から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

ジェリービーンズ、カラー、ライフ。
・京遊義親子パラレル。
・2010年発行『ジェリービーンズ、カラー、ライフ。』再録
#京遊 #現代パラレル

 周りの人間が皆して俺の親父が若い若いと連呼するものだから、今の背丈の半分程しかなかった頃から、俺にとっての親父は唯の保護者じゃなく、世間一般で言う親父の型から外れていた気がする。まぁ事実そうだし。
 そううんうんと首を縦に振り頷く京介は、リビングのソファで寝転がるその親父を見下ろした。土曜日の朝、現在九時過ぎ。頭をがしがし掻きむしり、常日頃吊り上がっているが寝起きの今は目尻の下がった両目が父を観察する。二人掛けのソファは嘗て彼が家に迎え入れられる日に父が記念にと買い込んだものだ。昔はそのつやつやとした身体を存分に見せ付けてくれたものだが、今ではまるで老獪な男のように渋くなめされた皮を纏っていた。そこにぐうと沈み込んだ人間が父だ。
 父は仰向けで眠っている。その傍らには外された水色のストライプのネクタイが床に放置されていた。襟元を緩めただけのシャツをパジャマ代わりにして父は寝ていた。こうしてリビングで眠りこけるのは珍しかった。父は自分の生活リズムを完成させていて、滅多なことがない限りはそこから外れることはないから。机の上にほったらかしのパソコンと資料らしき紙から推測するに、恐らく仕事の準備でもしているうちに仮眠でもしようと思い、結局そのまま朝まで寝てしまったのだろう。背広をハンガーに掛けているだけ褒めてやるべきだろうか。そこまで考えて京介の腹が鳴った。
 兎にも角にも腹が減っているのだった。京介は右手でスウェットの上から凹んだ腹を撫でた。空腹感が増した気がする。
「おいおやじ」
 ちゅんちゅんと雀の会話が聞こえてくる薄暗い部屋には返事は響かなかった。カーテンの向こうはさぞかし輝いた空が広がっているのだろう。初秋の今日は、台風の影響で時折雨が降る程度で天候は極めて良好だ。あの茹だるような真夏日は隠れている。父は起きない。
 キッチンへと振り返る。京介はあまり料理が得意ではない。それは彼の父が家事全般を全てこなしてしまうが故に、子供のその能力を育まなかったのである。手間も掛かるし何よりめんどくせぇ。京介の料理に対する基本的な感想がこのようなものの所為もあるのだが。
 しかし今まさにその時が来ていた。料理すべき時だ。年に片手で数えるほどあるかないかのこの状況に、京介は至極面倒そうに大きな欠伸を一つ掻いた。それから只管睡眠し続ける父を放置して、京介は遂にリビングの奥にあるキッチンへと向かう。
 数分後。焦げ掛けのトーストの匂いに飛び起きた父は、寝起きに早速自分の行動を後悔することになる。



*あさごはん

「済まない、本格的に寝てしまった」
「……別に」
 寝起きの父の髪はいつもより二割増しで荒れている。あちこちに跳ね上がった髪を鬱陶しそうに指で除ける父を見上げた。
 結局完全に焦げてしまったトーストにはスペアは存在しなかった。その黒い物体が鎮座した食卓に、京介は不貞腐れた顔で座った。少し目を離しただけだ!舌打ちと共に心の中で吐き捨てる。
「なぁ、ファストフードでも食いに行かないか」
「節約すんじゃねぇのかよ。こないだ俺に食い過ぎだって文句言ってきた癖に」
「たまには良いだろう。それに今日は俺も作るのが面倒な気分なんだ」
 にっと笑った父が何を考えているのか分かっている。言い方がまどろっこしいのは俺のことを気にしてるからだろ。良い意味での気遣い。京介にとってはもう慣れてしまったもの。けれども遊星のそんな言葉の魔法が、京介は嫌いではなかった。それが遊星の愛情表現の一つだと知っているから。
 遊星、と尖らせた口で父の名を呼ぶ。彼は義父のことを親父もしくは名前で呼んでいる。遊星は皺くちゃになったYシャツを脱いでいるところだった。この間二十八歳になったこの義父の体躯は自分より一回りも小さい。これでメタボリックにならないよう気を付けているというのだから京介にとっては笑えた。そんな身体じゃいつまでたってもメタボにはならねぇよ。
「取り敢えず十分以内でシャワー浴びて来いよな」
 朝のセット終了まで時間あんまねぇんだから。半分拗ねた声でそう言う京介に、遊星は笑みを一つころりと零した。
 脱衣所の扉が閉まってから、京介は自分の部屋へと向かった。父の自室と隣り合わせの部屋が京介の部屋となっている。起きてからそのままのベッドに腰掛け、布団の上に放置してあったスマホを開いた。LEDがちかちかと点滅している。新着メールを知らせる画面をタップし、表示された友人からのメールに京介は間抜けな声を出した。
「……あー」
 内容は『昼イチ集合』。今日カラオケ行くんだったな。約束していたことを思い出した京介は、けれどもメールの返信画面に正反対の文章を打ち込む。
 今日パス、用あったわ。
 たしたしたし。文字を押し込んで、送信。本当は用事なんてないのだが、なんとなく、本当になんとなく断らなければならない予感がしたのだ。昼から出掛けると遊星に言ったら、きっとしょげてしまう気がして。
「ファザコンくせ……」
 げ、と舌を出す。しょげるだなんて確信はない。が、平日はなかなか多忙な父のことだから、自分が構ってやれていないだとかいう自責の念を何処かで抱いているかもしれない(あくまで憶測だが)。その不満を発散させてやるために敢えて出掛けないだけだ。そう理由付けて、京介はぐうっと伸びをした。
 壁の向こう側から、再び脱衣所の扉が開く音がする。スマホの時計を確認する。よし、十分以内だな。律儀な父の行動に、京介は満足そうな笑みを浮かべた。



*本屋さん

 子供が父親の仕事ぶりを見て、自分もいつか父のようになりたいと考えるのは素直な気持ちだと思う。しかし京介と遊星には当て嵌まらなかった。遊星の情熱は仕事よりも趣味に対して大いに向けられていたので。
 そもそも京介は遊星がどんな仕事をしているのかそれ程興味はなかったし、遊星も自分が勤めている会社や仕事について話すことはあまりしなかった。今度出張があるだとか、残業で遅くなるだとか、精々その程度である。
 ファストフードの朝飯を済ませてから、二人は開店間もない本屋に立ち寄った。服にポテトの油くささが染み付いている気がして、京介は着ていた黒のTシャツに鼻を近付け嗅いでみた。思ったより匂いはしない。
「お前、朝からよくあんな大量に食えるな」
「親父が食わなさ過ぎなんじゃねぇの」
「誰もがお前のようにセット二つが標準だと思うなよ」
 うぇ、と顔を歪めた遊星を横目に見下ろしながら京介は髪を弄った。彼の髪の毛は何度も脱色を繰り返したせいで白に近くなっている。校則違反も甚だしいのだが、京介にとって高校の生活指導担当の怒声は軽やかに通り過ぎる秋風と同じだった。と言うのも、それ以上の怒声を父から浴びた経験があるからということと、授業を真面目に受けない、或いは警察沙汰にならない限り、その父が容貌等には何の注意もしないからであるが。
 本屋の自動ドアをくぐると、遊星はすぐさま早足で店内を進んでいった。間も無く父の紺色のシャツは点になった。その後ろ姿を見ながら京介ははぁと溜息をつく。相変わらずだな、親父は。
 遊星とは反対に、京介は踵を擦りながらゆったりと歩く。遊星が何処に行ったかはもう分かっていた。数十歩歩いた先に父を発見する。彼はバイク雑誌に見入っていた。それはもう熱い視線で。
 この若い父はバイクに乗るのも弄るのも大好きだ。働く目的が、一に生活費、二に趣味と言う程に。なので京介にとって、父親の働く姿に憧憬も何も抱くことはない。ただ、この若い父が趣味に没頭しているところを傍から眺め、自分もいつか父のように派手なバイクを作り上げてみたいと思っている。但し、カラーリングは遊星の好きな赤ではなく、これから夜闇に染まる空のような紫がかった黒が良い。そう思い描きながら、遊星の左肩を叩いた。
「俺も中型か大型の免許取りてぇ」
「そのうちな」
 口元は緩んでいるが、遊星は目は雑誌の中の特集ページに釘付けだ。
「カブじゃ満足できないんすけど」
「高校卒業するまでは我慢しろ。それに車の免許を取るのが早いんじゃないのか」
「車ねぇ」
 遊星の左腕の上から雑誌を覗き込む。艶めく漆黒の大型バイクが低く傾いてカーブを攻める写真に胸が躍った。
「いや、やっぱバイクだわ。かっけぇし。てか乗りこなす俺が絶対かっけぇし」
「お前は相変わらず一言多いな……」



*お知り合い

 本屋を出た先で出会った人物は、京介の顔を瞬く間に歪ませた。
「うえええええ何っでてめぇに会わなきゃなんねぇんだよ!!」
「いつも息子がお世話になってます」
「こちらこそ」
 おいルドガー!! 吐き捨てるように叫ぶ息子に、遊星は一発肘鉄を食らわす。
「ぅげぇっ」
「ルドガー先生、だろうが」
 鳩尾を押さえる京介は僅かに込み上げた吐き気に俯いている。肩が微妙に震えているのは幻覚ではない。すみません、と遊星が謝罪する。こいつ、まだ口の利き方が未熟なようで。
「いえ、別にお気になさらず」
 ルドガーは頭を垂れようとした遊星の行動を片手を上げて制止した。親子よりも何倍もがっしりとした肉体は体育教師の肩書に相応しい。
「担任としても、彼の運動神経には鼻高々ですよ。おかげでクラスマッチは毎回優勝です。ところで大学はもうお決まりですか?」
「あぁ、いえ、何れは……次回の三者面談までには、目星を付けておきます」
「運動部に入っていないのが残念ですかね。スポーツ推薦が使えないので」
 ふぅむ、と顎に手を置いて、ルドガーは京介を見遣った。そうして彼の大人しさに改めて感嘆する。
 京介は学校では所謂不良のカテゴリーに入っている。教師への言葉遣いは荒々しく、睨み付けるようなぎらぎらとした眼光は相手を畏縮させる。手を出したことはなくとも、掴み合いや口論は日常茶飯事。見た目や態度で誤解を与える人間だった。しかしながら授業はきちんと受けるし、嫌々ながらも課題は滞りなく済ませる。その温度差のために、教師勢から『扱いにくい生徒』と思われていることは周知の事実だった。
 だが義父を目の前にすると、何たることであろうか。両目は拗ねた子供のようになり、いからせている肩はしおたれている。常々このような態度ではないだろうが、それでもルドガーにとっては毎回目を見張る光景であった。
「部活なんて入ったらバイトできねぇじゃん」
「バイトは別にいつでもできるだろう」
 遊星の言葉にもぷいとそっぽを向く。
「それでもめんどくせぇしやだ」
 不遜な口振りは変わらずか。ふふ、と小さく笑って、ルドガーはお辞儀をした。
「それではまた」
 遊星もお辞儀を返し、宜しくお願いしますと答える。本屋の中へと去りゆく教師を見送りながら、遊星は息子を横目で見た。京介はジーンズのポケットからスマホを取り出し、既に視線は画面へと集中している。
「俺が帰ってくるまでに、必ず家に戻っていなくても構わない」
「ちげぇし。自意識過剰ヤローめ」
 たしたしと画面を操作しながら鼻で笑う。京介はそのまま踵を返し、家の方へと歩き出した。
「大体、俺が居ねぇと寂しがる情けねー大人は何処の誰だっつーの!!」



*同僚さん

 家はやはりほっとするものだな。僅かに汗ばんだ首筋を手で扇ぎながら、マンションに帰宅した遊星はふぅと一息ついた。投げ出したスニーカーをそのままに、京介はどたどたとリビングへと向かいソファにどすりと座り込む。それから胡坐を掻いて、テレビの電源を入れた。バラエティ番組が流れ、司会の声が喧しく響く。それからニュースの音に天気予報。適当にチャンネルが回される。
 二人分の靴を直してから遊星も部屋へと上がる。息子の後ろを通り過ぎて、リビングの窓を開けた。途端にぶわりと吹き込んだ風が彼の熱を冷ます。気持ちが良い。行き交う車両の音や人々の話声が聞こえてくる。初秋の日光はまだ熱かった。網戸を締める。直後、ぴりりりりりり、とポケットに入れていた遊星の携帯が鳴り始めた。ガラケーだ。右手の指先で取り出して発信者を確認し、そこに表示されている名前に少し笑みを零して、遊星は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、遊星? 僕だけど、今大丈夫かい?』
 どうしたんだブルーノ。そう話す遊星の声を拾い上げた京介の、リモコンを弄んでいた右手が止まる。テレビではニュースキャスターが暦の説明をしている。中秋の名月がなんとやら。
 ブルーノ。その名前に非常に覚えがある。遊星の同僚だ。京介は頭の中で何度か見た男の姿を思い描いた。確か、兎に角背が高くて鮮やかな髪の色をしていた。初めてマンションに遊びに来た時のことを思い出す。やぁ君が遊星の息子さんだね話は聞いてるよ。爽やかに話す男はやけに遊星に馴れ馴れしかった。遊星もそれに応えるようによく笑い、よく喋った。その光景に何だか苛々して、京介はぶっきらぼうに一言「どーも」とだけ答えて、すぐさま自室に引き篭もったのだった。
『昨日頼んじゃった資料のことなんだけど、やっぱり僕が仕上げるよ』
「いや、大丈夫だ。俺がやる。実は七割ほどは出来上がっているんだ」
 昨日の夜少しアイデアが浮かんだから、書き留めておこうと思ったついでに。その言葉に京介の眉がぐんと寄った。夜更かしの理由はそれかよ。
『えっ本当? 凄いなぁ遊星は……あ、じゃあ見直しと残りの三割手伝わせてよ。されっ放しじゃ僕も居た堪れないし』
「そうだな、確かに二人で仕上げた方が認識の擦り合わせもできるな」
『じゃあ決まりだね。因みに今日は忙しいの?』
「今日か? いや特に、」
 大丈夫だ、と答える前に、遊星の右手から携帯が取り上げられる。
「今日はこれから出掛けるんで。じゃな」
『え!? ちょっ、ちょっと、』
 ぷちん。通話終了。京介に奪われた携帯は役目を果たし終えた。呆気に取られる父にそれを放り投げる。落下する前に遊星は慌てて両手でキャッチした。それを確認せずに再びソファへと戻った京介は、今度は胡坐を掻かずごろりと横向きに寝転んだ。テレビのリモコンを操作し、電源を切る。ニュースキャスターは暗闇へと消えた。
「おい、」
「うっせぇ俺は寝る」
 しかめ面のまま、京介は両腕を組んだ。暗くなったテレビの画面には、中途半端に口を開いた遊星が映っている。ざまみろばぁか。反転して映る父の携帯に向かって、心の中で呟いた。電話の向こうの人物は、きっと今頃苦虫を噛み潰したような顔でいるに違いない。
「……我が儘息子」
 くくく、と喉で笑う。そんな父に、京介はもう一度「うっせぇ」と呟いて目を閉じた。



*うたた寝

 ブルーノに謝罪のメールを打つため、遊星はダイニングテーブルに腰掛けた。ソファは京介が占領中である。さっきは息子が済まなかった。かちかちとキーを押して送信。一分もしないうちに再び携帯は震えた。折りたたまれたそれを開くと、画面には「気にしないで!」と書かれている。ありがとう。一言そう返信して、遊星は再び携帯を閉じた。
 テーブルに置かれた白いカップには、ダークブラウンのコーヒーがたゆたう。一口啜ると、砂糖もミルクも入っていないストレートな苦みが口に広がった。それを机に戻して遊星はソファへと近付く。京介はすやすやと昼寝中だ。室内にたっぷりと入り込んだ柔らかい日差しは、京介の寝そべるソファも完全に抱き込んでいる。若い彼には少々暑いかもしれない。そう思い、遊星は窓にレースのカーテンだけを引いた。部屋がほんの僅かに陰る。幾ばくか柔くなった陽光が、遊星をも眠りの世界へといざなう。昨晩中途半端に寝たことが響いているのかもしれなかった。大きな欠伸を一つして、遊星は自室へと向かう。リビングではもう寝る場所はない、今度は自分のベッドできちんと寝よう。若草色の上布団へぼふりとダイブして、遊星は意識を放り投げた。

 夢の中で、遊星は子供と並んで歩いていた。あぁ昔の京介だ。まだ少しだけ若い頃の。今より背の低い京介は自分を見上げて、両手で成績表を持っている。学ランに身を包む息子の頭を、遊星の掌がゆったりと撫でた。夢特有の緩慢な流れで進む世界。そこで笑う京介に、幸福感が滾々と湧いてくる。
 お前は俺の自慢の息子だな。
 音の響かない声でそう伝えると、京介は一瞬はっとした表情を浮かべ、それから視線を少しばかり地面へと外して、小さく口を動かした。
 ありがと、とうさん。
 初めて、自分を父親だと呼んでくれた瞬間だった。
「――ぅ……」
 目が覚めた。目尻にほんの僅かだが涙が滲んでいることに気付いて、遊星は夢の内容を思い出した。京介が中学の頃の夢だ。懐かしい。あの時はまだ背が大分と低かったくせに、それからすぐ成長期に入ってぐんぐん伸び、すぐに自分を追い越してしまったのだった。
 孤児院で働く友人が沈痛そうな面持ちで相談を持ち掛けてきた時のことは、今でもつい最近の出来事のように感じられる。橙色の派手な髪を持つ彼は元気だろうか。そういえば最近は飲み会に誘ってこない。一ヶ月程会わずにいる友人のことを思い浮かべながら、意識を覚醒させようと遊星は身体を起こした。
 自室の扉を開けると、京介が既に起きていた。
「二人揃って昼寝かよ」
 ソファの上で炭酸飲料のペットボトルを両手で弄びながら、京介はつまらなさそうにテレビを見ている。淡い朱色の光で満ちているリビングの掛け時計はもう夕刻を指していた。優に三時間は経過している。
 テレビとソファの間に置かれた低いテーブルにボトルを置いて、徐に京介が立ち上がった。その隙に空いたソファへのそのそとした足取りで向かう。旅行番組の再放送を映すテレビに夕焼けのぼわりとした光が反射して、寝起きの遊星の目に眩しく入り込んだ。後ろからがちゃがちゃと食器のぶつかり合う音が聞こえる。それから小さな電子音に、こぽこぽ。ポットの音だ。
「おら」
「あ」
 骨張った京介の右手が、白いカップを突き出している。昼寝に旅立つ前に飲んでいたコーヒーのカップ。ダイニングテーブルに置きっぱなしだったことを遊星は思い出した。湯気が沸き立つそれを両手で受け取って礼を言う。カップには新しいコーヒーがたっぷりと淹れられていた。
 半分空いたソファに京介が腰掛けた。自分よりすっかり大きくなってしまった息子の体重にソファの左側がぐっとへこむ。京介はテーブルに置かれたペットボトルを再び手に取り、ぐいと喉へ流し込んだ。
 こんな風に、自分のためにコーヒーを用意してくれるまでに成長した息子が、そのうちこの家から居なくなってしまう日がやってくるのだろうか。もう二年もすれば成人だ。自分より先に良い伴侶を見つけるかもしれないのだから。そう遠くない未来に。
 夢の中の京介と隣に座る京介を重ねながら、遊星はそう考えた。同時に無性に切なくなる。死んでしまうわけでもないのに、自分の傍から家族が居なくなってしまう瞬間を想像しただけで、今までの歴史が全て消え失せてしまうような途方も無い寂寥感が遊星を襲うのだった。
「旅行行きてぇな」
 からからとボトルの蓋を回しながら、京介が前触れもなく呟いた。
「旅行……?」
 テレビの中では、老舗温泉旅館が映っていた。白い蒸気に包まれた露天風呂をタレントが案内している。
「まぁ、こんなしみったれた旅館は親父が中年にならねぇと無理か。その頃には俺も金稼いでるし、もっと良いとこ行けんじゃね?」
 そう言ってけらけら笑う京介に、遊星ははたと気付く。
 京介の将来のビジョンに、自分が確実に存在している。
 自分がもっと年を重ねていっても、共に居ることを描いてくれている。それがこの上なく嬉しくて、口元が喜びで緩むのを止められなかった。カップを机に置いて遊星は立ち上がる。カップがかん、と軽快な音を鳴らした。
「行くか、旅行」
「は?」
「ちょっと予約してくる」
「おい遊星、別にすぐ行きてぇなんて、」
 虚を突かれたかのような表情でいた京介は、はっと意識を戻して弁解するように言う。けれどもそれを遮るように遊星の声が重なった。
「俺が行きたいんだ」
 行こう、旅行。
 遊星はそう言って自室へと向かった。何処へ行こうか、そういえば二人で旅行に行くのは久し振りだ、雑誌も買わないといけない。あれこれと急に浮き足立つ父の後ろ姿を見ながら、京介は困惑と呆れ、それと喜びを一気に味わったかのような、何とも言えない笑みを浮かべた。欠席届に書く文面を考えとけよな。伝える為に、京介も遊星の部屋へと歩を進める。
 放り投げた空のボトルが綺麗な放物線を描き、ダストボックスへとシュートされるのを、至極満足気に見届けてから。




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《登場人物紹介》
*遊星さん(28)
会社員。京介を引き取ってからは彼女無し(充分楽しいから)。
23歳の時に友人から相談を受けて京介を引き取る。家事全般こなせるが、最近は少々夜が遅くなりがちなため、週末に一気に食事を作り冷凍保存している。洗濯物はなるべく出勤前に干す。
趣味はバイク。京介が居ない時はだいたい走りに出掛けている。

*京介くん(18)
今年高校3年。見た目も中身も派手な遊星の義理の息子。13歳の時に遊星に引き取られるが、遊星のことは孤児院の職員を通じて以前から見聞きしていた。
遊星のことは父であり兄であり家族であり友人でありという感覚で受け入れている。家事が苦手。痩せ型のくせに大食いで家計を圧迫する。
CD屋でバイト中。たまに孤児院に遊びに行ってはちゃんとやっていけているかクロウに心配される。
ちなみに性格は中学生→チーム満足仕様、高校生→ダークシグナー仕様という感じ。大学生はきっとクラッシュタウン仕様。

*ルドガー先生
京介の担任であり体育教師。ガチムチでムキムキ。生活指導もやっているが京介には何を言っても聞き入れてもらえていないのでもう諦めかけている。寧ろ最近は自分の方向性を変えるべきか悩んでいるそうな。

*ブルーノちゃん
遊星の会社の同僚。趣味も性格も合う遊星が大好き。京介には好かれていない様子。仕事が趣味とか言っちゃうタイプなので彼女ができないが、遊星との仕事が楽し過ぎるので全く気にしていない。
メールにいちいち絵文字や顔文字を付けてくる。社内メールしかり。遊星のマンションに遊びに行きたいが息子に煙たがれるのでどうすべきか策を練っている。

《その他の人物紹介》
*クロウさん
遊星の幼馴染。京介の居た孤児院の職員。
京介が「遊星が家族だったら俺、満足できるかも」とぼそりと呟いたことから遊星に養子縁組を相談する。
飲み会の幹事をよくやっているが最近は金欠で少々控え気味。

*ジャックくん
京介の同級生であり友人。自分のことを学園のキングとか言ってるちょっと痛い子。イケメン。
何かと目立つ京介にいちゃもんつけたかと思えば、一緒につるんで悪巧みするのが趣味。過去に一度高校の三者懇談会で遊星を見たことがあり、その時から遊星が気になってしょうがない青春街道まっしぐら中。畳む
四知の恋
・ブルーノの会社で働く請負業者の遊星。
・スマホで後ろ姿を盗み撮りしてしまうブルーノ。
#ブル遊 #現代パラレル

 君の後ろ姿を、小さな画面上で開く。立派な背中がこぢんまりと押し込められているのを見ると、ボクは不思議と安心する。歴史上の偉人が本当は家族だった、とか言われた場合と似た気持ちかもしれない。言われたことはない。
 教科書の肖像画と、手に収まっている機械と、記憶の君と、思い出しているボク。共通点のないそれぞれを結びつけようとする見えない糸、連鎖反応は、積み重ねられていく心象風景のせいなのだろうか。どこかのガレージで、彼とボクは特別なマシンを作っている。ボクの意識は無限に拡大して、壁も端もなくなって、ふたり子どものように設計や組立を楽しんでいる。地図の代わりにあるのは図面データだ。その上で膨らませたアイデアを爆発させると、それは針で突っついた風船のようにあたり一面に吹き飛んで、ボクらはひたすら笑うのだ。そんな、イメージ。
 空想の中で彼の背中を追っていた。画面上であったって現実であったって、不動遊星はとても近くて、けれどもとても遠い人だったな、と今でも思っている。



 スワイプする。
 自販機の横で一休みする遊星の背は、緩いカーブを描いている。自社ビルの屋外休憩エリアで、植え込みを仕切る煉瓦を椅子代わりにしていた。春先の、冷たさが残る空気がその背中から滑り落ちて、ボクたちの足元でぐるぐると堂々巡りしていた。まだ慣れない肌寒さにボクの身体は少し慄いて、捲り上げていたニットの袖を直す。反対に彼はどこ吹く風で、作業着さえ傍らに置いて半袖のままで、静かに欠伸をした。それはボクと遊星の間でもたつく、間延びした距離だ。新型二輪車の開発プロジェクト、その発注先からやってきた若きプロジェクトリーダーの――若過ぎる彼の――初めて見た年相応の姿が、ボクの『盗撮趣味』の始まり。多分、法に抵触する。訴訟されたら負ける程度には。
 あてがわれた枠組みから身を乗り出して、ただの不動遊星そのひとになる瞬間を残すことは、一粒の角砂糖をこっそり口に入れる感覚と同じように思えた。目をつむりたくなるくらい甘ったるくて、でも吐き出すには勿体なくて、結局飲み込まざるを得ない秘密。その味を確かめるべく、乾いてしまった唇を舐めた。ざら、と、ぞわ、が、唾液に混じっていた。その時、生きる上で最低限備えていた常識のエリアにロックが掛かって、他からの参照をまったく受け付けなくなった。無意識を認識することはできないけれども、スマートフォンを構えたボクはきっと無意識だったはずだ。撮った記憶がすっかり抜け落ちた画像を見つけた時の、滴り落ちそうな冷や汗がその証拠である。

 スワイプする。
 ビニール傘を差す遊星の背は、しゃんと伸びている。立派に土に根を張った大木のような立ち方で、しかし太くはない身体は歪む被膜一枚を隔てて、今しがたやり直しを命じられた二輪車を見つめていた。チームメンバーが別の場所へ移動してからも暫く、その場を動こうとしなかった。その時の彼が悲しかったのか辛かったのか、それとも意欲に燃えていたのか分からない。ボクは彼の目を見ていない、彼がボクを見ていなかったのと同じで。プロトタイプは仕様通り、テストも問題なし、ただコストだけがゴールラインを越えることができないでいた。その一点だけで、その一点だけが、彼の才能を土足で踏み荒らして引き抜いて、ぐちゃぐちゃにしたように思えて、発注者側の立場というのも忘れてひとり勝手に腹を立てた。それは記憶にいやな熱を与えて去ってくれない。炙った針金で粗い傷をつけてくる。
 二輪車は雨に濡れて、雫はてらてら光っていて美しかった。テスト走行を終えたサーキットの、黒々とした道に反射した影は、歪みながら遊星と抱き合う。崖っぷちでキスをする名画みたいな脆さを孕みながら、遊星の肩は二輪車の遺言ですっかり濡れてしまって、けれども脱力などしてなるものかという気迫を帯びている。
 エンジンの産声を耳に遺し、産まれてすぐスクラップになったマシン。最初の咆哮を最期の声にしてしまった可哀想な『子』。その画像を、実は遊星はずっと手元に置いているらしいと又聞きで知った夜、ボクはまたしても勝手に悲しくなって泣いた。缶ビールを片手にえんえんと泣き喚いた。誰かは同情と呼ぶかもしれない、しかしその内側は燃え盛る炎の形状をしていて、同情にしては熱過ぎた。

 スワイプする。
 会議室から解放された遊星の身体は、ぐっと弓なりに反っている。彼は要望どおりコストを予算内におさめた、彼らしさが詰まった独創的な設計を切り捨てることで――宝箱、脱出不可能な迷路、白いジグソーパズルと同じ存在を。完璧で完成していて、そのためにモジュール一式をまとめて仕様から除外する必要があったのだ。スライドを投影しながら報告する彼の声には微かな揺れも振れもなく、淡々としている。できたこととできなかったこと、今後の課題、総括を順に述べ、ボクら発注者側の拍手を受けて一礼するまで、彼はずっとプロジェクトリーダーとしての彼自身を保ち続けていたように見えた。
 その一切合切からようやく抜け出せた背に、プロトタイプの亡骸がふっと浮かび上がる。同時に、最終報告会を終えるまで少しも滲ませなかったあらゆるものがその肩から、背中からぼろぼろと廊下に落ちて、勢いを増して溢れてくる。それは彼の後ろをのっそりと歩いていたボクの背を(反対側から)指で弾くように押した。その拍子に持っていたスマホが落ちる。あ、まずい。束の間の不安をよそに端末は激突する。カーペットの敷かれた廊下では音を立てることもない。なのに遊星は振り向いた。ボクの存在を認めた。
 彼の目をようやく真っ直ぐに、朝の光線が地を貫くみたいな速さで、捕まえた気がした。勝手なボクは、そう思い込んだのだ。

「なんて声をかけようか分からなかったんだ。年下だし、こっちは無理難題をふっかけてた側だったし、定例会と実地テストで見かけるくらいだったし」
「ブルーノは客先の上司だったから、俺も気軽に話し掛けようとは思わなかったな」
「うん、だろうね」
 プロジェクトを終えた遊星は、常駐していたボクの会社から発注先の企業へ戻っていった。その最後の日、つまり最終報告会の日、約一年の期間を経てやっとボクの口を衝いて出た言葉は「コーヒー飲む?」である。なんて短い! スマホを拾った遊星が、慣れていないといったスーツ姿で、三秒ほど呆けた表情をしていたことを思い出す。あれこそ写真を撮っておくべきだったと、今でも少し残念に感じている。でもその時スマホは彼の手中だったから、どのみち無理なんだけれど。
 初めて遊星の後ろ姿を盗み撮りした場所で、初めて遊星と話をした。業務時間内ではまったくと言っていいくらい会話のなかったボクらは、顔と立場と名前だけは知っていたボクらから『機械好きの』ボクらに昇格したのだ。仕事には無関係の、いついつどこどこで行われたレースの話や、実はそこに遊星もいたんだという裏話など、時間の法則を忘れたボクたちは文字通り日が暮れるまで会話に花を咲かせた。座り心地の良くない煉瓦は腰を痛めそうであったけれど、何も気にしないで遊星は足を組んで座っている。
 思っていたより遊星はよく笑った。背中より前の部分は感情豊かで、常にキーボードを叩いているか工具を握っているだけだった手は結構節々がしっかりしていて、新しい情報を発見する。作業服ではない彼の、脱いだジャケットの扱いは、一年前の作業着とまったく変わらない。傍らに適当に丸められて肩身が狭そうだ。
 これほど長い時間向き合うことはなかったので知らぬ間に緊張していたらしい。「飲まないのか?」口をつけていない缶コーヒーに気づいた時には、足元にあったはずの影はぼうっと滲んで、自販機の照明が足元を青白く照らしていた。はっ、と見上げれば星がちらほら点滅を始めていて、そうか時間はなくなるものなんだなぁと当たり前のことを今更実感して、そこでやっと世界の法則を思い出したのだった。
 今日、また春がやってきた。去年から一年経った。遊星はいなくなる。缶を捨てる彼。がこんっという音に急かされて、慌てて一気飲みするボク。冷めた苦味はボクを追いかける。後ろから、背中から、ボクを追い立てて急かす、あの少しの冷気と、グレーのシャツの後ろ姿。
「あ、あのさ」
「ん?」振り向く遊星は、夜に手招きされて少し見づらい。「どうかしたのか?」
「ボクたち、また会えないかな。仕事じゃなくて良いんだ、また、その……話したいなと」
「ああ、そんなことか」
「そう、そんなこと――」
 そんなこと、なのだ。でもボクにとっては重要事項だ。たとえ遊星のこれからにボクがまったく影響を及ぼさなくても、ただの一過性の知り合いというタグをつけられるのは嫌だった。彼の記憶の中ではボクの価値は缶コーヒーひと缶分かもしれない。それでもボクにとって彼は――不動遊星は、憧れなのだ!
「明日になれば、嫌でも顔を合わせることになるぞ」
「ああ、明日……明日?」
「明日だ」
「え、何で?」
「社員になったんだ、ここの。人事部に打診された条件が良かったから、受けることにした。ブルーノとは別のプロジェクトに配属予定だから、そっちには情報がいかなかったんだろうな」
 そんなこと知らなかった。人事部の同僚を恨めしく思う一方で飛び跳ねるくらい喜ぶボクは、やにわに彼の両手を握り締めた。空になった缶が何かの打楽器みたいな音を上げながら転がっていく。春の夜に我を忘れた男の後先考えぬ行動。思えばこの日、ボクは初めて自覚したのだった。彼の姿を追っていた理由が、写真に残したい衝動が、一体どこから湧き上がってきたものなのか。見つけてしまえば行動と理由が結びつくのは簡単なことだ。けれども、ひとはそう単純には生きていない。理由が分かったって、素直に従えない。予想外に握り返された手にあたふたして支離滅裂な会話を繰り広げたり、翌日から馬鹿みたいに遊星を意識してしまい仕事がおろそかになったことは、恥ずかしくて記憶から消したい。


 何をしているんだ? という声にスマホから顔を上げる。今しがた画面の中にいた遊星が現実世界に飛び出してきていた。のではなく、カップを二つ手にした遊星が戻ってきたところだった。
「すまない、遅くなった」
「全然! 大丈夫だよ」
 向かいのコーヒースタンドにはまだ客が並んでいるのが見えて、昼のオフィス街を賑わわせている。
 ジャケットのポケットにスマホをしまい、テイクアウトされたコーヒーを受け取る。カップの表面にはぐるりとカバーが施されていたが、まだまだ熱くて、指先が少しだけびっくりする。それも両手で包み込むと、すぐに和らいだ。
 隣に腰掛けた遊星は、胸ポケットの自身のスマホを確認してから(有事の際はすぐに呼び出しがかかるから)カップに口つけた。ようやく一息つけるといった風なのを見ると、彼が所属するプロジェクトの多忙さが想像できる。
 もう作業服ではなくなった遊星の私服は、本人曰く非常に手持ちが少なかったらしく、春以降は毎シーズン徐々に増やしていっているとのこと。今日着ているネイビーのシャツは、先日、ボクがお節介と多分な下心をもって紹介したアパレルブランドのものだ。真珠にも似たつややかなボタンが整列しており、彼によく似合っていた。
「そういえば遊星ってコーヒー派だったんだよね。入社するまではてっきり眠気覚ましに飲んでるだけだと思ってたよ」
「一応、それもある」
「そうなの? じゃあ今期、新しくコーヒーメーカーを導入してもらおうかなぁ」
「それは良いな。ただし、予算と希望者次第だが」
 並んで座ったのは、あの春の日の煉瓦ではない、木製のベンチだ。真新しさが残るベンチは、ボクら成人男性二人をしっかりと受け止めてくれている。
 会社の近くにぽっかりとあった空き地が緑地空間として整備されると、日中にキッチンカーが来るようになった。これによりボクが密かに抱えていた問題――遊星の時間を確保する口実――が解決するに至ったので、この場所を企画した誰かに対して実は大変感謝している。数台のキッチンカーは日替わりで、それがまた彼を誘う自然な理由を生み出してくれるのだ。見知らぬ誰かよ、ありがとう!
 この場所が出来上がってから日は浅いものの、オフィス街という立地もあって日々盛況だ。なかでも毎週金曜に出店するコーヒースタンドは遊星のお気に入りになって、彼は金曜になると朝から少し機嫌が良い。その様子をフロアの別の島から覗き見しているボクも(すこぶる)機嫌が良くなるので、金曜になると同僚からは不審な目で見られるようになったのだが、それがどうした! 好きな人が嬉しければ自分も嬉しくなるのは、至極当然である――ボクは遊星に、心寄せているのだから。
 一口、二口とコーヒーを口に含む。すっきりとした後味が、これからの季節を思い起こさせた。視線を横にやると、朱色や橙色、薄い茶色の葉をこれでもかと飾り付けた木々が目に入って、春はとうに過ぎ去ったことを突きつけてくる。重なり合う葉は美しかったけれど、三十路手前、二度目の青春を謳歌中のボクにとってはどこか物寂しさを覚える色合いだった。
 あの春からボクは一歩も動くことができていない。
 掌にはずっと、あの時ぐっと握り締めた春の空気と、遊星の手の冷たさが残っていて、今にもホットコーヒーの熱さを打ち消してしまいそうだった。身体の中心はずっと燃え続けているのに、囲む空気はなかなか暖まらない。ボクの煮え切らない態度が、ボク自身を思い出の中に留まらせている。
 気づかない方が幸せだったかもしれない。ボクら人間は意思と記憶があるせいで、気づいてしまってはこれまでどおりではいられない、愚かな生物だからだ。もっと喜ぶ顔が見たくなったり、もっと関心を持ってほしくなったり、どんどん欲深くなる自分を止めることはこんなにも難しいくせに、本当に欲しいものを求めることにはとても臆病になる。
 メカ好きの同僚の座という安定した地位を捨てるのが怖い。刻一刻と、ボクらはあの日から離れていくのに。
「それで、何をしていたんだ?」
「え?」
「さっきだ。じっとスマホを眺めていたから」
「ああ、えーっと……思い出してたんだ。遊星と初めてちゃんと喋った時のこと」スマホの中にある、盗み撮り写真は内緒のままだ。「忘れられなくてさ。ボクのことを、やっと知ってもらえた日だから」
「そうか……俺もだ」
「え? 本当?」
「俺もブルーノと話し込んだあの日を、ずっと覚えている。何せ、あんなに勢いよく手を握られたことは今も昔もなかったからな」
「ああーもう忘れてほしい恥ずかし過ぎる」
 コーヒーを持ったまま、思わず顔を伏せた。薄暗い中、隣から笑い声が聞こえてくる。耳に馴染んでしまったそれは心地よくて、ゆるゆると撫でられているみたいだ。けれども途中から沈黙に変わる。遊星の声が消えて、ビル街の生活音だけが響くのに耐えられなくなって、手を退けた時だった。
「あの時から俺は……ずっと、気にかかっていることがあるんだ」
 秘密を開示するような声は、すうっと通り抜けた秋の風に乗って、何枚かの葉とともに落ちていく。かさかさ音を立てながら地面に散らばってしまって、それらをすべてを拾い上げるまでにボクは少しの時間を要した。明るさを取り戻した視界、その中で追っていた紅い葉から視線を上げる間も、やけに心臓がどくどく鳴っていて、隣を見るのがひどく恐ろしい。彼を見るのが嫌だなんて、そんなことは初めてだ。
 広すぎる世界から見れば光の速さの、情けなくてあっけない逡巡が終わって、やっとのことで遊星の指先を捉えた。カップを撫でる手は所在なさげで、記憶にある彼の、迷いなどない仕草からはあまりにもかけ離れている。
「――どうしてあの日、あんなにも強く、手を握ってくれたのか。理由を、教えてくれないか」
 手の動きだけではなく、ボクの記憶にある遊星は、いつだって落ち着いていた。プレゼンの時も雑談の時も、譲れなくて上司とやり合う時であっても、自分の信念をもって接するひとだから、彼は常に前を見据えている。ずっと先を走っている。だからボクはいつも、遠い彼の背中しか見えていないのだった。
 けれども今、少しだけ、揺らいだのではないだろうか?
 前ばかり見ていた彼が、振り向いて、こちらを確かめて、足を止めてくれた気がする。裏付けるように、その視点も今日に限っては定まらない様子である。手元を見たりキッチンカーを見たり、ビルの連なりを見たりするのに、一向にボクの方を見ようとはしないのは何故なのか。
 あれ。
 もしかして今、チャンス到来だったりする?
「あ、あのさ!」
 前のめり気味になったボクに驚いて、遊星がこちらを見る。急に縮まった距離のせいで、ボクらの目にはお互いにお互いしか映っていない。狭い視界は彼でいっぱいになって、もとより彼でいっぱいだったボクはもう、溢れるしかなかった。あーやっぱり、君のことが。
 ようやくあの春の日から、一歩を踏み出す時なのかもしれない。季節はすっかり秋なのだけれど。



(了)畳む
おとなりで恋という名の音が鳴り
・昔発行したコピ本の再録です。
・おとなりさん同士のふたり。
#ブル遊 #現代パラレル

 おはよう、今日も良い天気だね!
 目が覚めてすぐにスマートフォンを確認すると、こんなメールが届いていた。コンセントに差し込まれた充電器に繋がれて、機械は画面にこの一行を表示している。差出人は自分の受信メールのほぼ七割を占めている人間だ。良い天気。部屋の隙間から流れ込む光を確認する。確かにそうだった。
 遊星は部屋のカーテンを開けた。待ち兼ねていたと言わんばかりに日光が駆け込む。若草色の向こうには、秋に差し掛かる空が眩い朝日を飾り付けていた。フローリングの床を照らす光は寝起きの目には明る過ぎる程だ。寝惚け眼を擦りながら、遊星は窓の向こう側の壁をちらと見遣る。薄い灰色をした隣の家の壁だ。数秒間見詰めてから、彼は寝巻きに手を掛けた。確か今日は有給を取ったと言っていたはずだ、着替えなければ。ぼんやりと思い出す。スマホの時計は既に八時半を過ぎている。
 ジーンズとTシャツに着替えてから一階へと降りる。洗面所で顔を洗い、リビングへと向かった。薄暗い部屋は必要最低限の生活用品のみがある。テーブルには何も用意されていなかった。当たり前の、日常のワンシーンだ。
 遊星の両親は長く海外で研究職に就いていたが、彼が高校に上がってすぐに実験中の事故で死んだ。数年経ち齢十八になった遊星は、いつもと変わらずまず冷蔵庫を開けた。習慣の動作である。牛乳パックを取り、食器棚からグラスを用意して注ぐ。真白い液体を一口飲んでから食事の支度だ。何を作ろうか。思案していると、リビングの壁に取り付けられたインターホンが音と共に点灯した。
 画面を確認せずに遊星は玄関へと向かう。鍵を開けた先に見知った顔を捉えて、おはよう、と挨拶した。
「おはよう、今日も良い天気だね!」
 それはさっきメールで見た。そう言う前に、来訪者は遊星に抱き付いた。



 ブルーノ、と口をもごもごさせながら抵抗すると、青年は呆気無く両腕から遊星を開放した。
「あぁごめん」
 遊星はにへらと笑うブルーノを見上げる。彼のロイヤルブルーの髪が日の光を浴びて輝いている。遊星はこの身長差が憎らしいと日々常々思っていた。兎も角背が高い隣人の青年、ブルーノは、なんという成り行きなのか、自分の恋人である。朝から高いテンションを引っ提げてやってきた彼は、すたすたと遊星の家へと上がり込んだ。リビングへ足を進めて、そこに食事の支度が全くないことを把握すると、勝手知ったるが如く冷蔵庫を開ける。
「今起きたばっかりなんだろ? 何が食べたい?」
「良い、自分で用意する」
「いつものことじゃない。あ、確か昨日ご飯炊いたんだっけ? なら和食にしよう」
「……じゃあ、頼む」
 自分が鍋に手を掛ける前に、ブルーノは既にそれを用意している。彼は両親が仕事で留守がちな頃から遊星の世話を色々と焼いてくれている隣人だ。小さい頃から知っていて兄のように慕っていたのだが、遊星の高校卒業時に告白されて付き合い始めた。それからまだ半年経つか経たないかである。
好きなんだどうしようもなく。
そう言われて遊星が真っ先に感じたのは嬉しさだった。差別感も嫌悪感もそれ以外の何物でもない、ただ只管に歓喜が彼の心に湧き出でた。
 ブルーノは昔から無頓着な遊星の生活を心配していた。それはブルーノが学生でも社会人になってからも変わらず、勉強をみたり食事の世話をしたりと、保護者の代理に近い存在だった。何も頼んだことは無いしお互いに約束したことでもない。ただやりたいからだと言っていたことを、味噌汁の準備をするブルーノの背中を見ながら思い出す。その親愛が恋愛に変わったのはいつなのかと、聞いたことはない。
「今日何処か行きたい所ある?」
 野菜室から取り出した葱を刻みながらブルーノが問う。その横では鍋にたっぷりと注がれた湯が沸騰し始めていた。出汁の匂いが漂っている。
「いや、特には」
「じゃあブルーレイ一緒に観ない? いま、旧作安いからさ」
「あぁ、構わない」
 ありがとうと言われ、遊星は少し照れる。そんな礼を言われる程のことじゃない。ブルーノがくれる無償の愛に比べれば、自分の礼など卑小過ぎることだと思っている。卵の殻が割れる音を聞きながら、遊星は漸くリビングのカーテンを開けた。世界は眩しかった。
 塩胡椒のかかった目玉焼きに味噌汁に白米。それに冷蔵庫に入っていた漬物と生野菜のサラダがテーブルに並ぶ。遊星にとっては充分過ぎる朝飯がきっちり二人分用意されているのもいつものことだった。リビングの大きな窓から庭先を眺めていた遊星に声が掛かる。できたよ。振り返ると、変わらない笑顔で手招きするブルーノが杓文字片手に立っていた。
 テーブルに向かい合わせになって座る。二人揃って両手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます、ありがとう」
 どういたしまして。瞳を細めるブルーノの青い髪が揺れた。
 朝食を食べた後、遊星とブルーノは連れ立って家を出た。徒歩で行ける場所にあるレンタルショップは二人にとって既に馴染みのものとなっている。
棚をいくつか物色して、少し前にヒットした映画を借りることになった。ミステリー小説を実写化したもので、遊星はそのタイトルだけは知っていた。街中でもテレビでも何度か見掛けることが多かったので。
 目的のブルーレイディスクを手に入れて直ぐに帰宅する。途中のバイク屋に目を爛々と輝かせるブルーノを見て、まるで大きな子供だなと遊星は口元を緩ませた。
 ブルーノを一言で表すならば、素直。そう遊星は思っている。喜怒哀楽を押し付けがましくない程度に良く表現する。するりと好きだと言ったこともそのうちの一つなのだろう。朝から抱き締めてくるのも、きっと。
 遊星の家を通り過ぎて、ブルーノの家の玄関へ向かう。数え切れないくらいくぐった扉を通ると、懐かしくもある慣れた匂いが遊星の鼻を擽った。ブルーノの家に来ると、遊星はまるで一瞬たりとも彼が離れないように抱き付いているかのような、全身を包まれている気分になるのだった。気恥ずかしくもあり嬉しくもある不思議な安堵感に、自然と遊星の心はほっとした。
 ブルーノの両親はこの一軒家とは別に田舎に買った終の棲家へと既に移住している。つまり実質ブルーノも遊星と同じく一人暮らしである。現在の家の主は冷蔵庫からストレートティーのペットボトルを一本取り出し、自室のある二階へ繋がる階段を上った。遊星はその後ろをついていく。
 ブルーノの部屋は彼を形容したかのようなものだ。起きてから直していないと思われる上布団、好きな小説や雑誌が乱雑に数冊積まれたパソコンデスク、床に放置されたままの新製品の携帯機器。その傍らに置いてある分厚い本の表紙に開発者用という単語が書かれていたのを見て、遊星の勘が働く。きっとまた趣味の開発でもやるのだろう、ブルーノは腕の良いエンジニアなのだから。
 遊星はベッドを背凭れにして床に座った。ペットボトルが置かれた小さなテーブルを挟んで、テレビに繋がるプレーヤーにディスクをセットするブルーノを観察した。開閉ボタンを押す長い指や、縦に長い体躯は、自分達が随分大人びてしまった証拠のような気がする。変わらないのはその瞳だ。濃い藍色に灰褐色を薄く流し込んだような目の柔らかさは、今も昔も全く同じものだった。
 自動再生が開始された。暗い画面に文字が白く浮き上がって、映像が流れる。まずは予告だ。どの映画もそうであるように、このディスクももれなく予告番組を再生した。それまでにブルーノが遊星の右隣へと座り胡坐を掻く。前座の映像達は三作品分だった。
「遊星」
 さて本編が始まるというところで、右から名前を呼ばれた。遊星は振り返り視線を上げる。口元を軽く結んだブルーノが、あの目の色を揺らめかせながら見ていた。ふと顔が近付く。遊星の右肩にブルーノの左手が置かれる。必然的に互いの瞼が閉じられた一瞬間の後、唇が重なった。
「ん、」
 遊星から鼻にかかった息が漏れる。映画は始まっている。柔らかく微かに湿った唇がくっついて、ちゅ、と小さく水音を立て、短いキスは終わった。
 しかし次の瞬間、再び開いた遊星の双眸には、一瞬間前とは同じだけれど同じではないブルーノが映っていた。先程の彼とは些か端然とした目のブルーノが遊星を見下ろす。
「またか」
「また私で悪かったな」
 全く悪いと思っていない風にブルーノが笑う。否、ブルーノだがブルーノではない彼。今のブルーノは普段の彼と比べて雰囲気が大分と大人びている。
「ブルーノは?」
「どうやら『また』我慢ならなかったようだ」
「落ちたのか」
「起こすか?」
「いや、……取り敢えずは、良い」
 前髪をぐっと掻きあげて額を出し、ブルーノはふっと口角を上げた。その仕草が非常に様になっていて、間近で見ていた遊星の心拍数が少し上がる。
 柔和な瞳には僅かに挑戦的な色が混じり、余裕溢れる雰囲気の今のブルーノは、普段の彼を表とするならば裏の『ブルーノ』だ。何らかの理由で思考がオーバーロードしてしまい、深層心理へ自ら落ちた時に出現する、表のブルーノの心の代弁者。それがこの『ブルーノ』の正体であった。
 遊星が初めてこの『ブルーノ』に遭遇したのはそれほど昔のことではない。
今日のようにこうして遊んでいて、何度目か分からないキスをして、舌を絡め合わせた。否応無しに官能的な刺激に流されかけた時、唇を離したその先にはこの『ブルーノ』が居た。それはもう只管驚愕したものである。けれども人間の順応とは素晴らしいもので、本日で既に遭遇回数が十回を超えてしまったために、最近ではもう馴染んできてしまっているのだが。
 『ブルーノ』はブルーノのことを認識しているし、ブルーノの意識を引き摺り出すこともできる。しかしブルーノは『ブルーノ』の存在を知らない。気が付いた時には落ち、気が付いた時には意識を浮上させられている。そのためか、意識が戻っては毎回「ボクは遊星が好き過ぎて夢見がちなのかな、たまに意識が飛んじゃうみたい」とへらへら笑っていた。本当はそうではないと伝えようか。そう考えたが、何故だか憚られた。まるで、いつものブルーノを否定してしまうような気がして。
 『ブルーノ』は溜息を付いて腕を組んだ。映画は誰にも観られずに流れている。
「自分が情けなく思えてくるな。私はそこまで臆病者なのだろうか」
 それは恋人に対して、という意味だろうか。それとも諸々の行為に対して?
「いや……分からないが、でも、」
「でも?」
 少しだけ口を噤んで、それから遊星はぽつと呟いた。
「やさしい、んだと、思う」
 きっと、ブルーノは自分を上手くコントロールできていないだけで。文字通り彼の優しさが裏目に出ているように思えた。自分を大切にしてくれているが故の結果が、今目の前で苦笑している人格の出現であると。
 ふむ、という『ブルーノ』の声が零れる。その呟きに遊星ははっと意識を戻した。本人に何を言っているんだ俺は。いや、今は本人ではないから良いのか? そんなパラドックスに頭が混乱する。
「……では、私はそろそろ失礼しよう」
「え?」
「もう一人の私に惚気られては、少し肩身が狭いからな」
 『ブルーノ』の顔に挑発的な笑みが浮かぶ。それにどくりと遊星の心臓が唸ったかと思うと、『ブルーノ』は両目を閉じ、瞼が彼の掌に覆われた。合図だ。一瞬間後、掌が解かれて再び目が開かれる。そこには既に意志の強そうなあの目はなく、在るのは普段通りのブルーノの優しい瞳だった。
「――あ、あれ? ボク……、」
 きょろきょろと左右に首を振ってから遊星を見下ろしたブルーノは、ぱちくりと目を瞬かせている。何事も無かったかのように遊星はブルーノを覗き込んだ。
「どうした? ブルーノ」
「……ううん、何でもない。また飛んでたみたい」
 へへ、と歯を見せて笑うブルーノに、遊星はまた何も言えなかった。
 映画は続いている。

     *  *  *

 ブルーノが遊星の家に泊まるのはもう何度目になるか知らない。寧ろ遊星が一人で居ることを彼が心配するので結構な割合で泊まりに来ているのだ。遊星が風呂に入っている間に明日の朝食の下拵えを済ませたブルーノは、ぺたぺたという足音に目を細めつつ顔を上げた。間も無くその視線の先から遊星が現れる。
「明日は仕事だろう。良いのか?」
「大丈夫だよ」
 もう何度やったか分からないやり取りだ。翌日仕事がある無しに関わらず、泊まりに来るとブルーノはきっちりと朝飯の支度までしていく。恰も義務であるかのように彼は遊星の世話を焼く。その姿を見る度に遊星はこそばゆい心地になった。誰かに気にかけてもらうことは、いつも柔らかい陽だまりのようなぬくもりを与えてくれる。あたたかすぎて少々居た堪れなくなるくらいに。
 遊星の部屋へ上がり、セミダブルのベッドに二人並んで座る。先に風呂に入っていたブルーノから微かな体温がほわりと伝わってきて遊星の肩から流れ込んだ。風呂から上がってそれ程経っていない二人の身体は互いにまだ温かく、クーラーを付けた部屋に冷まされずにいる。Tシャツとジャージはまだまだ寝巻きの代わりを果たしそうだった。
「ゆーうせーい」
 嬉々として、ブルーノの長い両腕が遊星を囲う。ぎゅうっと抱き付いた彼の体重が遊星に掛かり、ベッドへと倒れ込む。二人分の体重にスプリングがぎっと鳴いた。
「ブルーノ、重い」
「遊星は全然変わらないね」
「背は伸びている」
 むっと眉を寄せてブルーノを睨んだ。けれども彼の表情はふふ、と笑いを携えたままだ。
「身体の大きさのことじゃないよ」
「じゃあ何だ?」
 質問には答えず曖昧な笑みだけを浮かべて、ブルーノは唐突に起き上がった。遊星の身体が解放される。扉の方へと向かったブルーノは、その横の壁に付けられたスイッチを人差し指で押した。ぱちんと音がして即座に部屋に黒が広がる。
「もう寝よう」
 その声が何処となく掴みどころのない色をしていたので、遊星は思わず上半身を起こしてブルーノを見詰めた。昼間は明るい彼の髪が、今は夜闇の流れる部屋に混ざり込んでよく見えない。暗闇に目がまだ慣れていなかった。輪郭のぼやけた影が段々と近付いてきて、ブルーノがベッドへと戻ってきていることは分かった。確認してから、遊星は壁際に添わされたベッドの端へと身体を寄せ、もう一人分のスペースを作る。ありがとう、とブルーノの声がして、それからベッドに寝そべる人数が増えた。
 布団を被る。広くはない寝床で二人の身体は必然的に引っ付いた。身体を包む布を挟んで温かさが与えられる。宝物を誰にも見られたくない子供のように、ブルーノの腕は遊星を抱きすくめた。
「遊星は変わらないんだ」
「だから、何がだ」
 先程から的を射ないことばかり言うブルーノに少々語尾を強めて訊ねた。首筋に埋もれた彼の唇が言葉を発する度に震えて遊星の皮膚を擽る。
「ボクは君が好きだよ」
 そう呟いたかと思うと、突然遊星の唇にブルーノのそれが押し当てられた。んぐ、と息を詰まらせ、遊星は驚きに目を瞬かせる。激しい。瞬時に思ったのはそれだった。互いに横になっていた身体が回転する。唇はそのままに、ブルーノの身体が遊星をベッドへと押し付けた。
「んんぅ、ぐ、ん、っふ、」
 体重に肺が押され、僅かに空いた隙間から嗚咽に近い呼吸が漏れる。何の感情もなく欲に任せたような、若しくはどんな感情も混合されて押し潰されたような、苦しいキスだった。
 混乱で遊星の頭がぐわんぐわんと掻き回される。涙が滲んできた。
どうしてブルーノはこんなにきついキスをするのだろう。
疑問は不安を生み出す。頭の横に立てられたブルーノの腕をぐっと握り締めた。耐えられない、と思った時、ふっと身体が軽くなった。はぁ、はぁ、と荒い息をする遊星の上で、ブルーノが暗い瞳で見下ろしている。眉を寄せ、きゅっと締め付けられたような目だ。その奥に見知った感覚を見つけて、遊星は漸くあぁ、と声を絞り出した。
「また、落ちた、のか」
「――済まない、手荒な真似をしてしまったようだな」
 『ブルーノ』は目を一度伏せてから深い溜息をついた。困った奴だ、と髪を掻き上げながら、遊星の上から退く。すっかり自由になった身体を弛緩させるように遊星は大きく呼吸をした。
身体が汗ばんでいる。上がった体温を下げるために布団を捲った。見上げた天井は相変わらず暗い。『ブルーノ』は再び横に寝そべっていたが、非常に疲弊した様子だということが先程の溜息から伺えた。
「……ブルーノ」
「何だ?」
 何だい? といういつもの柔らかい返事ではなく、凛とした声が隣から返ってくる。あぁそうか、ブルーノは今『ブルーノ』なのだ。気付かず普段通りに名前を呼んでしまったことに漸く気付く。
「……何故、俺が変わらないと、言うんだ」
 何が変わらないのか分からなかった。右腕で視界を覆う。遊星の中の暗闇が増した。その奥で、先程自分に折り重なってきたブルーノの残像が揺らめいている。
「遊星」
 ぎっ、とスプリングを揺らして、『ブルーノ』が遊星の上へ上半身だけを被せる。そぅっと、視界を閉じる彼の腕を退かした。目を瞬かせる遊星の髪を『ブルーノ』の右手が柔く梳く。
「本当の私は、……きっと、恐ろしい」
「恐ろしい?」
 かち合った視線をそのままに、『ブルーノ』の唇が遊星の頬に添えられた。音を立てて小さなキスが何度も与えられる。その仕草に遊星は驚愕した。
「ブ、ルーノ……、どうしたんだ……」
 こんなことを『ブルーノ』からされるのは初めてのことだった。慣れない感覚に一つ一つにびくりと肩を震わせてしまう。ブルーノがいつもしていることなのに、今の彼の行為は全くの別人からされているような心地だった。そうやって何度かキスをされた後、最後に瞼に一つキスを落として『ブルーノ』の唇は離れた。
常より緩みのない両目が、暗闇の中で遊星を見下ろす。告げたくない秘密を告白するような面持ちで、その唇が開かれた。
「……君が、変わらないことが。私だけが、変わっていくことが」
「それは、どういう……」
「私が君に向けている感情は、きっと、ひどく汚くて、泥のような、禍々しい感情だ。けれども君は私を疑いもせず、受け入れ、私に好意を返してくれる。きっと、これから先も変わらずに――」
 『ブルーノ』の声が一度途切れる。再び息を小さく吸い込み、彼の言葉は続く。
「その度に、まるで私だけが君を堪らなく愛しているかのような、そんな心地になってしまう」
「ブルーノ、」
「私と君の感情の量は恐らくイコールではない。おどろおどろしい私の欲望に、いつの日か、君が戦き、私の前から消えてしまうのではないかと、時折不安になるのだ」
「違う、違うんだ、ブルーノ」
 闇に慣れた目の先で、『ブルーノ』の瞳が息を吹きかけた蝋燭の炎のように揺れていた。あと少し強く吹けば消えてしまいそうな弱々しいそれ。自嘲の笑みを一つ浮かべ、彼はその目を伏せ掌で覆った。
「喋り過ぎたな、私はもう失礼する」
「待ってくれブルーノ、俺は、」
「それは私の名であって私の名ではない。済まないな……また会おう、『私』の遊星」
 ぐんっと、糸が切れたようにブルーノの身体が落ちる。首に抱き付くような形で、遊星の上へ身体の上半分のみ被さった彼は、すぅすぅと吐息を立てていた。『ブルーノ』は彼を起こさずに引き上げたらしい。遊星の身体に、ブルーノの半分の体重が掛かる。それが彼の苦しみの重さのように思えて、遊星はブルーノの背に腕を回してひしと抱き締めた。大きな体躯が、まるで子供のように思える。
ブルーノ。俺は。
 呟きに返事はない。静寂の中へ溶けていくばかりで、遊星の意識も、いつしかその中へ逃げ込むように沈んでいった。
 翌日、目が覚めた時には、既にブルーノは居なかった。おぼろげな光を孕むリビングのテーブルの上には、出来上がって間もないと思われる食事がぽつねんと孤独に鎮座していた。誰かに食されるのを待ち兼ねているようであり、誰にも手を付けられずに放っておいて欲しそうにも見えて、遊星は幾度となく目にしたそんな光景が以前とは違う心地をもたらしていることに気付いた。
自分は躊躇している、ブルーノからの無償の施しを受けることに。
 手にしていたスマートフォンを握り締める。そこには半時間ほど前にメールが一通届いていた。『先に行くね、ご飯ちゃんと食べてよ!』いつものブルーノのメールに、遊星は無性に侘しさを感じた。
 いつもこんな風に、自分の不安を押し殺していたのだろうか。俺に、何も不安を抱かせないために。
 考えれば考えるほど混乱が遊星の頭を掻き乱した。そうして何も感じてやれなかった自分が腹立たしくあった。後悔や懺悔が終わらない螺旋階段を転がり落ちていくようだ。けれどもきっと、ブルーノの方がもっとあぐねていたに違いない。そう思う。昨夜、『ブルーノ』が言っていたように。
 宇宙のような空虚な暗闇で、不確かに揺れていた彼の双眸を思い出す。それは感情の飽和を止められなかったと、やり切れない思いに駆られているようだった。そこまで至らせてしまったのは、きっと自分に他ならない。遊星はブルーノの二つの姿を瞼の内に描く。
 自分は彼にこの心の内を言葉にしたことがあったろうか? 昔から与えられているばかりで、『ブルーノ』が言っていたように好意を返すことなんてできていなかったはずだ。それは彼が自分を好いていてくれるから、受け入れていることをそんな風に受け止めてくれているだけなのだ。
 伝えなければ。
 伝えなければいけない。
 自分はもう庇護されてばかりの子供ではないのだから。
 遊星の指がスマートフォンの画面を操作する。今晩うちで待っている。短い一文だけを記入し、送信する。画面をオフにして、遊星は世界が夜を迎えるのを待った。
     *  *  *

 雲のない黒い天蓋から半月が見下ろしている。ブルーノは背中からその淡い光を受けながら遊星の家の玄関前に立っていた。右手に持つ仕事用の鞄がいやに重く感じる。
 仕事の合間に確認した遊星からのメールが、彼はずっと気になっていた。もしや自分は何か遊星にとって悪いことをしたのではないだろうか? 嫌われたのではないだろうか? 幽霊に怯えるようなはっきりとしない恐怖がブルーノの心を曇らせた。
 最近、遊星と居る時に意識が飛んでしまうことが度々ある。その正体にブルーノは薄々勘付いていた、その瞬間はいつも遊星の肉体を求めている時であるから。
きっと自分は逃げている。自分の奥底に隠れている、檻の中の獣から。
幼い頃より知っているあの恋人を喰ってしまおうとする欲望が日々自分を侵食している。それから逃げているのだ。辛うじてその看守が自分を心の更に奥へと追い遣ってしまうから、ボクは紙一重のところで牙を剥かずにいる。
 意識が途切れてしまった後に見る遊星は、自分を見ているにも係わらず違うものを見ているようだった。その時ブルーノは、遊星の視線に紛れる自分の中の全く異なる自分の姿を見出した。己の看守の姿を。
 スマートフォンを操作し、再び遊星からのメールを見た。差出人の『不動 遊星』という文字がひどく愛おしい。遊星と付き合い始めてから、否、それよりも前から、彼を形容するものは全てがブルーノにとって愛情を賦与する対象だった。親鳥が雛に餌を与える気持ちでいたものが、いつしか萌芽のような思慕となったのはいつだっただろう。木の葉が紅く燃え上がるように恋情で染まってしまったのは。いいやきっと境界線なんてなかった。遊星の人間性に触れた瞬間が始まりだった。ただ、それだけだ。
 スマホを仕舞う。少し冷えたブルーノの手が重たそうに家の扉を開けた。
「ただいまぁ……」
 玄関の明かりは付いていない。ただリビングから漏れる蛍光灯の白い光が廊下を薄く照らしているばかりだ。
「遊星?」
 返事はない。その代わりに慌ただしい足音がした。だだだだ、と走るような足音が家の奥から聞こえてきたかと思うと、遊星がリビングからばっと身を出した。彼の姿を確認してほっと息を付く。
「あ、居たんだ。居ないかと、」
 思った。そう言葉にする前に、遊星の身体がブルーノの胴体に抱き付いた。勢いで背後の扉まで後ずさりする。どん、と背中に扉が当たった。
「えっ、……え?」
 詰まったような声が出た。体当たりのような激しい勢いで抱き付かれ、ブルーノは混乱していた。遊星がこんな積極的な行動を取るのは見たことがなかったから。ブルーノの両手が所在なさげにうろたえる。
「ゆ、遊星、ねぇ、どうしたの? 何かあったの? 遊星、」
「ブルーノ」
 遮るように、くぐもった遊星の声が薄暗い玄関に転がった。
「好きだ」
 けれども至極はっきりと、書物に明示的に記された真実のように、遊星は喉を震わせた。
「俺は、ブルーノが、好きだ」
 ブルーノの身体が硬直する。心臓が、まるで氷漬けにされたように冷えた後、炎で炙られるような熱さで沸き立つ。遊星は今、ボクに何て言ってる?
「ずっと、ちゃんと言ってなかった。済まない。俺は――」
 俯いていた遊星の顔がそぅっと離れ、ブルーノを見上げた。輪郭が、廊下の奥から僅かに届いた光で浮き上がる。
「俺は、ブルーノのことを、愛している」
 だから、もう怖がらないでくれ。
 すっと開かれた遊星の黒い瞳に一つだけ輝く光が涙のように見える。そう思った時には、彼の顔が俄かに眼前へと近付いていた。
「ゆうせ……」
 遊星の右手が、首をぐっと引き寄せた。唇がぶつかる。荒いキス。直後、遊星の舌先が半端に開いていたブルーノの口へと入り込み、甘ったるいキスへと変わる。
「ん、う、」
 遊星からのキス、初めてだ。
 目一杯の幸福感がブルーノを満たした。ずっと何処かで噛み合わなかったピースがかちりと填まったような、失くしてしまった扉の鍵を漸く手に入れたかのような、全てが一つに合わさった至高の瞬間を今、享受しているのだ。
 右手に持っていた鞄を投げ捨てた。どっという鈍い音がしたが何も気にしなかった。両手で遊星の身体を抱きすくめて全身を閉じ込める。合わせた唇が水音を立て、絡む舌の上で唾液が混ざり合い、否応無しに官能的な興奮を本能へ注ぎ込んでくる。発情した動物のような息がどちらからともなく漏れた。
 たっぷりと、欲のほとばしるキスを味わったあと、名残惜しそうに離れていく遊星の顔を覗き込む。熱に浮かれたような表情で見上げる恋人は、ブルーノの瞳に恐ろしく蠱惑的に映った。そうして見下ろす彼の瞳は、もうあの『ブルーノ』ではない。
「遊星……」
 ひたと抱き締める。その身体は熱い。心地よい声が、熱情の混じった息と共にブルーノの耳元で響く。
「俺はもう、子供じゃない。ブルーノを想うだけで、こんな風に感情任せになってしまう、ただの一人の人間だ」
 伝わっているだろうか? 心の中で溶ける、砂糖菓子のようなこの感情。
「ブルーノ。ブルーノだけが、この感情の原動力なんだ」
 ブルーノの頬へそっと右手を添える。親指の腹で目元を拭うと、あたたかいものが付いた。見上げた自分は彼の瞳の中で笑っていた。ブルーノの唇が緩やかに弧を描いて、嬉しい、と形作った。へへ、と小さく笑う。いつも彼がする癖のような、くしゃりとした笑い方で。
「うれしい、ボク、今なら死んでもいいかもしれない」
「馬鹿、お前に死なれたら俺は一生孤独だろう」
「うん……うぅ……遊星……ゆうせいぃ」
 えぐえぐと小さな嗚咽を上げながら抱き締めてくるブルーノの背に、遊星は腕を回した。これではまるで立場が逆だ。けれども親のように、只管この子供のような大人を甘やかしてしまいたくなった。
「ボク、遊星が好き、大好き、誰よりも何よりも大切にしたい。けど、時々心まで一緒になれたらいいのにって思うくらい、君のことを、激しく愛してしまう瞬間がある」
「あぁ」
「こんなボクを、遊星が嫌いになっちゃうんじゃないかって、不安になる」
「あぁ」
「それでも、良い? ボクで、良いの?」
「それが、ブルーノの全てだろう」
 そのブルーノの全てを、俺は愛している。
 人間が人間を愛することはきっと、泥臭くて、欲に塗れていて、臆病だ。しかしこの世の何も敵わない輝きと高潔さ、そして深く強いあたたかさを持つ感情の塊を分かち合いたいから、俺達は誰か愛してしまう。不変で永久的で、儚く脆い、けれども揺るぎないもの。
 思いながら、遊星はブルーノを再び抱き締めた。指先が骨まで届けと言わんばかりに。
「俺は、ブルーノの全部が欲しいんだ」
 あぁ、やっと伝えられた。体裁も何もかも取り払って、ただ言葉と想いでお前に触れる。俺は漸くブルーノに触れられたのだ。皮膚にではなく、肉体の奥底で脈動するその魂に寄り添っている。
 願わなくとも俺達は一つになれる。伝えるという、たったこれだけのことで、二つの心がこっくりと溶けてしまう。難解で不可思議な現象。けれども世界中のどんなものよりもきっと単純な出来事。
 ありがとう、とすぐ傍でブルーノの鼻声がして、遊星は緩やかに瞳を閉じた。
 きっと『ブルーノ』はその代弁者としての役目を終えただろう。けれども予感がした。いつかまた、あの凛然とした『ブルーノ』に会える日が来るだろうという根拠のない、しかし確信をもった予感。もしその瞬間が来たら、俺も彼にありがとうと言いたい。そうして、祝福のキスを一つ贈りたい。
 ブルーノが等身大の彼で居ることに。
 そして、ブルーノがこの世界に存在していることに。
 ではその時まで失礼するとしよう。ブルーノの奥から、彼の声が聞こえた気がした。



(了)

初出:2010年畳む
人形師の家
・鬼柳さんのおつかいに行った時にアンドロイドブルーノに出会うジャックの話。
#ブル遊 #現代パラレル

 子供の頃から俺はその家をお化け屋敷と呼んでいた。外観がまるで化け物の髪のように蔦に巻かれていてそれは屋敷と呼ぶには小さすぎる家の窓まで及んでいた。そのためにガラスの半分しか確認することが出来ず、日光を避けているようにも思えるその具合が俺にとってはおぞましい何かを隠しているようにしか思えなかったのだ。
 主の男は若く玄関先に出て掃除をしたり路地裏を散歩したりする姿は時折見掛けたが、あまり老け込まない様子が更にその男を魔法使いの如く思わせた。十年経った今でも、男の様子は餓鬼の時の記憶と変わらぬように思う。
 そうして俺は今そのお化け屋敷の居間に居る。
 どうしても渡さなければならない書類があるから、と言われて町内の住民に頼まれ何故か俺が訪れることになったこの家は、意外や意外、内装は一般家庭と何ら変わらなかった。普通のキッチン、普通のソファ、普通のお茶請け。出されたクッキーを齧りながら、俺は机を挟んで向かいに座る男に目を遣った。
「町内会の委任状だったか? 記入したんだが、ここで渡せば良いだろうか」
「あぁ……」
 紺色のジャケットを羽織った黒髪の青年(と思う)は俺から受け取った紙の端をぺりりと切り取った。そう、渡すように依頼されたのは町内会議に関する委任状だった。全く下らない用事だ。主の男、不動遊星は切り取られた短冊状の紙を俺の前に差し出す。不動遊星、と男にしては整った文字が並んでいた。
 羅列を追っていた丁度その時、ひたひたと、俺の背後にあるキッチンから足音が聞こえてきた。ひたひた、ひたひた。住民は目の前の男だけだと思っていたのに、この家には本当に化け物が住んでいたのだろうか。そう背筋がひやりとしたのだが、予想外に柔らかい響きをした青年の声が聞こえてきたのだ。
「お待たせ遊星。豆から挽いてたら時間が掛かっちゃって」
「あぁ、有難うブルーノ」
 ひたりと足音が途絶えたと思うと、俺の左側にぬぅっと男が現れた。真夏の空のような色の髪を僅かに揺らして、そいつは右手に持っていた盆からカップを一つ俺の前に置いた。白地に信号機のような色彩が線を描く上着の裾に湯気が泳いで、芳醇な香りが俺の鼻を擽った。
「どうぞ」
 人の良さそうな笑みで、男は俺に珈琲を勧めた。それから遊星の前にも同様にカップを置いて、自身は再びひたひたと気味が悪い程静かな足音をさせて俺の後ろの方へと下がっていったのだった。同居人が居るとは欠片も知らなかった俺は呆気に取られながらも勧められた珈琲は口に含むことを忘れない(俺は香りの良い珈琲が好きなのだ)。舌の上に広がり、鼻に抜ける香ばしい珈琲の味は美味かった。

 珈琲を飲み干してから、俺は委任状と共にお化け屋敷を出た。今となっては然程おどろおどろしさを感じないその家の玄関へと振り返ると、遊星が見送りに出てきていて軽く手を振っていた。中途半端に上げられた右手が二三回左右に振られる。挨拶を返さぬのも気分が悪くなるような気がして、俺は珈琲の礼も込めて右手を上げた。上げただけで振りはしなかったが、それでも遊星は一瞬ひどく驚いた表情を浮かべてから、それはそれは嬉しそうに、そして満足気に笑って家の中へと戻っていった。
 不思議な人間だった。年齢も聞いたことがなかったし、生い立ちなんてもっと知らない。その不明さが遊星という人間を奇妙な存在にさせた。あの家だけが時間軸の外れに投げ出されたような感覚を味わいながら路地を真っ直ぐ進む。足元に浮遊感を感じるのは遊星の魔術の名残なのだろうか。そんな可笑しなことを考えながら、途中の道を曲がり、委任状を依頼した知り合いのところへ向かった。
 知り合いはノックに反応して直ぐに出てきた。爺のように白っぽく脱色した髪を掻き毟りつつ、そいつは黒いTシャツに破れたジーンズという格好で「おぉジャックか」等と能天気に言う。
「鬼柳、お前の頼みをきいてきてやったというのに!」
「え? あぁ、あぁ! 助かったわサンキュー」
 紙切れを突きつけてやると鬼柳は笑ってそれを受け取った。ふん、と一つ鼻を鳴らしてやる。
「あと、ブルーノとかいう男の分は貰ってこなかったから自分で行け」
 ぴく、と、鬼柳の指先が止まる。
「え……お前、まさか……その、見たのか?」
「は?」
 ブルーノという単語を発した途端、鬼柳の様子が変わった。そう、まさに化け物を見るような視線を泳がせて俺の返事を伺っている。面食らいながら肯定を返すと、鬼柳は溜息をついて左手を顔の正面で振った。
「そいつの分はいらねーよ。つか、もう忘れとけ」
「……どういう意味かさっぱり分からん」
 自分だけ知らない真実が目の前にちらつかされていて苛々させられる。はっきり言うよう促すと、面倒くさそうな声が返ってきた。
「あー……そうか、お前内輪以外の人間と喋るの嫌いだったから知らねんだったわ。あのな、そいつは人形だ」
「はあ?」
「だから、人形だっての。まぁロボットだ。機械人形」
「……あんな、あんなに、なめらかに、動くものが、か」
「見たやつなんて、今じゃ多分お前だけだろうよ。俺だって昔人づてに話聞いただけだ、実際見たことなんかねぇ。でも等身大の人形を家に住まわして、町民とはほとんど関わり持たない男なんて、変な話ばっか流れるに決まってんだろ。きっとどっかおかしいんだ、不動遊星さんはよ」
 ま、自分がどう思われてるかなんて本人は重々把握してるだろうがな。鬼柳はそう言って、この話は終わりだと言わんばかりに一方的に扉を閉めて家の中へと帰っていってしまった。俺はというと衝撃が全身を打ち砕いたように動けず、けれども一つ風が吹けば崩れそうな程眩暈がしていた。
 あの青年が、ロボットだ、など。
 余りに自然に動いていたものだったから、疑問を抱く隙など有りはしなかったのだ。然しながら思い返せば、ブルーノだけは珈琲を飲まず、気配という気配が薄く、見送りにも出てきていなかった。鬼柳の話を信じるならば、遊星が出させなかった、ということ以外考えらない。
 人目に触れさせるには問題がある代物。魂のない空っぽの身体。見た目だけは人間そのものの、人間ではない人形。

 ふらふらと揺れながら路地を引き返した。来た時よりも倍以上の時間を掛けて、ようやく遊星の家の玄関が確認できるところまで来た。其処には誰も居ない。閉じられた黒い扉が、今は開かずの門のように思えてしまう。もう二度とあの中へ入ることはできない気さえした。
 赤い空につられて視線を上げると、二階の窓に掛けられた灰色のカーテンが揺れていた。僅かに窓が開いているらしい。其処から侵入した夕暮れの風が、部屋を隠す境界線を捲り上げる。
 その奥に、重なった青色と黒色を見た。
 自分の視力をこれ程までに呪ったことはない。間違いでなければ、それは接吻だった。ブルーノと遊星との静寂な秘密だった。黒髪に回された手が緩やかに滑るのを、遊星は小さく身を捩って受け止めていた。暴いてはいけない箱を開けてしまったような途方もない罪悪感に責め立てられ、俺は追われる様に一目散に其処から走り去った。
 今でもあの家にはブルーノが居るのだろう。そうして恋人にするような口付けを遊星に与える。人間のように愛情に塗れた、嘘っぱちの人間が、今日も俺の眼球に焼き付いた窓枠から俺を見下ろしている。畳む
きみとテレパシー
・ひきこもりブルーノと働いてる遊星。
・くっつきません。
#ブル遊 #現代パラレル

 誰にだって苦手分野はある。勉強だったり、お金の使い方だったり、はたまた恋愛だったり。ボクの場合、それが大勢の人の前に出ることだった。昔から背が高くて、何だか分からないけれど顔だけは良いほうで、学校ではひっきりなしにスポーツ関係の助っ人を頼まれていた。でもボクはスポーツがそれほど得意なわけでもない。人前で競技する大会なんて以ての外だ。大勢の人の前に出ると心臓が飛び出そうなくらいばくばくして、酸欠に陥って頭がふらついてしまい得点は取れず、パス回しができれば上等なレベル。それでも声を掛けてくる人達は絶えなかった。ありがたい話だ。
 しかし同時に、ありがた迷惑という言葉がこの世にある理由がよく分かった。彼らのことがいつしか鬱陶しくなって、ボクは他人と話すことさえ苦手分野になってしまっていた。いやいいよ、ボクはいいんだって断ることがどうして遠慮だと思われるのだろう。
 遠くの大学を受験して一人暮らしを始めてからは、それはより顕著に生活に反映されていった。大学は楽だ、授業さえ真面目に受けていれば友人を作る必要もない。授業以外をすべて自室で過ごすことでボクは平穏な生活を手に入れた。誰もボクの邪魔をしないし、干渉されることもない。相手にやたらと気を遣う必要もない。大学を卒業してからはデイトレーダーとして生活費を稼いで、あとはソーシャルゲームに大ハマり。駄目人間かもしれないけれど、これがボクにとっての悠々自適生活なのだ。

『で、誘ってきたそのメンバーがもう話にならねー。もっとレベル上げてから来いよって思ってな。アイテム逃しちまったし、良いことなかったぜ』
「へー、それは災難だったね」
 ヘッドフォンから聞こえてくるのはオンライン上の友達であり、今のボクにとって事実上唯一の友達である『カラス』くんの声だ。ゲームの協力プレイ中に向こうから話しかけてきた。それからはゲーム友達兼話し相手としてお世話になっている。
「あ、株価変動」
 右側のモニターでグラフが動いた。今が売りか。
『今月もいい感じか?』
「まあ、そこそこね」
『不労所得は最高だな』
 笑う『カラス』くんの声には、今も絶え間なくキーボードを打つ音が重なっている。彼も相当のオンラインゲーム中毒者なので今も話しながら何処かのフィールドで戦闘中なのだろう。
 ボクはそんな彼の話を聞きながら、机に並べた三つのモニターのうちの左二つを交互に見る。最近の市場傾向は本当に参る。黒い色を背負いながら線が小刻みに揺れ動くさまは、病人に繋がれた心電図を彷彿とさせる。文字通りグラフが下がればボクの生命線であるお金も減少することになるわけだから、あながち間違ってはいない。
 グラフの上がり下がりをじっと見ていたら、唐突にぐぅと音がした。
 お腹空いたな。そういえば朝から何も食べていない、もう昼過ぎなのに。
 冷蔵庫にはすぐ口にできるような食材はなかった気がする。食材はネットで注文するから最速でも、と考えているうちに、またぐぅと鳴った。しかも結構長く。今から頼んでもボクの身体は我慢してくれそうにない……つまり、近所のコンビニに出陣することを意味していた。
「コンビニ行ってくるね」
『おー』
 簡単な挨拶だけ告げてヘッドフォンを外す。スマートフォンだけジャケットのポケットに突っ込み、帽子を被れば、ほら視界が少し狭くなった。人の目を見るのも見られるのも苦手なので、外出する時は常に帽子着用だ。
 二日ぶりの外は眩しかった。
 ここ最近は、コンビニまでの数分間の道のりだけが唯一外気に触れる時間である。必要最低限の時しか出なくなったので日に焼けることもなくなってしまった。運動は室内で適当にトレーニングすれば済むし、生活用品はネットで買えるし、本当に便利な世の中になったものだなあとしみじみ感じた。こういう社会は、一体『ボク』みたいな人間を何人作り出したのだろう。うだうだ思考を巡らせているうちに、はい到着。あっという間の日光浴だ。
 コンビニに到着したらまずは雑誌を立ち読みするのがボクのサイクルである。ファッション雑誌を手に取りぱらぱらと捲ると、新作のコートを着たモデルが居た。適当にお洒落するのは嫌いじゃない。この見た目のせいで、妙な服を着ていると逆に周囲からの視線を否応なしに浴びなければならないからだ(以前上下スウェットで外出した時の経験が脳裏に甦った)。それならば流行りと言われている服装をしていれば浮かないし、紛れることが出来る。流行に溶け込むのはボクにとっての没個性法だった。
 ファッション雑誌を読んだら次はゲーム雑誌と決めている。ちなみに今日は雑誌の発売日なので必ずチェックしなければならない。新作ゲームの特集はボクにとっての新聞みたいなものなのである。
 ラックに整列させられた雑誌を一冊引き抜く。目次には今季一押しのタイトルが並んでいた。あ、これ面白そう――主要記事に目を通してから次のページへ進む。見出しをチェックして、記事をざっと読んで、またページを移動。
 その繰り返しに結構な時間を費やしていたに違いない。痛くなってきた首筋を解そうと頭を上げた時、ふわ、と右下に何かを感じた。横目で見ると、そこにはいつの間に来ていたのだろうか? ボクよりかなり背の低い青年が立ち読みしていたのである。存在に全く気付いていなかったボクはびくっと肩を震わせてしまったほどだ。
 青年は同じゲーム雑誌を読んでいた。特徴的かつ派手なメッシュが入った髪に、紺色のストライプシャツがやけに似合っていた。視界の端に入ったページはボクも気になっていたゲームの特集記事。
 ああ! それボクも好き!
 つい声に出しそうになった自分に対して、ぞわわと悪寒が走った。ひどく驚いたからだ。他人と話すこと、しかも見知らぬ相手を目の前にして話すことが苦手になってから何年経つ? にもかかわらず突飛な行動を起こそうとしてしまったのは、共通の趣味持ちという勝手な認識がボクの中に芽生えたからであろうか――この見知らぬ青年とボクの間には何の接点もない、だが趣味が同じ気がするという勝手な憶測。話をしたらきっと楽しいだろうなという勝手な期待が、ボクを引き篭もり生活から脱却させようとしているのか? だって『カラス』くんと初めて話した時も鬱陶しかったけど段々慣れていったし、同じ趣味の持ち主なら上手くいくかもしれないし。そんな仮定が頭の中をぐるぐる回る。
 あぁもう考えることが本当に面倒くさい。嫌だ嫌だ面倒なことは嫌なんだってば。泥の中を進んでいるような重苦しい感覚を振り払うように頭を左右に振った。そうこうしているうちに、その見知らぬ青年は雑誌をぱたんと閉じてレジへと向かった。どうやらお買い上げの様子である。彼がレジへ雑誌を置く前、店員の女性がはたと目を瞬かせてにっこり笑った。それを発見した時に、ようやく自分が彼のあとを目で追っていたことに気付いた。
「あら遊星、今日は仕事ないの?」
「あぁ、定休日なんだ」
「そうなのね。じゃあゆっくりゲームできるじゃない」
 店員の女性――すごく美人だけれどすごく奇抜な髪色の――は彼をユウセイと呼び、二言三言会話をする。知り合い、なのだろうか。会計を済ませた彼はその店員さんに手を振って店を後にした。横断歩道を渡り、向かいのビルの交差点を曲がったところで、彼の姿は見えなくなった。
 ユウセイ。店員さんが呼んでいた彼の名前。どんな文字で記すのだろう。
 その後、ボクも雑誌を買ってマンションに戻ったは良いが、肝心のご飯を買うことをすっかり忘れてしまっていた。そのことを『カラス』くんに報告した際、呆れた声で『もっと生に執着しろよな』と言われて、はははと苦笑するしかできなかった。再び株価のモニタリング作業に戻ってからもずっと、あの青年と趣味の話をしてみたいという得体の知れない夢は、どうしてかいつまで経っても消え失せてはくれなかった。
 ユウセイ。ユウセイかぁ。
 深夜のベッドを霞のように包むのは、大学の講義の微かな記憶。遊星歯車機構の、遊星という漢字の輪郭。学生時代、楽しくはなかったが講義は好きだったっけ。ロボット工学のゼミはいつも夜遅くまで残っていたっけ――眠気に交じって、遊星の文字は夢の入り口へほどけていった。
 あの頃に友人がいたら、今頃どんな『ボク』になっていたんだろう。



 何? 恋でもしたのか? 白昼夢じゃねえのか? お前にそんなフラグがあったとは思いもよらなかったぜおいおい。若干溜息を織り交ぜながら言う『カラス』くんの声には不本意さが明らかに混合している。恋ってそんな大袈裟な。
「恋じゃないってば。ていうかその人まず男だから」
『いやいやいやいやブルーノ、甘い! 甘過ぎだお前は! もっとよく現実を見ろ、フラグはいつ何処で立てられるか分かんねーからな?』
「そういう『カラス』くんも結構現実見てないよね」
『お前よりは明日の飯の心配はしてるぜ』
 昨日、空腹を紛らわせるためインスタントのカフェオレだけで済ませたせいか、今朝は寝起きから胃が少し痛かった。調子の悪い腹をさすりつつ、ビニール袋のまま放置していたゲーム雑誌を出す。表紙には絶賛話題沸騰中の恋愛シュミレーションゲームの女の子がこちらを見上げていた。アイドルなのか学生なのかもう訳が分からないが、何万という世の男性の嫁だ。ま、可愛いよね。
 ヘッドフォンからは相変わらず『カラス』くんの声が聞こえてくる。そりゃガキどもを食わせないとやっていけないからな、でもありがてーことに企業案件もいくつかあるしまぁ何とかいけんだろって踏んでるわけよ。ゲーム本業で金稼ぎのできる良い時代になったもんだぜ!
「ほんと兄妹想いだよね」
『もっと褒めていいぜ』
 流石です。呟いて、女の子達を眺めてから表紙を捲る。株用のモニターを照明代わりに記事を読み進めて、昨日見た青年のことを思い出す。店員さんとの会話から推測するに、恐らく働いているのだろう。そしてゲーム好き。多分一般的に言うゲーム好きのレベルは軽く超えている。『カラス』くんやボクとは趣味が合いそうだ。あたかも推理小説の犯人を突き止めるみたいに、彼の人物像を勝手に作り上げてみる。覗き見した時に焼き付いた姿に、記憶から捏造した彼の人間性をぺったりと塗り付けた。そこへ凛々しい声をオプションで付ければ、空想上の『ユウセイ』くんの出来上がりだ。あなたが犯人です! ……何のだよ。しかし脳内で捏ね繰り回すだなんて、なんだかボクが変態みたいだな。自分でそう考えて虚しくなった。
 情報を整理しているうちにあることに行き当たった。この雑誌は昨日が発売なのだ。ということは、彼は次回の発売日にも買いに来る可能性が高いのではないか? いやいや、まずあのコンビニに来るかどうか分からないじゃないか、とその考察をすぐに打ち消す。しかし彼が徒歩で来ていたことを思い出した。もしや近所に住んでいるのだろうか。だとすれば再会の望みはある。
 誰かに興味をそそられる経験は久しくしていない。あの青年はボクの中に強い印象を残していったが、この感情は『カラス』くんの妄言にあったような恋などでは到底なく、求知心にカテゴライズする方が余程しっくりくる。知識をもっと手に入れたいという、人間の単純な行動原理。情報の欠片が幾つか集まると、それらを掻き集め、組み合わせ、一個の塊にしたくなる。
 ボクは今、彼の人のピースを一つずつ組み上げている最中なのだ。
 これらを結合させるために、もう一度彼を見て、自分の中のイメージを確固たるものへ昇華させたい。まるで図鑑を編纂するかのように。勝手にこんなことを考えているなんてあの青年が知れば、気持ち悪いと蔑まされそうだが。
 幾ばくかの逡巡の後、ボクは再来週の発売日に確かめることに決めた。ただ彼をもう一度見たいだけだ。純粋な関心からならば、こんなストーカー染みた行動でも許される、気がする。『カラス』くんが『放置プレイは趣味じゃねーよ』と半分拗ねた声で話し掛けてきて、ようやくボクは彼を無視し始めてから優に三十分を経過したことに気付いた。ごめんなさい。

 かくしてその日はやってきた。
 雑誌の発売日。晴天。少しばかり雲が泳ぐラムネアイスみたいな色の空。昨日の夜からゲームはしていない。少し脈が速くて気分が落ち着かず、集中できなかったからだ。遠足前の小学生みたいだった。スマホのデジタル時計は午前十時過ぎを示している。日付はもう秋だが暑さは一向に去る気配がない。部屋の中ではエアコンをきかせているが、洗濯物を干すためにベランダへ出るだけでボクのシャツは汗染みを作っていた。
 今日はあの『ユウセイ』くんは来るのかな。根拠のない可能性に馬鹿みたいに賭けていることは自分が一番分かっていた。
 ボクは午前中からコンビニに引き篭もることにした。光熱費節約のためだと自分に暗示をかけるように反芻しつつ、コンビニへ向かう。この気候では先ほど袖を通したグレーのカットソーはまだまだ役に立ちそうだった。最近は冷房対策に長袖を着るべきか迷う時がある。年かもしれない。鍔付きの帽子の上からはじりじりと太陽が熱線を降らせてくるが、それがボクを溶かす前に店へ到着した。あの赤い髪の女の子が先日と同じようにレジに居た。開いた自動ドアには一瞥もくれず、いらっしゃいませ、と淡々とした口調で挨拶を述べる。
 彼女を見ないようにして雑誌コーナーへと足を進めた。雑誌は綺麗に陳列されている。まずはファッション雑誌からといういつものルールは乱さず、ゲーム雑誌の側に並ぶそれを手に取った。秋服特集がくまれているが、記事を読んでも頭には入ってこない――緊張、しているのだろうか。
 何だか片思いの先輩を待っている少女のようだ。このボクが? 少女漫画のイメージを自分に投影してみるもまるで一致せず軽く吐き気がしたところで、今日はイヤホンを持ってきたことを思い出す。早速装着してスマホの音楽アプリを操作する。間もなく聞き慣れた歌の演奏が開始されて、ちょっと気分が落ち着いてきた。
 ファッション雑誌を閲覧し終わってから、例のごとくゲーム雑誌を手に取る。ページを捲る速度を非常に遅くして、一ページずつじっくりと雑誌を読む。
 だが、それを何度繰り返しても『ユウセイ』くんは来なかった。
 いつもより何倍もの時間をかけて文字を追っても、流れてくる音楽がもうすぐ十曲目に突入しようとしていても、彼の姿は現れなかった。ボクのずっと右後ろでは、あの赤髪の店員さんがボクのことを変質者かどうか疑っているという疑念さえ抱いてしまう。勿論ボクの勝手な思い込みなのだけれど。
 どうしよう、一旦帰ってもう一度来ようかな。そう思っていた時、ボクの目に信じがたい光景が入り込んできた。真正面、コンビニの大きなガラス窓の向こう側に何処かで見たことのある人が居る。あ、と頭の中のデータのある項目にヒットした。それは先程まで読んでいたファッション雑誌の表紙の男性だった。黒塗りのミニバンの運転席から降りてきて、車と同じような黒いジャケットに白のインナーを着こなし、足取り軽やかに自動ドアを潜り抜けてきた。え、なんでモデルさんがこんなところに居るの! ボクのテンションはベクトルを方向転換して一気に急上昇し、その人を凝視する。やばい、すごいよ有名人が今目の前に!
 しかし、更に心臓が飛び跳ねたのはその後だった。そのモデルさんがボクの左側へと来たのである。なんということでしょう。ボクの目はすっかりゲーム雑誌から離れて左側へと移った。モデルさんは週刊誌の漫画を一冊引き抜いて読み始めた。肩に掛かるほど伸びた髪がさらさらと揺れる。漫画一つ読む姿ですら格好良いのだから恐ろしい。こういう人は持っているものがたとえ発禁ドエロ本でも素晴らしく格好良く映るに違いない。しかしこんな僥倖には滅多にありつけない。サインとか、欲しいかも。頼んでみようかな。でもちょっと怖いな。ボクの掌はじっとりと汗を掻いていた。他人は苦手だがメディアに露出している人達は『皆の共有物』という感覚が強くて躊躇わずにいられた。いいややってしまえこんな機会もう二度とない! すぐさまイヤホンを外してポケットへと突っ込んだ。自分にちょっと呆れる。
「す、すいま、せん!」
「あ?」
 やばい今ちょっと声上擦ってた絶対! 隣のモデルさんはぼけっとボクを見上げている。手元の漫画はまだ途中だ。しかしこんな中途半端な声の掛け方で終わらせてはモデルさんも困ってしまうきっとそうだ最後までやり切れ! なけなしの勇気を振り払い「あのっこの人ですよね!?」とラックから素早く例のファッション雑誌を引き抜いて掲げた。ゲーム雑誌は左脇に挟み込んだ。
「ん? あぁ、そうだけど」
 当たってた。
 当たってしまった。
 これはもういくしかない。
「あ、あの、サインとか頂けたり、」
 その瞬間。緊張で乾く喉を必死で震わせるボクの後ろから、予想だにしなかった声が投げ掛けられたのである。
「鬼柳! 済まない待たせた」
「おっ、ゆうせー!」
 えっ? えっ? 何?
 ゆうせい? ってあの『ユウセイ』さんですか?
 風を切るような勢いで背後を振り向くと、そこには先々週のあの青年が立っていた。走ってきたのだろうか、いささか肩が上下しており赤いTシャツが肌に貼り付いているように見受けられる。
 ちょ、ちょっと待って。今モデルさんがゆうせいって言ってなかったっけボクの聞き間違いかなそうかな。
「いやいや俺も今来たとこよ。で何だっけ? サイン? 全然構わないぜ!」
「あっえっ、うわっすみませんありがとうございます……!」
 モデルさん、即ち鬼柳さんはボクに向き直りにかっと笑った。まぶしい。それからボクが握り締めていたファッション雑誌を取ると、ベルトポーチからペンを取り出して表紙にさらさらとサインを書いてくれた。手馴れている仕草だ。すいませんその本まだ買ってないんですが、と突っ込むべきだろうか。この間、ボクの背後では件の『ユウセイ』くんがじっと待っていることは言うまでもない。「ほらよ。この雑誌読んでくれてんだ? ありがとな」「いえ、ありがとうございます」常に立ち読みですが……とは言えない。
「鬼柳のファンなのか?」
 後ろからあのぴんとした声が掛かる。びくぅと思い切り身体を震わせてしまった。
 きた。遂にきた。
「らしいぜ。いやーさすが俺って感じ? ファッションリーダー鬼柳京介様は老若男女問わず大人気ですよ」
「ふーん」
「なにその態度、遊星冷たい」
 あの、ボクを挟んで前後で会話するのは止めて下さい。硬直した身体ではその一言さえ搾り出せない。というか何ですか貴方達知り合いだったんですか。今目の前で想定外の出来事が繰り広げられている。いつも雑誌のカバーを飾っているモデルの鬼柳京介さんは、ボクがもう一度見てみたかった『ユウセイ』くんの肩をばしばし叩きすっごく楽しそうに話している。それに対して『ユウセイ』くんは辛辣に扱いながらも笑いは絶やさない。ちら、ちら。行き場のない身体でそんな二人を見ていたら『ユウセイ』くんがすっとボクの方を向き小さく笑みを浮かべた口を開いた。
「こんな奴だが、これからも応援してやってくれ」
 どうぞよろしくお願いします。彼の全身からそんな声を汲み取って、思わず「勿論です!」と叫んでしまった。すごい響いた。赤髪の店員さんが迷惑そうな目で見てきた。そんなボクに『ユウセイ』くんはふっと笑い、鬼柳さんの背中をぽすぽす叩く。
「ファンが居て良かったな鬼柳」
「はいそうですねえー」
「何拗ねてるんだ。昔からお前を心配してたからこそ俺は嬉しいんだ」
「昔のことは言うなよ……有り得ねぇくらい恥ずかしいから……」
 会話の応酬を見て、この二人は浅い付き合いではないことがすぐに分かった。二人が話している時に言葉の端々から零れ落ちる感情が、彼らの仲を全く知らないボクでさえ幸せにしてしまいそうなほど眩しく輝いている。
 けれどもボクにはそれが唐突に羨ましく思えた。互いに不躾なほどくだけていて、それでも強固で、且つ煌いている絆の持ち主達が。自分の足元には羨望と嫉妬が交じり合う渦が広がっていた。
 だって、ボクにはこんなもの、今まで手に入れたことはないから。
「んじゃ行くかなー」
「そうだな」
「あっ、ちょ、」
 ちょっと待って!? 
 ぐい。がっくん。去り行く『ユウセイ』くんの左腕を、ボクは反射的に引っ張っていた。
「うっ」
 細い腕だった。勢いで彼の身体が二三歩後退する。ばさっとけたたましい音を立てて、ボクの左脇に挟まれていたゲーム雑誌が落下した。右で鬼柳さんがはたと目を瞬かせている。
 どうしたんだ一体、と驚いた表情で振り向く『ユウセイ』くんの体躯は、間近で見ると余計に小さく思える。彼の大きな瞳がボクを捉えた。それは磨き上げた鉱石のような光を有していた。誰をも引き寄せてしまうような無限の引力を潜めている目だ。
 限られた視界で、強く、ばちりと視線がかち合う。胸が圧迫されるように苦しく、その奥がどくどくやかましい。
 緊張、する。
 すぐに目を逸らす。彼の首元に視線をずらしてから、身体を弛緩させるために、は、と一息吐き出した。その後を、教科書の例文をなぞるかのような声が付いてきた。
「ボクに友達の作り方を教えて下さい」
 とっさのひとこと。あ、昔そんな教育番組があったなあと、頭の片隅で思い出した。
 コンビニの前で彼らと別れて、ボクはマンションへの帰路へと着いた。しかし足が数歩進んだところで、堪らずしゃがみこんで頭を抱えた。恥ずかしさが脳天から爪先まで満タンに溜まっている。耳と目頭がぐぅと熱い。挙句の果てにはそれは涙となって瞼の裏にじわぁと広がってきた。往来にあまり人が居ないことが救いだった。
 『ユウセイ』くんはやはり『遊星』くんだった。彼は急に妙なことを言い出したボクに戸惑いながらも、これは何かあると思ったのだろう、「悩んでいるなら死ぬ前に誰かに相談した方がいいぞ」と、ちょっとこっちも反応に困る言葉をくれた。仮に誰かに弁解するのであれば、ボクは決して自殺願望など持っていないと声高々に主張しよう。
「自分でよければ相談に乗るぞ」
 おもむろに、遊星くんはジーンズのポケットから財布を取り出した。彼の指が何かを探すのを、ボクはぼうっと眺めていた。指、きれいな動きだなあ。「何かあれば」短い言葉を添えて差し出されたのは名刺だった。名刺を持っていることに少し驚いた、ボクよりも年下のような気がするから。立派なひとなのだな。腹のほうが、じくじくした。
 ボクの予想では、彼はきっとボクの言葉に対する義務感からボクを誘ったに違いない。現代社会において見ず知らずの人間を自分のテリトリーに招き入れるということは、自身の守備に相当の自信があるか、あるいは敢えて侵略の危険性を考慮していない、つまり無防備かどちらかに分けられると思う。彼の職業や行動から考察するに前者だろう。彼は彼を必要とする人間に対して常日頃取っている行動を遂行しただけのことだ――彼にとって、これは特別なことではないのだ。
 名刺に書かれていた住所は、そことコンビニとボクのマンションとを結んだ時にちょうど直角三角形が成立するような位置で、並べて家電修理屋さんの社名も書かれていた。これで遊星くんに対する新たな情報が手に入ったことになる。彼はこの修理屋さんのエンジニアで、ボクのマンションの結構近くに住んでいて、他人のことをおいそれと放っておけない性格のようである。そして有名人の友達持ちで、待ち合わせ時間に遅れることを嫌うタイプということも、走って現れた彼の姿から想像できた。
 しかし、友達の作り方を教えてだなんて、よくもまあそんな小学生みたいな台詞が出てきたものだと自分を貶したくなった。口に出した時の遊星くんの顔が脳裏に焼きついている。困惑した表情の中に、何処か懐かしいものを見る視線が混じっていた。鬼柳さんはというと何故か苦笑して「なんかデジャヴ」と呟いていた(何かあったんだろうか?)。
 修理屋さんで働いているんだし、遊星くんは人助けが得意なのかもしれない。カスタマーサポートとか向いてそうだ。
 助けてほしい、わけじゃないけれど。助けてくれる人がいたらな、とは思う。
 主人公がピンチに陥った時、必ず現れて助けてくれる人間。小説でも漫画でもアニメでも、九分九厘それらは主人公の友人だ。そんな場面を見る度に、ボクの心にはいつも嘲笑が顔を出した。助けてくれるのか、友達なら。何故? 利害関係の一致? そんな風にしか考えられなくなって、今年で何年経つのだろう。ボクには友達がどんな存在なのかまともに感じたことが無いがために、遊星くんの人間性を覗くことで疑似体験してみたいのかもしれない。綺麗に作り上げられた関係図に自分を重ねてみたいのかもしれない。まるで、ごっこ遊びのように。



 モニターが壊れてしまった。と、無理矢理理由をこじつけることで、ボクは遊星くんのお店へと足を運ぶ口実を得た。株価用モニターの調子は以前から悪かったのだが、かと言ってまだ修理するほどでもない。けれども折角貰った名刺が所在なさげに卓上に放っておかれているのを見る度に、まるでボクがその名の主自体を放っておいているかのように思えて、見兼ねてモニターの小さな不調を出掛ける理由に仕立て上げたのだった。
 あれから数日経って、カレンダーは既に一枚破り捨てられていた。真新しい日付の羅列表は相変わらずまっさらだった。予定を書き込むこともなければ書き込まれることもない。時間の刻みだけをただ述べるそれに、何ともなしに一抹の寂しさを感じた。これはただ役割を果たしているだけなのに。
 秋風が部屋を通り抜ける前に扉を閉める。箱詰めされたモニターを側に退けてから戸締りをした。最近では風の向きも強さもかなり変わって、被っているキャップがずれそうなほどだ。蒸し風呂のようなじめじめとした湿気も風が連れて行ってくれた気がする。マンションのエレベーターの中もそれほど暑さを感じなくなった。白い長袖の襟シャツに水平に描かれた黒の太いボーダーは、エレベーター内のガラスに鮮やかに映った。
 路上に時折立ち込めている排気ガスを避けながら、ボクは名刺が示す場所へと向かう。左手に提げたモニターの重さはそれ程感じなかった。それよりも久しく行っていなかった行動、誰かに会いに行くというそれに対して、膝から下が重かった。自分から遊星くんに言葉を掛けておいてなんという様だろうか。全く失礼極まりないなあと嘆息する。だが、しかしだ。他人の好意に対して、たとえそれが偽善の類であっても、どう返せば上手くいくかどうかという問題に未だ明確な答えを出せてはいないのである。
 以前はコンビニの窓から見ていた景色を、今日は実際に歩く。ビルに挟まれた交差点を曲がってから暫く進むと、その先に小ぢんまりとした工房があった。角張った建物は二階建てで、見慣れたコンビニとよく似た大きさだ。包丁で綺麗に切り分けられたケーキみたいに角が鋭い。道に面した壁の右端に扉が一つあって、それ以外は一般的な大きさと言える窓が各階に三つずつ設置されている。
 ドアノブに手をかけると、喉がぐっと苦しくなった。緊張のせいだ。この向こうには沢山の人が居て働いているんだろう。だがここまで来て帰るというわけにはいかない。胸ポケットに突っ込まれたあの名刺が、今度こそ存在意義を無くしてしまう気がしたから。
 開けろ。
 ドアノブを持って扉を引いた。けれどもその奥には、ボクの予想に反して誰も居なかった。虚を衝かれたようにボクの目が瞬きを繰り返す。出掛かっていた挨拶は飲み込まれてしまった。銀行のようなカウンター机の向こう側には縦に等間隔に並べられた机が三つあり、その横に扉と同じ大きさで刳り貫かれた壁があった。その奥は小部屋にでも繋がっているのだろうか。カウンターにはチラシが数枚広げられていて、確かに人が居た気配があるのだけれど、その姿は見えない。フロアの左端には階段があり、二階へと続いているようだ。
 静かだった。
 仕方なく観葉植物の置かれた横に設置されてある椅子に腰掛ける。本日は定休日ではないはずだ、入口には『OPEN』としっかり書かれた札が掛かっていたのだから。モニターの入った箱を傍らに置いて、ボクはどうすべきか考える。意気込んでいたものが一気に消沈したような消化不良のような心地だ。ううんと唸っていると、突然、奥のほうからがたんがたんという音がした。と、その次には、まばゆい金髪をした背の高い男性が薄緑色のつなぎ姿で現れたので、ボクの身体はしばし凍り付く。
「ん? 何だ貴様は」
 つかつかとカウンターに近付いて、ぎろ、とボクをねめる目が怖い。あの、ボク、一応お客さんなんですけど。詰問されているかのような空気を何とか打ち破り(心の中で)、椅子から立ち上がって彼の前へと進んだ。カウンター越しに向かい合う男性二人は、決して喧嘩しているわけではない。
「え、えっと、あの、こちらに、不動遊星さんがいらっしゃると」
「何? 遊星だと?」
「え、と、はい」
「なんだ、遊星の客か紛らわしい……ついてこい。案内してやる」
「え?」
 ていうかボク、何か紛らわしいことしました? ボクのことは何も気にせず、男の人はカウンターを飛び越えてボクの前に降り立った。軽やかな動きだった。こうして並ぶとボクの方が背が高いことに気付く。ふんと鼻息を一つ噴出して、その人はフロア端の階段へ向かう。慌ててボクもモニターを持ってついていく。かつかつと鉄製の階段を鳴らす足音が、遊星くんと会うまでのタイムリミットを刻む針の音に聞こえた。
 十段少々の階段を上りきる。二階はカーテンで真ん中を間仕切りされただけのフロアだった。まるで病室や保健室のようにカーテンレールが天井に付いていて、そこから白いカーテンが垂れ下がっている。仕切られた右側には大きな液晶テレビが壁に設置されていて、向かい合わせに二人掛けのソファが置かれていた。
「あ」
「――ここで、こう……よし……」
 遊星くんはそこに胡坐を掻き、手にはゲーム機のコントローラーを握り締めていた。ずだだだだだとボタンを連打する音が、数メートル離れたボクの耳にも聞こえてくる。一心不乱にテレビ画面を見詰めている姿からは何やら執念のようなものすら感じた。この子、相当やり込んでるな――。
「おい遊星!」
 返事はない。
「おい!」
「……なんだジャック、俺は今忙しい。カービィが大変なんだ」
「馬鹿者! 客だ!」
「……客?」
 じろりとジャックと呼ばれた目の前の男の人を睨んでから、遊星くんはボクをその視界に拾い上げた。瞳が柔らかくなり「あの時の」と口元を綻ばせた。それからゲームをポーズ画面にしてから立ち上がり、ボクの方へと歩み寄ってきた。スニーカーにつなぎという身形はジャックという人と変わらない。このスタイルがここの正装なのだろう。
「済まない、今日はもう客は来ないと思っていたから」
「い、いや、ボクの方こそ、急にごめん……」
「気にしないでくれ。……ええと、」
 そういえば自己紹介をしていなかったことを思い出す。この間は名刺を貰っただけで終わってしまったので。
「あ、えっと、ボクはブルーノっていいます」
「ブルーノ」
 改めてよろしく頼む、と遊星くんは右手を差し出す。礼儀正しいなあと思う反面、先程ゲームに熱中していた姿が自分と被った。これは社会人特有スキルである社交辞令の一つなのだろうか。
「それは修理品か?」
 それ、と指差されたものはボクの左手にぶら下がっているモニターだ。あぁ、と答えて手渡す。彼は受け取った後、「後で見るから、取り敢えず座ろう」と、カーテンで仕切られた片方のスペースへと案内してくれた。そこには大きな作業机や大画面付きのパソコンと共に、シンプルな木製の椅子と机のセット、それに冷蔵庫一つがあった。四脚あるうちの一つに着席を促され腰を下ろす。遊星くんは作業机の上に散らばった工具を手でざっと除け、そこにモニターの箱を置いた。あのジャックという人はボクらのスペースを区切るカーテンの向こうで遊星くんに頼まれてゲームの続きをさせられている。……この会社は本当に営業しているのだろうか。
 遊星くんは冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して机に二つ並べた。ボクにくれるということらしい、一つは早速開封されて遊星くんの口へと運ばれた。少し日に焼けた指がプルタブを開ける仕草は、ボクのような人間に比べてひどく健康的に見えた。いや実際、健康的な青年だ、彼は。恐らく、だけれど。一口飲んだ後遊星くんはボクの向かいに腰掛けて、ふ、と口を開いた。
「……取り敢えず、死んでいなくて良かった」
 いやいやいやいやいや誤解です!
「ちっ違うんだよ遊星くん! ボクは断じて自殺したいわけじゃないんだ!」
「何? そうなのか?」
 知り合いが昔そんな感じだったからてっきりそうだとばかり……と、遊星くんはまじまじボクの顔を見た。眺められるのは慣れていない。ボクは目を合わせないようにさっと視線を逸らした。しかしその知り合いとは誰だろう。少し気になる。そんなにも自殺願望があったのだろうか。
「呼び捨てで構わない」
「え?」
「俺の名前だ。周りの人間は皆呼び捨てで呼ぶから、何だか慣れないんだ」
 俺も癖で呼び捨てで呼んでしまうから。そう言って彼はもう一口コーヒーを飲んだ。遊星くん、という呼び方は聞き慣れないらしかった。こそばゆいと訴えるように首を左右に軽く傾けた。
「じゃあ、あ、あの……ゆ、遊星……」
 反応して、遊星が笑う。微笑を携えた彼の表情を見て、むず痒いような小さな刺激がボクの中に走った。彼の友人達は、こんな風に名前を呼んで、こんな風に語り合うのだろうか。そしてボクは今、同じことを出来ている? 
 彼の友人と自分とを同列に考えるだなんて全く分不相応だ。自分が考えたことに嫌気が差して、机に突っ立っていた缶コーヒーを手に取る。冷えた金属は少し汗を掻いていた。
「ところでブルーノ、俺に友人の作り方を教えてくれと言っていたが」
 がつっと、ボクの指がプルタブを滑る。やっぱりその話題になるのか、なるよな。つい驚いてしまって上手く開封できなかった。もう一度缶を開けるために爪を引っ掛ける。今度は軽快な音を立てて上手く開いた。
「あ、うん……」
「俺の個人的な考えなんだが、」
「う、うん」
「友人とか仲間とか、そんな枠組みを作ったり、なってくれとか考えなくて良いんじゃないか」
 俺にはまだ全くブルーノの過去も人生も知らないんだが。そう言って、カーテンの向こうを透かして見るかのように、遊星はジャックさんの方へとちらりと視線を遣った。その向こうからはボタン連打の音に「くそっくそっ!」と文句を連ねるジャックさんの声が混じり聞こえてくる。ふっと口角を上げる遊星からは、彼がジャックさんに気を許していることがありありと分かった。それはこの間の鬼柳さんとのやり取りで感じたものと似ている。ジャックさんも遊星にとって離れがたい絆で繋がった人間なのだろう。
「テレパシーを送るみたいに、こう、一緒に居たいという想いを届けていれば大丈夫だ」
 こう、すっと。
 擬音を付けて、缶コーヒーを持ったまま人差し指を立てて、遊星は米神から前へと水平に指を動かした。ん? 仕草は非常に様になっているのに、何故だろう、言動が妙に新興宗教の勧誘のような雰囲気を漂わせているのは。あれ? 遊星って、なんかちょっと、電波なのだろうか。
「ところでブルーノ、これを見てくれ」
 戸惑っている間に人差し指はもう仕舞われて、遊星が背後の作業机の下から大きな箱を取り出した。ボクの迷いが溢れてしまっていたのだろうか、言葉を返せなかったから気を悪くしていないだろうか。あ、あ、と考える時間もなく、どすっと箱が置かれる。
「これはジャックの宝物なんだ」
「えっ」
「辛い時に使うと気が紛れるらしい。どうだ? 使ってみないか?」
 ふふ、と笑う遊星は、秘密基地を案内するみたいに悪戯っぽく愉しげだ。この無地の段ボール箱に、そんなにも素敵なものが――そう思うと、まるでパンドラの箱のように思えてきた。
 遊星の手が段ボールの蓋を開けた。だがそこからは、ボクが予想だにしていなかったものが登場することになる。
「これ、は……」
「シルバニアンファミリーだ」
 箱から出てきたのは、昔から子供に根強い人気を博している人形の玩具だった。屋根を真っ赤に塗られたプラスチックの二階建ての家に設置された小さなオブジェ、それに小さな動物を模った人形達。玩具の家の中にはこれまた小さく精巧な家具が置かれていて、あたかもそこで誰かが生活しているかのような臨場感を感じる。メルヘンチックだ。
「ジャックはこれを集めるのが昔から好きでな。どうやら癒しを求めているらしい。時々飾っては遊んでいる」
「……あの、向こうでゲームしてる人、だよね」
「あぁ、そうだ」
 なんてこった。世も末だ。あんなクールで気障そうなイケメンがシルバニアンファミリー片手に遊んでいる姿を、一体誰が想像できようか! 不可能だ。ボクですら手を出したことのない世界。まさかそこに新境地が開かれていたとは。
「ジャックのお気に入りはこのシルク猫ファミリーだ」
 遊星が掲げた小さな人形は、そのつぶらな目でボクを覗き込んだ。頭でっかちな掌サイズのそれは、耳の中がピンク色に着色されていて、髭もきちんとある。着せられた洋服も細かく、四肢と頭も可動式でよく造り込まれた人形だ。でも知りたくなかった。なんか、すごく知ってはいけないものを知ってしまった気がする。
 遊星は一体何を考えてこれを見せたんだろう。ますます彼の電波度が増してしまった。
 遊星はシルク猫のお母さん(だと思われる人形)を、赤い屋根の家の居間にあるキッチンの前へと置いた。側に在る食卓にはシルク猫のお父さん(だと思われる人形)を座らせる。器用なもので、彼は人形の足をどれ程の角度で曲げれば座らせられるか等を把握しているようだった。頭の片隅に、ジャックと二人で人形遊びをしている遊星の姿が思い描かれた。男二人が遊んでいるシーンはひどくシュールだ。軽い頭痛を感じているうちに、そこには小さな家庭が出来上がっていた。
「よし、これでいつものシルク猫ファミリーの団欒の完成だ」
 一仕事を終えたという満足感のこもった声で遊星が呟く。居間の机の上にはペン先みたいな小さな皿とコップが並べられていて、シルク猫母は手にフライパンを持っている。シルク猫父は椅子に座りながらその母猫を見詰めていた。
 小さな子供なら歓喜に飛びつきそうな玩具だが、生憎ボクは立派に成人した大人なのだ。緻密な作品達に感動は抱くものの、別段それ以上の感想は持てなかった。ジャックさんが何故これに拘っているのか不明だった。 「ジャックには両親が居ないんだ」
 さらりと遊星が言うものだから、ボクは一瞬自分の心を読まれたのかと思ってしまった。
「え?」
「だから、こんなミニアチュールの世界に惹かれるんだろう」
「……自分で、好きに作れるから?」
 夫婦の姿も、家族の姿も。
 遊星はこっくりと頷く。その目には一欠けらの同情も憐憫も含まれていない。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。
 記憶の片隅で、箱庭療法という言葉を思い出した。学生時代のゼミで、夜、教授が言っていたっけ。砂を入れた箱をセラピストが用意して、患者に玩具で箱庭作品を作らせる心理療法。
 それに近いものなのだろうか。自分だけが作れる自分だけの世界。ジャックさんにとってはそれが理想の家であり、家庭の姿なのだろうか。人工的に作り上げられた虚構の家庭が。この小さな小さな世界でしか作れない、仮初の家族の姿が。
 ボクはシルク猫のお母さんの頭を撫でた。人差し指の腹で、そっと。本物の猫みたいにふわふわした毛ではないけれど、不思議と息吹のようなものを感じた。それはお父さん猫がお母さん猫を見る姿に、ボクらが理想とする夫婦の愛情を見出したからかもしれない。
 彼らは決して動くことはない。ボク達が動かして初めて意味を成す。
「でも、この子達は、こうしてやっと愛情を分かち合えるんだよね」
「そうだな」
 お父さん猫がお母さん猫を見る姿は、何だか好きだって言ってるみたいだった。好きだよ。愛しているよ。彼らはそんなことは話さないし話せない。ボク達がこうして彼らの世界を作り上げなければ一緒に居ることすらできない。見詰め合うこともできない。そう思うとひどく遣り切れない思いに駆られた。今ボクの手の中には、彼らの命運が握られているも同然なのだ。たった一握りの空間にある、砂粒のような彼らの運命を司る、空想家のボク達。
「辛い時に使うと気が紛れる、って言っただろう」
 遊星は、ボクが辛く感じていると思っているのだろうか。いやボクは、今の生活に満足しているし、死にたいなんて思ったこともないし、普通に生きている。辛くはない。ボクが知るボクの範囲内では。
 こつ、こつ、と、遊星の右手が人形を増やした。シルク猫の子供の人形に、栗鼠の子供の人形、犬の子供の人形、兎の子供の人形を、それぞれ家の二階の子供部屋へと並べる。その様は、シルク猫の子供とその友人達という構図を簡単に想像できた。
「こうやって誰かが居れば、星が引き寄せられるかのように人が集まってくる。それは偶然じゃない。恒星と惑星のように、中心に誰かが居て、その周りを守護神のように皆が廻る」
 そうしてこつんと突っ突いたのはシルク猫の子供だった。彼を囲む三体の人形は、まるでシルク猫の子供を中心とした歯車のようだった。遊星歯車機構。その言葉を彼の名前と共に思い出す。一つじゃ意味を成さないもの。
 一階へと手を伸ばして、ボクは愛の言葉を囁けない人形を摘み上げた。右手にお母さん、左手にお父さん。二階に集まる四体の人形は夫婦を取り上げたボクを咎めるわけでもなく、当たり前だが微動だにしなかった。
 ジャックさんはこの二体の夫婦を、いつもどんな気持ちで並べるのだろう。
「すきだよ」
 お父さんに言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「あいしているよ」
 また言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「……すきって、なんだろう。愛って、なんだろう」
 友人を好きになれなかった自分。他人から逃げている自分。でも世界は深い深い何処かで絶対的な繋がりを持っていて、ボクは結局そこから逃げることはできないのだろう。それは誰に対しても平等な真理だ。この肉体に血が通っている限り、ボクは完全な排他主義者にはなれない。
 遊星と話していると、自分の中の深層心理をこじ開けられるような錯覚に陥る。螺子で打ち付けられた壁を外すために、彼の右手はドライバーを持っている。ボクは対抗する術を持たない。何故。何故。疑問が浮かんでは問い掛けに変わる。遊星の言葉が、ボクの螺子を取り外す。
 誰かをすきになるって、どんな気持ち?
 誰かとつながるって、どういうこと?
 猫達からは返事がない。けれども代わりに遊星の声が届いた。
「ブルーノ。君がその人形達を離れ離れにさせたくないと思うのなら、それは愛だ」
 遊星の指がもう一体人形を取り出した。大きな熊の人形だ。その人形を二階の人形達に加えようとしたが、そこには熊が入る為のスペースがもう無い。ボクはシルク猫の夫婦を元の位置に戻し、二階のそれぞれの動物達を少しずつずらしてやった。一匹分空いた部屋に熊が立つ。彼らは五体になった。
「友人、できたじゃないか」
 君が居場所を作ってくれたから、この熊の人形は惑星の一つになれた。遊星はそう笑って、指先をボクの瞼に添えた。ごく僅かな体温が、ひそやかに伝わる。すぐに離れたその指先には、透明な滴が付いていた。あれ、と思う。離れていく時、彼の手の甲がキャップの鍔に擦れて、ボクの視界が明るくなる。
「俺が仲間になりたかったら、ブルーノが受け入れてくれる。誰かがそこに居ることを肯定すること。それが愛なんじゃないのか」
 ただそこに居る誰かのために、一歩隣にずれるだけで、それでいい。
 模倣の世界の中で人形達は笑っている。
「友人や恋愛や家族なんて役割を振り分けなくとも、人間と人間の根底に流れているものが愛であるならば、ブルーノ、君は既にそれを知っている。だからそれをわざわざ否定する必要はない。欺瞞も、猜疑心も、自己疎外も抱かなくていいんだ」
 遊星の声は、ボクの心に有無を言わせず染み込んでくる。ボクの傘も長靴も、彼の言葉の前には何の弊害にならなかった。それは海水が満ちるような、滾々と湧き出る泉のような、じわじわと止め処なく広がる液体だった。或いはあらゆる場所から流れ込む大気だった。気が付けばボクを抱き込んで、共に融合しようとする。
 ボクは、寂しかったのか。
 寂しいことが辛かったのか。誰よりも孤独で居たいと思っていたのに、きっと誰よりも孤独で居たくなかった。
 互いの関係を考えたくなかった、そこに名前を付けて絶望したくなかったから。自分に価値を見出し始めれば、そこには空虚な恐怖しかなくなるから。友人と言う肩書はボクには重過ぎた。鏡映しのように、期待されればされるほど応えたくなる。けれども同時に、できない自分を滅茶苦茶に処罰したくもなる。それならば肩書など必要ないと辞退してきた。
 だから遊星が羨ましかった。友人を持っている君が。絆を持っている君が。本当はそんな大それたものではなくて、ただ誰かが存在するのを受け入れているだけだったのに。
 ボクは只管に臆病な犬だった。噛み付くことすら出来ず、耳も尻尾も下げて、けれどもずっと誰かに頭を撫でてもらいたかった、一匹の犬。
 滲み出る涙が愛情への渇望と欲求の証明ならば、これは生理的現象だ。人間が人間である以上、ボクらはずっと誰かの中で生きている。誰かが生きている世界で息をする。電気信号を介して伝え合ったり、鼓膜を震わせる声に浸ったり、肌に触れてあたたかくなれるのは、自分が居ることを誰かが享受してくれているから。そこは箱庭ではない、ボクがボクの意思で存在するたった一つの宇宙だ。ボクは誰かの恒星であり惑星になれた。
 そして今、遊星はボクの恒星であり惑星となった。
「これで答えになっているだろうか」
「え?」
「友達の作り方を教えてくれという質問の答えだ」
 遊星が利害からでも義務感からでもなく、ただ純粋に答えたくて招いてくれたのだと、ボクはやっと気付いたのだった。

「昔、鬼柳が自殺騒ぎを起こしたことがあった」
 鬼柳さんが? あの絶妙なカリスマ性を持ち合わせている人が? 思わず首を傾げたくなるが、鼻の奥がつんと詰まったままだったので、ボクは軽く瞬きをしただけであった。机の上には相変わらずメルヘンな世界が佇んでいて、二人ともそれを鳥瞰している。
「兎に角、無気力な死神のような顔をして、生気が抜け落ちた亡霊みたいだった。その頃ちょうど仲間内で揉めていたから、きっとその所為だったんだろう。自分はもう廃棄物だと言って、俺に縋りたくて堪らない癖に、同時に俺から離れていきたくて仕方ないみたいだった」
 コーヒーをくっと飲み干して遊星は中空を見つめた。彼の目には今、きっとその頃のことがありありと描かれているのだろう。
「多分、誰かに縋れないと生きていけない自分が嫌だったんだと思う。人間が一人で存在できるなんて有り得ないのに。鬼柳はそれを成し遂げようとしていた。いつも俺達の不可能を可能にしてきた奴だったから」
「そう、なんだ」
「孤独になることで、孤独に耐えようとしたんだろう」
 だからボクのことを自殺願望者だと思ったのか。ようやく合点がいった、遊星はボクに昔の友人の姿を重ねたんだろう。鬼柳さんがデジャヴだと呟いていたのはこのことだったのだ。
「俺達は相手を理解したがる。解り合うために苦労して、努力して、ようやく喜びを得ることができる。不思議だ、相手の心の中なんて誰にも完全に読み取ることなんて不可能なのに」
「でもボクらは、それをせずにはいられない」
 ボクが君を知りたいと思ったように。
 少しばかり細められた遊星の瞳には、くっきりと、涙目のままくしゃりと笑うボクが映し込まれていた。目を合わせると、遊星の電波とボクの電波がシンクロしているような心地になることを初めて知った。
 きっと今、ボクらはテレパシーに成功してる。



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