お題『優しくしないで』・ヨーセフ大司教の話。・宿とお酒。#テリオフィ 続きを読む 葡萄酒が揺れて、跳ねたしずくが食卓にこぼれた。少し荒々しく置かれたグラスの中身が落ち着きを取り戻すまで、わたしは彼の隣でぼうっと突っ立ったままでいた。 宿をとって夕飯を済ませて、しかし眠れずにひそかに部屋を出て、灯りのついた場所――食堂へ足を運んだら、こんな夜更けにもかかわらず先客がいた。テリオンさんの影がひとつ、ランプの炎とともに静かに揺れるのを盗み見ていると、唐突に「趣味が悪いな」と振り返らずに呟かれた。 どうやらこの人、後ろに目があるみたい。 誰も起きていそうにない時間。彼はひとつ溜息をついて、管理者のいない酒瓶の棚へ進む。ずらりと並んだそれらの中から、迷うことなく深い森のような色の瓶を一本拝借した。 座っていた場所へと戻り、手慣れた様子で中身をグラスへと注ぐ。無遠慮な彼の姿には一種の清々しささえ感じるほどだ。そう思っていたのも束の間、グラスは彼の手から離れ、わたしのほうへと差し出されていた。 意外だった。この人が、他の誰かにお酒を注いでいる姿を見たことがなかったのだ。菫色を煮詰めたような液体が揺れる。「わたし、一度にこんなにも飲めませんよ」 隣に腰掛けながら苦笑したのは、寝酒にしては量が多かったから。 わたしに朝まで付き合えということなのでしょうか? グラスを両手で覆い、考える。口をつけるべきかどうか。朝までお酒はちょっと辛い。 心のうちが聞こえてしまいそうなくらい、食堂は静かだった。ほのかな橙の光がわたし達を包んでいた。だからわたしは、その淡い時間の中に紛れ込んだ小さな声を、あやうく聞き逃すところだったのだ。「……弔いだ」 テリオンさんの少し低い声が、ひやっとして、けれども熱かった。 こんな夜は思い出してしまうことを、どうして。 父と呼んだ人のこと。もうこの世界のどこにも居ない人の面影。その声、表情、抱擁のぬくもり。すべてが記憶の蓋をこじ開けて、月の向こうからやってくる。わたしを、寂しくて人恋しくて、眠れない世界へ案内するために。 視界の端で捉えたのはテリオンさんの手。傷跡の多い、骨張ったその中には木製のジョッキ。中身は葡萄酒ではないだろう、この人はエールを好んで飲んでいるはず。なのにわざわざ葡萄酒を注いでくれたのは。 ――聖職者のあいだでは、葡萄酒は神の血を表すということ。テリオンさん、知っているんでしょうか。 気付けば命ぜられたようにグラスへと口付けていた。父はわたしにとって神の化身だった。この世界でわたしが生き続けられた可能性のはじまり。その血がわたしの中に流れ込んで、わたしの一部になり、わたしが終わるまでともに生き続けられますよう。祈りながら一口、また一口と体内へ取り込んでゆく。 父への手向け。わたしのけじめ。 明日からベッドを抜け出すことがないように。寂寞感に胸が締め付けられることがなくなるように。 テリオンさんに、不釣り合いな気遣いを課すことがないように。 この、二人だけの葬送の儀を終えたら、きっと。畳む 2023/06/09(Fri)
・ヨーセフ大司教の話。
・宿とお酒。
#テリオフィ
葡萄酒が揺れて、跳ねたしずくが食卓にこぼれた。少し荒々しく置かれたグラスの中身が落ち着きを取り戻すまで、わたしは彼の隣でぼうっと突っ立ったままでいた。
宿をとって夕飯を済ませて、しかし眠れずにひそかに部屋を出て、灯りのついた場所――食堂へ足を運んだら、こんな夜更けにもかかわらず先客がいた。テリオンさんの影がひとつ、ランプの炎とともに静かに揺れるのを盗み見ていると、唐突に「趣味が悪いな」と振り返らずに呟かれた。
どうやらこの人、後ろに目があるみたい。
誰も起きていそうにない時間。彼はひとつ溜息をついて、管理者のいない酒瓶の棚へ進む。ずらりと並んだそれらの中から、迷うことなく深い森のような色の瓶を一本拝借した。
座っていた場所へと戻り、手慣れた様子で中身をグラスへと注ぐ。無遠慮な彼の姿には一種の清々しささえ感じるほどだ。そう思っていたのも束の間、グラスは彼の手から離れ、わたしのほうへと差し出されていた。
意外だった。この人が、他の誰かにお酒を注いでいる姿を見たことがなかったのだ。菫色を煮詰めたような液体が揺れる。
「わたし、一度にこんなにも飲めませんよ」
隣に腰掛けながら苦笑したのは、寝酒にしては量が多かったから。
わたしに朝まで付き合えということなのでしょうか?
グラスを両手で覆い、考える。口をつけるべきかどうか。朝までお酒はちょっと辛い。
心のうちが聞こえてしまいそうなくらい、食堂は静かだった。ほのかな橙の光がわたし達を包んでいた。だからわたしは、その淡い時間の中に紛れ込んだ小さな声を、あやうく聞き逃すところだったのだ。
「……弔いだ」
テリオンさんの少し低い声が、ひやっとして、けれども熱かった。
こんな夜は思い出してしまうことを、どうして。
父と呼んだ人のこと。もうこの世界のどこにも居ない人の面影。その声、表情、抱擁のぬくもり。すべてが記憶の蓋をこじ開けて、月の向こうからやってくる。わたしを、寂しくて人恋しくて、眠れない世界へ案内するために。
視界の端で捉えたのはテリオンさんの手。傷跡の多い、骨張ったその中には木製のジョッキ。中身は葡萄酒ではないだろう、この人はエールを好んで飲んでいるはず。なのにわざわざ葡萄酒を注いでくれたのは。
――聖職者のあいだでは、葡萄酒は神の血を表すということ。テリオンさん、知っているんでしょうか。
気付けば命ぜられたようにグラスへと口付けていた。父はわたしにとって神の化身だった。この世界でわたしが生き続けられた可能性のはじまり。その血がわたしの中に流れ込んで、わたしの一部になり、わたしが終わるまでともに生き続けられますよう。祈りながら一口、また一口と体内へ取り込んでゆく。
父への手向け。わたしのけじめ。
明日からベッドを抜け出すことがないように。寂寞感に胸が締め付けられることがなくなるように。
テリオンさんに、不釣り合いな気遣いを課すことがないように。
この、二人だけの葬送の儀を終えたら、きっと。畳む