から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

衛星
・本編後IF設定。
・疲れてる草薙さんと、映画とジャズと寸劇と。
※CP要素はとても薄め。
#Ai遊 #IF

「おっと」
「大丈夫か、……これ落としたぞ」
「すまない、ありがとう! ところで君はいつもこの店にいるのかい?」
「おおよそ毎日、午後四時から午後八時まで」
「なら明日も会えるな。そうだ自己紹介が遅れた、俺は草薙。今日は朝からアンラッキー続きだったが、最後にラッキーなことが起きて最高な気分の男さ」
「……その『ラッキーなこと』っていうのは?」
「君が俺の落としたスマホを拾ってくれたこと」
「……草薙さん、疲れてるなら早く休もう。俺も片付けたら上がるから」
「すまん……昨日、あまり寝てなくて……気分が……」
 草薙から乾いた笑いが零れる。眉間をもみほぐす姿に疲れの色がはっきりと滲んでいて、先ほど飲んだコーヒーがやけに苦かった原因を突き止めた――遊作はコーヒーという飲料を特別好んで飲用しているわけではなかった。草薙が淹れてくれるので感謝とともに口にしているだけだ。豆の良し悪しも分からないし、客が言う深煎り浅煎りの差も味の濃淡程度にしか知らない。
 だが、本日の締めの一杯はこれまで経験したことのない苦味と酸味で、深煎りと浅煎りが激しく怒り狂っているような、コーヒー何杯分を凝縮したらこの味になるのだろうかという味さえした。遊作が最低限持ち得る社交辞令を駆使したとしてもたった一口しか喉を通らなかった。端的に言えば、不味かったのだ。
 何とか顔に出さないようこらえたのは、遊作の手の中に残された最後のカードである。草薙さんあの、と声を掛けようとしたところで、その当て所も無い目線に気付く。
 虚で、定まらず揺れ動いている。
 予想どおりというべきだろうか。いつもならば手元を見ずとも、定位置に置かれた端末を掴むことなど習慣の一つで造作もない。しかし覚束ない指先は机上でたたらを踏んで、キーボードの端からようやく端末へ辿り着いたかと思えばそれは呆気なく落下していく。床に衝突する前に拾うことができたのは、たまたま遊作が草薙の様子を観察していたからに過ぎなかった。追い討ちをかけるように、普段なら持ち出さない海外映画じみた冗談。
 これはまずい。
 遊作から帰宅を促した例がほとんどなかったからか、珍しげに瞬きを二、三度したその下瞼にはくっきりと隈がある。今日、出勤した時から気に掛かっていた隈だった。通常の閉店時間より三十分も前、しかし客が来る様子はなく草薙は苦笑いをたずさえながら受諾するに至る――遊作の手の中でスマートフォンが震えて、見れば草薙から帰宅した旨の連絡だ。胸を撫でおろし、再び制服の尻ポケットにしまった。
 月の青白さと交じり合いながら、街灯が規則正しく敷かれた煉瓦を照らしていた。ぼうっと浮かび上がった歩道は、ようやく自分の足を受け止めてくれたような、はっきりとした感触を返す。ああ、事故など起こすことがなくて本当に良かった!
「どゆこと!?」
 波の静まった遊作の心に再び波を到来させるAiの声は、控えるということを何処かに捨て置いてきたのか、遊作が目を背けたくなる程度にはよく通った。
 夕飯の時刻をとうに過ぎた街は、取り残されたように家路を急ぐ通行人が行き交う程度で、つとめて静けさを保とうとしている。そんな見知らぬ誰かと視線を交えることなど皆無の日常で、隣に立つ男の豪奢な服装と騒がしさは幾人の目を引いた。照明の多い街中ではあれど、夜の中ではAiの首元の菱形は負けぬくらい強く輝き、それが明らかになればなおのことである。あたかも人間のように振る舞うソルティスはひと際珍しい。
「オレというものがありながら! お前ってやつはよお!」
 肩を揺さぶるな、大声を出すな、ただでさえその格好は目立つのだから外出時だけでもやめろ。山ほどある文句を言う前に、怪訝そうに見てくる見知らぬ人へ頭を軽く下げ、すみません喧しくて、と遊作は視線で謝り続けた。先手を打っておけば、大抵の人間は何も言わずに去っていくものだ。威嚇する犬のようなものである。自分に非があるわけでもないのに、既に数人の市民に対して謝罪を済ませた少年は、下げていた頭をぐっと持ち上げてAiを見遣った。
 保護者的な立場から考えれば、監督不行き届きとして非はあるかもしれない。もしくは教育を間違ったのだろうか。帰ったらしっかり注意しなければならない。それか、外出用シーケンスを組み込むか?
「さっきのか。草薙さんは睡眠不足なんだ」
「まるで映画で後々恋人同士になるフラグ立ってる二人が最初に出会うシーンなんですけど!?」
「黙れ。住宅街が近いんだから静かにしろ……あと細かい」
「あー昼間暇だったんで映画観てた、海外の。人間観察ってやつ?」
「他のことを観察しろ」
「だって日中はすることねえし……てかそうじゃなくて! オレの前でしないでくれる!? なんか情緒がやばい……」
「お前は俺に草薙さんを見捨てろっていうのか」
「だー! もー! 草薙を引き合いに出すなよ!」
 帰路の道中も、アパートの部屋に入ってからも、ああだこうだと喚き続けるAiを眺めていると、感情に振り回される人間の挙動をそっくり再現したらこうなるのではないか? と思えてくる。もしAiの中で感情が他からの制御を受けずプログラム化されているならば、処理フローに従って感情が選択されているべきであろうが、毎度のことながら遊作にはどうもそうとは思えなかった。喜び、怒って、哀しんで、楽しむさまは今の見た目も相まって、自分達と何ら変わりないように見える。少なくとも遊作にとってはそうだ。
 自己申告によると、このような状態となったAiを振り回しているのは一般的には嫉妬と呼ばれるものらしい。だが、遊作にそれが明瞭な色をもって胸の内に顕現したことがなかったことから、Aiの行動と感情を紐づけるまで少々手間取ることになったのは、いまだ記憶に新しい。
 問題は、最近では振り回される頻度が増し、遊作の頭痛の要因になりつつあることだ。現に今も、遊作のこめかみは肘を打ち付けた時の鈍痛を五分の一くらいにした程度には、じんじんと痛かった。
 制服のブレザーを脱ぎながら嘆息したのを、Aiがまた指摘した。「あー! めんどくさい奴って思ってんだろ! 遊作チャンの非道!」言い当てられたので遊作は一瞬だけ肝を冷やした。同時に、あんな冗談の応酬がこいつの気に障ることもあるんだな、と思う。
 毎度のこと、面倒ではあっても遊作は意外だと思うことを禁じ得ない。何せ自分を自由にさせているのはAiで、誰かと会ったり何処かへ出掛けることを制限されたことはないし、もとより制限する必要がないのだ。何をしていてもネットワーク内であればAiが見るも見ないも自由で、それはAiと出会うまでの五年間で証明されている。言い換えればAiを前にした自分は、四六時中Aiの手中に収まっていることと変わりがない。たとえ、遊作自身に害があることをAiがしないと分かっていても。
 掌の上で転がされている自分を思い描いた。小動物のごとく寝そべる自分は全く可愛げがなかった。リスとか、小鳥とかだったら良かったかもな。それならば堅牢な巨大システムに鹵獲された自分はどうだろう? ソルティスではなくデータを食す時の、四方八方へ手足が伸びていくさまを想像する――こちらのほうがまだ現実味があった。蛸のようにうねうねと躍動する形状は見覚えがあるから。
 結局のところ、何処にいてもAiの目が届く範囲であるから、信用とか信頼だとか以前の話だ。遊作が目下対処を迫られているのは、AIであるAiから発生する感情を本人が持て余したその先、行く末なのだった。そこにはいつも自分がいて、Aiの許容範囲を超えた濁流に巻き込まれて、呼吸の仕方を忘れたように息苦しかった。流れの中には酸素がなく、空気を求めて手を伸ばして、最後にはAiに辿り着いている。
 だからAiは胸を弾ませて、寧ろ感情に振り回されるのを楽しんでいるのかもしれない。Aiは言う。
「遊作から生まれたんだから、オレが一番遊作を分かってなきゃいけねえの。遊作がオレを一番分かってるみてえに」
 どこまでも一緒くたになろうとする欲求は間欠泉だった。いつ発生するか読めない、熱くて、避けなければ飲み込まれて、みっともなく茹で上がってしまう。自分のほうが振り回されていることを、遊作自身認めたくなくとも認めざるを得なかった。ほとばしりが去ったあとはいつも、手を伸ばした先、Aiの中に取り込まれているので。
「草薙さんも緊張したままで待っていたんじゃないか?」頭痛も相まって、ベッドに腰かけた途端に沈みたくなる。遊作の精神も肉体も横たわることを望んでいるが、何とか耐えた。「弟さん、今が一番忙しいらしい」
「連絡あったんだったら別に起きてなくてよくね? 帰ってきたの、深夜まわってたんだろ?」
「そういうものなんだろう、家族っていうのは」
 多分、と付け加えた遊作に反論できるようなAiではなかった。家族ってものがどういうものか覚えていないが。そう言葉の端々に含ませて、しかもそれを当然という様子で言うものだから、まるで記憶の空虚など最初から存在しないように聞こえてしまうのだった。それが遊作の見えないところで、Aiの内部にも同じ空虚を生み出す。少し前に街灯の間から二人の頬を撫ぜていった、夜風の温度に似た冷たさが広がって、ソルティスの唇を押し広げようとした。
 お前にもいたんだよ。今も多分、どっかにいるんだよ――口にしようとしたことを、遊作は実のところ分かっていたかもしれない。けれども正体不明の影を追うのは光の尻尾を探すようなもので、今にも押し出されそうな空白を飲み込んで、Aiが切り返す。
「でもよ、交友関係? つーの? 広がるのは良いことだろ」
「ああ。草薙さんも言っていた。それに一ヶ月も経たないうちに元に戻るさ」
「文化祭ってやつな。お前がまーったく、ぜーんぜん参加意欲のないお祭り」
「余計なお世話だ」
「ま、やっと普通の高校生になれた弟に注文つけたくはないわな。嫌がられたくねえし……はー、人間の心理ってのは面倒だねえ」
 面倒なのはお前の心理だぞ。遊作は内心そう零したものの、AIに心理があるのか、本当のところはどうなのだろう。



「草薙がOKならオレでも良いだろ?」Aiがそう言ったのは、遊作が髪の水分をタオルで乱雑に拭っていた時だった。「ソルティスならリアリティもあるし」
 遊作の前でくるりと一回転するさまはダンサーのように軽やかで、そのまま右手を前に、左手を上にしてお辞儀をするものだから、踊り出す前の舞台挨拶にも見える。いまだうっすらと湯気をまとう遊作へ差し出してみせたのは、昨日まとめ買いしたミネラルウォーターのボトルだった。仰々しい動きに似つかわしくない生活感溢れるパッケージに、笑いを禁じ得ず、誤魔化したせいでそれは中途半端に崩れてしまう。
「OKって、何がだ」
 受け取って訊ねた。草薙さんが良くてお前に駄目なことがあるのか? という言葉が出かかったけれども、遊作の喉に引っ掛かって止まった。言うと何だか、墓穴を掘るような気がする。
「海外映画の真似!」
 再び一回転、これもまた完璧なバランスで、緋色の裏地を翻しながらマントが円を描いた。ピアスの揺れる間隔とは対照的だ。満面の笑みと、人差し指と中指がびっと立ったジェスチャー、つまりピースというおどけた様子がなければ、もう少しで拍手喝采とともに見惚れていたかもしれない。こいつ、AIじゃなかったら役者で食っていけたかもな。頭の片隅に残ったささやかな冷静さのおかげで、遊作の両手が打ち鳴らされることはなかった。ついでに言えば、頭痛が強まった気がした。
「もうお前のメンテナンス時期だったか?」
「いやいやいや違えって故障でもバグでもねえから」
「なら一体何だというんだ」
「映画観たっつったじゃん? それ思い出してよ。なんかオレもやりてえの! 草薙と喋ってたみたいな感じの、ああいうやつ! 草薙ばっかずるいー!」
 出た……と、少年が閉口したのも致し方なかった。このAIの最近の口癖に「ずるい」がリストアップされている。恐ろしいキーワードだった。何せ、原因を全て他所へ責任転嫁して、場合によっては何が問題だったのか有耶無耶にしてしまう、無邪気さの皮を被ったしたたかなカードである。おまけに、受け取った相手を面倒くさい思いにさせる効果まで付いている。
 ずるい、とは何がずるいのか。ずるいと言われるようなことを草薙さんとした覚えはない。そこを問い質しても良いが、手間のほうが上回ることが目に見えていて面倒だ。
 ボトルの蓋を開け、一口、二口、三口、含む。仰け反った白い喉がこくこく動くのを、二つの目玉がじっと見つめていたことなんて知らないままで、その内側を流れていく水は少年の感情とじわじわ広がる頭痛が爆発する前に冷ましてくれた。
「……何がしたいんだ」
「え、付き合ってくれんの?」
 Aiが目を瞬かせるたび、室内灯の光が反射して金色がぱちぱち弾ける。「九割断られると思ってたぜ」「一割がたまたま今日だっただけだ」幸運だったことを喜べと言わんばかりの不遜な声色に(素っ気ない声となったのは頭痛のせいであったが)、Aiの背筋がしゃんと伸びた。意図したものではないが、こいつにはこの程度でちょうど良いか、と弁解はしないでおく。
 ボトルのキャップを閉める。きゅっという音には、自分の一部も一緒に閉じ込めたような気持ちになる。その溶けていく感情は、今朝食べたトーストの上で形を失ったバターとよく似ていた――言うなれば、ぐずぐずになってしまった偏愛だった。永久に水と混じり合えなくて、分離したまま出口を失っている。Aiのことになるときっといつでも一割のほうへ傾くのだろう。振り回されても、頭がじんじんと疼いても、消化するには重苦しい感情を最後には飲み干さなければならないことを、遊作はずっと分かっている。
 虚勢のように「言っておくが、映画は詳しくない」と述べたが、Aiは欠片も気にする様子はない。本当はAiには全部分かっているのかもしれない――溶けたバター、染み込んでいくトースト、食す自分、見ているAiの目。その連鎖のあとにある、縁取りがでろりと歪んだ自分。
「だいじょぶだいじょぶ! 大筋なぞるだけだから!」
 さあさあ! と室内にある唯一の椅子へと案内される。ただし座らされたのは遊作だけでAiは変わらず立っていた。軽く咳払いをする様子に、そこまで改まって行うような内容なのか、とか、草薙との軽いやり取りを超えている気がする、などと思うのだが、あの息が詰まりそうな激しい流れの影が見え隠れして、言うチャンスをすっかり失ってしまった。
 我に返ってみると、Aiは世界観を説明し出したところである。「はい、今からここはカフェな」どうやらカフェが舞台のようだ。
「ああ。どう見たっていつもの古い部屋だが」
「そこはノッて!」
 Aiの中には脚本があるらしい、それに従って壁や家具を指し示して説明してくれるのだが、残念なことにそれらは遊作の耳を素通りしていく。遊作のなかにあるカフェに関する最新情報はカフェナギだ。剥き出しの電球が吊り下がる室内も、無垢材のカウンターテーブルも、少年の知識には存在しない。オープンスペース、屋台形式のイメージがAiの説明よりも先に頭に湧き上がってくるのを「あー違う違う! カフェナギっぽくないカフェ」という声がかき消した。カフェナギっぽくないカフェってなんだ、カフェナギはカフェだろ。
「こういう感じのやつ。見たことねえ?」
 遊作のスマートフォンをすすっとスワイプアップし(勝手に操作したことについて後にAiは叱られた)表示された検索結果の画像を横目で確認する。合点がいった。街中でたまに見かけるフランチャイズのコーヒー店から華美さを削ぎ落し、木を多用した住宅の要素を少し加えてアップデートしたら、Aiの中にあるこのイメージに近くなるようだ。
 検索ボックスには映画のタイトルと思しき文言が入力されていた。他にもレビューサイトらしきページのサムネイルの下に、星が四つと半分、黄色く塗りつぶされて並んでいた。おそらく高評価なのだろうその映画を、遊作は見たことがない。
「お前はひとり窓辺の席に座ってる。濡れた上着を見るに雨宿りしてるぽい。勿論、傘なんてない」
 指が弾かれ、軽快な破裂音。と同時にAiの服装が変化する。手品師の早着替えと同じような――しかし速さは比ではない、立体幻像である――瞬きをし終えるまでには、カフェナギのものとはまた違う、黒いエプロンを身につけていた。白いシャツとのコントラストに目が慣れるまで、視界が少しちかちかして遊作は瞼を軽く擦った。「どした?」結んだ髪と一緒に揺れたIDカードには、ご丁寧にも英文字で名前が書かれている。仮定の話に小道具まで丁寧に作り込んでいるところが可笑しかった。
 映画のシーンと同じなのかもしれない、老犬の散歩のごとく緩やかなジャズが湧き水みたいに流れ出している。一拍ごとに低い音を奏でるベースラインは、さらさらと聴こえる雨音と絡み合って、徐々に融合していくようだ。雨音の効果音まで流れている。柔と剛、二つの音で、目に見えない架空の雨だれさえ表面張力を失ってぱちんと弾ける。
「そこへ店員のオレがコーヒー片手に声を掛ける……『ほら、可哀想な学生にサービスだ』」
 滑らかな手つきには白いマグカップがあった。今の服装と同じく立体幻像で、机の上に置かれたその中身からは微かな湯気が立ち上っている。今にも豊かな香りが漂ってきそうで、つい匂いを確かめてしまったものの、湯気が遊作の鼻をくすぐることはない。分かってはいても惜しかった、本日口にしたコーヒーより(見かけは)美味しそうだったので。
 錯覚だけが残された机の上で、遊作の頭は没頭を始める。『窓辺の席で雨宿りをしている高校生』のイメージを構築する。こちらも本気でやらなければ、こういう場合はかえって白けるというものだ。
 学生ならば、濡れた上着など適当にそこら辺へ置いておくだろうから、肩や袖口以外にもあちこち水滴が跳ねているに違いない。手で払う仕草をして(流石に映像が付加されることはなかった)、遊作は見定めるような視線で『店員』の姿を確認する。ボタンを首元まできっちり閉じた格好では、ソルティス特有の部品は隠れて見えない。
「……『頼んでない』」
 Aiに呼応して、芝居めいた口調になった。『店員』がゆったりと笑みをたたえるのが、白と黒の服装にどこか似合っていて遊作は少し悔しい。途端に脈拍が足早になったのはきっとそういう理由だ――遊作の掌が、少しだけ汗ばむ。
 映画の再現らしい、カフェのワンシーン。この部屋だけが現実から四角くくりぬかれ、Aiと遊作の劇場になっていた。演者も観客もたった二人だけの、侘しい劇だった。
「だからサービスだって。お前、近くの高校の学生だろ? たまに店の前で見かけるぜ、一人ぼっちで歩くのをな。どうせ今日だって連れもいなくて、慌てて入ってきたんだろ」
 それは俺のことか? 『高校生』は伏せていた目をきゅっと上げたが、『店員』には全く効果がないようだった。現実の設定を引用している点については脚本家に文句を言うべきだ。この時点で星二つだな、と遊作は心の中でレビューサイトに投稿する。世界観は良くとも設定はいまいち、とコメントを追加。
「だったら? お前には関係ない。このコーヒーも貰う義理はない」
「それ一杯分くらい、暇つぶしに付き合えよ。見てのとおり今日は定休日なんでな。オレがサボろうが、叱る奴は誰もいないってわけ」
 そう言って右手の親指で自らを指す『店員』は、見た目の清廉さに対してえらく不真面目な人物だ。どうやら現実を反映しているのは『高校生』だけではないらしい。
「どうりで明かりが点いていないと思った。しかし、鍵をかけないなんて不用心だな?」
 僅かではあるものの、Aiが目を見張って逡巡するのを見逃すような遊作ではない。この戯曲は瞬発的な言葉の打ち合いを続けることで成り立つ。外は雨、定休日なのに中にいる学生、原因は施錠失念とした場合、さあどう返す――顎に手を添えつつ、わざとらしくうーんと唸ってからAiが言う。
「そのこと店長には内緒で。草薙、怒ると怖えんだよな」
 なるほど否定せずに受け入れるケースときた。怒ると怖い店長役をここにいない人物に押しつけるところが、演劇であってもAiの性質が出ていて、思わず頬が緩みそうになる。お前のほうがずっと狡いじゃないか。



「お前は素行不良店員だったのか?」
「いやナンパしてんのよ」
「ナンパ」
 いや、それは素行不良だろう。
 ベッドを椅子代わりにして足を組むAiのしたり顔をつねってやる。「いって!」「店員とは思えない奴だ」人工皮膚の感触がやけに残って、遊作は親指と人差し指を擦り合わせた。高性能ソルティスであってもその表皮は人間のものより伸びが悪い。
 あの寸劇で満足したAiは、それでも恰好を戻すことはせずにだらだらと時間を消費している。既に夜半に差し掛かろうとしている世界から忍び込んだ隙間風が、いまだ止まないBGMとともに踊るのを、遊作は少し重くなった意識の奥で捉えた。雨は止んだらしい、いつの間にか音が消えていた。
 店員の格好を案外気に入ったのかもしれない(遊作も好感を持っている)が、いつまでもベッドに居座られると眠ることができないし、まず退くか着替えるかしてほしいのが本当のところだ。しかしそうは言えなかったのは、遊作の目に映るAiが、二人だけの短い映画に登場する『店員』だからなのかもしれない。確かにAiであるのに、Aiではない別の何かであるような錯覚が、どこまでも纏わりついていた。あるいは自分が『高校生』だからだろうか。
「高校生をナンパする奴があるか」
「遊作ちゃん限定ですー。お前が店の前を通りかかるのを見計らって、オレが鍵開けといたの」
「定休日に? わざわざ店の中で待っていたということか? それだけだと、いつ『高校生』が通るのか分からないだろう」
「それは、そのですね……」
「……監視していたな」
「あーまあ、そゆことです……」
「架空の登場人物になっても監視癖が抜けないとは。これじゃサスペンスだな」
「このあとコーヒーを飲んだ少年は気を失い、次に目覚めた時には見覚えのない部屋にいた。何処か分からない空間は生活感があるのに何かがおかしい。よく見れば自分の写真があらゆるところに飾られている。冷や汗が止まらない。そこに顔を見せたのはあの店員で……」
「おい、待て」語り出されるおどろおどろしい話に待ったをかける。「どういうストーリーなんだ」「どう、ってそりゃ、サスペンス?」『店員』の不敵な笑みがかえって恐ろしい。
「監視してる奴なんて大体頭おかしいだろ、ぜってーやばいやつ」
「その場面で出てきたとして、お前はなんて声を掛けるつもりだ」
「そうだな……ようこそオレのワンダーランドへ! 主役のお出ましだな! とか?」
 確かに危険人物ではある。白いシャツが赤く染まることになるのか……などと物騒なことを考え始めた遊作の頭では、Aiがコーヒーに睡眠薬を盛る映像が繰り広げられる。口をつけなくて良かった、幻なので飲むことなどできないのだが。
「本当の筋書きはどんなものなんだ」
「映画のやつ? えっとなー確か、店員が出したコーヒーを飲みながら談笑してるうちに雨が止む。んで、学生と連絡先を交換する」
「そうなのか」
「……までは残念ながら進展しなくて、また店に来てくれって約束をこぎつける」
「まずまずの出来だな」
「それで雨上がりの道を学生の姿が見えなくなるまで健気に見送るが、なんとそのあと学生が事件に巻き込まれるわけ」
「結局巻き込まれるのか」
 遊作は映画の登場人物にひっそりと同情した。望んでもいない災難にぶち当たるところに、なんとなく親近感すら湧いてくる。
「犯人は店員の顔見知りの客で、まーこいつが見かけは善人なんだけど中身がどうしようもない奴でよ。しかも手口は猟奇的。店員は自分を責めながらも学生を助けるために、あちこち駆けずり回るってストーリー」
「何故自分を責めるのか分からない。そいつは何も悪くないだろ」
「でもここが盛り上がりどころだったぜ。あーあれ、起承転結で言うところの転。店員にだってヒーローになる理由が必要なんだよ、急に、明日からヒーローやりますってやるわけにゃいかねえだろ」
 たとえ映画であってもそういうものか、と無理やり飲み込む。
 星四つ半の理由は実際に観てみないと分からないが、Aiがあまりにも身振り手振りを付けて説明するものだから遊作も少し興味が湧いた。最後に映画を観たのはいつだったか覚えがなかったので、もしかしたらこれが人生初の映画鑑賞になるのかもしれない。
 鑑賞という行為とは疎遠な日々を送ってきた遊作には、芸術や美術、娯楽にまつわる記憶容量がないに等しい。
 ゆえにAiからの依頼は、現実を脱皮するような、反対に幻想の皮を被るような感覚で、遊作には物珍しかった。今度、映画を観てみるか。頭痛を誤魔化しながらであったが、その気持ちを持てた分くらいはAiに付き合って良かったと言える。

「――なんか今なら、草薙の気持ち分かるかもなあ」
 徐に聞こえたAiの声は、遠慮がちに浮かんでくる小さな泡だった。ぷか、ぷか、水面に顔を出してはすぐに消える、ともすれば見逃してしまう波紋であったが、遊作の指先はその振動を確かに掴む。
 どういう意味か、訊ねようとAiを見たところで、遊作の動きが止まる。Aiが、唇を噛んでいた。何故? 人口の歯が人口の唇を押し潰しても血はでないし怪我もしない。けれどもその隙間にふっと、どこかに向けた悔いが見えた気がして、遊作の指はその表面をなぞった。瞼に遮られた目にも、同じものが隠れている気がした。
「Ai」
 すり、と指の腹で諫めてやれば、締め付けていた力が緩まる。離れた場所には歯形が残っていた。痛みがないとしても痛々しく思えて何度か擦ると、人工皮膚の素材は弾力を取り戻して跡は消えていく。
「どういう意味か、聞いても良いか」
「んー……うまく言えねんだけど……」
 とりあえずこっち来て。
 そう手を取られ、引き寄せられれば呼吸する暇もなくベッドの上だ。体重が乗りかかる前に『店員』から見覚えのある服装に戻ったAiは、やはり遊作のよく知るAiで、宙に浮いたような心が調子を取り戻していくのが分かった。薄いカーテンを隔てた向こう側にある別世界から、Aiが、自分が戻ってきた感覚。普段なら鬱陶しいくらいの装飾品が、今だけはAiを形づくる重要な要素のひとつひとつである気さえする。小さな音がして、見上げる。耳飾りが揺れていた。
「怖えんだよな、遊作がいなくなるのが」
 多分、草薙もそうなんじゃねえかと思って。その言葉に手繰り寄せられるように、遊作の中に草薙仁の輪郭が現れる。奇異な共通点を持つ草薙翔一の弟。ライトニングのオリジン。現実という劇中の、重要な登場人物。あの頃は当然ながら面識がなかったから、草薙が天国から地獄へ突き落された心地は想像することしかできない。
「映画の中で、お前、消えたんだよ。ずっと探し回ってたのに、なかなか見つからねえし」
「それは映画の話だろう」
 物語に出てくる店員と高校生の話に、何故そこまでAiが思い悩んでいるのか分からない。
「草薙もそうだけどよ、お前も、多分そうだったんだろ」
「Ai」
「悪かったな、とは思ってる。逆だったらどうだったか考えるまでもねえし。でも、お前は六歳の時に一度消えてるんだ。二度も消えるのは、オレも御免だ」
 ああ、と腑に落ちる。Aiは自分が姿を消したあの時のことを、何度も噛みしめているのだろう。そして、Aiが生まれた時のことも。
 僅かに残るあの頃の記憶は白かった。
 弟が帰ってこなかった時、草薙はどんな気持ちでいたのだろう。眠れないままで、何度朝を迎えたのだろう。草薙仁は、自分は、明けない夜を何度繰り返していただろうか?
 六歳の自分の周りで、一日中変わらない白夜が続いていた。染めようもない色は霧のように遊作を包んでいた。その記憶に躓いて、今でも時々足がもつれそうになるのを、Aiは知っている。茫々とした現実は先が見えない。自分の輪郭が白い世界と同化して、世界から取りこぼされるようで。
「それならずっと追いかけて、ずっと見てたほうがいい。見えなくなるほうがもっと嫌だからな」
 その気持ちが出過ぎちゃってAiチャン失敗しちまった、次はもっと良い脚本にするから付き合ってな。一度、自分の前から『会えなくなること』を選択した奴が何を言う。叱ってやりたかったが、もう何度もこの件については叱ったので遊作はほとほと飽きている。どれも、二度目はない。
 AIに心理はあるのだろうか。
 ソルティスの腕に抱かれながら思い描いた。ひとの奥深くに眠る願望がAiにもあるとしたら、本日限りの、あの雨音で仕切られた映画は、Aiの無意識の意識だったのだろうか。現実でも非現実でも、自分のことをどこまでも追ってくる瞳に、恐怖するのが人としてきっと正しい。だが遊作には冷や汗のひとつも滲まないのだ。
 ならば言葉どおり、ずっと見ておけ。その目に焼き付けておいてくれ。
 そう思うのは、あの霧の中で唯一残されたものがAiだからかもしれない。自分から切り離された別の自分。別の世界の自分。このままずっとAiと抱き合っていたら、いつかまた一つに戻るのだろうか? あの頃の、幼い自分に。
 だがやはり、それは俺ではない気がするんだ、Ai。
 いつか振り解いた手を、時を戻して掴むことができないように。始まったら終わるまで、止まることができないように。一度きりの、狭苦しいスクリーン目一杯に満たされたAiの形を観るたびに、遊作はそう思った。
「……この曲」
 ジャズはずっと流れている。次の曲は歌詞が付いていた。低い声なのに重苦しくなく、ふっと身体が軽くなる感じさえする。
「ん?」
「映画でも流れていたのか」
「ああ。とりあえず雰囲気重視でそのまま使ったけど、遊作が音楽に興味持つなんて珍しいな」
「一言多い。……何ていうか曲か、分かるか」
「『この素晴らしき世界』」
 気に入ったならダウンロードしとくぜ、という言葉に小さく頷く。まるで何度も聴いたことがあるような耳馴染みが良い曲には、人を眠りへと誘う効力があるようだった。コーヒーに盛られるより余程ましな睡眠薬だな。そう苦笑する遊作に、Aiは不服そうだ。「マジで盛ったりしねえっての!」拗ねたのか機嫌を損ねたのか、遊作をくるむ腕に力が篭もった。
 素晴らしき世界。確かに、お前がいるなら世界は比べようもなく。
 声になるには頭が朦朧としていて、遊作は夢への階段を下りていきながら、眠気に逆らえないようにできている人間の本能を恨んだりした。のろのろと腕を伸ばすと、すぐに強く返される。掴まれて、離れないことが明確なその力だけは、抗わなくてもいいかと思える。瞼が重い。
「ゆうさく」
 掠れた声で小さく呼ばれる。すると白い世界の中にふらりと影が落ちてきた。白夜を飲み込むように月の後ろから闇がやってくるのだった。夢の中でその中に溶けていって、こめかみの痛みはいつの間にか消えていた。
 明日もまた、Aiに飲み込まれるのだろう。投影された命の、青白いひかりが拡散して、自分を照らす。ひとつになろうとして、なれない。
 だが息苦しさも痛みも、いつかなくなる。幻は跡形もなく消え去る。あの霧を密閉した世界が、最後には呆気なく封を開けられてしまったように。だから自分はいつまでも振り回されて、求めて、広がる暗闇の中に溺れている。そう独りごつ。
 夜は遊作の身体をあたためた。白い光より随分とぬくい。間もなく黒い静けさに溺れた少年を、焦げた二つの月が追いかけていた――ずっと孤独に回り続ける、遊作のための衛星だった。



 翌日、Aiの話に草薙が満足げに微笑んだのが遊作は面映い。二人の話題の中心に自分がいるというのも慣れるものではなくて、気恥ずかしさに居心地が悪かったが、まずは先ほど受けた注文の品を準備しなければならなかった。
「珍しく遊作が興味持ってよ」
「へえ、そりゃあ。俺のじいさんばあさん世代よりもっと古い時代の曲じゃないか」
「……そうなのか? 草薙さん」
 手を休めずに聞き返す。意外だと思った。遊作が耳にした限りでは、音の脈拍が現代と変わらない体温を持っていたので。
「ああ。だが、古くたって良い曲だ。俺も好きだな」
 容器の詰まった袋を引っ張り出す草薙には、もう隈はなかった。「昨日は仁が早く帰ってきたんだ」とのことで、出勤早々それを聞いた遊作もどこか一息つく思いでいた。
 よっ、と袋を下ろして、草薙は歌の一フレーズをいびつな音程で再現する。
「海外の歌だからかもしれないが、聴いてると別次元の言葉って感じがするな。俺は学校の勉強はからっきしだったから、聴きとるのもしんどい」
「俺にはプログラム言語みたいな感じだ」
「はは、遊作らしいな」
「分かんねえならオレが教えてやろうか?」
「遠慮しておく」
「えー! 十ヶ国語も話せる超優秀なAIなのにい!」
 揃いのTシャツ、揃いのエプロンを着た三人の居城、カフェナギの前には斜陽が長く伸びていた。広場に敷き詰められた鼈甲色の光は、昨日の渋いコーヒーを薄く、何度も薄めて、そっと重ねていった色だった。
 草薙の深いところに沈澱したものが、それくらいまろやかになっていれば良いと思う。薄めて、伸ばして、いつか透明になる日がやってくれば良い。
 昨日、世界がこうであったなら、と遊作はおぼろげに考えた。
 非現実的な祈りと呼ばれるかもしれない、うたた寝のような思いだった。それでも歌詞にあったように、目に映る何もかもを余すところなく、肺の至るところまで吸い込んだら、あの日々を色とりどりに飾り付けることができる気がした。たとえ最後には夢に現れた暗闇がすべて塗りつぶしたとしても、きっと最高の世界なのだろう、少なくとも自分にとっては。
 その時が上映終了の合図だ。
 じわり、じわり。焦茶の染みがペーパーフィルターに広がる。同じ速さで、遊作の頭の隅から鈍痛が顔を覗かせ始めた。しかし、そのうち夜が打ち消すに違いない。
 注文されていないコーヒーを淹れながら、遊作は覚えたての曲を口ずさんでいる。



(了)畳む