から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

夜明け
・聖火教会の神官テリオンと義妹のオフィーリア。
・テリオンに恋するサイラス。
・ちょっとオフィ→テリぽい。
※なんでも許せる方向けです
#サイテリ #IF

 鐘が鳴った。二秒おきに三回。木の椅子に長く座っていたせいで腰が痛くなってきて、ジジイのようだな、と溜息をついた。もちろん気付かれないようにだ。
「ありがとうございます神官様」
 老婆の言葉に手を合わせる。
「どうかあなたに、聖火のお導きがありますように」
 信心深い老婆は俺の動きに合わせた、ように思う。告解部屋は薄暗く、狭い。部屋を仕切る格子窓の向こうで人影が揺れ、少しの足音と、扉の開閉音で老婆が立ち去ったと理解する。そこでようやく、俺は本日最もでかい舌打ちをした。
 ああ面倒だ。
 そもそも罪を告白した程度で神様とやらがそれを許すと思っているのだろうか。昔、過去に犯した盗みの数々を(教会の人間には知られていないが)神の前で詫びたことがあるが、その懺悔で生きている間の罪が返上できるならば、くたばったら俺はすぐに天使にでもなれるわけだ。
 なりたくはない。詫びた時も、罪があれば告白し懺悔しなさい、と司教に言われたから形式的にやっただけだ。
 肩を回して、凝り固まった筋肉をほぐす。今日はあと一人、告解部屋の予約が入っていた。基本的に相手の名前は知らない。罪人の名前など知る必要もない。誰であるか、または誰であろうが、ただ告白に耳を貸す。それが『神官』の俺に与えられた仕事なのだから。
 さっき鐘が三度鳴ったということは、そろそろオフィーリアが茶の準備を始める頃だろう。きっとまた茶菓子も用意して――毎度のことながらご苦労なこった。しかしそれだけが、聖火教会の総本山で勤めに励む日々の、唯一の楽しみであることには気付いている。
 コンコン、とノックが小さく響いた。「どうぞ、お入りください」あたかも神官らしい声で入室を促す。安心させるように、ゆっくりと。
 だが格子窓の先に、あまり会いたくない奴の雰囲気を感じて、茶会の時間には間に合いそうにないなと心の中でオフィーリアに謝った。
「やあこんにちは、神官様。よろしいですか」
 無言。あるいは沈黙。
 それ以外に対処法はない。サイラス・オルブライトとはそういう相手だ。



 私はとても罪深い人間です。勉学を教えること、教わること、その目的はあまたあるかと存じますが、すべてが清く貴きものであるのに、私はその過程で神の遣いに恋をしました。
 私がその一歩を踏み出したのは、教会管轄の孤児院で行われていた学びの会からでした。王立学院で教鞭をとる私が、その教師として招かれるのは理解できました。しかし、いつも教えている学生の年齢とはかなり離れた子たちが相手ですから、少々不安であったのも事実でした。ですから助手を、と教会に頼んだところ、二名の神官が派遣されたのです。彼らは兄妹ですがまったく似ておりません。太陽のように輝く妹と、月のようにたたずむ兄。彼が私の恋慕の相手です。はい、彼です。私は自然発生的に彼と出会ったのです。いいえ、これこそ神のお導きというべきでしょうか。
 彼はやさしかった。口ではなく態度であらわす人でした。文字の分からぬ小さな子にそれとなく助言を出し、読み書きを教えました。安易に解答を開示せず導く手法は、神官であれども、まさしく教師のそれでした。しかし、うまくできた時に褒めるのはいつも太陽のほうでした。彼は褒めることが得意ではなかったようです。ですがそれが私には慎ましく映りました。光は影があってこそ輝きを増します。彼のおかげで妹はひときわ眩しく光を放ちます。二人は常に反射し合うのです。
 彼は妹と違い、いつもケープのフードを目深に被っていたので、ずっとその表情をうかがうことができませんでした。しかしその日は突然やってきました。何度目となる学びの会であったでしょうか。ある時、孤児院に暴漢が押し入ったのです。子供たちが泣け叫び、逃げまどい、騒然とするなか、不逞の輩は太陽の女性に手を出そうとしました。幸い私には魔術の心得がございましたので、すぐに詠唱を始めました。ですがそれより速く、教会の真ん中に疾風が吹き荒れました。春に木々の間を走り抜けるような風をまとって、青年が駆けたのです。手に煌くものが短剣であったと気付いた時には、暴漢は床に伏せていました。本当に、あっ、という間に、青年が男を押さえ込んでいたのです。勢いよく走ったせいでフードが外れて、白のような銀のような髪が露わになります。こちらを――正確には私の前にいた太陽の女性を確認する、その矢のごとき眼光に射竦められて、私は動けませんでした。手に持っていたはずの魔術書が落ちる音で、ようやく我に返ったのです。
「テリオンさん!」
「無事か、オフィーリア」
 駆け寄る女性の心配そうな声に、柔らかな声が返されました。青年の声でした。
「怪我は、怪我はありませんか?」
「何ともない、……あんたが無事ならそれでいい」
 その時、兄の口元には笑みが浮かんでいなければ、私は今こうして懺悔していないでしょう。
 義理とはいえ、二人がもし兄と妹でなかったならば、彼らは恋人同士ではなかろうか。そう思えるほど、二人は愛に満ちた表情をこぼしていたのです。互いが互いを認め、支え合う愛の、なんと眩いことでしょう。初めて彼の名を知ったその日のことを、ずっと忘れることができません。慈悲深い彼から、ひとしずくでよいから、私にもその愛を与えてもらいたいという願望が芽生えた日でもあるからです。
 つまり、そのやさしく愛に満ちた青年に、私は恋をしてしまったのです。

「――そうして私は、彼に会いたい、ただそれだけのために、毎週フレイムグレースに足を運んでおります」
 げっそりした。
 途中、フードをかぶり直して耳を塞いだくらいだ。何がかなしくて、自分に対する『告白』を、毎週聞かされなくてはならないのか。しかも長い。長すぎて欠伸が出そうだ。
 今しがた、半時間を過ぎたことを知らせる鐘が鳴った。小腹も空いてきたし、さっさと切り上げてオフィーリアの茶を飲みたい。
「これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
「聖火神の御名において、貴方の罪は赦されるでしょう」
 適当に言った。神には悪いが。
「ああ、ありがとうございます神官様……」
 やれやれこれで本日のお勤めも終了だ。
「すみませんが」
 と思っていたのに、そいつはあろうことか声をかけてきた。
 小さな空間に声が反響する。低くて、なのに鍵盤の上でワルツを踊るような声。
 この声は苦手だ。俺をこの場に縛り付けて、離してくれない声だ。
「先日の返答を聞かせていただけませんか」
「……告解は終わったのでしょう。どうぞ、ご退室を」
「テリオン君」
 勝手に名前を呼ぶのはやめろ。以前からそう言っているのだが、この男は無遠慮というか、まったくやめる気配がなかった。真正面から相手をしても勝ち目がないことは分かっている。しかし、長話に付き合わされた後の最悪な精神状態で、円滑に相手できるわけがないのだ。
 ひとつ、盛大な溜息をついてやる。
「……しつこいな。さっさと帰れ」
「ああ、やっと話してくれたね。嬉しいよ。キミはいつも真面目に務めを果たしているから、他の話をしてくれないね。もう少しくだけても良いのに」
 頼む、嫌味であってくれ。でなければ、こいつの脳内はとっくにおかしくなっている。
「それが神官に対する言葉か?」
「おっと、申し訳ございません。つい本音が出てしまいまして」
 いけしゃあしゃあと。格子のおかげではっきり見えないが、おそらくその顔には笑みが浮かんでいるのだ。あの、誰もが見惚れるような顔で、俺を見て――。
 想像して、は、と思わず息を吐いた。考えるだけで、身体中に感情の粒子が駆け巡る感覚。耳元が熱い。フードを整えるふりをして誤魔化す。
 その様子を知ってか知らずか、サイラスの話は続く。「それで、考えてくれたかな」「……何をだ」分かっている。何度も言われているのだから。
「アトラスダムに来てほしいと言ったことだよ」
「夢を見るなら夜に見ろ」
「夢なら常に見ているよ。キミとアトラスダムで過ごす夢だ。きっと、とても素敵な日々に違いない。私はアトラスダムの王立学院で、キミは助手として勉学を教える。素晴らしいと思わないかい」
 そうだろう? そうだと言ってくれ。
 喜びに打ち震える声とは対照的に、言葉の端々に嘆願がのぞいている。不安。恐怖。俺の答えを待ち続ける苦しみ。自分の感情が、自分だけのものではないと証明したい気持ち。
 申し訳なさと大きな喜びが、俺の中に渦巻く。あんたの中が、俺で溢れていることに対しての感情――浅ましい俺の心に、賢いあんたは気付いているのだろうか。
 サイラスが格子窓へ指を這わせる。そこを打ち破ることができたなら、きっとあんたは、簡単に俺の手へと触れてしまうんだろう。
「テリオン君。私はキミに恋をしていて、キミはそれを知っている」
「……何度も言ったはずだ。俺はあんたの気持ちには応えられない」
 そうだ、自分にも言い聞かせた。時には暗示のように、時には呪いのように、何度も何度も。
 そのたびに、俺の指先まで満たしていたあの粒子が、跡形もなく消え去る。
「それでも私はまた来るよ。キミが、キミ自身で、心のうちを明かしてくれるまで、何度だって来るから」
 どうして俺なんかにそんな言葉を吐くのだろう。答えを待っているのは怖い、俺が頷かないのが嫌だ。そう言えば、言われれば楽になれるのに。
 あんたは知らないのだろう。
 あんたがここを去ったあと、その指で触れたところを同じようになぞっていることを。あんたが来た日の夜は、大聖堂の聖火の前で懺悔していることを。信じてもいない神に跪いて、赦しを乞うていることを。
 俺はここから出られない。オフィーリアを置いて去ることなど、あってはならない。
「……どうかあんたに、聖火のお導きがありますように」
 そう返すことだけが、今の自分に出来得る最大の返答だった。



 中途半端な時間のせいで、食堂はしんとしている。職員や神官は見当たらず、オフィーリアがひとり、長い食卓の端にもたれていた。足音を消して近付いたのだが、あと数歩というところで気付かれた。流石だな、と言うべきか。
「あっ、テリオンさん!」
 振り向いた反動で、その手のなかのティーポットを落としそうになる。慌てて持ち直して、そっと食卓の上へと置いた。全ての流れが、一枚のキャンバスへ描かれた絵に見えた。絵が動いている。
 神に愛された人間とは、オフィーリアのような女のことを言うのだろうな、といつも思う。
 天国で神がサイコロでも振って対象者を決めているのか、はたまた指名制なのか、投票制か。しかし俺が選ばれることは決してない。それでいいと思う。自分に運がないとか、不遇だとか、そんな不満は一切ない。光が当たるのはいつも俺以外の誰かで、それが当然。世のことわり。光は眩しくて、目が痛くなる。俺には似つかわしくない。夜のほうが、よっぽど楽だ。
「……遅くなった」
「良いんです。でもごめんなさい、アップルパイは冷めてしまいました……」
「構わない。……悪かった、間に合わなくて」
 サイラスと逢引のようなことをしていたから遅れた、とは言い難く、バツが悪くなって視線を逸らす。それがあまりに後ろめたく見えたのか、オフィーリアは手を振って、「良いのです! 私が勝手にしていることなんですから!」と弁解した。ともに揺れる金の髪が、小さな肩を行ったり来たりしている。
 似ても似つかぬ妹。当然だ、血は繋がっていない。
「……食って良いのか、アップルパイ」
「勿論です。ふふ、お好きですもんね」
 細められた目は、甘く煮詰めたフィリングと同じ色をしている。
 オフィーリアは戦争孤児だった。
 戦いで肉親を奪われたこいつとは違い、俺は気が付いた時には親という存在がいなかったので、一人で生きていく術を身につけることが必須事項だった。明日まで自分が生きていられるか誰も保障してくれないのだから、まず食い物を得ることが先決だ。
そのために、行き着く場所のそこらじゅうで盗みを働いたが、いったん警戒されるとその町では犯罪をおかしにくくなる。次の町、また次の町と渡り歩いたものの、ガキの足で移動できる距離は限られていて、転々としたのちにフレイムグレースに辿り着いた頃には、ついにうずくまってしまった。雪が頭に降り積もる中、ふと視界の端に入ったのが教会だった。
 宗派によって差があるものの、基本的に教会は俺のような境遇の人間を放置しない――そんなことが噂になれば、信者からの信頼はおろか、教会の立ち位置も悪くなるからだろうか。とにかく、教会は俺を保護して『施し』を与えた。行くあても気力もなかった俺は、そのまま洗礼を受けて信者になることにした。そうすれば、優先的に孤児院へ引き取られるだろう。そう踏んだのだ。
 結果的に、孤児院ではなく司教のもとに引き取られた。そこにいたのが、二つ下のオフィーリアだった。
「眩しいですか?」
 それが十年ほど前か。
 記憶へ溺れる直前、今に引き戻される。食堂に、珍しく西日が差し込んでいた。今日は雪雲が去ったのだろうか。
 カーテンをひいてきますね。そう言って窓際へと進むオフィーリアを見送って、ティーポットへ手を伸ばす。たぷんと揺れるのを感じたので、中身は残っているようだが、冷め切っているのはグローブ越しでも分かった。
 もう五つの鐘も鳴ってしまったから、しばらくすれば夕餉の時刻だ。しかしオフィーリアが淹れた紅茶を捨てることは俺の選択肢にはない。また、半月型のアップルパイも。
 ポットを傾ける。空のままのカップへ紅茶を注ぐ。白い器の中へ、液体が溜まっていく。時間が経ってしまったからだろう、焦がした砂糖のような色になった紅茶は、小さな水たまりを作った。
 手に取ると、紅茶に自分の影が映り込んだ。白い神官服が赤褐色に染まって、まるで悪魔の遣いみたいに、ぬるりと揺れる。
 テリオン君、また来週。
 去り際のサイラスの声が、耳元で繰り返される。
 あいつが来るようになって、今日で十五回になるだろうか。孤児院に派遣され、初めてサイラスを見た日から数えると、もう半年は過ぎたことになる。
 孤児院で開かれていた学びの会は、暴漢事件のあと打ち切られるように中止となった。成人して暫くしたら聖火騎士団の入団試験を受けるつもりでいたので(そっちのほうが性に合っている気がした)、日頃から身体を鍛えていたのだが、それが功を奏した。あの時、オフィーリアが怪我のひとつでもしていたら、俺は自分を決して許せなかっただろう。
 この世のどこにも肉親がおらず、しかし縁だけで家族となった、オフィーリアと俺。
 最初は互いを遠巻きに見ていた気がする。それもそうだ、ある日突然「新しい家族ですよ」と他人を連れてこられて頷けるはずもない。数年前にオフィーリアが修道院へ入るまでは司教の家で同居していたが、はじめは一言も会話しなかったし、俺も話しかけようとしなかった。
 だがオフィーリアは、俺が一体どういう奴なのか知ろうとしたのか、少しずつ悪戯を仕掛けてきた。これが俺にとっては予想外だった。虫も殺せなさそうな見た目をして、やることは蟻の行列を踏み潰すガキと同じ。夕飯がシチューだった日には、俺の皿にだけ山盛りの人参を入れてきたり(勿論司教に叱られていた)、俺が瓶に入れておいた聖水を葡萄酒と入れ替えたり(信者にあるまじき行為だ)、すぐにばれる下らない悪戯を繰り返す。
 対して俺は、我慢ならなくて怒る、ということもなく、淡々と流すだけ。相手をするのが面倒だったし、興味もなかった。ただ生活ができれば良かったので。
 そうして過ごしていた、ある日のことだ。
 夜、司祭に与えられた自室へ向かう俺の前に、あいつが立ちはだかった。仁王立ちだ。怒りからか、顔が少し赤くなっていたと記憶している。
 そして言い放つ。
「私のことを、幽霊のように扱うのはやめて下さい。あなたを家族だと思っているのは、私だけなのですか」
 今にも涙が溢れそうな目で俺を睨む。
 ただ悪戯を仕掛けてくるだけの女と思っていたが、意思があったのだな、と初めて感じた言葉だった。そして、そうか自分はこいつの家族だったのか、とも思った。まったく考えたこともなかったが、オフィーリアはオフィーリアなりに、俺と家族になるため努力していたらしい。
 道端の小石を気にする奴などいない。俺が自分に与えていた価値はその程度のものだったから、まさか自分を本気で気にかける人間がいるとは想像だにしなかった。
 二人そろって、ひとりで生きるしかなかった時期があって、苦しくて、いつか苦しみさえ麻痺してしまうことを知っている。
 姿かたちは違えど、俺達の根っこは同じで、そこから共に芽を出した子葉のようなもの。鏡合わせのごとく、相手を見るたびに自分を思い出す。相手が孤独でいると、自分も孤独でいるような。だから放っておけない。放っておくと、自分がますます孤独になる気がするから。
 片方の葉が枯れたら、もう片方も枯れる。相手を守ることが、すなわち自分を守る。それを、オフィーリアは本能的に気付いていたのだろう。だからいつも笑っていられるし、馬鹿馬鹿しい悪戯で俺を笑わそうとする。
 ――どれだけ優しい言葉を並べられても、深い同情を与えられても、同じ痛みを知る人間以上に響くものはない。
 だから俺は、こいつがひとりで大丈夫だと言える日まで、どこへも行かない。この箱庭の中で生きることが自分の選択だ。
 サイラスの言葉が、どれほど極上の味わいであろうとも。
 溺れていた記憶の海から這い出す。皿に鎮座するアップルパイを、フォークで適当に切り分け、口に運ぶ。
 さく、さく、しゃく。
 冷めていても、あいつのアップルパイは美味かった。この味を口にできなくなるのは、ずっと遠い未来のような気がしていた。



「……これが私の罪なのです。聖火神エルフリックよ、どうかお赦しを」
 いつもどおりの週末。いつもどおりのサイラス。いつもどおりの告解部屋。今日で二十回目。
 サイラスの、聞いていると胸の奥があぶられるような声に耳を傾けていると、この時間が早く過ぎ去ってほしいような、ずっと続いてほしいような気分になる。
 鐘が鳴る。一つ、二つ、三つ……。今日は昼間に告解部屋へ訪れる信者が多く、いつもよりも遅い時間にサイラスの相手をすることになってしまった。サイラスは毎度、最終の番になるよう告解の予約を入れてくる。理由は、自惚れでなければ、きっと俺だろう。
 夕刻のフレイムグレースに響き渡る鐘の音は、俺の心臓までうるさく届いて、がんがんと鳴らす。神の槍が胸を刺すように、強く響く。
 その痛みを追い払うように、フードで狭まった視界の中、手を合わせた。
「……聖火神の、御名において、……貴方の罪は赦されるでしょう」
 神様とやら。
 もし本当にいるのならば、俺はとうに断罪されているはずなのに、いまだに罰を受けずここにいる理由はなんだ。
「ありがとうございます、神官様」
 俺がこの場所に居続ける理由はなんだ。
 なあ、サイラス。俺の罪を知っているか。
 神へ祈るふりをしながら、悔い改めるふりをしながら、心の中で述べるのは、いつもあんたに対することばかりだ。
 あの、すらりと伸びる指に、俺よりも大きい手に触れる日は、きっと来ない。それでも毎夜夢に見る。アトラスダムの街を。王立学院から帰ってくるあんたを。適当に働いたあと、あんたを待ち伏せする自分を。あんたはきっと遠くからでも俺を見つける。それから、この上なく幸せそうに笑うんだろうな。
 大馬鹿者め。
 夢は叶わないから夢だ。しかしその瞬間だけは、誰にも邪魔されない、自分だけの楽園が手に入る。幻でも、見せかけの天国みたいなこの場所よりずっと良い。オフィーリアの兄でもなく、神官でもなく、ただの俺である世界は、夢の中にしか存在しない。それでいい。
 サイラス。俺はあんたの前で、ちゃんと俺らしくできているんだろうか。

「キミは、何か思い悩んでいるのかな」
 五つ目の鐘が鳴り終わる頃、サイラスがぽつりと呟いた。
「……何だと?」
「いつもならば、すぐに言ってくれる赦しの言葉が、今日は少し遅れていたのでね」
 ふむ、と思案するように指摘されて、全身の血が一気に沸き立つのを感じた。
 告解部屋とは、信者の罪の告白を聞いたあとに神の赦しを与えるものだ。だからいつも、赦しの言葉で締められる。それが何ということか、自分の心に気を取られて――これでは「何かある」と気付いてくれと言わんばかりじゃないか。
 恥ずかしさで死にそうだ。俺はそこまで、こいつのことで手一杯だというのか。
「テリオン君」
 俺を呼ぶ声に、顔を上げる。格子窓の向こうに、サイラスが見える。はっきりとは見えないが、その視線に自分が捕まっていることだけは分かった。
「もうひとつだけ、私の話を聞いてくれるかな」
 少しの苦笑、それから、かぶりを振る様子。「話というか、ただの言い訳かな」そして続ける。
「私のこの心が、ただの恋で終わるなら。そう考えたこともあったんだ」
 サイラスの唇が、あの軽やかな声で、深い色をたたえた言葉を紡いでいく。
「だが私は、忘れられない。ここを去った瞬間から、キミのことが頭から離れない。届かないと分かっているものに手を伸ばす、だから焦がれる。そう言われるかもしれないね。けれども、やはり違うな。キミと会うたびに知るのは、自分の愚かさだよ。キミの手を隠すグローブを外して、その肌に直接触れて、私の熱を感じてほしいと望んでしまうんだ。キミを知りたい、けれどもそれ以上に、キミに私を刻み付けたいんだ」
 何を言われているのか、理解するまでどれほど要しただろう。
 ――俺は今、サイラスに、とんでもないことを言われているのではなかろうか?
 気付いたところで、頭はすぐには正気に戻らない。呆気にとられている俺を、サイラスが追撃する。
「キミに触れればきっと、キミは私を忘れないだろう? 忘れてほしくないんだ。私がそうであるように、キミにも私のことで悩み、苦しんで、喜びを感じてほしい。なんて卑しいのだろうね。こんな心が単なる恋心とは、到底言えない。……私は、神に赦してもらえなくとも良いんだ。ただキミだけが、私の心を赦してくれるならば、それだけで――」
 サイラスのあの指が、格子窓に触れた。俺が手を伸ばせば、指先が触れ合うその距離で。
 だがそうしてしまえば、俺はこんな程度じゃ済まなくなって、きっと今すぐ扉を開けて、『そっち側』へ行ってしまう。神官でも何でもない、地に落ちたひとりの人間になって、あんたを求めてしまう。そうなれば、もう終わりだ。
「……駄目だ、俺は……」
 声を絞り出す。
「俺は、あんたには――」
 一言、一言口にするたび、世界が狭まっていく。サイラスの姿は、視界の外へ追いやられてしまった。だが見なくとも、手に取るように分かる。きっとあんた、今、泣きそうな顔をしているんだろう。あの澄んだ空の向こうみたいな綺麗な目を、きゅっと細めて。
 ああ、あんたも相当な馬鹿だな。俺はとっくに、あんたと同じ心を持っているのに。
 眠れない夜なんてざらにあった。あんたのことばかり考えて、だ。あんたは俺にないものを何でも持っている。だからこそ遠くて、欲しい。
 何も持たない俺のような人間を求める稀なやつを、どうして忘れることができるというのだろう。世の中に、あんたのような物好きが他にいるか。いるとすれば、オフィーリアくらいだ。
 俺にはオフィーリアしかいなかった。オフィーリアだけが家族で、俺自身で、過去の自分を慰める唯一の人間だった。
 だけどそんなことなんて構わずに、あんたはいつでも俺の中に踏み入ってくる。ずかずか入ってきて、俺を守る壁をすり抜けてきて、ともに未来を見ようと言う。過去なんて無関係で、あんたの目はいつも道の先を見据えている。
 けれども。
 どうしたって、自分の鏡を捨て置くことなど出来ない。それは今までの俺を捨てることと同じなのだ。過去の自分。苦しみにまみれた自分。オフィーリアと出会い、割れた破片同士がぴたりと合わさるように、あいつのかたわらにいた自分。
 それをまた、自らの手で割ってしまえと言うのだろうか。
「……あんたのところへは、行けない」
「テリオン君、何故なんだい」
「言ったところで分からない。分かってほしくない……これ以上、俺を分かろうとするな」
 頼む。
 そう縋ると、サイラスは静かに部屋を出て行った。ただ一言、「すまなかった」とだけ言って。
 どうかあんたに、聖火のお導きがありますように。
 祈ることしか、俺にはできなかった。信じてもいない神に祈って、何になるというのだろう。

 それから間もなくのことだ。告解部屋にノックの音が響く。小さな、遠慮がちな音。今日の告解はすべて終わったはずだった。
「……テリオンさん、いらっしゃいますか?」
 声の主に少々驚く。オフィーリアだ。きい、と蝶番が鳴って、ゆっくりと部屋へ入ってくる。不安げな顔を隠すように、その金髪が揺れた。
「……どうした」
「あの、なかなか戻られなかったので、心配になって」
「違う。……どうしてそっち側に入った。そっちは、罪を告白する方だろう」
 さっきまでサイラスがいた場所へ、今度はオフィーリアがいたのだ。自分が座る神官側の扉ではなく、何故告白側にいるのだろうか。
 しかしオフィーリアは「これで良いのです」と、苦笑交じりに言った。
「テリオンさん。少しだけ、私に時間をくださいね」
 どういうことだ、と問う前に、オフィーリアが向こう側へ腰掛けて、口を開いた。

 私がテリオンさんと初めて会った日から、もう十年以上経ちました。私を家族として認めてくれたこと、本当に嬉しくて、私はいつもテリオンさんのことを自慢しているのを知っているでしょうか。同僚からもういいと言われるくらいです。あなたのことを話していると、あの無愛想な人が、と驚かれます。どこが無愛想なのでしょうね。こんなにも感情豊かな方なのに。
 いつだったか、私がテリオンさんと二人で出掛けたことがあったでしょう? たしか、教会の行事に必要な神具が足りなくて。女一人では多分重いだろうからと、テリオンさんがついてきてくれたんですよね。あの日、街を歩いていた時、私が言いがかりをつけられたことを覚えていますか。神官は何もしなくても金が貰えて楽だな、とか言われた気がします。それだけで済めば良かったのですが、手を上げられそうになったんですよね。それを、あなたはすぐに庇ってくれました。相手の人の手を掴んで、すぐに追い返してくれて。ああ、私はひとりではないのだと、あなたがいるのだと思えたのです。
 でもそのあと、逆上したその人が教会まで乗り込んできて。市民に手を上げるのは何事だ、なんて、自分のことを棚に上げたことを言ってきて。あなたは反省のためにと、一晩独房へ入れられてしまって、私は檻の前で泣きました。自分が女だから、自分が弱いから、あなたをこんな目に遭わせたのだと思いました。
 けれどもテリオンさん、あなたは言ってくれましたね。家族を守るためにやったことだ、悪いとは微塵も思っていない、どうってことない、って。独房にいるのに胸を張って言うものだから、何だかおかしくて、嬉しくて……私達は、家族なんだと。それでまた泣いてしまって。結局二人、一晩中喋っていて、気が付いたら朝になっていましたね。あとで司教様に怒られてしまいました。
 そんなあなたが、最近ふと、困ったように溜息をついているのが気になっているのです。あなたを悩ませているのは、何なのでしょう。それは私が力になれることなのでしょうか。
 それともそれは、私の思い違いでなければ、……あの、サイラスさんのことなのでしょうか。ここ半年ほど、ずっと、告解のお相手をされていたから。
 思うのです。もしかしたらサイラスさんは、テリオンさんをここから連れ出したいんじゃないか、って。
 もしそうであるなら、……私から、テリオンさんを奪わないでほしいと思うのです。たった一人の兄なのです。
 これは強欲なのでしょうか。きっとそうなのでしょうね。神様、私は欲深い人間です――。

 オフィーリアの独白を、ただ聞いていた。しかし声が震え始めたことに気付いて、はっと顔を上げると、手を合わせ、肩を僅かに揺らして、神に祈りを捧げる女がいた。
「聖火神エルフリックよ、どうか私をお赦し下さい、私をお赦し下さい――」
 どうしてあんたが許しを乞うのだ。まるで聖書を読み上げるかのような柔らかい声で、自分は罪人だと主張するのだ。そんなことをしなくても、俺は。
 俺はどこにも行かない。ここで一生を終える。あんたの家族として、ずっと。
 何故、すぐに答えられないのだろう。
「……ごめんなさい。もうすぐ食事の時間ですね、行きましょう」
 告解部屋から出ていくオフィーリアに、どんな言葉をかければ良かったのか。何が正解で、何が不正解なのか。
 神様、あんたなら分かってるのか。なあ。
 返事はどこからもない。ただ、きんきんと、無音が響くばかりだ。


[newpage]
 サイラスの連続訪問記録は二十回で打ち止めとなった。
 それを皮切りに、俺の日常は聖火騎士団への入団試験へ向けて加速していった。停滞していた川の流れが堰を切って溢れるように、あるいは景色が一瞬のまばたきの間に消えゆくように、あっという間に過ぎ去る。告解部屋の担当から外すよう上へ依頼し、鍛錬に当てる時間を増やした。多忙に次ぐ多忙。慣れない勉学に頭痛を覚えながら、教会内の図書を漁る日々。合間を縫うようにオフィーリアと会い、茶のもてなしを受ける。オフィーリアが修道院へ入ってから、教会以外で会う機会がないので、それだけは死守した。
 というのは建前であって、互いの調子を確認するように会話し、ああまだ自分はまともである、と安堵するのだ。オフィーリアと会う時はいつも、あいつではなく、自分の複製と会っている気分でいた。まるで調律のように。狂いそうな自分を軌道修正するための儀式。それがなくなったら、俺はとうとう狂人になってしまうだろう。
 忙しない日々が続くなか、試験内容に関する本を確認していた時のことだった。入団試験の準備に必要な本が一冊足りないことに気付いた。その本の内容は出題範囲外だが、ないとなかなか困るので、仕方なく街の書店へ足を運ぶ。自分の住居を除いては、じっくりと街並みに目を向ける機会は少なくなっていたから、久しぶりに見る街の風景を雪とともに味わった。時折投げかけられる「神官様」という言葉に薄ら寒いものを感じるのには、気付かない振りをした。
 書店の門をくぐる。いくつかランプが灯されていても、壁一面が本でずらりと埋め尽くされているからか、昼間でも店全体がぼんやりと暗かった。だがその題目は魔術書から始まり、歴史、料理、日曜大工の本までなんでもござれ。さすが聖火教会のお膝元、宗教にまつわる本の品揃えは他の追随を許さない。
 そういえば以前、サイラスがべた褒めしていたか。
 フレイムグレースの書店は素晴らしい。まるごと買い取りたいくらいだ。でも全財産を投げ打つことになるので私は生きてゆけないから、もしそうなったらキミが私を養ってくれないか?
 くだらない話だったから一蹴したのだ。大体俺よりあいつのほうが良い給料なのは明白であるのに、そんな冗談を言うから、馬鹿にしているのかと罵った。
 頭の中であいつの声が再生される。暫く耳にしていないせいで、やたらと甘ったるくなった響きが、俺を感傷の泥沼へと引っ張ろうとする。
 ひとつ首を振って、その手を振りほどいた。
 書店の店主へ本について訊ねる。すると唸り声と謝罪を返される。なんと在庫がないとのこと。ストーンガードで製本されているのだが、次回いつ納品されるか分からないらしい。
 在庫がありそうな店は、と店主に問うと、あまり聞きたくなかった街の名前が耳を打った。
 アトラスダムにありますよ。馬車ならそれほど時間をかけずに行けますので、よろしければ足を運ばれては?

 アトラスダムの記憶は薄い。かなり前、まだ教会で保護される前に立ち寄ったことがあったか、それくらいだ。つまり俺はこの街で、いくつか品物をいただいたことがある。
 人で賑わう街並みは活気に溢れ、フレイムグレースとは違う騒々しさが若干息苦しい。非番を利用してやってきたものの(そもそも神官服は目立ちすぎる)、一歩足を踏み入れた瞬間、あいつに似た雰囲気がそこらじゅうに感じられて、今すぐ帰りたくなった。と言っても次の馬車は五時間後だ。日が高いうちにさっさと用事を済ませて外の街道でもぶらつけば、この押し潰されたような気分も今日の天気のように少しは晴れるだろうか。
 書店を目指す。人懐っこい人物を装って(こういう演技だけは得意だった)適当に道を尋ねると、街の奴らは事細かに教えてくれた。学者さんがよく出入りしてるから、お目当てのものは絶対にあるはずだよ。そんな情報まで手に入れてしまったので、肩に重石が乗ったように身体が鈍くなる。万が一、を考えると、足取りも否応なしに重くなるというものだ。
 幸い、店へはすぐに到着した。壮観、というのだろうか。でかい本棚がいくつも並んだ店内には、日中だというのに見覚えのあるローブを着た輩が何人かいて、それだけで反射的に足が地面にくっついてしまう。店の人間に声をかけられるまで入り口でそうしていたから、ただでさえ学者の身なりでもない俺は、さぞ不審に映ったことだろう。
 学者はもっと引きこもってばかりだと思っていたが、意外と活動的らしい。だが早く終わらせるが吉に違いない。
「この店にこういった本はあるか」
 店主らしき人物へ題目を告げると、短い返事とともに書棚の位置を教えられる。奥から二つ目の、上から五段目の棚の、左から三つ目の仕切りにある、右から十二冊目。即答だった。フレイムグレースの三倍以上はある本棚の中から探し当てるのは至難の業であろうに、店主の頭の中には本の地図が全てが詰まっているのかと思うと、この街はサイラスみたいな奴ばかりが住んでいるのだろうか。想像して、眩暈を覚えた。この街は俺の頭では到底理解できない奴らの巣窟だ。
 土地の違いなのか建物の設計なのか、本棚が壁のように並んでいても思ったより明るい。本の題目も、目を凝らさなくとも読める。言われた場所へ歩みを進めると、整列した兵隊みたいな背表紙の中に、すぐさま件の本を見つけた。店主の言った場所に確かにあった。これで自分の用は済んだ、あとは金を支払って終わり。
 だというのに、唐突に耳に入ってきた話し声に、指先が凍りつく。

 ――聞いたか。オルブライトの論文、また王立学院の記念講演に推薦されたらしいぞ。
 ――やはりか。あいつには敵わんな。天才は神に選ばれたからこそ天才なのかね。
 ――だがあの頭脳のおかげで、……の研究は五十年は進んだ。その功績は俺達では決して……。

 逃げ帰るとはこういうことを言うのだろう。投げ捨てるように代金を支払って、店を出る。時折人にぶつかりながら、街を出て、街道を走り抜けた。馬車の何倍かかるか分からない、夜中に着くことになるかもしれない、それでも一秒も速くこの街から立ち去りフレイムグレースへ戻りたかった。
 サイラス。サイラス。サイラス!
 俺とは違う陽の当たる場所の人間。俺の遥か前を歩く人間。
 俺とあんたは違いすぎる。俺達の間にたたずむ空白が、俺をどこまでも遠くへ追いやる。
 それが思い違いであれば。けれども確かめるには、俺はとことん臆病者なのだ。

 翌日、睡眠不足の頭で教会へ顔を出した時、どことなく周囲の視線が痛いことには気が付いた。慣れたものであったからそのまま受け流していたが、どうやら今度は性質が異なるらしい。それに気付かされたのは、日が沈もうとしている時刻だった。
「おかえりなさい、テリオンさん」
 夕刻の挨拶にしては妙であるが、オフィーリアには出かけると言ってあったので、そのことを踏まえてなのだろう。ただ、奇妙な挨拶よりも先に、オフィーリアの表情が曇っていたことのほうが気にかかった。
「何かあったのか」
 訊ねると、いつもは深い飴色を思わせる瞳が揺らいでいた。
「……実はこの間、教会へ投書があったのですが、それが教会内で少し……」
 ここ暫く一人で過ごす時間が多かったので、投書が話題になっていることについてはまったく知らなかった。
 教会は一般の信者に向けて、様々な制度を提供しているが、そのなかに投書箱がある。教会を訪れる誰もが利用できるものだ。
 真面目な嘆願書めいたものが多いが、中には教会に対する中傷も含まれている。しかしよくあることで、話題になることは少ない。
「目立つ色の紙だったので、担当の神官が気になってすぐに読んだそうです。そしたら」
 言い淀むので「どうした」と促した。
「……テリオンさんが、破戒している、と……」
 なるほどそうきたか、と合点がいった。
 つまり、俺が戒律を破って悪さをしている。そう、誰かが告げ口をしたということだ。身に覚えがないわけではない。以前にオフィーリアを殴ろうとした男のように、逆恨みをする人間はどこにでもいるものだ。特に俺のような、すぐ態度に出すような人間が神官をしていれば、恰好の的であろう。
 あとは――サイラスのことか。同性が同性に好意を寄せるのは、宗教上、大罪だったはずだ。どこかで悪い噂が立ったか。
 ついに神様とやらに裁かれる時が来たらしい。
「詳しくは書かれていなかったようですが、明日、司教様が審問する、と聞いています。ですから今晩、独房で過ごすように、と伝言を承りました」
 逃亡防止のためであろうことはすぐに理解した。時折、酒に溺れた神官や姦淫を犯した職員が、罰から逃げ出さないように入らされていたのは知っている。オフィーリアに言付けを頼んだのも、大方、こいつが言うならば俺が大人しく言うことを聞くであろうと考えたのだろう。
「分かった。……そんなことをあんたに言わせるとは、悪かったな」
「テリオンさん、あなたは本当は……」
 言葉の続きを聞きたくなくて立ち去る。その続きを聞けばきっと、正面から立ち向かわなくてはならなくなる気がしていた。あの時相対したみたいに、再びオフィーリアと。そして、俺自身と。



 夜のフレイムグレースは一層冷える。毛布と火鉢があるといえど、檻のせいで暖かい空気は逃げて一向に部屋の温度は上がらないし、そもそも神官服のケープが薄いのが悪い。コートを持ち込めば良かった。
 はあ。吐いた息は、ランプひとつしかない暗がりの室内でも、すぐに白く濁ったのが分かった。
 明日審問を受けて、俺が何も認めなかったらどうなるのだろう。その時は認めるまで責め続けられるのだろうか。それもいいかもしれない。
 この感情と戦うのもそろそろ疲れてきた。
 思い通りにならないのは慣れている。自分に陽が当たらないのも。だが、誰かに求められて、それに応えられないのは、苦くて痛い。世界の中で、何も持っていない自分が殊更はっきり浮かび上がって、ただ時間だけが過ぎていく無情さが、俺を押しつぶそうとする。何も残せずに、無意味に、淡々と生きていくだけが俺の生き方なのだと、紙に書かれて貼り付けられたような感覚。
 これが神が与えたもうた罰かもしれない。
 サイラスは多分、俺を本当に好いてくれていたのだろう。
 だがそれも今夜までだ。明日の審問が終われば、俺が罪を認めようと認めまいと、別の任地に飛ばされる。もっとも、運が悪ければ破門。
 聖火騎士団の試験準備もすべて水の泡か。
 ここに戻ってこられるのはいつのことになるやら。いや、戻ってこられないかもしれない。
 ――その方がありがたい。あいつのことを考えなくて済む。
 今度は砂漠の中の教会へ派遣されるかもしれない。そう思うと見飽きた風景も手放しがたいものに感じて、昔オフィーリアにせがまれて作った雪うさぎだとか、祈りを捧げ続けた大聖堂の静けさとかが、どうしてか頭の中に浮かんでくる。
 目を瞑った。真っ暗になった視界に、フレイムグレースの雪景色が映し出される。どこまでも続く白地に、ところどころ炎の橙色が滲んで、教会へ向かう人々を見送る。そこに立っているはずのオフィーリアと俺の姿だけが、雪の中にぼやけてよく分からない。これはいつの記憶だろうか。
 俺がいなくなったら、オフィーリアはどうなるのだろう。どこまでも相手を信じるやつだから、この閉ざされた世界で騙されずに、うまく立ち回れるのか心許無い。
 いや、違う。
 誰もを信じられるのが、あいつの武器なのだ。あいつは本当は強くて、俺がいなくとも生きていける。
 誰かがいないと生きていけなくなったのは、俺のほうだ。
 オフィーリア。サイラス。あいつらに会うことがなければ、きっと今でも、一人で。
 思考の中に潜む影にのまれる寸前、突如、鐘が鳴り響いた。
 大聖堂の鐘ではない。かんかんかん、と甲高くけたたましいこの音は、火事の時に鳴らされる音だ。
 次いで、街のざわめき。独房の壁にある通気口から、微かではあるが、森のほうで火事だ、とか何とか聞こえてくる。雪の降りしきるこの街で火事とは珍しい。 
「――テリオンさん!」
「……オフィーリア……!?」
 通気口を覗こうとしていた時、予想外の人物の声がして、思わず踏み台にしたベッドから足を踏み外すところだった。
「なんであんたが……!」
「しっ、静かに……見張りの神官は今、火の様子を見に行っているはずです。少し離れていて下さいね……!」
 オフィーリアが杖を構える。それは神官の奇跡の技とは違うもので。
「……雷よ!」
 瞬間、薄暗い独房にばりばりと稲光が走った。檻の入り口に取り付けられた錠前が、ぶすぶすと黒い煙を上げながら、床へ落ちる。
 雷魔法だ。いつの間に、そんな技を。
「ふふ、驚きましたか? 実は以前、サイラスさんにお願いして、少しだけ手ほどきを受けたんですよ」
「あいつに?」
「はい。私ひとりでも、自分の身を守れるようになりたくて」
 短剣の扱いは不得手ですから。そう苦笑しながら、オフィーリアが檻の扉を開ける。
「テリオンさんに、謝らなければいけないことがあります。……実は、投書の件は、私が行ったのです。テリオンさんに、独房へ入っていただくために」
 いわゆる自作自演ですね。そう白状する姿を目の前にしても、どうしたことか、何も反論できない。
 昔から、オフィーリアが無茶苦茶なことをする時には、常に理由があることを知っている。
「フレイムグレースから、聖火教会から離れるには、それしかないと思ったのです……本当に、本当にごめんなさい」
 頭を下げるオフィーリアに、どうして、だとか問い詰めたいことは山ほどあったが、それよりも早く「さあ、走りますよ」と手を引かれる。
「おい! もしかしてあの火事も……!?」
「はい、私です。生木をいくつか束ねて燃やしただけですが、思っていたより騒ぎになってしまいましたね……あ、燃え移らない場所で燃やしましたよ!」
「こんなことをして、あんたもただじゃ済まないぞ! 破門になっても良いのか!」
「懺悔なら、あとでいくらでもします。罰は受けます。でも、家族を守るためですから、悪いなんて思っていないですけれど」
 聞き覚えのある台詞を返されて、こんな状況なのに、走りながら少し笑った。

 独房のある塔から大聖堂の裏を抜け、街はずれへと走る。遠くに煙が立ち上っているのが見えた。念のため二人ともフードを深く被ってはいたが、街の中心はボヤ騒ぎでそれどころではないらしく、また神官の姿も珍しくないからだろう、俺達を気にする奴らはいなかった。
 進むたびに人の気配がなくなっていく。家々は過ぎ去り、雪と岩と木だけの景色へと変化していく。
 まさかオフィーリアが、こんな大胆なことをしでかすとは。俺の知らないうちにサイラスから魔法を学んでいたことも気付かなかった。自分の知らないオフィーリアの時間があるのだと今更ながら思い知らされて、自分がオフィーリアのすべてを知った気でいたことを恥じた。
 雪で足を滑らせないよう気を付けながら走り続けて、街の端へ着く頃にはすっかり息も上がっていた。冷たい空気で喉が痛い。
「はあ、はあっ……すみません、急がなければと、思ったので……修道院に気付かれるのも、時間の問題で……っ」
 そうだった。こいつのことだから、修道院からこっそり抜け出してきたのだろう。堂々と「今から陽動のために火事を起こしてきます」なんて、言えるはずがない。
「おい、オフィーリア……なんで、俺を逃がしたんだ……」
 ぜえはあと息を荒くするオフィーリアに、自分も呼吸を整えながら問う。フードの隙間からでも分かる、色白の頬が赤くなって、神官服に映えた。
「……私は、テリオンさんがいなくなるのは、……嫌です……」
 でも、とオフィーリアが続ける。
「テリオンさんが幸せでないほうが、もっと嫌なんです」
 神託のような声だった。
「あなたをここに縛り付けていたのが、他でもない私だというのは、分かっていました。それをあなたに強いたのも――でも、もう、私達は、違う道へ進まなければいけないのです。私はずっと、それを避けていたのです」
「何を、」
「私はもう、大丈夫です。今日、明日が大丈夫じゃなくても、いつの日か大丈夫になります」
 テリオンさんとお茶ができなくても、お勤めの時に会えなくて寂しくても、あなたが幸福であることのほうが余程大切なんです。あなたがあなたの望む人生を歩む。そうであってほしいのです。
 オフィーリアの言葉が、はらはらと、雪に交じって俺に降りそそぐ。
「テリオンさんは、こことは違う、別の場所で生きてゆきたいのではないですか? そこに、あなたの未来があるのではないですか?」
「オフィーリア、俺は……」
「行ってください、さあ」
 ずっと握っていた手を離して、その細い指が、とん、と俺の胸を軽く突いた。
 なあ、俺は。
 俺は、あんたに何かを返せたのか。
 あんたに、兄として、何かできたのか。
 聞きたかった。答えてほしかった。だが、オフィーリアの泣き顔から目が離せない。
 微笑みながら涙を流して、掠れた、しかし竪琴を鳴らすように呟く。

「ねえ、テリオンさん。私達、家族でしたよね。私は、あなたの家族でしたよね」

 零れ落ちる涙の美しいこと。粉雪になってきらめき、消えていく光の粒たち。
 あんたを泣かせるのは、俺の特権なのか。ならば、そんなに綺麗な涙を見るのが俺だけなんて、勿体ないな、と思う。
 そのひとつを、冷たくなったグローブの先で拭った。そのまま、金髪を隠すフードを少し上げる。被っていた雪がさらりと落ちた。
 何事かと不思議そうな顔をするオフィーリアを見ながら、そんな風にぼうっとしていると誰かに口付けをされてしまうぞ、と心の中で苦笑する。
 その額に、小さくキスを贈る。
「……あんたに、聖火神の祝福があらんことを」
 最初で最後の祝福だ。神を信じちゃいない俺からは、効き目がないかもしれないが。
 そう言って、雪の中で二人、笑った。それきり口を開かず、互いに背を向け、歩き出す。
 さよなら、オフィーリア。さよなら、昔の俺。
 さよならだ、すべてのものよ。



 走った。疾走した。
 どれくらいか分からない。フレイムグレースから南へ、南へと走り続ける。昨日も走った道を、昨日とは比べ物にならないくらい早く走る。足に神官服の裾がまとわりつくので、途中、短剣で破いてやった。
 森を抜けて、暗い街道を駆け抜ける。魔物を追い払いながらひたすらに走り続けているうちに、雪がやみ始め、景色が少しずつ変わり、次第に左手に海が見えてきた。東の空には炎の色が真横に伸びている。いまだ群青の水面から潮風が吹き荒んで髪をかき乱すが、そのままにしてただ走り続けた。
 足は痛いどころじゃない、喉は乾きっぱなし、時々咽せて苦しい。その上、この先に自分の欲しいものがあるか、確証なんてない。
 なのに何故、あの街へ向かっているのか。居心地が悪くて、癪に障る、でもあいつがいる街。
 おもむろに、いくつもの白い筋が、海と空の境目を割るように現れて拡がった。
 水平線を追い越して、太陽が顔を出す。空が燃える。世界が反転する。
 閃光に撃たれて、立ち止まる。眩しくて、目が痛くて、けれど泣きたくなるくらいあたたかい。
 夜明けだ。

 例えばいまこの瞬間に、俺が死んだとして。
 時は止まらずに流れて、夜が明ければ人々は呼吸し、生きて、また夜が来て、月が現れ、また日が昇る。
 サイラスはあの街で、いつもどおりの日々を過ごす。俺のことはいつか思い出になって、古びて本棚にしまい込まれる。
 俺は誰かに、何かを残すこともなく、霧のように散らばって、薄まって、消えていく。
 たったそれだけのことが、どうしてこんなにもさびしいのか。嫌だと叫びたいのか。
 その理由を、俺はとうに知っているのだ。

「テリオン!」
 ああ、神様聞こえるか。あんたに懺悔し続けた男の声がする。そんなに焦ってどうした、いつもの調子はどこへ行った。
 俺はついにおかしくなったのか。走り続けたせいで頭が狂って、幻覚を見るようになったってのか。
 ――違う。光に満ちた空間の奥、そこから駆け寄ってくるのは、見覚えのあるローブは、確かに。
「な、んで……ここに……」
 サイラスだった。
 俺の一歩先で止まる。肩で息をしていても、髪を振り乱していても、額の汗を拭う動きひとつとっても様になる、腹が立つ男サイラス・オルブライトだな、と分かる。
「商人から、フレイムグレースで火災があったと聞いて、心配で……! 馬車はないし、走ってきたのだけれど、一体何があったんだい!? その恰好は!? ああ、どこもかしこもぼろぼろじゃないか!」
 言われて、自分の姿を確認する。白い神官服は裾のほうから黒く汚れているし、自分で切ったこともあって目も当てられない状態だ。ケープは魔物とやりあった時に裂かれたのか傷だらけだった。まるで脱走兵のような見た目に、いや脱走してきたのだから正しいな、と一人で納得した。
 それよりあんた久しく見ていなかったが何してたんだ。元気だったか。会いたかった。悪かった。何から言おうか迷ったが、最初に出てきた言葉は「逃げてきた」だった。けれどもうまく喋ることができなくて、げほげほと情けなく咳き込んだ。
「え? 逃げてきたって?」
 よく聞き取れたな、感心だ。唾を飲み込んで咳払いをする。さて今度はうまく話せるだろうか。
「神官ごっこはもうやめだ。おい、アトラスダムへ行くぞ」
 どういうことなんだい、とサイラスの置いてけぼりをくらった顔が面白くて、からからの喉で笑った。「テリオン?」さっきから気になっていたが何故呼び捨てなのだろうか、許した覚えはない。
 しかしこいつは元から許さなくても勝手にする奴だった。今に始まったことではないのだ。勝手に俺に恋をするし、勝手に告白する。そして、勝手に俺に未来をくれると言う。
 だから俺も勝手にしてやる。
 まずはご挨拶に飛びついてやろうか。それかキスのひとつでもくれてやろうか。いやそれとも……どれも愉快で、サイラスの驚く顔が浮かんでたまらない。
 朝焼けがだんだん白く侵食されていく。光が俺達を飲み込んでいく。サイラスの黒髪がつややかな輪を帯びて、無性に触れたくなって、手を伸ばした。
 世界中の神様とやら、もしいるのならばとくと聞くがいい。あんたらの手の届かない世界で喚く人間の声を。さあお待ちかね、大罪人の演説、負け犬の遠吠えが始まるぞ!



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