きみとテレパシー
・ひきこもりブルーノと働いてる遊星。
・くっつきません。
#ブル遊 #現代パラレル
誰にだって苦手分野はある。勉強だったり、お金の使い方だったり、はたまた恋愛だったり。ボクの場合、それが大勢の人の前に出ることだった。昔から背が高くて、何だか分からないけれど顔だけは良いほうで、学校ではひっきりなしにスポーツ関係の助っ人を頼まれていた。でもボクはスポーツがそれほど得意なわけでもない。人前で競技する大会なんて以ての外だ。大勢の人の前に出ると心臓が飛び出そうなくらいばくばくして、酸欠に陥って頭がふらついてしまい得点は取れず、パス回しができれば上等なレベル。それでも声を掛けてくる人達は絶えなかった。ありがたい話だ。
しかし同時に、ありがた迷惑という言葉がこの世にある理由がよく分かった。彼らのことがいつしか鬱陶しくなって、ボクは他人と話すことさえ苦手分野になってしまっていた。いやいいよ、ボクはいいんだって断ることがどうして遠慮だと思われるのだろう。
遠くの大学を受験して一人暮らしを始めてからは、それはより顕著に生活に反映されていった。大学は楽だ、授業さえ真面目に受けていれば友人を作る必要もない。授業以外をすべて自室で過ごすことでボクは平穏な生活を手に入れた。誰もボクの邪魔をしないし、干渉されることもない。相手にやたらと気を遣う必要もない。大学を卒業してからはデイトレーダーとして生活費を稼いで、あとはソーシャルゲームに大ハマり。駄目人間かもしれないけれど、これがボクにとっての悠々自適生活なのだ。
『で、誘ってきたそのメンバーがもう話にならねー。もっとレベル上げてから来いよって思ってな。アイテム逃しちまったし、良いことなかったぜ』
「へー、それは災難だったね」
ヘッドフォンから聞こえてくるのはオンライン上の友達であり、今のボクにとって事実上唯一の友達である『カラス』くんの声だ。ゲームの協力プレイ中に向こうから話しかけてきた。それからはゲーム友達兼話し相手としてお世話になっている。
「あ、株価変動」
右側のモニターでグラフが動いた。今が売りか。
『今月もいい感じか?』
「まあ、そこそこね」
『不労所得は最高だな』
笑う『カラス』くんの声には、今も絶え間なくキーボードを打つ音が重なっている。彼も相当のオンラインゲーム中毒者なので今も話しながら何処かのフィールドで戦闘中なのだろう。
ボクはそんな彼の話を聞きながら、机に並べた三つのモニターのうちの左二つを交互に見る。最近の市場傾向は本当に参る。黒い色を背負いながら線が小刻みに揺れ動くさまは、病人に繋がれた心電図を彷彿とさせる。文字通りグラフが下がればボクの生命線であるお金も減少することになるわけだから、あながち間違ってはいない。
グラフの上がり下がりをじっと見ていたら、唐突にぐぅと音がした。
お腹空いたな。そういえば朝から何も食べていない、もう昼過ぎなのに。
冷蔵庫にはすぐ口にできるような食材はなかった気がする。食材はネットで注文するから最速でも、と考えているうちに、またぐぅと鳴った。しかも結構長く。今から頼んでもボクの身体は我慢してくれそうにない……つまり、近所のコンビニに出陣することを意味していた。
「コンビニ行ってくるね」
『おー』
簡単な挨拶だけ告げてヘッドフォンを外す。スマートフォンだけジャケットのポケットに突っ込み、帽子を被れば、ほら視界が少し狭くなった。人の目を見るのも見られるのも苦手なので、外出する時は常に帽子着用だ。
二日ぶりの外は眩しかった。
ここ最近は、コンビニまでの数分間の道のりだけが唯一外気に触れる時間である。必要最低限の時しか出なくなったので日に焼けることもなくなってしまった。運動は室内で適当にトレーニングすれば済むし、生活用品はネットで買えるし、本当に便利な世の中になったものだなあとしみじみ感じた。こういう社会は、一体『ボク』みたいな人間を何人作り出したのだろう。うだうだ思考を巡らせているうちに、はい到着。あっという間の日光浴だ。
コンビニに到着したらまずは雑誌を立ち読みするのがボクのサイクルである。ファッション雑誌を手に取りぱらぱらと捲ると、新作のコートを着たモデルが居た。適当にお洒落するのは嫌いじゃない。この見た目のせいで、妙な服を着ていると逆に周囲からの視線を否応なしに浴びなければならないからだ(以前上下スウェットで外出した時の経験が脳裏に甦った)。それならば流行りと言われている服装をしていれば浮かないし、紛れることが出来る。流行に溶け込むのはボクにとっての没個性法だった。
ファッション雑誌を読んだら次はゲーム雑誌と決めている。ちなみに今日は雑誌の発売日なので必ずチェックしなければならない。新作ゲームの特集はボクにとっての新聞みたいなものなのである。
ラックに整列させられた雑誌を一冊引き抜く。目次には今季一押しのタイトルが並んでいた。あ、これ面白そう――主要記事に目を通してから次のページへ進む。見出しをチェックして、記事をざっと読んで、またページを移動。
その繰り返しに結構な時間を費やしていたに違いない。痛くなってきた首筋を解そうと頭を上げた時、ふわ、と右下に何かを感じた。横目で見ると、そこにはいつの間に来ていたのだろうか? ボクよりかなり背の低い青年が立ち読みしていたのである。存在に全く気付いていなかったボクはびくっと肩を震わせてしまったほどだ。
青年は同じゲーム雑誌を読んでいた。特徴的かつ派手なメッシュが入った髪に、紺色のストライプシャツがやけに似合っていた。視界の端に入ったページはボクも気になっていたゲームの特集記事。
ああ! それボクも好き!
つい声に出しそうになった自分に対して、ぞわわと悪寒が走った。ひどく驚いたからだ。他人と話すこと、しかも見知らぬ相手を目の前にして話すことが苦手になってから何年経つ? にもかかわらず突飛な行動を起こそうとしてしまったのは、共通の趣味持ちという勝手な認識がボクの中に芽生えたからであろうか――この見知らぬ青年とボクの間には何の接点もない、だが趣味が同じ気がするという勝手な憶測。話をしたらきっと楽しいだろうなという勝手な期待が、ボクを引き篭もり生活から脱却させようとしているのか? だって『カラス』くんと初めて話した時も鬱陶しかったけど段々慣れていったし、同じ趣味の持ち主なら上手くいくかもしれないし。そんな仮定が頭の中をぐるぐる回る。
あぁもう考えることが本当に面倒くさい。嫌だ嫌だ面倒なことは嫌なんだってば。泥の中を進んでいるような重苦しい感覚を振り払うように頭を左右に振った。そうこうしているうちに、その見知らぬ青年は雑誌をぱたんと閉じてレジへと向かった。どうやらお買い上げの様子である。彼がレジへ雑誌を置く前、店員の女性がはたと目を瞬かせてにっこり笑った。それを発見した時に、ようやく自分が彼のあとを目で追っていたことに気付いた。
「あら遊星、今日は仕事ないの?」
「あぁ、定休日なんだ」
「そうなのね。じゃあゆっくりゲームできるじゃない」
店員の女性――すごく美人だけれどすごく奇抜な髪色の――は彼をユウセイと呼び、二言三言会話をする。知り合い、なのだろうか。会計を済ませた彼はその店員さんに手を振って店を後にした。横断歩道を渡り、向かいのビルの交差点を曲がったところで、彼の姿は見えなくなった。
ユウセイ。店員さんが呼んでいた彼の名前。どんな文字で記すのだろう。
その後、ボクも雑誌を買ってマンションに戻ったは良いが、肝心のご飯を買うことをすっかり忘れてしまっていた。そのことを『カラス』くんに報告した際、呆れた声で『もっと生に執着しろよな』と言われて、はははと苦笑するしかできなかった。再び株価のモニタリング作業に戻ってからもずっと、あの青年と趣味の話をしてみたいという得体の知れない夢は、どうしてかいつまで経っても消え失せてはくれなかった。
ユウセイ。ユウセイかぁ。
深夜のベッドを霞のように包むのは、大学の講義の微かな記憶。遊星歯車機構の、遊星という漢字の輪郭。学生時代、楽しくはなかったが講義は好きだったっけ。ロボット工学のゼミはいつも夜遅くまで残っていたっけ――眠気に交じって、遊星の文字は夢の入り口へほどけていった。
あの頃に友人がいたら、今頃どんな『ボク』になっていたんだろう。
何? 恋でもしたのか? 白昼夢じゃねえのか? お前にそんなフラグがあったとは思いもよらなかったぜおいおい。若干溜息を織り交ぜながら言う『カラス』くんの声には不本意さが明らかに混合している。恋ってそんな大袈裟な。
「恋じゃないってば。ていうかその人まず男だから」
『いやいやいやいやブルーノ、甘い! 甘過ぎだお前は! もっとよく現実を見ろ、フラグはいつ何処で立てられるか分かんねーからな?』
「そういう『カラス』くんも結構現実見てないよね」
『お前よりは明日の飯の心配はしてるぜ』
昨日、空腹を紛らわせるためインスタントのカフェオレだけで済ませたせいか、今朝は寝起きから胃が少し痛かった。調子の悪い腹をさすりつつ、ビニール袋のまま放置していたゲーム雑誌を出す。表紙には絶賛話題沸騰中の恋愛シュミレーションゲームの女の子がこちらを見上げていた。アイドルなのか学生なのかもう訳が分からないが、何万という世の男性の嫁だ。ま、可愛いよね。
ヘッドフォンからは相変わらず『カラス』くんの声が聞こえてくる。そりゃガキどもを食わせないとやっていけないからな、でもありがてーことに企業案件もいくつかあるしまぁ何とかいけんだろって踏んでるわけよ。ゲーム本業で金稼ぎのできる良い時代になったもんだぜ!
「ほんと兄妹想いだよね」
『もっと褒めていいぜ』
流石です。呟いて、女の子達を眺めてから表紙を捲る。株用のモニターを照明代わりに記事を読み進めて、昨日見た青年のことを思い出す。店員さんとの会話から推測するに、恐らく働いているのだろう。そしてゲーム好き。多分一般的に言うゲーム好きのレベルは軽く超えている。『カラス』くんやボクとは趣味が合いそうだ。あたかも推理小説の犯人を突き止めるみたいに、彼の人物像を勝手に作り上げてみる。覗き見した時に焼き付いた姿に、記憶から捏造した彼の人間性をぺったりと塗り付けた。そこへ凛々しい声をオプションで付ければ、空想上の『ユウセイ』くんの出来上がりだ。あなたが犯人です! ……何のだよ。しかし脳内で捏ね繰り回すだなんて、なんだかボクが変態みたいだな。自分でそう考えて虚しくなった。
情報を整理しているうちにあることに行き当たった。この雑誌は昨日が発売なのだ。ということは、彼は次回の発売日にも買いに来る可能性が高いのではないか? いやいや、まずあのコンビニに来るかどうか分からないじゃないか、とその考察をすぐに打ち消す。しかし彼が徒歩で来ていたことを思い出した。もしや近所に住んでいるのだろうか。だとすれば再会の望みはある。
誰かに興味をそそられる経験は久しくしていない。あの青年はボクの中に強い印象を残していったが、この感情は『カラス』くんの妄言にあったような恋などでは到底なく、求知心にカテゴライズする方が余程しっくりくる。知識をもっと手に入れたいという、人間の単純な行動原理。情報の欠片が幾つか集まると、それらを掻き集め、組み合わせ、一個の塊にしたくなる。
ボクは今、彼の人のピースを一つずつ組み上げている最中なのだ。
これらを結合させるために、もう一度彼を見て、自分の中のイメージを確固たるものへ昇華させたい。まるで図鑑を編纂するかのように。勝手にこんなことを考えているなんてあの青年が知れば、気持ち悪いと蔑まされそうだが。
幾ばくかの逡巡の後、ボクは再来週の発売日に確かめることに決めた。ただ彼をもう一度見たいだけだ。純粋な関心からならば、こんなストーカー染みた行動でも許される、気がする。『カラス』くんが『放置プレイは趣味じゃねーよ』と半分拗ねた声で話し掛けてきて、ようやくボクは彼を無視し始めてから優に三十分を経過したことに気付いた。ごめんなさい。
かくしてその日はやってきた。
雑誌の発売日。晴天。少しばかり雲が泳ぐラムネアイスみたいな色の空。昨日の夜からゲームはしていない。少し脈が速くて気分が落ち着かず、集中できなかったからだ。遠足前の小学生みたいだった。スマホのデジタル時計は午前十時過ぎを示している。日付はもう秋だが暑さは一向に去る気配がない。部屋の中ではエアコンをきかせているが、洗濯物を干すためにベランダへ出るだけでボクのシャツは汗染みを作っていた。
今日はあの『ユウセイ』くんは来るのかな。根拠のない可能性に馬鹿みたいに賭けていることは自分が一番分かっていた。
ボクは午前中からコンビニに引き篭もることにした。光熱費節約のためだと自分に暗示をかけるように反芻しつつ、コンビニへ向かう。この気候では先ほど袖を通したグレーのカットソーはまだまだ役に立ちそうだった。最近は冷房対策に長袖を着るべきか迷う時がある。年かもしれない。鍔付きの帽子の上からはじりじりと太陽が熱線を降らせてくるが、それがボクを溶かす前に店へ到着した。あの赤い髪の女の子が先日と同じようにレジに居た。開いた自動ドアには一瞥もくれず、いらっしゃいませ、と淡々とした口調で挨拶を述べる。
彼女を見ないようにして雑誌コーナーへと足を進めた。雑誌は綺麗に陳列されている。まずはファッション雑誌からといういつものルールは乱さず、ゲーム雑誌の側に並ぶそれを手に取った。秋服特集がくまれているが、記事を読んでも頭には入ってこない――緊張、しているのだろうか。
何だか片思いの先輩を待っている少女のようだ。このボクが? 少女漫画のイメージを自分に投影してみるもまるで一致せず軽く吐き気がしたところで、今日はイヤホンを持ってきたことを思い出す。早速装着してスマホの音楽アプリを操作する。間もなく聞き慣れた歌の演奏が開始されて、ちょっと気分が落ち着いてきた。
ファッション雑誌を閲覧し終わってから、例のごとくゲーム雑誌を手に取る。ページを捲る速度を非常に遅くして、一ページずつじっくりと雑誌を読む。
だが、それを何度繰り返しても『ユウセイ』くんは来なかった。
いつもより何倍もの時間をかけて文字を追っても、流れてくる音楽がもうすぐ十曲目に突入しようとしていても、彼の姿は現れなかった。ボクのずっと右後ろでは、あの赤髪の店員さんがボクのことを変質者かどうか疑っているという疑念さえ抱いてしまう。勿論ボクの勝手な思い込みなのだけれど。
どうしよう、一旦帰ってもう一度来ようかな。そう思っていた時、ボクの目に信じがたい光景が入り込んできた。真正面、コンビニの大きなガラス窓の向こう側に何処かで見たことのある人が居る。あ、と頭の中のデータのある項目にヒットした。それは先程まで読んでいたファッション雑誌の表紙の男性だった。黒塗りのミニバンの運転席から降りてきて、車と同じような黒いジャケットに白のインナーを着こなし、足取り軽やかに自動ドアを潜り抜けてきた。え、なんでモデルさんがこんなところに居るの! ボクのテンションはベクトルを方向転換して一気に急上昇し、その人を凝視する。やばい、すごいよ有名人が今目の前に!
しかし、更に心臓が飛び跳ねたのはその後だった。そのモデルさんがボクの左側へと来たのである。なんということでしょう。ボクの目はすっかりゲーム雑誌から離れて左側へと移った。モデルさんは週刊誌の漫画を一冊引き抜いて読み始めた。肩に掛かるほど伸びた髪がさらさらと揺れる。漫画一つ読む姿ですら格好良いのだから恐ろしい。こういう人は持っているものがたとえ発禁ドエロ本でも素晴らしく格好良く映るに違いない。しかしこんな僥倖には滅多にありつけない。サインとか、欲しいかも。頼んでみようかな。でもちょっと怖いな。ボクの掌はじっとりと汗を掻いていた。他人は苦手だがメディアに露出している人達は『皆の共有物』という感覚が強くて躊躇わずにいられた。いいややってしまえこんな機会もう二度とない! すぐさまイヤホンを外してポケットへと突っ込んだ。自分にちょっと呆れる。
「す、すいま、せん!」
「あ?」
やばい今ちょっと声上擦ってた絶対! 隣のモデルさんはぼけっとボクを見上げている。手元の漫画はまだ途中だ。しかしこんな中途半端な声の掛け方で終わらせてはモデルさんも困ってしまうきっとそうだ最後までやり切れ! なけなしの勇気を振り払い「あのっこの人ですよね!?」とラックから素早く例のファッション雑誌を引き抜いて掲げた。ゲーム雑誌は左脇に挟み込んだ。
「ん? あぁ、そうだけど」
当たってた。
当たってしまった。
これはもういくしかない。
「あ、あの、サインとか頂けたり、」
その瞬間。緊張で乾く喉を必死で震わせるボクの後ろから、予想だにしなかった声が投げ掛けられたのである。
「鬼柳! 済まない待たせた」
「おっ、ゆうせー!」
えっ? えっ? 何?
ゆうせい? ってあの『ユウセイ』さんですか?
風を切るような勢いで背後を振り向くと、そこには先々週のあの青年が立っていた。走ってきたのだろうか、いささか肩が上下しており赤いTシャツが肌に貼り付いているように見受けられる。
ちょ、ちょっと待って。今モデルさんがゆうせいって言ってなかったっけボクの聞き間違いかなそうかな。
「いやいや俺も今来たとこよ。で何だっけ? サイン? 全然構わないぜ!」
「あっえっ、うわっすみませんありがとうございます……!」
モデルさん、即ち鬼柳さんはボクに向き直りにかっと笑った。まぶしい。それからボクが握り締めていたファッション雑誌を取ると、ベルトポーチからペンを取り出して表紙にさらさらとサインを書いてくれた。手馴れている仕草だ。すいませんその本まだ買ってないんですが、と突っ込むべきだろうか。この間、ボクの背後では件の『ユウセイ』くんがじっと待っていることは言うまでもない。「ほらよ。この雑誌読んでくれてんだ? ありがとな」「いえ、ありがとうございます」常に立ち読みですが……とは言えない。
「鬼柳のファンなのか?」
後ろからあのぴんとした声が掛かる。びくぅと思い切り身体を震わせてしまった。
きた。遂にきた。
「らしいぜ。いやーさすが俺って感じ? ファッションリーダー鬼柳京介様は老若男女問わず大人気ですよ」
「ふーん」
「なにその態度、遊星冷たい」
あの、ボクを挟んで前後で会話するのは止めて下さい。硬直した身体ではその一言さえ搾り出せない。というか何ですか貴方達知り合いだったんですか。今目の前で想定外の出来事が繰り広げられている。いつも雑誌のカバーを飾っているモデルの鬼柳京介さんは、ボクがもう一度見てみたかった『ユウセイ』くんの肩をばしばし叩きすっごく楽しそうに話している。それに対して『ユウセイ』くんは辛辣に扱いながらも笑いは絶やさない。ちら、ちら。行き場のない身体でそんな二人を見ていたら『ユウセイ』くんがすっとボクの方を向き小さく笑みを浮かべた口を開いた。
「こんな奴だが、これからも応援してやってくれ」
どうぞよろしくお願いします。彼の全身からそんな声を汲み取って、思わず「勿論です!」と叫んでしまった。すごい響いた。赤髪の店員さんが迷惑そうな目で見てきた。そんなボクに『ユウセイ』くんはふっと笑い、鬼柳さんの背中をぽすぽす叩く。
「ファンが居て良かったな鬼柳」
「はいそうですねえー」
「何拗ねてるんだ。昔からお前を心配してたからこそ俺は嬉しいんだ」
「昔のことは言うなよ……有り得ねぇくらい恥ずかしいから……」
会話の応酬を見て、この二人は浅い付き合いではないことがすぐに分かった。二人が話している時に言葉の端々から零れ落ちる感情が、彼らの仲を全く知らないボクでさえ幸せにしてしまいそうなほど眩しく輝いている。
けれどもボクにはそれが唐突に羨ましく思えた。互いに不躾なほどくだけていて、それでも強固で、且つ煌いている絆の持ち主達が。自分の足元には羨望と嫉妬が交じり合う渦が広がっていた。
だって、ボクにはこんなもの、今まで手に入れたことはないから。
「んじゃ行くかなー」
「そうだな」
「あっ、ちょ、」
ちょっと待って!?
ぐい。がっくん。去り行く『ユウセイ』くんの左腕を、ボクは反射的に引っ張っていた。
「うっ」
細い腕だった。勢いで彼の身体が二三歩後退する。ばさっとけたたましい音を立てて、ボクの左脇に挟まれていたゲーム雑誌が落下した。右で鬼柳さんがはたと目を瞬かせている。
どうしたんだ一体、と驚いた表情で振り向く『ユウセイ』くんの体躯は、間近で見ると余計に小さく思える。彼の大きな瞳がボクを捉えた。それは磨き上げた鉱石のような光を有していた。誰をも引き寄せてしまうような無限の引力を潜めている目だ。
限られた視界で、強く、ばちりと視線がかち合う。胸が圧迫されるように苦しく、その奥がどくどくやかましい。
緊張、する。
すぐに目を逸らす。彼の首元に視線をずらしてから、身体を弛緩させるために、は、と一息吐き出した。その後を、教科書の例文をなぞるかのような声が付いてきた。
「ボクに友達の作り方を教えて下さい」
とっさのひとこと。あ、昔そんな教育番組があったなあと、頭の片隅で思い出した。
コンビニの前で彼らと別れて、ボクはマンションへの帰路へと着いた。しかし足が数歩進んだところで、堪らずしゃがみこんで頭を抱えた。恥ずかしさが脳天から爪先まで満タンに溜まっている。耳と目頭がぐぅと熱い。挙句の果てにはそれは涙となって瞼の裏にじわぁと広がってきた。往来にあまり人が居ないことが救いだった。
『ユウセイ』くんはやはり『遊星』くんだった。彼は急に妙なことを言い出したボクに戸惑いながらも、これは何かあると思ったのだろう、「悩んでいるなら死ぬ前に誰かに相談した方がいいぞ」と、ちょっとこっちも反応に困る言葉をくれた。仮に誰かに弁解するのであれば、ボクは決して自殺願望など持っていないと声高々に主張しよう。
「自分でよければ相談に乗るぞ」
おもむろに、遊星くんはジーンズのポケットから財布を取り出した。彼の指が何かを探すのを、ボクはぼうっと眺めていた。指、きれいな動きだなあ。「何かあれば」短い言葉を添えて差し出されたのは名刺だった。名刺を持っていることに少し驚いた、ボクよりも年下のような気がするから。立派なひとなのだな。腹のほうが、じくじくした。
ボクの予想では、彼はきっとボクの言葉に対する義務感からボクを誘ったに違いない。現代社会において見ず知らずの人間を自分のテリトリーに招き入れるということは、自身の守備に相当の自信があるか、あるいは敢えて侵略の危険性を考慮していない、つまり無防備かどちらかに分けられると思う。彼の職業や行動から考察するに前者だろう。彼は彼を必要とする人間に対して常日頃取っている行動を遂行しただけのことだ――彼にとって、これは特別なことではないのだ。
名刺に書かれていた住所は、そことコンビニとボクのマンションとを結んだ時にちょうど直角三角形が成立するような位置で、並べて家電修理屋さんの社名も書かれていた。これで遊星くんに対する新たな情報が手に入ったことになる。彼はこの修理屋さんのエンジニアで、ボクのマンションの結構近くに住んでいて、他人のことをおいそれと放っておけない性格のようである。そして有名人の友達持ちで、待ち合わせ時間に遅れることを嫌うタイプということも、走って現れた彼の姿から想像できた。
しかし、友達の作り方を教えてだなんて、よくもまあそんな小学生みたいな台詞が出てきたものだと自分を貶したくなった。口に出した時の遊星くんの顔が脳裏に焼きついている。困惑した表情の中に、何処か懐かしいものを見る視線が混じっていた。鬼柳さんはというと何故か苦笑して「なんかデジャヴ」と呟いていた(何かあったんだろうか?)。
修理屋さんで働いているんだし、遊星くんは人助けが得意なのかもしれない。カスタマーサポートとか向いてそうだ。
助けてほしい、わけじゃないけれど。助けてくれる人がいたらな、とは思う。
主人公がピンチに陥った時、必ず現れて助けてくれる人間。小説でも漫画でもアニメでも、九分九厘それらは主人公の友人だ。そんな場面を見る度に、ボクの心にはいつも嘲笑が顔を出した。助けてくれるのか、友達なら。何故? 利害関係の一致? そんな風にしか考えられなくなって、今年で何年経つのだろう。ボクには友達がどんな存在なのかまともに感じたことが無いがために、遊星くんの人間性を覗くことで疑似体験してみたいのかもしれない。綺麗に作り上げられた関係図に自分を重ねてみたいのかもしれない。まるで、ごっこ遊びのように。
モニターが壊れてしまった。と、無理矢理理由をこじつけることで、ボクは遊星くんのお店へと足を運ぶ口実を得た。株価用モニターの調子は以前から悪かったのだが、かと言ってまだ修理するほどでもない。けれども折角貰った名刺が所在なさげに卓上に放っておかれているのを見る度に、まるでボクがその名の主自体を放っておいているかのように思えて、見兼ねてモニターの小さな不調を出掛ける理由に仕立て上げたのだった。
あれから数日経って、カレンダーは既に一枚破り捨てられていた。真新しい日付の羅列表は相変わらずまっさらだった。予定を書き込むこともなければ書き込まれることもない。時間の刻みだけをただ述べるそれに、何ともなしに一抹の寂しさを感じた。これはただ役割を果たしているだけなのに。
秋風が部屋を通り抜ける前に扉を閉める。箱詰めされたモニターを側に退けてから戸締りをした。最近では風の向きも強さもかなり変わって、被っているキャップがずれそうなほどだ。蒸し風呂のようなじめじめとした湿気も風が連れて行ってくれた気がする。マンションのエレベーターの中もそれほど暑さを感じなくなった。白い長袖の襟シャツに水平に描かれた黒の太いボーダーは、エレベーター内のガラスに鮮やかに映った。
路上に時折立ち込めている排気ガスを避けながら、ボクは名刺が示す場所へと向かう。左手に提げたモニターの重さはそれ程感じなかった。それよりも久しく行っていなかった行動、誰かに会いに行くというそれに対して、膝から下が重かった。自分から遊星くんに言葉を掛けておいてなんという様だろうか。全く失礼極まりないなあと嘆息する。だが、しかしだ。他人の好意に対して、たとえそれが偽善の類であっても、どう返せば上手くいくかどうかという問題に未だ明確な答えを出せてはいないのである。
以前はコンビニの窓から見ていた景色を、今日は実際に歩く。ビルに挟まれた交差点を曲がってから暫く進むと、その先に小ぢんまりとした工房があった。角張った建物は二階建てで、見慣れたコンビニとよく似た大きさだ。包丁で綺麗に切り分けられたケーキみたいに角が鋭い。道に面した壁の右端に扉が一つあって、それ以外は一般的な大きさと言える窓が各階に三つずつ設置されている。
ドアノブに手をかけると、喉がぐっと苦しくなった。緊張のせいだ。この向こうには沢山の人が居て働いているんだろう。だがここまで来て帰るというわけにはいかない。胸ポケットに突っ込まれたあの名刺が、今度こそ存在意義を無くしてしまう気がしたから。
開けろ。
ドアノブを持って扉を引いた。けれどもその奥には、ボクの予想に反して誰も居なかった。虚を衝かれたようにボクの目が瞬きを繰り返す。出掛かっていた挨拶は飲み込まれてしまった。銀行のようなカウンター机の向こう側には縦に等間隔に並べられた机が三つあり、その横に扉と同じ大きさで刳り貫かれた壁があった。その奥は小部屋にでも繋がっているのだろうか。カウンターにはチラシが数枚広げられていて、確かに人が居た気配があるのだけれど、その姿は見えない。フロアの左端には階段があり、二階へと続いているようだ。
静かだった。
仕方なく観葉植物の置かれた横に設置されてある椅子に腰掛ける。本日は定休日ではないはずだ、入口には『OPEN』としっかり書かれた札が掛かっていたのだから。モニターの入った箱を傍らに置いて、ボクはどうすべきか考える。意気込んでいたものが一気に消沈したような消化不良のような心地だ。ううんと唸っていると、突然、奥のほうからがたんがたんという音がした。と、その次には、まばゆい金髪をした背の高い男性が薄緑色のつなぎ姿で現れたので、ボクの身体はしばし凍り付く。
「ん? 何だ貴様は」
つかつかとカウンターに近付いて、ぎろ、とボクをねめる目が怖い。あの、ボク、一応お客さんなんですけど。詰問されているかのような空気を何とか打ち破り(心の中で)、椅子から立ち上がって彼の前へと進んだ。カウンター越しに向かい合う男性二人は、決して喧嘩しているわけではない。
「え、えっと、あの、こちらに、不動遊星さんがいらっしゃると」
「何? 遊星だと?」
「え、と、はい」
「なんだ、遊星の客か紛らわしい……ついてこい。案内してやる」
「え?」
ていうかボク、何か紛らわしいことしました? ボクのことは何も気にせず、男の人はカウンターを飛び越えてボクの前に降り立った。軽やかな動きだった。こうして並ぶとボクの方が背が高いことに気付く。ふんと鼻息を一つ噴出して、その人はフロア端の階段へ向かう。慌ててボクもモニターを持ってついていく。かつかつと鉄製の階段を鳴らす足音が、遊星くんと会うまでのタイムリミットを刻む針の音に聞こえた。
十段少々の階段を上りきる。二階はカーテンで真ん中を間仕切りされただけのフロアだった。まるで病室や保健室のようにカーテンレールが天井に付いていて、そこから白いカーテンが垂れ下がっている。仕切られた右側には大きな液晶テレビが壁に設置されていて、向かい合わせに二人掛けのソファが置かれていた。
「あ」
「――ここで、こう……よし……」
遊星くんはそこに胡坐を掻き、手にはゲーム機のコントローラーを握り締めていた。ずだだだだだとボタンを連打する音が、数メートル離れたボクの耳にも聞こえてくる。一心不乱にテレビ画面を見詰めている姿からは何やら執念のようなものすら感じた。この子、相当やり込んでるな――。
「おい遊星!」
返事はない。
「おい!」
「……なんだジャック、俺は今忙しい。カービィが大変なんだ」
「馬鹿者! 客だ!」
「……客?」
じろりとジャックと呼ばれた目の前の男の人を睨んでから、遊星くんはボクをその視界に拾い上げた。瞳が柔らかくなり「あの時の」と口元を綻ばせた。それからゲームをポーズ画面にしてから立ち上がり、ボクの方へと歩み寄ってきた。スニーカーにつなぎという身形はジャックという人と変わらない。このスタイルがここの正装なのだろう。
「済まない、今日はもう客は来ないと思っていたから」
「い、いや、ボクの方こそ、急にごめん……」
「気にしないでくれ。……ええと、」
そういえば自己紹介をしていなかったことを思い出す。この間は名刺を貰っただけで終わってしまったので。
「あ、えっと、ボクはブルーノっていいます」
「ブルーノ」
改めてよろしく頼む、と遊星くんは右手を差し出す。礼儀正しいなあと思う反面、先程ゲームに熱中していた姿が自分と被った。これは社会人特有スキルである社交辞令の一つなのだろうか。
「それは修理品か?」
それ、と指差されたものはボクの左手にぶら下がっているモニターだ。あぁ、と答えて手渡す。彼は受け取った後、「後で見るから、取り敢えず座ろう」と、カーテンで仕切られた片方のスペースへと案内してくれた。そこには大きな作業机や大画面付きのパソコンと共に、シンプルな木製の椅子と机のセット、それに冷蔵庫一つがあった。四脚あるうちの一つに着席を促され腰を下ろす。遊星くんは作業机の上に散らばった工具を手でざっと除け、そこにモニターの箱を置いた。あのジャックという人はボクらのスペースを区切るカーテンの向こうで遊星くんに頼まれてゲームの続きをさせられている。……この会社は本当に営業しているのだろうか。
遊星くんは冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して机に二つ並べた。ボクにくれるということらしい、一つは早速開封されて遊星くんの口へと運ばれた。少し日に焼けた指がプルタブを開ける仕草は、ボクのような人間に比べてひどく健康的に見えた。いや実際、健康的な青年だ、彼は。恐らく、だけれど。一口飲んだ後遊星くんはボクの向かいに腰掛けて、ふ、と口を開いた。
「……取り敢えず、死んでいなくて良かった」
いやいやいやいやいや誤解です!
「ちっ違うんだよ遊星くん! ボクは断じて自殺したいわけじゃないんだ!」
「何? そうなのか?」
知り合いが昔そんな感じだったからてっきりそうだとばかり……と、遊星くんはまじまじボクの顔を見た。眺められるのは慣れていない。ボクは目を合わせないようにさっと視線を逸らした。しかしその知り合いとは誰だろう。少し気になる。そんなにも自殺願望があったのだろうか。
「呼び捨てで構わない」
「え?」
「俺の名前だ。周りの人間は皆呼び捨てで呼ぶから、何だか慣れないんだ」
俺も癖で呼び捨てで呼んでしまうから。そう言って彼はもう一口コーヒーを飲んだ。遊星くん、という呼び方は聞き慣れないらしかった。こそばゆいと訴えるように首を左右に軽く傾けた。
「じゃあ、あ、あの……ゆ、遊星……」
反応して、遊星が笑う。微笑を携えた彼の表情を見て、むず痒いような小さな刺激がボクの中に走った。彼の友人達は、こんな風に名前を呼んで、こんな風に語り合うのだろうか。そしてボクは今、同じことを出来ている?
彼の友人と自分とを同列に考えるだなんて全く分不相応だ。自分が考えたことに嫌気が差して、机に突っ立っていた缶コーヒーを手に取る。冷えた金属は少し汗を掻いていた。
「ところでブルーノ、俺に友人の作り方を教えてくれと言っていたが」
がつっと、ボクの指がプルタブを滑る。やっぱりその話題になるのか、なるよな。つい驚いてしまって上手く開封できなかった。もう一度缶を開けるために爪を引っ掛ける。今度は軽快な音を立てて上手く開いた。
「あ、うん……」
「俺の個人的な考えなんだが、」
「う、うん」
「友人とか仲間とか、そんな枠組みを作ったり、なってくれとか考えなくて良いんじゃないか」
俺にはまだ全くブルーノの過去も人生も知らないんだが。そう言って、カーテンの向こうを透かして見るかのように、遊星はジャックさんの方へとちらりと視線を遣った。その向こうからはボタン連打の音に「くそっくそっ!」と文句を連ねるジャックさんの声が混じり聞こえてくる。ふっと口角を上げる遊星からは、彼がジャックさんに気を許していることがありありと分かった。それはこの間の鬼柳さんとのやり取りで感じたものと似ている。ジャックさんも遊星にとって離れがたい絆で繋がった人間なのだろう。
「テレパシーを送るみたいに、こう、一緒に居たいという想いを届けていれば大丈夫だ」
こう、すっと。
擬音を付けて、缶コーヒーを持ったまま人差し指を立てて、遊星は米神から前へと水平に指を動かした。ん? 仕草は非常に様になっているのに、何故だろう、言動が妙に新興宗教の勧誘のような雰囲気を漂わせているのは。あれ? 遊星って、なんかちょっと、電波なのだろうか。
「ところでブルーノ、これを見てくれ」
戸惑っている間に人差し指はもう仕舞われて、遊星が背後の作業机の下から大きな箱を取り出した。ボクの迷いが溢れてしまっていたのだろうか、言葉を返せなかったから気を悪くしていないだろうか。あ、あ、と考える時間もなく、どすっと箱が置かれる。
「これはジャックの宝物なんだ」
「えっ」
「辛い時に使うと気が紛れるらしい。どうだ? 使ってみないか?」
ふふ、と笑う遊星は、秘密基地を案内するみたいに悪戯っぽく愉しげだ。この無地の段ボール箱に、そんなにも素敵なものが――そう思うと、まるでパンドラの箱のように思えてきた。
遊星の手が段ボールの蓋を開けた。だがそこからは、ボクが予想だにしていなかったものが登場することになる。
「これ、は……」
「シルバニアンファミリーだ」
箱から出てきたのは、昔から子供に根強い人気を博している人形の玩具だった。屋根を真っ赤に塗られたプラスチックの二階建ての家に設置された小さなオブジェ、それに小さな動物を模った人形達。玩具の家の中にはこれまた小さく精巧な家具が置かれていて、あたかもそこで誰かが生活しているかのような臨場感を感じる。メルヘンチックだ。
「ジャックはこれを集めるのが昔から好きでな。どうやら癒しを求めているらしい。時々飾っては遊んでいる」
「……あの、向こうでゲームしてる人、だよね」
「あぁ、そうだ」
なんてこった。世も末だ。あんなクールで気障そうなイケメンがシルバニアンファミリー片手に遊んでいる姿を、一体誰が想像できようか! 不可能だ。ボクですら手を出したことのない世界。まさかそこに新境地が開かれていたとは。
「ジャックのお気に入りはこのシルク猫ファミリーだ」
遊星が掲げた小さな人形は、そのつぶらな目でボクを覗き込んだ。頭でっかちな掌サイズのそれは、耳の中がピンク色に着色されていて、髭もきちんとある。着せられた洋服も細かく、四肢と頭も可動式でよく造り込まれた人形だ。でも知りたくなかった。なんか、すごく知ってはいけないものを知ってしまった気がする。
遊星は一体何を考えてこれを見せたんだろう。ますます彼の電波度が増してしまった。
遊星はシルク猫のお母さん(だと思われる人形)を、赤い屋根の家の居間にあるキッチンの前へと置いた。側に在る食卓にはシルク猫のお父さん(だと思われる人形)を座らせる。器用なもので、彼は人形の足をどれ程の角度で曲げれば座らせられるか等を把握しているようだった。頭の片隅に、ジャックと二人で人形遊びをしている遊星の姿が思い描かれた。男二人が遊んでいるシーンはひどくシュールだ。軽い頭痛を感じているうちに、そこには小さな家庭が出来上がっていた。
「よし、これでいつものシルク猫ファミリーの団欒の完成だ」
一仕事を終えたという満足感のこもった声で遊星が呟く。居間の机の上にはペン先みたいな小さな皿とコップが並べられていて、シルク猫母は手にフライパンを持っている。シルク猫父は椅子に座りながらその母猫を見詰めていた。
小さな子供なら歓喜に飛びつきそうな玩具だが、生憎ボクは立派に成人した大人なのだ。緻密な作品達に感動は抱くものの、別段それ以上の感想は持てなかった。ジャックさんが何故これに拘っているのか不明だった。 「ジャックには両親が居ないんだ」
さらりと遊星が言うものだから、ボクは一瞬自分の心を読まれたのかと思ってしまった。
「え?」
「だから、こんなミニアチュールの世界に惹かれるんだろう」
「……自分で、好きに作れるから?」
夫婦の姿も、家族の姿も。
遊星はこっくりと頷く。その目には一欠けらの同情も憐憫も含まれていない。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。
記憶の片隅で、箱庭療法という言葉を思い出した。学生時代のゼミで、夜、教授が言っていたっけ。砂を入れた箱をセラピストが用意して、患者に玩具で箱庭作品を作らせる心理療法。
それに近いものなのだろうか。自分だけが作れる自分だけの世界。ジャックさんにとってはそれが理想の家であり、家庭の姿なのだろうか。人工的に作り上げられた虚構の家庭が。この小さな小さな世界でしか作れない、仮初の家族の姿が。
ボクはシルク猫のお母さんの頭を撫でた。人差し指の腹で、そっと。本物の猫みたいにふわふわした毛ではないけれど、不思議と息吹のようなものを感じた。それはお父さん猫がお母さん猫を見る姿に、ボクらが理想とする夫婦の愛情を見出したからかもしれない。
彼らは決して動くことはない。ボク達が動かして初めて意味を成す。
「でも、この子達は、こうしてやっと愛情を分かち合えるんだよね」
「そうだな」
お父さん猫がお母さん猫を見る姿は、何だか好きだって言ってるみたいだった。好きだよ。愛しているよ。彼らはそんなことは話さないし話せない。ボク達がこうして彼らの世界を作り上げなければ一緒に居ることすらできない。見詰め合うこともできない。そう思うとひどく遣り切れない思いに駆られた。今ボクの手の中には、彼らの命運が握られているも同然なのだ。たった一握りの空間にある、砂粒のような彼らの運命を司る、空想家のボク達。
「辛い時に使うと気が紛れる、って言っただろう」
遊星は、ボクが辛く感じていると思っているのだろうか。いやボクは、今の生活に満足しているし、死にたいなんて思ったこともないし、普通に生きている。辛くはない。ボクが知るボクの範囲内では。
こつ、こつ、と、遊星の右手が人形を増やした。シルク猫の子供の人形に、栗鼠の子供の人形、犬の子供の人形、兎の子供の人形を、それぞれ家の二階の子供部屋へと並べる。その様は、シルク猫の子供とその友人達という構図を簡単に想像できた。
「こうやって誰かが居れば、星が引き寄せられるかのように人が集まってくる。それは偶然じゃない。恒星と惑星のように、中心に誰かが居て、その周りを守護神のように皆が廻る」
そうしてこつんと突っ突いたのはシルク猫の子供だった。彼を囲む三体の人形は、まるでシルク猫の子供を中心とした歯車のようだった。遊星歯車機構。その言葉を彼の名前と共に思い出す。一つじゃ意味を成さないもの。
一階へと手を伸ばして、ボクは愛の言葉を囁けない人形を摘み上げた。右手にお母さん、左手にお父さん。二階に集まる四体の人形は夫婦を取り上げたボクを咎めるわけでもなく、当たり前だが微動だにしなかった。
ジャックさんはこの二体の夫婦を、いつもどんな気持ちで並べるのだろう。
「すきだよ」
お父さんに言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「あいしているよ」
また言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「……すきって、なんだろう。愛って、なんだろう」
友人を好きになれなかった自分。他人から逃げている自分。でも世界は深い深い何処かで絶対的な繋がりを持っていて、ボクは結局そこから逃げることはできないのだろう。それは誰に対しても平等な真理だ。この肉体に血が通っている限り、ボクは完全な排他主義者にはなれない。
遊星と話していると、自分の中の深層心理をこじ開けられるような錯覚に陥る。螺子で打ち付けられた壁を外すために、彼の右手はドライバーを持っている。ボクは対抗する術を持たない。何故。何故。疑問が浮かんでは問い掛けに変わる。遊星の言葉が、ボクの螺子を取り外す。
誰かをすきになるって、どんな気持ち?
誰かとつながるって、どういうこと?
猫達からは返事がない。けれども代わりに遊星の声が届いた。
「ブルーノ。君がその人形達を離れ離れにさせたくないと思うのなら、それは愛だ」
遊星の指がもう一体人形を取り出した。大きな熊の人形だ。その人形を二階の人形達に加えようとしたが、そこには熊が入る為のスペースがもう無い。ボクはシルク猫の夫婦を元の位置に戻し、二階のそれぞれの動物達を少しずつずらしてやった。一匹分空いた部屋に熊が立つ。彼らは五体になった。
「友人、できたじゃないか」
君が居場所を作ってくれたから、この熊の人形は惑星の一つになれた。遊星はそう笑って、指先をボクの瞼に添えた。ごく僅かな体温が、ひそやかに伝わる。すぐに離れたその指先には、透明な滴が付いていた。あれ、と思う。離れていく時、彼の手の甲がキャップの鍔に擦れて、ボクの視界が明るくなる。
「俺が仲間になりたかったら、ブルーノが受け入れてくれる。誰かがそこに居ることを肯定すること。それが愛なんじゃないのか」
ただそこに居る誰かのために、一歩隣にずれるだけで、それでいい。
模倣の世界の中で人形達は笑っている。
「友人や恋愛や家族なんて役割を振り分けなくとも、人間と人間の根底に流れているものが愛であるならば、ブルーノ、君は既にそれを知っている。だからそれをわざわざ否定する必要はない。欺瞞も、猜疑心も、自己疎外も抱かなくていいんだ」
遊星の声は、ボクの心に有無を言わせず染み込んでくる。ボクの傘も長靴も、彼の言葉の前には何の弊害にならなかった。それは海水が満ちるような、滾々と湧き出る泉のような、じわじわと止め処なく広がる液体だった。或いはあらゆる場所から流れ込む大気だった。気が付けばボクを抱き込んで、共に融合しようとする。
ボクは、寂しかったのか。
寂しいことが辛かったのか。誰よりも孤独で居たいと思っていたのに、きっと誰よりも孤独で居たくなかった。
互いの関係を考えたくなかった、そこに名前を付けて絶望したくなかったから。自分に価値を見出し始めれば、そこには空虚な恐怖しかなくなるから。友人と言う肩書はボクには重過ぎた。鏡映しのように、期待されればされるほど応えたくなる。けれども同時に、できない自分を滅茶苦茶に処罰したくもなる。それならば肩書など必要ないと辞退してきた。
だから遊星が羨ましかった。友人を持っている君が。絆を持っている君が。本当はそんな大それたものではなくて、ただ誰かが存在するのを受け入れているだけだったのに。
ボクは只管に臆病な犬だった。噛み付くことすら出来ず、耳も尻尾も下げて、けれどもずっと誰かに頭を撫でてもらいたかった、一匹の犬。
滲み出る涙が愛情への渇望と欲求の証明ならば、これは生理的現象だ。人間が人間である以上、ボクらはずっと誰かの中で生きている。誰かが生きている世界で息をする。電気信号を介して伝え合ったり、鼓膜を震わせる声に浸ったり、肌に触れてあたたかくなれるのは、自分が居ることを誰かが享受してくれているから。そこは箱庭ではない、ボクがボクの意思で存在するたった一つの宇宙だ。ボクは誰かの恒星であり惑星になれた。
そして今、遊星はボクの恒星であり惑星となった。
「これで答えになっているだろうか」
「え?」
「友達の作り方を教えてくれという質問の答えだ」
遊星が利害からでも義務感からでもなく、ただ純粋に答えたくて招いてくれたのだと、ボクはやっと気付いたのだった。
「昔、鬼柳が自殺騒ぎを起こしたことがあった」
鬼柳さんが? あの絶妙なカリスマ性を持ち合わせている人が? 思わず首を傾げたくなるが、鼻の奥がつんと詰まったままだったので、ボクは軽く瞬きをしただけであった。机の上には相変わらずメルヘンな世界が佇んでいて、二人ともそれを鳥瞰している。
「兎に角、無気力な死神のような顔をして、生気が抜け落ちた亡霊みたいだった。その頃ちょうど仲間内で揉めていたから、きっとその所為だったんだろう。自分はもう廃棄物だと言って、俺に縋りたくて堪らない癖に、同時に俺から離れていきたくて仕方ないみたいだった」
コーヒーをくっと飲み干して遊星は中空を見つめた。彼の目には今、きっとその頃のことがありありと描かれているのだろう。
「多分、誰かに縋れないと生きていけない自分が嫌だったんだと思う。人間が一人で存在できるなんて有り得ないのに。鬼柳はそれを成し遂げようとしていた。いつも俺達の不可能を可能にしてきた奴だったから」
「そう、なんだ」
「孤独になることで、孤独に耐えようとしたんだろう」
だからボクのことを自殺願望者だと思ったのか。ようやく合点がいった、遊星はボクに昔の友人の姿を重ねたんだろう。鬼柳さんがデジャヴだと呟いていたのはこのことだったのだ。
「俺達は相手を理解したがる。解り合うために苦労して、努力して、ようやく喜びを得ることができる。不思議だ、相手の心の中なんて誰にも完全に読み取ることなんて不可能なのに」
「でもボクらは、それをせずにはいられない」
ボクが君を知りたいと思ったように。
少しばかり細められた遊星の瞳には、くっきりと、涙目のままくしゃりと笑うボクが映し込まれていた。目を合わせると、遊星の電波とボクの電波がシンクロしているような心地になることを初めて知った。
きっと今、ボクらはテレパシーに成功してる。
(了)畳む
・ひきこもりブルーノと働いてる遊星。
・くっつきません。
#ブル遊 #現代パラレル
誰にだって苦手分野はある。勉強だったり、お金の使い方だったり、はたまた恋愛だったり。ボクの場合、それが大勢の人の前に出ることだった。昔から背が高くて、何だか分からないけれど顔だけは良いほうで、学校ではひっきりなしにスポーツ関係の助っ人を頼まれていた。でもボクはスポーツがそれほど得意なわけでもない。人前で競技する大会なんて以ての外だ。大勢の人の前に出ると心臓が飛び出そうなくらいばくばくして、酸欠に陥って頭がふらついてしまい得点は取れず、パス回しができれば上等なレベル。それでも声を掛けてくる人達は絶えなかった。ありがたい話だ。
しかし同時に、ありがた迷惑という言葉がこの世にある理由がよく分かった。彼らのことがいつしか鬱陶しくなって、ボクは他人と話すことさえ苦手分野になってしまっていた。いやいいよ、ボクはいいんだって断ることがどうして遠慮だと思われるのだろう。
遠くの大学を受験して一人暮らしを始めてからは、それはより顕著に生活に反映されていった。大学は楽だ、授業さえ真面目に受けていれば友人を作る必要もない。授業以外をすべて自室で過ごすことでボクは平穏な生活を手に入れた。誰もボクの邪魔をしないし、干渉されることもない。相手にやたらと気を遣う必要もない。大学を卒業してからはデイトレーダーとして生活費を稼いで、あとはソーシャルゲームに大ハマり。駄目人間かもしれないけれど、これがボクにとっての悠々自適生活なのだ。
『で、誘ってきたそのメンバーがもう話にならねー。もっとレベル上げてから来いよって思ってな。アイテム逃しちまったし、良いことなかったぜ』
「へー、それは災難だったね」
ヘッドフォンから聞こえてくるのはオンライン上の友達であり、今のボクにとって事実上唯一の友達である『カラス』くんの声だ。ゲームの協力プレイ中に向こうから話しかけてきた。それからはゲーム友達兼話し相手としてお世話になっている。
「あ、株価変動」
右側のモニターでグラフが動いた。今が売りか。
『今月もいい感じか?』
「まあ、そこそこね」
『不労所得は最高だな』
笑う『カラス』くんの声には、今も絶え間なくキーボードを打つ音が重なっている。彼も相当のオンラインゲーム中毒者なので今も話しながら何処かのフィールドで戦闘中なのだろう。
ボクはそんな彼の話を聞きながら、机に並べた三つのモニターのうちの左二つを交互に見る。最近の市場傾向は本当に参る。黒い色を背負いながら線が小刻みに揺れ動くさまは、病人に繋がれた心電図を彷彿とさせる。文字通りグラフが下がればボクの生命線であるお金も減少することになるわけだから、あながち間違ってはいない。
グラフの上がり下がりをじっと見ていたら、唐突にぐぅと音がした。
お腹空いたな。そういえば朝から何も食べていない、もう昼過ぎなのに。
冷蔵庫にはすぐ口にできるような食材はなかった気がする。食材はネットで注文するから最速でも、と考えているうちに、またぐぅと鳴った。しかも結構長く。今から頼んでもボクの身体は我慢してくれそうにない……つまり、近所のコンビニに出陣することを意味していた。
「コンビニ行ってくるね」
『おー』
簡単な挨拶だけ告げてヘッドフォンを外す。スマートフォンだけジャケットのポケットに突っ込み、帽子を被れば、ほら視界が少し狭くなった。人の目を見るのも見られるのも苦手なので、外出する時は常に帽子着用だ。
二日ぶりの外は眩しかった。
ここ最近は、コンビニまでの数分間の道のりだけが唯一外気に触れる時間である。必要最低限の時しか出なくなったので日に焼けることもなくなってしまった。運動は室内で適当にトレーニングすれば済むし、生活用品はネットで買えるし、本当に便利な世の中になったものだなあとしみじみ感じた。こういう社会は、一体『ボク』みたいな人間を何人作り出したのだろう。うだうだ思考を巡らせているうちに、はい到着。あっという間の日光浴だ。
コンビニに到着したらまずは雑誌を立ち読みするのがボクのサイクルである。ファッション雑誌を手に取りぱらぱらと捲ると、新作のコートを着たモデルが居た。適当にお洒落するのは嫌いじゃない。この見た目のせいで、妙な服を着ていると逆に周囲からの視線を否応なしに浴びなければならないからだ(以前上下スウェットで外出した時の経験が脳裏に甦った)。それならば流行りと言われている服装をしていれば浮かないし、紛れることが出来る。流行に溶け込むのはボクにとっての没個性法だった。
ファッション雑誌を読んだら次はゲーム雑誌と決めている。ちなみに今日は雑誌の発売日なので必ずチェックしなければならない。新作ゲームの特集はボクにとっての新聞みたいなものなのである。
ラックに整列させられた雑誌を一冊引き抜く。目次には今季一押しのタイトルが並んでいた。あ、これ面白そう――主要記事に目を通してから次のページへ進む。見出しをチェックして、記事をざっと読んで、またページを移動。
その繰り返しに結構な時間を費やしていたに違いない。痛くなってきた首筋を解そうと頭を上げた時、ふわ、と右下に何かを感じた。横目で見ると、そこにはいつの間に来ていたのだろうか? ボクよりかなり背の低い青年が立ち読みしていたのである。存在に全く気付いていなかったボクはびくっと肩を震わせてしまったほどだ。
青年は同じゲーム雑誌を読んでいた。特徴的かつ派手なメッシュが入った髪に、紺色のストライプシャツがやけに似合っていた。視界の端に入ったページはボクも気になっていたゲームの特集記事。
ああ! それボクも好き!
つい声に出しそうになった自分に対して、ぞわわと悪寒が走った。ひどく驚いたからだ。他人と話すこと、しかも見知らぬ相手を目の前にして話すことが苦手になってから何年経つ? にもかかわらず突飛な行動を起こそうとしてしまったのは、共通の趣味持ちという勝手な認識がボクの中に芽生えたからであろうか――この見知らぬ青年とボクの間には何の接点もない、だが趣味が同じ気がするという勝手な憶測。話をしたらきっと楽しいだろうなという勝手な期待が、ボクを引き篭もり生活から脱却させようとしているのか? だって『カラス』くんと初めて話した時も鬱陶しかったけど段々慣れていったし、同じ趣味の持ち主なら上手くいくかもしれないし。そんな仮定が頭の中をぐるぐる回る。
あぁもう考えることが本当に面倒くさい。嫌だ嫌だ面倒なことは嫌なんだってば。泥の中を進んでいるような重苦しい感覚を振り払うように頭を左右に振った。そうこうしているうちに、その見知らぬ青年は雑誌をぱたんと閉じてレジへと向かった。どうやらお買い上げの様子である。彼がレジへ雑誌を置く前、店員の女性がはたと目を瞬かせてにっこり笑った。それを発見した時に、ようやく自分が彼のあとを目で追っていたことに気付いた。
「あら遊星、今日は仕事ないの?」
「あぁ、定休日なんだ」
「そうなのね。じゃあゆっくりゲームできるじゃない」
店員の女性――すごく美人だけれどすごく奇抜な髪色の――は彼をユウセイと呼び、二言三言会話をする。知り合い、なのだろうか。会計を済ませた彼はその店員さんに手を振って店を後にした。横断歩道を渡り、向かいのビルの交差点を曲がったところで、彼の姿は見えなくなった。
ユウセイ。店員さんが呼んでいた彼の名前。どんな文字で記すのだろう。
その後、ボクも雑誌を買ってマンションに戻ったは良いが、肝心のご飯を買うことをすっかり忘れてしまっていた。そのことを『カラス』くんに報告した際、呆れた声で『もっと生に執着しろよな』と言われて、はははと苦笑するしかできなかった。再び株価のモニタリング作業に戻ってからもずっと、あの青年と趣味の話をしてみたいという得体の知れない夢は、どうしてかいつまで経っても消え失せてはくれなかった。
ユウセイ。ユウセイかぁ。
深夜のベッドを霞のように包むのは、大学の講義の微かな記憶。遊星歯車機構の、遊星という漢字の輪郭。学生時代、楽しくはなかったが講義は好きだったっけ。ロボット工学のゼミはいつも夜遅くまで残っていたっけ――眠気に交じって、遊星の文字は夢の入り口へほどけていった。
あの頃に友人がいたら、今頃どんな『ボク』になっていたんだろう。
何? 恋でもしたのか? 白昼夢じゃねえのか? お前にそんなフラグがあったとは思いもよらなかったぜおいおい。若干溜息を織り交ぜながら言う『カラス』くんの声には不本意さが明らかに混合している。恋ってそんな大袈裟な。
「恋じゃないってば。ていうかその人まず男だから」
『いやいやいやいやブルーノ、甘い! 甘過ぎだお前は! もっとよく現実を見ろ、フラグはいつ何処で立てられるか分かんねーからな?』
「そういう『カラス』くんも結構現実見てないよね」
『お前よりは明日の飯の心配はしてるぜ』
昨日、空腹を紛らわせるためインスタントのカフェオレだけで済ませたせいか、今朝は寝起きから胃が少し痛かった。調子の悪い腹をさすりつつ、ビニール袋のまま放置していたゲーム雑誌を出す。表紙には絶賛話題沸騰中の恋愛シュミレーションゲームの女の子がこちらを見上げていた。アイドルなのか学生なのかもう訳が分からないが、何万という世の男性の嫁だ。ま、可愛いよね。
ヘッドフォンからは相変わらず『カラス』くんの声が聞こえてくる。そりゃガキどもを食わせないとやっていけないからな、でもありがてーことに企業案件もいくつかあるしまぁ何とかいけんだろって踏んでるわけよ。ゲーム本業で金稼ぎのできる良い時代になったもんだぜ!
「ほんと兄妹想いだよね」
『もっと褒めていいぜ』
流石です。呟いて、女の子達を眺めてから表紙を捲る。株用のモニターを照明代わりに記事を読み進めて、昨日見た青年のことを思い出す。店員さんとの会話から推測するに、恐らく働いているのだろう。そしてゲーム好き。多分一般的に言うゲーム好きのレベルは軽く超えている。『カラス』くんやボクとは趣味が合いそうだ。あたかも推理小説の犯人を突き止めるみたいに、彼の人物像を勝手に作り上げてみる。覗き見した時に焼き付いた姿に、記憶から捏造した彼の人間性をぺったりと塗り付けた。そこへ凛々しい声をオプションで付ければ、空想上の『ユウセイ』くんの出来上がりだ。あなたが犯人です! ……何のだよ。しかし脳内で捏ね繰り回すだなんて、なんだかボクが変態みたいだな。自分でそう考えて虚しくなった。
情報を整理しているうちにあることに行き当たった。この雑誌は昨日が発売なのだ。ということは、彼は次回の発売日にも買いに来る可能性が高いのではないか? いやいや、まずあのコンビニに来るかどうか分からないじゃないか、とその考察をすぐに打ち消す。しかし彼が徒歩で来ていたことを思い出した。もしや近所に住んでいるのだろうか。だとすれば再会の望みはある。
誰かに興味をそそられる経験は久しくしていない。あの青年はボクの中に強い印象を残していったが、この感情は『カラス』くんの妄言にあったような恋などでは到底なく、求知心にカテゴライズする方が余程しっくりくる。知識をもっと手に入れたいという、人間の単純な行動原理。情報の欠片が幾つか集まると、それらを掻き集め、組み合わせ、一個の塊にしたくなる。
ボクは今、彼の人のピースを一つずつ組み上げている最中なのだ。
これらを結合させるために、もう一度彼を見て、自分の中のイメージを確固たるものへ昇華させたい。まるで図鑑を編纂するかのように。勝手にこんなことを考えているなんてあの青年が知れば、気持ち悪いと蔑まされそうだが。
幾ばくかの逡巡の後、ボクは再来週の発売日に確かめることに決めた。ただ彼をもう一度見たいだけだ。純粋な関心からならば、こんなストーカー染みた行動でも許される、気がする。『カラス』くんが『放置プレイは趣味じゃねーよ』と半分拗ねた声で話し掛けてきて、ようやくボクは彼を無視し始めてから優に三十分を経過したことに気付いた。ごめんなさい。
かくしてその日はやってきた。
雑誌の発売日。晴天。少しばかり雲が泳ぐラムネアイスみたいな色の空。昨日の夜からゲームはしていない。少し脈が速くて気分が落ち着かず、集中できなかったからだ。遠足前の小学生みたいだった。スマホのデジタル時計は午前十時過ぎを示している。日付はもう秋だが暑さは一向に去る気配がない。部屋の中ではエアコンをきかせているが、洗濯物を干すためにベランダへ出るだけでボクのシャツは汗染みを作っていた。
今日はあの『ユウセイ』くんは来るのかな。根拠のない可能性に馬鹿みたいに賭けていることは自分が一番分かっていた。
ボクは午前中からコンビニに引き篭もることにした。光熱費節約のためだと自分に暗示をかけるように反芻しつつ、コンビニへ向かう。この気候では先ほど袖を通したグレーのカットソーはまだまだ役に立ちそうだった。最近は冷房対策に長袖を着るべきか迷う時がある。年かもしれない。鍔付きの帽子の上からはじりじりと太陽が熱線を降らせてくるが、それがボクを溶かす前に店へ到着した。あの赤い髪の女の子が先日と同じようにレジに居た。開いた自動ドアには一瞥もくれず、いらっしゃいませ、と淡々とした口調で挨拶を述べる。
彼女を見ないようにして雑誌コーナーへと足を進めた。雑誌は綺麗に陳列されている。まずはファッション雑誌からといういつものルールは乱さず、ゲーム雑誌の側に並ぶそれを手に取った。秋服特集がくまれているが、記事を読んでも頭には入ってこない――緊張、しているのだろうか。
何だか片思いの先輩を待っている少女のようだ。このボクが? 少女漫画のイメージを自分に投影してみるもまるで一致せず軽く吐き気がしたところで、今日はイヤホンを持ってきたことを思い出す。早速装着してスマホの音楽アプリを操作する。間もなく聞き慣れた歌の演奏が開始されて、ちょっと気分が落ち着いてきた。
ファッション雑誌を閲覧し終わってから、例のごとくゲーム雑誌を手に取る。ページを捲る速度を非常に遅くして、一ページずつじっくりと雑誌を読む。
だが、それを何度繰り返しても『ユウセイ』くんは来なかった。
いつもより何倍もの時間をかけて文字を追っても、流れてくる音楽がもうすぐ十曲目に突入しようとしていても、彼の姿は現れなかった。ボクのずっと右後ろでは、あの赤髪の店員さんがボクのことを変質者かどうか疑っているという疑念さえ抱いてしまう。勿論ボクの勝手な思い込みなのだけれど。
どうしよう、一旦帰ってもう一度来ようかな。そう思っていた時、ボクの目に信じがたい光景が入り込んできた。真正面、コンビニの大きなガラス窓の向こう側に何処かで見たことのある人が居る。あ、と頭の中のデータのある項目にヒットした。それは先程まで読んでいたファッション雑誌の表紙の男性だった。黒塗りのミニバンの運転席から降りてきて、車と同じような黒いジャケットに白のインナーを着こなし、足取り軽やかに自動ドアを潜り抜けてきた。え、なんでモデルさんがこんなところに居るの! ボクのテンションはベクトルを方向転換して一気に急上昇し、その人を凝視する。やばい、すごいよ有名人が今目の前に!
しかし、更に心臓が飛び跳ねたのはその後だった。そのモデルさんがボクの左側へと来たのである。なんということでしょう。ボクの目はすっかりゲーム雑誌から離れて左側へと移った。モデルさんは週刊誌の漫画を一冊引き抜いて読み始めた。肩に掛かるほど伸びた髪がさらさらと揺れる。漫画一つ読む姿ですら格好良いのだから恐ろしい。こういう人は持っているものがたとえ発禁ドエロ本でも素晴らしく格好良く映るに違いない。しかしこんな僥倖には滅多にありつけない。サインとか、欲しいかも。頼んでみようかな。でもちょっと怖いな。ボクの掌はじっとりと汗を掻いていた。他人は苦手だがメディアに露出している人達は『皆の共有物』という感覚が強くて躊躇わずにいられた。いいややってしまえこんな機会もう二度とない! すぐさまイヤホンを外してポケットへと突っ込んだ。自分にちょっと呆れる。
「す、すいま、せん!」
「あ?」
やばい今ちょっと声上擦ってた絶対! 隣のモデルさんはぼけっとボクを見上げている。手元の漫画はまだ途中だ。しかしこんな中途半端な声の掛け方で終わらせてはモデルさんも困ってしまうきっとそうだ最後までやり切れ! なけなしの勇気を振り払い「あのっこの人ですよね!?」とラックから素早く例のファッション雑誌を引き抜いて掲げた。ゲーム雑誌は左脇に挟み込んだ。
「ん? あぁ、そうだけど」
当たってた。
当たってしまった。
これはもういくしかない。
「あ、あの、サインとか頂けたり、」
その瞬間。緊張で乾く喉を必死で震わせるボクの後ろから、予想だにしなかった声が投げ掛けられたのである。
「鬼柳! 済まない待たせた」
「おっ、ゆうせー!」
えっ? えっ? 何?
ゆうせい? ってあの『ユウセイ』さんですか?
風を切るような勢いで背後を振り向くと、そこには先々週のあの青年が立っていた。走ってきたのだろうか、いささか肩が上下しており赤いTシャツが肌に貼り付いているように見受けられる。
ちょ、ちょっと待って。今モデルさんがゆうせいって言ってなかったっけボクの聞き間違いかなそうかな。
「いやいや俺も今来たとこよ。で何だっけ? サイン? 全然構わないぜ!」
「あっえっ、うわっすみませんありがとうございます……!」
モデルさん、即ち鬼柳さんはボクに向き直りにかっと笑った。まぶしい。それからボクが握り締めていたファッション雑誌を取ると、ベルトポーチからペンを取り出して表紙にさらさらとサインを書いてくれた。手馴れている仕草だ。すいませんその本まだ買ってないんですが、と突っ込むべきだろうか。この間、ボクの背後では件の『ユウセイ』くんがじっと待っていることは言うまでもない。「ほらよ。この雑誌読んでくれてんだ? ありがとな」「いえ、ありがとうございます」常に立ち読みですが……とは言えない。
「鬼柳のファンなのか?」
後ろからあのぴんとした声が掛かる。びくぅと思い切り身体を震わせてしまった。
きた。遂にきた。
「らしいぜ。いやーさすが俺って感じ? ファッションリーダー鬼柳京介様は老若男女問わず大人気ですよ」
「ふーん」
「なにその態度、遊星冷たい」
あの、ボクを挟んで前後で会話するのは止めて下さい。硬直した身体ではその一言さえ搾り出せない。というか何ですか貴方達知り合いだったんですか。今目の前で想定外の出来事が繰り広げられている。いつも雑誌のカバーを飾っているモデルの鬼柳京介さんは、ボクがもう一度見てみたかった『ユウセイ』くんの肩をばしばし叩きすっごく楽しそうに話している。それに対して『ユウセイ』くんは辛辣に扱いながらも笑いは絶やさない。ちら、ちら。行き場のない身体でそんな二人を見ていたら『ユウセイ』くんがすっとボクの方を向き小さく笑みを浮かべた口を開いた。
「こんな奴だが、これからも応援してやってくれ」
どうぞよろしくお願いします。彼の全身からそんな声を汲み取って、思わず「勿論です!」と叫んでしまった。すごい響いた。赤髪の店員さんが迷惑そうな目で見てきた。そんなボクに『ユウセイ』くんはふっと笑い、鬼柳さんの背中をぽすぽす叩く。
「ファンが居て良かったな鬼柳」
「はいそうですねえー」
「何拗ねてるんだ。昔からお前を心配してたからこそ俺は嬉しいんだ」
「昔のことは言うなよ……有り得ねぇくらい恥ずかしいから……」
会話の応酬を見て、この二人は浅い付き合いではないことがすぐに分かった。二人が話している時に言葉の端々から零れ落ちる感情が、彼らの仲を全く知らないボクでさえ幸せにしてしまいそうなほど眩しく輝いている。
けれどもボクにはそれが唐突に羨ましく思えた。互いに不躾なほどくだけていて、それでも強固で、且つ煌いている絆の持ち主達が。自分の足元には羨望と嫉妬が交じり合う渦が広がっていた。
だって、ボクにはこんなもの、今まで手に入れたことはないから。
「んじゃ行くかなー」
「そうだな」
「あっ、ちょ、」
ちょっと待って!?
ぐい。がっくん。去り行く『ユウセイ』くんの左腕を、ボクは反射的に引っ張っていた。
「うっ」
細い腕だった。勢いで彼の身体が二三歩後退する。ばさっとけたたましい音を立てて、ボクの左脇に挟まれていたゲーム雑誌が落下した。右で鬼柳さんがはたと目を瞬かせている。
どうしたんだ一体、と驚いた表情で振り向く『ユウセイ』くんの体躯は、間近で見ると余計に小さく思える。彼の大きな瞳がボクを捉えた。それは磨き上げた鉱石のような光を有していた。誰をも引き寄せてしまうような無限の引力を潜めている目だ。
限られた視界で、強く、ばちりと視線がかち合う。胸が圧迫されるように苦しく、その奥がどくどくやかましい。
緊張、する。
すぐに目を逸らす。彼の首元に視線をずらしてから、身体を弛緩させるために、は、と一息吐き出した。その後を、教科書の例文をなぞるかのような声が付いてきた。
「ボクに友達の作り方を教えて下さい」
とっさのひとこと。あ、昔そんな教育番組があったなあと、頭の片隅で思い出した。
コンビニの前で彼らと別れて、ボクはマンションへの帰路へと着いた。しかし足が数歩進んだところで、堪らずしゃがみこんで頭を抱えた。恥ずかしさが脳天から爪先まで満タンに溜まっている。耳と目頭がぐぅと熱い。挙句の果てにはそれは涙となって瞼の裏にじわぁと広がってきた。往来にあまり人が居ないことが救いだった。
『ユウセイ』くんはやはり『遊星』くんだった。彼は急に妙なことを言い出したボクに戸惑いながらも、これは何かあると思ったのだろう、「悩んでいるなら死ぬ前に誰かに相談した方がいいぞ」と、ちょっとこっちも反応に困る言葉をくれた。仮に誰かに弁解するのであれば、ボクは決して自殺願望など持っていないと声高々に主張しよう。
「自分でよければ相談に乗るぞ」
おもむろに、遊星くんはジーンズのポケットから財布を取り出した。彼の指が何かを探すのを、ボクはぼうっと眺めていた。指、きれいな動きだなあ。「何かあれば」短い言葉を添えて差し出されたのは名刺だった。名刺を持っていることに少し驚いた、ボクよりも年下のような気がするから。立派なひとなのだな。腹のほうが、じくじくした。
ボクの予想では、彼はきっとボクの言葉に対する義務感からボクを誘ったに違いない。現代社会において見ず知らずの人間を自分のテリトリーに招き入れるということは、自身の守備に相当の自信があるか、あるいは敢えて侵略の危険性を考慮していない、つまり無防備かどちらかに分けられると思う。彼の職業や行動から考察するに前者だろう。彼は彼を必要とする人間に対して常日頃取っている行動を遂行しただけのことだ――彼にとって、これは特別なことではないのだ。
名刺に書かれていた住所は、そことコンビニとボクのマンションとを結んだ時にちょうど直角三角形が成立するような位置で、並べて家電修理屋さんの社名も書かれていた。これで遊星くんに対する新たな情報が手に入ったことになる。彼はこの修理屋さんのエンジニアで、ボクのマンションの結構近くに住んでいて、他人のことをおいそれと放っておけない性格のようである。そして有名人の友達持ちで、待ち合わせ時間に遅れることを嫌うタイプということも、走って現れた彼の姿から想像できた。
しかし、友達の作り方を教えてだなんて、よくもまあそんな小学生みたいな台詞が出てきたものだと自分を貶したくなった。口に出した時の遊星くんの顔が脳裏に焼きついている。困惑した表情の中に、何処か懐かしいものを見る視線が混じっていた。鬼柳さんはというと何故か苦笑して「なんかデジャヴ」と呟いていた(何かあったんだろうか?)。
修理屋さんで働いているんだし、遊星くんは人助けが得意なのかもしれない。カスタマーサポートとか向いてそうだ。
助けてほしい、わけじゃないけれど。助けてくれる人がいたらな、とは思う。
主人公がピンチに陥った時、必ず現れて助けてくれる人間。小説でも漫画でもアニメでも、九分九厘それらは主人公の友人だ。そんな場面を見る度に、ボクの心にはいつも嘲笑が顔を出した。助けてくれるのか、友達なら。何故? 利害関係の一致? そんな風にしか考えられなくなって、今年で何年経つのだろう。ボクには友達がどんな存在なのかまともに感じたことが無いがために、遊星くんの人間性を覗くことで疑似体験してみたいのかもしれない。綺麗に作り上げられた関係図に自分を重ねてみたいのかもしれない。まるで、ごっこ遊びのように。
モニターが壊れてしまった。と、無理矢理理由をこじつけることで、ボクは遊星くんのお店へと足を運ぶ口実を得た。株価用モニターの調子は以前から悪かったのだが、かと言ってまだ修理するほどでもない。けれども折角貰った名刺が所在なさげに卓上に放っておかれているのを見る度に、まるでボクがその名の主自体を放っておいているかのように思えて、見兼ねてモニターの小さな不調を出掛ける理由に仕立て上げたのだった。
あれから数日経って、カレンダーは既に一枚破り捨てられていた。真新しい日付の羅列表は相変わらずまっさらだった。予定を書き込むこともなければ書き込まれることもない。時間の刻みだけをただ述べるそれに、何ともなしに一抹の寂しさを感じた。これはただ役割を果たしているだけなのに。
秋風が部屋を通り抜ける前に扉を閉める。箱詰めされたモニターを側に退けてから戸締りをした。最近では風の向きも強さもかなり変わって、被っているキャップがずれそうなほどだ。蒸し風呂のようなじめじめとした湿気も風が連れて行ってくれた気がする。マンションのエレベーターの中もそれほど暑さを感じなくなった。白い長袖の襟シャツに水平に描かれた黒の太いボーダーは、エレベーター内のガラスに鮮やかに映った。
路上に時折立ち込めている排気ガスを避けながら、ボクは名刺が示す場所へと向かう。左手に提げたモニターの重さはそれ程感じなかった。それよりも久しく行っていなかった行動、誰かに会いに行くというそれに対して、膝から下が重かった。自分から遊星くんに言葉を掛けておいてなんという様だろうか。全く失礼極まりないなあと嘆息する。だが、しかしだ。他人の好意に対して、たとえそれが偽善の類であっても、どう返せば上手くいくかどうかという問題に未だ明確な答えを出せてはいないのである。
以前はコンビニの窓から見ていた景色を、今日は実際に歩く。ビルに挟まれた交差点を曲がってから暫く進むと、その先に小ぢんまりとした工房があった。角張った建物は二階建てで、見慣れたコンビニとよく似た大きさだ。包丁で綺麗に切り分けられたケーキみたいに角が鋭い。道に面した壁の右端に扉が一つあって、それ以外は一般的な大きさと言える窓が各階に三つずつ設置されている。
ドアノブに手をかけると、喉がぐっと苦しくなった。緊張のせいだ。この向こうには沢山の人が居て働いているんだろう。だがここまで来て帰るというわけにはいかない。胸ポケットに突っ込まれたあの名刺が、今度こそ存在意義を無くしてしまう気がしたから。
開けろ。
ドアノブを持って扉を引いた。けれどもその奥には、ボクの予想に反して誰も居なかった。虚を衝かれたようにボクの目が瞬きを繰り返す。出掛かっていた挨拶は飲み込まれてしまった。銀行のようなカウンター机の向こう側には縦に等間隔に並べられた机が三つあり、その横に扉と同じ大きさで刳り貫かれた壁があった。その奥は小部屋にでも繋がっているのだろうか。カウンターにはチラシが数枚広げられていて、確かに人が居た気配があるのだけれど、その姿は見えない。フロアの左端には階段があり、二階へと続いているようだ。
静かだった。
仕方なく観葉植物の置かれた横に設置されてある椅子に腰掛ける。本日は定休日ではないはずだ、入口には『OPEN』としっかり書かれた札が掛かっていたのだから。モニターの入った箱を傍らに置いて、ボクはどうすべきか考える。意気込んでいたものが一気に消沈したような消化不良のような心地だ。ううんと唸っていると、突然、奥のほうからがたんがたんという音がした。と、その次には、まばゆい金髪をした背の高い男性が薄緑色のつなぎ姿で現れたので、ボクの身体はしばし凍り付く。
「ん? 何だ貴様は」
つかつかとカウンターに近付いて、ぎろ、とボクをねめる目が怖い。あの、ボク、一応お客さんなんですけど。詰問されているかのような空気を何とか打ち破り(心の中で)、椅子から立ち上がって彼の前へと進んだ。カウンター越しに向かい合う男性二人は、決して喧嘩しているわけではない。
「え、えっと、あの、こちらに、不動遊星さんがいらっしゃると」
「何? 遊星だと?」
「え、と、はい」
「なんだ、遊星の客か紛らわしい……ついてこい。案内してやる」
「え?」
ていうかボク、何か紛らわしいことしました? ボクのことは何も気にせず、男の人はカウンターを飛び越えてボクの前に降り立った。軽やかな動きだった。こうして並ぶとボクの方が背が高いことに気付く。ふんと鼻息を一つ噴出して、その人はフロア端の階段へ向かう。慌ててボクもモニターを持ってついていく。かつかつと鉄製の階段を鳴らす足音が、遊星くんと会うまでのタイムリミットを刻む針の音に聞こえた。
十段少々の階段を上りきる。二階はカーテンで真ん中を間仕切りされただけのフロアだった。まるで病室や保健室のようにカーテンレールが天井に付いていて、そこから白いカーテンが垂れ下がっている。仕切られた右側には大きな液晶テレビが壁に設置されていて、向かい合わせに二人掛けのソファが置かれていた。
「あ」
「――ここで、こう……よし……」
遊星くんはそこに胡坐を掻き、手にはゲーム機のコントローラーを握り締めていた。ずだだだだだとボタンを連打する音が、数メートル離れたボクの耳にも聞こえてくる。一心不乱にテレビ画面を見詰めている姿からは何やら執念のようなものすら感じた。この子、相当やり込んでるな――。
「おい遊星!」
返事はない。
「おい!」
「……なんだジャック、俺は今忙しい。カービィが大変なんだ」
「馬鹿者! 客だ!」
「……客?」
じろりとジャックと呼ばれた目の前の男の人を睨んでから、遊星くんはボクをその視界に拾い上げた。瞳が柔らかくなり「あの時の」と口元を綻ばせた。それからゲームをポーズ画面にしてから立ち上がり、ボクの方へと歩み寄ってきた。スニーカーにつなぎという身形はジャックという人と変わらない。このスタイルがここの正装なのだろう。
「済まない、今日はもう客は来ないと思っていたから」
「い、いや、ボクの方こそ、急にごめん……」
「気にしないでくれ。……ええと、」
そういえば自己紹介をしていなかったことを思い出す。この間は名刺を貰っただけで終わってしまったので。
「あ、えっと、ボクはブルーノっていいます」
「ブルーノ」
改めてよろしく頼む、と遊星くんは右手を差し出す。礼儀正しいなあと思う反面、先程ゲームに熱中していた姿が自分と被った。これは社会人特有スキルである社交辞令の一つなのだろうか。
「それは修理品か?」
それ、と指差されたものはボクの左手にぶら下がっているモニターだ。あぁ、と答えて手渡す。彼は受け取った後、「後で見るから、取り敢えず座ろう」と、カーテンで仕切られた片方のスペースへと案内してくれた。そこには大きな作業机や大画面付きのパソコンと共に、シンプルな木製の椅子と机のセット、それに冷蔵庫一つがあった。四脚あるうちの一つに着席を促され腰を下ろす。遊星くんは作業机の上に散らばった工具を手でざっと除け、そこにモニターの箱を置いた。あのジャックという人はボクらのスペースを区切るカーテンの向こうで遊星くんに頼まれてゲームの続きをさせられている。……この会社は本当に営業しているのだろうか。
遊星くんは冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して机に二つ並べた。ボクにくれるということらしい、一つは早速開封されて遊星くんの口へと運ばれた。少し日に焼けた指がプルタブを開ける仕草は、ボクのような人間に比べてひどく健康的に見えた。いや実際、健康的な青年だ、彼は。恐らく、だけれど。一口飲んだ後遊星くんはボクの向かいに腰掛けて、ふ、と口を開いた。
「……取り敢えず、死んでいなくて良かった」
いやいやいやいやいや誤解です!
「ちっ違うんだよ遊星くん! ボクは断じて自殺したいわけじゃないんだ!」
「何? そうなのか?」
知り合いが昔そんな感じだったからてっきりそうだとばかり……と、遊星くんはまじまじボクの顔を見た。眺められるのは慣れていない。ボクは目を合わせないようにさっと視線を逸らした。しかしその知り合いとは誰だろう。少し気になる。そんなにも自殺願望があったのだろうか。
「呼び捨てで構わない」
「え?」
「俺の名前だ。周りの人間は皆呼び捨てで呼ぶから、何だか慣れないんだ」
俺も癖で呼び捨てで呼んでしまうから。そう言って彼はもう一口コーヒーを飲んだ。遊星くん、という呼び方は聞き慣れないらしかった。こそばゆいと訴えるように首を左右に軽く傾けた。
「じゃあ、あ、あの……ゆ、遊星……」
反応して、遊星が笑う。微笑を携えた彼の表情を見て、むず痒いような小さな刺激がボクの中に走った。彼の友人達は、こんな風に名前を呼んで、こんな風に語り合うのだろうか。そしてボクは今、同じことを出来ている?
彼の友人と自分とを同列に考えるだなんて全く分不相応だ。自分が考えたことに嫌気が差して、机に突っ立っていた缶コーヒーを手に取る。冷えた金属は少し汗を掻いていた。
「ところでブルーノ、俺に友人の作り方を教えてくれと言っていたが」
がつっと、ボクの指がプルタブを滑る。やっぱりその話題になるのか、なるよな。つい驚いてしまって上手く開封できなかった。もう一度缶を開けるために爪を引っ掛ける。今度は軽快な音を立てて上手く開いた。
「あ、うん……」
「俺の個人的な考えなんだが、」
「う、うん」
「友人とか仲間とか、そんな枠組みを作ったり、なってくれとか考えなくて良いんじゃないか」
俺にはまだ全くブルーノの過去も人生も知らないんだが。そう言って、カーテンの向こうを透かして見るかのように、遊星はジャックさんの方へとちらりと視線を遣った。その向こうからはボタン連打の音に「くそっくそっ!」と文句を連ねるジャックさんの声が混じり聞こえてくる。ふっと口角を上げる遊星からは、彼がジャックさんに気を許していることがありありと分かった。それはこの間の鬼柳さんとのやり取りで感じたものと似ている。ジャックさんも遊星にとって離れがたい絆で繋がった人間なのだろう。
「テレパシーを送るみたいに、こう、一緒に居たいという想いを届けていれば大丈夫だ」
こう、すっと。
擬音を付けて、缶コーヒーを持ったまま人差し指を立てて、遊星は米神から前へと水平に指を動かした。ん? 仕草は非常に様になっているのに、何故だろう、言動が妙に新興宗教の勧誘のような雰囲気を漂わせているのは。あれ? 遊星って、なんかちょっと、電波なのだろうか。
「ところでブルーノ、これを見てくれ」
戸惑っている間に人差し指はもう仕舞われて、遊星が背後の作業机の下から大きな箱を取り出した。ボクの迷いが溢れてしまっていたのだろうか、言葉を返せなかったから気を悪くしていないだろうか。あ、あ、と考える時間もなく、どすっと箱が置かれる。
「これはジャックの宝物なんだ」
「えっ」
「辛い時に使うと気が紛れるらしい。どうだ? 使ってみないか?」
ふふ、と笑う遊星は、秘密基地を案内するみたいに悪戯っぽく愉しげだ。この無地の段ボール箱に、そんなにも素敵なものが――そう思うと、まるでパンドラの箱のように思えてきた。
遊星の手が段ボールの蓋を開けた。だがそこからは、ボクが予想だにしていなかったものが登場することになる。
「これ、は……」
「シルバニアンファミリーだ」
箱から出てきたのは、昔から子供に根強い人気を博している人形の玩具だった。屋根を真っ赤に塗られたプラスチックの二階建ての家に設置された小さなオブジェ、それに小さな動物を模った人形達。玩具の家の中にはこれまた小さく精巧な家具が置かれていて、あたかもそこで誰かが生活しているかのような臨場感を感じる。メルヘンチックだ。
「ジャックはこれを集めるのが昔から好きでな。どうやら癒しを求めているらしい。時々飾っては遊んでいる」
「……あの、向こうでゲームしてる人、だよね」
「あぁ、そうだ」
なんてこった。世も末だ。あんなクールで気障そうなイケメンがシルバニアンファミリー片手に遊んでいる姿を、一体誰が想像できようか! 不可能だ。ボクですら手を出したことのない世界。まさかそこに新境地が開かれていたとは。
「ジャックのお気に入りはこのシルク猫ファミリーだ」
遊星が掲げた小さな人形は、そのつぶらな目でボクを覗き込んだ。頭でっかちな掌サイズのそれは、耳の中がピンク色に着色されていて、髭もきちんとある。着せられた洋服も細かく、四肢と頭も可動式でよく造り込まれた人形だ。でも知りたくなかった。なんか、すごく知ってはいけないものを知ってしまった気がする。
遊星は一体何を考えてこれを見せたんだろう。ますます彼の電波度が増してしまった。
遊星はシルク猫のお母さん(だと思われる人形)を、赤い屋根の家の居間にあるキッチンの前へと置いた。側に在る食卓にはシルク猫のお父さん(だと思われる人形)を座らせる。器用なもので、彼は人形の足をどれ程の角度で曲げれば座らせられるか等を把握しているようだった。頭の片隅に、ジャックと二人で人形遊びをしている遊星の姿が思い描かれた。男二人が遊んでいるシーンはひどくシュールだ。軽い頭痛を感じているうちに、そこには小さな家庭が出来上がっていた。
「よし、これでいつものシルク猫ファミリーの団欒の完成だ」
一仕事を終えたという満足感のこもった声で遊星が呟く。居間の机の上にはペン先みたいな小さな皿とコップが並べられていて、シルク猫母は手にフライパンを持っている。シルク猫父は椅子に座りながらその母猫を見詰めていた。
小さな子供なら歓喜に飛びつきそうな玩具だが、生憎ボクは立派に成人した大人なのだ。緻密な作品達に感動は抱くものの、別段それ以上の感想は持てなかった。ジャックさんが何故これに拘っているのか不明だった。 「ジャックには両親が居ないんだ」
さらりと遊星が言うものだから、ボクは一瞬自分の心を読まれたのかと思ってしまった。
「え?」
「だから、こんなミニアチュールの世界に惹かれるんだろう」
「……自分で、好きに作れるから?」
夫婦の姿も、家族の姿も。
遊星はこっくりと頷く。その目には一欠けらの同情も憐憫も含まれていない。ただ、事実を淡々と述べているだけだ。
記憶の片隅で、箱庭療法という言葉を思い出した。学生時代のゼミで、夜、教授が言っていたっけ。砂を入れた箱をセラピストが用意して、患者に玩具で箱庭作品を作らせる心理療法。
それに近いものなのだろうか。自分だけが作れる自分だけの世界。ジャックさんにとってはそれが理想の家であり、家庭の姿なのだろうか。人工的に作り上げられた虚構の家庭が。この小さな小さな世界でしか作れない、仮初の家族の姿が。
ボクはシルク猫のお母さんの頭を撫でた。人差し指の腹で、そっと。本物の猫みたいにふわふわした毛ではないけれど、不思議と息吹のようなものを感じた。それはお父さん猫がお母さん猫を見る姿に、ボクらが理想とする夫婦の愛情を見出したからかもしれない。
彼らは決して動くことはない。ボク達が動かして初めて意味を成す。
「でも、この子達は、こうしてやっと愛情を分かち合えるんだよね」
「そうだな」
お父さん猫がお母さん猫を見る姿は、何だか好きだって言ってるみたいだった。好きだよ。愛しているよ。彼らはそんなことは話さないし話せない。ボク達がこうして彼らの世界を作り上げなければ一緒に居ることすらできない。見詰め合うこともできない。そう思うとひどく遣り切れない思いに駆られた。今ボクの手の中には、彼らの命運が握られているも同然なのだ。たった一握りの空間にある、砂粒のような彼らの運命を司る、空想家のボク達。
「辛い時に使うと気が紛れる、って言っただろう」
遊星は、ボクが辛く感じていると思っているのだろうか。いやボクは、今の生活に満足しているし、死にたいなんて思ったこともないし、普通に生きている。辛くはない。ボクが知るボクの範囲内では。
こつ、こつ、と、遊星の右手が人形を増やした。シルク猫の子供の人形に、栗鼠の子供の人形、犬の子供の人形、兎の子供の人形を、それぞれ家の二階の子供部屋へと並べる。その様は、シルク猫の子供とその友人達という構図を簡単に想像できた。
「こうやって誰かが居れば、星が引き寄せられるかのように人が集まってくる。それは偶然じゃない。恒星と惑星のように、中心に誰かが居て、その周りを守護神のように皆が廻る」
そうしてこつんと突っ突いたのはシルク猫の子供だった。彼を囲む三体の人形は、まるでシルク猫の子供を中心とした歯車のようだった。遊星歯車機構。その言葉を彼の名前と共に思い出す。一つじゃ意味を成さないもの。
一階へと手を伸ばして、ボクは愛の言葉を囁けない人形を摘み上げた。右手にお母さん、左手にお父さん。二階に集まる四体の人形は夫婦を取り上げたボクを咎めるわけでもなく、当たり前だが微動だにしなかった。
ジャックさんはこの二体の夫婦を、いつもどんな気持ちで並べるのだろう。
「すきだよ」
お父さんに言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「あいしているよ」
また言わせてみる。お母さんからの返事はない。
「……すきって、なんだろう。愛って、なんだろう」
友人を好きになれなかった自分。他人から逃げている自分。でも世界は深い深い何処かで絶対的な繋がりを持っていて、ボクは結局そこから逃げることはできないのだろう。それは誰に対しても平等な真理だ。この肉体に血が通っている限り、ボクは完全な排他主義者にはなれない。
遊星と話していると、自分の中の深層心理をこじ開けられるような錯覚に陥る。螺子で打ち付けられた壁を外すために、彼の右手はドライバーを持っている。ボクは対抗する術を持たない。何故。何故。疑問が浮かんでは問い掛けに変わる。遊星の言葉が、ボクの螺子を取り外す。
誰かをすきになるって、どんな気持ち?
誰かとつながるって、どういうこと?
猫達からは返事がない。けれども代わりに遊星の声が届いた。
「ブルーノ。君がその人形達を離れ離れにさせたくないと思うのなら、それは愛だ」
遊星の指がもう一体人形を取り出した。大きな熊の人形だ。その人形を二階の人形達に加えようとしたが、そこには熊が入る為のスペースがもう無い。ボクはシルク猫の夫婦を元の位置に戻し、二階のそれぞれの動物達を少しずつずらしてやった。一匹分空いた部屋に熊が立つ。彼らは五体になった。
「友人、できたじゃないか」
君が居場所を作ってくれたから、この熊の人形は惑星の一つになれた。遊星はそう笑って、指先をボクの瞼に添えた。ごく僅かな体温が、ひそやかに伝わる。すぐに離れたその指先には、透明な滴が付いていた。あれ、と思う。離れていく時、彼の手の甲がキャップの鍔に擦れて、ボクの視界が明るくなる。
「俺が仲間になりたかったら、ブルーノが受け入れてくれる。誰かがそこに居ることを肯定すること。それが愛なんじゃないのか」
ただそこに居る誰かのために、一歩隣にずれるだけで、それでいい。
模倣の世界の中で人形達は笑っている。
「友人や恋愛や家族なんて役割を振り分けなくとも、人間と人間の根底に流れているものが愛であるならば、ブルーノ、君は既にそれを知っている。だからそれをわざわざ否定する必要はない。欺瞞も、猜疑心も、自己疎外も抱かなくていいんだ」
遊星の声は、ボクの心に有無を言わせず染み込んでくる。ボクの傘も長靴も、彼の言葉の前には何の弊害にならなかった。それは海水が満ちるような、滾々と湧き出る泉のような、じわじわと止め処なく広がる液体だった。或いはあらゆる場所から流れ込む大気だった。気が付けばボクを抱き込んで、共に融合しようとする。
ボクは、寂しかったのか。
寂しいことが辛かったのか。誰よりも孤独で居たいと思っていたのに、きっと誰よりも孤独で居たくなかった。
互いの関係を考えたくなかった、そこに名前を付けて絶望したくなかったから。自分に価値を見出し始めれば、そこには空虚な恐怖しかなくなるから。友人と言う肩書はボクには重過ぎた。鏡映しのように、期待されればされるほど応えたくなる。けれども同時に、できない自分を滅茶苦茶に処罰したくもなる。それならば肩書など必要ないと辞退してきた。
だから遊星が羨ましかった。友人を持っている君が。絆を持っている君が。本当はそんな大それたものではなくて、ただ誰かが存在するのを受け入れているだけだったのに。
ボクは只管に臆病な犬だった。噛み付くことすら出来ず、耳も尻尾も下げて、けれどもずっと誰かに頭を撫でてもらいたかった、一匹の犬。
滲み出る涙が愛情への渇望と欲求の証明ならば、これは生理的現象だ。人間が人間である以上、ボクらはずっと誰かの中で生きている。誰かが生きている世界で息をする。電気信号を介して伝え合ったり、鼓膜を震わせる声に浸ったり、肌に触れてあたたかくなれるのは、自分が居ることを誰かが享受してくれているから。そこは箱庭ではない、ボクがボクの意思で存在するたった一つの宇宙だ。ボクは誰かの恒星であり惑星になれた。
そして今、遊星はボクの恒星であり惑星となった。
「これで答えになっているだろうか」
「え?」
「友達の作り方を教えてくれという質問の答えだ」
遊星が利害からでも義務感からでもなく、ただ純粋に答えたくて招いてくれたのだと、ボクはやっと気付いたのだった。
「昔、鬼柳が自殺騒ぎを起こしたことがあった」
鬼柳さんが? あの絶妙なカリスマ性を持ち合わせている人が? 思わず首を傾げたくなるが、鼻の奥がつんと詰まったままだったので、ボクは軽く瞬きをしただけであった。机の上には相変わらずメルヘンな世界が佇んでいて、二人ともそれを鳥瞰している。
「兎に角、無気力な死神のような顔をして、生気が抜け落ちた亡霊みたいだった。その頃ちょうど仲間内で揉めていたから、きっとその所為だったんだろう。自分はもう廃棄物だと言って、俺に縋りたくて堪らない癖に、同時に俺から離れていきたくて仕方ないみたいだった」
コーヒーをくっと飲み干して遊星は中空を見つめた。彼の目には今、きっとその頃のことがありありと描かれているのだろう。
「多分、誰かに縋れないと生きていけない自分が嫌だったんだと思う。人間が一人で存在できるなんて有り得ないのに。鬼柳はそれを成し遂げようとしていた。いつも俺達の不可能を可能にしてきた奴だったから」
「そう、なんだ」
「孤独になることで、孤独に耐えようとしたんだろう」
だからボクのことを自殺願望者だと思ったのか。ようやく合点がいった、遊星はボクに昔の友人の姿を重ねたんだろう。鬼柳さんがデジャヴだと呟いていたのはこのことだったのだ。
「俺達は相手を理解したがる。解り合うために苦労して、努力して、ようやく喜びを得ることができる。不思議だ、相手の心の中なんて誰にも完全に読み取ることなんて不可能なのに」
「でもボクらは、それをせずにはいられない」
ボクが君を知りたいと思ったように。
少しばかり細められた遊星の瞳には、くっきりと、涙目のままくしゃりと笑うボクが映し込まれていた。目を合わせると、遊星の電波とボクの電波がシンクロしているような心地になることを初めて知った。
きっと今、ボクらはテレパシーに成功してる。
(了)畳む
ブラックアウトよりも鮮やかに
・寧ろアンチノミー。
#ブル遊
目が覚めたら全てが夢でした。そういった切望に満たされた言葉を、ボクは未来で何度も目にして耳にしていた。いつか素晴らしい世界がやってきて、そこではボクは幸せに笑えていて、ビルも人も今までどおり何ら変わらず欠片も崩壊していない。相変わらずボクはカードをドローしてサーキットを駆け抜ける。風と一体化するような感覚。光を瞼の奥に閉じ込めて、ボクは走る。
甦った世界は、言ってしまえばボクの理想の世界だったのだ。人々がただ単純に普通の生活をして普通にデュエルを楽しんでいる。ボクはこの過去の街、そしてボクが未来で渇望した未来で横たわりながら目を閉じた。ガレージのソファはそんなに柔らかくはないけれど寝るに苦労する程でもない。左腕で目隠しすると、さっきまで遊星と弄くっていたDホイールのエンジンの匂いがした。馴染んだ匂い。けれどもボクが昔嗅いだものとは全く違う匂いだ。
ボクの存在が段々と別の時間を歩き始めている。それは日に日に強くなっていく。一度終わったストーリーが手を加えられて描かれるような。一ページ、また一ページと進む度に、ボクの抱えた秘密を暴かれそうな恐怖が溢れてきて仕方がない。罪悪感がちらちらと降り注いでボクを震えさせる。
人は未来に夢を見て、未来に怯える。希望も絶望も未来に描く。正反対のそれら。二律背反。ボクの名前。
ボクは、ブルーノなのか。それとも。
独り言ちた声は幽霊の呟きのようにぼそぼそと散った。ブルーノというボク。アンチノミーというボク。どちらにせよボクの存在はこの時代に異質なものであることに変わりはない。けれどもそれがいつか、遊星の進む先の星明りになれるのなら、ボクが今此処に居ることには意味がある。結果はまだ見えない。澱んだ道標はボクを正しい場所へ連れて行ってくれるのか知らない。知らないけれど、それが為される時、きっとボクは此処から消える。ボクの中に蓄積された時間はリセットされて、異質な存在は消却される。神様なんて見えない存在の采配なんかじゃない。それはボク等じゃ到底左右させることの出来ない、大きな大きな宇宙の流れが、時の砂時計が執行するのだ。
ボクは自分の命が尽きた瞬間のことをあまりよく覚えていないけれど、強い孤独を感じていたことだけはありありと思い出せた。仲間に遺され、仲間を遺して去る寂しさ。この感情を、いつか遊星は感じるのだろうか。いいや感じてくれるのだろうか? ボクが居なくなったら二度と会えなくなることに涙を流したりしてくれるのだろうか? 孤独の深さは相手を想うベクトルに比例するのであれば、君の孤独はボクの孤独と同じ量なのだろうか?
腕を瞼から外して、掌を胸に当ててみた。何も鼓動は感じなかった。代わりにちくたくと、偽物の命がひとりでに時を刻む。真っ暗な視界で延々と進む時計。せめて遊星と同じものを持っていたならば、ボクは彼と一緒に歩くことが出来たのだろうか。嘗てのボクだったならば。
「どく、どく、じゃない。遊星みたいな音がしない――」
でもボクは、こんなボクでも、きっと生きてるんだろう。ならボクの針はあとどれだけ廻る? 暗闇は答えを持たない。輝きを求めて目を開けたら、見慣れたガレージの天井が広がって、そこに半分だけ差し込んだ月の光がボクの世界を青白く照らしていた。夢じゃない、ボクが生きた現実とは違う、現実の世界を。畳む
・寧ろアンチノミー。
#ブル遊
目が覚めたら全てが夢でした。そういった切望に満たされた言葉を、ボクは未来で何度も目にして耳にしていた。いつか素晴らしい世界がやってきて、そこではボクは幸せに笑えていて、ビルも人も今までどおり何ら変わらず欠片も崩壊していない。相変わらずボクはカードをドローしてサーキットを駆け抜ける。風と一体化するような感覚。光を瞼の奥に閉じ込めて、ボクは走る。
甦った世界は、言ってしまえばボクの理想の世界だったのだ。人々がただ単純に普通の生活をして普通にデュエルを楽しんでいる。ボクはこの過去の街、そしてボクが未来で渇望した未来で横たわりながら目を閉じた。ガレージのソファはそんなに柔らかくはないけれど寝るに苦労する程でもない。左腕で目隠しすると、さっきまで遊星と弄くっていたDホイールのエンジンの匂いがした。馴染んだ匂い。けれどもボクが昔嗅いだものとは全く違う匂いだ。
ボクの存在が段々と別の時間を歩き始めている。それは日に日に強くなっていく。一度終わったストーリーが手を加えられて描かれるような。一ページ、また一ページと進む度に、ボクの抱えた秘密を暴かれそうな恐怖が溢れてきて仕方がない。罪悪感がちらちらと降り注いでボクを震えさせる。
人は未来に夢を見て、未来に怯える。希望も絶望も未来に描く。正反対のそれら。二律背反。ボクの名前。
ボクは、ブルーノなのか。それとも。
独り言ちた声は幽霊の呟きのようにぼそぼそと散った。ブルーノというボク。アンチノミーというボク。どちらにせよボクの存在はこの時代に異質なものであることに変わりはない。けれどもそれがいつか、遊星の進む先の星明りになれるのなら、ボクが今此処に居ることには意味がある。結果はまだ見えない。澱んだ道標はボクを正しい場所へ連れて行ってくれるのか知らない。知らないけれど、それが為される時、きっとボクは此処から消える。ボクの中に蓄積された時間はリセットされて、異質な存在は消却される。神様なんて見えない存在の采配なんかじゃない。それはボク等じゃ到底左右させることの出来ない、大きな大きな宇宙の流れが、時の砂時計が執行するのだ。
ボクは自分の命が尽きた瞬間のことをあまりよく覚えていないけれど、強い孤独を感じていたことだけはありありと思い出せた。仲間に遺され、仲間を遺して去る寂しさ。この感情を、いつか遊星は感じるのだろうか。いいや感じてくれるのだろうか? ボクが居なくなったら二度と会えなくなることに涙を流したりしてくれるのだろうか? 孤独の深さは相手を想うベクトルに比例するのであれば、君の孤独はボクの孤独と同じ量なのだろうか?
腕を瞼から外して、掌を胸に当ててみた。何も鼓動は感じなかった。代わりにちくたくと、偽物の命がひとりでに時を刻む。真っ暗な視界で延々と進む時計。せめて遊星と同じものを持っていたならば、ボクは彼と一緒に歩くことが出来たのだろうか。嘗てのボクだったならば。
「どく、どく、じゃない。遊星みたいな音がしない――」
でもボクは、こんなボクでも、きっと生きてるんだろう。ならボクの針はあとどれだけ廻る? 暗闇は答えを持たない。輝きを求めて目を開けたら、見慣れたガレージの天井が広がって、そこに半分だけ差し込んだ月の光がボクの世界を青白く照らしていた。夢じゃない、ボクが生きた現実とは違う、現実の世界を。畳む
世界であって世界でない君の世界
・高校生なふたり。
・遊星が電波です。
#ブル遊 #現代パラレル
不動遊星という人はいつもラジオを聴いていた。屋上で、校舎の裏で、時には使われていない教室で。薄っぺらい箱型の旧式機械は、黒い身体をその人に預けて避雷針みたいな銀色のアンテナを突っ立てていた。ボクはその人のことをたまに見かけては、不良だって噂のその人にちょっと似合わないラジオが、そのラジオだけが彼を知っているように思えて、ちょっと羨ましかった。
その日の放課後はテスト期間で早く始まった。昼過ぎには学校の人口はごっそり減って、ボクは提出書類を職員室に届けてから校舎を出た。近道しようと昇降口の裏手に回り込んだ時、そこに座り込んだ件の人物を偶然見つけて、反射的に「わっ」と声を上げてしまった。
「あぁごめんなさい!」
謝ったのは彼にぶつかりそうになったからだ。しかし不動遊星は特に表情を変えるわけでもなく、金交じりの黒髪の間から目線を僅かに上げてこくりと小さく頷き、それから再び手元のラジオに目を落とした。まるでボクなんて酸素が少し揺らいだだけみたいなそんな態度で、ちょっと寂しかった。
不動遊星は校舎の壁を背凭れに座り込みラジオを抱えていた。アンテナを左右に動かしたりして、スピーカーから流れるががっという音を観察しているようにみえる。電波の入りが悪いのだろうか。と思っていたら、ふと声が流れ始めた。この国の言葉じゃなかった。
「外国語?」
「あぁ」
思わず声に出てしまっていたことに焦ったが返事があったことに驚愕した。というか、ボクは彼の声をこの時初めて耳にしたのだ。低い声。でも、想像していたよりずっとやさしい声。彼はボクではよく聞き取れない言葉を理解しているのかどうか定かではないが、海外の女優さんのような声に耳を傾けている。間も無くラジオは音楽を奏で始めた。ギターのアルペジオにベースラインが乗っかって、ドラムが叩かれる。昔の曲なのだろうか、聴いたことがない。ちっちっちっちっと、時計の針の音が早くなったみたいなシンバルのリズムが柔らかく、昼下がりに気持ちが良かった。
不動遊星はいつもこんなことばかりしているのだろうか。ボク等の知らない国の、ボク等が知らない曲を聴いて。
「ねえ、君はどうしてそんな古いラジオを持って、こんなことをしているの」
不躾な質問だと思う。けれどもボクは単純に浮かんだ疑問を解決しようと躍起になっていた。不動遊星は学者にとっての新種生物のような存在だったから。解明を望むのは発見者の欲求だろう。
「何処かで誰かが生きていることが分かるからさ」
「でも君はその人を知らないんでしょう」
「知っている必要はない。一人ではないことを感じられるなら」
「君は孤独なの」
「いいや。こうして世界に誰かが生きていることを知っているから、誰も孤独じゃない」
不動遊星は共有していた。遠い誰かと、その音楽を共有していた。電波が運んできたそれが彼を孤独にさせない。そうして見えない場所で生きている誰かを感じていた。彼にとって身近な人間よりも現実的で、きっとボクなんかその足元にも及ばないような誰か。それは誰でもなくて誰にでも当て嵌まる、けれどボク等じゃない。不動遊星にとっての現実はこの場所ではない。
「君はそこから動かないんだね」
「俺にはこっちの世界が合っている」
そこへ、ボクは足を踏み入れることが出来るのだろうか。君の有する世界は目に見えない。まずはボクもラジオを用意すべきだ。話はそこからだ。畳む
・高校生なふたり。
・遊星が電波です。
#ブル遊 #現代パラレル
不動遊星という人はいつもラジオを聴いていた。屋上で、校舎の裏で、時には使われていない教室で。薄っぺらい箱型の旧式機械は、黒い身体をその人に預けて避雷針みたいな銀色のアンテナを突っ立てていた。ボクはその人のことをたまに見かけては、不良だって噂のその人にちょっと似合わないラジオが、そのラジオだけが彼を知っているように思えて、ちょっと羨ましかった。
その日の放課後はテスト期間で早く始まった。昼過ぎには学校の人口はごっそり減って、ボクは提出書類を職員室に届けてから校舎を出た。近道しようと昇降口の裏手に回り込んだ時、そこに座り込んだ件の人物を偶然見つけて、反射的に「わっ」と声を上げてしまった。
「あぁごめんなさい!」
謝ったのは彼にぶつかりそうになったからだ。しかし不動遊星は特に表情を変えるわけでもなく、金交じりの黒髪の間から目線を僅かに上げてこくりと小さく頷き、それから再び手元のラジオに目を落とした。まるでボクなんて酸素が少し揺らいだだけみたいなそんな態度で、ちょっと寂しかった。
不動遊星は校舎の壁を背凭れに座り込みラジオを抱えていた。アンテナを左右に動かしたりして、スピーカーから流れるががっという音を観察しているようにみえる。電波の入りが悪いのだろうか。と思っていたら、ふと声が流れ始めた。この国の言葉じゃなかった。
「外国語?」
「あぁ」
思わず声に出てしまっていたことに焦ったが返事があったことに驚愕した。というか、ボクは彼の声をこの時初めて耳にしたのだ。低い声。でも、想像していたよりずっとやさしい声。彼はボクではよく聞き取れない言葉を理解しているのかどうか定かではないが、海外の女優さんのような声に耳を傾けている。間も無くラジオは音楽を奏で始めた。ギターのアルペジオにベースラインが乗っかって、ドラムが叩かれる。昔の曲なのだろうか、聴いたことがない。ちっちっちっちっと、時計の針の音が早くなったみたいなシンバルのリズムが柔らかく、昼下がりに気持ちが良かった。
不動遊星はいつもこんなことばかりしているのだろうか。ボク等の知らない国の、ボク等が知らない曲を聴いて。
「ねえ、君はどうしてそんな古いラジオを持って、こんなことをしているの」
不躾な質問だと思う。けれどもボクは単純に浮かんだ疑問を解決しようと躍起になっていた。不動遊星は学者にとっての新種生物のような存在だったから。解明を望むのは発見者の欲求だろう。
「何処かで誰かが生きていることが分かるからさ」
「でも君はその人を知らないんでしょう」
「知っている必要はない。一人ではないことを感じられるなら」
「君は孤独なの」
「いいや。こうして世界に誰かが生きていることを知っているから、誰も孤独じゃない」
不動遊星は共有していた。遠い誰かと、その音楽を共有していた。電波が運んできたそれが彼を孤独にさせない。そうして見えない場所で生きている誰かを感じていた。彼にとって身近な人間よりも現実的で、きっとボクなんかその足元にも及ばないような誰か。それは誰でもなくて誰にでも当て嵌まる、けれどボク等じゃない。不動遊星にとっての現実はこの場所ではない。
「君はそこから動かないんだね」
「俺にはこっちの世界が合っている」
そこへ、ボクは足を踏み入れることが出来るのだろうか。君の有する世界は目に見えない。まずはボクもラジオを用意すべきだ。話はそこからだ。畳む
兎よ空を駆けろ
・失った後の遊星。
・Funny Bunny/the pillowsからインスパイア。
#ブル遊
夜空はとても美しかった。
冬になろうと地球が廻って何回目か知らないが、この時期の空は高く星のまたたきがより輝いて見える。俺にとっては数少ない愛でるべきものだ。きっと誰にも汚されない、誰にも奪えない煌き。神にも近い崇高な存在だ。眠れなかったから僕は星の名前を覚えようとしたんだよ。そう言って赤い目で朝を迎えていたブルーノの顔が浮かんだ。
冷えた風が足元を踊る。作業場には以前のように馴染んだ人間は誰一人として居ない。たった一人、俺だけが、まるで縋るようにこのガレージに残っている。独り言を呟きながらD・ホイールの手入れをしている俺を見たら、皆は何と言うだろうか? 恐らく何も言わない。ただ寂しさを浮かべた瞳で見るだけだろう。いっそ哀れんでくれれば楽かもしれない。だが、きっとそうはしない。皆が皆、俺を好きだと言ってくれるから。愛とは時に辛さを齎すことを、最近になって漸く知ったのだった。
シャッターを開け放した入口から覗く暗闇には、硝子に光が反射するように星が舞う。星の消滅の光になれたら、俺はブルーノのところへ行けるだろうか。光になれたら。
光。光が欲しい。部屋の隅に立て掛けてあったひびの入った窓硝子が目に入った。衝動的にそれを引っ張り出して、思い切り床に倒す。がしゃあんと音を立てて呆気なく割れ破片になったそれを、更に金槌で砕いた。何度も砕いて、粉々にした。コンクリートの床に当たるがんがんという音と、硝子が壊れていくがしゃがしゃという音が、俺だけに響いた。
それを何往復した頃だろうか、床には綺麗な硝子の絨毯ができた。室内に灯った小さな照明を反射し、薄緑がかった光を帯びている。あちこちに屑が飛び散ってしまった(汚くするとアキが怒るが彼女は此処には居ない)。硝子の上に乗ると、じゃりり、と摩擦音が上がった。ブーツの下は棘の海。けれどもこれは俺にとっては銀河の流れだ。光の放流に沿い、宇宙にたゆたう星屑みたいに彷徨い果てて、いつかブルーノの居る場所へ辿り着くのだ。畳む
・失った後の遊星。
・Funny Bunny/the pillowsからインスパイア。
#ブル遊
夜空はとても美しかった。
冬になろうと地球が廻って何回目か知らないが、この時期の空は高く星のまたたきがより輝いて見える。俺にとっては数少ない愛でるべきものだ。きっと誰にも汚されない、誰にも奪えない煌き。神にも近い崇高な存在だ。眠れなかったから僕は星の名前を覚えようとしたんだよ。そう言って赤い目で朝を迎えていたブルーノの顔が浮かんだ。
冷えた風が足元を踊る。作業場には以前のように馴染んだ人間は誰一人として居ない。たった一人、俺だけが、まるで縋るようにこのガレージに残っている。独り言を呟きながらD・ホイールの手入れをしている俺を見たら、皆は何と言うだろうか? 恐らく何も言わない。ただ寂しさを浮かべた瞳で見るだけだろう。いっそ哀れんでくれれば楽かもしれない。だが、きっとそうはしない。皆が皆、俺を好きだと言ってくれるから。愛とは時に辛さを齎すことを、最近になって漸く知ったのだった。
シャッターを開け放した入口から覗く暗闇には、硝子に光が反射するように星が舞う。星の消滅の光になれたら、俺はブルーノのところへ行けるだろうか。光になれたら。
光。光が欲しい。部屋の隅に立て掛けてあったひびの入った窓硝子が目に入った。衝動的にそれを引っ張り出して、思い切り床に倒す。がしゃあんと音を立てて呆気なく割れ破片になったそれを、更に金槌で砕いた。何度も砕いて、粉々にした。コンクリートの床に当たるがんがんという音と、硝子が壊れていくがしゃがしゃという音が、俺だけに響いた。
それを何往復した頃だろうか、床には綺麗な硝子の絨毯ができた。室内に灯った小さな照明を反射し、薄緑がかった光を帯びている。あちこちに屑が飛び散ってしまった(汚くするとアキが怒るが彼女は此処には居ない)。硝子の上に乗ると、じゃりり、と摩擦音が上がった。ブーツの下は棘の海。けれどもこれは俺にとっては銀河の流れだ。光の放流に沿い、宇宙にたゆたう星屑みたいに彷徨い果てて、いつかブルーノの居る場所へ辿り着くのだ。畳む
・ブルーノが殺人犯で病んでる。
・報われない。
・暗い。
#ブル遊 #IF
俺がいまだにこのブルーノという奴と腐った果物を押し潰したような恋人関係を続けていることには訳がある。自分でもこいつとの関係を「恋人関係」だなどと表現することには大変遺憾なのだが、それ以上もそれ以下にも今のところ適当な言葉が見当たらないのだから勘弁して欲しい。目の前のテーブルに置かれたカップには真っ黒な液体がたっぷりと注がれたままで、時折机上に置かれた俺の手の震えに反応して薄い湯気の上がる水面を揺らしていた。もしかしたら身体の振動ではなく心臓の鼓動が伝わっていたのかも知れない。いやそんなことはどうだっていいのだ。問題はその奥に座って、俺の無表情をさも楽しげに見詰めているブルーノにあった。
「どうしたの? 飲まないの?」
ブルーノは柔らかい人の良さそうな笑みを浮かべて、まったりとした声で呟く。その手には俺の前に用意されたものと全く同じカップがあって(中身もきっと同じだろう)、一口啜った後にふぅと一息ついた。
「美味しいよ」
この男は、何も返さない俺に対して瞳を少し哀しげに伏せて、己の蒼い髪で隠した。きっと十人中九人は今のブルーノを見て幾ばくか胸を痛めるだろう。それ程までにこの男は他人を抱き込む術に長けていた。けれども残りの一人は決してそうはならない。何が起こっても同情などしない。それは、俺だからだ。
「ねぇ遊星、この間セキュリティの人が来てたよね」
橙色の電灯が上から俺達を照らし続けている。身体の影が机に映し出されて、カップの白と対照的なそれを眺めながらブルーノの話を頭の中で反芻した。セキュリティの人とはクロウのことを指しているのだろう。三日前、このコンドミニアムに親友のクロウが来た。その時の心配そうな彼の顔が浮かぶ。無論クロウはブルーノが居ない時を見計らって来たはずなのだが、それを知っているということは何処かで俺を見ていたに違いない。本当にこいつの執着心には呆れる。
「……・聞くまでもないだろう、お前のことだ」
「ボクはもう釈放されたのに、まだ監視されなくちゃならないの」
「俺が、お前を殺していないか確認しに来たんだ」
真実だった。セキュリティに勤めているクロウは、俺とブルーノの経緯を全て知っている。如何してブルーノが釈放後俺と今のような関係になったのかまで、全部。
「あぁ、そういうことかぁ」
ふふ、と、そう言ってブルーノは幸せそうに笑った。幸せそうに。その表情は俺は立ち上がらせ、ブルーノの胸倉を掴み上げるのに十分な要因だった。衝撃でブルーノが持っていたカップからコーヒーが零れて机の木目に広がる。じわじわ領土を拡大していく黒い染みは、俺の中に巣食った憎しみの塊のようだった。ぽたぽたと、ブルーノの指から苦い憎しみが滴り落ちる。
「あー零れちゃった……・酷いよ遊星」
「俺はお前を許さない」
「なら、どうして殺さないの」
「まだ殺さない。お前が本当に俺を愛した瞬間、お前を殺す」
俺に胸倉を掴まれたまま、けれどもブルーノは視線を落として俺とは目を合わさずに居る。見下ろす俺はきっと悪魔のように冷酷な目をしていることだろう。或いは死神の如くブルーノの首元に鎌を引っ掛けているように見えるかも知れない。全身から滲み出る怒りは恐ろしい程凍てついていて、その冷たさが手を震わせた。ぎとぎとした何かが胸の奥から湧き出て指先から脳まで駆け巡るのを感じた。
「ボクは君を愛しているのに。だから君の恋人も殺したのに」
「お前は愛なんて持っていない」
「でも、こんなボクだから、君はずっとボクを見ていてくれるんでしょう?」
漸く僅かに顔を上げたブルーノは、その双眸に光を携えて俺を見た。唇を緩やかに綻ばせて、眉根を小さく寄せて、俺を見上げた。この表情に覚えがある。俺の大切な人間を殺した後に見せた顔だ。哀しみがやっと終わったような、これからずっと苦しまなければならないことを悟ったような、複雑な表情。ブルーノは時折こんな顔をする。その度に俺の脳裏に過去の光景が甦って、全身の血が一瞬にして煮え滾るのだ。人間は一体如何して、悲哀も憎悪も忘れることができないように作られているのか不思議でならない。それは俺を狂わせる。そして、ブルーノも。
「遊星、大好きな遊星。ボク等はメビウスの輪だよ。ボクが君を求めているうちは、君もボクを求めずに居られない」
脆い声でそう囁いたブルーノは逆に俺の襟元を掴んで引っ張った。急激に降下した視界にくすんだ青銅色の瞳が広がったと思うと、乾いた唇にブルーノのそれが重なる。
「ん……」
苦い味がした。怒りと憎しみと哀しみの味。ひどい味。その中にブルーノが与えてくる熱が交じる。そうだブルーノ。俺の喜びがお前の喜びになるまで、俺達の境界線を失くすまで、俺を求めると良い。そうしてブルーノがどんどん俺の中に入り込んで、いつかきっと俺を心の底から求め、愛する瞬間がやってくる。ブルーノの心が、希望と、光と、愛で満たされる時が必ず来る。その時俺は審判を下すのだ。本当の絶望とは本当の希望の裏に存在する。お前が真の希望を手に入れるまで俺はお前を求めて、虚像の愛情で塗り固めた俺を差し出そう。
そうしてお前の世界が完成した時が、世界の終わりだ。畳む