた教授の論文やら。教授は少しばかり機械に疎い方で、パソコンの操作が不得手だったと聞く。助手に依頼して、学内のサーバーからファイルをダウンロードしてからは、作業後そのほとんどを自分のパソコン上だけに保存していたらしい。
 盗まれたのだから、てっきり即ネット上に流出したのかと思ったが、そういうことにはなっていないらしい。しかし機器の管理責任を問われて、ご自分から退職を申し出たのだそうだ。それを聞いて、私は貴重な研究者を無実の罪で追い出した気分になって、心の底から懺悔した。なにも退職までされなくとも、と教授に取り下げるよう嘆願したのだが、本人は目を泳がせるばかりで碌な会話ができず、ただ研究の未来を私に託されて教授は去った。
 この一週間、いろんなことが起こりすぎて、私は少々混乱していた。あの夜のことを警察に言おうかとも思った。しかし証拠がない。私が犯人(と思しき青年)と会った日、やはり防犯カメラがすべて切断されていたのだという。よって私の姿も、青年の姿も何一つ残されていない。自分が犯人を見たのだ、取り逃がしたのだと言ったところで誰が信じてくれるだろう? 否、困難だ。
 結局、私の中に後悔と、それに勝る静謐な甘さが残された。白状しよう。私にとって後者のほうが重要だった。教授には大変申し訳ないことを……と思うものの、そう詫びる私に、かの青年の存在が覆いかぶさってくる。『彼』はどういう意図で教授のパソコンを盗んだのだろう? どう見てもわが大学の学生ではなかった。また学生の雰囲気をまとっていなかった。推察するに、あれが本業なのだと思う。きっとあの夜、私ごときが取り押さえようとしたところで、返り討ちにあっていたに違いない。
 だから私は、あの日のことを、小さな瓶にしまっておくことにした。とろり、柔らかい液体で満たされていて、内側から銀色の光を放つそれを、誰も見ることの叶わない記憶の棚にそっと飾る。
 こんな夢想めいたことをカフェのレジで考えていたので、コーヒーがサーブされたことに気付くのが少し遅れてしまい、店員に詫びた。すると店員の女性が急におどおどしたので、何か失礼なことをしただろうか? と不思議に思う。時折こうやって思考の海にすべてを投げ出してしまうのは悪癖だなと都度反省するのだが、この年にもなると癖や習慣というのを変えることは難しい。だがせっかくの休日だ、ゆっくりしたかった。今日は記憶を整理したいのだ。
 右手にマグカップ、左手に鞄を持って、店の奥へと進む。このカフェは入り口から最も離れた壁に大きな本棚があるのだが、その前の席が少し奥まっていて、私は大変気に入っている。本棚に並行になるよう配置されたソファはほどほどに幅広く、荷物を置くにもちょうどいいサイズなのだ。私は常に、何冊か本を持ち込んで来店するので。
 店に足を運ぶのは毎週日曜の早朝と決まっていて、つまり今日、現在、朝の七時をまわった時間帯を指す。この、まだ世界が起き切っていない、ゆるやかな空気が好きだ。それに日曜のこんな早朝に来る客は限られている。事実、私が過去この時間に会った人は、平均して約二名程度だった。
 なのに、求めていた席にはなんと、先客がいた。

 ああ、私を放心させるのは年に一度程度にしてもらえないだろうか、神よ!

 私がひっそりしまい込んだ小瓶の色と同じ、月光のような髪色をした青年が、私の定位置に腰かけていたのだ。見間違えることなどない珍しい色が、あの夜の青年だと告げていた。
 店の間取り上、必然的に右側から近づくこととなり、私は『彼』の様子を盗み見るようにうかがった。薄紫のパーカーを着こなし、コーディネートされた藍色のパンツからは細い足首が覗いている。少し行儀悪く足を組んでいた。こちらを見る様子は一切なく、手元のスマホをいじるばかり。ところどころ跳ねた髪は癖なのかわざとなのか。一見すれば今どきの若者にしか見えない。
 しかし私は知ってしまったのだ。この青年が、実は夜盗だということを。
 同時に知りたかった。キミはなぜ、盗みなんてしたんだい。

「相席しても?」
 この一言が出てくるまでに十秒を必要とした。私の人生史上、最も長い十秒であっただろう。
 『彼』はちら、と私に視線を投げかけて、すぐに伏せる。
「他をあたってくれ」
 予想どおりの反応に、予想どおりの声色。
 私は無言で、『彼』の右側に腰かけた。許可など得ていない。得るつもりもなかったのだが。なけなしの心配りとして、『彼』と私の間に、自分の鞄を立てておいた。小さな境界線だ。
「ここはね、私の定位置なんだ。とても落ち着くから」
 コーヒーがなみなみと注がれたマグカップを、なるべく静かに置く。よく手が震えなかったなと思う。緊張していた。私の心境など知らないで、『彼』は興味なさげな様子でスマホをポケットにしまって、ぼそりと呟いた。
「俺が退く」
 組んでいた足をほどく。いけない、このままでは逃がしてしまう。今度は逃がしたくない。『彼』を引き留める言葉を発しなければ――。
「キミはなぜ、盗みなんてしたんだい」
 つとめて冷静に言えた。言ってやった。『彼』の動きが止まる。立ち上がろうとした体をもう一度ソファに沈め、再び足を組んだ。
「何のことだ」
「とぼけなくていい、私は口外したりしない」
 かみ砕くように、ゆっくりと話す。
「あの日キミがいた研究室の教授はね、大学を辞められたんだ」
 『彼』は答えない。ただ座って、またスマホをいじるだけだ。
「とある分野では有名なかたでね」
 何も言わない。
「……私は、教授を尊敬していたんだ。だから辞められたのは、大変残念なんだ」
 本当に残念だったのだ。教授のような立派な学者になりたかった。それを、自分の目標を自分で潰したような結果になって、後味もすこぶる悪かったから。
 けれども私がそう言うと、隣の『彼』は突然、くつくつと笑った。
「尊敬とはな」
 馬鹿にするのを隠さない口調に、少しむっとする。
「キミのしたことは犯罪だよ」
 少々語尾がきつくなる。それでも静かに笑うばかり。正直面白くなくて、詰問するかのように矢継ぎ早に続けた。
「キミはあの大学の学生ではないね。それなのになぜ? 理由が分からない。万が一あのパソコンの中に入試問題が入っていたとしても、キミに得があるとも思えないしね。キミの目的はなんだ? 金? どうして盗んだのか、私には理解が――」
 話の途中でずいっと、目の前に機械を押し付けられる。『彼』のスマホだ。「うるさい」と言われて口をつぐんだ。隣から無理やり視界を遮られて、気分がいいものではなかったが、そこに書かれている文字に言葉が詰まった。
 表示されているのはニュースサイトのようだ。その上部、記事見出しにあったのは『元教授、複数の女子学生にセクハラ』という、穏やかならぬ太文字。
「……何だい、これは」
「おたくの尊敬するエロジジイの、裏の顔さ」
 裏の顔、という表現にぎょっとした。『彼』の手からスマホを奪い画面をスワイプする。ページには目を疑うような事柄が書かれていて、信じがたい内容に眩暈がした。
 曰く、件の元教授が逮捕されたとのこと。その理由は、複数の女子学生を脅して猥褻行為をはたらいていたため、だと。
「学者先生のなかには、とんだ屑野郎がいたもんだな」
 鼻で笑う『彼』に、返す言葉もない。
「しかも写真まで撮って残しておくとは、変態にも程がある」
 記事の中には、女子学生の証言として『従わなければ卒論を評価しないと言われ、写真を撮られた。それをもとに脅された。』とあった。写真がどこに保存されていたかなど、想像に難くない。思い出す。去り際の教授が、目を泳がせて狼狽えていたことを。
「キミは、知っていて、盗んだのかい……」
 『彼』は答えなかった。しかし私はその仮説が正しいか検証したかった。『彼』から解答を導きたくて、何でもいい、からからになった喉から何とか会話を捻り出そうとしていた。コーヒーはすっかり忘却の彼方へと追いやられ、ただ、何か言わなければ、と焦燥に駆られる。
「……被害者の子たちは、なぜ、なぜ警察に言わなかったんだ……いや、せめて大学へ相談してくれれば」
「おたく、正義が悪に勝つと信じてるタイプだろう」
 手にしていたはずのスマホは、いつの間にか彼の手中へと逆戻りしていた。返した覚えはない。あたかも手品師がカードを入れ替えるかのごとく、私が狼狽えている間に『盗まれ』ていたらしい。
「おめでたい学者先生に、ひとこと言っておく」
 一瞬言葉を切って、『彼』は続けた。
「悪にまさるのは、悪だけだ」
 まるで鉛を吐き出さんとするような重々しい口調だった。長い前髪の間から垣間見えた『彼』の右目に、私の姿が映り込む。
 息を呑んだ。朝露に濡れた新緑のような色。なのに芽吹いたばかりの葉が宿す純朴さとは似ても似つかない、野性的ないのちの光が、ぎらぎらもえていた。
 しかしその邂逅は一瞬で、は、と呼吸を思い出した時にはすっかり隠れてしまっていた。
「――見られてまずい写真がこの世に出回ることはない。それが仕事の条件だからな」
 仕事というのは、とは聞けなかった。スマホをパーカーのポケットにしまいながら、『彼』は興味を失ったように私から目を離す。
「毒を以て毒を制す、ということか」
 この話題はもうどうでもよいらしい、私の言葉には無反応だった。代わりに正面の本棚から雑誌を引っ張り出して、『彼』はつまらなさげにぱらぱらめくり始めた。表紙には「本当においしいカフェ百選」と書かれている。読んでいるわけではない、読むふりをしているだけだ。カフェに興味があるようには見えないし、実際我々はカフェに居るけれども、『彼』の前にはカップのひとつも置かれていなかった。水すらも、何もなかったのだ。
 それきり『彼』は口を開かなかった。もう『彼』の中に私はいなくなってしまった。自分が会話相手と思っている相手に、けれども自分は会話相手とみなされていない、それで悲しくならない人間がいるだろうか。気を紛らわそうとコーヒーを口に含む。ようやく思い出したか、と呆れかえっているのか、ぬるくなった液体はただ苦々しく拡がるばかり。どろどろと体内に入り込んで、お世辞にも美味しいとは言えない。
 それが二口、三口と喉を通り過ぎた時、ある疑問が、ぽっぽっと泡のように浮かんできた。
「……キミ、さっき私のことを、学者先生と呼んだね」
 そう。『彼』はつい先程、私をそのように表現したのだ。しかしこの短い時間のなかで『彼』に職業を告げた記憶はないし、深夜に一度遭遇しただけで、私が大学で教鞭をとっているなどなぜ分かるだろう。
 私の疑問には答えずに、雑誌を机に放り投げて(なんて粗雑な扱い!)今度こそ『彼』は立ち上がる。もう行ってしまうのか、とか、結局パソコンはどうしたのか、とか、言いたいことは山積しているのに、そのどれもが声にならないで胸につかえていた。
 なのに、立ち上がった『彼』が、これまたぽいぽいと机に放り投げたものを見て、つかえていたものが達磨落としのように抜け落ちる。
「せいぜいスリには気をつけるんだな。サイラス・オルブライト先生?」
 無造作に置かれたのは、財布と、名刺入れである。
 私の。
「……あれっ!?」
 慌てて鞄の中を確認する。言うまでもなく両方なかった。当然だ、今しがた机の上に投げ捨てられたのだから! いや、しかし、いつの間に盗まれたのだろう。そんな素振りは全くなかったのに、一体何がどうなって? ああ、頭の中がぐちゃぐちゃだよ!
 私をよそに、『彼』はどんどん席から離れていって、ありがとうございましたという店員の声に見送られて店を出て行ってしまった。からんからんとドアベルが鳴り響く。真鍮の小気味いい音。取り残された私は呆けるばかりで、それでもなお『彼』に何か伝えたくて、小走りで後を追った。待ってくれ、今度こそは!
 店の扉を乱暴に開ける。ベルががらんがらんとやかましい。
 左を見る。いない。
 右を見る。……ああ、いた!
「待っ――」
 そこでぶつっと打ち切られた私の声は、ただのいびつな音となって道に転がった。
 数メートル先で、『彼』は『誰か』と並んで歩いていた。恰幅の良い、背の高い男だ。小柄な『彼』と並ぶと、その不均等さが異質なくらいだった。言葉を交わしている様子の後ろ姿しか見えないものの、二人は親しい間柄だということが分かる。私にはその『誰か』が誰なのか知る由もない。あの夜と同じく、まだ冷たさの残る季節の中へ、ただ遠ざかっていくのを見ているだけだ。
 追いかけて、私は何を伝えたかったのだろう。学生を救ってくれたことか? 犯罪者に「有難う」とでも言うつもりだったのか? 今日この店に居た理由か?
 私は『彼』の何を知れたのだろう。
 そうだ、私は『彼』を知りたかった。
 僅か数十分の会話を経て、『彼』は単なる盗人とは異なるのではないか? という仮説を打ち立てていた。前提条件として、犯罪者にも情状酌量というか、ランクというか、区分をつけるものとする……なんという身勝手な条件であろう。著しく客観性を欠いている。当たり前だった。これは私個人の、なんとも独りよがりな推論なのだから。
 しかし『彼』のまとう雰囲気が、吐き出された言葉が、あの瞳が、私を内側から駆り立てるのだ。『彼』のなかには『彼』だけの法典があって、そこに『彼』は君主として降臨している。他者の知識で練り上げられただけの浅薄な私とは対極の存在。社会規範やら法律なんてお構いなしの、ゆるぎない価値基盤を有した青年。何にも縛られない『彼』を、終わらない物語のページをめくるみたいに、もっと深く知りたかった。
 この探求心は我が身を滅ぼすかもしれない。予感がちりちりと胸を燃やす。けれども同じくして、身体中に何かが満ちていくのを感じた。
 これは光だ。まばゆい光。希望だ。
 もしも神の御心を具象化できるのならば、おそらく今、私はその衣に包まれていることだろう。感謝いたします、我らが父よ! この道を進めば、果たして『彼』に会えるのですね。宗教家ではなかったはずが、いまや私は敬虔な教徒の心地であった。天啓を受けたとのたまう神官の気持ちがまったく理解できる、それも一冊本を書きあげられるほどと言っていい。突然、自分の目の前に一本の道筋が現れて、その先に求めるものが存在していると悟る感覚。
 簡単なことだ。知りたければ知ればよいのだ。近づいてくれないのならば近づけばよいのだ。
 そうしていつか、『彼』にも私を知ってもらいたい。絵本を読み聞かせる母親のように、私の系譜を子守唄に『彼』と夜を過ごしたい。私がどのように構成され、何を考えて日々を生き、『彼』を追って数多の苦難を乗り越えたのか――とは脚色であるが、おそらく簡単にはたどり着けないであろうから、『彼』にこの検証結果を報告する際には付け加えたいと思う。
 さて、『彼』の姿はついに消えてしまった。大小の背を見送ってから、私は記憶の棚から、あの小瓶を取り出した。
 そうっと、慎重に蓋を開け、中身を飲み干す。飲み干して、飲み込まれた月光色の液体が、私に取り込まれて私の一部になっていく。しまいこんでおくつもりでいたのに、暴れ馬を持て余して手綱を手放すように、もうすっかり自由にしてしまった。なぜか。
 感情に補足することが叶うのならば、致し方ないこと、と私は記すだろう。趣のかけらもない、凡庸な蛇足。
 しかしながら我らが父よ、赦したまえ。私と名付けられた宇宙の中に、『彼』が金剛石をばらまいたのです。『彼』が伝播した光はまたたく間に星々の間を駆け抜けて、世界を白く塗りつぶしました。私は今日、幻の存在を証明したと言えるでしょう。かつて先人たちがエーテルと名付けた存在が、私にとって『彼』なのです。



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