から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

衛星
・本編後IF設定。
・疲れてる草薙さんと、映画とジャズと寸劇と。
※CP要素はとても薄め。
#Ai遊 #IF

「おっと」
「大丈夫か、……これ落としたぞ」
「すまない、ありがとう! ところで君はいつもこの店にいるのかい?」
「おおよそ毎日、午後四時から午後八時まで」
「なら明日も会えるな。そうだ自己紹介が遅れた、俺は草薙。今日は朝からアンラッキー続きだったが、最後にラッキーなことが起きて最高な気分の男さ」
「……その『ラッキーなこと』っていうのは?」
「君が俺の落としたスマホを拾ってくれたこと」
「……草薙さん、疲れてるなら早く休もう。俺も片付けたら上がるから」
「すまん……昨日、あまり寝てなくて……気分が……」
 草薙から乾いた笑いが零れる。眉間をもみほぐす姿に疲れの色がはっきりと滲んでいて、先ほど飲んだコーヒーがやけに苦かった原因を突き止めた――遊作はコーヒーという飲料を特別好んで飲用しているわけではなかった。草薙が淹れてくれるので感謝とともに口にしているだけだ。豆の良し悪しも分からないし、客が言う深煎り浅煎りの差も味の濃淡程度にしか知らない。
 だが、本日の締めの一杯はこれまで経験したことのない苦味と酸味で、深煎りと浅煎りが激しく怒り狂っているような、コーヒー何杯分を凝縮したらこの味になるのだろうかという味さえした。遊作が最低限持ち得る社交辞令を駆使したとしてもたった一口しか喉を通らなかった。端的に言えば、不味かったのだ。
 何とか顔に出さないようこらえたのは、遊作の手の中に残された最後のカードである。草薙さんあの、と声を掛けようとしたところで、その当て所も無い目線に気付く。
 虚で、定まらず揺れ動いている。
 予想どおりというべきだろうか。いつもならば手元を見ずとも、定位置に置かれた端末を掴むことなど習慣の一つで造作もない。しかし覚束ない指先は机上でたたらを踏んで、キーボードの端からようやく端末へ辿り着いたかと思えばそれは呆気なく落下していく。床に衝突する前に拾うことができたのは、たまたま遊作が草薙の様子を観察していたからに過ぎなかった。追い討ちをかけるように、普段なら持ち出さない海外映画じみた冗談。
 これはまずい。
 遊作から帰宅を促した例がほとんどなかったからか、珍しげに瞬きを二、三度したその下瞼にはくっきりと隈がある。今日、出勤した時から気に掛かっていた隈だった。通常の閉店時間より三十分も前、しかし客が来る様子はなく草薙は苦笑いをたずさえながら受諾するに至る――遊作の手の中でスマートフォンが震えて、見れば草薙から帰宅した旨の連絡だ。胸を撫でおろし、再び制服の尻ポケットにしまった。
 月の青白さと交じり合いながら、街灯が規則正しく敷かれた煉瓦を照らしていた。ぼうっと浮かび上がった歩道は、ようやく自分の足を受け止めてくれたような、はっきりとした感触を返す。ああ、事故など起こすことがなくて本当に良かった!
「どゆこと!?」
 波の静まった遊作の心に再び波を到来させるAiの声は、控えるということを何処かに捨て置いてきたのか、遊作が目を背けたくなる程度にはよく通った。
 夕飯の時刻をとうに過ぎた街は、取り残されたように家路を急ぐ通行人が行き交う程度で、つとめて静けさを保とうとしている。そんな見知らぬ誰かと視線を交えることなど皆無の日常で、隣に立つ男の豪奢な服装と騒がしさは幾人の目を引いた。照明の多い街中ではあれど、夜の中ではAiの首元の菱形は負けぬくらい強く輝き、それが明らかになればなおのことである。あたかも人間のように振る舞うソルティスはひと際珍しい。
「オレというものがありながら! お前ってやつはよお!」
 肩を揺さぶるな、大声を出すな、ただでさえその格好は目立つのだから外出時だけでもやめろ。山ほどある文句を言う前に、怪訝そうに見てくる見知らぬ人へ頭を軽く下げ、すみません喧しくて、と遊作は視線で謝り続けた。先手を打っておけば、大抵の人間は何も言わずに去っていくものだ。威嚇する犬のようなものである。自分に非があるわけでもないのに、既に数人の市民に対して謝罪を済ませた少年は、下げていた頭をぐっと持ち上げてAiを見遣った。
 保護者的な立場から考えれば、監督不行き届きとして非はあるかもしれない。もしくは教育を間違ったのだろうか。帰ったらしっかり注意しなければならない。それか、外出用シーケンスを組み込むか?
「さっきのか。草薙さんは睡眠不足なんだ」
「まるで映画で後々恋人同士になるフラグ立ってる二人が最初に出会うシーンなんですけど!?」
「黙れ。住宅街が近いんだから静かにしろ……あと細かい」
「あー昼間暇だったんで映画観てた、海外の。人間観察ってやつ?」
「他のことを観察しろ」
「だって日中はすることねえし……てかそうじゃなくて! オレの前でしないでくれる!? なんか情緒がやばい……」
「お前は俺に草薙さんを見捨てろっていうのか」
「だー! もー! 草薙を引き合いに出すなよ!」
 帰路の道中も、アパートの部屋に入ってからも、ああだこうだと喚き続けるAiを眺めていると、感情に振り回される人間の挙動をそっくり再現したらこうなるのではないか? と思えてくる。もしAiの中で感情が他からの制御を受けずプログラム化されているならば、処理フローに従って感情が選択されているべきであろうが、毎度のことながら遊作にはどうもそうとは思えなかった。喜び、怒って、哀しんで、楽しむさまは今の見た目も相まって、自分達と何ら変わりないように見える。少なくとも遊作にとってはそうだ。
 自己申告によると、このような状態となったAiを振り回しているのは一般的には嫉妬と呼ばれるものらしい。だが、遊作にそれが明瞭な色をもって胸の内に顕現したことがなかったことから、Aiの行動と感情を紐づけるまで少々手間取ることになったのは、いまだ記憶に新しい。
 問題は、最近では振り回される頻度が増し、遊作の頭痛の要因になりつつあることだ。現に今も、遊作のこめかみは肘を打ち付けた時の鈍痛を五分の一くらいにした程度には、じんじんと痛かった。
 制服のブレザーを脱ぎながら嘆息したのを、Aiがまた指摘した。「あー! めんどくさい奴って思ってんだろ! 遊作チャンの非道!」言い当てられたので遊作は一瞬だけ肝を冷やした。同時に、あんな冗談の応酬がこいつの気に障ることもあるんだな、と思う。
 毎度のこと、面倒ではあっても遊作は意外だと思うことを禁じ得ない。何せ自分を自由にさせているのはAiで、誰かと会ったり何処かへ出掛けることを制限されたことはないし、もとより制限する必要がないのだ。何をしていてもネットワーク内であればAiが見るも見ないも自由で、それはAiと出会うまでの五年間で証明されている。言い換えればAiを前にした自分は、四六時中Aiの手中に収まっていることと変わりがない。たとえ、遊作自身に害があることをAiがしないと分かっていても。
 掌の上で転がされている自分を思い描いた。小動物のごとく寝そべる自分は全く可愛げがなかった。リスとか、小鳥とかだったら良かったかもな。それならば堅牢な巨大システムに鹵獲された自分はどうだろう? ソルティスではなくデータを食す時の、四方八方へ手足が伸びていくさまを想像する――こちらのほうがまだ現実味があった。蛸のようにうねうねと躍動する形状は見覚えがあるから。
 結局のところ、何処にいてもAiの目が届く範囲であるから、信用とか信頼だとか以前の話だ。遊作が目下対処を迫られているのは、AIであるAiから発生する感情を本人が持て余したその先、行く末なのだった。そこにはいつも自分がいて、Aiの許容範囲を超えた濁流に巻き込まれて、呼吸の仕方を忘れたように息苦しかった。流れの中には酸素がなく、空気を求めて手を伸ばして、最後にはAiに辿り着いている。
 だからAiは胸を弾ませて、寧ろ感情に振り回されるのを楽しんでいるのかもしれない。Aiは言う。
「遊作から生まれたんだから、オレが一番遊作を分かってなきゃいけねえの。遊作がオレを一番分かってるみてえに」
 どこまでも一緒くたになろうとする欲求は間欠泉だった。いつ発生するか読めない、熱くて、避けなければ飲み込まれて、みっともなく茹で上がってしまう。自分のほうが振り回されていることを、遊作自身認めたくなくとも認めざるを得なかった。ほとばしりが去ったあとはいつも、手を伸ばした先、Aiの中に取り込まれているので。
「草薙さんも緊張したままで待っていたんじゃないか?」頭痛も相まって、ベッドに腰かけた途端に沈みたくなる。遊作の精神も肉体も横たわることを望んでいるが、何とか耐えた。「弟さん、今が一番忙しいらしい」
「連絡あったんだったら別に起きてなくてよくね? 帰ってきたの、深夜まわってたんだろ?」
「そういうものなんだろう、家族っていうのは」
 多分、と付け加えた遊作に反論できるようなAiではなかった。家族ってものがどういうものか覚えていないが。そう言葉の端々に含ませて、しかもそれを当然という様子で言うものだから、まるで記憶の空虚など最初から存在しないように聞こえてしまうのだった。それが遊作の見えないところで、Aiの内部にも同じ空虚を生み出す。少し前に街灯の間から二人の頬を撫ぜていった、夜風の温度に似た冷たさが広がって、ソルティスの唇を押し広げようとした。
 お前にもいたんだよ。今も多分、どっかにいるんだよ――口にしようとしたことを、遊作は実のところ分かっていたかもしれない。けれども正体不明の影を追うのは光の尻尾を探すようなもので、今にも押し出されそうな空白を飲み込んで、Aiが切り返す。
「でもよ、交友関係? つーの? 広がるのは良いことだろ」
「ああ。草薙さんも言っていた。それに一ヶ月も経たないうちに元に戻るさ」
「文化祭ってやつな。お前がまーったく、ぜーんぜん参加意欲のないお祭り」
「余計なお世話だ」
「ま、やっと普通の高校生になれた弟に注文つけたくはないわな。嫌がられたくねえし……はー、人間の心理ってのは面倒だねえ」
 面倒なのはお前の心理だぞ。遊作は内心そう零したものの、AIに心理があるのか、本当のところはどうなのだろう。



「草薙がOKならオレでも良いだろ?」Aiがそう言ったのは、遊作が髪の水分をタオルで乱雑に拭っていた時だった。「ソルティスならリアリティもあるし」
 遊作の前でくるりと一回転するさまはダンサーのように軽やかで、そのまま右手を前に、左手を上にしてお辞儀をするものだから、踊り出す前の舞台挨拶にも見える。いまだうっすらと湯気をまとう遊作へ差し出してみせたのは、昨日まとめ買いしたミネラルウォーターのボトルだった。仰々しい動きに似つかわしくない生活感溢れるパッケージに、笑いを禁じ得ず、誤魔化したせいでそれは中途半端に崩れてしまう。
「OKって、何がだ」
 受け取って訊ねた。草薙さんが良くてお前に駄目なことがあるのか? という言葉が出かかったけれども、遊作の喉に引っ掛かって止まった。言うと何だか、墓穴を掘るような気がする。
「海外映画の真似!」
 再び一回転、これもまた完璧なバランスで、緋色の裏地を翻しながらマントが円を描いた。ピアスの揺れる間隔とは対照的だ。満面の笑みと、人差し指と中指がびっと立ったジェスチャー、つまりピースというおどけた様子がなければ、もう少しで拍手喝采とともに見惚れていたかもしれない。こいつ、AIじゃなかったら役者で食っていけたかもな。頭の片隅に残ったささやかな冷静さのおかげで、遊作の両手が打ち鳴らされることはなかった。ついでに言えば、頭痛が強まった気がした。
「もうお前のメンテナンス時期だったか?」
「いやいやいや違えって故障でもバグでもねえから」
「なら一体何だというんだ」
「映画観たっつったじゃん? それ思い出してよ。なんかオレもやりてえの! 草薙と喋ってたみたいな感じの、ああいうやつ! 草薙ばっかずるいー!」
 出た……と、少年が閉口したのも致し方なかった。このAIの最近の口癖に「ずるい」がリストアップされている。恐ろしいキーワードだった。何せ、原因を全て他所へ責任転嫁して、場合によっては何が問題だったのか有耶無耶にしてしまう、無邪気さの皮を被ったしたたかなカードである。おまけに、受け取った相手を面倒くさい思いにさせる効果まで付いている。
 ずるい、とは何がずるいのか。ずるいと言われるようなことを草薙さんとした覚えはない。そこを問い質しても良いが、手間のほうが上回ることが目に見えていて面倒だ。
 ボトルの蓋を開け、一口、二口、三口、含む。仰け反った白い喉がこくこく動くのを、二つの目玉がじっと見つめていたことなんて知らないままで、その内側を流れていく水は少年の感情とじわじわ広がる頭痛が爆発する前に冷ましてくれた。
「……何がしたいんだ」
「え、付き合ってくれんの?」
 Aiが目を瞬かせるたび、室内灯の光が反射して金色がぱちぱち弾ける。「九割断られると思ってたぜ」「一割がたまたま今日だっただけだ」幸運だったことを喜べと言わんばかりの不遜な声色に(素っ気ない声となったのは頭痛のせいであったが)、Aiの背筋がしゃんと伸びた。意図したものではないが、こいつにはこの程度でちょうど良いか、と弁解はしないでおく。
 ボトルのキャップを閉める。きゅっという音には、自分の一部も一緒に閉じ込めたような気持ちになる。その溶けていく感情は、今朝食べたトーストの上で形を失ったバターとよく似ていた――言うなれば、ぐずぐずになってしまった偏愛だった。永久に水と混じり合えなくて、分離したまま出口を失っている。Aiのことになるときっといつでも一割のほうへ傾くのだろう。振り回されても、頭がじんじんと疼いても、消化するには重苦しい感情を最後には飲み干さなければならないことを、遊作はずっと分かっている。
 虚勢のように「言っておくが、映画は詳しくない」と述べたが、Aiは欠片も気にする様子はない。本当はAiには全部分かっているのかもしれない――溶けたバター、染み込んでいくトースト、食す自分、見ているAiの目。その連鎖のあとにある、縁取りがでろりと歪んだ自分。
「だいじょぶだいじょぶ! 大筋なぞるだけだから!」
 さあさあ! と室内にある唯一の椅子へと案内される。ただし座らされたのは遊作だけでAiは変わらず立っていた。軽く咳払いをする様子に、そこまで改まって行うような内容なのか、とか、草薙との軽いやり取りを超えている気がする、などと思うのだが、あの息が詰まりそうな激しい流れの影が見え隠れして、言うチャンスをすっかり失ってしまった。
 我に返ってみると、Aiは世界観を説明し出したところである。「はい、今からここはカフェな」どうやらカフェが舞台のようだ。
「ああ。どう見たっていつもの古い部屋だが」
「そこはノッて!」
 Aiの中には脚本があるらしい、それに従って壁や家具を指し示して説明してくれるのだが、残念なことにそれらは遊作の耳を素通りしていく。遊作のなかにあるカフェに関する最新情報はカフェナギだ。剥き出しの電球が吊り下がる室内も、無垢材のカウンターテーブルも、少年の知識には存在しない。オープンスペース、屋台形式のイメージがAiの説明よりも先に頭に湧き上がってくるのを「あー違う違う! カフェナギっぽくないカフェ」という声がかき消した。カフェナギっぽくないカフェってなんだ、カフェナギはカフェだろ。
「こういう感じのやつ。見たことねえ?」
 遊作のスマートフォンをすすっとスワイプアップし(勝手に操作したことについて後にAiは叱られた)表示された検索結果の画像を横目で確認する。合点がいった。街中でたまに見かけるフランチャイズのコーヒー店から華美さを削ぎ落し、木を多用した住宅の要素を少し加えてアップデートしたら、Aiの中にあるこのイメージに近くなるようだ。
 検索ボックスには映画のタイトルと思しき文言が入力されていた。他にもレビューサイトらしきページのサムネイルの下に、星が四つと半分、黄色く塗りつぶされて並んでいた。おそらく高評価なのだろうその映画を、遊作は見たことがない。
「お前はひとり窓辺の席に座ってる。濡れた上着を見るに雨宿りしてるぽい。勿論、傘なんてない」
 指が弾かれ、軽快な破裂音。と同時にAiの服装が変化する。手品師の早着替えと同じような――しかし速さは比ではない、立体幻像である――瞬きをし終えるまでには、カフェナギのものとはまた違う、黒いエプロンを身につけていた。白いシャツとのコントラストに目が慣れるまで、視界が少しちかちかして遊作は瞼を軽く擦った。「どした?」結んだ髪と一緒に揺れたIDカードには、ご丁寧にも英文字で名前が書かれている。仮定の話に小道具まで丁寧に作り込んでいるところが可笑しかった。
 映画のシーンと同じなのかもしれない、老犬の散歩のごとく緩やかなジャズが湧き水みたいに流れ出している。一拍ごとに低い音を奏でるベースラインは、さらさらと聴こえる雨音と絡み合って、徐々に融合していくようだ。雨音の効果音まで流れている。柔と剛、二つの音で、目に見えない架空の雨だれさえ表面張力を失ってぱちんと弾ける。
「そこへ店員のオレがコーヒー片手に声を掛ける……『ほら、可哀想な学生にサービスだ』」
 滑らかな手つきには白いマグカップがあった。今の服装と同じく立体幻像で、机の上に置かれたその中身からは微かな湯気が立ち上っている。今にも豊かな香りが漂ってきそうで、つい匂いを確かめてしまったものの、湯気が遊作の鼻をくすぐることはない。分かってはいても惜しかった、本日口にしたコーヒーより(見かけは)美味しそうだったので。
 錯覚だけが残された机の上で、遊作の頭は没頭を始める。『窓辺の席で雨宿りをしている高校生』のイメージを構築する。こちらも本気でやらなければ、こういう場合はかえって白けるというものだ。
 学生ならば、濡れた上着など適当にそこら辺へ置いておくだろうから、肩や袖口以外にもあちこち水滴が跳ねているに違いない。手で払う仕草をして(流石に映像が付加されることはなかった)、遊作は見定めるような視線で『店員』の姿を確認する。ボタンを首元まできっちり閉じた格好では、ソルティス特有の部品は隠れて見えない。
「……『頼んでない』」
 Aiに呼応して、芝居めいた口調になった。『店員』がゆったりと笑みをたたえるのが、白と黒の服装にどこか似合っていて遊作は少し悔しい。途端に脈拍が足早になったのはきっとそういう理由だ――遊作の掌が、少しだけ汗ばむ。
 映画の再現らしい、カフェのワンシーン。この部屋だけが現実から四角くくりぬかれ、Aiと遊作の劇場になっていた。演者も観客もたった二人だけの、侘しい劇だった。
「だからサービスだって。お前、近くの高校の学生だろ? たまに店の前で見かけるぜ、一人ぼっちで歩くのをな。どうせ今日だって連れもいなくて、慌てて入ってきたんだろ」
 それは俺のことか? 『高校生』は伏せていた目をきゅっと上げたが、『店員』には全く効果がないようだった。現実の設定を引用している点については脚本家に文句を言うべきだ。この時点で星二つだな、と遊作は心の中でレビューサイトに投稿する。世界観は良くとも設定はいまいち、とコメントを追加。
「だったら? お前には関係ない。このコーヒーも貰う義理はない」
「それ一杯分くらい、暇つぶしに付き合えよ。見てのとおり今日は定休日なんでな。オレがサボろうが、叱る奴は誰もいないってわけ」
 そう言って右手の親指で自らを指す『店員』は、見た目の清廉さに対してえらく不真面目な人物だ。どうやら現実を反映しているのは『高校生』だけではないらしい。
「どうりで明かりが点いていないと思った。しかし、鍵をかけないなんて不用心だな?」
 僅かではあるものの、Aiが目を見張って逡巡するのを見逃すような遊作ではない。この戯曲は瞬発的な言葉の打ち合いを続けることで成り立つ。外は雨、定休日なのに中にいる学生、原因は施錠失念とした場合、さあどう返す――顎に手を添えつつ、わざとらしくうーんと唸ってからAiが言う。
「そのこと店長には内緒で。草薙、怒ると怖えんだよな」
 なるほど否定せずに受け入れるケースときた。怒ると怖い店長役をここにいない人物に押しつけるところが、演劇であってもAiの性質が出ていて、思わず頬が緩みそうになる。お前のほうがずっと狡いじゃないか。



「お前は素行不良店員だったのか?」
「いやナンパしてんのよ」
「ナンパ」
 いや、それは素行不良だろう。
 ベッドを椅子代わりにして足を組むAiのしたり顔をつねってやる。「いって!」「店員とは思えない奴だ」人工皮膚の感触がやけに残って、遊作は親指と人差し指を擦り合わせた。高性能ソルティスであってもその表皮は人間のものより伸びが悪い。
 あの寸劇で満足したAiは、それでも恰好を戻すことはせずにだらだらと時間を消費している。既に夜半に差し掛かろうとしている世界から忍び込んだ隙間風が、いまだ止まないBGMとともに踊るのを、遊作は少し重くなった意識の奥で捉えた。雨は止んだらしい、いつの間にか音が消えていた。
 店員の格好を案外気に入ったのかもしれない(遊作も好感を持っている)が、いつまでもベッドに居座られると眠ることができないし、まず退くか着替えるかしてほしいのが本当のところだ。しかしそうは言えなかったのは、遊作の目に映るAiが、二人だけの短い映画に登場する『店員』だからなのかもしれない。確かにAiであるのに、Aiではない別の何かであるような錯覚が、どこまでも纏わりついていた。あるいは自分が『高校生』だからだろうか。
「高校生をナンパする奴があるか」
「遊作ちゃん限定ですー。お前が店の前を通りかかるのを見計らって、オレが鍵開けといたの」
「定休日に? わざわざ店の中で待っていたということか? それだけだと、いつ『高校生』が通るのか分からないだろう」
「それは、そのですね……」
「……監視していたな」
「あーまあ、そゆことです……」
「架空の登場人物になっても監視癖が抜けないとは。これじゃサスペンスだな」
「このあとコーヒーを飲んだ少年は気を失い、次に目覚めた時には見覚えのない部屋にいた。何処か分からない空間は生活感があるのに何かがおかしい。よく見れば自分の写真があらゆるところに飾られている。冷や汗が止まらない。そこに顔を見せたのはあの店員で……」
「おい、待て」語り出されるおどろおどろしい話に待ったをかける。「どういうストーリーなんだ」「どう、ってそりゃ、サスペンス?」『店員』の不敵な笑みがかえって恐ろしい。
「監視してる奴なんて大体頭おかしいだろ、ぜってーやばいやつ」
「その場面で出てきたとして、お前はなんて声を掛けるつもりだ」
「そうだな……ようこそオレのワンダーランドへ! 主役のお出ましだな! とか?」
 確かに危険人物ではある。白いシャツが赤く染まることになるのか……などと物騒なことを考え始めた遊作の頭では、Aiがコーヒーに睡眠薬を盛る映像が繰り広げられる。口をつけなくて良かった、幻なので飲むことなどできないのだが。
「本当の筋書きはどんなものなんだ」
「映画のやつ? えっとなー確か、店員が出したコーヒーを飲みながら談笑してるうちに雨が止む。んで、学生と連絡先を交換する」
「そうなのか」
「……までは残念ながら進展しなくて、また店に来てくれって約束をこぎつける」
「まずまずの出来だな」
「それで雨上がりの道を学生の姿が見えなくなるまで健気に見送るが、なんとそのあと学生が事件に巻き込まれるわけ」
「結局巻き込まれるのか」
 遊作は映画の登場人物にひっそりと同情した。望んでもいない災難にぶち当たるところに、なんとなく親近感すら湧いてくる。
「犯人は店員の顔見知りの客で、まーこいつが見かけは善人なんだけど中身がどうしようもない奴でよ。しかも手口は猟奇的。店員は自分を責めながらも学生を助けるために、あちこち駆けずり回るってストーリー」
「何故自分を責めるのか分からない。そいつは何も悪くないだろ」
「でもここが盛り上がりどころだったぜ。あーあれ、起承転結で言うところの転。店員にだってヒーローになる理由が必要なんだよ、急に、明日からヒーローやりますってやるわけにゃいかねえだろ」
 たとえ映画であってもそういうものか、と無理やり飲み込む。
 星四つ半の理由は実際に観てみないと分からないが、Aiがあまりにも身振り手振りを付けて説明するものだから遊作も少し興味が湧いた。最後に映画を観たのはいつだったか覚えがなかったので、もしかしたらこれが人生初の映画鑑賞になるのかもしれない。
 鑑賞という行為とは疎遠な日々を送ってきた遊作には、芸術や美術、娯楽にまつわる記憶容量がないに等しい。
 ゆえにAiからの依頼は、現実を脱皮するような、反対に幻想の皮を被るような感覚で、遊作には物珍しかった。今度、映画を観てみるか。頭痛を誤魔化しながらであったが、その気持ちを持てた分くらいはAiに付き合って良かったと言える。

「――なんか今なら、草薙の気持ち分かるかもなあ」
 徐に聞こえたAiの声は、遠慮がちに浮かんでくる小さな泡だった。ぷか、ぷか、水面に顔を出してはすぐに消える、ともすれば見逃してしまう波紋であったが、遊作の指先はその振動を確かに掴む。
 どういう意味か、訊ねようとAiを見たところで、遊作の動きが止まる。Aiが、唇を噛んでいた。何故? 人口の歯が人口の唇を押し潰しても血はでないし怪我もしない。けれどもその隙間にふっと、どこかに向けた悔いが見えた気がして、遊作の指はその表面をなぞった。瞼に遮られた目にも、同じものが隠れている気がした。
「Ai」
 すり、と指の腹で諫めてやれば、締め付けていた力が緩まる。離れた場所には歯形が残っていた。痛みがないとしても痛々しく思えて何度か擦ると、人工皮膚の素材は弾力を取り戻して跡は消えていく。
「どういう意味か、聞いても良いか」
「んー……うまく言えねんだけど……」
 とりあえずこっち来て。
 そう手を取られ、引き寄せられれば呼吸する暇もなくベッドの上だ。体重が乗りかかる前に『店員』から見覚えのある服装に戻ったAiは、やはり遊作のよく知るAiで、宙に浮いたような心が調子を取り戻していくのが分かった。薄いカーテンを隔てた向こう側にある別世界から、Aiが、自分が戻ってきた感覚。普段なら鬱陶しいくらいの装飾品が、今だけはAiを形づくる重要な要素のひとつひとつである気さえする。小さな音がして、見上げる。耳飾りが揺れていた。
「怖えんだよな、遊作がいなくなるのが」
 多分、草薙もそうなんじゃねえかと思って。その言葉に手繰り寄せられるように、遊作の中に草薙仁の輪郭が現れる。奇異な共通点を持つ草薙翔一の弟。ライトニングのオリジン。現実という劇中の、重要な登場人物。あの頃は当然ながら面識がなかったから、草薙が天国から地獄へ突き落された心地は想像することしかできない。
「映画の中で、お前、消えたんだよ。ずっと探し回ってたのに、なかなか見つからねえし」
「それは映画の話だろう」
 物語に出てくる店員と高校生の話に、何故そこまでAiが思い悩んでいるのか分からない。
「草薙もそうだけどよ、お前も、多分そうだったんだろ」
「Ai」
「悪かったな、とは思ってる。逆だったらどうだったか考えるまでもねえし。でも、お前は六歳の時に一度消えてるんだ。二度も消えるのは、オレも御免だ」
 ああ、と腑に落ちる。Aiは自分が姿を消したあの時のことを、何度も噛みしめているのだろう。そして、Aiが生まれた時のことも。
 僅かに残るあの頃の記憶は白かった。
 弟が帰ってこなかった時、草薙はどんな気持ちでいたのだろう。眠れないままで、何度朝を迎えたのだろう。草薙仁は、自分は、明けない夜を何度繰り返していただろうか?
 六歳の自分の周りで、一日中変わらない白夜が続いていた。染めようもない色は霧のように遊作を包んでいた。その記憶に躓いて、今でも時々足がもつれそうになるのを、Aiは知っている。茫々とした現実は先が見えない。自分の輪郭が白い世界と同化して、世界から取りこぼされるようで。
「それならずっと追いかけて、ずっと見てたほうがいい。見えなくなるほうがもっと嫌だからな」
 その気持ちが出過ぎちゃってAiチャン失敗しちまった、次はもっと良い脚本にするから付き合ってな。一度、自分の前から『会えなくなること』を選択した奴が何を言う。叱ってやりたかったが、もう何度もこの件については叱ったので遊作はほとほと飽きている。どれも、二度目はない。
 AIに心理はあるのだろうか。
 ソルティスの腕に抱かれながら思い描いた。ひとの奥深くに眠る願望がAiにもあるとしたら、本日限りの、あの雨音で仕切られた映画は、Aiの無意識の意識だったのだろうか。現実でも非現実でも、自分のことをどこまでも追ってくる瞳に、恐怖するのが人としてきっと正しい。だが遊作には冷や汗のひとつも滲まないのだ。
 ならば言葉どおり、ずっと見ておけ。その目に焼き付けておいてくれ。
 そう思うのは、あの霧の中で唯一残されたものがAiだからかもしれない。自分から切り離された別の自分。別の世界の自分。このままずっとAiと抱き合っていたら、いつかまた一つに戻るのだろうか? あの頃の、幼い自分に。
 だがやはり、それは俺ではない気がするんだ、Ai。
 いつか振り解いた手を、時を戻して掴むことができないように。始まったら終わるまで、止まることができないように。一度きりの、狭苦しいスクリーン目一杯に満たされたAiの形を観るたびに、遊作はそう思った。
「……この曲」
 ジャズはずっと流れている。次の曲は歌詞が付いていた。低い声なのに重苦しくなく、ふっと身体が軽くなる感じさえする。
「ん?」
「映画でも流れていたのか」
「ああ。とりあえず雰囲気重視でそのまま使ったけど、遊作が音楽に興味持つなんて珍しいな」
「一言多い。……何ていうか曲か、分かるか」
「『この素晴らしき世界』」
 気に入ったならダウンロードしとくぜ、という言葉に小さく頷く。まるで何度も聴いたことがあるような耳馴染みが良い曲には、人を眠りへと誘う効力があるようだった。コーヒーに盛られるより余程ましな睡眠薬だな。そう苦笑する遊作に、Aiは不服そうだ。「マジで盛ったりしねえっての!」拗ねたのか機嫌を損ねたのか、遊作をくるむ腕に力が篭もった。
 素晴らしき世界。確かに、お前がいるなら世界は比べようもなく。
 声になるには頭が朦朧としていて、遊作は夢への階段を下りていきながら、眠気に逆らえないようにできている人間の本能を恨んだりした。のろのろと腕を伸ばすと、すぐに強く返される。掴まれて、離れないことが明確なその力だけは、抗わなくてもいいかと思える。瞼が重い。
「ゆうさく」
 掠れた声で小さく呼ばれる。すると白い世界の中にふらりと影が落ちてきた。白夜を飲み込むように月の後ろから闇がやってくるのだった。夢の中でその中に溶けていって、こめかみの痛みはいつの間にか消えていた。
 明日もまた、Aiに飲み込まれるのだろう。投影された命の、青白いひかりが拡散して、自分を照らす。ひとつになろうとして、なれない。
 だが息苦しさも痛みも、いつかなくなる。幻は跡形もなく消え去る。あの霧を密閉した世界が、最後には呆気なく封を開けられてしまったように。だから自分はいつまでも振り回されて、求めて、広がる暗闇の中に溺れている。そう独りごつ。
 夜は遊作の身体をあたためた。白い光より随分とぬくい。間もなく黒い静けさに溺れた少年を、焦げた二つの月が追いかけていた――ずっと孤独に回り続ける、遊作のための衛星だった。



 翌日、Aiの話に草薙が満足げに微笑んだのが遊作は面映い。二人の話題の中心に自分がいるというのも慣れるものではなくて、気恥ずかしさに居心地が悪かったが、まずは先ほど受けた注文の品を準備しなければならなかった。
「珍しく遊作が興味持ってよ」
「へえ、そりゃあ。俺のじいさんばあさん世代よりもっと古い時代の曲じゃないか」
「……そうなのか? 草薙さん」
 手を休めずに聞き返す。意外だと思った。遊作が耳にした限りでは、音の脈拍が現代と変わらない体温を持っていたので。
「ああ。だが、古くたって良い曲だ。俺も好きだな」
 容器の詰まった袋を引っ張り出す草薙には、もう隈はなかった。「昨日は仁が早く帰ってきたんだ」とのことで、出勤早々それを聞いた遊作もどこか一息つく思いでいた。
 よっ、と袋を下ろして、草薙は歌の一フレーズをいびつな音程で再現する。
「海外の歌だからかもしれないが、聴いてると別次元の言葉って感じがするな。俺は学校の勉強はからっきしだったから、聴きとるのもしんどい」
「俺にはプログラム言語みたいな感じだ」
「はは、遊作らしいな」
「分かんねえならオレが教えてやろうか?」
「遠慮しておく」
「えー! 十ヶ国語も話せる超優秀なAIなのにい!」
 揃いのTシャツ、揃いのエプロンを着た三人の居城、カフェナギの前には斜陽が長く伸びていた。広場に敷き詰められた鼈甲色の光は、昨日の渋いコーヒーを薄く、何度も薄めて、そっと重ねていった色だった。
 草薙の深いところに沈澱したものが、それくらいまろやかになっていれば良いと思う。薄めて、伸ばして、いつか透明になる日がやってくれば良い。
 昨日、世界がこうであったなら、と遊作はおぼろげに考えた。
 非現実的な祈りと呼ばれるかもしれない、うたた寝のような思いだった。それでも歌詞にあったように、目に映る何もかもを余すところなく、肺の至るところまで吸い込んだら、あの日々を色とりどりに飾り付けることができる気がした。たとえ最後には夢に現れた暗闇がすべて塗りつぶしたとしても、きっと最高の世界なのだろう、少なくとも自分にとっては。
 その時が上映終了の合図だ。
 じわり、じわり。焦茶の染みがペーパーフィルターに広がる。同じ速さで、遊作の頭の隅から鈍痛が顔を覗かせ始めた。しかし、そのうち夜が打ち消すに違いない。
 注文されていないコーヒーを淹れながら、遊作は覚えたての曲を口ずさんでいる。



(了)畳む
火花
・遊作と同居人のAiと、遊作の友人である尊の夏。
・転生のようにも見える。
#Ai遊 #現代パラレル

 俺に対して滅多に怒らないAiが珍しく怒った時のことが、この時期になると思い出される。閉め切られた部屋いっぱいに水蒸気を充満させたような、その中で窒息するような、夏の日の夜叉。
 「花火やろうよ」と尊が連絡をくれたことが、嬉しくなかったわけではない。無邪気な子どものようにきゃあきゃあ喜ぶような感情ではなかったが、昇りたての朝日へ一歩踏み入れた心地に近い、自分の内側に小さな明るさが灯されたことを感じた。友人がいなかった俺にとって尊は希少価値の高い人物だ、本人にこう言ったら「化石みたいに扱わないでよ」と返されそうだが事実だ。なにせ他人が俺のなかの友人枠に振り分けられていることが稀なのだから。なお、Aiは特例だ。肉親でもない兄貴分の同居人なんて、ソースコードの例外処理や割り込み処理のようなものだろう。
 Aiには尊と出かけてくるということ、夜が少し遅くなるが深夜にはならない二点を告げてアパートを出る。尊とは街に流れる川沿いの河川敷で待ち合わせた。スマホの画面に並ぶ、イチ、ハチ、ゼロ、ゼロ。ジャージのポケットに仕舞い直す。この時、Tシャツで来たが虫よけを忘れたことに気付く。
 五分後。いやに赤い夕焼けの、太陽が地球に未練がましくしがみついている空の下から尊はやってきた。自分と似たような恰好で少し安心する、こういう出来事が初めてなので勝手が分からなかったから。彼の右手にはスーパーのビニール袋がひとつあって、しかも結構大きかったので、開口一番に「いくらだ? 半分出す」と言ったら彼に苦笑された。そこまで金銭面に細かく生きてきたわけではなく、互いに学生なのだから、こういった場合は割り勘が常だろうと判断しただけだ。
「大丈夫、貯まってたポイント使ったから実質ゼロ円」
「すごいな」
「何年分だろ、これですっきり使い切れたよ」
 飲み物とかも買ってきたんだ、と袋の中を見せてくれた。夕日で一層赤みを増した紅茶とジンジャーエールのボトルが入っていた。「あとお菓子」「不摂生だな」「今日は良いんだよ」もう片方の手にはバケツがあって、反対に何も持参せずやってきた自分を申し訳なく思う。そう述べると「気にすることないから」と彼は笑って眼鏡を直した。金具が小さく、かちゃりと鳴った。
 尊からバケツを受け取って、二人で砂利を踏み荒らし進む。河川敷はだんだんと足元から涼しくなってきていた。待ち合わせた駐車場から川の流れの傍まで移動する時、スニーカーの靴底が大きな石を踏んで僅かに痛みを感じたものの、慣れない足場に戸惑うのはその程度で済んだのは幸いだ。俺は行動派ではないので、ここに来るまで不安でなかったと言えば嘘になる。
 到着した場所は既に他方にも先客がおり、俺達はそれらの集団から適当な距離を取ることのできる場所を陣地と決めた。秘密基地というのはこういうものを指すのかもしれなかった。地球はようやく太陽を引っぺがすことに成功したらしく、西の空は徐々に深い紫色に染まりつつある夏休み。前を行く尊の背中に書かれたU2という文字が、どういう意味か分からない。俺はいつも何も書かれていない服ばかり選んでいたので。
 消火用に川の水を汲んでいる間、一緒に購入したというマッチと太いロウソクで、尊は器用にもロウの土台を石の上へと築いていた。その上にロウソクの根元を固定したところで少し風が吹き抜ける。風よけにロウソクの周囲を大きめの石で囲ってみたものの、高さが足りなくて風よけの意味をなさず、二人で笑う。火が消えそうになるたびに石を足したが、石を積んでも途中から崩れるのでやめた。炎を揺らす風は湿っていて、明日はもしかしたら雨が降るかもしれないと勝手に思う。
「火の用心、火の用心」
 呪いの言葉みたいに何度も繰り返すので「十分理解している」と答えたのだが、それでも尊は何度も繰り返した。ボヤでも何でも、油断からすべては始まるのは分かっている。が、それにしても呟きすぎであるのから、炎が親の仇のように思えてきた。そんなわけがあるか。
 スーパーで買ったという花火は手持ちのものから爆竹型など色々な種類が一袋にパッキングされていた。たった二人で使い切れるのか疑問に思ったのも束の間、尊の手が次から次へと着火しては手渡してくるので所謂わんこそば状態の花火リレーが始まった。風に乗ってやってくる肉の焼ける匂いに対抗しているのだろうか。人の目が少し気になったが(悪目立ちして注目を浴びるのは嫌だ)たった二人、しかも大声で騒ぐわけでもなくただ粛々と花火をしていたので、すぐにそんな心配は無用だったことを知る。その時、自分が思いのほか他人を気にしていることを実感し、できれば明日から空気になりたいと馬鹿なことを考えた。こういう思考をAiはいつも馬鹿にしていたからきっと馬鹿なことなのだろう。ただ今日に限って言えばその思考すら許されなかった、尊が「はいっ」と掛け声付きで手持ち花火を寄越すから空気は熱く発火するしかなくなる。こういうのが楽しいという感情なのだろうと思う、おそらくは――俺はしばしば感情の辞書を欲した。尊はといえば、火付け役の合間に自分の分の花火もちゃんと燃やしていたらしく、円を描いたり煙にむせたり忙しい。俺が火をつける側に回ろうとしても「いいから」と制されてしまうので、今度から花火奉行と呼ぶことにする。
 手持ち花火が尽きれば次は打ち上げや爆竹が待っていた。俺達は飲み物や菓子をつまみながらひたすら花火を消費した。これが夏休みの課題なら楽勝だよね、と笑う友人の周りはいま、二匹のねずみ花火が踊り狂っている。完全に太陽が去って、半月が半端な位置に貼り付けられた空は星があまり見えない。前に尊から聞いた、彼の実家があるというところならばきっと、とても多くの星が浮かんでいるのだろう。

 ちょうど二十一時になった時、尊のスマホが鳴ったことを契機に小さな花火大会は幕を閉じた。
「うわやば、ごめんねもう帰らないと」
「俺もそろそろ帰ろうかと思っていたところだ」
 本当のことだ。空になった飲み物のボトルや菓子の袋を片付けていたら俺のスマホも震えたのだ。きっと同居人からの催促だろうことは想像に難くない。バケツの中、焼けて半身が炭になった花火。少しも残らなかったロウソクの跡。過ぎ去った祭りの静けさが集約された陣地に別れを告げ、少し離れたところで別のグループが騒いでいるのを後目に集合した時と同じ場所へ戻る。
「また連絡するよ、じゃあね!」
「尊」
「ん? どうかした?」
「今日は楽しかった。ありがとう」
 友人との会話においてこれが正しい文章であったのか判断がつかなかった、しかしながら尊が一瞬停止したのちに「うん!」と笑みを浮かべてくれたことで助かった。嬉しい、楽しい、良かった、またな。別れたあと、そんな気持ちを引き連れながら帰路につく。閉店作業中の商店街も静まり返ったオフィスビルも、蒸し暑い夜を越えるために準備をしている。太陽が沈んでいる今だけが安息の時であると言いたげな影が、街灯を背負ってアパートまでの道に長く伸びていた。足早になっていることには自覚があった、今日はAiを甘やかしてもいいかと思うくらいには。
「ただいま」
「おかえりー! なあ連絡したんだけど返事、」
 鍵を差し込み自宅の扉を開けた瞬間、出迎えたAiの表情が笑顔から急転直下、文字通り転げ落ちるかのように変貌していくのには流石に驚愕を隠せなかった。帰宅を喜んでいたはずの目元は僅かではあるが、見るからに硬直し、口元は中途半端に開いたままで呆けている。どうしたってその様子はおかしかった、あたかも生気がするりと抜けてしまったみたいな。
「Ai」
 何があったか問う前に腕を引っ張られる。ぐっと、痛みが走る。靴裏を刺す石を思い出す。掴まれた手首の血が止まるイメージが浮かぶ。「おい!」連れていかれたのは風呂場だった。玄関からすぐの、シャワーと狭い浴槽しかないそこへ押し込まれて扉を閉められ、まるで俺を見たくない隠したいと言わんばかりの行動に理解が追い付かない。
「Ai!」
 扉を殴る。しかし自分の手が余計に痛くなっただけだった。拳を二度打ち当てたその時、遊作はやく風呂入って、と張りのない声がした。ふにゃふにゃのくせに低く、どこか悲しくなる声を、Aiから聞いたことはない。
「一体どうした」
「何でもない、何でもいいから風呂はいって」
 向こう側で扉を背に立っているのだろう、開けようとしたところでびくともしないため、結局諦めて風呂を決め込んだ。こんなAiは見たことがなく、自分の中の『Ai対応マニュアル』には頁すら存在しない。何がどうしたのか理解できないまま浴びる湯はそうそう心地良いものとは言い難く、耐え切れず溜息をつきながら全身を泡まみれにしていく。身体を擦るたび、帰り道に引き連れていた感情がぽろぽろ落ちていくようで、折角の今日というものがすっかりあやふやになってしまったことが悔やまれた。俺には友達付き合いというものはどこまでも向いていないのかもしれない、とさえ思う。面倒なことに、喜怒哀楽のうち怒と哀を感じるアンテナは異常に発達していて、混線したうえにいつも喜と楽をかき消すのだ。
 思考をやめる。シャワーを止め、適当に頭を拭き上げる頃にはアンテナの受信感度は上々で、本日の秘密基地情報はすっかり過去のものと化していた。
 風呂場から出たところで(今度は簡単に扉が開いた)ダイニングにAiが座り込んでいるのを見つける。シャツとスウェットを身に着けている間も微動だにしなかった。うちには椅子なんてものはなく長方形の机が床に置いてあるだけだったが、そこに突っ伏し、比較的大きい肉体をうまいこと折り畳んでいる。長い髪の隙間からいつもの流線形のピアスが覗いているくらいで、表情は伺えない。他、よくよく見れば家を出た時の服と違って既にルームウェアに着替えていることが確認できて、さっき風呂場が既に熱かったのはこいつのせいかとどうでもよいことに合点がいった。
「上がったぞ」
 声をかけたところで動かない。まるで電池が切れた人形そのものである。そういえばAiは時々「バッテリー切れ」とか何とか冗談を言うのだった――横を通り過ぎて窓際のベッドへ行こうとした瞬間、急にスイッチを入れられたかのようにAiが動いた。俊敏すぎる動きに対応が遅れる。座ったまま、横からぎゅうっと抱きついてきたAiから聞こえたのは「おかえり」という呟きだった。
「あ? ああ、ただいま」
 拍子抜けする声をしていた。先ほど出迎えた時の、風呂へ突っ込んだ時の波が消え失せた声はどこにいったのか、いつものAiだ。
 腰から太腿にかけてしがみつかれているせいで、これ以上歩みを進めることができない。とんだ肩透かしを食った気分にしゃがみ込むほかなく、ずるずると座って胡坐をかいた。股の間で塞ぎ込む男の頭を軽く撫でてやると、ぐす、と鼻をすする音がした。音で分かる、これはわざと出しているものだ。
「……結局何だったんだ」
「火薬の匂い」
「は?」
「嫌だ、この匂い。何してきたんだよ」
「え、……花火をした」
「ああ、そう、そうか」
 それだけ言って再び動かなくなったAiは常よりもずっと重く圧し掛かった。そのまま地面を突き抜け、星の中心へ向かって俺を道連れにするつもりなのかと思うほどの重量に立ち上がることを忘れた。代わりにただ、Aiを撫でた。少しずつ軽くなっていくように願って、ひとすじ、ひとすじ髪を梳いた。時々顔を腹へと押し付けてくるのが面白く、僅かな喜をアンテナが受信する。
 そのうち俺の背後に眠気がやってきた。足音をたてず襲い掛かる化け物みたいに、ぬうっと身体を床へ押しやる。分からない、けれども重要な何かを知ることができないまま、眠さに耐えられない二人は目を閉じた。
 現実から飛び立った先の空間で、花火が俺の身体を貫いた――夢の中、胸の奥で火薬が弾けて、煙から溢れた香りが体内を満たした。撃ち込まれたようだった。確かにこれは嫌だと思う。Aiも嫌うはずだ、と。
 苦々しく、甘く、肺を破壊する匂いで火花が散った。



 夜が明け切らないうちに目が覚めた時、全身が痛かった。床からベッドの中へと場所が変わっていた。抱え込んでいたはずが反対に抱え込まれていて、だから右腕が痛かったのかと理解する。互いに向き合いながら布団をかぶる時、どうしても身体が重なり合う体勢になるからだ。無理な姿勢とは言わないものの、この狭いベッドで引っ付いていればどこかしら固まったままになる。身体の下で縮こまった右腕を動かすと痺れを感じた。そのさらに下に別の腕の存在を認め、その腕も痺れているのではないかと勝手ながら思う。
 Aiの瞼は瞳を隠していた。その上を長い前髪が流れて、つい、退けてしまう。正面から見る顔は昨夜出迎えた時の不自然なものではなくなり、見覚えのあるものに戻っている。それだけのことに何故、こんなにも安心するのだろう。
 眺めていると、何も悪いことをしていないのに無性に謝りたくなった。夢のせいかもしれなかった。自分の中で爆発するあの匂いがAiに届く前に一言、悪かった、と告げる必要があった気がしてならない。
 けれども今は夜明け前だから、声は出さないでおく。その分も詫びたい気持ちを上乗せして、誰にも気付かれないようにキスをした。合わさるだけのものではあったけれども、普段ならばそうそうしないことなのでやけに気恥ずかしくなってすぐ離した――はずが離れていなくて、先ほど認めた腕が背に回っていることに気付く。こいつ起きてたな、いつからだ、くそ!
「う、ん……あ、Ai、んっ……」
 繰り返されるたびに深まる。ちゃり、ちゃり、Aiのピアスが踊る。俺とこいつの接点が面になって、強張っていた場所がふやけて、柔らんでいくのが耐えられない。ついでに言えば、しばしば吸い付く音をわざとらしく立てるので、今すぐここから抜け出して暴れたくなった。が、Aiが抱きついてくるので、どこにも行けない手がしがみつくようになるのがまた恥ずかしい。
 そうでもしなければ駄目になっていくのだ、俺が。
「ん、ゆうさく、……ほら」
 唇の隙間で呟かれると、声を咀嚼している気分になる。口開けて、と言外に滲ませる男が怖い。濡れた舌で、俺の舌を探られるのが怖い。あの花火の匂いが伝わってしまうのではないか、俺の内側に飲み込んでおいたものが引きずり出されるのではないか。緊張感に似た感情が、折り重なるキスの合間を縫って滲み出ていく。
 先に至るのはやめてほしい、あの夢がまだ真新しいうちは。
 口角に口付けられたり、唇を食まれたりされて、このまま受容してしまいたい欲が出てくる。だが心臓の近くで、肋骨の隙間から火花がちかちかと不規則に点滅しているのが見え隠れしていた。昨夜燃やした線香花火みたいだった。ぐっ、と抱かれても、早く早くと急かされても、いつもなら折れてしまうところだが今日は駄目だ。この光を知られないようにする義務があるのだと、神から、あるいは夢の中の俺から命じられている確信があったのだ。
 祈りが通じたのか、なかなか舌を許さない俺に痺れを切らしたのか、深まるばかりだった唇がそろそろと離れた。去り際に、れろ、と舐めていったけれど。
「んー残念……でもま、ありがとな遊作。かわいーことしてくれて」
「もう二度としない」
 そう言うとまたキスされた。「遊作がしなくてもオレからするって」にやつく男を拒否することは、できそうにない。
 口付けられている間、霧がかったような意識の隅で思ったことがあった。昨夜の重さの根源は確かに、この男が隠していた怒りだったのだろう。俺に見せたことのない、ともすれば見せたくなかった感情の切れ端は波長となって、アンテナに引っ掛かった。怒りの根っこがどこにあったのか、本当のところは知ることができなかった。
 そうして時間が経過して甘く苦い匂いが完全に消えても、季節が変わっても波長だけが残っている。再びやってきた夏の、血を薄く延ばしたような赤い空を見上げながら考える。今年もし、尊から花火に誘われたらどう理由をつけて断ろう? どう断っても怪しまれそうであったけれど、尊のことだから深追いはしてこないのだろう。おそらくもうすることのできない花火大会をひとり追悼した。
 俺がこんなに色々思案しているというのに、当の本人は「プレゼント」と言って火薬を使用した香水を渡してくるのだから困りものだ。七夕のことだった。あんなに嫌がっていた記憶はどこへ捨ててきたのか、苦手を克服したいのかはたまた諦めが悪いのか、判断できない奴である。俺に渡したくせに自分もつけるというので、それでは贈り物の意味がないのでは、と言及したら拗ねられたのでもう言わない。
 それでも、互いに同じ匂いになった日から、火花散る煙たい夢を見ることはなくなった。



(了)畳む
東雲
・シミュ次元ネタ。
・ネイルするAiとされる遊作。
・非日常になった世界の一場面。
#Ai遊 #IF

 どこかで耳にしたことのある旋律に遊作は天井を見上げた。思考する時の癖だった。どこで聴いたのか思い出せないがどこかで聴いたことだけは覚えている、だがAiはどこで知ったのだろう? と疑問に思った。音楽に親しくしているような素振りは見受けられなかったからだ。
 完璧な音程の鼻歌をBGMに、少年はひとつ息を吐いた。
 剥がれかけた天井の壁紙にある汚れはずっと前、遊作が引っ越してくる以前からこの部屋に住み着いている先住民である。陽の光の中で浮き彫りになった染みはもう取れそうにない。それをしばしば見上げながら二十分は経った頃か、時計を見ていないから体感ではあったものの多分そうだろうと踏んで「二十分もこのままだぞ」と小言が口を衝いて出た。
「まだ十五分でーす……うん……ふっ、へへ……」
「変な笑い方をするな」
 Aiの体内にあるクロックのほうが正確であるらしい。人間と比較すれば言うまでもないが、まだ十五分しか経っていないことを遊作は少し残念に思った。五分も誤差があったか。
 ふふ。足元で沸いた吐息とも溜息ともつかない微かな風が、草原の頭を撫でるみたいに遊作の爪先を駆け抜ける。風は温度を持たなかった。だがAiの唇(を模した部品)から押し出された、もしかすると内部の機器を冷却するファンが発生させたのかもしれないただの空気の流動が、遊作には生命の息吹に感じられた。少なくとも、ここにAiが居ることの証明材料として確固たる権威を持ち、それが少年を喜ばせた。
 ベッドの上で膝を山の形にして、腕を支柱に座っていれば、誰でも腰や尻が痛くなるであろう。Aiいわく十五分。その間ずっと足元でうずくまる男を視界に収めながら、痛みを辛抱して、時に天井を見上げつつ、放り出した両足を男の好きにさせていた。
 かたやAiは、左手に遊作の左足をたずさえ、右手にネイルポリッシュのブラシを持ち、画家のごとく着色に勤しんでいる。その周りには小瓶が三つ転がっていた。遊作は今朝の記憶を辿った。確か「足の爪塗らせて」と言い出したAiの手には四つあったはず、残りは――果たしてそれはあった。Aiの後ろ、テーブルの上にキャップが外された状態で置かれていた。つまりAiが今塗っているのはその中身であった。
 メッキをガリガリ剥がし混ぜたような金色の破片が、室内灯の光を孕んでまばゆい。
 ブラシがそれを含まなくなったら、Aiは律儀に振り返り小さな刷毛を小瓶へ浸す。そのたびに結い上げた髪(を模した部品)が犬の尾のように振られた。図体に似合わず何度も繰り返される行動は職人を連想させる。何の職人かは分からないが、何らかの職人の犬を想像して、脳内に浮かんだひどいイメージにかぶりを振った。
 Aiが動くたびにベッドはぎっぎっ、と泣く。成人男性相当のものに加えて少年一人分の重さに耐えるのはもう限界と言いたげに唸っていた。何度かAiが「もう買い替えろよ」と訴えてきたことがあるが、結局いつも耐えてくれるのだから持ち主はそれを壊れるまで使うつもりでいる。毎度変わらない遊作の返答にAiは呆れることしかできず、しかし懲りずに訴えを繰り返す。
 遊作自身は、ベッドが狭いのが好ましいわけではなかった。けれども、このまま小さな寝台を二人で蹂躙するのも悪くないと思ってしまう――自分の奥底で首をもたげる欲求を、遊作が口に出したことはない。言えば、Aiは嬉々として遊作を離さないだろうから。
 あと何往復すれば終わるのだろうか。遊作の目は天井と足元を行ったり来たりしながら時間を潰していた、しかしさすがに飽きる。この頼んでもいない作業(と言うしかなかった)の間に少年が自分から会話を振ることはなく、沈黙を繋ぐのはAi任せだ。それも塗っている最中は集中しているようで口数が少なかった。
「ふーん、ふふー、よっし出来た」
 遊作の気持ちを酌んだのか、あまりに唐突に旋律が止まった。おそらく曲の途中だったろう、不自然にぶっつり途切れてしまった。Aiは構いもせずポリッシュの瓶を閉じた。きゅ、と爪で床を引っ掻いたような音を最後に、元から鼻歌なんて流れていなかった様子で部屋にはからからと換気扇の稼働音だけが鳴っている。結局、遊作は作業が終わるまで曲の題名を思い出せず、消化不良気味な心地が腹の中に残った。
「どうよ! さっすがオレ様、完璧なAIワザだな。この金がギラギラしてて良いだろ?」
「よく分からない」
「もう! 遊作チャン相変わらず冷たいんだから!」
「……綺麗だとは思う」
「うんうん」
 きれーだよなあオレもそう思うわけ。笑うAiが嬉しそうなので、遊作も「これはこれでいいか」と頷く。目を細める男につられ、口元が緩む。
 飾られた足の爪を、遊作は不思議な心地で眺めた。爪先に一枚の膜をぴんと皺なく張ったような感じがある。両足の先端は菫に似た深い紫を下地にこしらえて、その上を大ぶりの金の屑が散っている。Aiがこの妙な趣味を始めてから、少年はそのきらめきがグリッターと呼ばれるものだと知ったが、知識が役立ったことは一度もない。使われる物も、Aiが勝手に手に入れてくるので他にどんな製品があるのかも知らずにいる。
 夜明け前の空を思い出すような、Aiにしては良い色だな。少年は内心独りごつ。色の選択もAIのディープラーニングによる結果なのだろうか、流行や好みを学習した……「その色、オレっぽかったから選んだんだよねえ」遊作の野暮な思考はAiの言葉で一刀両断された。体勢を戻してベッドに座るAiはどこか得意気だ。
「遊作チャンに塗りたくてさ。良い色だろ?」
「お前の色か」
「そ。よく似合ってるぜ」
 言われてみれば、電脳世界はさておき、Aiは紫を基調とする服が多かった。最近普段着として気に入っているらしいシャツも紫だ。また飾り物は大体が金色である。とりわけ象徴的なのはその瞳で、装飾品でないのに装飾品のごとく彼を一層派手にしていた。
 猫のような爬虫類のような、ぐりっとした二つの玉はいつでも遊作を映している。浮かぶのは自分と、どろどろになったAiの感情指数のみだ。その鈍い光に照らされるたび、少年の心臓は直に掴まれたように苦しくなる。
「いつもそうだが、そんなに俺を見ていて楽しいのか」
「楽しいよ。お前の全部、ぜーんぶ見てるの、すげえ楽しい」
 今もだ。光に重量があったならば、おそらく惑星一つ分ほどではないかと思われるほどに、重苦しくのしかかり血液を圧縮させる。ふつふつと沸き立ち全身を巡り、指先まで熱くさせる感覚は遊作の手に余って、Ai、と男の名を呼ぶしかなくなる。崩れる前に、Aiの冷たい指がひとつずつ拾う。
「どした? 遊作チャン」
 愉快そうな声だった。思い通りに駒を動かす王がそこにいた。こういう時に遊作は、Aiの内側にあるAIの気配を感じずにはいられない。自分の全てが透明で隠し事などできなくて、Aiは自分の知らない自分を知っているのではないか――脈拍や呼吸速度、じわりと滲んだ汗の量から計算され、ただの数値になった感情がAiに伝わってしまうことを想像する。ダムのように溜めておくことも、堰き止めておくことも許されずに、ざあざあと溢れる最も触れられたくない部分。
 少年は時々考える。非常に人間に近しいAiの感情は奔流に似ていて、その中で毎日を過ごしていると、この世とは途切れた別の場所で過ごしているかのような感覚を覚えることがある。そういう時、遊作は得体の知れない不安に駆られた。覚束ない足取りの子どもが道に迷って帰ることができないように、時のまばたきの狭間に落ちて誰かの迎えを待っている自分と、俯瞰的に見下ろす自分がいる。
 ここが何処か分からなくなる。自分と世界の境目が曖昧になって解けていく。
「遊作」
 けれども少年が遠い、知らない場所へ思いを馳せる旅人の目をしている時、Aiの声だけが少年を覚醒させるのであった。今日ももれなく、浮ついた思考を留める声が遊作を引き揚げた。その時だけはAiから低く、戯れを取り除いた音色が生まれる。

「どうして小指だけ真っ黒なんだろうか」
 ソファ代わりになったベッドで、端末を片手に動画を見たりニュースを見たりするのもそろそろやり尽くした。少し傾いた太陽は赤みを帯び、部屋の半分が染まっていた。
 茜の光の中、二人横並びに腰かけていた。遊作の視線の先、乾いた爪先の両端だけが黒である。親指から四本は太陽を迎える前であるのに、小指だけ忘れ去られたように夜のままだ。
 端末を手にしたままでAiは首をすくめた。人間でないのにそういう仕草をするのは、自分の真似をしているのかもしれないが、意味はきっとないのだろうと遊作は考えている。
「んー、なんかアクセント? スパイス的な?」
「そんなものか」
「そんなもんよ」
 に、と口角を上げるAiが「全部おんなじってつまんねーからさ」という呟きの中に企みを隠した。知りたいが、もっと近付いていたら焼け死んでしまうかもしれない熱量で、遊作をじっと捉えているのでそれ以上踏み込めない。少し恐ろしさすら覚える。だが、視線を外したくともできないのは、遊作自身がそれを望んでいないからかもしれなかった。再び心臓がぎゅっとなる。ずっとこうしていることがあたかも罪悪であるような錯覚がどこからかやってきて、少年の背筋に一筋の汗をもたらした。
 その感情を知ってか知らずか、唐突にAiが「ははは!」と笑うので驚く。「今からサンダルで出掛けようぜ! 夕方の海もいいじゃん? そんで見せびらかすのよ、その足」飛び出しそうな勢いで立ち上がる。一瞬間前と打って変わって、しかし少年にとっては真実助け船で(何かを発露するところであったから)自分もその空気に乗っかることにした。
「真冬に素足で出掛けるわけないだろ」
「えー? じゃあオレが抱っこしてやるからさあ」
「断る」
「即答じゃん。遊作のためなら専属の足になっても良いぜ」
「やめろ、願い下げだ」
「お前専属ネイリストも良いんだけど」
「それは毎回やってるだろ」
「専属シェフも良い。あ、パティシエはまだやったことなかったっけ? 教師、社長、運転手、使用人、隣人……どれも捨てがたいよな……」
 指折り職業の羅列を数える姿に、遊作はつい溜息をついてしまう。AIだから学習すれば何にだってなれるだろう、しかし何にもならなくていいのだ。
「Ai」
「ん?」
「お前はAiだ」
 俺から生まれて、俺と生きる、俺のためだけのAI。それはお前が一番よく理解しているんじゃないのか。
 よどみなく出された、心のままに編まれた言葉たちに、Aiはまばたきを忘れた。五秒。時が止まって、そこから復帰するために彼が要した秒数である。
「――はぁー……遊作チャンて、ほんとオレを喜ばせるの上手ね」
「喜ぶ言葉なのか、これが」
「そういうところがお前らしいよ」
 立ち上がっていたAiが身体の支えを放棄する。その腕が遊作を捕縛した。「ぐ、」腹に力を入れ、倒れ込むのは何とか阻止したものの、ベッドは何度目か知れない泣き声をあげた。これ以上辛い思いをするのは嫌だと、誰かの代理として涙を流しているようでもあった。
 汚れた空気、崩れた建物。狭かった空はビル群がいくつか無くなったことで見晴らしが良くなってしまった。人間の生活風景が既に過去のものとなった世界の端で、小さな小さな部屋の君主にかしずくAIは少年に見つからないようにひっそりと、底なしの哀しみに身を引き裂かれる。
 彼らのアパートどころか街から人が消えてから何日経ったか、口にするのをAiはやめていた。声に出してしまえば、止めることのできない砂時計が彼の前に置かれて、その流れをひたすら眺めるしかなくなる。この世はとうに地獄なのに、遊作だけを取り除こうとしてもいつもうまくいかない。少年が世界に繋ぎ止められている以上、その糸を切ることができない。
 遊作の言葉はAiにとって始まりの言葉であり、そして終わりの言葉でもある。
 涙が、その目尻から落ちることがあれば、多少なりとも慰めになったかもしれなかった。きっと遊作ならば優しく宥めるだろう。しかしそのようなことは起こらない、何故ならAiは人間ではない。事実を突きつけられるたびに「人間であったら良かったのにな」と思うものの、人間でなかったからこそ遊作から生まれ出たのだから、仮定の話をしても無意味であるとしてやめることにした。
 けれども、もし電気信号が肌触りを有していたならば、おそらくAiの一番奥にあるものは春風のように柔らかかっただろう。遊作が抱く印象にある、発火点に至るものでは決してなかった。
 ゆえに遊作が感じた風は、正しくAiの呼吸なのだ。
 Aiの隠し事には気付かないまま、その僅かな風を耳元で感じながら、少年が男の肩越しに覗き込んだ爪先は既に夜明け前の色彩ではなくなっていた。小指の黒点が空を飲み込んでしまって、もっともっと以前の、大昔から存在する不変の理が拡がっていた。まるで宇宙が生まれた瞬間のような。
 暫くすればまたAiは少年の爪を飾るだろう。不可侵で、誰にも覆せない経典を刻むために、世界を自分の絵の具で塗り潰すために、ずっと一人で。
「遊作、手ぇ握って?」
 いったん離れた男のねだる声に従って、遊作は差し出された二つの手を握った。握手とは異なる、互いを確認するための行動である。時々こうしてAiは手を合わせたがった。指を絡ませ合ったり甲を撫で合ったりすると、皮膚の感触の違いが浮き彫りになって、いのちが二つあることを改めて見つけることができるのだった。Aiの手首を撫でても血管は浮き出ていないし、遊作の掌には取れない皺がある。それらが喜ばしく、痛々しい。
 Aiが指の間に唇を寄せ、こそばゆさに遊作はついふふっ、と声を漏らした。仕返しを考えるが、自分にはできそうになくていつもされっぱなしでいる。だが一方的であるのも悪くなく、むしろ気分が良くもあった。だから提案してみることにしたのだ。
「明日の朝なら海へ行っていい。朝日が昇る前に行こう。久しぶりの外出だ」
「え、裸足で?」
「ああ。誰もいないだろうけどな」
「もう誰もいないほうが良い。誰かがいたらオレそいつのこと、」
「物騒なことを言うな」
 む、と眉を顰めるのを見たAiは「はいはい」と返す。しかし遊作の提案には大袈裟なほどに嬉しがって「やりー! 遊作が寝坊しないように今晩ずっと起きてるからなー!」などと言って遊作の両手をぶんぶん振り回した。「痛い」「そっかそっかー」聞こえないふりをするのは都合が悪い時の常套手段である。
 Aiが心底喜ぶのも無理はなかった、遊作が外へ出たのはかなり前のことであったから。いつもはAiが人目を気にしつつ、ネットワーク上を監視しつつ物品の調達をしているので(こういう時だけAiは自分が機械の肉体で良かったと思っていた)遊作が汚染された空気で苦しむこともほとんどない。現状、薬品類を入手するのもだんだん厳しくなってきている。何も変わらないでいてほしかったが、そんなことが通用する世界ではなくなってしまった。
 さて、振り回されている手の周回軌道上に一筋の緑が走っているのを見て、少年は訊ねたかったことを今更ながら思い出した。
「そういえばこの緑は何なんだ? 前は塗ってなかっただろ」
「ああ、今朝さあ遊作のやつ塗る前に塗った」
 男の手の爪はすべて緑に染まっている。芽吹いた若草の上に朝靄が寄りかかったような色味は、つややかに反射してそれぞれ雫を残していた。その中で一等太い指、右手の親指が遊作の唇をなぞった。何かを拭うかのような仕草であった。
 だから、距離の縮まった今では眼前にあの金色がある。遊作の心臓が一際波打つ。
 あ、と遊作の脳裏でひとつの考えが浮上する。宇宙が最初の爆発を迎えた時、きっとこの光彩が一気に溢れ出たのではないか。同じものが自分の足にある。そこから、深い孤独を撒き散らしながら、自分のもとへ駆けつけるまでの軌跡を辿ることができたなら、その先は銀河の向こう側へと繋がっている気がした。
 Aiの瞳が細まって、少年の像はぐにゃぐにゃに歪んだ。
「この色さあ、お前の眼の色だよ」
 オレの王様の色! そのまま親指を突っ込まれて遊作は何も言えない。ただ、もし明日太陽が昇らなくとも、海へ行くことだけ心に誓った。この宣誓だけは何があっても内緒にしておくべきものとして、遊作の中に仕舞われた。



 これを自動運転技術と呼んで良いものか審議しながらAiの服にしがみつく。両腕を回すのは今でも気恥ずかしさが残って、遊作にとって困難ではなくともなかなか気乗りしないことのひとつとして挙げられる。一段と冷えた朝が、余計そうさせる。
 「捨てられてたから拾ってきたぜ」そう言ってモーターサイクルを持ち帰ってきたのはいつだったか。
 犬や猫でもあるまいし、元に戻してこい、と言えなかったのは、それがおそらくは持ち主が街から逃げる時に邪魔になったか、こんなものでは逃げ切れないと判断して捨て置いた物だろうと察しがついたからかもしれない。雨が降る直前の空に似た灰色を、遊作が気に入ったこともある。加えて二人乗りで、手軽な移動手段がなかった彼らにとっては都合が良かった。
 無断で私物化した車体で街を駆ける。少し霞んで見える海は、ひと月前は遠くまで鮮明に見えていたはずであったのに、一枚、また一枚と薄い布を重ねるように確実に対岸が曖昧になっていた。街路樹さえ軍隊のパレードのごとく整列していたものが、いまやまばらだ。うち一本が枯れた時、遊作は「光が減ると命も減るのだな」と思ったのだった。
 跨るモーターサイクルと同じように、あちこちに行き場のない所有者不明の車体が放置されている。そのうちいくつかが視界を流れていった。咎める人間も処理する人間も足りない街は、これまでどれほど管理され統制されてきていたのかよく分かるありさまにまで収縮してしまって、倫理の糸が辛うじて社会を保っている。その糸を千切らんとする人間は皆どこかへ出て行ったので、暗黙かつ無言で協定を結んだ人々の生活だけが、縮こまった輪の中で継続しているのである。
 海岸線の冷えた空気は、冬の圧力だった。無遠慮に遊作の剥き出しの手から体温を奪っていく。「だから抱きついてなさいってば!」自分の背を掴む力が弱まっているのを察知したのか、Aiが叱るような声色で叫んだ。気を取られて、道路の段差に乗り上げた拍子に車体から落ちそうになるのを、寸前で引っ張られる。今度こそ手を回すはめになって、Aiにとっては喜ばしい。
「あっぶね! もー言わんこっちゃない!」
「悪い、ぼうっとしてた!」
 風を切る音にかき消されないよう、ひと際大きく返事をした。ガスマスクを隔てていては声を張る必要があったので。
 半年前、空気中のあらゆる成分が過去のそれと比して悪化の一途を辿ることが明白になった。その時、彼らはアパートの空調設備を自分達で強化し、より性能の良い空気清浄機能を取り付けたのであるが、安全が保たれた自宅とは異なり外でマスクをつけずに過ごせば、今では病院送りになるのにはたった一日しか必要としない。残った市民であれば皆が理解しているところで(各々の体調の変動によって各々が実感することで)、そのために病院を開けている誰かがいる。ただし正常に機能しているものは少なく、ほとんどが街と心中するような覚悟を決めた人間で辛うじて運営されている状況である。
 Aiが確認したことによると、これらの情報はいまやどこか違う街から配信されてくるものしか存在しない、とのことだった。この街のメディアがまともに機能しなくなってしまったので言わずもがな。それは外国であったかもしれないし、別の星であったかもしれない。誰かがこの街の現在を監視していて、それをネットワーク上に流しているのを彼は「こりゃ観察日記だな」と一蹴し、自分も同意したのだったな、と遊作は記憶している。
 この街は誰かにとっての娯楽である。
 単なる役割と化した自分達の生態が、毎日毎日飽きられもせずにモニター上に表示されているのだ。チャンネルのひとつに割り当てられた、遠いどこかの誰かとは無関係の話で、けれども今日もこうして生きていることが誰かに伝えられているかもしれない。あるいは届かないかもしれない。いつ揮発するか分からない情報が、誰に宛てた書簡でもなくネットワークに漂うさまを想像すると、自分のコピーがそうなっているように少年には感じられるのであった。
 少ない手持ちの服の中で最も厚みがあるピーコート(学校指定の支給品で、数回着用しただけである)では、モーターサイクルの速度で威力を増した寒さは完全には凌げない。耳はじんじんと冷たいのに、マスクで覆われた口元だけは温度が保たれているのが皮肉めいていた。対してAiは普段と変わりのない、薄紫のTシャツに黒のパンツという軽装だ。首元をネックゲイターで覆っているものの、結った髪が風でなびいても少しも寒そうではなく、当然ではあっても恨めしく感じながらその背にひたりと頬を寄せると、子どもが親に甘えるような仕草になった。
「いまどんな顔してるのか見てえなあ」
 耳元のピアスのように声を弾ませるAiに対し、ただ風を避けたかっただけだ、とは言わなかった。何度も叫んでいては喉がやられる。

 速度が緩やかに下降していく。風が弱まる。目的地に到着しました、案内を終了します、お疲れ様でした――そんな自動音声案内が聞こえてきそうな運転だったことを考慮すれば、これも一種のAI自動運転技術である。
 運転技術に限定せず、免許がなくともマニュアルをダウンロードすればすぐに運転はできるし、ネイルの仕上がりは回数を重ねるごとに美しくなっていく。食事をする必要はなく、大気汚染も気にならない。だから今も、ガスマスクなく浜辺に降り立つことができるのはAiが人間ではないからで、それがAiが遊作の隣に立っている最大の理由で、遊作の知らないところでAiを雁字搦めにしている。
「誰もいないな」
「誰もいなくて良かったぜ」
「見せびらかすんじゃなかったのか?」
「おう。さあ存分に見せてくれよ、オレに」
「お前にって、もう何回も見てるだろ」
「何回でも見たいもんなの」
 モーターサイクルを防波堤に停める。見下ろす先の砂浜は、いまだ藍色に満たされた空間の中でも分かるくらい人影がない。
 歩みを進める遊歩道は、海風で巻き上げられた砂の隠れ場所になっていた。その景色に、かつての心強い協力者が店を出していた場所を重ねてしまうのは、彼と会えなくなってしばらく経つことによる感傷のせいかもしれない――道から海辺に出れば波の音に寂寞も紛らわせることができ、遊作の心も僅かだが落ち着きを取り戻す。浜へ続くコンクリートの階段を降りたところで彼は靴を脱いだ。約束どおり裸足になろうとしたのだった。
「やっぱ抱っこしよっか?」靴を脱ぐのをAiは止めない。「寒いだろ?」
「いい、やめろ」
「なあなあ抱っこしたいー! ハグしたいー!」
「やめろ」
 事実、寒いことは寒かった。靴の下は裸足であったから、脱いだ途端に冷気が牙を剥いて少年の足を食らった。風が吹いていないだけましである。
 それでも、爪先の銀河系が目に入ると寒さなどはほとんど気にならなくなって、自分は存外気に入っていたのだなと思った。こんな遊びもたまには良いか、と思うのだ。たまに、という頻度で今後行われるかどうかは不明であっても、真冬に裸足で海を歩くなどということは、平凡だった頃には頼み込まれても決して了承しなかっただろう。だからこの先も行われるかもしれない可能性は十分ある。
 世界に引きずられるように、自分達も変化している。生物には生存の手段として順応する能力があるらしいから、自分も同じく、過去の自分からどこか変わっているのだろう。
 一歩、また一歩。遊作が進むごとに、ざくざくと夜を砕く音がした。砂の合間に爪先が輝いた。踏まれて粉々になった闇は、朝日が昇る前の濃紺から紫へ変わりつつある宇宙の入口へと飲み込まれていく。そこが、彼を出迎える。今朝配信された情報によれば、街の汚染レベルはひと月前より〇・二八パーセント悪化しているらしかった。にもかかわらず空がより美しく見えるのは、時々Aiの手によって爪先へ描かれる色が、目に焼き付いてしまっているからなのだろうか。
「なあ、寒いとか冷たいってどんな感じ?」
 少年と同じ歩幅で進む男の声には起伏がない。穏やかな海の凪と、どこか共通点がある。
「感覚の話か」
「そ。オレは想像することはできる。センサーで気温を計測することもできる。けど、実際のところ分かんねえからよ」
「そうだな……巨大な氷で徐々に圧縮されて、点になって消えたくなるような感じと言えば分かるか?」
「やばいってことは分かった。裸足にさせて悪かったとも思ってる。寒過ぎて消えんなよ」
「結局歩かせておいてよく言う」
「だってハグ嫌って言ったじゃん! ほら!」
 並行する足跡の上、差し出された左手を取った。あたたかくも冷たくもない手。人間ではないものの手。新緑に縁どられた手。その手が冷え切った少年の手を擦っても摩擦で発生する少しの熱しか宿らず、熱は膨らむことなくすぐに消えてしまうのだった。結局、握ることで熱を逃がさないようにしたらしいAiが「ありがとな」と口にするまで、波音だけを伴って四つの足跡が続いた。
「何がだ」
「今日、一緒に外に出てくれて」
「俺が来たいと思っただけだ」
「でもさ、嬉しいからやっぱ言っときたくてよ」
 遊作が右側を見上げると、自分を捉えるAiの目があった。波間に揺らぐ声とは真逆の、遊作を捕縛して決して逃さない瞳が二つある。沈殿する日々から呼び覚ます光がある。
 いつやってくるか分からない終わりをただ待つだけの今日が、昨日が、明日が、誰かの玩具でないことを確かめるために、ここへ来たのかもしれなかった。足裏の痛みを甘んじて受け入れる遊作を、金の眼球がメモリへ記録している。Aiの中へ残している。その視線を浴びる時、遊作はAiと向き合わざるを得ない。そのぎらついた瞳を見たくて仕方なくなる。
 この目には、俺が焼き付いているのだろうか。俺がお前の色を打ち消せないみたいに。
 そう思うと、ぞくぞくと総毛立つ感じが遊作を襲った。ガスマスクを取り外したのは半ば衝動であったけれども、そうしなければできないことなので、遊作が迷うことはなかった。自分には今、それが必要だった。与えてほしくなった。
「ちょっと何マスク外してんの駄目じゃ、っん」
 繋いだ手を引き寄せ、そのまま頭を抱えるように口付ける。別にマスクを外したとしても、現時点では少なくとも死に直結するわけではない。投薬治療をすればしばらく咳き込むだけで済む。だから、喉が痛くなっても肺が苦しくなっても、遊作はただキスがしたかった。間近で金色の光を浴びながら、爪先のきらめきを追い、遠い虚ろな影の向こう側へ行きたかった。
 波の音が消える。真空の中で、二つの命が立っている。
 何度も、何度も唇を寄せる。そのたびにAiから押し出される空気を酸素代わりに飲み込んだ。あの、柔らかな春風だった。ゆうさく、と声がしたと思えば、今度は反対にひたすらキスされる。唇の端から端まで、Aiの舌が形を確認するようになぞって、遊作の背筋にびりびりしたものが走った。
「んっ、んう……」
 そこから侵入した舌が、遊作の舌と絡まる。ぬるつく感触は自分の唾液によるもので(ソルティスは唾液を分泌しない)恥ずかしく感じたものの、止めることができない。互いに舌先で遊んで、隙間なく口付けたり、離れたりする。は、は、と短い呼吸をして、互いの目を覗き込んで、またキスをする。Aiの手が耳から首筋を撫でて、遊作の肩がびくりと跳ねた。それは欲求を膨張させる薬になって、冷え切った遊作の足に、指に、熱が宿る。
「……Ai、もっと」
 小さな声で求めると、喜びにかき混ぜられた色になって、あの目が自分を捉える。
「いくらでも」
 美しい弧を描いた唇に再び口付けられた心地よさに「ああ、変化だな」と遊作はおぼろげながら思った。生命体は自らを生かし続けるために必然的に変化する。俺もそうなった、至極単純なことだ――何せAiは俺のAIであるから俺に必要なのだ――空を占める紫が徐々に橙に上塗りされるまでその往復は続いた。
「ハグは駄目なくせに、キスは良いんだ?」
 離れた時の満足げな声に、思い返すと僅かに恥ずかしさがこみ上げてくる。
「したかったから、良い」
 そう答えると、Aiは「ふーん」と機嫌よく返しただけで、再び手を繋いで歩き出した。もう片方の手でマスクを弄びながら空を見ると、橙色はひと際強く空に出でて、遊作の瞼に強く残る色合いをすっかり食らってしまったのが、彼は少し残念だった。
「病院行くはめになっても知らねえからな」
「今日の指数はそこまでひどくなかっただろ。ひどかったら、出掛ける前にお前が止める」
「ばれてたか……でもここも、いつまでもつか分かんねえ。遊作だってそれは理解してるだろ」
「ああ」
「それに今日みたいに出られる日も少なくなる」
「そうだな」
「空気もよくないし」
「お前が酸素をくれればいい話だ」
 言葉が途切れて、夜明け前を踏み荒らす音だけが鳴った。それがどのくらい続いたか、五分か、十分か、もっと短いようにも思えたが、ふと歩みが止まった。
「……オレ、たまに遊作が怖えよ。そういうこと言うから」
 隣を見上げると、Aiは何かを耐えるような目をしていた。その原因がどこにあるのか、遊作には分からない。
「オレで命を繋いでるみたいなこと言うなよ。お前が望めばいつだってここから連れ出すし、どこにだって行くから」
 端々から今にもほろほろと、雨粒になってしまいそうな声だった。言葉が揺れるピアスみたいな雫の形になって、ああ、泣きそうだな、と思うが無論泣いてはいない。人に瓜二つであっても、苦しみに歪んでいても、意思がそうしたくても不可能である前提条件が遊作とAiの間に明記されているせいで、彼らはこんなにも異なる。
 波の音が再び聞こえ始めた。
 ざあざあ、ざあざあと騒ぎ始めた音に追いやられて「帰るか」と言ったのは遊作だった。もうすぐ夜が明ける。
「病院送りになる前に戻ったほうが良いだろ」
「……そだな。喉、大丈夫か」
「ああ。市街地から離れているからかもな」
 踵を返す。さっきの話の続きには応じたくなかった、おそらく自分は「ずっとお前の隣にいる」と答えるだろうから。言えば多分Aiは悲しむ。それが遊作は悲しい。悲しい気持ちはAiの中の星屑を覆い隠してしまうので。
 自分達の足跡を辿り、元の場所へ戻る道のりはそう長くはない。走ればすぐに終わる距離だ。それを緩慢な時計の秒針のように、ゆっくりと二人は進んだ。置き去りにされた靴が見えてきたところで、俄かにAiが手を引く。
「遊作」
「なんだ、手短に言ってくれ」
「キス」
 手短だろ? そうせがまれて、そうだな二文字だ、と苦笑交じりに手を伸ばした時、霞んだ海の向こうから日が昇り始めた。鈍色の閃光が冬の空気を払いのける瞬間、遊作は思いついた――歌も彩色も運転も万能なAIに与える最も適した仕事は、記録すること。その目で俺をただ記憶して、ただ残すこと。それがいい。あの小さな国が、目に見えない何かに圧し潰されて縮んで、点になって消える日まで。
 その記憶の蓄積が、やがてAiの命になるのだろう。



(了)畳む
カレーは甘いか中辛か
・Aiの夢の話。
#Ai遊 #現代パラレル

 牛肉鶏肉豚肉合挽き肉ベーコンシーフードその他もろもろのタンパク源を提示したもののAiはすべてに首を振る。くたびれたTシャツに描かれた『Go to Hell.』の文字を見るたびに、遊作は「新しい服を買ったほうがいい」と言っているのだが、今日もAiは同じシャツを着ていた。青年が気に入っているらしい黒のジーンズはとても似つかわしいので文句が言いづらい。
「無理、マジで決まらねえ。なんかどれも同じっていうか違い? 美味さ? そういうの分かんない」
「なら何も入ってないカレーでいいな。尊に殴られるのはお前だ」
「ごめんオレが悪かったそれは虚無過ぎるし殴られたくもない」
 閉店間際の『蛍の光』に遊作は焦っていた。「さっさとしろ! 尊に怒られる」「ごめんってばえーとじゃあ牛肉、この高いやつ!」間もなく金曜夜二十一時、何故これからカレーを作る予定が入っているのか遊作は先週の自分を思い出し、その面を思い切りはたいた。何を、尊が食べたいと言ったからだろう! どうにも尊とAiには甘いのが遊作の弱点だった。
 冷蔵ケースの中で最もグラム単価が高い肉をマラソン選手の給水ポイントよろしく引っ掴み、足早に会計へと向かう。無人レジどころか店内のどこにも客はいない、もうすぐ自動防犯機能で出入口のシャッターが下されるだろう。そうなれば今夜の食事は無し――それは絶対に阻止しなければならない。アパートでは尊が下ごしらえをして待っている(二人は包丁所持禁止令が出ていた)はずなのだから。
「鴻上了見のIDで支払っちゃお」
 スマートウォッチをレジの端末へ掲げるのを、遊作は横目で見ていた。ベルト横にぼこっと出た手首の骨が、実のところ好みである。Aiの体格は一般的な青年のものと比較して決して筋肉質というわけではないが、そのわりに例えば胸板を押しても全く倒れないところや、買い出しの荷物持ちで段ボール箱を抱え上げるところが遊作にとっては端的に言って良かった。羨ましいと言い換えてよい、自分にないものを相手に求めるというのは遊作の悪癖のひとつであった――そしてAiはその癖を熟知している。肌寒い今日、Aiがわざわざ半袖のTシャツを着ているのはそのためだ。
「あとでお前が了見に自己申告しろよ」
「そこで止めないのが遊作様だよな」
 からから笑うAiの掌でレシートが潰された。目もくれず、ぐしゃっという音とともにごみ屑になった紙に、遊作の頭には先日Aiによって処理された害虫が思い起こされる。
 Aiの中には『大切なもの』ボックスと『それ以外』ボックスがあるらしかった。価値がないものだと認定されると、迷惑メールが迷惑メールボックスに振り分けられるように『それ以外』ボックスへと入れられる。そこへ入れられたら最後、人物事象にかかわらず死ぬまで(あるいは消えるまで)存在しないことと同義だ。Aiにとっては目の前に現れるものを仕分けするだけの単純作業。生きる価値を己で示せられるものだけが、青年の矛から逃れられる。
 そうして遊作は自分が『大切なもの』ボックスに入れられていることを理解していないまま、Aiを拾ってもう半年になる。いまだに「こいつの収入源はどこなんだろうか」と思いながらも、また多方面から忠告を受けながらも、狭いアパートに青年が居座ることを許容している。
 『蛍の光』は店内に流れ続けていた。尊のバイトが終わる時間に合わせるとどうしても遅くなるものの、こういう時間が遊作は嫌いではない。ただこの同居人が毎度保護者面でついてくることはどうにかしたい、と思っている。「十八歳未満は夜間に出歩いちゃいけませーん」と言われてしまえば反論できないのを分かっていて、Aiはいつもついてくる。
「あ」
 同居人が肉のパックをエコバッグに突っ込むのと同時に、遊作のスマートフォンが鳴った。ジーンズのポケットから取り出す。画面を確認し、再び「あ」という短い声。
「何だよ」
「了見からだ……『不正利用するのはいい加減にやめろ訴えるぞ。こんな時間に肉だけを買うとはどんな生活をしているのか理解できない。今から向かう。』……だそうだ」
「は? コメ足りる?」
 言い終わると同時に、蛍の光が終わった。金属板をチェーンソーで切ろうとしているようなけたたましい音に、Aiの叫び声が重なる。「やべ閉まる!!」遊作はゴールテープを切る最終ランナーの気分で全力疾走した。



 開いたAiの目には何も映っていなかった。何処かの安全な国で、何も悩まず何にも苦しめられないただの青年Aiはいない。遊作と尊に怒られながら生活費を工面したり、鴻上了見に時々本気で遊作のアパートから出ていくよう言われたり、雨が降った日に濡れた遊作の頭をタオルで拭いたりした自分は瞼のなか、データとして消えてしまった。広がる暗闇には自分の虚像が、朧げなのに確かな存在感をもって寝そべっている。ネットワーク上の画像にあった、象に似ていると思った。それを端から切り取って食し、自分の中身全てとそっくり入れ換えることができたなら、自分は自ら作り上げた夢のAiになれるかもしれない。そう思ってみるが、本当に自分であるのか保証できないまま第二のAiが生まれるだけだ。新たな『Ai』に遊作との記憶を導入したところで、ただのコピーとなった自分が『それ以外』ボックス行きになることは確実だった。
 カレー食いたいなぁ。
 0か1の世界の中で、Aiは再び目を閉じることにした。データはここにある。カレーは甘口が良いと、あの遊作に伝えないと。なにせ食べたことがないのだ。畳む
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