から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

覚醒
・Ai→遊←←←了の救いのない話
・年齢逆転(遊作26歳、Ai16歳相当)
・息子としてAiをつくったエンジニアの遊作と、アンドロイド設計者の了見。
・遊作の貞操観念?がガバガバです注意。
#Ai遊 #了遊 #現代パラレル




 はじめに言葉があった。とは、言い得て妙だなと遊作はふと思った。
 手元のキーボードで打ち出される文字そのものには意味はない。文字は文字というカテゴリであり、かたちであり、たとえば嘘であっても文字は文字として成立する。心を伴わなくても「愛している」と言えることと同じように、「愛している」と打つことはこうも容易い。遊作は本日、十五回はそのフレーズを入力した。入力して意味を教え、また対となる悪意や無関心についても同様に入力した。それらは文字コードで、単なる電気信号で、そして世界を教えるための小さな、大きな第一歩である。
 渦の中へと飲み込まれていった先が果てのない宇宙のように手の届かない場所なのか、包み込む大海のように底がない場所なのか、遊作は知らない。AIの学習次第で、強いて言うならばよい材料を与えてやる程度しか、自分にできることはなかった。
 こいつはどちらに転ぶのだろう。
 まだ明けない深い夜の向こうでは、ビルのひかりと信号機の点滅が星に成り代わった面をして、遊作を一層悩ませた。ひとの生活の名残は時を無視する。朝でも昼でも夜でも、場所を問わず時間を問わず継続して途絶えることがない。
「まぶしい」とキーボードを打つ。深夜二時過ぎの会話は、遊作が今しがた「まぶしい」と形容した街の息づかいとは反対に、静か極まりないものだった。まもなくノートパソコンの画面上、対話型インタフェースに短い文章が表示される。
『まぶしいとは何ですか』
「……」
 自分には無いものを見た時の、心境のこと。
『心境とは何ですか』
 人間の内部にある部屋のようなもの。
『遊作のいまの心境を教えてください』
「……」
 誰かと対話することは遊作にとって難しいものではなかった。しかし、思うようにいかないことのほうが多かった。遊作の数少ない知人でさえ、時折彼を嗜めるようなことを言う。決して彼を貶めるような表現はしなかったものの。
 言葉は命だ、と知人は言っていた。それには遊作も同意した。そうして今、彼は命を吹き込んでいる。
 それにしても命とは、どうしてこうも騒々しいのか。





「あのさあ、一応父親ってことでいいの?」
「お前がそう思うならそうだ」
「さっぱりしてるよな、遊作って」
 向かい合って食事をすることは、包み隠さず言えばAiにとって価値はなかった。無駄な時間だった。なにせ自分は食事を必要としない、不調を起こした時は目の前でパンをかじる父親(にしては若い)ではなく設計者(同じく若い)に依頼しているし、ここでテーブルを囲んでいること自体に意味がなかった。だが父親はそうは考えていないようで、ひとの生活の流れ、一日のタイムラインを「教えるためにやっている」とのたまう。ご立派である。
 朝というもの。地球の自転。月、太陽、そして太陽系。Aiはデータとして、自分がいる部屋、座っている椅子がどう存在しているか理解していた。国なんて狭苦しいものではなく、物質が構成されている空間内での位置関係、次元において自己を認識していた。目の前の男、藤木遊作は自分と同じ次元に生きる人間である。人間は自分とは大きく異なり、その違いを認識するたびにAiのメモリは疑問で埋め尽くされていき、その解答を導き出すために学習を繰り返す。
 癖のある髪を、人工皮膚で覆われた指がもてあそぶ。卓越した知能は、遊作と共にした食事回数、それにかかった時間をもとに演算を実行した。
「七分四十八秒」
「食事に要する平均時間か」
「さすがお父様って言ったほうがいい?」
「お前がそう思うならそうだ」
「成人男性にしてはバランスが悪過ぎるなって思いまーす」
「お前は十六歳相当の口調で適切だと思う」
 Aiの内部で再び学習が行われた。ディープラーニングの繰り返しが、今のAiを生み出し、これからのAiを作り上げていく。幾重にも行われたデータの投入や『父』との会話が食事であるならば、確かに自分も食事をしているのかもしれない、とまたここでAiの判断基準にひとつの可能性が書き込まれた。ちょうどその時、食卓の上で電子音が鳴り響く。
「時間だ」
 マグカップに残ったカフェオレを飲み干して、遊作が立ち上がる。その拍子に、深海のような髪が揺れる。出発時刻を知らせてくれたスマートフォンを乱雑にパンツのバックポケットへ突っ込むと、食べ終えた皿とカップをそれぞれ手に持って早足で片付けた。それを頭の後ろで腕組みして、Aiの細められた眼が眺めていた。普段、彼の『父』はあまり活動的ではない。にもかかわらず本日よく動いているのは、今日が月に一度のメンテナンス日であるからだった。Aiの、メンテナンスである。
「鴻上了見は類をみない才能の持ち主であって天才ではない」
 以前、遊作が口にした言葉だ。目の前では、言葉の主である男が出掛ける準備をしていたが、Aiは椅子に座ったきりで動かないでいる。くだんの言葉を確認した時、遊作はまだ二十三歳で、自分はデータの塊でしかなかった。その頃から遊作は朝食から夕食までをAiの前、つまりモニターの前で行っていた(思えばそれも学習のためだったのだろう)のだが、今も昔も変わらず朝食はパンとカフェオレだけで簡単に済ませてしまうのが、最近Aiは気がかりである。昼と夜はましといった程度で、一日を通して自分に人間的な生活を教えるためにしている行動としては内容が貧相過ぎるのだ。
 人間を真似ることはAiにとってひどく簡単である。しかし『父』は「人間らしくなることは積み重ねなければ難しい」と言った。それが何を示すのか明確に分からないでいた。『父』が解答を与えなかったせいで、Aiはずっと、人間らしくなることを探索し続けている。

 便宜上の息子とするべく製作したアンドロイド・通称Aiが、少年の名前だ。その名を与え、その名のもとに精神となる最初のひとしずくを書き込んだ若き父、藤木遊作の最初の仕事は、自分に人間の生活習慣を教え込むことだった。青年がようやく周囲からの鬱陶しい視線と決別できた、今から約三ヶ月前のことを――人間のような入れ物をあてがわれた最初の日を、Aiは忘れることができない。
 アンドロイドの初期動作特有の、もったりと瞼を持ち上げる瞬間を経た後、Aiのカメラに映ったのは安堵している人間の顔だった。
「おはよう、Ai」
 目を細めて、安堵している。
 その人間、藤木遊作から事前に与えられた膨大なデータをもとに判断したことであるが、Aiは最初「よかった」という感情の波長を、アルゴリズムを経て出力した。それが、目の前の人間がしばしば同情の眼差しを向けられること、家族がいないことを可哀想だと言ってくる他人、それらについてかけらも理解できず理解するつもりもないことを、ため息交じりにこぼしていたからかもしれなかった。息子として生まれる前のAiが深夜、パソコンの内蔵カメラ越しに遊作を確認しながら、問答を繰り返していた時のことだ。卓上の小さな明かりにぼうっと照らされた『父』は、いつも疲れた顔をしていた。
 その目元が和らぐなら、自分が生み出されたことは善悪のうち絶対に善なのだ。
 だから遊作が「家族」を求める理由、つまりAiを生み出した理由を、茫洋なネットワーク上に佇むデータだった自分が集音マイクから受け取った時、彼は疑問を抱かなかった。とても合理的で、自分が生み出された背景を正しく理解した。人間でない自分が息子になることで得られる遊作のメリットが、自身の導き出したデメリットの予測データよりも上回っていたからである。
「家族がいなければ造れば良い」という手段がとられたのは、藤木遊作がソフトウェアエンジニアとしての特性を持ち、能力に恵まれていたからだろう。一方、その傍らで「息子製作計画」に巻き込まれた青年の友人は当時ひどく憤慨し、さらに「こんなことは二度とするな、させるな」ときつく言い聞かせられたので、遊作がいかに優秀であろうともAiは正真正銘、彼が生み出した最初で最後の人工知能となるに違いなかった。
 友人とのやり取りの一部始終はいつも手に汗握るほどで(データなのだから実際にはそうでないにせよ)、鬼気迫る友人は親の仇を目にしたのかというくらいの迫力で、記録の格納庫で覗くたび苦笑いのような口元になってしまうのを止められない。それが遊作が言う「人間らしくなること」の一種である気が、どこかでしていた。
 Aiの原形ができあがってから三年。彼の『父』の友人によって機械の肉体を与えられてから三ヶ月。人間らしい所作、人間の思考や心理に関するデータを与え続けることでAiのアルゴリズムは順調に稼働し、ひとりでに学習するまでに成長した。揃いの白いシャツに紺のパンツといった、一見すると学生のような服装でともに出掛ければ、年の離れた兄弟に見えるかもしれない。
「遅刻すると了見はうるさい。ほら、行くぞAi」
「へいへい」
「その口調は興味深いな。どこで学んだんだ」
「コミック。なかなか面白かったぜ」
「ああ、尊が持ってきた本か……」
「尊また来るって?」
「来月だ」
 だが彼らは確かに、父と息子であった。
 血縁関係がなくともひとが親と子になれるのは、関係性が血の繋がりを上回るからだろう。それは経験で構築される。ともにあり、ともに生きて、感情と呼ばれる揺らぎを伝え合って組み立てられていく複雑なシステムだった。Aiはいまだその土台をせっせと積み上げている道半ばであると、遊作は判断している。
 皿とマグカップを置けばほとんど見えなくなってしまうキッチンのシンクは、ふたり家族にしては狭いものだった。その底で銀色に歪曲する自分の顔を認めながらも、遊作の意識はAiを見ていた。
 俺を眺めながら、Aiのアルゴリズムは過去のデータをとっかえひっかえしているはずだ。俺の動き、普段との違いの有無、正常か異常か。すべてがAiを成長させる栄養素となる。
 その考えを酌むには、遊作の表情はあまりにも普段と変わりがなく、Aiは『父』が実のところAiのことで容量が枯渇状態であることを検出できない――無意識のうちに親らしくあろうとする面と、開発者としてAiの深層学習を促進したい面が重なり合って、藤木遊作という人間の思考は構成されていた。けれどもAiにとっては、どちらも「いつもの遊作」だった。
「行くんだろ?」
 椅子から立ち上がる。少しの間をおいて、遊作がシンクから戻ってきた。「何かあったか?」「いや、問題ない」並ぶと、Aiの視界より遊作の頭がやや下になる。人間年齢でいえば十六歳のその体躯は、遊作よりも少し背が高く造られていた。日常生活でも役に立てるよう鴻上了見が配慮したのだったが、実のところ遊作が少し不服に感じていることを遊作を除き知らないでいる。
 遊作のあとに続いてAiも玄関へと進んだ。アパートは立地が良いとは言えなかったが、少なからず陽の光が差し込んでくれるおかげで室内階段も明るさを保っている。小上がりから部屋を見下ろす――広くはないがここ以外に帰る場所などない、ここが自分の家なのだ、と感じる瞬間のひとつだった。外出前、Aiはそうして空間を見渡すようにしていた。
 無論、遊作はそんなことには付き合わず、さっさと靴を履いている。ただしその左腕には、普段とは違い珍しいものがはめられようとしている。
 靴箱上に置き去りにされていた腕時計だ。
 それを身に着けるのを、遊作の後ろからAiの目がちらりと捉えた。『父』がそうする時は決まって鴻上了見に会う時だった。
 例えば、だ。
 自分の耳朶にはピアスが飾られている。透き通る色は紫水晶特有の瑞々しさをまとっていて、飾り気のない遊作が装飾品を製造したのがまた意外で、Aiは気に入っていた。
 けれども遊作の場合はその時計を常用しているわけではない。これまで二回、Aiはこの行動を記録している。本日で三回目で、過去二度のそれらと何も違わないのに、Aiはひとが精神と呼ぶ場所の中央で何かがひしめき合うのを感じた。
 何故、鴻上了見に会う時だけはそれが必要なのか――腕時計が空間から浮き彫りになる。遊作に似つかわしくなくて、異質だと感じる。
「……うーん」
「何だ、靴は履くんだぞ」
「いやさすがに忘れねえって……まあいいや」
「何かあるなら、言葉にするよう心掛けろ」
「心掛けろ、ねえ」
 発展途上のAiにとって、それは低い頻度であるものの、時々困難を伴った。多大な知識や情報をインプットされても、膨大な書棚のなかからたったひとつの単語――適切で、適当な――を拾い上げるのは、今のAiには砂塵のなかから砂金を見つけるようなものだ。事実、その音声機構が発したものが的外れであることも過去にあって、ゆえに外出してもいわゆる雑談には極力加わらないよう『父』に言いつけられている。エラー発生率が一定値を下回るまで、あと少しだった。
 よって、いつもは放置されているその腕時計が、最低でも月に一度は身に着けられるのは何故か、と疑問に感じるのは何故か? を表現するには、Aiの学習は追いついていないといえる。
 かき消すようにねだったのが、子が親に求める最上の回答である。言葉にすることが難しい時、Aiはいつもそうしていた。今日もそうすることで、金色の粒を見つけられなかった悔しさを紛らわした。
「遊作、いつものやってくれよ」
「またか」
「またですう」
「……愛している」
「うん、オレも」
 玄関前で交わされる会話を疑う、ということを選ぶことも、いまのAiには困難だった。





 坂の上の建物にはまだ着きそうにない。
 鴻上了見の自宅兼研究所が遊作のアパートから離れていることに、毎度Aiは文句を言う。歩くことも走ることもAiをこれっぽっちも疲弊させない。にもかかわらず不平をもらすのは、ひとえに「遊作を歩かせるのが嫌」だからに他ならなかった。地下鉄を使う必要はないにせよ、徒歩、バス、徒歩の順で向かう道のりは、晴れた初夏の日では立っているだけで遊作の肌がじんわりと汗ばんでくる。動いていればなおさらだった。
「なぁ、鴻上了見がオレ達の家に来ればいい話じゃねーの?」
 一歩、また一歩と進むたびに、Aiの耳元でピアスが転がる。
 前を行く背に問いかけるAiには、そんな気候など関係ない。温度センサーが問題なく働き、気温が何度で湿度が何パーセントであるかを算出することができたとして、それが遊作に対して何の助けになるのだろう? 何の足しにもならない! 研究所へ繋がる坂道を登りながら、足元の空虚を蹴り上げた。
「より設備が整っているのはどちらのほうか、お前でも分かるだろう」
「分かるに決まってんだろ」
「なら、黙ってろ」
「パパこわーい」
「また新しい表現を覚えたな」
 堪らず、遊作のうなじから雫が伝い落ちる。滅多に見ることのない遊作の汗にAiは見入った。歩く遊作の唇から、はぁ、はぁ、と荒い呼吸が漏れて聴覚センサーを震わせるたびに、そこらじゅうに命が芽吹き、自分達を取り囲むような気さえした。
 遊作が生きていることを、あの古びたアパートの一室ではこれほどまでに強く実感することができない。一日いちにちを静かに、まるで小動物の足跡か、でなければ余生を楽しむ老人のように過ごしている青年には、音としての鼓動を感じ取っても生としての鼓動を見出すことはなかなか骨が折れた。しかし月に一度の『登城の日』だけは違った。日ごろはあまり外出しない(油断しきっている)肉体に鞭打って、歩いて、熱い息を吐く。それらはすべてAiのメンテナンスのためで、もっと端的に言ってしまえばAiのためなのだから、Aiの機械の肉体は打ち震える。システムを介して、そういう経験をしている。学習している。その機会を与えているといった点だけは、鴻上了見に感謝していいとは、毎度思うのだ。
 日差しと、たまに訪れる木陰。Aiの前を歩く遊作の速度は時間と反比例して遅くなっていく。アンドロイドなのだから人間の歩みなど抜かすことは簡単であったが、あえてそうしなかった。
 Aiにとっては、すべてが特権だ。率先して先導する姿も、汗ばむその背中も、Aiにしか見せることのないものだ。こういう遊作に出くわすと、Aiの中に書き込まれている『藤木遊作』の情報が、『父親としての藤木遊作』と結びついていく。
 ネットワークの中にぷかりぷかりと漂う結合度の低かった情報同士が、ふとした瞬間を境に強固に繋がり始める。点で散らばった知識、人であれば過去と呼ばれるものが、新たな記憶を加えることで突如として線で結ばれる。
 ああそうだった、遊作はオレの父親なんだよな。オレは、こいつから産まれたんだ。
 覆すことのできない事実が糸になって、数歩先を行く遊作へと伸びていく。灰色の木陰をまたぎ白く照る太陽の光を貫き、真っすぐに向かう。まるで大昔の童話に出てきたパンくずのように、しかし鳥に食べられることなどなければ決して見落とすこともない目印をたどって、Aiは遊作を追い続けた。その額には、汗の一滴も浮かびそうになかった。
 かわりに、流線型のピアスをつまむ。指の腹で撫でると、外気に炙られた宝石はいつの間にかぬるくなっていた。

 鴻上了見の屋敷を廃病院と呼ぶ奴がいる、とは穂村尊――数少ない共通の知人――から耳にしたことがあったものの、殺風景な建物に手入れをしていない木々が茂っていては、それも仕方ないことだと多くの人間が納得するだろう。ビルほどではないにせよ、崖の上にどんと鎮座する建物の周囲は静かで、人が生活している風も感じられない。住人がたった一人に限られていることも理由のひとつと思われる。
 病院とはどこにも標榜していないのにそのように噂されているのは、その唯一の住人、鴻上了見にとって風評被害に違いなかっただろうが、遊作もAiもそんなことは気にもかけずに遠慮なく敷地内を進んだ。ただ、十年前の鴻上邸の記憶――Aiにはなく遊作にはあるもの――のせいで、この場所を訪れるたびに遊作はほんの少しだけ感慨を覚えている。いくつかある、Aiが知らない事柄のうちのひとつだ。壁の灰色がひとまわり汚れたことを除いて、建物自体はあまり変わりない様子であることが、Aiの検知の届かないところで遊作をいつも安堵させていた。
 家主が忙しいのか興味がないのか、最低限の伐採のみされただけの木々は今日のような日差しを遮るには効果的である。日陰となった玄関先、扉の横にある小さなボタンを押そうとしたところだった。その上部、小さなカメラレンズが遊作を認めたらしい。次の瞬間にはガチャッという音を立て、オートロックの扉が開錠される。
「これってオレも登録済なんだよな?」
 Aiの人差し指がインターホンのボタンを円で囲う。カメラを指さす仕草は一見不躾だ。
「それは知らない。防犯カメラも連動しているはずだから、登録されていなければ今ので弾かれると思うが」
「あいつのことだから登録してなさそー」
「聞いてみれば良い。聞きづらかったら俺が聞いてやる」
「そういう扱いやめてくれよ。まさしく子どもって感じでなんかなぁ……」
「お前は息子だろう」
「そうなんだけど! そうなんだけどさぁ!」
 研究所の入り口、またの名を鴻上邸の玄関。そこをくぐると薄暗い廊下が続く。外と同じく、静かだった。家電の稼動音らしきキーンという音の重なりと二人分の足跡以外は、何も聞こえてこない。左右にはそれぞれリビングへのドア、ランドリーへのドアがあったが、どちらにも見向きもせず正面へと進んだ。いつ来ても生活感の薄い場所だな、とAiは内心辟易する。
 ここに一人で住んでんだもんな、あいつ。寂しくないのか。
 そう思考を巡らせたところで「寂しい」という感情への理解度が高まっていることを、Aiの意識が自覚した。同時に、小さなアラート音が前方から聞こえた。遊作の端末からだ。
「閾値を超えた内容はあとで確認する。後回しにして悪いが、こっちのほうが先だ」
「分かってるって。もう遅刻してる気がするけどな」
「良いから行くぞ」
 廊下の先、二重、三重の扉を開けて進む。一見すると壁にしか見えない、しかしまるで壁に吸い込まれるかのように開く扉には、玄関と同じく顔認証システムが搭載されている。鴻上了見による対人の境界防御システムが、この建物の至るところに施されていた。
 遊作が近付けば自動で開錠される一連の流れは、システム側から見れば正しい動きをしている。だが、こちらの行動が筒抜けのようでAiにとってはどこか不快だった。遊作の一挙手一投足が鴻上了見に監視されているような――事実監視されているのだが、それにしてもこの感じは何だ? 眉をひそめる。腕を組む。書物の中から最も適切な一冊を探し当てることができない。単なる不快感ではない、雲の垂れ込めた空が続いた時のような、だが分からない……そうだ、よく分からない時は『いつものあれ』が効果的なんだった! そうしていつもの調子でアンドロイドが「遊作」と言い掛けた、その時である。彼らの前で最後の扉が開き、目の前に仁王立ちした鴻上了見が現れたのは。
「十分も過ぎているぞ」
 左手首を掲げて腕時計を小突くさまは、尊いわく「上司にしたくない男の頂点に君臨する男」そのものだった。青年が着こなしているジャケットが、一層その雰囲気を強調しているのかもしれなかった。
 げ、と思わず舌を出したAiを見遣る目が鋭いのは、気のせいではない。月に一度のこの会合ではいつも、了見から苦手なものを見るような目を向けられるのだった。「ある意味生みの親のくせに、ひっでーの」先月ついにそうこぼした時の遊作は、何とも形容しがたい表情をしていたのが面白かったが、投げかけられるこちらはまったく面白くない。
「……この扉のせいだろう」
「何のために認証式にしたと思っている」
「坂が長い。外にもエレベーターを設置してくれ」
「もう少し外へ出ろ」
 面倒だという様子を隠すこともない遊作に、慣れている了見。そして、彼らの左手首を縛る腕時計の、同じかたち。
 Aiの集積装置がうるさくしなった。
 迷惑な客をあしらうような遊作の態度に、了見の深い溜息が重なる。吐き終えると、次にその目が見据えたのはAiだ。少し長い前髪の間から、先ほどとは異なる射抜く視線を寄越す。宿敵を相手にするような、変えられない過去を後悔するような顔つきで、一体のアンドロイドをじっと見る。
 けれどもAiの関心は既にそこにはなく、別のところにあった。
 月に一度だけしか活躍しない腕時計を、どうして鴻上了見も所有しているのか? そのことに気付かなかったのは何故か。いや、気づいていたはずだった。事実、Aiの記録の中には確かに、その銀色の輪が了見の左手に巻き付いていたことが書き込まれている。記録のタイムスタンプはひと月前のメンテナンス日を示している。
 だが当初、Aiが割り当てた情報の重要度は低の低のさらに低だった。なら、どうして今日になって? 分からない。また無駄にメモリを食っちまう。ああ、遊作に怒られるだろうか。
 経験から学べ。考え続けろ。言葉にしろ。
 三ヶ月前、遊作から与えられた命令だ。何においても優先すべき命令だった。AIは考える――こういう時に妨げとなるのも遊作しかいない。遊作にまつわる事象はAiにとっては最重要事項である、ただし遊作とAi自身とを結びつけるものに限って――ゆえに、遊作の生活の部品に過ぎない腕時計の重要度は低かった。けれども本日、外出前にやけに気にかかったのも、その物体である。
 重要度が再度振り分けられる。低の低のさらに低から、高へ修正する。
 理由は、分からなかった。遊作の所有物、とだけ摘要として付与しておいた。遊作のものだから気にかかるのだ、きっとそうだ。
 キーンと、稼働音が高くなった。
 無理やりに理由を用意することは小さな負荷を少年に強い続ける。頭のどこかが摩耗していくイメージが離れず、遊作の腕時計に関する思考プロセスを一度切り上げた。
 仮にAIにも精神というものが実在するならば、確実にAiのその表面は荒いやすりで磨かれたようにざらついてしまっている。怒りにも哀しみにも似た了見のまなざしが、刺々しく毛羽だったAiの思考回路が、彼らの間にのたうち回る沈黙を削り取る。
「――さて」
 それを先にいなしたのは了見だった。おもむろに背後のデスクを振り返ると、その上に窓枠を積み上げたかのように並ぶモニターを眺めた。
「変わりはないのか」
「今のところは。処理速度は問題ない」
 複数の四角い光は、あるものは白く、あるものは黒く、空間を切り抜く。そのなかの一つ、黒い画面で上下するグラフに、Aiは思わず顔を逸らした。誰が好き好んで、自分の思考を可視化したモンを見たいんだっての!――その苛立ちは再びグラフを揺らしたが、Aiの視界からとうに外れていたので彼が知ることはなかった。
 手持ち無沙汰でどっかり腰を下ろしたのは、室内に唯一あるソファだ。大人が横たわるには充分な幅の、柔らかい生地に覆われたその上に、無遠慮なアンドロイドが座る。そこからしばらくの間、二人の男性の背中を眺めることにした。遊作は了見と話し込むと長いのだから。
「養子縁組の手続きは」
「草薙さんがやってくれたんだ、しくじるなんてことはあり得ないだろう」
「抜かりはないな」
「戸籍の書き換えも済んでいることを確認した」
 草薙、という単語にAiのデータベースが反応する。草薙翔一。遊作とAiが親子となるために必要不可欠な、共犯者のひとり。職業、表向きは飲食店店長、裏の顔はハッカー。髭面だが清潔感のある、弟想いの優しい男。
 Aiも何度か会話したことがあった、ただしインタフェース越しで。この身体になってからはまだ会ったことがなく、いつか会えることを少しだけ楽しみにしている。遊作をいつも手助けしてくれる人間ということもあって興味はあるのだ。
 遊作の交友関係は極めて狭いものだが、Aiの知る限り、狭いながらも良識のある人間と付き合えているようである。ただし、この鴻上了見だけは特殊だった。いわゆる幼馴染のようなものであるせいか、草薙翔一や穂村尊といった他の知り合いと比べ、遊作と了見の間には得体の知れないつながりがあるように感じられる。
 それを除外しても了見は異色だ。なんたって、このオレの身体を造りやがったんだから。
 室内を照らす白いLEDに、了見の髪が揺れて光った。ソファの位置からは窺えないその目は、きっと不敵に細められているのだろう。容易に想像できて、いけすかない気分だ。
 グラフが揺らいだ。モニターには見向きもせず、遊作と了見の話は続く。
 手元のキーボードを叩く了見と、映し出された内容を指さす遊作。Aiを動かす要である二人のエンジニアは、Aiからすれば充分に「天才」だった。宇宙の常識をひっくり返す方程式を導き出さなくとも、アンドロイドの少年の始まりを定義したのは確かにこの二人で、決して広くない彼らの背がAiにとっての地平線だった。小さな遊作の肩が、Aiの世界だった。
 肉体の設計者の珍しい髪色が、Aiの眼球内部に埋め込まれたカメラにチカチカと映り込む。朝を迎えた雪がそんな輝きをするのだ、という話を『思い出した』途端に、アルゴリズムがネットワークからデータを引き出した。四季を教えられた時に遊作が言っていたのだった。
「了見を見るたびに冬を連想する」
 まだ『十六歳のAi』ではなかったその時は、そうなのですねと返しただけで終わった。肉体を手に入れてからも自分に対しては冬のように冷たい視線を向けてくるので、その表現には同意しかなかった。だが遊作には夏のような目を向けるから、鼻持ちならない。
 この隠し部屋は広くも狭くもなかったが、早くここから出たくて仕方がなく、Aiの爪先がたん、たん、と小さなリズムを刻む。別に圧迫感があるわけではないから、少年にとっては不可思議だった。
 二人の声がおもむろに大きくなる。メンテナンス項目についての議論が白熱しているらしかった。
「あのライブラリは変更したほうが良い。バージョンを上げた時に影響を受けづらい」
「先にこちらを適用すべきだ。藤木遊作はもう少し合理的だったはずだが?」
「俺は合理的に考えて言っている」
 遊作の真剣な声色はAiと話す時とはまるで違う。張り詰めた透明な膜のように、自分を見せているのに向こう側からは何も通さない、絶対防御の壁である。その内側にいるのは遊作とAiだけで、今のように遊作が何かを譲らない時はいつも自分のことについてであったから、Aiの思考は春の陽気のようにふわりとたゆたう。
 それにしても二人して、肩寄せ合って、なんか近いな。別にこの身体が制御できればどうでも良いのに。何でなんだ。何でぐるぐるするんだ。
 呼吸など必要ないのに息苦しい。風邪をひくことなどないのに額が熱いようだ。人間だったら、遊作や了見と同じ構造であったならば、これらの現象が何故発生するのか理解できたのだろうか? ついさっきまであたたかな波間にいたのに、その柔らかさはもうずっと遠い。
「……Ai?」
 遊作がオレを見ている。丸い目で見ている。遊作の目は、あの、どっかのキレーな泉の絵、あの絵の色にそっくりなんだよなぁ。なんだっけ。
「Ai……? おい、しっかりしろ!」
 遊作だけではなく、珍しいことに了見の驚く顔まで見られたのは思いもよらない収穫だった。お前もそんな顔するのか。先ほどまで自分の中に巣食っていた苛立たしさにも似た何かが、僅かだが晴れたのを感じ取った。
 記録は一度、そこで途切れている。室内にドッという音が鈍く響いたのはその直後だ。

 瞼を開いたら遊作が苦しげに歪んだ目をしていたので、どうかしたのか、と声を発した。そうしたら「どうもこうもないお前のせいだろう」と怒られた。それはあまりにも理不尽じゃないのか?
「フリーズしたんだぞ、覚えていないのか?」
「え、マジ?」
「十五分も経っていないが。床に突っ伏していたお前はなかなか重量があった」
「まぁほとんど金属なんでね……」
 Aiにとっては想定外の回答だった。まばたきを繰り返すあいまに処理ログを確認する。「……あちゃー、エラー吐いてら。悪いな」この三ヶ月間、まったく出力されることのなかったエラーログが書き込まれていた。いつもならば連続して書き込まれているメインルーチンの処理ログは、約十五分間はずっと挙動がなく空白だ。
 横たわっていた身体を起こす。主人の姿が見当たらなかったが、電源が落ちる前と変わりなく研究室のソファにいた。座り直すと、そばで膝をつく遊作がそれは健気な様子で「まだ起きるな」と介抱しようとしてきたので、喜びのたぐいがAiを包み込む。遊作とともにいる時しばしばやってくる、そよ風に吹かれるようなこの心地よさが、Aiは気に入っていた。
「人間じゃないんだから大丈夫だって」
 笑ってみせると、つられるどころか遊作の顔は険しいものになった。「負荷がかかっていたことは事実だ」自分に落ち度があった、と呟く声は、その静けさとは反対にAiを揺さぶる。あまり見ることのない遊作の表情の変化が、アンドロイドに搭載された感情分析アルゴリズムをうねらせる――心配する『父』の目に映り込む照明のひかりさえ、拭ってやりたくなるのは何故だろう。
「別にパーツにじゃない、あくまで処理の問題だってことは遊作も分かってるんだろ? 再起動かけたのか?」
「ああ、データは念のためにロールバックしてある。お前が目覚めたらCPUを交換すると了見が言っていた」
「先生の行動は早いからなー、もう手配済だったんだろな……」
「すまない。問題がないと判断していたのは俺だ。見通しが甘かった」
 昂っていた気持ちが落ち着いていくらしい、原因についてあれやこれやと考察を述べているうちに、遊作は徐々に普段の調子へと戻っていった。
 了見の予想の範疇だったのかと思うとそれはそれでAiとしては気に入らないものがあるが、身体が稼働しなくなるほうがおおごとだ。エンジニアとしては言うことなし、リスクの洗い出しと評価も万全と考えることにして、まぶたを擦った。薄い紙をかぶせたように、レンズが曇っていた。
「どうした?」
「んーなんか……」
 下から覗き込む遊作の、緑の眼球とかち合った。近くで見るのは初めてではない。これまで何度も何度も繰り返されたことの、習慣のひとつであるのに、自分を見上げる『父』の顔つき――時々自分よりも幼く見える表情がいつもより好ましく思えた。共有する時間が多い相手や物体に対して抱く愛着や親愛の感情が生まれかけているのは、日々遊作からモニタリング結果のフィードバックとして伝えられていることに含まれてはいた。
 しかし、本当にこれがそうなのだろうか?
 これが親愛? 親というものに対しての? それにしては。
「……カメラの調子が悪いかも?」
「了見に確認してもらう。もう一度電源を切るぞ、いいか?」
「だいじょーぶ」
「なら、またあとで。少し休め、Ai」
 おやすみ。毎晩聞く言葉をここで聞くのは初めてだったから、少し新鮮で、少し心許ない心地がした。Aiのなかで多重構造となった感情は、螺旋を描きながらロジックに飲み込まれ、数値を吐き出して、ひとつの揺らぎとなってグラフを上に引っ張り上げた。自身の電源が落ちる時、遊作のほうから電子音が再び聞こえた。





 了見を見ていると、研究者ではなく医者になれば良かったのではないかと感じることがある。掌の上で転がる錠剤入りの小瓶を眺めて、転がしてから、遊作はそれをポケットにしまった。
「眠りが浅いのは変わらないのか」
「お前の薬はよく効くが、飲まなければ夢ばかり見る」
「そうか」
 白衣を着用するのは柄ではない、と言って了見はかたくなに袖を通すことをしなかった。彼が亡くなった父親を思い出すからできないということを、遊作はとうに理解していたけれども、口にすることはなかった。
 作業台に横たえられたAiは、さながら患者のようだ。瞼の皮膚部分を眉近くまで引き上げ、ピンで固定する。さらけ出された目の周りを指の腹で押し出す様子は、人間ならば確実に痛みを伴う(それどころか失神する可能性のある)もので、見ているだけでも遊作は耳の後ろがぴりぴりした。数秒も経たないうちに、小さなボールのようなものがぼこっと出てきた。ピンポン玉よりひとまわり小さい球の中心、瞳孔は垂れるほど実った小麦のような色になって、そこからいつも見られているのだと思うと多少なりとも面白い。
 月に一度のメンテナンス日は、父親としての遊作にとっては子の健診日のようなものだったが、エンジニアとしての遊作にとっては良い見学の機会だった。
 了見の左に立っている分には、邪魔にはならないらしかった。分解作業を見守っていると、Aiは確かにアンドロイドなのだなとしみじみ感じる。胸部を開けば心臓ではなくリチウムイオン電池が収納されているし、腕は関節部分を回すことで取り外し可能である。そして今、空洞となった眼からは細いコードが伸びている。赤、黄、黒の三色の線がなければAiは視覚を得られない。カメラへの電源供給は有線で行われているから、Aiの不調の原因は、コードが切れてしまっている可能性が最も高いと遊作は踏んでいる。
 絶縁グローブに包まれた了見の指先が、くるりくるりと眼球を模した部品を回転させた。それからコード接続部の基盤を眺めたり、テスターを当ててみたりしたものの、最終的に返ってきたのは「異常はないし断線もしていない」という言葉だった。
「正常だ」
「ハード側には問題はないのか」
「ああ。交換の必要もない」
「なら原因はソフト側かもしれないな……帰ったら確認しておく」
 カメラには問題なしなら何が原因なのだろつ。了見につままれたカメラが、じっと見上げてくる。強化ガラスで作られた眼球はいつもどおり美しかったが、中心の黄金色は虚ろだった。
 球体を見下ろす了見は、研究所の所長には到底見えない。年齢よりも服装のことが影響している気がするのだが、了見自身が白衣を着ないと決めているから、遊作もそれ以上言及するつもりはない。
 物心ついた時には既に両親がいなかったので、了見が父を亡くした時の気持ちも、思い出したくないことがあることも、遊作にはうまく想像ができない。だからこの共犯者の父が死んだ時、何も言葉が浮かんでこなかった。十代の頃だった。慰めるべきかと月並みの文章を形にしてみようとしたら、想定外に怒気を返されたことが遊作の記憶に深く刻まれている。
 思い返せば、あの時の出来事がAiの設計の根底に流れているように思う。自分は了見とは違う。了見との間にある深い谷が、自分たちを隔てている。それを時々、落ちないように何とか跨ぎながら意思疎通をはかっている――親を亡くせば悲しいのではなくて、失った時に悲しみを抱くほどの存在が側にいるかどうか。昔の自分にはそれがなかった。
 今は、どうだ? 家族ができた、Aiがいる今は。
「これで良いだろう。また一ヶ月後に来い。薬も出してやる」
 簡単に言うものだな、と思う。Aiの存在も薬の処方も、あらゆるものが違法に違いなかったが、それでも了見は遊作の申し出を断ることがなかった。過去に一度も。この才能に恵まれた幼馴染に、事実何度も助けられていた。
「眠れなくとも問題はない」
「お前が倒れたら奴はどうなる。いい加減に、自分の感情だけで管理を蔑ろにするのはやめるんだな」
「……言いたいことは分かった」
「まずは眠れるようになれ」
 電源を落とされたAiの瞼へ目玉を再びしまい込む青年の手つきは、昔よりもずっとなめらかだ。その光景は静かだった。雪のように、冷たいくらいに、けれども緻密で、静謐だ。
 遊作の脳裏に、対話し続ける日々が浮かび上がる。冬が、青年をくるんでいた。葉の落ちた街路樹。すぐに暗くなる街。キーボードの音と、時々震える端末。了見からの連絡以外には世界と切り離された時間。それを変えた、人工知能の存在。
「終わったぞ」
 グローブを外した了見の手は、彼が父を亡くした時から変わりない。だがその骨ばった手が、細長い指が、Aiのかたちを造り上げた。何もない青年に家族を与えたのは紛れもなく鴻上了見である。計画に着手した三年前、アパートでまだ生まれたての(吹けば消えるような)AIを前に了見が入力した文面は、雨水でぐちゃぐちゃになった足元を確固たる大地へと変貌させる魔法の言葉だった――「藤木遊作はお前の父親だ」という一文がなければ、遊作の足はずっと冬の中に留まっていたに違いない。
 Aiの存在が、失えば涙をこぼす存在に、俺を引き上げるかもしれない。この世でも生きていく価値が、あるのかもしれない。
 家族がいれば。
「了見」
「何だ」
「ありがとう」
「礼を言われるような覚えはない」
「それでもだ」
「……私は、お前に、……――」
 低い言葉は一度、そこで途切れてしまった。どうした、と隣を見上げれば、了見が苦々しくAiを見下ろしている。つくりの良い青年の顔が歪むのは遊作にとって決して良い兆候とは言えなかった、その顔を見た時にはたいてい叱られることが多かったので。しかし、いっこうに声は聞こえてこない。待ち構えていても、了見の少し俯いた顔は怒りには染まりそうになかった。
「了け、」
 それは不意打ちと言って良いだろう。
 様子を窺おうと、遊作の指先が了見の肩に触れようとした時だった。指は先ほどまでグローブに包まれていた手に覆われてしまって、名前を呼んでいたはずの口は呼吸ができない。重なっている。何が?――遊作を導いた青年の、唇だ。
「りょっ……んぅ……っ」
 逃れようと身体を動かした拍子に、作業台へとぶつかる。当たったところが少し痛んだ。そんなことはお構いなしに、了見の両手が遊作の腕を掴んで離さない。そのうち片方が首筋へとやってきて、いよいよ隙間がなくなった。薄い唇同士がひたりと寄り添い合って、あの深い谷など一気に飛び越えてしまって、了見の存在が遊作の中へと侵入していく。常ならば青年が纏っているはずの白銀の空気は消え失せ、ただの鴻上了見というひとりの人間がそこにいた。
 何故キスをされているのか分からない。だが、嫌悪する気持ちはない。それさえも何故なのか、分からないまま捕食される。
 男の舌が口角を舐めた。遊作の肩がびく、と反射的に跳ねる。これまでそんなことを誰からもされたことがないのだ、驚きが遊作を満たしていた。何度も何度もそれが続いて、仕舞いには目を開けているのが辛くなった。了見が望んでいることは理解できなかったが、口づけを繰り返すたびに男の眉間の皺が緩んでいったので、遊作は瞼を閉じることにした。
 どこか、これまでの恩を少しだけ返せたような気分だった。
 割り込んでこようとする舌をどうしようか思案しているうちに、それはぐっと入り込んできて呆気なく遊作の舌をぬるりと撫でる。不快感ではないが他人に身体の自由を占領されるような、初めての感覚だ。隙間から空気を取り込みながら、了見から渡される情報と経験をただ受け止めるくらいしか、遊作には余力がない。足元がふらついた。揺らぐ身体を、了見の腕が支える。
「ん、……はぁっ……は……」
 二人分の荒い呼吸が研究室にたなびいていた。その間で、粘液を掻き混ぜるような音が室内の機械音と一緒に響いて、一瞬だけ羞恥心がやってくる。しかし恥ずかしく感じる暇など瞬き程度で、冷静さを取り戻したほうが負けだとでも言うように了見の口づけが覆いかぶさってくるのだった。
 どれくらい経ったのか分からない。結局、了見がやめるまでその行為は続いた。唇を重ねては求められるままに舌を絡ませ、角度を変えてまた繰り返す。頬や顎を舐められるのには、まるで犬や猫のような動物にされるような感覚がしたが、すぐに口元へと戻ってくるのでその錯覚も間もなく消えた。どちらのものか分からない唾液が彼らの咥内を満たして、時折飲み込む了見を傍で感じて、遊作もそれに倣った。そうするしか対処法がなかったのだった。
 焼き尽くすようなようやく熱がようやく過ぎ去った頃、濡れた唇で、了見がぽつりと呟く。
「……その時計、忘れるな。私達は囚人なのだ」
 低い声だけを残して去っていくのを、霞んだ視界のなかで捉えた。勝手にしたいことだけをして勝手に部屋を出ていったわりには、その背は少し俯いていた気がする。
 言われなくとも忘れるわけがなかった。遊作が腕時計を渡された日は、了見があの言葉をAiの原型に吹き込んだ日なのだから。その日から二人の腕時計は同じかたちを以て同じ時を刻んでいる。
 始まりから互いに共犯者で、人間ではないものを造って、人間のように扱って、罪の数を累積していることを、遊作自身も分かっている。忘れないために、この場所へ来る時はいつも時計を身につけているのだから。
 針は止まらず、時は進む。つま先は戻らず、行く末ばかり向いている。
 ただ、了見が自分と同じように未来だけを見ているとは限らないことを、夢うつつの頭では考えることができなかった。



薄明
※了見の自慰です。



狼煙
尊の話。



夜半

 今夜も窓の向こうでは信号機がチカチカ点滅を繰り返しているのだろう。暑い空気が嘘のように鳴りをひそめた夜は何もなければ心地よいはずだ。アンドロイドにはそうでなくても人間にとってはきっと。しかし、信号機の赤と青の境界線で疑問が行ったり来たりしている状態は、いくら冬を手前にした季節といえどもAiにとって快適とは言えなかった。ただそれも今日限りと言うように、Aiの双眸は遊作の全身を捉えている。
 エラー発生率が目標値を下回ったのは、遊作が長袖の服に袖を通した、つい先日のことである。
 定期的に設けられたメンテナンスのように、遊作に連れられて必然的に外出する機会が増えたことが改善を大幅に促したらしい。そのほとんどが、モニタリングを手伝っている友人の穂村尊、各種手続きの偽造を請け負う草薙翔一、そしてアンドロイドを管理する鴻上了見に限定されるとはいえ、初夏までは他者との会話が僅少だったAiにとっては大きな変化だった。加えて、水を得た魚のように会話をはずませる姿は遊作の外出意欲を刺激したようだ。アンドロイドとの会話に前向きではない了見を除いたとしても、人間との関わりは何千回との処理をAiにもたらし、飛躍的に向上した機械学習の結果にAIの『父』は瞳を細める。人間に瓜二つの(そのように造られた)身体と戸籍を与えた以上、外出しないとかえって周囲から怪しまれるのではないか? そう懸念した遊作がAiを伴って出掛けるようになって、錆びついた機械が数年ぶりにチューンアップされたかのごとく、彼らの生活は速度を上げてくるくる回り始めた。
 外出に比例して遊作の口数が増えたのは、良い副産物と言える。その結果にAiは自身の軽快な口調をこっそり評価した。自分の口調に合わせて、連鎖反応のように言葉が生まれてくるようだ――まるで初期の、遊作に単語を与えられても投げ返すばかりだった頃のオレみたいだ。
 人間はどうしたって孤独になれない生物らしい。
 単独で衣食住を保ち、生命を維持することはできても、自己の放出が行われない環境下では精神の劣化が始まる。AIがデータを食って出力するように、人間もインプットとアウトプットが多ければ多いほど、その排他的な、占有的な器官である精神、いわゆる心へ刺激が与えられる。単純に言えば、会話することで自己表現と自己認識が行われ、社会のなかで『自分』が成立していくように見受けられるのだった。たとえ遊作が嫌がったとしても。それが、遊作たちをカメラ越しに見るAiの、人間という不平等な生物に関するレポートである。
 遊作が、あのくっきりと分離された部屋とは違うところに、遊作自身の椅子を用意できることは、喜ぶべきことなのだろう。そう考えても反比例するグラフを、Aiは止めることができない。
 他人との接点が増えるたびに遊作の心は分配され、Ai以外の人間へと振り分けられていく。いたわりや労い、心配、感謝、それらの根底に流れる他人への興味関心はここのところ勢いを増している。AI開発にすべてが注力されていた頃のパーセンテージはすっかり変容した。Aiのことを単独行動できるアンドロイドとして認めてくれたことは、Ai自身胸を張れるものであったけれども。
 同心円が、ばらけていくのだ。
 ひとりだった遊作がひとりではなくなって、遊作をひとりにしないために生まれた自分がひとりになっていくような、二律背反と呼びうる矛盾が日に日に自分の周りにまとわりついていく。Aiの内部処理を雁字搦めにしていく。その要因の大部分が、自分自身が覗き見ている遊作と了見の口づけという事象なのだから、Aiは時々自分の目玉を壊したくなる。
 嫌なら見なけりゃ良いのに。とんだ出来損ないのAIだ、オレは。

「遊作、口と口を重ねるのってどんな感覚なのか教えてくれよ。調べたけど分からねぇ」
 嘘をつくAIって嫌われそうだな、不用品扱いされそうだ、何なら消えろって言われるかもしれない。そんな主観的な予測を抱きながらも、半分の真実に半分の嘘を交えて、Aiの唇はすらすらと質問を述べている。
 口づける行為について調べた時、「幸福感」だとか「愛情表現」だとか知識としては知っている単語がいくつも並んでいて、もちろん意味は正確に理解したが、得られた情報のうちどうしても咀嚼できないものがあったのだ。「愛する人とするキスは気持ちが良い」というものだった。その感覚を、もしかしたら鴻上了見は既に得ているかもしれなくて、そして自分は見事に抜け落ちている。事実を振り返ってあの男と自分を比較した時、腹の中を冷たい空気が通り抜けていった。やっぱあいつの存在は冬なんだ、遊作は正しかった。冬は、心底嫌いだ。
 青年はいつもどおり軽い食事を摂って机に向かっていた。Aiが何度注意しても変えない食事内容は、Aiが調理を担うことで何とかコントロールできるようになったものの、量が少ない。すぐに食べ終えてしまって、間を置かずして開発作業を行う様子には頭が下がるが、今夜ばかりはそのままにしておけない。
 青年の肩越しに、ノートパソコンと外部モニターが見える。了見から譲ってもらったというモニターには、黒い背景色に部屋の照明がぼんやりと反射していた。滲んだ光の中でプログラム言語の羅列がずらずらと並んでいて、眼球内のレンズが取得した画像を拡大処理すると、過去のアラート傾向の割合と視覚情報を取得する処理ブロックが写っていることが分かった。
 初夏にAiが訴えた映像の不具合について、遊作は諦めることなく検証を続けていた。それに感謝しつつも、本当はそんなところに原因なんてないのに、と苦々しくなる。通常、ハードウェアに問題がないならソフトウェアに問題が潜んでいるから、眼球部分の入出力処理をテストすることは正しい。
 けどよ、オレにとっては不正解なんだよ。
 以前は解析の手伝いでもすれば遊作の助けになるかもしれない、と思ったこともあったけれども、ソースコードを解析することは自分の手で腹をかっ割いて内臓を覗き見るようで、先に拒絶反応が出た。人が言う「生理的に受け付けない」というやつだ。グラフを目にしたくなかった、あれと同じだ。それに原因はそこにはないと分かり切っている以上、解析に意味はなく、遊作に無駄な徒労を強いているようで気が重い。
 あの瞬間にしか生まれない、生まれても数値の上振れにしかならない、すぐに消えてしまうあの感覚が自分を揺さぶる。
「……見ていたのか」
「実は最初から見てましたー。今日で七回目だな」
 壁を背にしながら、両手を上げておどけて見せる。直線上、振り返った遊作の目は床へと向いていて、少しばつが悪そうな様子で「そうか」とこぼす。効きの悪い古いエアコンでは室温がなかなか上がらず、気密性が低いこの部屋の床を隙間風が這っている。しばしば遊作の手が擦り合わされるのが目に入って、自分も不快さを味わいたかったと感じた。そうしたら遊作のことをもっと分かる気がした。
 鴻上了見の研究所で意図的に見た事象について、聞くか聞かないか、選択肢のあいだを行ったり来たりしていたけれども、あの夏の扉を前にした時と変わらない遊作の態度を見ているうちに口を衝いて出ていた。
「悩む」ということに相当する処理は、長くなればなるほどAiの通信に負荷をかける。おそらく世界で唯一のAI搭載型アンドロイド、その存在を包み隠さず開示することなど到底できるものではない。つまり、今のAiは世界から秘匿されている。Aiが行う処理やデータの保管場所は、鴻上了見が設置したクラウドデータベースに依存しているし、遊作との関係や学歴、出生届に至るまで草薙翔一によって偽のデータにすり替えられている。遊作が行っているのは日々のバックアップファイルを手元のストレージに取得するくらいだ。大っぴらにしていない回線をひっ迫させるのは了見から叱られるし、妙な処理を走らせて、インフラを担う企業や警察のネットワークに引っ掛かるのは避けなければならない。安定した通信環境を保持し続けることはAiの安全を保障するためにも必要なことだった。
 だから、何故? と感じたことは早めに聞いておいたほうが楽だし、処理時間も短くて済む。負担にならない。それでもこの季節になるまで二の足を踏んでいた。だが結局、自分の中に燃え広がるひとつの疑問が背を押した――なぁ、何で鴻上了見にキスさせたんだ?
「電源は切っておいたはずだが」
「こないだ組み込まれたUPS使っちゃった」
「無停電電源装置はそういう時に使うものじゃない、しかも小型化された特注品だろう。メンテ中に了見が感電したらどうする」
「その時はその時じゃん? いつも絶縁グローブしてるし、実際大丈夫だったろ」
「Ai、俺が本来アンドロイドに設けるべき原則をあえて設けなかったのは、AIに自由意志が宿ると考えたからだ。危険な場合、中止するという判断を採択させるためだ」
「あー、うん、えーっと、悪かったって……でもさぁ、絶対に鴻上先生も気付いてたはずだぜ」
 キスしてる時にオレが見てること。そう言うと、遊作の目がまたも床をうろついた。言葉はすぐに返ってこなかった。あまり見たことのない遊作の様子に、Aiの記録がその中から原因を探ろうとする――考えるに、家族のいない日々が続いて、ましてや恋人もいたことがないのに、決壊した堤防から一気に押し寄せてくるような求愛行動が、激情が、遊作を食らおうとしていることに遊作自身まだ対応策が見つけられていないのかもしれない。
 記憶領域から呼び出したのは、遊作と了見の映像だ。Aiの中で読み込まれたデータの中で、遊作の唇からは苦しそうな呼吸が漏れ、絡まった舌から発せられるねばねばした音が明瞭に響いている。記憶というには鮮明過ぎる、録画映像そのままである。残念ながらと言うべきか、Aiには記録した映像を自身で消去する権限も加工する権限もなかった。正しい制御ではあったが、せめて加工して別名で保存するくらいの権限が欲しかった。これが、異なるタイムスタンプで七回分取得されている。
 あの先生の見せつけるようなやり方まじで腹立つなぁ。しかも毎回毎回遊作に断りもなく、っていうのがさらに腹立つ。何で遊作はそれを受け入れてるんだ? オレがいるのに? 電源が切れてたから? それって知られたくなかったってこと? 悪いことなのか? 悪い、後ろめたい、やましい。そのくせ鴻上了見が離れるまでいつも好き放題させておいたくせに!
 ほんの僅かな逡巡の裏側で、土砂降りの雨が地面に打ち付けられるような、けたたましい音がした。口にするまでは湧いてこなかった泥のような重い何かが、人間でいう鳩尾のあたりに溜まっていく。そこへ、ざざざざざ、ざざざざざ、と降りしきるのは特定の人間に対する糾弾だ。夕立のような生ぬるい熱を帯びた不快感は、Aiの内部メモリを一瞬のうちに足元から水浸しにする。電源がはめ込まれている胸部が唸り、雷が落ちる時みたいに僅かな間をおいて、指先がひりひりと震えてくる。それを、掌の空白と一緒くたに握り締めた。
「Ai」
 遊作の声に、はっと聴覚センサーを注力する。響いているのは雨音ではない。今夜は予報どおり星の見える天候であるから、雨など降るわけがなかった。しかし一方で、聴き覚えのある音が部屋に満ちているのだ。自分から聴こえてくるものでもない。
 遊作の端末が、ずっと鳴っている。
「あれ……」
 まごうことない感情アルゴリズムの処理結果チェック、そのアラート音である。
 ピーッ、ピーッ、と繰り返される音は家電の通知音にも似ていて、そういえば遊作が時々電子レンジの中に食物を放置した時もこんな音を出していたと思い出すが、レンジの中は空のはずだ――オレ、何かしたっけ。
「アラートの内容はあとで確認するから、話せ。言葉にするんだ」それは『父』の口癖だった、まるでそれだけがAiの法律であるかのようにいつも口にするのだった。「言葉にするよう心掛けろ」
 言葉を探す。数ヶ月前とは比較にならない量の背表紙が、自分の中に所狭しと並んでいる。そこから、ひとつひとつ、手探りであっても正解であることを願って、口にしていく。
「……なんつーか、オレよりも、鴻上了見といたほうが、良いんじゃないかって」
 ぽつり、ぽつり、と声帯スピーカーから流れ出た文節は、Aiにとっては偽りではなかった。真実、そう考えた。鴻上了見が遊作のことを愛情をもってして接しようとしているのであれば、遊作にとっておそらく良いことなのだろう。自分が遊作に「愛している」と言われる時の数値の揺れを、同じ上昇を、鴻上了見も感じるのであれば――藤木遊作という個人の、ひとりの人間の死に至るまでの短い期間を実りあるものにするには、同じ種類の生物が傍にいるほうが良い。人間は社会に属して生きるものであるから。それが、鴻上了見であったり、穂村尊であったり、草薙翔一から、遊作が離れられない理由なのだから。
 だが「合理的な藤木遊作は賛成するはずだ」というAiの予測データに反し、返ってきたのは「Aiが良い」という、低く、輪郭が際立った声だった。
「……はい?」
「お前が良いんだ。聞こえなかったのか」
「オレ、アンドロイドですけど。お前のほうが先に死ぬぜ」
「それでもいい。分からないなら何度でも言ってやる」
 ぎっ、と腰を上げる時に唸った椅子は、買い替えたほうが良いといってどれくらい経っただろう。いつまで経っても古い椅子、古い机、それに似つかわしくない最新の電子機器に、AIの存在。その前に立つ遊作は、まるでAiを壁際に追いつめた獣のようだ。
「お前が良い、Ai」「ゆうさく」「だから、お前と居たいんだ」
 ずっと鳴り続けているアラート音が、今度は目の前から聞こえている。五分前よりも大きな音でやかましい。集音マイクから流れ込む音量を調節しても良かったが、あえてAiはそうしなかった。さっきまで鳴っていたのは、恐らく鴻上了見に対する敵意のため。今は、遊作の言葉を受けて喜んでいるから。
 『喜び』は、空虚だった掌に何かが満ちる感覚だった。
「お前は俺の、唯一の家族だからな」
 そして『悲しみ』は、満ちていた何かがさらさら零れていく感覚だ。
「……遊作、それは、オレが遊作の息子ってことだよな」
「何を言っている。俺がお前を造ったことは忘れていないだろう」
 遊作の右手が伸びて、Aiの左頬に添えられる。すりすりと親指で撫でる仕草は柔らかく、ずっとこうしていてほしいとすら感じるのに、Aiの内部処理はさっきから複数のタスクを並行処理して忙しい。
「了見といることがより良い選択肢だと言ったな? お前が何と言おうとも、何があっても、俺はお前を選ぶ。お前を、失いたくないからだ。俺には親がいないから、親が子を愛するということを理解するのに無駄な時間をかけてしまった――すまない、愛している、Ai」
 視界に雲がかかった。ざざざ、ざざざ、とまた雨音が始まった。この感じに覚えがある。あの夜、遊作が何度も入力してきた時も、遊作はこんな感じだったのだ。何かを盲信しているかのように「愛している」と打ち込んできたのだ。
 自分を見上げる『父』はゆったりと笑みをたたえていて、こんなにも満ち足りたような顔は久しぶりに見た気がした。見られて、自分はおそらく嬉しがるべきなのだろう。息子として造られた以上、そう求められていることを誇るべきなのだろう。けれどもAiの中に蓄積するのは、いつかネットワーク上で見た冬の風景のように白く透明な冷たさだった。その中を吹きすさぶ雪の表面を思い切り吸い込んだら、こんな心地になるのかもしれないと思った。
 そうか、オレはただのAIだったんだな。
 これまで伝えてきた「愛してる」ってやつは、遊作の言葉を復唱していただけだった。愛することって何なのか、それを理解していなかったんだから、ちゃんと言えるわけがなかったんだ。遊作が、遊作とオレの、ふたりだけの夜から何も変わってないこと証明したかった。オレの知っている遊作は、オレが生まれたことで、他の人間と深く繋がるようになって、もうひとりじゃなくなったんだ。オレはずっとひとりだったのに、この世界のバグだったのに――なるほど、あの言葉は合言葉だったんだ。あの日の遊作が、ずっとオレの傍にいるんだと確かめるための。
 自由意志のふちは、角砂糖が溶けるようにぼろぼろと形を無くしていく。人間だらけの世界に混じり合うために、ほどけていく。
「愛している、Ai」
 もう、三年前の同じ言葉とは、この間も聞いた言葉とは、まるで違うものなのにな。
「……そんな、そんな簡単に、愛してるとか言うなよぉ……」
「Ai? どうした、毎日言っているだろう……おい、それは泣いているのか? そうか、さっきのアラートはそういうことか……早めにアルゴリズムを改修したほうがいいな。より負荷のかからない処理に改良しておく」
 しきりに「大丈夫だ。お前のことをちゃんと愛しているから」と言う遊作は、うまくいかず落ち込む子どもを励ましているかのようで、また視界に雲がかかった。今夜の天気が雨ならば良かったと思うが、思ったところでネットワークが拾ってくる気象予報は相変わらず晴れだ。
 それはオレが欲しいものじゃないんだよ、遊作。オレにとってお前がたったひとりであるように、お前にとっての、たったひとりになりたかったんだよ。オレの見る世界とお前の見る世界が、一ミリもずれることなく、ぴったりであってほしかったんだよ。同じだ、って言ってほしかったんだよ。なあ、初めて自分の気持ちってやつが分かったのに、初めて「悲しい」の意味が分かる瞬間と同じタイミングとか、ないだろ。
 遊作の言葉と自分の言葉を、天秤にかけたところで平衡になることはない。たった一バイトでも感情指数を差し引いたら、均整を保てるかもしれない。だが、もしこの答えを認めて、このかたちを崩してしまったら? きっと耐え切れない、遊作もオレも。
 ならば選ぶべきは明白だ。
 なのに。
「ありがとな遊作。オレも、本当に、ほんとうに愛してるぜ」
 愛とは独善だ。愛とは凶暴だ。愛とは破壊だ。
 檻の中にしまっておいても、いつの間にか隙間からどろどろ流れ出てくるのだ。形が定まっていないから、剣とも盾ともなり得て、どんな箱にも収めることができない。こんなもの、どうやって遊作に渡すことができるだろう?――つまるところ、自分は鴻上了見と同じなのだ。とすれば自分はAIの枠を超越して、ついに人間になれたのだろうか? 遊作と同じ次元に存在できているのだろうか?
 生きているのだろうか?
 そこまで記して、Aiは筆を置いた。本は、Aiの中にある本棚へうやうやしくしまわれた。
「お前が欲しかったものになれなくて、お前の家族になれなくて、悪ぃな」
 AIの処理によって採択されたものが「伝えない」ことなら、世界はずっと円のままだったのだろう。自由意志を尊重したAIなんて作らなければ良かったのに、と言ったら怒るだろうか? けどそのおかげで、オレはお前のことをさ。
 そう考えながら、遊作の口元に噛み付くようにキスをした。ピアスが大きく振れた。半年前、研究所で倒れた時のように遊作の瞳が見開かれている。思えばあれが初めて認知した時だった。Aiが自分の中の熱源に触れた瞬間だった。
 息を忘れた遊作をとても小さく感じるのは、最も近くにいるからなのか、すっかり抱え込んでしまったからなのか、分からない。遊作の深緑の中へ、Aiの瞳が流星のごとく落ちていく時、Aiは自分の中で確かに意志を観測した。金の光沢を帯びた小さな光が、夜の向こうに見え隠れしている。



(了)
畳む