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@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

四知の恋
・ブルーノの会社で働く請負業者の遊星。
・スマホで後ろ姿を盗み撮りしてしまうブルーノ。
#ブル遊 #現代パラレル

 君の後ろ姿を、小さな画面上で開く。立派な背中がこぢんまりと押し込められているのを見ると、ボクは不思議と安心する。歴史上の偉人が本当は家族だった、とか言われた場合と似た気持ちかもしれない。言われたことはない。
 教科書の肖像画と、手に収まっている機械と、記憶の君と、思い出しているボク。共通点のないそれぞれを結びつけようとする見えない糸、連鎖反応は、積み重ねられていく心象風景のせいなのだろうか。どこかのガレージで、彼とボクは特別なマシンを作っている。ボクの意識は無限に拡大して、壁も端もなくなって、ふたり子どものように設計や組立を楽しんでいる。地図の代わりにあるのは図面データだ。その上で膨らませたアイデアを爆発させると、それは針で突っついた風船のようにあたり一面に吹き飛んで、ボクらはひたすら笑うのだ。そんな、イメージ。
 空想の中で彼の背中を追っていた。画面上であったって現実であったって、不動遊星はとても近くて、けれどもとても遠い人だったな、と今でも思っている。



 スワイプする。
 自販機の横で一休みする遊星の背は、緩いカーブを描いている。自社ビルの屋外休憩エリアで、植え込みを仕切る煉瓦を椅子代わりにしていた。春先の、冷たさが残る空気がその背中から滑り落ちて、ボクたちの足元でぐるぐると堂々巡りしていた。まだ慣れない肌寒さにボクの身体は少し慄いて、捲り上げていたニットの袖を直す。反対に彼はどこ吹く風で、作業着さえ傍らに置いて半袖のままで、静かに欠伸をした。それはボクと遊星の間でもたつく、間延びした距離だ。新型二輪車の開発プロジェクト、その発注先からやってきた若きプロジェクトリーダーの――若過ぎる彼の――初めて見た年相応の姿が、ボクの『盗撮趣味』の始まり。多分、法に抵触する。訴訟されたら負ける程度には。
 あてがわれた枠組みから身を乗り出して、ただの不動遊星そのひとになる瞬間を残すことは、一粒の角砂糖をこっそり口に入れる感覚と同じように思えた。目をつむりたくなるくらい甘ったるくて、でも吐き出すには勿体なくて、結局飲み込まざるを得ない秘密。その味を確かめるべく、乾いてしまった唇を舐めた。ざら、と、ぞわ、が、唾液に混じっていた。その時、生きる上で最低限備えていた常識のエリアにロックが掛かって、他からの参照をまったく受け付けなくなった。無意識を認識することはできないけれども、スマートフォンを構えたボクはきっと無意識だったはずだ。撮った記憶がすっかり抜け落ちた画像を見つけた時の、滴り落ちそうな冷や汗がその証拠である。

 スワイプする。
 ビニール傘を差す遊星の背は、しゃんと伸びている。立派に土に根を張った大木のような立ち方で、しかし太くはない身体は歪む被膜一枚を隔てて、今しがたやり直しを命じられた二輪車を見つめていた。チームメンバーが別の場所へ移動してからも暫く、その場を動こうとしなかった。その時の彼が悲しかったのか辛かったのか、それとも意欲に燃えていたのか分からない。ボクは彼の目を見ていない、彼がボクを見ていなかったのと同じで。プロトタイプは仕様通り、テストも問題なし、ただコストだけがゴールラインを越えることができないでいた。その一点だけで、その一点だけが、彼の才能を土足で踏み荒らして引き抜いて、ぐちゃぐちゃにしたように思えて、発注者側の立場というのも忘れてひとり勝手に腹を立てた。それは記憶にいやな熱を与えて去ってくれない。炙った針金で粗い傷をつけてくる。
 二輪車は雨に濡れて、雫はてらてら光っていて美しかった。テスト走行を終えたサーキットの、黒々とした道に反射した影は、歪みながら遊星と抱き合う。崖っぷちでキスをする名画みたいな脆さを孕みながら、遊星の肩は二輪車の遺言ですっかり濡れてしまって、けれども脱力などしてなるものかという気迫を帯びている。
 エンジンの産声を耳に遺し、産まれてすぐスクラップになったマシン。最初の咆哮を最期の声にしてしまった可哀想な『子』。その画像を、実は遊星はずっと手元に置いているらしいと又聞きで知った夜、ボクはまたしても勝手に悲しくなって泣いた。缶ビールを片手にえんえんと泣き喚いた。誰かは同情と呼ぶかもしれない、しかしその内側は燃え盛る炎の形状をしていて、同情にしては熱過ぎた。

 スワイプする。
 会議室から解放された遊星の身体は、ぐっと弓なりに反っている。彼は要望どおりコストを予算内におさめた、彼らしさが詰まった独創的な設計を切り捨てることで――宝箱、脱出不可能な迷路、白いジグソーパズルと同じ存在を。完璧で完成していて、そのためにモジュール一式をまとめて仕様から除外する必要があったのだ。スライドを投影しながら報告する彼の声には微かな揺れも振れもなく、淡々としている。できたこととできなかったこと、今後の課題、総括を順に述べ、ボクら発注者側の拍手を受けて一礼するまで、彼はずっとプロジェクトリーダーとしての彼自身を保ち続けていたように見えた。
 その一切合切からようやく抜け出せた背に、プロトタイプの亡骸がふっと浮かび上がる。同時に、最終報告会を終えるまで少しも滲ませなかったあらゆるものがその肩から、背中からぼろぼろと廊下に落ちて、勢いを増して溢れてくる。それは彼の後ろをのっそりと歩いていたボクの背を(反対側から)指で弾くように押した。その拍子に持っていたスマホが落ちる。あ、まずい。束の間の不安をよそに端末は激突する。カーペットの敷かれた廊下では音を立てることもない。なのに遊星は振り向いた。ボクの存在を認めた。
 彼の目をようやく真っ直ぐに、朝の光線が地を貫くみたいな速さで、捕まえた気がした。勝手なボクは、そう思い込んだのだ。

「なんて声をかけようか分からなかったんだ。年下だし、こっちは無理難題をふっかけてた側だったし、定例会と実地テストで見かけるくらいだったし」
「ブルーノは客先の上司だったから、俺も気軽に話し掛けようとは思わなかったな」
「うん、だろうね」
 プロジェクトを終えた遊星は、常駐していたボクの会社から発注先の企業へ戻っていった。その最後の日、つまり最終報告会の日、約一年の期間を経てやっとボクの口を衝いて出た言葉は「コーヒー飲む?」である。なんて短い! スマホを拾った遊星が、慣れていないといったスーツ姿で、三秒ほど呆けた表情をしていたことを思い出す。あれこそ写真を撮っておくべきだったと、今でも少し残念に感じている。でもその時スマホは彼の手中だったから、どのみち無理なんだけれど。
 初めて遊星の後ろ姿を盗み撮りした場所で、初めて遊星と話をした。業務時間内ではまったくと言っていいくらい会話のなかったボクらは、顔と立場と名前だけは知っていたボクらから『機械好きの』ボクらに昇格したのだ。仕事には無関係の、いついつどこどこで行われたレースの話や、実はそこに遊星もいたんだという裏話など、時間の法則を忘れたボクたちは文字通り日が暮れるまで会話に花を咲かせた。座り心地の良くない煉瓦は腰を痛めそうであったけれど、何も気にしないで遊星は足を組んで座っている。
 思っていたより遊星はよく笑った。背中より前の部分は感情豊かで、常にキーボードを叩いているか工具を握っているだけだった手は結構節々がしっかりしていて、新しい情報を発見する。作業服ではない彼の、脱いだジャケットの扱いは、一年前の作業着とまったく変わらない。傍らに適当に丸められて肩身が狭そうだ。
 これほど長い時間向き合うことはなかったので知らぬ間に緊張していたらしい。「飲まないのか?」口をつけていない缶コーヒーに気づいた時には、足元にあったはずの影はぼうっと滲んで、自販機の照明が足元を青白く照らしていた。はっ、と見上げれば星がちらほら点滅を始めていて、そうか時間はなくなるものなんだなぁと当たり前のことを今更実感して、そこでやっと世界の法則を思い出したのだった。
 今日、また春がやってきた。去年から一年経った。遊星はいなくなる。缶を捨てる彼。がこんっという音に急かされて、慌てて一気飲みするボク。冷めた苦味はボクを追いかける。後ろから、背中から、ボクを追い立てて急かす、あの少しの冷気と、グレーのシャツの後ろ姿。
「あ、あのさ」
「ん?」振り向く遊星は、夜に手招きされて少し見づらい。「どうかしたのか?」
「ボクたち、また会えないかな。仕事じゃなくて良いんだ、また、その……話したいなと」
「ああ、そんなことか」
「そう、そんなこと――」
 そんなこと、なのだ。でもボクにとっては重要事項だ。たとえ遊星のこれからにボクがまったく影響を及ぼさなくても、ただの一過性の知り合いというタグをつけられるのは嫌だった。彼の記憶の中ではボクの価値は缶コーヒーひと缶分かもしれない。それでもボクにとって彼は――不動遊星は、憧れなのだ!
「明日になれば、嫌でも顔を合わせることになるぞ」
「ああ、明日……明日?」
「明日だ」
「え、何で?」
「社員になったんだ、ここの。人事部に打診された条件が良かったから、受けることにした。ブルーノとは別のプロジェクトに配属予定だから、そっちには情報がいかなかったんだろうな」
 そんなこと知らなかった。人事部の同僚を恨めしく思う一方で飛び跳ねるくらい喜ぶボクは、やにわに彼の両手を握り締めた。空になった缶が何かの打楽器みたいな音を上げながら転がっていく。春の夜に我を忘れた男の後先考えぬ行動。思えばこの日、ボクは初めて自覚したのだった。彼の姿を追っていた理由が、写真に残したい衝動が、一体どこから湧き上がってきたものなのか。見つけてしまえば行動と理由が結びつくのは簡単なことだ。けれども、ひとはそう単純には生きていない。理由が分かったって、素直に従えない。予想外に握り返された手にあたふたして支離滅裂な会話を繰り広げたり、翌日から馬鹿みたいに遊星を意識してしまい仕事がおろそかになったことは、恥ずかしくて記憶から消したい。


 何をしているんだ? という声にスマホから顔を上げる。今しがた画面の中にいた遊星が現実世界に飛び出してきていた。のではなく、カップを二つ手にした遊星が戻ってきたところだった。
「すまない、遅くなった」
「全然! 大丈夫だよ」
 向かいのコーヒースタンドにはまだ客が並んでいるのが見えて、昼のオフィス街を賑わわせている。
 ジャケットのポケットにスマホをしまい、テイクアウトされたコーヒーを受け取る。カップの表面にはぐるりとカバーが施されていたが、まだまだ熱くて、指先が少しだけびっくりする。それも両手で包み込むと、すぐに和らいだ。
 隣に腰掛けた遊星は、胸ポケットの自身のスマホを確認してから(有事の際はすぐに呼び出しがかかるから)カップに口つけた。ようやく一息つけるといった風なのを見ると、彼が所属するプロジェクトの多忙さが想像できる。
 もう作業服ではなくなった遊星の私服は、本人曰く非常に手持ちが少なかったらしく、春以降は毎シーズン徐々に増やしていっているとのこと。今日着ているネイビーのシャツは、先日、ボクがお節介と多分な下心をもって紹介したアパレルブランドのものだ。真珠にも似たつややかなボタンが整列しており、彼によく似合っていた。
「そういえば遊星ってコーヒー派だったんだよね。入社するまではてっきり眠気覚ましに飲んでるだけだと思ってたよ」
「一応、それもある」
「そうなの? じゃあ今期、新しくコーヒーメーカーを導入してもらおうかなぁ」
「それは良いな。ただし、予算と希望者次第だが」
 並んで座ったのは、あの春の日の煉瓦ではない、木製のベンチだ。真新しさが残るベンチは、ボクら成人男性二人をしっかりと受け止めてくれている。
 会社の近くにぽっかりとあった空き地が緑地空間として整備されると、日中にキッチンカーが来るようになった。これによりボクが密かに抱えていた問題――遊星の時間を確保する口実――が解決するに至ったので、この場所を企画した誰かに対して実は大変感謝している。数台のキッチンカーは日替わりで、それがまた彼を誘う自然な理由を生み出してくれるのだ。見知らぬ誰かよ、ありがとう!
 この場所が出来上がってから日は浅いものの、オフィス街という立地もあって日々盛況だ。なかでも毎週金曜に出店するコーヒースタンドは遊星のお気に入りになって、彼は金曜になると朝から少し機嫌が良い。その様子をフロアの別の島から覗き見しているボクも(すこぶる)機嫌が良くなるので、金曜になると同僚からは不審な目で見られるようになったのだが、それがどうした! 好きな人が嬉しければ自分も嬉しくなるのは、至極当然である――ボクは遊星に、心寄せているのだから。
 一口、二口とコーヒーを口に含む。すっきりとした後味が、これからの季節を思い起こさせた。視線を横にやると、朱色や橙色、薄い茶色の葉をこれでもかと飾り付けた木々が目に入って、春はとうに過ぎ去ったことを突きつけてくる。重なり合う葉は美しかったけれど、三十路手前、二度目の青春を謳歌中のボクにとってはどこか物寂しさを覚える色合いだった。
 あの春からボクは一歩も動くことができていない。
 掌にはずっと、あの時ぐっと握り締めた春の空気と、遊星の手の冷たさが残っていて、今にもホットコーヒーの熱さを打ち消してしまいそうだった。身体の中心はずっと燃え続けているのに、囲む空気はなかなか暖まらない。ボクの煮え切らない態度が、ボク自身を思い出の中に留まらせている。
 気づかない方が幸せだったかもしれない。ボクら人間は意思と記憶があるせいで、気づいてしまってはこれまでどおりではいられない、愚かな生物だからだ。もっと喜ぶ顔が見たくなったり、もっと関心を持ってほしくなったり、どんどん欲深くなる自分を止めることはこんなにも難しいくせに、本当に欲しいものを求めることにはとても臆病になる。
 メカ好きの同僚の座という安定した地位を捨てるのが怖い。刻一刻と、ボクらはあの日から離れていくのに。
「それで、何をしていたんだ?」
「え?」
「さっきだ。じっとスマホを眺めていたから」
「ああ、えーっと……思い出してたんだ。遊星と初めてちゃんと喋った時のこと」スマホの中にある、盗み撮り写真は内緒のままだ。「忘れられなくてさ。ボクのことを、やっと知ってもらえた日だから」
「そうか……俺もだ」
「え? 本当?」
「俺もブルーノと話し込んだあの日を、ずっと覚えている。何せ、あんなに勢いよく手を握られたことは今も昔もなかったからな」
「ああーもう忘れてほしい恥ずかし過ぎる」
 コーヒーを持ったまま、思わず顔を伏せた。薄暗い中、隣から笑い声が聞こえてくる。耳に馴染んでしまったそれは心地よくて、ゆるゆると撫でられているみたいだ。けれども途中から沈黙に変わる。遊星の声が消えて、ビル街の生活音だけが響くのに耐えられなくなって、手を退けた時だった。
「あの時から俺は……ずっと、気にかかっていることがあるんだ」
 秘密を開示するような声は、すうっと通り抜けた秋の風に乗って、何枚かの葉とともに落ちていく。かさかさ音を立てながら地面に散らばってしまって、それらをすべてを拾い上げるまでにボクは少しの時間を要した。明るさを取り戻した視界、その中で追っていた紅い葉から視線を上げる間も、やけに心臓がどくどく鳴っていて、隣を見るのがひどく恐ろしい。彼を見るのが嫌だなんて、そんなことは初めてだ。
 広すぎる世界から見れば光の速さの、情けなくてあっけない逡巡が終わって、やっとのことで遊星の指先を捉えた。カップを撫でる手は所在なさげで、記憶にある彼の、迷いなどない仕草からはあまりにもかけ離れている。
「――どうしてあの日、あんなにも強く、手を握ってくれたのか。理由を、教えてくれないか」
 手の動きだけではなく、ボクの記憶にある遊星は、いつだって落ち着いていた。プレゼンの時も雑談の時も、譲れなくて上司とやり合う時であっても、自分の信念をもって接するひとだから、彼は常に前を見据えている。ずっと先を走っている。だからボクはいつも、遠い彼の背中しか見えていないのだった。
 けれども今、少しだけ、揺らいだのではないだろうか?
 前ばかり見ていた彼が、振り向いて、こちらを確かめて、足を止めてくれた気がする。裏付けるように、その視点も今日に限っては定まらない様子である。手元を見たりキッチンカーを見たり、ビルの連なりを見たりするのに、一向にボクの方を見ようとはしないのは何故なのか。
 あれ。
 もしかして今、チャンス到来だったりする?
「あ、あのさ!」
 前のめり気味になったボクに驚いて、遊星がこちらを見る。急に縮まった距離のせいで、ボクらの目にはお互いにお互いしか映っていない。狭い視界は彼でいっぱいになって、もとより彼でいっぱいだったボクはもう、溢れるしかなかった。あーやっぱり、君のことが。
 ようやくあの春の日から、一歩を踏み出す時なのかもしれない。季節はすっかり秋なのだけれど。



(了)畳む