蜃気楼
・サイラスに拾われたテリオン。
・在りし日の傍白。
#サイテリ #IF
結局俺は、あんたを最後まで、父とも、兄とも、師とも、恋人とも呼べないままだったから、俺たちが一体どういう関係だったのかいまだに計りかねている。
血のつながりがない分、人間は関係性に名前をつけたがる。これが自分達だけの問題ならまだ良かったのだが、他人から解答を求められるので面倒極まりなかった。
ただ事実として、俺がいまこうして文字を書けているのは、ひとえにサイラスのおかげに他ならない。
読み書きだけではない。生きるためのすべてを与えてくれたのがサイラスだった。俺にとってあんたは地図だった。星だった。真理だった。
誰の目にも留まることはないだろうこれを、もし誰かが読めたとしても意味はない。誰もが信じず、誰によっても妄言にされるだけの、おぼろげな文字のかたまりだ。
だから、飾りっぱなしで目もくれてもらえない絵のように、いつか褪せて忘れてもらいたい。そう願ってやまない。
俺は死にたかったんじゃない。
ごほごほと、苦い水を吐き出しながら言うと、男は胸を撫で下ろして「それは良かった」となごやかに述べた。この寒さに似合わない声だった。
お互い濡れ鼠同然。側の川には氷が張っている。ついさっき俺が落ちたところは、見事な大穴が空いていた。月明りにかすんだ眼だったがそれだけは分かった、えらく真っ黒な丸ができていたからだ。
「しかし、とても冷たいね」
真冬だからな。そして真夜中だ。
膝をついて、男は俺の肩やら腕やらを手で払うのだが、全身が水びたしの人間にそんなことをして何になるのだろう。
「キミ、とにかく、あたたまらないと、ふたりともしんでしまうよ……はぁ、」
さむい、とそいつは笑った。なぜ笑える余裕があるのか、とか、あんた誰なんだ、だとか、もう声を出す力がない。そいつの向こう側、濃い藍色のなかでちかちかしている星を見ているだけだった。
なにせ俺はその時、空腹の絶頂だったのだ。
見ず知らずの男は俺を引き摺って(本当にずるずると引き摺って行ったのでつま先が痛かった)家に連れ帰った。俺がそいつよりも背が低く小柄なので可能だったことだが、思い出すたびに、よくあのひょろい体でそんなことができたもんだと失笑してしまう。それくらい当時は今より貧弱な男だったのだ。
「橋の上から落ちたのを見た時はびっくりしたよ」
何日ぶりかの湯を浴びたあと、俺を自殺志願者だと勘違いした男は苦笑した。「早まっちゃいけないね……ああ、私の思考のほうだよ」それは理解した。
びしょ濡れになった服はどこかへ追いやられてしまった。代わりに何やらするするとした触り心地の服を着せられて、俺はベッドに寝かせられていた。もやのかかった視界には、積まれた本の数々に、うすぼんやりとした明かりだけが入ってきた。氷で打ったこともあって全身が痛く、そして相変わらず腹が減っていた。もう何日食ってないのか、覚えてすらいない。数えるのをやめたからだ。
その空間は外よりは暖かかったが、ましという程度で、隙間風が入ってくるのか視界の端で紙が踊っていた。壁に貼り付けられたメモだろうか。今にも飛んでいきそうで、次に声が出たら「貼り直せ」と言ってやる。この何処か分からない場所で、誰とも分からないやつと、俺は何をしているんだろうか。
ああ、寒いし痛いし、最悪だ。
ぶる、と体が震えた。単なる反射的なものだったと思うのだが、男は「すまない、暖炉に火をつけていなかった!」と大声で叫んだ。うるさいやつだ。それからばさばさという物音――おそらく本が何冊か落ちる音――がして、何か見つけたのだろう、男は「あったあった」と喜びの声を上げた。
「――炎よ」
ぼそぼそ何やら呟く声がする。と、突然、何の前触れもなく、視界の端がぽっと明るくなった。しばらくすると、ぱちぱちはぜる音が聞こえてきて、暖炉に火が灯ったのだと理解した。
空間にぼんやり浮かび上がる男を見上げる。目がかすんでよく分からなかったが、悪意がないことだけは見てとれた。そいつは俺を殴らなかった(当時、俺の判断基準はそれだけだった)ので、自分は最低限身を守れる場所にいるのだと思うと、とたんに空腹より眠気がやってきて、瞼が重くなる。
「そんなに広くないから、暫くすれば暖かくなると思う。私は火を見ているよ。そのまま寝ていなさい」
学者といってもまだ駆け出しだから、そんなに良い部屋には住めなくてね――男はへらっと笑った。よく笑う男だ。
「おやすみ、よい夢を」
これが、俺が記憶しているなかで、最も嬉しかった言葉である。
誰かにおやすみと言われて目を閉じることは、これほど胸が苦しくなるものなのか。頭の中が熱くなるものなのか。
生まれてこのかた、おそらく十四年。人が安堵と呼ぶ感情を、この時初めて知ったのだ。
俺がサイラス・オルブライトと名乗る男に世話を焼かれることになったいきさつは、三文芝居より仕様もない。
幾ばくかの同情と、行き倒れの人間は放置してはならないという常識的観念に従って、俺を助けた。それ以外の何ものでもない。気まぐれに捨て犬を拾ったサイラスと、気まぐれな飼い主を見つけた俺。俺たちの関係ははじめ、それだけだった。
もともと俺は、用が済めば部屋を、街を出ていくつもりだった。そもそも、誰かと共に居ることは、俺を否定することと同じだった。過去の「経験」が、それを受け入れがたいものにしていた――今でも、谷底の記憶がほら穴の中から俺を掴み、引きずり込もうとする。思い出したくなくとも、忘れることができない苦い味のせいで、自分を誰かと共有することを心底嫌っていた。
けれども、人間は大なり小なり、誰もが事情を抱えているものだ。
俺は眼前の課題として、生きるために、金と、飯と、雨風をしのげる場所が欲しくて、一方でサイラスは、しばしば無人となる部屋の管理人が欲しかった。
「だから私の部屋に居てくれないだろうか」
「あんたは馬鹿か」
起き抜けに出されたスープは至上にうまかったのに、その味が吹っ飛ぶくらい意味不明なことを言う。空っぽの胃が久方ぶりに液体を与えられて、ぐる、と呻いた。思わず腹をさする。「もっと回復したらもっと食べられるよ。しかし少しでも口にできて良かった」俺のしぐさを空腹ゆえと思ったのか、サイラスは椅子に座ってうんうん頷いていたが、今その話はしていない。よく思い出すことだ。
ベッドに腰かけて、目の前の男に向き直る。右側から陽が差し込んで少し眩しかった。それを受けて、男の束ねられた黒髪には光の帯ができていた。
「……あんたに、一応、感謝はしている」
喋るくらいの体力はあるようだ。何も話せなくては何も伝えられない。
――俺は前の晩、あまりに空腹で足がもたつき、橋の上から落ちた。情けないこと、この上ないが。
アトラスダムという大きな街があると聞いて、そこならばもっとましな物が手に入るのではないか(言わずもがな盗むことで)と思い歩いてきたのだが、寒さを防ぐものもなく、体は休息を欲しており、その結末として思考を放棄した俺は呆気なく川へと落ちたのだった。それを、たまたま通りかかったサイラスが気づいて助けた。調べ物で出掛けていた、その帰りだという。人として正しい行いだと考えてのことだろうが、真冬に、しかも氷の張る川へ迷いもせず入ってくるやつがいるか? 呆れて物も言えない。
本題に戻る。
「で? なんで俺を住まわそうとする」
「さっき述べたとおりだよ。私は研究で、ひと月の半分もこの部屋に戻れなくてね。すると妙なことに、部屋の前にものが置かれていくんだ」
「もの?」
「ああ。果物とか、食事とか、時折金銭も」
こいつは聖火神エルフリックか。いや、実際に貢ぎ物なのかもしれない。
「でも私はここに居ないから、受け取ることができなくてね。それに、誰からか分からないものを口にするのは、少々、……抵抗が」
育ちの良い男なのだろう。俺なら遠慮なくいただくが。あまりの差に自分を鼻で笑って、それから言い放つ。
「あんたみたいな『大人』は、番犬がわりに子供を囲うのが普通なのか?」
子供、という言葉に、自分で言っておきながらうんざりした。都合の良い時だけ子供扱いするのは、都合が悪くなった大人のやり口なのを、思い知っているからだ。
困った風に腕を組み、サイラスは仰々しく、ううん、と唸ってみせる。
「あまり頼る人もいなくてね……それに、アトラスダムは治安は良い方なのだけれど」
これは駄目だ、通じていない。
空っぽのスープ皿を持ったまま、ベッドの上からそいつを観察した。
昨夜は薄暗くてよく見えなかったが、なるほど良い面をしているなと思う。身なりもちゃんとしているし、本で埋め尽くされて狭いことを除けば、部屋には清潔感があった。しかし金になりそうなものは見当たらない。生活に必要な最低限の部屋という感じだ。
食い物の貢ぎ物も、どうせこいつ目当ての女の仕業だろう。俺もここまで見てくれが良ければ自分を売って稼げたものだが――と、よからぬことを考える。
金がなくては生きてはいけない。夢だけでは腹は膨れない。今日を生き延びる方法が必要だ……浅ましい盗人の餓鬼には、考えている時間があまりに少なかった。
つまるところ、俺は、その誘いに乗ることにしたのだ。
「……いいだろう」
「本当かい!」
ばっと身を乗り出したサイラスに思わず身構える。大人が急に動くのは苦手だった、そのほとんどに良い記憶がないから。軽く咳払いをし、気を取り直して言った。
「あんたには、まぁ……恩もある。ただし、俺は居るだけで何もしない」
「助かるよ! 家賃も勿体ないし困っていたんだ! 安月給だから出来ることは限られてしまうけれど、あ、そうそうまずこの部屋だが、居る間は好きに使ってもらって構わないよ! でも書物だけは捨てないように、」
「興味ない」
切り捨てると、サイラスが固まった。この本の山が、こいつにとっては宝の山らしい。食えるわけでも金銀財宝でもないこれが。
変わったやつもいたもんだ、と無言で皿を返す俺に「そういえば」と尋ねた。
「聞きたいことがあるんだ」
「なんだ」
「名前を教えてくれ」
聞かれて、誰から貰ったのか知らない単語を返した。これが俺の名前であるかどうか知らないが、気がつけばこの名称で呼ばれていたので、名前として使っている。もし偽名だったとしても大した問題ではない。名前など値札と同じだ。
なのに「テリオン、テリオン……」と何度も反芻するので、いたたまれなくなって、再びベッドへ潜り込んだ。
三日後、体力が少し回復した俺を置いて、サイラスはとっとと出掛けていった。金目のものがないとしても、まったく警戒心のない奴だとため息をついて、この三日の間の出来事を思い返す。
奴はよく話していた。ただし一方的に。俺の様子から話の半分も理解できていないとみると、今度は解説を始める。だから講釈は延々と長引いて終わらない。……覚書として、少し前まで死人同然だったことを書き添えておこう。
これまで俺は、生きるために必要な文字――金勘定や数など、誤魔化されては困るもの――以外は読み書きができなかったから、サイラスが紙に書くもののほとんどが記号にしか見えなかった。その記号が記号ではなく、ひとつひとつに意味を持ち、つなげると言葉になる。言葉がつながれば今度は文になる。単にそれだけのことを、さも嬉しそうに話すものだから、おかしくなってつい戯れに「先生」と呼んでやると、奴は恥ずかしそうに「恐縮だ」と言った。
奇妙な生活が始まったことで、俺は予定外にアトラスダムに居座ることとなった。
サイラスは学院で研究をしていると言った。学院も研究も何のことか分かっていない俺に、またしてもありがたい授業が始まり、どういう存在か知ることになった。「今は助手みたいなものだけれど、研究の成果が認められれば教壇に立つことができるんだよ」そうかい、とだけ答えておいた。
最初の宣言どおり、そいつは月の半分どこかに出かけていて、俺はその間の生活費として適当に金を渡されることで食い扶持をつないでいた。この金が多くもなく少なくもない絶妙な額だったおかげで、驚くべきことだが、盗みを働く必要がなくなり、来る日も来る日も暇を持て余していた。考えてみればあいつのことだ、すべてお見通しで金を渡していたのかもしれない。
『番犬』がいるためか、少しずつ例の貢ぎ物も減った。つまりタダ飯が減ったので、渡された駄賃で好きな物を買い、好きなように食うということした。いたずらを覚えた餓鬼のように心躍ったことをよく覚えている。
部屋はアトラスダムの端のほう、煉瓦造りの建物の二階にあった。時折、窓から街の様子を眺めていた。空に薄く伸びた雲の下、街の奥の、さらに奥のほうに大きな建物の頭上だけが見えていて、それがサイラスの働く場所なのだと知った時は、まさか貴族ではあるまいな、と疑ったものだ。
無事、当面の衣食住を手に入れたわけだが、相変わらず部屋は片付かず(俺が片付けないので)床の見える部分は少なかった。出来ることと言えば、自分の獲物の手入れくらいか。それなのに、奴が出掛け、戻ってくるたびに物が増えるので、俺の領土は徐々に脅かされていく。侵略者は本だったり、植物だったり、時には石だったりした。
「なんだこれ」
「綺麗だろう? 化石だよ」
「宝石じゃないのか」
夕焼色の小石をつまんで味気ない感想を述べると、奴は両手をあれやこれや動かして熱弁する。「その石の中にオルステラの歴史が描かれているんだよ!」正直言ってどうでもよかった。その頃、価値といえば食い物につながるかどうかであったので、売ったらいくらになるのかということしか考えられなかったのだ。
季節が一巡りするまでに、ベッドがひとつ増えた。本の置き場が狭まったので、その次に棚が造られた。山積みの本がしまわれ、しかし空いた場所へすぐに新たな本が置かれていく。足の踏み場がなくなってくると、食事ですら立ってするほうが楽になってくる。ある時そうやって林檎を食っていたら、どたどたという音とともに部屋の扉が勢いよく開いた。
「テリオン!」
サイラスにしては珍しく、走ってきたのだろう、ぜいぜいと息を切らしながら駆けこんできた。肩に羽織った黒いローブが、みっともなく着崩れている。
「あっ、こら、座って食べなさい」
「まだ学院にいる時間だろ」
あんたのほうこそ食事中は静かにしろ。そう返すと「いや、それどころじゃないんだ聞いてくれ!」とせっつかれた。
「この間、出版社に投稿した論文が、金賞を取ったんだ! ほら、新聞に募集記事が載っていただろう? 嬉しくてつい学院を飛び出してきてしまった、キミに報告しなくてはと思ってね! 賞金も出るから、これで引っ越すことができる!」
嬉々として叫ぶ男は今にも窓から飛び立ちそうだ。それは困る、俺の生活費が文字どおり飛んでいってしまう。――賞金とはいくらだったのだろう、当時聞きそびれたので結局分からずじまいだ。
「ここじゃ駄目なのか」
「駄目だよ。だってキミの部屋がないじゃないか」
「いらん」
「必要さ! だってキミは来年から学院に通うのだから!」
「寝言は寝て言え」
あらかじめ言っておくと、この寝言がまことになることはなかった。サイラスはしつこく俺を学院に通わせたがっていたが、俺が断固拒否したからだ。
「キミくらいの年齢なら学舎に身を置くべきだよ」
「あんたは俺の親か?」
「ではないが、現実、保護者のようなものだから」
「あんたの物差しで俺を測るな」
大人はいつも、きれいな箱に収めようとする。こちらの意思など無視して。それが嫌で、俺はいつも、何処からか、誰からか逃げ出していた。
「今度またその話を持ち出したら、俺は出ていく」
その時アトラスダムに居たのは、『食う寝る生活』を送ることが可能であったからで、決してサイラスに情がわいたわけではなかった。自分にとって安全な場所が他にあるならば、出て行ってもかまわなかったのだ。
犬に鼻先であしらわれ、飼い主は両手をあげる。
「……すまない、私が悪かった」
「分かればいい。それに、学院に通う必要なんてない、あんたが勝手に教えてくれるからな」
「なるほど、それは真理だね。やはりキミは賢い! 学ぶということは誰にでも開かれている門で、どこにおいても可能なことだ。大昔、とある哲学者は周囲の人たちへ疑問を投げかけ、対話を重ねた。場所など関係なかったんだ。学問の始まりは何でもない、疑問からなんだね。つまりキミが知りたいのであれば、」
「長い」
「……私はいつでも教えるから、いつでも訊ねてほしい」
「勝手に言ってろ」
まさしく勝手に、サイラスの講義は突然始まり、突然終わるのが常だった。聞いてもいないのに、この世の理屈を語る。世界中の理屈を編纂したら、『サイラス・オルブライト全集』という本が出来上がるのではないかと思ったくらいだ。
雨季に雨が降れば、なぜ雨が降るのか。
「この世界は奇跡がパイ生地のように折り重なって出来ている。あそこに海が見えるね? そこから蒸発した水分が空へ昇って雲になる。雲は雨となって、大地を潤す。染み込んだ雨水は海へと流れ込んで、またこの循環が始まるんだ」
「へえ」
珍しく雪が降れば、なぜ雪は冷たいのか。
「雪は結晶の集まりだ。小さな粒がだんだん大きくなって降ってくる。その正体は氷と同じなわけだが、氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる。氷に触れる側、つまり人間のほうが温かい。その熱を奪われる、それが冷たく感じる理由なんだ」
「ほう」
天の青さ、花の色、人の歴史。今まで俺が捨て置いてきたものを一つ一つ拾い上げていくように、サイラスの声が俺の中に文字を記す。文字は意味を持って知識となり、俺に語りかける。そのたびに無知を知った。俺が世界だと思っていたものが、どれほどせまっ苦しい枠組みの話であったかを。
知らないということを知ることは最も尊いことだ。サイラスはことあるごとに、そう口にしていた。
「単に知っているだけでは、学んだとは言わないからね。さあ行こうじゃないか!」
そして俺を色んな場所へ連れて行った。留守番はどうした、と聞けば「留守でいいんだ」と言う。「あんたそれでいいのか」「いいんだ」決まりきった問答が何度も何度も繰り返されて、俺は笑っていた。いつの間にか。
無人の部屋をあとにして、俺達は馬鹿になったみたいに世界中を駆け回った。砂漠のはずれにある洞窟を探索しに。常闇の村に咲く珍しい草を見つけに。馬車で、徒歩で、どうやってでも辿り着く。くたびれたらそこら辺で休んで、サイラスの魔法で火をおこし、俺は寝床の準備をして、寝そべり、月を眺める。眺めているとサイラスがやってきて、天体について語り始める。弦楽器の旋律よりも、美女の匂いよりも効果のある眠り薬だった。
旅先で見つけたものはどれも、俺にとっては取るに足らないものばかりだったが、高尚な学者先生にとっては違うらしい。日が暮れるまで座り込んで調べるなんてしょっちゅうで、そのたびに「先に宿へ帰る」と急かすが、何がそんなに面白いのか一歩も動かない。そうなれば石と同じ。力ずくで持ち帰るしかなかった。
二年経っても、三年経っても、五年経っても、研究の手伝いだと言って俺を連れ出した。出来の悪い飼い犬に振り回されていたのに、月が隠れて太陽が昇るように、いつのまにか逆転し、俺がサイラスに振り回される日々。くだらない、なのにあっという間に時が過ぎていく。
奴が居ない間は、置き土産の本を相手に時間を潰した。読める文字も多くなり、知ることにうっすらと楽しみを抱くことができたのは、『サイラス先生』の功績といえるだろう。あいつは本当に教師に向いている。論文の成果が認められて、学院でも教える側に立てた、と喜んでいたか。
六年目になって、ついに奴は住まいを変えることを強行した。貯まった賞金で、思い出深い(皮肉だ)狭い部屋に別れを告げることを決めたのだ。この頃になると、貢ぎ物はまったく置かれなくなった。
「お役御免だな」独り言だったのだが、妙なところで几帳面な男は聞き逃さなかった。「何のことだい」「番犬業務のことだ」
俺の図体はすっかりでかくなり、成人の歳になっていた。サイラスの背は到底追い越せそうになかったが、少しは伸びて、見た目ももう子供ではない。これならば仕事も見つかりそうだと踏んでいたので、アトラスダムを発って別の街へ行こうと算段していたところだった。
「キミにしては面白くない冗談だね」
「俺がいつ冗談を言った」
「キミがいなくなったら、私はどうやって洞窟の奥から戻ってくれば良いんだい?」
――そのとおり。こいつのわがままに付き合わされ、俺の役割はここ数年、座敷犬から護衛に変わっていた。何故ならばこいつは恐ろしいことに、魔法以外に身を守る術を持たない。魔力が枯渇すればひとたまりもないのに。どれだけ貴重な石を見つけようとも、俺に言わせてみれば「さあ強奪してくれたまえ」と差し出しているのも同然。同行している自分の身が危険にさらされるのは我慢ならなかったので、旅先では率先して戦っていたわけだが、結果的にサイラスを守ることになっていた。こいつは顔と頭だけは良いから、それすら戦略だったのかもしれないが。
「傭兵を雇え」
「嫌だな。それは私の主義に反する。研究の場に無粋な輩を招きたくない」
「俺は良いのか」
「勿論。むしろ何故いけないのか理由を知りたいね」
さも当然とおっしゃる不遜な態度。「雇い主が私では不満かい」そういう問題ではない。しかし理屈をこねるサイラスを負かすのは、非常に骨の折れる作業であることを、俺は実戦で学んでいた。
「……犬は犬らしく、主人に従えば良いんだろう」
「おや、なんて良い子なのだろう! ご褒美をあげなければ! 何が良いかな? 新しい短剣にしようか。それとも魔術書のがよいかな」
「いらん」
ああ、飼いならされた犬の末路だな、と思った。その後も相変わらず駄賃は支払われるので、俺はとうとう出て行く理由がなくなってしまって、サイラスが必要とあらば居てやらないこともない、と――そうやってごまかしているうちに、やがて陽が沈む。気が付けばまた、サイラスと同じ空間に立っている。隣を見ればそいつが居て、また俺を世界へと連れ出すのだ。
思い返せば、この時既に気づいていた。俺の中で、ふっと息を吹きかければ今にも弾けてしまう、そんな正体不明の何かが膨らんでいることに。けれども蓋をして、隠しておいたのだ。知らないことを知っているのに、俺は知るのが怖かった。
サイラスが発表する説は年々脚光を浴び、有名な賞を総なめにしていった。
引っ越した先の一軒家の居間、二人ならば充分な広さの部屋に、沢山の見知らぬ奴らが何度もあふれかえっていた。集まれば即席の討論会が始まって、その様子はかつてサイラスの言っていた大昔の哲学者を思い起こさせる。なぞらえるなら、サイラスがかの偉大なる哲学者で、周りの奴らはその弟子だ。いつかそのうちの一人が、サイラスの名言集を発刊するかもしれない。だとしても俺は決して買わない。
誰かと論戦でせめぎ合うのは楽しいようで、しばしば溌剌とした家主の声が響いたが、気分はすぐれなかった。俺の知らないそいつらは来るたびに、俺に一瞥をくれてから、まるで見なかったかのようにサイラスのことだけを視界に入れるようにする。早く捨て置け。幻聴は毎日俺の耳元で繰り返され、いつも俺を崖っぷちへと追いつめる――誰に言われずとも、俺が一番理解していた。
俺を亡きものにしようとするそいつらがサイラスの教え子なら、俺は生徒でも、ましてや家族でも、何者でもない何か。誇れる過去もなく、輝かしい未来もない。ただ名前だけがある人間。
ならば俺は何なのだろう。俺は何故ここに居るのだろうか。サイラスはいつも疑問を他人に問いかけていたが、俺が問いかけるのは、決まって自分に対してだった。
あいつは学院で名を馳せて、どんどん偉くなっていく。いつも毅然と学問に向き合って、世界を知ることがいかに素晴らしいことなのか、少しでも俺に伝えようとしていた。学院の教職に追われ、家で講釈を垂れることが減っても、変わらず俺を連れてほっつき歩く。旅先から帰ってくれば途端に机へと一直線、よもすがらペンを動かすのがあいつの仕事。それを眺めるのが俺の権利。俺が耐え切れずに眠ってしまっても、ひたすら己の考えを形にすることに没頭し、朝になれば決まって「テリオンのおかげでまた良い題材が見つかったよ」と笑うのだ。俺は何もしていない、ただ付いて回るだけなのに、俺を連れまわすようになってからよくそう言うようになった。
この頃までの出来事を思い出す時は、いつも、笑うサイラスの姿がある。水平線から世界が暴かれる瞬間のように、ぱっと眩しくて、そこらじゅうを照らすような空気に満ちていた。
だが一度だけ、剣呑な雰囲気で学院から帰ってきたことがあった。俺を拾った時のサイラスと同じ歳になった、あの頃の、あの日のことは、述べたくない気持ちが強い。しかし、書き記すべきなのだろう。
「最悪だ」
帰ってくるなり、開口一番、サイラスは低い声で言った。
「……どうした」
短い言葉に含まれた、剣の切っ先のごとく尖ったものを、放っておくことができなかった。「ああ愚かしい」とぶつくさ言いながら、奴は荒々しく椅子に腰かけた。ここまで機嫌の悪いサイラスを見たのは、これが最初で最後だ。
長い溜息をついてから、忌々しそうに口を開く。
「私の論文完成に、キミがどれほど貢献してくれているか。耳を貸さない人間ばかりで嫌になる」
ああ、学院の奴らに何か言われたんだな、とすぐに察しがついた。そりゃあ、誰もが口をそろえて言うだろう。サイラス先生、何故あんな素性の知れない人間を置いておくのですか? 子供ではないのですよ、放っておきなさい。さっさと追い出しなさい、と。
とうに日の暮れた空の向こうで、季節外れの遠雷が鳴っていた。この調子では夜中には雨になる。腹立たしさを隠さないサイラスと雷の音が嫌で、俺は柄にもなく奴を励まそうとしたのだ――それが失敗だった。俺は無知で、どの言葉がサイラスの引き金を引くか、分かっていなかった。
「あんたの周りには味方が山ほどいるってことだろう」
「けれどその誰ひとりとして、私を理解していない」
悲しいことだね。本当に悲しんでいるとは思えない、冷えた声で言う。
理解、理解か。人が本当に、誰かを理解できるものか。目に見えない、心とかいう代物を、どうやって解き明かすというんだ。そんなものは空論に過ぎない。もし、誰もが分かりあえていたならば、俺は今ここには居ないのだ。あの時――昔のことだが――谷底に落とされることもなかっただろうし、あんたに拾われることもなかった。
思い出すと古傷が痛む。ああ、こっちまで気分が悪くなりそうだ。不機嫌な男の空気にあてられ、励まそうとした自分が愚かに思えた。俺は自分に苛ついていた。
「俺だって、そのひとりだ。あんたのことは分からない」
サイラスはいつも正しい。正しくあろうとする。
だが、あんたの正義はやさしく俺を追いつめる。今か今かと、奈落へ落ちるかどうか見張る観衆を背負いながら、審判のあんたは俺を庇う。俺を繋ぐ鎖が、薄っぺらい同情でできているうちに、さっさと切ってしまえば良かったのだ。俺が間違える前に、あんたに裁かれる前に、手放してくれたなら。
「分かるわけがない。あんたは賢者で、俺は愚者。何も持たない俺を、あんたが分からないように、俺も――」
この時、そう吐き捨てなければ。
俺は今でも、ただの犬っころとして、サイラスの隣で尻尾を振っていただろうに。
椅子から腰を上げて、つかつかと俺の前に立ちはだかる。引き結んだ口元に、怒りとも哀れみともいえない感情が浮かんでいた。笑っている姿を見慣れているせいで、その時のサイラスを、自分の知るサイラスとは思えなかった。目の前の男が、高い壁のように感じたのだ。
足元だけ見て、ただ、雷の音を聞こうとした。サイラスと俺のつま先が向かい合うの見ながら、この責め苦が早く終わることばかり祈っていた。
一つ、二つ、遠くで雷鳴がとどろく。もっとうなれ。もっと叫べ。俺もサイラスも、口を開かぬまま突っ立って、互いに言葉を発しなかった。
こんなことならばたてつくんじゃなかった。そう悔やんでも遅い。沈黙は嫌だ、沈黙は盾になってはくれない。
いつまで経っても、餓鬼のまま、こいつに甘えている。
自分が情けなかった。サイラスの周りの奴らにあざ笑われる自分が。サイラスに甘えている自分が。
俺はいつか、こいつの元を去るべきなのだろう。いつかは分からないが、きっとそれがあるべき姿なのだ。それまではできる限り『良い子』でいてやりたかった。
そう、視線を上げた時だった。
黒と白。
目の前を覆いつくす、サイラスの色。
「キミは私が見つけたんだよ、テリオン。私以上に、キミを知る人間がいるだろうか、そんなものがあれば、私は……ああ、何故今になって、そんなことを言うんだい……」
抱き締めている。サイラスが、俺を。
理解した瞬間、まるで月が地に落ちたような、世界がひっくり返った心地になった。サイラスのにおいで肺がいっぱいになって、頭がくらくらした。触れている部分から熱が伝導する。心臓の音、それが自分のものなのか、そうでないのか、とにかくどくどくうるさかった。融けそうな脳に、以前聞いた雪の話が思い出される。氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる……。
俺が余計なことを言ってしまったから。だからサイラスがおかしくなったのだ。そう思うと余計に何とかしなければと焦り、怖かった。崩壊が恐ろしかった。奈落の入り口はいつもすぐそばで待っている。
だから、ただサイラスをどうにか落ち着かせたくて、そろそろと腕を回した。落ち着け、落ち着け。あんたはいつも論理的で、正しくて――。
それなのに、サイラスの力が一層強くなったので、ますます困惑する。甘えているのは俺のほうなのに、サイラスが甘えるように俺の頬に唇を寄せ、肩にすり寄る仕草がもどかしかった。
「サイ、ラス、」
「私はずるい人間だね」
頬を、耳を、何かが掠めた。サイラスの髪だ。すぐそばで聞こえた声は、わずかに震えていた。何のことだ、という言葉は、音にならなかった。飲み込まれた。
サイラスが俺の口をふさぐ。
その寸前に垣間見た奴の顔は、ひどいものだった。叱られた子供が許しを請うような、申し訳なさそうな顔。
口付けという行為がどういう意味を持つか、知らない俺ではない。だがそんなもの初めてで、どうすれば良いかなんて知らなかった。ただ、かたく結んだ俺の唇を、奴の舌が舐めて、身体がびくりと跳ねた。そんな俺には構わず、奴の腕はぎゅうと抱きすくめ、何度も口付けてくる。唇が濡れて、また舐められて。あの遠雷が俺に落ちたのだろうか。錯覚するほど全身がひたすら熱く、指先も目の奥もびりびり痺れて、苦しかった。なのに、サイラスから離れることができない。
俺はこいつを求めているのか。どうして。
情だとか愛だとか、そういう理屈が俺には分からない。形になって、目の前に出されるものだけを見て生きてきた。実体のない、不確かなものは、いつも俺を惑わす。
ただ、俺の中にこんこんと湧き出てくるものをえぐり出して、サイラスの胸に突っ込んでやりたい。共有したい。そんな気持ちだった。
しばらくの間、俺たちは口付けたり離したりを繰り返していた。どれくらい経ったのか、ひときわ大きい雷が鳴って、ようやく事態の大きさに気づいて、身を離した。互いに息が上がって、それがひそかに唇にかかって、恥ずかしくなる。
「……テリオン、ねえ、私のことが嫌いかい」
正義の審判は意地の悪い質問をする。こいつにはそういう趣向があった。答えを持ち合わせているくせに、わざわざ確かめてくる。
けれども俺のほうは、疑問に押しつぶされそうで、首を振るのが精いっぱいだった。
何で、何でなんだ。サイラス。
分からなかった。知りたかった。
知らないことはいつも、目の前の男が知っている。
知ることができる。俺はその権利を持っている。
知ることができる。訊ねさえすれば――。
「あんたが、分からない……サイラス、あんた、何でも知っているんだろう。教えてくれ、なんで――」
なんで俺に、こんなことをする。
脳みそを内側から引っ掻き回されたように、ぐわぐわと、視界が回っていた。ふらつく俺の肩を、サイラスの両手がぐっと掴む。
「私を見なさい」
飼い主の命令には逆らえない。俺の世界はそうやって出来ていた。いつから? いつの間にか。
見上げたサイラスの目は、炎にあぶられた深い海のような色をしていた。俺の知らないサイラス。昨日までは知っていたサイラス。あんたはどちら側に立っている。
「私に訊ねてくれたのは、これが初めてだね」
ひゅっと、喉が鳴る。そうだった。俺はいつでも与えられるばかりで、サイラスに聞いたことがなかった。今までずっと、それができたのに、しなかった。無知であることを知っていたのに。
「テリオン。あの頃とはもう、すべてが違う。キミは大人になって、私も歳を重ねた。もうキミは、子供ではない。私の可愛い子犬じゃないんだよ」
変わってしまったのだ。
俺はあの頃のままでも良かった。こんな気持ちを知らないままでも生きていけた。
けれども、あんたは違ったんだ。あんたに連れられて旅していた、馬鹿なあの頃には、もう戻りたくないんだな。
「教えてあげよう。キミが望むならば、何だって。けれども、知ったら忘れてはいけないよ。ずっと、ずっと先まで、キミが抜け殻になるまで、覚えておきなさい。キミの中に、私を記すんだ」
そうして再び口付けられた。
その先は闇で、あのあたたかいサイラスは何処かへ行ってしまって、ただがむしゃらに、目の前の男にしがみつくことしか、なす術はなかった。
ああ、あんたは夜だ。
俺の手を引いて、迷わせて、突き落とそうとする、ほの暗いあの闇だ。
その目で、その声で、あんたは俺を捕縛する。
結局、俺たちは、どちらも孤独だったのだろう。
俺は居場所が欲しかった。それがサイラスの隣であればいいと思った。こいつの隣はあたたかい。丸まって寝ているだけで、満たされるものがある。なのに、自分の中に生まれた『何か』に、名前を付けてやれなかった。それがいわゆる恋だとか愛などと呼ばれるものか、単に情だったのか、寂しさからなのか。俺はその時、見当がつかなかった。答えることができなかった。
もしこれが、あんたと同じものであったとして、それをどうすれば確かめられるだろう。
触れられず、見えないものを、あんたは信じるというのか。どうして。あんたはそのわけを、知っているというのか。
「テリオン、テリオン。私の――」
俺を拾った時とはまったく違う、浮かされた声。気高く、学問のしもべだったあんたの、これが真実ならば、あんたを変えたのは何だったんだろう。
俺を紐解くサイラスの指先。殴られるよりも暴力的なその熱を、このままずっと奪い続けたら、俺はぐずぐずに融けて、消えることができるのだろうか。あんたの向こう側にある、俺を責める幾千もの目から、ようやく逃げることができるのだろうか。
転落する。
このまま奈落の住人になって、俺をわらうすべてのものから、隠れてしまいたかった。なのに、あんたがそれを許さない。あんたは俺を引き揚げる。地上で蔑まされる俺を見て満足か。そう問いただせばよかったのかもしれない。
この夜を境に、俺とサイラスを結び付けるものは、まったく変わってしまった。太陽の中心から噴出する赤い泥のように、とめどなく溢れてくる欲望が俺達の間に拡がって、いとも簡単に飲み込んでいった。それを持て余して、扉に鍵をかけて、あの弟子まがいの奴らを追っ払って、腑抜けた日を過ごしたこともあった。旅立つ予定をたてておきながら、わざと頓挫させて、困らせて、どちらからともなく引きずり込んだこともあったと思う。
それから先のことは、割愛しよう。思い出そうとすればするほど、いつもまどろみのように掬うことができない。
明日は記念すべき日だ。サイラスがめでたく教授の称号を得る。あいつのことだ。近い将来、もっと上の、学院の最上位に到達するだろう。
俺はそれを強く望む。俺が世界の成り立ちを教えられたように、何も知らない奴らに、道を示してほしいと願う。
知らないことは悲しい。
知ることは嬉しい。
それによって苦しみが生まれたとしても、知らぬまま去るよりはよっぽどいい。
さてあいつは、明日の式典の準備があると言っていた。帰りは遅いだろうから、そろそろ出よう。
いよいよ出発の時が来た。
俺の役目はここで終わる。飼い犬は野良犬に戻ることにする。それが本来の、この世界での『正しい役割』だからだ。
次は傭兵の仕事が待っている。雇い主の踊り子は、北へ行きたいと言っていた。雪で一面覆われた、真っ白な田舎町だ。傭兵業は久々ではあるが、腕をなまらせた記憶はない。俺の腕が立つことは知ってのとおり。前金も貰っていることだし、その分きっちり働くつもりだ。
依頼主との待ち合わせまで時間もないので、手短に書くとしよう。
サイラス。
あの狭い部屋で、夜と朝の狭間に立っていた、あいまいなあの頃が好きだった。
もしも俺が、あんたに拾われなかったら。もしもあんたが、俺を見つけなかったら。
そんな仮定は星の数ほどある。すべてが夢で、すべてが希望の燃えかすだ。
時は過ぎた。俺もあんたも、その中にとどまることはできない。
俺はあんたに何も伝えることができなかった。今でも、それだけを悔やんでいる。
いつか俺が抜け殻になったなら、俺を形づくっていたものの、一番きれいなところが雨になるだろう。
それがあんたのいるこの街に、あの狭い部屋に、しとしと降ればいい。
降って、地面に吸い込まれて、また乾いて、雲になって、再び雨となって、世界を循環して。
あの夜の口付けを思い出しながら、あんたの唇を濡らすのだ。
俺は俺を埋葬しにいく。あんたの知る俺に墓標を立てる。
だから、見つけたとしても、思い出したとしても、いつか忘れてもらいたい。目覚めれば、すべて忘れる。俺達はそういう風にできている。
おやすみ、サイラス。よい夢を。
あんただけが俺の、」
最後の一文は切り取られ、読むことができなかった。
静かに本を閉じる。オルベリクの吐いた息は白い煙となり、本の輪郭をなぞった。
この『日記』を見つけたのは偶然だ。山奥の古い家――埃がかぶっていない場所なんてないような、でもどこかこざっぱりしている――その一室、書斎と思しき部屋で、小さな箱の中に隠されていた。
次の目的地へ向かう道すがら、山中で迷ってしまった挙句の果てに見つけた箱舟。雷雨の下、オルベリクを助けたその家は、人が住まなくなってどれくらい経つのか分からない。黴のにおいと冷えた空気に肩をすくめて、オルベリクは腰の剣を抱え直した。
のちに下山し、母国へ戻った彼が知ったのは、この日記に登場するサイラス・オルブライトという人物が、百年以上も前のアトラスダム王立学院に居たこと、そして突然退任し、隠遁生活を送っていたということだけだった。有能な人物で、現在通説となっているほとんどが、彼の研究結果に支えられたものだという。しかし、その他のことは、いくら調べても、ついぞ分からなかった。
真実は、おそらく、手記の主だけが知っている。
古い家のなかには、二人分の家具が置いてあった。
あの日、俺を招き入れたのはどちらであったろうか。
あの手記の主はその後、踊り子を無事に送り届けられたのだろうか。
切り取られていた最後の言葉は、誰のものであったろうか。
知ることはできない。時を巻き戻すことはできない。ただ、今を生きることだけが、人に与えられた不可侵の権利である。
(了)畳む
・サイラスに拾われたテリオン。
・在りし日の傍白。
#サイテリ #IF
結局俺は、あんたを最後まで、父とも、兄とも、師とも、恋人とも呼べないままだったから、俺たちが一体どういう関係だったのかいまだに計りかねている。
血のつながりがない分、人間は関係性に名前をつけたがる。これが自分達だけの問題ならまだ良かったのだが、他人から解答を求められるので面倒極まりなかった。
ただ事実として、俺がいまこうして文字を書けているのは、ひとえにサイラスのおかげに他ならない。
読み書きだけではない。生きるためのすべてを与えてくれたのがサイラスだった。俺にとってあんたは地図だった。星だった。真理だった。
誰の目にも留まることはないだろうこれを、もし誰かが読めたとしても意味はない。誰もが信じず、誰によっても妄言にされるだけの、おぼろげな文字のかたまりだ。
だから、飾りっぱなしで目もくれてもらえない絵のように、いつか褪せて忘れてもらいたい。そう願ってやまない。
俺は死にたかったんじゃない。
ごほごほと、苦い水を吐き出しながら言うと、男は胸を撫で下ろして「それは良かった」となごやかに述べた。この寒さに似合わない声だった。
お互い濡れ鼠同然。側の川には氷が張っている。ついさっき俺が落ちたところは、見事な大穴が空いていた。月明りにかすんだ眼だったがそれだけは分かった、えらく真っ黒な丸ができていたからだ。
「しかし、とても冷たいね」
真冬だからな。そして真夜中だ。
膝をついて、男は俺の肩やら腕やらを手で払うのだが、全身が水びたしの人間にそんなことをして何になるのだろう。
「キミ、とにかく、あたたまらないと、ふたりともしんでしまうよ……はぁ、」
さむい、とそいつは笑った。なぜ笑える余裕があるのか、とか、あんた誰なんだ、だとか、もう声を出す力がない。そいつの向こう側、濃い藍色のなかでちかちかしている星を見ているだけだった。
なにせ俺はその時、空腹の絶頂だったのだ。
見ず知らずの男は俺を引き摺って(本当にずるずると引き摺って行ったのでつま先が痛かった)家に連れ帰った。俺がそいつよりも背が低く小柄なので可能だったことだが、思い出すたびに、よくあのひょろい体でそんなことができたもんだと失笑してしまう。それくらい当時は今より貧弱な男だったのだ。
「橋の上から落ちたのを見た時はびっくりしたよ」
何日ぶりかの湯を浴びたあと、俺を自殺志願者だと勘違いした男は苦笑した。「早まっちゃいけないね……ああ、私の思考のほうだよ」それは理解した。
びしょ濡れになった服はどこかへ追いやられてしまった。代わりに何やらするするとした触り心地の服を着せられて、俺はベッドに寝かせられていた。もやのかかった視界には、積まれた本の数々に、うすぼんやりとした明かりだけが入ってきた。氷で打ったこともあって全身が痛く、そして相変わらず腹が減っていた。もう何日食ってないのか、覚えてすらいない。数えるのをやめたからだ。
その空間は外よりは暖かかったが、ましという程度で、隙間風が入ってくるのか視界の端で紙が踊っていた。壁に貼り付けられたメモだろうか。今にも飛んでいきそうで、次に声が出たら「貼り直せ」と言ってやる。この何処か分からない場所で、誰とも分からないやつと、俺は何をしているんだろうか。
ああ、寒いし痛いし、最悪だ。
ぶる、と体が震えた。単なる反射的なものだったと思うのだが、男は「すまない、暖炉に火をつけていなかった!」と大声で叫んだ。うるさいやつだ。それからばさばさという物音――おそらく本が何冊か落ちる音――がして、何か見つけたのだろう、男は「あったあった」と喜びの声を上げた。
「――炎よ」
ぼそぼそ何やら呟く声がする。と、突然、何の前触れもなく、視界の端がぽっと明るくなった。しばらくすると、ぱちぱちはぜる音が聞こえてきて、暖炉に火が灯ったのだと理解した。
空間にぼんやり浮かび上がる男を見上げる。目がかすんでよく分からなかったが、悪意がないことだけは見てとれた。そいつは俺を殴らなかった(当時、俺の判断基準はそれだけだった)ので、自分は最低限身を守れる場所にいるのだと思うと、とたんに空腹より眠気がやってきて、瞼が重くなる。
「そんなに広くないから、暫くすれば暖かくなると思う。私は火を見ているよ。そのまま寝ていなさい」
学者といってもまだ駆け出しだから、そんなに良い部屋には住めなくてね――男はへらっと笑った。よく笑う男だ。
「おやすみ、よい夢を」
これが、俺が記憶しているなかで、最も嬉しかった言葉である。
誰かにおやすみと言われて目を閉じることは、これほど胸が苦しくなるものなのか。頭の中が熱くなるものなのか。
生まれてこのかた、おそらく十四年。人が安堵と呼ぶ感情を、この時初めて知ったのだ。
俺がサイラス・オルブライトと名乗る男に世話を焼かれることになったいきさつは、三文芝居より仕様もない。
幾ばくかの同情と、行き倒れの人間は放置してはならないという常識的観念に従って、俺を助けた。それ以外の何ものでもない。気まぐれに捨て犬を拾ったサイラスと、気まぐれな飼い主を見つけた俺。俺たちの関係ははじめ、それだけだった。
もともと俺は、用が済めば部屋を、街を出ていくつもりだった。そもそも、誰かと共に居ることは、俺を否定することと同じだった。過去の「経験」が、それを受け入れがたいものにしていた――今でも、谷底の記憶がほら穴の中から俺を掴み、引きずり込もうとする。思い出したくなくとも、忘れることができない苦い味のせいで、自分を誰かと共有することを心底嫌っていた。
けれども、人間は大なり小なり、誰もが事情を抱えているものだ。
俺は眼前の課題として、生きるために、金と、飯と、雨風をしのげる場所が欲しくて、一方でサイラスは、しばしば無人となる部屋の管理人が欲しかった。
「だから私の部屋に居てくれないだろうか」
「あんたは馬鹿か」
起き抜けに出されたスープは至上にうまかったのに、その味が吹っ飛ぶくらい意味不明なことを言う。空っぽの胃が久方ぶりに液体を与えられて、ぐる、と呻いた。思わず腹をさする。「もっと回復したらもっと食べられるよ。しかし少しでも口にできて良かった」俺のしぐさを空腹ゆえと思ったのか、サイラスは椅子に座ってうんうん頷いていたが、今その話はしていない。よく思い出すことだ。
ベッドに腰かけて、目の前の男に向き直る。右側から陽が差し込んで少し眩しかった。それを受けて、男の束ねられた黒髪には光の帯ができていた。
「……あんたに、一応、感謝はしている」
喋るくらいの体力はあるようだ。何も話せなくては何も伝えられない。
――俺は前の晩、あまりに空腹で足がもたつき、橋の上から落ちた。情けないこと、この上ないが。
アトラスダムという大きな街があると聞いて、そこならばもっとましな物が手に入るのではないか(言わずもがな盗むことで)と思い歩いてきたのだが、寒さを防ぐものもなく、体は休息を欲しており、その結末として思考を放棄した俺は呆気なく川へと落ちたのだった。それを、たまたま通りかかったサイラスが気づいて助けた。調べ物で出掛けていた、その帰りだという。人として正しい行いだと考えてのことだろうが、真冬に、しかも氷の張る川へ迷いもせず入ってくるやつがいるか? 呆れて物も言えない。
本題に戻る。
「で? なんで俺を住まわそうとする」
「さっき述べたとおりだよ。私は研究で、ひと月の半分もこの部屋に戻れなくてね。すると妙なことに、部屋の前にものが置かれていくんだ」
「もの?」
「ああ。果物とか、食事とか、時折金銭も」
こいつは聖火神エルフリックか。いや、実際に貢ぎ物なのかもしれない。
「でも私はここに居ないから、受け取ることができなくてね。それに、誰からか分からないものを口にするのは、少々、……抵抗が」
育ちの良い男なのだろう。俺なら遠慮なくいただくが。あまりの差に自分を鼻で笑って、それから言い放つ。
「あんたみたいな『大人』は、番犬がわりに子供を囲うのが普通なのか?」
子供、という言葉に、自分で言っておきながらうんざりした。都合の良い時だけ子供扱いするのは、都合が悪くなった大人のやり口なのを、思い知っているからだ。
困った風に腕を組み、サイラスは仰々しく、ううん、と唸ってみせる。
「あまり頼る人もいなくてね……それに、アトラスダムは治安は良い方なのだけれど」
これは駄目だ、通じていない。
空っぽのスープ皿を持ったまま、ベッドの上からそいつを観察した。
昨夜は薄暗くてよく見えなかったが、なるほど良い面をしているなと思う。身なりもちゃんとしているし、本で埋め尽くされて狭いことを除けば、部屋には清潔感があった。しかし金になりそうなものは見当たらない。生活に必要な最低限の部屋という感じだ。
食い物の貢ぎ物も、どうせこいつ目当ての女の仕業だろう。俺もここまで見てくれが良ければ自分を売って稼げたものだが――と、よからぬことを考える。
金がなくては生きてはいけない。夢だけでは腹は膨れない。今日を生き延びる方法が必要だ……浅ましい盗人の餓鬼には、考えている時間があまりに少なかった。
つまるところ、俺は、その誘いに乗ることにしたのだ。
「……いいだろう」
「本当かい!」
ばっと身を乗り出したサイラスに思わず身構える。大人が急に動くのは苦手だった、そのほとんどに良い記憶がないから。軽く咳払いをし、気を取り直して言った。
「あんたには、まぁ……恩もある。ただし、俺は居るだけで何もしない」
「助かるよ! 家賃も勿体ないし困っていたんだ! 安月給だから出来ることは限られてしまうけれど、あ、そうそうまずこの部屋だが、居る間は好きに使ってもらって構わないよ! でも書物だけは捨てないように、」
「興味ない」
切り捨てると、サイラスが固まった。この本の山が、こいつにとっては宝の山らしい。食えるわけでも金銀財宝でもないこれが。
変わったやつもいたもんだ、と無言で皿を返す俺に「そういえば」と尋ねた。
「聞きたいことがあるんだ」
「なんだ」
「名前を教えてくれ」
聞かれて、誰から貰ったのか知らない単語を返した。これが俺の名前であるかどうか知らないが、気がつけばこの名称で呼ばれていたので、名前として使っている。もし偽名だったとしても大した問題ではない。名前など値札と同じだ。
なのに「テリオン、テリオン……」と何度も反芻するので、いたたまれなくなって、再びベッドへ潜り込んだ。
三日後、体力が少し回復した俺を置いて、サイラスはとっとと出掛けていった。金目のものがないとしても、まったく警戒心のない奴だとため息をついて、この三日の間の出来事を思い返す。
奴はよく話していた。ただし一方的に。俺の様子から話の半分も理解できていないとみると、今度は解説を始める。だから講釈は延々と長引いて終わらない。……覚書として、少し前まで死人同然だったことを書き添えておこう。
これまで俺は、生きるために必要な文字――金勘定や数など、誤魔化されては困るもの――以外は読み書きができなかったから、サイラスが紙に書くもののほとんどが記号にしか見えなかった。その記号が記号ではなく、ひとつひとつに意味を持ち、つなげると言葉になる。言葉がつながれば今度は文になる。単にそれだけのことを、さも嬉しそうに話すものだから、おかしくなってつい戯れに「先生」と呼んでやると、奴は恥ずかしそうに「恐縮だ」と言った。
奇妙な生活が始まったことで、俺は予定外にアトラスダムに居座ることとなった。
サイラスは学院で研究をしていると言った。学院も研究も何のことか分かっていない俺に、またしてもありがたい授業が始まり、どういう存在か知ることになった。「今は助手みたいなものだけれど、研究の成果が認められれば教壇に立つことができるんだよ」そうかい、とだけ答えておいた。
最初の宣言どおり、そいつは月の半分どこかに出かけていて、俺はその間の生活費として適当に金を渡されることで食い扶持をつないでいた。この金が多くもなく少なくもない絶妙な額だったおかげで、驚くべきことだが、盗みを働く必要がなくなり、来る日も来る日も暇を持て余していた。考えてみればあいつのことだ、すべてお見通しで金を渡していたのかもしれない。
『番犬』がいるためか、少しずつ例の貢ぎ物も減った。つまりタダ飯が減ったので、渡された駄賃で好きな物を買い、好きなように食うということした。いたずらを覚えた餓鬼のように心躍ったことをよく覚えている。
部屋はアトラスダムの端のほう、煉瓦造りの建物の二階にあった。時折、窓から街の様子を眺めていた。空に薄く伸びた雲の下、街の奥の、さらに奥のほうに大きな建物の頭上だけが見えていて、それがサイラスの働く場所なのだと知った時は、まさか貴族ではあるまいな、と疑ったものだ。
無事、当面の衣食住を手に入れたわけだが、相変わらず部屋は片付かず(俺が片付けないので)床の見える部分は少なかった。出来ることと言えば、自分の獲物の手入れくらいか。それなのに、奴が出掛け、戻ってくるたびに物が増えるので、俺の領土は徐々に脅かされていく。侵略者は本だったり、植物だったり、時には石だったりした。
「なんだこれ」
「綺麗だろう? 化石だよ」
「宝石じゃないのか」
夕焼色の小石をつまんで味気ない感想を述べると、奴は両手をあれやこれや動かして熱弁する。「その石の中にオルステラの歴史が描かれているんだよ!」正直言ってどうでもよかった。その頃、価値といえば食い物につながるかどうかであったので、売ったらいくらになるのかということしか考えられなかったのだ。
季節が一巡りするまでに、ベッドがひとつ増えた。本の置き場が狭まったので、その次に棚が造られた。山積みの本がしまわれ、しかし空いた場所へすぐに新たな本が置かれていく。足の踏み場がなくなってくると、食事ですら立ってするほうが楽になってくる。ある時そうやって林檎を食っていたら、どたどたという音とともに部屋の扉が勢いよく開いた。
「テリオン!」
サイラスにしては珍しく、走ってきたのだろう、ぜいぜいと息を切らしながら駆けこんできた。肩に羽織った黒いローブが、みっともなく着崩れている。
「あっ、こら、座って食べなさい」
「まだ学院にいる時間だろ」
あんたのほうこそ食事中は静かにしろ。そう返すと「いや、それどころじゃないんだ聞いてくれ!」とせっつかれた。
「この間、出版社に投稿した論文が、金賞を取ったんだ! ほら、新聞に募集記事が載っていただろう? 嬉しくてつい学院を飛び出してきてしまった、キミに報告しなくてはと思ってね! 賞金も出るから、これで引っ越すことができる!」
嬉々として叫ぶ男は今にも窓から飛び立ちそうだ。それは困る、俺の生活費が文字どおり飛んでいってしまう。――賞金とはいくらだったのだろう、当時聞きそびれたので結局分からずじまいだ。
「ここじゃ駄目なのか」
「駄目だよ。だってキミの部屋がないじゃないか」
「いらん」
「必要さ! だってキミは来年から学院に通うのだから!」
「寝言は寝て言え」
あらかじめ言っておくと、この寝言がまことになることはなかった。サイラスはしつこく俺を学院に通わせたがっていたが、俺が断固拒否したからだ。
「キミくらいの年齢なら学舎に身を置くべきだよ」
「あんたは俺の親か?」
「ではないが、現実、保護者のようなものだから」
「あんたの物差しで俺を測るな」
大人はいつも、きれいな箱に収めようとする。こちらの意思など無視して。それが嫌で、俺はいつも、何処からか、誰からか逃げ出していた。
「今度またその話を持ち出したら、俺は出ていく」
その時アトラスダムに居たのは、『食う寝る生活』を送ることが可能であったからで、決してサイラスに情がわいたわけではなかった。自分にとって安全な場所が他にあるならば、出て行ってもかまわなかったのだ。
犬に鼻先であしらわれ、飼い主は両手をあげる。
「……すまない、私が悪かった」
「分かればいい。それに、学院に通う必要なんてない、あんたが勝手に教えてくれるからな」
「なるほど、それは真理だね。やはりキミは賢い! 学ぶということは誰にでも開かれている門で、どこにおいても可能なことだ。大昔、とある哲学者は周囲の人たちへ疑問を投げかけ、対話を重ねた。場所など関係なかったんだ。学問の始まりは何でもない、疑問からなんだね。つまりキミが知りたいのであれば、」
「長い」
「……私はいつでも教えるから、いつでも訊ねてほしい」
「勝手に言ってろ」
まさしく勝手に、サイラスの講義は突然始まり、突然終わるのが常だった。聞いてもいないのに、この世の理屈を語る。世界中の理屈を編纂したら、『サイラス・オルブライト全集』という本が出来上がるのではないかと思ったくらいだ。
雨季に雨が降れば、なぜ雨が降るのか。
「この世界は奇跡がパイ生地のように折り重なって出来ている。あそこに海が見えるね? そこから蒸発した水分が空へ昇って雲になる。雲は雨となって、大地を潤す。染み込んだ雨水は海へと流れ込んで、またこの循環が始まるんだ」
「へえ」
珍しく雪が降れば、なぜ雪は冷たいのか。
「雪は結晶の集まりだ。小さな粒がだんだん大きくなって降ってくる。その正体は氷と同じなわけだが、氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる。氷に触れる側、つまり人間のほうが温かい。その熱を奪われる、それが冷たく感じる理由なんだ」
「ほう」
天の青さ、花の色、人の歴史。今まで俺が捨て置いてきたものを一つ一つ拾い上げていくように、サイラスの声が俺の中に文字を記す。文字は意味を持って知識となり、俺に語りかける。そのたびに無知を知った。俺が世界だと思っていたものが、どれほどせまっ苦しい枠組みの話であったかを。
知らないということを知ることは最も尊いことだ。サイラスはことあるごとに、そう口にしていた。
「単に知っているだけでは、学んだとは言わないからね。さあ行こうじゃないか!」
そして俺を色んな場所へ連れて行った。留守番はどうした、と聞けば「留守でいいんだ」と言う。「あんたそれでいいのか」「いいんだ」決まりきった問答が何度も何度も繰り返されて、俺は笑っていた。いつの間にか。
無人の部屋をあとにして、俺達は馬鹿になったみたいに世界中を駆け回った。砂漠のはずれにある洞窟を探索しに。常闇の村に咲く珍しい草を見つけに。馬車で、徒歩で、どうやってでも辿り着く。くたびれたらそこら辺で休んで、サイラスの魔法で火をおこし、俺は寝床の準備をして、寝そべり、月を眺める。眺めているとサイラスがやってきて、天体について語り始める。弦楽器の旋律よりも、美女の匂いよりも効果のある眠り薬だった。
旅先で見つけたものはどれも、俺にとっては取るに足らないものばかりだったが、高尚な学者先生にとっては違うらしい。日が暮れるまで座り込んで調べるなんてしょっちゅうで、そのたびに「先に宿へ帰る」と急かすが、何がそんなに面白いのか一歩も動かない。そうなれば石と同じ。力ずくで持ち帰るしかなかった。
二年経っても、三年経っても、五年経っても、研究の手伝いだと言って俺を連れ出した。出来の悪い飼い犬に振り回されていたのに、月が隠れて太陽が昇るように、いつのまにか逆転し、俺がサイラスに振り回される日々。くだらない、なのにあっという間に時が過ぎていく。
奴が居ない間は、置き土産の本を相手に時間を潰した。読める文字も多くなり、知ることにうっすらと楽しみを抱くことができたのは、『サイラス先生』の功績といえるだろう。あいつは本当に教師に向いている。論文の成果が認められて、学院でも教える側に立てた、と喜んでいたか。
六年目になって、ついに奴は住まいを変えることを強行した。貯まった賞金で、思い出深い(皮肉だ)狭い部屋に別れを告げることを決めたのだ。この頃になると、貢ぎ物はまったく置かれなくなった。
「お役御免だな」独り言だったのだが、妙なところで几帳面な男は聞き逃さなかった。「何のことだい」「番犬業務のことだ」
俺の図体はすっかりでかくなり、成人の歳になっていた。サイラスの背は到底追い越せそうになかったが、少しは伸びて、見た目ももう子供ではない。これならば仕事も見つかりそうだと踏んでいたので、アトラスダムを発って別の街へ行こうと算段していたところだった。
「キミにしては面白くない冗談だね」
「俺がいつ冗談を言った」
「キミがいなくなったら、私はどうやって洞窟の奥から戻ってくれば良いんだい?」
――そのとおり。こいつのわがままに付き合わされ、俺の役割はここ数年、座敷犬から護衛に変わっていた。何故ならばこいつは恐ろしいことに、魔法以外に身を守る術を持たない。魔力が枯渇すればひとたまりもないのに。どれだけ貴重な石を見つけようとも、俺に言わせてみれば「さあ強奪してくれたまえ」と差し出しているのも同然。同行している自分の身が危険にさらされるのは我慢ならなかったので、旅先では率先して戦っていたわけだが、結果的にサイラスを守ることになっていた。こいつは顔と頭だけは良いから、それすら戦略だったのかもしれないが。
「傭兵を雇え」
「嫌だな。それは私の主義に反する。研究の場に無粋な輩を招きたくない」
「俺は良いのか」
「勿論。むしろ何故いけないのか理由を知りたいね」
さも当然とおっしゃる不遜な態度。「雇い主が私では不満かい」そういう問題ではない。しかし理屈をこねるサイラスを負かすのは、非常に骨の折れる作業であることを、俺は実戦で学んでいた。
「……犬は犬らしく、主人に従えば良いんだろう」
「おや、なんて良い子なのだろう! ご褒美をあげなければ! 何が良いかな? 新しい短剣にしようか。それとも魔術書のがよいかな」
「いらん」
ああ、飼いならされた犬の末路だな、と思った。その後も相変わらず駄賃は支払われるので、俺はとうとう出て行く理由がなくなってしまって、サイラスが必要とあらば居てやらないこともない、と――そうやってごまかしているうちに、やがて陽が沈む。気が付けばまた、サイラスと同じ空間に立っている。隣を見ればそいつが居て、また俺を世界へと連れ出すのだ。
思い返せば、この時既に気づいていた。俺の中で、ふっと息を吹きかければ今にも弾けてしまう、そんな正体不明の何かが膨らんでいることに。けれども蓋をして、隠しておいたのだ。知らないことを知っているのに、俺は知るのが怖かった。
サイラスが発表する説は年々脚光を浴び、有名な賞を総なめにしていった。
引っ越した先の一軒家の居間、二人ならば充分な広さの部屋に、沢山の見知らぬ奴らが何度もあふれかえっていた。集まれば即席の討論会が始まって、その様子はかつてサイラスの言っていた大昔の哲学者を思い起こさせる。なぞらえるなら、サイラスがかの偉大なる哲学者で、周りの奴らはその弟子だ。いつかそのうちの一人が、サイラスの名言集を発刊するかもしれない。だとしても俺は決して買わない。
誰かと論戦でせめぎ合うのは楽しいようで、しばしば溌剌とした家主の声が響いたが、気分はすぐれなかった。俺の知らないそいつらは来るたびに、俺に一瞥をくれてから、まるで見なかったかのようにサイラスのことだけを視界に入れるようにする。早く捨て置け。幻聴は毎日俺の耳元で繰り返され、いつも俺を崖っぷちへと追いつめる――誰に言われずとも、俺が一番理解していた。
俺を亡きものにしようとするそいつらがサイラスの教え子なら、俺は生徒でも、ましてや家族でも、何者でもない何か。誇れる過去もなく、輝かしい未来もない。ただ名前だけがある人間。
ならば俺は何なのだろう。俺は何故ここに居るのだろうか。サイラスはいつも疑問を他人に問いかけていたが、俺が問いかけるのは、決まって自分に対してだった。
あいつは学院で名を馳せて、どんどん偉くなっていく。いつも毅然と学問に向き合って、世界を知ることがいかに素晴らしいことなのか、少しでも俺に伝えようとしていた。学院の教職に追われ、家で講釈を垂れることが減っても、変わらず俺を連れてほっつき歩く。旅先から帰ってくれば途端に机へと一直線、よもすがらペンを動かすのがあいつの仕事。それを眺めるのが俺の権利。俺が耐え切れずに眠ってしまっても、ひたすら己の考えを形にすることに没頭し、朝になれば決まって「テリオンのおかげでまた良い題材が見つかったよ」と笑うのだ。俺は何もしていない、ただ付いて回るだけなのに、俺を連れまわすようになってからよくそう言うようになった。
この頃までの出来事を思い出す時は、いつも、笑うサイラスの姿がある。水平線から世界が暴かれる瞬間のように、ぱっと眩しくて、そこらじゅうを照らすような空気に満ちていた。
だが一度だけ、剣呑な雰囲気で学院から帰ってきたことがあった。俺を拾った時のサイラスと同じ歳になった、あの頃の、あの日のことは、述べたくない気持ちが強い。しかし、書き記すべきなのだろう。
「最悪だ」
帰ってくるなり、開口一番、サイラスは低い声で言った。
「……どうした」
短い言葉に含まれた、剣の切っ先のごとく尖ったものを、放っておくことができなかった。「ああ愚かしい」とぶつくさ言いながら、奴は荒々しく椅子に腰かけた。ここまで機嫌の悪いサイラスを見たのは、これが最初で最後だ。
長い溜息をついてから、忌々しそうに口を開く。
「私の論文完成に、キミがどれほど貢献してくれているか。耳を貸さない人間ばかりで嫌になる」
ああ、学院の奴らに何か言われたんだな、とすぐに察しがついた。そりゃあ、誰もが口をそろえて言うだろう。サイラス先生、何故あんな素性の知れない人間を置いておくのですか? 子供ではないのですよ、放っておきなさい。さっさと追い出しなさい、と。
とうに日の暮れた空の向こうで、季節外れの遠雷が鳴っていた。この調子では夜中には雨になる。腹立たしさを隠さないサイラスと雷の音が嫌で、俺は柄にもなく奴を励まそうとしたのだ――それが失敗だった。俺は無知で、どの言葉がサイラスの引き金を引くか、分かっていなかった。
「あんたの周りには味方が山ほどいるってことだろう」
「けれどその誰ひとりとして、私を理解していない」
悲しいことだね。本当に悲しんでいるとは思えない、冷えた声で言う。
理解、理解か。人が本当に、誰かを理解できるものか。目に見えない、心とかいう代物を、どうやって解き明かすというんだ。そんなものは空論に過ぎない。もし、誰もが分かりあえていたならば、俺は今ここには居ないのだ。あの時――昔のことだが――谷底に落とされることもなかっただろうし、あんたに拾われることもなかった。
思い出すと古傷が痛む。ああ、こっちまで気分が悪くなりそうだ。不機嫌な男の空気にあてられ、励まそうとした自分が愚かに思えた。俺は自分に苛ついていた。
「俺だって、そのひとりだ。あんたのことは分からない」
サイラスはいつも正しい。正しくあろうとする。
だが、あんたの正義はやさしく俺を追いつめる。今か今かと、奈落へ落ちるかどうか見張る観衆を背負いながら、審判のあんたは俺を庇う。俺を繋ぐ鎖が、薄っぺらい同情でできているうちに、さっさと切ってしまえば良かったのだ。俺が間違える前に、あんたに裁かれる前に、手放してくれたなら。
「分かるわけがない。あんたは賢者で、俺は愚者。何も持たない俺を、あんたが分からないように、俺も――」
この時、そう吐き捨てなければ。
俺は今でも、ただの犬っころとして、サイラスの隣で尻尾を振っていただろうに。
椅子から腰を上げて、つかつかと俺の前に立ちはだかる。引き結んだ口元に、怒りとも哀れみともいえない感情が浮かんでいた。笑っている姿を見慣れているせいで、その時のサイラスを、自分の知るサイラスとは思えなかった。目の前の男が、高い壁のように感じたのだ。
足元だけ見て、ただ、雷の音を聞こうとした。サイラスと俺のつま先が向かい合うの見ながら、この責め苦が早く終わることばかり祈っていた。
一つ、二つ、遠くで雷鳴がとどろく。もっとうなれ。もっと叫べ。俺もサイラスも、口を開かぬまま突っ立って、互いに言葉を発しなかった。
こんなことならばたてつくんじゃなかった。そう悔やんでも遅い。沈黙は嫌だ、沈黙は盾になってはくれない。
いつまで経っても、餓鬼のまま、こいつに甘えている。
自分が情けなかった。サイラスの周りの奴らにあざ笑われる自分が。サイラスに甘えている自分が。
俺はいつか、こいつの元を去るべきなのだろう。いつかは分からないが、きっとそれがあるべき姿なのだ。それまではできる限り『良い子』でいてやりたかった。
そう、視線を上げた時だった。
黒と白。
目の前を覆いつくす、サイラスの色。
「キミは私が見つけたんだよ、テリオン。私以上に、キミを知る人間がいるだろうか、そんなものがあれば、私は……ああ、何故今になって、そんなことを言うんだい……」
抱き締めている。サイラスが、俺を。
理解した瞬間、まるで月が地に落ちたような、世界がひっくり返った心地になった。サイラスのにおいで肺がいっぱいになって、頭がくらくらした。触れている部分から熱が伝導する。心臓の音、それが自分のものなのか、そうでないのか、とにかくどくどくうるさかった。融けそうな脳に、以前聞いた雪の話が思い出される。氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる……。
俺が余計なことを言ってしまったから。だからサイラスがおかしくなったのだ。そう思うと余計に何とかしなければと焦り、怖かった。崩壊が恐ろしかった。奈落の入り口はいつもすぐそばで待っている。
だから、ただサイラスをどうにか落ち着かせたくて、そろそろと腕を回した。落ち着け、落ち着け。あんたはいつも論理的で、正しくて――。
それなのに、サイラスの力が一層強くなったので、ますます困惑する。甘えているのは俺のほうなのに、サイラスが甘えるように俺の頬に唇を寄せ、肩にすり寄る仕草がもどかしかった。
「サイ、ラス、」
「私はずるい人間だね」
頬を、耳を、何かが掠めた。サイラスの髪だ。すぐそばで聞こえた声は、わずかに震えていた。何のことだ、という言葉は、音にならなかった。飲み込まれた。
サイラスが俺の口をふさぐ。
その寸前に垣間見た奴の顔は、ひどいものだった。叱られた子供が許しを請うような、申し訳なさそうな顔。
口付けという行為がどういう意味を持つか、知らない俺ではない。だがそんなもの初めてで、どうすれば良いかなんて知らなかった。ただ、かたく結んだ俺の唇を、奴の舌が舐めて、身体がびくりと跳ねた。そんな俺には構わず、奴の腕はぎゅうと抱きすくめ、何度も口付けてくる。唇が濡れて、また舐められて。あの遠雷が俺に落ちたのだろうか。錯覚するほど全身がひたすら熱く、指先も目の奥もびりびり痺れて、苦しかった。なのに、サイラスから離れることができない。
俺はこいつを求めているのか。どうして。
情だとか愛だとか、そういう理屈が俺には分からない。形になって、目の前に出されるものだけを見て生きてきた。実体のない、不確かなものは、いつも俺を惑わす。
ただ、俺の中にこんこんと湧き出てくるものをえぐり出して、サイラスの胸に突っ込んでやりたい。共有したい。そんな気持ちだった。
しばらくの間、俺たちは口付けたり離したりを繰り返していた。どれくらい経ったのか、ひときわ大きい雷が鳴って、ようやく事態の大きさに気づいて、身を離した。互いに息が上がって、それがひそかに唇にかかって、恥ずかしくなる。
「……テリオン、ねえ、私のことが嫌いかい」
正義の審判は意地の悪い質問をする。こいつにはそういう趣向があった。答えを持ち合わせているくせに、わざわざ確かめてくる。
けれども俺のほうは、疑問に押しつぶされそうで、首を振るのが精いっぱいだった。
何で、何でなんだ。サイラス。
分からなかった。知りたかった。
知らないことはいつも、目の前の男が知っている。
知ることができる。俺はその権利を持っている。
知ることができる。訊ねさえすれば――。
「あんたが、分からない……サイラス、あんた、何でも知っているんだろう。教えてくれ、なんで――」
なんで俺に、こんなことをする。
脳みそを内側から引っ掻き回されたように、ぐわぐわと、視界が回っていた。ふらつく俺の肩を、サイラスの両手がぐっと掴む。
「私を見なさい」
飼い主の命令には逆らえない。俺の世界はそうやって出来ていた。いつから? いつの間にか。
見上げたサイラスの目は、炎にあぶられた深い海のような色をしていた。俺の知らないサイラス。昨日までは知っていたサイラス。あんたはどちら側に立っている。
「私に訊ねてくれたのは、これが初めてだね」
ひゅっと、喉が鳴る。そうだった。俺はいつでも与えられるばかりで、サイラスに聞いたことがなかった。今までずっと、それができたのに、しなかった。無知であることを知っていたのに。
「テリオン。あの頃とはもう、すべてが違う。キミは大人になって、私も歳を重ねた。もうキミは、子供ではない。私の可愛い子犬じゃないんだよ」
変わってしまったのだ。
俺はあの頃のままでも良かった。こんな気持ちを知らないままでも生きていけた。
けれども、あんたは違ったんだ。あんたに連れられて旅していた、馬鹿なあの頃には、もう戻りたくないんだな。
「教えてあげよう。キミが望むならば、何だって。けれども、知ったら忘れてはいけないよ。ずっと、ずっと先まで、キミが抜け殻になるまで、覚えておきなさい。キミの中に、私を記すんだ」
そうして再び口付けられた。
その先は闇で、あのあたたかいサイラスは何処かへ行ってしまって、ただがむしゃらに、目の前の男にしがみつくことしか、なす術はなかった。
ああ、あんたは夜だ。
俺の手を引いて、迷わせて、突き落とそうとする、ほの暗いあの闇だ。
その目で、その声で、あんたは俺を捕縛する。
結局、俺たちは、どちらも孤独だったのだろう。
俺は居場所が欲しかった。それがサイラスの隣であればいいと思った。こいつの隣はあたたかい。丸まって寝ているだけで、満たされるものがある。なのに、自分の中に生まれた『何か』に、名前を付けてやれなかった。それがいわゆる恋だとか愛などと呼ばれるものか、単に情だったのか、寂しさからなのか。俺はその時、見当がつかなかった。答えることができなかった。
もしこれが、あんたと同じものであったとして、それをどうすれば確かめられるだろう。
触れられず、見えないものを、あんたは信じるというのか。どうして。あんたはそのわけを、知っているというのか。
「テリオン、テリオン。私の――」
俺を拾った時とはまったく違う、浮かされた声。気高く、学問のしもべだったあんたの、これが真実ならば、あんたを変えたのは何だったんだろう。
俺を紐解くサイラスの指先。殴られるよりも暴力的なその熱を、このままずっと奪い続けたら、俺はぐずぐずに融けて、消えることができるのだろうか。あんたの向こう側にある、俺を責める幾千もの目から、ようやく逃げることができるのだろうか。
転落する。
このまま奈落の住人になって、俺をわらうすべてのものから、隠れてしまいたかった。なのに、あんたがそれを許さない。あんたは俺を引き揚げる。地上で蔑まされる俺を見て満足か。そう問いただせばよかったのかもしれない。
この夜を境に、俺とサイラスを結び付けるものは、まったく変わってしまった。太陽の中心から噴出する赤い泥のように、とめどなく溢れてくる欲望が俺達の間に拡がって、いとも簡単に飲み込んでいった。それを持て余して、扉に鍵をかけて、あの弟子まがいの奴らを追っ払って、腑抜けた日を過ごしたこともあった。旅立つ予定をたてておきながら、わざと頓挫させて、困らせて、どちらからともなく引きずり込んだこともあったと思う。
それから先のことは、割愛しよう。思い出そうとすればするほど、いつもまどろみのように掬うことができない。
明日は記念すべき日だ。サイラスがめでたく教授の称号を得る。あいつのことだ。近い将来、もっと上の、学院の最上位に到達するだろう。
俺はそれを強く望む。俺が世界の成り立ちを教えられたように、何も知らない奴らに、道を示してほしいと願う。
知らないことは悲しい。
知ることは嬉しい。
それによって苦しみが生まれたとしても、知らぬまま去るよりはよっぽどいい。
さてあいつは、明日の式典の準備があると言っていた。帰りは遅いだろうから、そろそろ出よう。
いよいよ出発の時が来た。
俺の役目はここで終わる。飼い犬は野良犬に戻ることにする。それが本来の、この世界での『正しい役割』だからだ。
次は傭兵の仕事が待っている。雇い主の踊り子は、北へ行きたいと言っていた。雪で一面覆われた、真っ白な田舎町だ。傭兵業は久々ではあるが、腕をなまらせた記憶はない。俺の腕が立つことは知ってのとおり。前金も貰っていることだし、その分きっちり働くつもりだ。
依頼主との待ち合わせまで時間もないので、手短に書くとしよう。
サイラス。
あの狭い部屋で、夜と朝の狭間に立っていた、あいまいなあの頃が好きだった。
もしも俺が、あんたに拾われなかったら。もしもあんたが、俺を見つけなかったら。
そんな仮定は星の数ほどある。すべてが夢で、すべてが希望の燃えかすだ。
時は過ぎた。俺もあんたも、その中にとどまることはできない。
俺はあんたに何も伝えることができなかった。今でも、それだけを悔やんでいる。
いつか俺が抜け殻になったなら、俺を形づくっていたものの、一番きれいなところが雨になるだろう。
それがあんたのいるこの街に、あの狭い部屋に、しとしと降ればいい。
降って、地面に吸い込まれて、また乾いて、雲になって、再び雨となって、世界を循環して。
あの夜の口付けを思い出しながら、あんたの唇を濡らすのだ。
俺は俺を埋葬しにいく。あんたの知る俺に墓標を立てる。
だから、見つけたとしても、思い出したとしても、いつか忘れてもらいたい。目覚めれば、すべて忘れる。俺達はそういう風にできている。
おやすみ、サイラス。よい夢を。
あんただけが俺の、」
最後の一文は切り取られ、読むことができなかった。
静かに本を閉じる。オルベリクの吐いた息は白い煙となり、本の輪郭をなぞった。
この『日記』を見つけたのは偶然だ。山奥の古い家――埃がかぶっていない場所なんてないような、でもどこかこざっぱりしている――その一室、書斎と思しき部屋で、小さな箱の中に隠されていた。
次の目的地へ向かう道すがら、山中で迷ってしまった挙句の果てに見つけた箱舟。雷雨の下、オルベリクを助けたその家は、人が住まなくなってどれくらい経つのか分からない。黴のにおいと冷えた空気に肩をすくめて、オルベリクは腰の剣を抱え直した。
のちに下山し、母国へ戻った彼が知ったのは、この日記に登場するサイラス・オルブライトという人物が、百年以上も前のアトラスダム王立学院に居たこと、そして突然退任し、隠遁生活を送っていたということだけだった。有能な人物で、現在通説となっているほとんどが、彼の研究結果に支えられたものだという。しかし、その他のことは、いくら調べても、ついぞ分からなかった。
真実は、おそらく、手記の主だけが知っている。
古い家のなかには、二人分の家具が置いてあった。
あの日、俺を招き入れたのはどちらであったろうか。
あの手記の主はその後、踊り子を無事に送り届けられたのだろうか。
切り取られていた最後の言葉は、誰のものであったろうか。
知ることはできない。時を巻き戻すことはできない。ただ、今を生きることだけが、人に与えられた不可侵の権利である。
(了)畳む
・聖火教会の神官テリオンと義妹のオフィーリア。
・テリオンに恋するサイラス。
・ちょっとオフィ→テリぽい。
※なんでも許せる方向けです
#サイテリ #IF
鐘が鳴った。二秒おきに三回。木の椅子に長く座っていたせいで腰が痛くなってきて、ジジイのようだな、と溜息をついた。もちろん気付かれないようにだ。
「ありがとうございます神官様」
老婆の言葉に手を合わせる。
「どうかあなたに、聖火のお導きがありますように」
信心深い老婆は俺の動きに合わせた、ように思う。告解部屋は薄暗く、狭い。部屋を仕切る格子窓の向こうで人影が揺れ、少しの足音と、扉の開閉音で老婆が立ち去ったと理解する。そこでようやく、俺は本日最もでかい舌打ちをした。
ああ面倒だ。
そもそも罪を告白した程度で神様とやらがそれを許すと思っているのだろうか。昔、過去に犯した盗みの数々を(教会の人間には知られていないが)神の前で詫びたことがあるが、その懺悔で生きている間の罪が返上できるならば、くたばったら俺はすぐに天使にでもなれるわけだ。
なりたくはない。詫びた時も、罪があれば告白し懺悔しなさい、と司教に言われたから形式的にやっただけだ。
肩を回して、凝り固まった筋肉をほぐす。今日はあと一人、告解部屋の予約が入っていた。基本的に相手の名前は知らない。罪人の名前など知る必要もない。誰であるか、または誰であろうが、ただ告白に耳を貸す。それが『神官』の俺に与えられた仕事なのだから。
さっき鐘が三度鳴ったということは、そろそろオフィーリアが茶の準備を始める頃だろう。きっとまた茶菓子も用意して――毎度のことながらご苦労なこった。しかしそれだけが、聖火教会の総本山で勤めに励む日々の、唯一の楽しみであることには気付いている。
コンコン、とノックが小さく響いた。「どうぞ、お入りください」あたかも神官らしい声で入室を促す。安心させるように、ゆっくりと。
だが格子窓の先に、あまり会いたくない奴の雰囲気を感じて、茶会の時間には間に合いそうにないなと心の中でオフィーリアに謝った。
「やあこんにちは、神官様。よろしいですか」
無言。あるいは沈黙。
それ以外に対処法はない。サイラス・オルブライトとはそういう相手だ。
私はとても罪深い人間です。勉学を教えること、教わること、その目的はあまたあるかと存じますが、すべてが清く貴きものであるのに、私はその過程で神の遣いに恋をしました。
私がその一歩を踏み出したのは、教会管轄の孤児院で行われていた学びの会からでした。王立学院で教鞭をとる私が、その教師として招かれるのは理解できました。しかし、いつも教えている学生の年齢とはかなり離れた子たちが相手ですから、少々不安であったのも事実でした。ですから助手を、と教会に頼んだところ、二名の神官が派遣されたのです。彼らは兄妹ですがまったく似ておりません。太陽のように輝く妹と、月のようにたたずむ兄。彼が私の恋慕の相手です。はい、彼です。私は自然発生的に彼と出会ったのです。いいえ、これこそ神のお導きというべきでしょうか。
彼はやさしかった。口ではなく態度であらわす人でした。文字の分からぬ小さな子にそれとなく助言を出し、読み書きを教えました。安易に解答を開示せず導く手法は、神官であれども、まさしく教師のそれでした。しかし、うまくできた時に褒めるのはいつも太陽のほうでした。彼は褒めることが得意ではなかったようです。ですがそれが私には慎ましく映りました。光は影があってこそ輝きを増します。彼のおかげで妹はひときわ眩しく光を放ちます。二人は常に反射し合うのです。
彼は妹と違い、いつもケープのフードを目深に被っていたので、ずっとその表情をうかがうことができませんでした。しかしその日は突然やってきました。何度目となる学びの会であったでしょうか。ある時、孤児院に暴漢が押し入ったのです。子供たちが泣け叫び、逃げまどい、騒然とするなか、不逞の輩は太陽の女性に手を出そうとしました。幸い私には魔術の心得がございましたので、すぐに詠唱を始めました。ですがそれより速く、教会の真ん中に疾風が吹き荒れました。春に木々の間を走り抜けるような風をまとって、青年が駆けたのです。手に煌くものが短剣であったと気付いた時には、暴漢は床に伏せていました。本当に、あっ、という間に、青年が男を押さえ込んでいたのです。勢いよく走ったせいでフードが外れて、白のような銀のような髪が露わになります。こちらを――正確には私の前にいた太陽の女性を確認する、その矢のごとき眼光に射竦められて、私は動けませんでした。手に持っていたはずの魔術書が落ちる音で、ようやく我に返ったのです。
「テリオンさん!」
「無事か、オフィーリア」
駆け寄る女性の心配そうな声に、柔らかな声が返されました。青年の声でした。
「怪我は、怪我はありませんか?」
「何ともない、……あんたが無事ならそれでいい」
その時、兄の口元には笑みが浮かんでいなければ、私は今こうして懺悔していないでしょう。
義理とはいえ、二人がもし兄と妹でなかったならば、彼らは恋人同士ではなかろうか。そう思えるほど、二人は愛に満ちた表情をこぼしていたのです。互いが互いを認め、支え合う愛の、なんと眩いことでしょう。初めて彼の名を知ったその日のことを、ずっと忘れることができません。慈悲深い彼から、ひとしずくでよいから、私にもその愛を与えてもらいたいという願望が芽生えた日でもあるからです。
つまり、そのやさしく愛に満ちた青年に、私は恋をしてしまったのです。
「――そうして私は、彼に会いたい、ただそれだけのために、毎週フレイムグレースに足を運んでおります」
げっそりした。
途中、フードをかぶり直して耳を塞いだくらいだ。何がかなしくて、自分に対する『告白』を、毎週聞かされなくてはならないのか。しかも長い。長すぎて欠伸が出そうだ。
今しがた、半時間を過ぎたことを知らせる鐘が鳴った。小腹も空いてきたし、さっさと切り上げてオフィーリアの茶を飲みたい。
「これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
「聖火神の御名において、貴方の罪は赦されるでしょう」
適当に言った。神には悪いが。
「ああ、ありがとうございます神官様……」
やれやれこれで本日のお勤めも終了だ。
「すみませんが」
と思っていたのに、そいつはあろうことか声をかけてきた。
小さな空間に声が反響する。低くて、なのに鍵盤の上でワルツを踊るような声。
この声は苦手だ。俺をこの場に縛り付けて、離してくれない声だ。
「先日の返答を聞かせていただけませんか」
「……告解は終わったのでしょう。どうぞ、ご退室を」
「テリオン君」
勝手に名前を呼ぶのはやめろ。以前からそう言っているのだが、この男は無遠慮というか、まったくやめる気配がなかった。真正面から相手をしても勝ち目がないことは分かっている。しかし、長話に付き合わされた後の最悪な精神状態で、円滑に相手できるわけがないのだ。
ひとつ、盛大な溜息をついてやる。
「……しつこいな。さっさと帰れ」
「ああ、やっと話してくれたね。嬉しいよ。キミはいつも真面目に務めを果たしているから、他の話をしてくれないね。もう少しくだけても良いのに」
頼む、嫌味であってくれ。でなければ、こいつの脳内はとっくにおかしくなっている。
「それが神官に対する言葉か?」
「おっと、申し訳ございません。つい本音が出てしまいまして」
いけしゃあしゃあと。格子のおかげではっきり見えないが、おそらくその顔には笑みが浮かんでいるのだ。あの、誰もが見惚れるような顔で、俺を見て――。
想像して、は、と思わず息を吐いた。考えるだけで、身体中に感情の粒子が駆け巡る感覚。耳元が熱い。フードを整えるふりをして誤魔化す。
その様子を知ってか知らずか、サイラスの話は続く。「それで、考えてくれたかな」「……何をだ」分かっている。何度も言われているのだから。
「アトラスダムに来てほしいと言ったことだよ」
「夢を見るなら夜に見ろ」
「夢なら常に見ているよ。キミとアトラスダムで過ごす夢だ。きっと、とても素敵な日々に違いない。私はアトラスダムの王立学院で、キミは助手として勉学を教える。素晴らしいと思わないかい」
そうだろう? そうだと言ってくれ。
喜びに打ち震える声とは対照的に、言葉の端々に嘆願がのぞいている。不安。恐怖。俺の答えを待ち続ける苦しみ。自分の感情が、自分だけのものではないと証明したい気持ち。
申し訳なさと大きな喜びが、俺の中に渦巻く。あんたの中が、俺で溢れていることに対しての感情――浅ましい俺の心に、賢いあんたは気付いているのだろうか。
サイラスが格子窓へ指を這わせる。そこを打ち破ることができたなら、きっとあんたは、簡単に俺の手へと触れてしまうんだろう。
「テリオン君。私はキミに恋をしていて、キミはそれを知っている」
「……何度も言ったはずだ。俺はあんたの気持ちには応えられない」
そうだ、自分にも言い聞かせた。時には暗示のように、時には呪いのように、何度も何度も。
そのたびに、俺の指先まで満たしていたあの粒子が、跡形もなく消え去る。
「それでも私はまた来るよ。キミが、キミ自身で、心のうちを明かしてくれるまで、何度だって来るから」
どうして俺なんかにそんな言葉を吐くのだろう。答えを待っているのは怖い、俺が頷かないのが嫌だ。そう言えば、言われれば楽になれるのに。
あんたは知らないのだろう。
あんたがここを去ったあと、その指で触れたところを同じようになぞっていることを。あんたが来た日の夜は、大聖堂の聖火の前で懺悔していることを。信じてもいない神に跪いて、赦しを乞うていることを。
俺はここから出られない。オフィーリアを置いて去ることなど、あってはならない。
「……どうかあんたに、聖火のお導きがありますように」
そう返すことだけが、今の自分に出来得る最大の返答だった。
中途半端な時間のせいで、食堂はしんとしている。職員や神官は見当たらず、オフィーリアがひとり、長い食卓の端にもたれていた。足音を消して近付いたのだが、あと数歩というところで気付かれた。流石だな、と言うべきか。
「あっ、テリオンさん!」
振り向いた反動で、その手のなかのティーポットを落としそうになる。慌てて持ち直して、そっと食卓の上へと置いた。全ての流れが、一枚のキャンバスへ描かれた絵に見えた。絵が動いている。
神に愛された人間とは、オフィーリアのような女のことを言うのだろうな、といつも思う。
天国で神がサイコロでも振って対象者を決めているのか、はたまた指名制なのか、投票制か。しかし俺が選ばれることは決してない。それでいいと思う。自分に運がないとか、不遇だとか、そんな不満は一切ない。光が当たるのはいつも俺以外の誰かで、それが当然。世のことわり。光は眩しくて、目が痛くなる。俺には似つかわしくない。夜のほうが、よっぽど楽だ。
「……遅くなった」
「良いんです。でもごめんなさい、アップルパイは冷めてしまいました……」
「構わない。……悪かった、間に合わなくて」
サイラスと逢引のようなことをしていたから遅れた、とは言い難く、バツが悪くなって視線を逸らす。それがあまりに後ろめたく見えたのか、オフィーリアは手を振って、「良いのです! 私が勝手にしていることなんですから!」と弁解した。ともに揺れる金の髪が、小さな肩を行ったり来たりしている。
似ても似つかぬ妹。当然だ、血は繋がっていない。
「……食って良いのか、アップルパイ」
「勿論です。ふふ、お好きですもんね」
細められた目は、甘く煮詰めたフィリングと同じ色をしている。
オフィーリアは戦争孤児だった。
戦いで肉親を奪われたこいつとは違い、俺は気が付いた時には親という存在がいなかったので、一人で生きていく術を身につけることが必須事項だった。明日まで自分が生きていられるか誰も保障してくれないのだから、まず食い物を得ることが先決だ。
そのために、行き着く場所のそこらじゅうで盗みを働いたが、いったん警戒されるとその町では犯罪をおかしにくくなる。次の町、また次の町と渡り歩いたものの、ガキの足で移動できる距離は限られていて、転々としたのちにフレイムグレースに辿り着いた頃には、ついにうずくまってしまった。雪が頭に降り積もる中、ふと視界の端に入ったのが教会だった。
宗派によって差があるものの、基本的に教会は俺のような境遇の人間を放置しない――そんなことが噂になれば、信者からの信頼はおろか、教会の立ち位置も悪くなるからだろうか。とにかく、教会は俺を保護して『施し』を与えた。行くあても気力もなかった俺は、そのまま洗礼を受けて信者になることにした。そうすれば、優先的に孤児院へ引き取られるだろう。そう踏んだのだ。
結果的に、孤児院ではなく司教のもとに引き取られた。そこにいたのが、二つ下のオフィーリアだった。
「眩しいですか?」
それが十年ほど前か。
記憶へ溺れる直前、今に引き戻される。食堂に、珍しく西日が差し込んでいた。今日は雪雲が去ったのだろうか。
カーテンをひいてきますね。そう言って窓際へと進むオフィーリアを見送って、ティーポットへ手を伸ばす。たぷんと揺れるのを感じたので、中身は残っているようだが、冷め切っているのはグローブ越しでも分かった。
もう五つの鐘も鳴ってしまったから、しばらくすれば夕餉の時刻だ。しかしオフィーリアが淹れた紅茶を捨てることは俺の選択肢にはない。また、半月型のアップルパイも。
ポットを傾ける。空のままのカップへ紅茶を注ぐ。白い器の中へ、液体が溜まっていく。時間が経ってしまったからだろう、焦がした砂糖のような色になった紅茶は、小さな水たまりを作った。
手に取ると、紅茶に自分の影が映り込んだ。白い神官服が赤褐色に染まって、まるで悪魔の遣いみたいに、ぬるりと揺れる。
テリオン君、また来週。
去り際のサイラスの声が、耳元で繰り返される。
あいつが来るようになって、今日で十五回になるだろうか。孤児院に派遣され、初めてサイラスを見た日から数えると、もう半年は過ぎたことになる。
孤児院で開かれていた学びの会は、暴漢事件のあと打ち切られるように中止となった。成人して暫くしたら聖火騎士団の入団試験を受けるつもりでいたので(そっちのほうが性に合っている気がした)、日頃から身体を鍛えていたのだが、それが功を奏した。あの時、オフィーリアが怪我のひとつでもしていたら、俺は自分を決して許せなかっただろう。
この世のどこにも肉親がおらず、しかし縁だけで家族となった、オフィーリアと俺。
最初は互いを遠巻きに見ていた気がする。それもそうだ、ある日突然「新しい家族ですよ」と他人を連れてこられて頷けるはずもない。数年前にオフィーリアが修道院へ入るまでは司教の家で同居していたが、はじめは一言も会話しなかったし、俺も話しかけようとしなかった。
だがオフィーリアは、俺が一体どういう奴なのか知ろうとしたのか、少しずつ悪戯を仕掛けてきた。これが俺にとっては予想外だった。虫も殺せなさそうな見た目をして、やることは蟻の行列を踏み潰すガキと同じ。夕飯がシチューだった日には、俺の皿にだけ山盛りの人参を入れてきたり(勿論司教に叱られていた)、俺が瓶に入れておいた聖水を葡萄酒と入れ替えたり(信者にあるまじき行為だ)、すぐにばれる下らない悪戯を繰り返す。
対して俺は、我慢ならなくて怒る、ということもなく、淡々と流すだけ。相手をするのが面倒だったし、興味もなかった。ただ生活ができれば良かったので。
そうして過ごしていた、ある日のことだ。
夜、司祭に与えられた自室へ向かう俺の前に、あいつが立ちはだかった。仁王立ちだ。怒りからか、顔が少し赤くなっていたと記憶している。
そして言い放つ。
「私のことを、幽霊のように扱うのはやめて下さい。あなたを家族だと思っているのは、私だけなのですか」
今にも涙が溢れそうな目で俺を睨む。
ただ悪戯を仕掛けてくるだけの女と思っていたが、意思があったのだな、と初めて感じた言葉だった。そして、そうか自分はこいつの家族だったのか、とも思った。まったく考えたこともなかったが、オフィーリアはオフィーリアなりに、俺と家族になるため努力していたらしい。
道端の小石を気にする奴などいない。俺が自分に与えていた価値はその程度のものだったから、まさか自分を本気で気にかける人間がいるとは想像だにしなかった。
二人そろって、ひとりで生きるしかなかった時期があって、苦しくて、いつか苦しみさえ麻痺してしまうことを知っている。
姿かたちは違えど、俺達の根っこは同じで、そこから共に芽を出した子葉のようなもの。鏡合わせのごとく、相手を見るたびに自分を思い出す。相手が孤独でいると、自分も孤独でいるような。だから放っておけない。放っておくと、自分がますます孤独になる気がするから。
片方の葉が枯れたら、もう片方も枯れる。相手を守ることが、すなわち自分を守る。それを、オフィーリアは本能的に気付いていたのだろう。だからいつも笑っていられるし、馬鹿馬鹿しい悪戯で俺を笑わそうとする。
――どれだけ優しい言葉を並べられても、深い同情を与えられても、同じ痛みを知る人間以上に響くものはない。
だから俺は、こいつがひとりで大丈夫だと言える日まで、どこへも行かない。この箱庭の中で生きることが自分の選択だ。
サイラスの言葉が、どれほど極上の味わいであろうとも。
溺れていた記憶の海から這い出す。皿に鎮座するアップルパイを、フォークで適当に切り分け、口に運ぶ。
さく、さく、しゃく。
冷めていても、あいつのアップルパイは美味かった。この味を口にできなくなるのは、ずっと遠い未来のような気がしていた。
「……これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
いつもどおりの週末。いつもどおりのサイラス。いつもどおりの告解部屋。今日で二十回目。
サイラスの、聞いていると胸の奥があぶられるような声に耳を傾けていると、この時間が早く過ぎ去ってほしいような、ずっと続いてほしいような気分になる。
鐘が鳴る。一つ、二つ、三つ……。今日は昼間に告解部屋へ訪れる信者が多く、いつもよりも遅い時間にサイラスの相手をすることになってしまった。サイラスは毎度、最終の番になるよう告解の予約を入れてくる。理由は、自惚れでなければ、きっと俺だろう。
夕刻のフレイムグレースに響き渡る鐘の音は、俺の心臓までうるさく届いて、がんがんと鳴らす。神の槍が胸を刺すように、強く響く。
その痛みを追い払うように、フードで狭まった視界の中、手を合わせた。
「……聖火神の、御名において、……貴方の罪は赦されるでしょう」
神様とやら。
もし本当にいるのならば、俺はとうに断罪されているはずなのに、いまだに罰を受けずここにいる理由はなんだ。
「ありがとうございます、神官様」
俺がこの場所に居続ける理由はなんだ。
なあ、サイラス。俺の罪を知っているか。
神へ祈るふりをしながら、悔い改めるふりをしながら、心の中で述べるのは、いつもあんたに対することばかりだ。
あの、すらりと伸びる指に、俺よりも大きい手に触れる日は、きっと来ない。それでも毎夜夢に見る。アトラスダムの街を。王立学院から帰ってくるあんたを。適当に働いたあと、あんたを待ち伏せする自分を。あんたはきっと遠くからでも俺を見つける。それから、この上なく幸せそうに笑うんだろうな。
大馬鹿者め。
夢は叶わないから夢だ。しかしその瞬間だけは、誰にも邪魔されない、自分だけの楽園が手に入る。幻でも、見せかけの天国みたいなこの場所よりずっと良い。オフィーリアの兄でもなく、神官でもなく、ただの俺である世界は、夢の中にしか存在しない。それでいい。
サイラス。俺はあんたの前で、ちゃんと俺らしくできているんだろうか。
「キミは、何か思い悩んでいるのかな」
五つ目の鐘が鳴り終わる頃、サイラスがぽつりと呟いた。
「……何だと?」
「いつもならば、すぐに言ってくれる赦しの言葉が、今日は少し遅れていたのでね」
ふむ、と思案するように指摘されて、全身の血が一気に沸き立つのを感じた。
告解部屋とは、信者の罪の告白を聞いたあとに神の赦しを与えるものだ。だからいつも、赦しの言葉で締められる。それが何ということか、自分の心に気を取られて――これでは「何かある」と気付いてくれと言わんばかりじゃないか。
恥ずかしさで死にそうだ。俺はそこまで、こいつのことで手一杯だというのか。
「テリオン君」
俺を呼ぶ声に、顔を上げる。格子窓の向こうに、サイラスが見える。はっきりとは見えないが、その視線に自分が捕まっていることだけは分かった。
「もうひとつだけ、私の話を聞いてくれるかな」
少しの苦笑、それから、かぶりを振る様子。「話というか、ただの言い訳かな」そして続ける。
「私のこの心が、ただの恋で終わるなら。そう考えたこともあったんだ」
サイラスの唇が、あの軽やかな声で、深い色をたたえた言葉を紡いでいく。
「だが私は、忘れられない。ここを去った瞬間から、キミのことが頭から離れない。届かないと分かっているものに手を伸ばす、だから焦がれる。そう言われるかもしれないね。けれども、やはり違うな。キミと会うたびに知るのは、自分の愚かさだよ。キミの手を隠すグローブを外して、その肌に直接触れて、私の熱を感じてほしいと望んでしまうんだ。キミを知りたい、けれどもそれ以上に、キミに私を刻み付けたいんだ」
何を言われているのか、理解するまでどれほど要しただろう。
――俺は今、サイラスに、とんでもないことを言われているのではなかろうか?
気付いたところで、頭はすぐには正気に戻らない。呆気にとられている俺を、サイラスが追撃する。
「キミに触れればきっと、キミは私を忘れないだろう? 忘れてほしくないんだ。私がそうであるように、キミにも私のことで悩み、苦しんで、喜びを感じてほしい。なんて卑しいのだろうね。こんな心が単なる恋心とは、到底言えない。……私は、神に赦してもらえなくとも良いんだ。ただキミだけが、私の心を赦してくれるならば、それだけで――」
サイラスのあの指が、格子窓に触れた。俺が手を伸ばせば、指先が触れ合うその距離で。
だがそうしてしまえば、俺はこんな程度じゃ済まなくなって、きっと今すぐ扉を開けて、『そっち側』へ行ってしまう。神官でも何でもない、地に落ちたひとりの人間になって、あんたを求めてしまう。そうなれば、もう終わりだ。
「……駄目だ、俺は……」
声を絞り出す。
「俺は、あんたには――」
一言、一言口にするたび、世界が狭まっていく。サイラスの姿は、視界の外へ追いやられてしまった。だが見なくとも、手に取るように分かる。きっとあんた、今、泣きそうな顔をしているんだろう。あの澄んだ空の向こうみたいな綺麗な目を、きゅっと細めて。
ああ、あんたも相当な馬鹿だな。俺はとっくに、あんたと同じ心を持っているのに。
眠れない夜なんてざらにあった。あんたのことばかり考えて、だ。あんたは俺にないものを何でも持っている。だからこそ遠くて、欲しい。
何も持たない俺のような人間を求める稀なやつを、どうして忘れることができるというのだろう。世の中に、あんたのような物好きが他にいるか。いるとすれば、オフィーリアくらいだ。
俺にはオフィーリアしかいなかった。オフィーリアだけが家族で、俺自身で、過去の自分を慰める唯一の人間だった。
だけどそんなことなんて構わずに、あんたはいつでも俺の中に踏み入ってくる。ずかずか入ってきて、俺を守る壁をすり抜けてきて、ともに未来を見ようと言う。過去なんて無関係で、あんたの目はいつも道の先を見据えている。
けれども。
どうしたって、自分の鏡を捨て置くことなど出来ない。それは今までの俺を捨てることと同じなのだ。過去の自分。苦しみにまみれた自分。オフィーリアと出会い、割れた破片同士がぴたりと合わさるように、あいつのかたわらにいた自分。
それをまた、自らの手で割ってしまえと言うのだろうか。
「……あんたのところへは、行けない」
「テリオン君、何故なんだい」
「言ったところで分からない。分かってほしくない……これ以上、俺を分かろうとするな」
頼む。
そう縋ると、サイラスは静かに部屋を出て行った。ただ一言、「すまなかった」とだけ言って。
どうかあんたに、聖火のお導きがありますように。
祈ることしか、俺にはできなかった。信じてもいない神に祈って、何になるというのだろう。
それから間もなくのことだ。告解部屋にノックの音が響く。小さな、遠慮がちな音。今日の告解はすべて終わったはずだった。
「……テリオンさん、いらっしゃいますか?」
声の主に少々驚く。オフィーリアだ。きい、と蝶番が鳴って、ゆっくりと部屋へ入ってくる。不安げな顔を隠すように、その金髪が揺れた。
「……どうした」
「あの、なかなか戻られなかったので、心配になって」
「違う。……どうしてそっち側に入った。そっちは、罪を告白する方だろう」
さっきまでサイラスがいた場所へ、今度はオフィーリアがいたのだ。自分が座る神官側の扉ではなく、何故告白側にいるのだろうか。
しかしオフィーリアは「これで良いのです」と、苦笑交じりに言った。
「テリオンさん。少しだけ、私に時間をくださいね」
どういうことだ、と問う前に、オフィーリアが向こう側へ腰掛けて、口を開いた。
私がテリオンさんと初めて会った日から、もう十年以上経ちました。私を家族として認めてくれたこと、本当に嬉しくて、私はいつもテリオンさんのことを自慢しているのを知っているでしょうか。同僚からもういいと言われるくらいです。あなたのことを話していると、あの無愛想な人が、と驚かれます。どこが無愛想なのでしょうね。こんなにも感情豊かな方なのに。
いつだったか、私がテリオンさんと二人で出掛けたことがあったでしょう? たしか、教会の行事に必要な神具が足りなくて。女一人では多分重いだろうからと、テリオンさんがついてきてくれたんですよね。あの日、街を歩いていた時、私が言いがかりをつけられたことを覚えていますか。神官は何もしなくても金が貰えて楽だな、とか言われた気がします。それだけで済めば良かったのですが、手を上げられそうになったんですよね。それを、あなたはすぐに庇ってくれました。相手の人の手を掴んで、すぐに追い返してくれて。ああ、私はひとりではないのだと、あなたがいるのだと思えたのです。
でもそのあと、逆上したその人が教会まで乗り込んできて。市民に手を上げるのは何事だ、なんて、自分のことを棚に上げたことを言ってきて。あなたは反省のためにと、一晩独房へ入れられてしまって、私は檻の前で泣きました。自分が女だから、自分が弱いから、あなたをこんな目に遭わせたのだと思いました。
けれどもテリオンさん、あなたは言ってくれましたね。家族を守るためにやったことだ、悪いとは微塵も思っていない、どうってことない、って。独房にいるのに胸を張って言うものだから、何だかおかしくて、嬉しくて……私達は、家族なんだと。それでまた泣いてしまって。結局二人、一晩中喋っていて、気が付いたら朝になっていましたね。あとで司教様に怒られてしまいました。
そんなあなたが、最近ふと、困ったように溜息をついているのが気になっているのです。あなたを悩ませているのは、何なのでしょう。それは私が力になれることなのでしょうか。
それともそれは、私の思い違いでなければ、……あの、サイラスさんのことなのでしょうか。ここ半年ほど、ずっと、告解のお相手をされていたから。
思うのです。もしかしたらサイラスさんは、テリオンさんをここから連れ出したいんじゃないか、って。
もしそうであるなら、……私から、テリオンさんを奪わないでほしいと思うのです。たった一人の兄なのです。
これは強欲なのでしょうか。きっとそうなのでしょうね。神様、私は欲深い人間です――。
オフィーリアの独白を、ただ聞いていた。しかし声が震え始めたことに気付いて、はっと顔を上げると、手を合わせ、肩を僅かに揺らして、神に祈りを捧げる女がいた。
「聖火神エルフリックよ、どうか私をお赦し下さい、私をお赦し下さい――」
どうしてあんたが許しを乞うのだ。まるで聖書を読み上げるかのような柔らかい声で、自分は罪人だと主張するのだ。そんなことをしなくても、俺は。
俺はどこにも行かない。ここで一生を終える。あんたの家族として、ずっと。
何故、すぐに答えられないのだろう。
「……ごめんなさい。もうすぐ食事の時間ですね、行きましょう」
告解部屋から出ていくオフィーリアに、どんな言葉をかければ良かったのか。何が正解で、何が不正解なのか。
神様、あんたなら分かってるのか。なあ。
返事はどこからもない。ただ、きんきんと、無音が響くばかりだ。
[newpage]
サイラスの連続訪問記録は二十回で打ち止めとなった。
それを皮切りに、俺の日常は聖火騎士団への入団試験へ向けて加速していった。停滞していた川の流れが堰を切って溢れるように、あるいは景色が一瞬のまばたきの間に消えゆくように、あっという間に過ぎ去る。告解部屋の担当から外すよう上へ依頼し、鍛錬に当てる時間を増やした。多忙に次ぐ多忙。慣れない勉学に頭痛を覚えながら、教会内の図書を漁る日々。合間を縫うようにオフィーリアと会い、茶のもてなしを受ける。オフィーリアが修道院へ入ってから、教会以外で会う機会がないので、それだけは死守した。
というのは建前であって、互いの調子を確認するように会話し、ああまだ自分はまともである、と安堵するのだ。オフィーリアと会う時はいつも、あいつではなく、自分の複製と会っている気分でいた。まるで調律のように。狂いそうな自分を軌道修正するための儀式。それがなくなったら、俺はとうとう狂人になってしまうだろう。
忙しない日々が続くなか、試験内容に関する本を確認していた時のことだった。入団試験の準備に必要な本が一冊足りないことに気付いた。その本の内容は出題範囲外だが、ないとなかなか困るので、仕方なく街の書店へ足を運ぶ。自分の住居を除いては、じっくりと街並みに目を向ける機会は少なくなっていたから、久しぶりに見る街の風景を雪とともに味わった。時折投げかけられる「神官様」という言葉に薄ら寒いものを感じるのには、気付かない振りをした。
書店の門をくぐる。いくつかランプが灯されていても、壁一面が本でずらりと埋め尽くされているからか、昼間でも店全体がぼんやりと暗かった。だがその題目は魔術書から始まり、歴史、料理、日曜大工の本までなんでもござれ。さすが聖火教会のお膝元、宗教にまつわる本の品揃えは他の追随を許さない。
そういえば以前、サイラスがべた褒めしていたか。
フレイムグレースの書店は素晴らしい。まるごと買い取りたいくらいだ。でも全財産を投げ打つことになるので私は生きてゆけないから、もしそうなったらキミが私を養ってくれないか?
くだらない話だったから一蹴したのだ。大体俺よりあいつのほうが良い給料なのは明白であるのに、そんな冗談を言うから、馬鹿にしているのかと罵った。
頭の中であいつの声が再生される。暫く耳にしていないせいで、やたらと甘ったるくなった響きが、俺を感傷の泥沼へと引っ張ろうとする。
ひとつ首を振って、その手を振りほどいた。
書店の店主へ本について訊ねる。すると唸り声と謝罪を返される。なんと在庫がないとのこと。ストーンガードで製本されているのだが、次回いつ納品されるか分からないらしい。
在庫がありそうな店は、と店主に問うと、あまり聞きたくなかった街の名前が耳を打った。
アトラスダムにありますよ。馬車ならそれほど時間をかけずに行けますので、よろしければ足を運ばれては?
アトラスダムの記憶は薄い。かなり前、まだ教会で保護される前に立ち寄ったことがあったか、それくらいだ。つまり俺はこの街で、いくつか品物をいただいたことがある。
人で賑わう街並みは活気に溢れ、フレイムグレースとは違う騒々しさが若干息苦しい。非番を利用してやってきたものの(そもそも神官服は目立ちすぎる)、一歩足を踏み入れた瞬間、あいつに似た雰囲気がそこらじゅうに感じられて、今すぐ帰りたくなった。と言っても次の馬車は五時間後だ。日が高いうちにさっさと用事を済ませて外の街道でもぶらつけば、この押し潰されたような気分も今日の天気のように少しは晴れるだろうか。
書店を目指す。人懐っこい人物を装って(こういう演技だけは得意だった)適当に道を尋ねると、街の奴らは事細かに教えてくれた。学者さんがよく出入りしてるから、お目当てのものは絶対にあるはずだよ。そんな情報まで手に入れてしまったので、肩に重石が乗ったように身体が鈍くなる。万が一、を考えると、足取りも否応なしに重くなるというものだ。
幸い、店へはすぐに到着した。壮観、というのだろうか。でかい本棚がいくつも並んだ店内には、日中だというのに見覚えのあるローブを着た輩が何人かいて、それだけで反射的に足が地面にくっついてしまう。店の人間に声をかけられるまで入り口でそうしていたから、ただでさえ学者の身なりでもない俺は、さぞ不審に映ったことだろう。
学者はもっと引きこもってばかりだと思っていたが、意外と活動的らしい。だが早く終わらせるが吉に違いない。
「この店にこういった本はあるか」
店主らしき人物へ題目を告げると、短い返事とともに書棚の位置を教えられる。奥から二つ目の、上から五段目の棚の、左から三つ目の仕切りにある、右から十二冊目。即答だった。フレイムグレースの三倍以上はある本棚の中から探し当てるのは至難の業であろうに、店主の頭の中には本の地図が全てが詰まっているのかと思うと、この街はサイラスみたいな奴ばかりが住んでいるのだろうか。想像して、眩暈を覚えた。この街は俺の頭では到底理解できない奴らの巣窟だ。
土地の違いなのか建物の設計なのか、本棚が壁のように並んでいても思ったより明るい。本の題目も、目を凝らさなくとも読める。言われた場所へ歩みを進めると、整列した兵隊みたいな背表紙の中に、すぐさま件の本を見つけた。店主の言った場所に確かにあった。これで自分の用は済んだ、あとは金を支払って終わり。
だというのに、唐突に耳に入ってきた話し声に、指先が凍りつく。
――聞いたか。オルブライトの論文、また王立学院の記念講演に推薦されたらしいぞ。
――やはりか。あいつには敵わんな。天才は神に選ばれたからこそ天才なのかね。
――だがあの頭脳のおかげで、……の研究は五十年は進んだ。その功績は俺達では決して……。
逃げ帰るとはこういうことを言うのだろう。投げ捨てるように代金を支払って、店を出る。時折人にぶつかりながら、街を出て、街道を走り抜けた。馬車の何倍かかるか分からない、夜中に着くことになるかもしれない、それでも一秒も速くこの街から立ち去りフレイムグレースへ戻りたかった。
サイラス。サイラス。サイラス!
俺とは違う陽の当たる場所の人間。俺の遥か前を歩く人間。
俺とあんたは違いすぎる。俺達の間にたたずむ空白が、俺をどこまでも遠くへ追いやる。
それが思い違いであれば。けれども確かめるには、俺はとことん臆病者なのだ。
翌日、睡眠不足の頭で教会へ顔を出した時、どことなく周囲の視線が痛いことには気が付いた。慣れたものであったからそのまま受け流していたが、どうやら今度は性質が異なるらしい。それに気付かされたのは、日が沈もうとしている時刻だった。
「おかえりなさい、テリオンさん」
夕刻の挨拶にしては妙であるが、オフィーリアには出かけると言ってあったので、そのことを踏まえてなのだろう。ただ、奇妙な挨拶よりも先に、オフィーリアの表情が曇っていたことのほうが気にかかった。
「何かあったのか」
訊ねると、いつもは深い飴色を思わせる瞳が揺らいでいた。
「……実はこの間、教会へ投書があったのですが、それが教会内で少し……」
ここ暫く一人で過ごす時間が多かったので、投書が話題になっていることについてはまったく知らなかった。
教会は一般の信者に向けて、様々な制度を提供しているが、そのなかに投書箱がある。教会を訪れる誰もが利用できるものだ。
真面目な嘆願書めいたものが多いが、中には教会に対する中傷も含まれている。しかしよくあることで、話題になることは少ない。
「目立つ色の紙だったので、担当の神官が気になってすぐに読んだそうです。そしたら」
言い淀むので「どうした」と促した。
「……テリオンさんが、破戒している、と……」
なるほどそうきたか、と合点がいった。
つまり、俺が戒律を破って悪さをしている。そう、誰かが告げ口をしたということだ。身に覚えがないわけではない。以前にオフィーリアを殴ろうとした男のように、逆恨みをする人間はどこにでもいるものだ。特に俺のような、すぐ態度に出すような人間が神官をしていれば、恰好の的であろう。
あとは――サイラスのことか。同性が同性に好意を寄せるのは、宗教上、大罪だったはずだ。どこかで悪い噂が立ったか。
ついに神様とやらに裁かれる時が来たらしい。
「詳しくは書かれていなかったようですが、明日、司教様が審問する、と聞いています。ですから今晩、独房で過ごすように、と伝言を承りました」
逃亡防止のためであろうことはすぐに理解した。時折、酒に溺れた神官や姦淫を犯した職員が、罰から逃げ出さないように入らされていたのは知っている。オフィーリアに言付けを頼んだのも、大方、こいつが言うならば俺が大人しく言うことを聞くであろうと考えたのだろう。
「分かった。……そんなことをあんたに言わせるとは、悪かったな」
「テリオンさん、あなたは本当は……」
言葉の続きを聞きたくなくて立ち去る。その続きを聞けばきっと、正面から立ち向かわなくてはならなくなる気がしていた。あの時相対したみたいに、再びオフィーリアと。そして、俺自身と。
夜のフレイムグレースは一層冷える。毛布と火鉢があるといえど、檻のせいで暖かい空気は逃げて一向に部屋の温度は上がらないし、そもそも神官服のケープが薄いのが悪い。コートを持ち込めば良かった。
はあ。吐いた息は、ランプひとつしかない暗がりの室内でも、すぐに白く濁ったのが分かった。
明日審問を受けて、俺が何も認めなかったらどうなるのだろう。その時は認めるまで責め続けられるのだろうか。それもいいかもしれない。
この感情と戦うのもそろそろ疲れてきた。
思い通りにならないのは慣れている。自分に陽が当たらないのも。だが、誰かに求められて、それに応えられないのは、苦くて痛い。世界の中で、何も持っていない自分が殊更はっきり浮かび上がって、ただ時間だけが過ぎていく無情さが、俺を押しつぶそうとする。何も残せずに、無意味に、淡々と生きていくだけが俺の生き方なのだと、紙に書かれて貼り付けられたような感覚。
これが神が与えたもうた罰かもしれない。
サイラスは多分、俺を本当に好いてくれていたのだろう。
だがそれも今夜までだ。明日の審問が終われば、俺が罪を認めようと認めまいと、別の任地に飛ばされる。もっとも、運が悪ければ破門。
聖火騎士団の試験準備もすべて水の泡か。
ここに戻ってこられるのはいつのことになるやら。いや、戻ってこられないかもしれない。
――その方がありがたい。あいつのことを考えなくて済む。
今度は砂漠の中の教会へ派遣されるかもしれない。そう思うと見飽きた風景も手放しがたいものに感じて、昔オフィーリアにせがまれて作った雪うさぎだとか、祈りを捧げ続けた大聖堂の静けさとかが、どうしてか頭の中に浮かんでくる。
目を瞑った。真っ暗になった視界に、フレイムグレースの雪景色が映し出される。どこまでも続く白地に、ところどころ炎の橙色が滲んで、教会へ向かう人々を見送る。そこに立っているはずのオフィーリアと俺の姿だけが、雪の中にぼやけてよく分からない。これはいつの記憶だろうか。
俺がいなくなったら、オフィーリアはどうなるのだろう。どこまでも相手を信じるやつだから、この閉ざされた世界で騙されずに、うまく立ち回れるのか心許無い。
いや、違う。
誰もを信じられるのが、あいつの武器なのだ。あいつは本当は強くて、俺がいなくとも生きていける。
誰かがいないと生きていけなくなったのは、俺のほうだ。
オフィーリア。サイラス。あいつらに会うことがなければ、きっと今でも、一人で。
思考の中に潜む影にのまれる寸前、突如、鐘が鳴り響いた。
大聖堂の鐘ではない。かんかんかん、と甲高くけたたましいこの音は、火事の時に鳴らされる音だ。
次いで、街のざわめき。独房の壁にある通気口から、微かではあるが、森のほうで火事だ、とか何とか聞こえてくる。雪の降りしきるこの街で火事とは珍しい。
「――テリオンさん!」
「……オフィーリア……!?」
通気口を覗こうとしていた時、予想外の人物の声がして、思わず踏み台にしたベッドから足を踏み外すところだった。
「なんであんたが……!」
「しっ、静かに……見張りの神官は今、火の様子を見に行っているはずです。少し離れていて下さいね……!」
オフィーリアが杖を構える。それは神官の奇跡の技とは違うもので。
「……雷よ!」
瞬間、薄暗い独房にばりばりと稲光が走った。檻の入り口に取り付けられた錠前が、ぶすぶすと黒い煙を上げながら、床へ落ちる。
雷魔法だ。いつの間に、そんな技を。
「ふふ、驚きましたか? 実は以前、サイラスさんにお願いして、少しだけ手ほどきを受けたんですよ」
「あいつに?」
「はい。私ひとりでも、自分の身を守れるようになりたくて」
短剣の扱いは不得手ですから。そう苦笑しながら、オフィーリアが檻の扉を開ける。
「テリオンさんに、謝らなければいけないことがあります。……実は、投書の件は、私が行ったのです。テリオンさんに、独房へ入っていただくために」
いわゆる自作自演ですね。そう白状する姿を目の前にしても、どうしたことか、何も反論できない。
昔から、オフィーリアが無茶苦茶なことをする時には、常に理由があることを知っている。
「フレイムグレースから、聖火教会から離れるには、それしかないと思ったのです……本当に、本当にごめんなさい」
頭を下げるオフィーリアに、どうして、だとか問い詰めたいことは山ほどあったが、それよりも早く「さあ、走りますよ」と手を引かれる。
「おい! もしかしてあの火事も……!?」
「はい、私です。生木をいくつか束ねて燃やしただけですが、思っていたより騒ぎになってしまいましたね……あ、燃え移らない場所で燃やしましたよ!」
「こんなことをして、あんたもただじゃ済まないぞ! 破門になっても良いのか!」
「懺悔なら、あとでいくらでもします。罰は受けます。でも、家族を守るためですから、悪いなんて思っていないですけれど」
聞き覚えのある台詞を返されて、こんな状況なのに、走りながら少し笑った。
独房のある塔から大聖堂の裏を抜け、街はずれへと走る。遠くに煙が立ち上っているのが見えた。念のため二人ともフードを深く被ってはいたが、街の中心はボヤ騒ぎでそれどころではないらしく、また神官の姿も珍しくないからだろう、俺達を気にする奴らはいなかった。
進むたびに人の気配がなくなっていく。家々は過ぎ去り、雪と岩と木だけの景色へと変化していく。
まさかオフィーリアが、こんな大胆なことをしでかすとは。俺の知らないうちにサイラスから魔法を学んでいたことも気付かなかった。自分の知らないオフィーリアの時間があるのだと今更ながら思い知らされて、自分がオフィーリアのすべてを知った気でいたことを恥じた。
雪で足を滑らせないよう気を付けながら走り続けて、街の端へ着く頃にはすっかり息も上がっていた。冷たい空気で喉が痛い。
「はあ、はあっ……すみません、急がなければと、思ったので……修道院に気付かれるのも、時間の問題で……っ」
そうだった。こいつのことだから、修道院からこっそり抜け出してきたのだろう。堂々と「今から陽動のために火事を起こしてきます」なんて、言えるはずがない。
「おい、オフィーリア……なんで、俺を逃がしたんだ……」
ぜえはあと息を荒くするオフィーリアに、自分も呼吸を整えながら問う。フードの隙間からでも分かる、色白の頬が赤くなって、神官服に映えた。
「……私は、テリオンさんがいなくなるのは、……嫌です……」
でも、とオフィーリアが続ける。
「テリオンさんが幸せでないほうが、もっと嫌なんです」
神託のような声だった。
「あなたをここに縛り付けていたのが、他でもない私だというのは、分かっていました。それをあなたに強いたのも――でも、もう、私達は、違う道へ進まなければいけないのです。私はずっと、それを避けていたのです」
「何を、」
「私はもう、大丈夫です。今日、明日が大丈夫じゃなくても、いつの日か大丈夫になります」
テリオンさんとお茶ができなくても、お勤めの時に会えなくて寂しくても、あなたが幸福であることのほうが余程大切なんです。あなたがあなたの望む人生を歩む。そうであってほしいのです。
オフィーリアの言葉が、はらはらと、雪に交じって俺に降りそそぐ。
「テリオンさんは、こことは違う、別の場所で生きてゆきたいのではないですか? そこに、あなたの未来があるのではないですか?」
「オフィーリア、俺は……」
「行ってください、さあ」
ずっと握っていた手を離して、その細い指が、とん、と俺の胸を軽く突いた。
なあ、俺は。
俺は、あんたに何かを返せたのか。
あんたに、兄として、何かできたのか。
聞きたかった。答えてほしかった。だが、オフィーリアの泣き顔から目が離せない。
微笑みながら涙を流して、掠れた、しかし竪琴を鳴らすように呟く。
「ねえ、テリオンさん。私達、家族でしたよね。私は、あなたの家族でしたよね」
零れ落ちる涙の美しいこと。粉雪になってきらめき、消えていく光の粒たち。
あんたを泣かせるのは、俺の特権なのか。ならば、そんなに綺麗な涙を見るのが俺だけなんて、勿体ないな、と思う。
そのひとつを、冷たくなったグローブの先で拭った。そのまま、金髪を隠すフードを少し上げる。被っていた雪がさらりと落ちた。
何事かと不思議そうな顔をするオフィーリアを見ながら、そんな風にぼうっとしていると誰かに口付けをされてしまうぞ、と心の中で苦笑する。
その額に、小さくキスを贈る。
「……あんたに、聖火神の祝福があらんことを」
最初で最後の祝福だ。神を信じちゃいない俺からは、効き目がないかもしれないが。
そう言って、雪の中で二人、笑った。それきり口を開かず、互いに背を向け、歩き出す。
さよなら、オフィーリア。さよなら、昔の俺。
さよならだ、すべてのものよ。
走った。疾走した。
どれくらいか分からない。フレイムグレースから南へ、南へと走り続ける。昨日も走った道を、昨日とは比べ物にならないくらい早く走る。足に神官服の裾がまとわりつくので、途中、短剣で破いてやった。
森を抜けて、暗い街道を駆け抜ける。魔物を追い払いながらひたすらに走り続けているうちに、雪がやみ始め、景色が少しずつ変わり、次第に左手に海が見えてきた。東の空には炎の色が真横に伸びている。いまだ群青の水面から潮風が吹き荒んで髪をかき乱すが、そのままにしてただ走り続けた。
足は痛いどころじゃない、喉は乾きっぱなし、時々咽せて苦しい。その上、この先に自分の欲しいものがあるか、確証なんてない。
なのに何故、あの街へ向かっているのか。居心地が悪くて、癪に障る、でもあいつがいる街。
おもむろに、いくつもの白い筋が、海と空の境目を割るように現れて拡がった。
水平線を追い越して、太陽が顔を出す。空が燃える。世界が反転する。
閃光に撃たれて、立ち止まる。眩しくて、目が痛くて、けれど泣きたくなるくらいあたたかい。
夜明けだ。
例えばいまこの瞬間に、俺が死んだとして。
時は止まらずに流れて、夜が明ければ人々は呼吸し、生きて、また夜が来て、月が現れ、また日が昇る。
サイラスはあの街で、いつもどおりの日々を過ごす。俺のことはいつか思い出になって、古びて本棚にしまい込まれる。
俺は誰かに、何かを残すこともなく、霧のように散らばって、薄まって、消えていく。
たったそれだけのことが、どうしてこんなにもさびしいのか。嫌だと叫びたいのか。
その理由を、俺はとうに知っているのだ。
「テリオン!」
ああ、神様聞こえるか。あんたに懺悔し続けた男の声がする。そんなに焦ってどうした、いつもの調子はどこへ行った。
俺はついにおかしくなったのか。走り続けたせいで頭が狂って、幻覚を見るようになったってのか。
――違う。光に満ちた空間の奥、そこから駆け寄ってくるのは、見覚えのあるローブは、確かに。
「な、んで……ここに……」
サイラスだった。
俺の一歩先で止まる。肩で息をしていても、髪を振り乱していても、額の汗を拭う動きひとつとっても様になる、腹が立つ男サイラス・オルブライトだな、と分かる。
「商人から、フレイムグレースで火災があったと聞いて、心配で……! 馬車はないし、走ってきたのだけれど、一体何があったんだい!? その恰好は!? ああ、どこもかしこもぼろぼろじゃないか!」
言われて、自分の姿を確認する。白い神官服は裾のほうから黒く汚れているし、自分で切ったこともあって目も当てられない状態だ。ケープは魔物とやりあった時に裂かれたのか傷だらけだった。まるで脱走兵のような見た目に、いや脱走してきたのだから正しいな、と一人で納得した。
それよりあんた久しく見ていなかったが何してたんだ。元気だったか。会いたかった。悪かった。何から言おうか迷ったが、最初に出てきた言葉は「逃げてきた」だった。けれどもうまく喋ることができなくて、げほげほと情けなく咳き込んだ。
「え? 逃げてきたって?」
よく聞き取れたな、感心だ。唾を飲み込んで咳払いをする。さて今度はうまく話せるだろうか。
「神官ごっこはもうやめだ。おい、アトラスダムへ行くぞ」
どういうことなんだい、とサイラスの置いてけぼりをくらった顔が面白くて、からからの喉で笑った。「テリオン?」さっきから気になっていたが何故呼び捨てなのだろうか、許した覚えはない。
しかしこいつは元から許さなくても勝手にする奴だった。今に始まったことではないのだ。勝手に俺に恋をするし、勝手に告白する。そして、勝手に俺に未来をくれると言う。
だから俺も勝手にしてやる。
まずはご挨拶に飛びついてやろうか。それかキスのひとつでもくれてやろうか。いやそれとも……どれも愉快で、サイラスの驚く顔が浮かんでたまらない。
朝焼けがだんだん白く侵食されていく。光が俺達を飲み込んでいく。サイラスの黒髪がつややかな輪を帯びて、無性に触れたくなって、手を伸ばした。
世界中の神様とやら、もしいるのならばとくと聞くがいい。あんたらの手の届かない世界で喚く人間の声を。さあお待ちかね、大罪人の演説、負け犬の遠吠えが始まるぞ!
(了)畳む