から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

蜃気楼
・サイラスに拾われたテリオン。
・在りし日の傍白。
#サイテリ #IF

 結局俺は、あんたを最後まで、父とも、兄とも、師とも、恋人とも呼べないままだったから、俺たちが一体どういう関係だったのかいまだに計りかねている。
 血のつながりがない分、人間は関係性に名前をつけたがる。これが自分達だけの問題ならまだ良かったのだが、他人から解答を求められるので面倒極まりなかった。
 ただ事実として、俺がいまこうして文字を書けているのは、ひとえにサイラスのおかげに他ならない。
 読み書きだけではない。生きるためのすべてを与えてくれたのがサイラスだった。俺にとってあんたは地図だった。星だった。真理だった。
 誰の目にも留まることはないだろうこれを、もし誰かが読めたとしても意味はない。誰もが信じず、誰によっても妄言にされるだけの、おぼろげな文字のかたまりだ。
 だから、飾りっぱなしで目もくれてもらえない絵のように、いつか褪せて忘れてもらいたい。そう願ってやまない。



 俺は死にたかったんじゃない。
 ごほごほと、苦い水を吐き出しながら言うと、男は胸を撫で下ろして「それは良かった」となごやかに述べた。この寒さに似合わない声だった。
 お互い濡れ鼠同然。側の川には氷が張っている。ついさっき俺が落ちたところは、見事な大穴が空いていた。月明りにかすんだ眼だったがそれだけは分かった、えらく真っ黒な丸ができていたからだ。
「しかし、とても冷たいね」
 真冬だからな。そして真夜中だ。
 膝をついて、男は俺の肩やら腕やらを手で払うのだが、全身が水びたしの人間にそんなことをして何になるのだろう。
「キミ、とにかく、あたたまらないと、ふたりともしんでしまうよ……はぁ、」
 さむい、とそいつは笑った。なぜ笑える余裕があるのか、とか、あんた誰なんだ、だとか、もう声を出す力がない。そいつの向こう側、濃い藍色のなかでちかちかしている星を見ているだけだった。
 なにせ俺はその時、空腹の絶頂だったのだ。

 見ず知らずの男は俺を引き摺って(本当にずるずると引き摺って行ったのでつま先が痛かった)家に連れ帰った。俺がそいつよりも背が低く小柄なので可能だったことだが、思い出すたびに、よくあのひょろい体でそんなことができたもんだと失笑してしまう。それくらい当時は今より貧弱な男だったのだ。
「橋の上から落ちたのを見た時はびっくりしたよ」
 何日ぶりかの湯を浴びたあと、俺を自殺志願者だと勘違いした男は苦笑した。「早まっちゃいけないね……ああ、私の思考のほうだよ」それは理解した。
 びしょ濡れになった服はどこかへ追いやられてしまった。代わりに何やらするするとした触り心地の服を着せられて、俺はベッドに寝かせられていた。もやのかかった視界には、積まれた本の数々に、うすぼんやりとした明かりだけが入ってきた。氷で打ったこともあって全身が痛く、そして相変わらず腹が減っていた。もう何日食ってないのか、覚えてすらいない。数えるのをやめたからだ。
 その空間は外よりは暖かかったが、ましという程度で、隙間風が入ってくるのか視界の端で紙が踊っていた。壁に貼り付けられたメモだろうか。今にも飛んでいきそうで、次に声が出たら「貼り直せ」と言ってやる。この何処か分からない場所で、誰とも分からないやつと、俺は何をしているんだろうか。
 ああ、寒いし痛いし、最悪だ。
 ぶる、と体が震えた。単なる反射的なものだったと思うのだが、男は「すまない、暖炉に火をつけていなかった!」と大声で叫んだ。うるさいやつだ。それからばさばさという物音――おそらく本が何冊か落ちる音――がして、何か見つけたのだろう、男は「あったあった」と喜びの声を上げた。
「――炎よ」
 ぼそぼそ何やら呟く声がする。と、突然、何の前触れもなく、視界の端がぽっと明るくなった。しばらくすると、ぱちぱちはぜる音が聞こえてきて、暖炉に火が灯ったのだと理解した。
 空間にぼんやり浮かび上がる男を見上げる。目がかすんでよく分からなかったが、悪意がないことだけは見てとれた。そいつは俺を殴らなかった(当時、俺の判断基準はそれだけだった)ので、自分は最低限身を守れる場所にいるのだと思うと、とたんに空腹より眠気がやってきて、瞼が重くなる。
「そんなに広くないから、暫くすれば暖かくなると思う。私は火を見ているよ。そのまま寝ていなさい」
 学者といってもまだ駆け出しだから、そんなに良い部屋には住めなくてね――男はへらっと笑った。よく笑う男だ。
「おやすみ、よい夢を」
 これが、俺が記憶しているなかで、最も嬉しかった言葉である。
 誰かにおやすみと言われて目を閉じることは、これほど胸が苦しくなるものなのか。頭の中が熱くなるものなのか。
 生まれてこのかた、おそらく十四年。人が安堵と呼ぶ感情を、この時初めて知ったのだ。

 俺がサイラス・オルブライトと名乗る男に世話を焼かれることになったいきさつは、三文芝居より仕様もない。
 幾ばくかの同情と、行き倒れの人間は放置してはならないという常識的観念に従って、俺を助けた。それ以外の何ものでもない。気まぐれに捨て犬を拾ったサイラスと、気まぐれな飼い主を見つけた俺。俺たちの関係ははじめ、それだけだった。
 もともと俺は、用が済めば部屋を、街を出ていくつもりだった。そもそも、誰かと共に居ることは、俺を否定することと同じだった。過去の「経験」が、それを受け入れがたいものにしていた――今でも、谷底の記憶がほら穴の中から俺を掴み、引きずり込もうとする。思い出したくなくとも、忘れることができない苦い味のせいで、自分を誰かと共有することを心底嫌っていた。
 けれども、人間は大なり小なり、誰もが事情を抱えているものだ。
 俺は眼前の課題として、生きるために、金と、飯と、雨風をしのげる場所が欲しくて、一方でサイラスは、しばしば無人となる部屋の管理人が欲しかった。
「だから私の部屋に居てくれないだろうか」
「あんたは馬鹿か」
 起き抜けに出されたスープは至上にうまかったのに、その味が吹っ飛ぶくらい意味不明なことを言う。空っぽの胃が久方ぶりに液体を与えられて、ぐる、と呻いた。思わず腹をさする。「もっと回復したらもっと食べられるよ。しかし少しでも口にできて良かった」俺のしぐさを空腹ゆえと思ったのか、サイラスは椅子に座ってうんうん頷いていたが、今その話はしていない。よく思い出すことだ。
 ベッドに腰かけて、目の前の男に向き直る。右側から陽が差し込んで少し眩しかった。それを受けて、男の束ねられた黒髪には光の帯ができていた。
「……あんたに、一応、感謝はしている」
 喋るくらいの体力はあるようだ。何も話せなくては何も伝えられない。
 ――俺は前の晩、あまりに空腹で足がもたつき、橋の上から落ちた。情けないこと、この上ないが。
 アトラスダムという大きな街があると聞いて、そこならばもっとましな物が手に入るのではないか(言わずもがな盗むことで)と思い歩いてきたのだが、寒さを防ぐものもなく、体は休息を欲しており、その結末として思考を放棄した俺は呆気なく川へと落ちたのだった。それを、たまたま通りかかったサイラスが気づいて助けた。調べ物で出掛けていた、その帰りだという。人として正しい行いだと考えてのことだろうが、真冬に、しかも氷の張る川へ迷いもせず入ってくるやつがいるか? 呆れて物も言えない。
 本題に戻る。
「で? なんで俺を住まわそうとする」
「さっき述べたとおりだよ。私は研究で、ひと月の半分もこの部屋に戻れなくてね。すると妙なことに、部屋の前にものが置かれていくんだ」
「もの?」
「ああ。果物とか、食事とか、時折金銭も」
 こいつは聖火神エルフリックか。いや、実際に貢ぎ物なのかもしれない。
「でも私はここに居ないから、受け取ることができなくてね。それに、誰からか分からないものを口にするのは、少々、……抵抗が」
 育ちの良い男なのだろう。俺なら遠慮なくいただくが。あまりの差に自分を鼻で笑って、それから言い放つ。
「あんたみたいな『大人』は、番犬がわりに子供を囲うのが普通なのか?」
 子供、という言葉に、自分で言っておきながらうんざりした。都合の良い時だけ子供扱いするのは、都合が悪くなった大人のやり口なのを、思い知っているからだ。
 困った風に腕を組み、サイラスは仰々しく、ううん、と唸ってみせる。
「あまり頼る人もいなくてね……それに、アトラスダムは治安は良い方なのだけれど」
 これは駄目だ、通じていない。
 空っぽのスープ皿を持ったまま、ベッドの上からそいつを観察した。
 昨夜は薄暗くてよく見えなかったが、なるほど良い面をしているなと思う。身なりもちゃんとしているし、本で埋め尽くされて狭いことを除けば、部屋には清潔感があった。しかし金になりそうなものは見当たらない。生活に必要な最低限の部屋という感じだ。
 食い物の貢ぎ物も、どうせこいつ目当ての女の仕業だろう。俺もここまで見てくれが良ければ自分を売って稼げたものだが――と、よからぬことを考える。
 金がなくては生きてはいけない。夢だけでは腹は膨れない。今日を生き延びる方法が必要だ……浅ましい盗人の餓鬼には、考えている時間があまりに少なかった。
 つまるところ、俺は、その誘いに乗ることにしたのだ。
「……いいだろう」
「本当かい!」
 ばっと身を乗り出したサイラスに思わず身構える。大人が急に動くのは苦手だった、そのほとんどに良い記憶がないから。軽く咳払いをし、気を取り直して言った。
「あんたには、まぁ……恩もある。ただし、俺は居るだけで何もしない」
「助かるよ! 家賃も勿体ないし困っていたんだ! 安月給だから出来ることは限られてしまうけれど、あ、そうそうまずこの部屋だが、居る間は好きに使ってもらって構わないよ! でも書物だけは捨てないように、」
「興味ない」
 切り捨てると、サイラスが固まった。この本の山が、こいつにとっては宝の山らしい。食えるわけでも金銀財宝でもないこれが。
 変わったやつもいたもんだ、と無言で皿を返す俺に「そういえば」と尋ねた。
「聞きたいことがあるんだ」
「なんだ」
「名前を教えてくれ」
 聞かれて、誰から貰ったのか知らない単語を返した。これが俺の名前であるかどうか知らないが、気がつけばこの名称で呼ばれていたので、名前として使っている。もし偽名だったとしても大した問題ではない。名前など値札と同じだ。
 なのに「テリオン、テリオン……」と何度も反芻するので、いたたまれなくなって、再びベッドへ潜り込んだ。
 三日後、体力が少し回復した俺を置いて、サイラスはとっとと出掛けていった。金目のものがないとしても、まったく警戒心のない奴だとため息をついて、この三日の間の出来事を思い返す。
 奴はよく話していた。ただし一方的に。俺の様子から話の半分も理解できていないとみると、今度は解説を始める。だから講釈は延々と長引いて終わらない。……覚書として、少し前まで死人同然だったことを書き添えておこう。
 これまで俺は、生きるために必要な文字――金勘定や数など、誤魔化されては困るもの――以外は読み書きができなかったから、サイラスが紙に書くもののほとんどが記号にしか見えなかった。その記号が記号ではなく、ひとつひとつに意味を持ち、つなげると言葉になる。言葉がつながれば今度は文になる。単にそれだけのことを、さも嬉しそうに話すものだから、おかしくなってつい戯れに「先生」と呼んでやると、奴は恥ずかしそうに「恐縮だ」と言った。



 奇妙な生活が始まったことで、俺は予定外にアトラスダムに居座ることとなった。
 サイラスは学院で研究をしていると言った。学院も研究も何のことか分かっていない俺に、またしてもありがたい授業が始まり、どういう存在か知ることになった。「今は助手みたいなものだけれど、研究の成果が認められれば教壇に立つことができるんだよ」そうかい、とだけ答えておいた。
 最初の宣言どおり、そいつは月の半分どこかに出かけていて、俺はその間の生活費として適当に金を渡されることで食い扶持をつないでいた。この金が多くもなく少なくもない絶妙な額だったおかげで、驚くべきことだが、盗みを働く必要がなくなり、来る日も来る日も暇を持て余していた。考えてみればあいつのことだ、すべてお見通しで金を渡していたのかもしれない。
 『番犬』がいるためか、少しずつ例の貢ぎ物も減った。つまりタダ飯が減ったので、渡された駄賃で好きな物を買い、好きなように食うということした。いたずらを覚えた餓鬼のように心躍ったことをよく覚えている。
 部屋はアトラスダムの端のほう、煉瓦造りの建物の二階にあった。時折、窓から街の様子を眺めていた。空に薄く伸びた雲の下、街の奥の、さらに奥のほうに大きな建物の頭上だけが見えていて、それがサイラスの働く場所なのだと知った時は、まさか貴族ではあるまいな、と疑ったものだ。
 無事、当面の衣食住を手に入れたわけだが、相変わらず部屋は片付かず(俺が片付けないので)床の見える部分は少なかった。出来ることと言えば、自分の獲物の手入れくらいか。それなのに、奴が出掛け、戻ってくるたびに物が増えるので、俺の領土は徐々に脅かされていく。侵略者は本だったり、植物だったり、時には石だったりした。
「なんだこれ」
「綺麗だろう? 化石だよ」
「宝石じゃないのか」
 夕焼色の小石をつまんで味気ない感想を述べると、奴は両手をあれやこれや動かして熱弁する。「その石の中にオルステラの歴史が描かれているんだよ!」正直言ってどうでもよかった。その頃、価値といえば食い物につながるかどうかであったので、売ったらいくらになるのかということしか考えられなかったのだ。

 季節が一巡りするまでに、ベッドがひとつ増えた。本の置き場が狭まったので、その次に棚が造られた。山積みの本がしまわれ、しかし空いた場所へすぐに新たな本が置かれていく。足の踏み場がなくなってくると、食事ですら立ってするほうが楽になってくる。ある時そうやって林檎を食っていたら、どたどたという音とともに部屋の扉が勢いよく開いた。
「テリオン!」
 サイラスにしては珍しく、走ってきたのだろう、ぜいぜいと息を切らしながら駆けこんできた。肩に羽織った黒いローブが、みっともなく着崩れている。
「あっ、こら、座って食べなさい」
「まだ学院にいる時間だろ」
 あんたのほうこそ食事中は静かにしろ。そう返すと「いや、それどころじゃないんだ聞いてくれ!」とせっつかれた。
「この間、出版社に投稿した論文が、金賞を取ったんだ! ほら、新聞に募集記事が載っていただろう? 嬉しくてつい学院を飛び出してきてしまった、キミに報告しなくてはと思ってね! 賞金も出るから、これで引っ越すことができる!」
 嬉々として叫ぶ男は今にも窓から飛び立ちそうだ。それは困る、俺の生活費が文字どおり飛んでいってしまう。――賞金とはいくらだったのだろう、当時聞きそびれたので結局分からずじまいだ。
「ここじゃ駄目なのか」
「駄目だよ。だってキミの部屋がないじゃないか」
「いらん」
「必要さ! だってキミは来年から学院に通うのだから!」
「寝言は寝て言え」
 あらかじめ言っておくと、この寝言がまことになることはなかった。サイラスはしつこく俺を学院に通わせたがっていたが、俺が断固拒否したからだ。
「キミくらいの年齢なら学舎に身を置くべきだよ」
「あんたは俺の親か?」
「ではないが、現実、保護者のようなものだから」
「あんたの物差しで俺を測るな」
 大人はいつも、きれいな箱に収めようとする。こちらの意思など無視して。それが嫌で、俺はいつも、何処からか、誰からか逃げ出していた。
「今度またその話を持ち出したら、俺は出ていく」
 その時アトラスダムに居たのは、『食う寝る生活』を送ることが可能であったからで、決してサイラスに情がわいたわけではなかった。自分にとって安全な場所が他にあるならば、出て行ってもかまわなかったのだ。
 犬に鼻先であしらわれ、飼い主は両手をあげる。
「……すまない、私が悪かった」
「分かればいい。それに、学院に通う必要なんてない、あんたが勝手に教えてくれるからな」
「なるほど、それは真理だね。やはりキミは賢い! 学ぶということは誰にでも開かれている門で、どこにおいても可能なことだ。大昔、とある哲学者は周囲の人たちへ疑問を投げかけ、対話を重ねた。場所など関係なかったんだ。学問の始まりは何でもない、疑問からなんだね。つまりキミが知りたいのであれば、」
「長い」
「……私はいつでも教えるから、いつでも訊ねてほしい」
「勝手に言ってろ」
 
 まさしく勝手に、サイラスの講義は突然始まり、突然終わるのが常だった。聞いてもいないのに、この世の理屈を語る。世界中の理屈を編纂したら、『サイラス・オルブライト全集』という本が出来上がるのではないかと思ったくらいだ。
 雨季に雨が降れば、なぜ雨が降るのか。
「この世界は奇跡がパイ生地のように折り重なって出来ている。あそこに海が見えるね? そこから蒸発した水分が空へ昇って雲になる。雲は雨となって、大地を潤す。染み込んだ雨水は海へと流れ込んで、またこの循環が始まるんだ」
「へえ」
 珍しく雪が降れば、なぜ雪は冷たいのか。
「雪は結晶の集まりだ。小さな粒がだんだん大きくなって降ってくる。その正体は氷と同じなわけだが、氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる。氷に触れる側、つまり人間のほうが温かい。その熱を奪われる、それが冷たく感じる理由なんだ」
「ほう」
 天の青さ、花の色、人の歴史。今まで俺が捨て置いてきたものを一つ一つ拾い上げていくように、サイラスの声が俺の中に文字を記す。文字は意味を持って知識となり、俺に語りかける。そのたびに無知を知った。俺が世界だと思っていたものが、どれほどせまっ苦しい枠組みの話であったかを。
 知らないということを知ることは最も尊いことだ。サイラスはことあるごとに、そう口にしていた。
「単に知っているだけでは、学んだとは言わないからね。さあ行こうじゃないか!」
 そして俺を色んな場所へ連れて行った。留守番はどうした、と聞けば「留守でいいんだ」と言う。「あんたそれでいいのか」「いいんだ」決まりきった問答が何度も何度も繰り返されて、俺は笑っていた。いつの間にか。
 無人の部屋をあとにして、俺達は馬鹿になったみたいに世界中を駆け回った。砂漠のはずれにある洞窟を探索しに。常闇の村に咲く珍しい草を見つけに。馬車で、徒歩で、どうやってでも辿り着く。くたびれたらそこら辺で休んで、サイラスの魔法で火をおこし、俺は寝床の準備をして、寝そべり、月を眺める。眺めているとサイラスがやってきて、天体について語り始める。弦楽器の旋律よりも、美女の匂いよりも効果のある眠り薬だった。
 旅先で見つけたものはどれも、俺にとっては取るに足らないものばかりだったが、高尚な学者先生にとっては違うらしい。日が暮れるまで座り込んで調べるなんてしょっちゅうで、そのたびに「先に宿へ帰る」と急かすが、何がそんなに面白いのか一歩も動かない。そうなれば石と同じ。力ずくで持ち帰るしかなかった。
 二年経っても、三年経っても、五年経っても、研究の手伝いだと言って俺を連れ出した。出来の悪い飼い犬に振り回されていたのに、月が隠れて太陽が昇るように、いつのまにか逆転し、俺がサイラスに振り回される日々。くだらない、なのにあっという間に時が過ぎていく。
 奴が居ない間は、置き土産の本を相手に時間を潰した。読める文字も多くなり、知ることにうっすらと楽しみを抱くことができたのは、『サイラス先生』の功績といえるだろう。あいつは本当に教師に向いている。論文の成果が認められて、学院でも教える側に立てた、と喜んでいたか。
 六年目になって、ついに奴は住まいを変えることを強行した。貯まった賞金で、思い出深い(皮肉だ)狭い部屋に別れを告げることを決めたのだ。この頃になると、貢ぎ物はまったく置かれなくなった。
「お役御免だな」独り言だったのだが、妙なところで几帳面な男は聞き逃さなかった。「何のことだい」「番犬業務のことだ」
 俺の図体はすっかりでかくなり、成人の歳になっていた。サイラスの背は到底追い越せそうになかったが、少しは伸びて、見た目ももう子供ではない。これならば仕事も見つかりそうだと踏んでいたので、アトラスダムを発って別の街へ行こうと算段していたところだった。
「キミにしては面白くない冗談だね」
「俺がいつ冗談を言った」
「キミがいなくなったら、私はどうやって洞窟の奥から戻ってくれば良いんだい?」
 ――そのとおり。こいつのわがままに付き合わされ、俺の役割はここ数年、座敷犬から護衛に変わっていた。何故ならばこいつは恐ろしいことに、魔法以外に身を守る術を持たない。魔力が枯渇すればひとたまりもないのに。どれだけ貴重な石を見つけようとも、俺に言わせてみれば「さあ強奪してくれたまえ」と差し出しているのも同然。同行している自分の身が危険にさらされるのは我慢ならなかったので、旅先では率先して戦っていたわけだが、結果的にサイラスを守ることになっていた。こいつは顔と頭だけは良いから、それすら戦略だったのかもしれないが。
「傭兵を雇え」
「嫌だな。それは私の主義に反する。研究の場に無粋な輩を招きたくない」
「俺は良いのか」
「勿論。むしろ何故いけないのか理由を知りたいね」
 さも当然とおっしゃる不遜な態度。「雇い主が私では不満かい」そういう問題ではない。しかし理屈をこねるサイラスを負かすのは、非常に骨の折れる作業であることを、俺は実戦で学んでいた。
「……犬は犬らしく、主人に従えば良いんだろう」
「おや、なんて良い子なのだろう! ご褒美をあげなければ! 何が良いかな? 新しい短剣にしようか。それとも魔術書のがよいかな」
「いらん」
 ああ、飼いならされた犬の末路だな、と思った。その後も相変わらず駄賃は支払われるので、俺はとうとう出て行く理由がなくなってしまって、サイラスが必要とあらば居てやらないこともない、と――そうやってごまかしているうちに、やがて陽が沈む。気が付けばまた、サイラスと同じ空間に立っている。隣を見ればそいつが居て、また俺を世界へと連れ出すのだ。
 思い返せば、この時既に気づいていた。俺の中で、ふっと息を吹きかければ今にも弾けてしまう、そんな正体不明の何かが膨らんでいることに。けれども蓋をして、隠しておいたのだ。知らないことを知っているのに、俺は知るのが怖かった。

 

 サイラスが発表する説は年々脚光を浴び、有名な賞を総なめにしていった。
 引っ越した先の一軒家の居間、二人ならば充分な広さの部屋に、沢山の見知らぬ奴らが何度もあふれかえっていた。集まれば即席の討論会が始まって、その様子はかつてサイラスの言っていた大昔の哲学者を思い起こさせる。なぞらえるなら、サイラスがかの偉大なる哲学者で、周りの奴らはその弟子だ。いつかそのうちの一人が、サイラスの名言集を発刊するかもしれない。だとしても俺は決して買わない。
 誰かと論戦でせめぎ合うのは楽しいようで、しばしば溌剌とした家主の声が響いたが、気分はすぐれなかった。俺の知らないそいつらは来るたびに、俺に一瞥をくれてから、まるで見なかったかのようにサイラスのことだけを視界に入れるようにする。早く捨て置け。幻聴は毎日俺の耳元で繰り返され、いつも俺を崖っぷちへと追いつめる――誰に言われずとも、俺が一番理解していた。
 俺を亡きものにしようとするそいつらがサイラスの教え子なら、俺は生徒でも、ましてや家族でも、何者でもない何か。誇れる過去もなく、輝かしい未来もない。ただ名前だけがある人間。
 ならば俺は何なのだろう。俺は何故ここに居るのだろうか。サイラスはいつも疑問を他人に問いかけていたが、俺が問いかけるのは、決まって自分に対してだった。
 あいつは学院で名を馳せて、どんどん偉くなっていく。いつも毅然と学問に向き合って、世界を知ることがいかに素晴らしいことなのか、少しでも俺に伝えようとしていた。学院の教職に追われ、家で講釈を垂れることが減っても、変わらず俺を連れてほっつき歩く。旅先から帰ってくれば途端に机へと一直線、よもすがらペンを動かすのがあいつの仕事。それを眺めるのが俺の権利。俺が耐え切れずに眠ってしまっても、ひたすら己の考えを形にすることに没頭し、朝になれば決まって「テリオンのおかげでまた良い題材が見つかったよ」と笑うのだ。俺は何もしていない、ただ付いて回るだけなのに、俺を連れまわすようになってからよくそう言うようになった。
 この頃までの出来事を思い出す時は、いつも、笑うサイラスの姿がある。水平線から世界が暴かれる瞬間のように、ぱっと眩しくて、そこらじゅうを照らすような空気に満ちていた。
 だが一度だけ、剣呑な雰囲気で学院から帰ってきたことがあった。俺を拾った時のサイラスと同じ歳になった、あの頃の、あの日のことは、述べたくない気持ちが強い。しかし、書き記すべきなのだろう。

「最悪だ」
 帰ってくるなり、開口一番、サイラスは低い声で言った。
「……どうした」
 短い言葉に含まれた、剣の切っ先のごとく尖ったものを、放っておくことができなかった。「ああ愚かしい」とぶつくさ言いながら、奴は荒々しく椅子に腰かけた。ここまで機嫌の悪いサイラスを見たのは、これが最初で最後だ。
 長い溜息をついてから、忌々しそうに口を開く。
「私の論文完成に、キミがどれほど貢献してくれているか。耳を貸さない人間ばかりで嫌になる」
 ああ、学院の奴らに何か言われたんだな、とすぐに察しがついた。そりゃあ、誰もが口をそろえて言うだろう。サイラス先生、何故あんな素性の知れない人間を置いておくのですか? 子供ではないのですよ、放っておきなさい。さっさと追い出しなさい、と。
 とうに日の暮れた空の向こうで、季節外れの遠雷が鳴っていた。この調子では夜中には雨になる。腹立たしさを隠さないサイラスと雷の音が嫌で、俺は柄にもなく奴を励まそうとしたのだ――それが失敗だった。俺は無知で、どの言葉がサイラスの引き金を引くか、分かっていなかった。
「あんたの周りには味方が山ほどいるってことだろう」
「けれどその誰ひとりとして、私を理解していない」
 悲しいことだね。本当に悲しんでいるとは思えない、冷えた声で言う。
 理解、理解か。人が本当に、誰かを理解できるものか。目に見えない、心とかいう代物を、どうやって解き明かすというんだ。そんなものは空論に過ぎない。もし、誰もが分かりあえていたならば、俺は今ここには居ないのだ。あの時――昔のことだが――谷底に落とされることもなかっただろうし、あんたに拾われることもなかった。
 思い出すと古傷が痛む。ああ、こっちまで気分が悪くなりそうだ。不機嫌な男の空気にあてられ、励まそうとした自分が愚かに思えた。俺は自分に苛ついていた。
「俺だって、そのひとりだ。あんたのことは分からない」
 サイラスはいつも正しい。正しくあろうとする。
 だが、あんたの正義はやさしく俺を追いつめる。今か今かと、奈落へ落ちるかどうか見張る観衆を背負いながら、審判のあんたは俺を庇う。俺を繋ぐ鎖が、薄っぺらい同情でできているうちに、さっさと切ってしまえば良かったのだ。俺が間違える前に、あんたに裁かれる前に、手放してくれたなら。
「分かるわけがない。あんたは賢者で、俺は愚者。何も持たない俺を、あんたが分からないように、俺も――」

 この時、そう吐き捨てなければ。
 俺は今でも、ただの犬っころとして、サイラスの隣で尻尾を振っていただろうに。

 椅子から腰を上げて、つかつかと俺の前に立ちはだかる。引き結んだ口元に、怒りとも哀れみともいえない感情が浮かんでいた。笑っている姿を見慣れているせいで、その時のサイラスを、自分の知るサイラスとは思えなかった。目の前の男が、高い壁のように感じたのだ。
 足元だけ見て、ただ、雷の音を聞こうとした。サイラスと俺のつま先が向かい合うの見ながら、この責め苦が早く終わることばかり祈っていた。
 一つ、二つ、遠くで雷鳴がとどろく。もっとうなれ。もっと叫べ。俺もサイラスも、口を開かぬまま突っ立って、互いに言葉を発しなかった。
 こんなことならばたてつくんじゃなかった。そう悔やんでも遅い。沈黙は嫌だ、沈黙は盾になってはくれない。
 いつまで経っても、餓鬼のまま、こいつに甘えている。
 自分が情けなかった。サイラスの周りの奴らにあざ笑われる自分が。サイラスに甘えている自分が。
 俺はいつか、こいつの元を去るべきなのだろう。いつかは分からないが、きっとそれがあるべき姿なのだ。それまではできる限り『良い子』でいてやりたかった。
 そう、視線を上げた時だった。

 黒と白。
 目の前を覆いつくす、サイラスの色。

「キミは私が見つけたんだよ、テリオン。私以上に、キミを知る人間がいるだろうか、そんなものがあれば、私は……ああ、何故今になって、そんなことを言うんだい……」
 抱き締めている。サイラスが、俺を。
 理解した瞬間、まるで月が地に落ちたような、世界がひっくり返った心地になった。サイラスのにおいで肺がいっぱいになって、頭がくらくらした。触れている部分から熱が伝導する。心臓の音、それが自分のものなのか、そうでないのか、とにかくどくどくうるさかった。融けそうな脳に、以前聞いた雪の話が思い出される。氷は融ける時に熱を必要とするんだ。融解熱と呼ばれる……。
 俺が余計なことを言ってしまったから。だからサイラスがおかしくなったのだ。そう思うと余計に何とかしなければと焦り、怖かった。崩壊が恐ろしかった。奈落の入り口はいつもすぐそばで待っている。
 だから、ただサイラスをどうにか落ち着かせたくて、そろそろと腕を回した。落ち着け、落ち着け。あんたはいつも論理的で、正しくて――。
 それなのに、サイラスの力が一層強くなったので、ますます困惑する。甘えているのは俺のほうなのに、サイラスが甘えるように俺の頬に唇を寄せ、肩にすり寄る仕草がもどかしかった。
「サイ、ラス、」
「私はずるい人間だね」
 頬を、耳を、何かが掠めた。サイラスの髪だ。すぐそばで聞こえた声は、わずかに震えていた。何のことだ、という言葉は、音にならなかった。飲み込まれた。
 サイラスが俺の口をふさぐ。
 その寸前に垣間見た奴の顔は、ひどいものだった。叱られた子供が許しを請うような、申し訳なさそうな顔。
 口付けという行為がどういう意味を持つか、知らない俺ではない。だがそんなもの初めてで、どうすれば良いかなんて知らなかった。ただ、かたく結んだ俺の唇を、奴の舌が舐めて、身体がびくりと跳ねた。そんな俺には構わず、奴の腕はぎゅうと抱きすくめ、何度も口付けてくる。唇が濡れて、また舐められて。あの遠雷が俺に落ちたのだろうか。錯覚するほど全身がひたすら熱く、指先も目の奥もびりびり痺れて、苦しかった。なのに、サイラスから離れることができない。
 俺はこいつを求めているのか。どうして。
 情だとか愛だとか、そういう理屈が俺には分からない。形になって、目の前に出されるものだけを見て生きてきた。実体のない、不確かなものは、いつも俺を惑わす。
 ただ、俺の中にこんこんと湧き出てくるものをえぐり出して、サイラスの胸に突っ込んでやりたい。共有したい。そんな気持ちだった。
 しばらくの間、俺たちは口付けたり離したりを繰り返していた。どれくらい経ったのか、ひときわ大きい雷が鳴って、ようやく事態の大きさに気づいて、身を離した。互いに息が上がって、それがひそかに唇にかかって、恥ずかしくなる。
「……テリオン、ねえ、私のことが嫌いかい」
 正義の審判は意地の悪い質問をする。こいつにはそういう趣向があった。答えを持ち合わせているくせに、わざわざ確かめてくる。
 けれども俺のほうは、疑問に押しつぶされそうで、首を振るのが精いっぱいだった。

 何で、何でなんだ。サイラス。
 分からなかった。知りたかった。
 知らないことはいつも、目の前の男が知っている。
 知ることができる。俺はその権利を持っている。
 知ることができる。訊ねさえすれば――。

「あんたが、分からない……サイラス、あんた、何でも知っているんだろう。教えてくれ、なんで――」
 なんで俺に、こんなことをする。
 脳みそを内側から引っ掻き回されたように、ぐわぐわと、視界が回っていた。ふらつく俺の肩を、サイラスの両手がぐっと掴む。
「私を見なさい」
 飼い主の命令には逆らえない。俺の世界はそうやって出来ていた。いつから? いつの間にか。
 見上げたサイラスの目は、炎にあぶられた深い海のような色をしていた。俺の知らないサイラス。昨日までは知っていたサイラス。あんたはどちら側に立っている。
「私に訊ねてくれたのは、これが初めてだね」
 ひゅっと、喉が鳴る。そうだった。俺はいつでも与えられるばかりで、サイラスに聞いたことがなかった。今までずっと、それができたのに、しなかった。無知であることを知っていたのに。
「テリオン。あの頃とはもう、すべてが違う。キミは大人になって、私も歳を重ねた。もうキミは、子供ではない。私の可愛い子犬じゃないんだよ」
 変わってしまったのだ。
 俺はあの頃のままでも良かった。こんな気持ちを知らないままでも生きていけた。
 けれども、あんたは違ったんだ。あんたに連れられて旅していた、馬鹿なあの頃には、もう戻りたくないんだな。
「教えてあげよう。キミが望むならば、何だって。けれども、知ったら忘れてはいけないよ。ずっと、ずっと先まで、キミが抜け殻になるまで、覚えておきなさい。キミの中に、私を記すんだ」
 そうして再び口付けられた。
 その先は闇で、あのあたたかいサイラスは何処かへ行ってしまって、ただがむしゃらに、目の前の男にしがみつくことしか、なす術はなかった。
 ああ、あんたは夜だ。
 俺の手を引いて、迷わせて、突き落とそうとする、ほの暗いあの闇だ。
 その目で、その声で、あんたは俺を捕縛する。
 
 結局、俺たちは、どちらも孤独だったのだろう。
 
 俺は居場所が欲しかった。それがサイラスの隣であればいいと思った。こいつの隣はあたたかい。丸まって寝ているだけで、満たされるものがある。なのに、自分の中に生まれた『何か』に、名前を付けてやれなかった。それがいわゆる恋だとか愛などと呼ばれるものか、単に情だったのか、寂しさからなのか。俺はその時、見当がつかなかった。答えることができなかった。
 もしこれが、あんたと同じものであったとして、それをどうすれば確かめられるだろう。
 触れられず、見えないものを、あんたは信じるというのか。どうして。あんたはそのわけを、知っているというのか。
「テリオン、テリオン。私の――」
 俺を拾った時とはまったく違う、浮かされた声。気高く、学問のしもべだったあんたの、これが真実ならば、あんたを変えたのは何だったんだろう。
 俺を紐解くサイラスの指先。殴られるよりも暴力的なその熱を、このままずっと奪い続けたら、俺はぐずぐずに融けて、消えることができるのだろうか。あんたの向こう側にある、俺を責める幾千もの目から、ようやく逃げることができるのだろうか。
 転落する。
 このまま奈落の住人になって、俺をわらうすべてのものから、隠れてしまいたかった。なのに、あんたがそれを許さない。あんたは俺を引き揚げる。地上で蔑まされる俺を見て満足か。そう問いただせばよかったのかもしれない。
 この夜を境に、俺とサイラスを結び付けるものは、まったく変わってしまった。太陽の中心から噴出する赤い泥のように、とめどなく溢れてくる欲望が俺達の間に拡がって、いとも簡単に飲み込んでいった。それを持て余して、扉に鍵をかけて、あの弟子まがいの奴らを追っ払って、腑抜けた日を過ごしたこともあった。旅立つ予定をたてておきながら、わざと頓挫させて、困らせて、どちらからともなく引きずり込んだこともあったと思う。
 それから先のことは、割愛しよう。思い出そうとすればするほど、いつもまどろみのように掬うことができない。
 
 明日は記念すべき日だ。サイラスがめでたく教授の称号を得る。あいつのことだ。近い将来、もっと上の、学院の最上位に到達するだろう。
 俺はそれを強く望む。俺が世界の成り立ちを教えられたように、何も知らない奴らに、道を示してほしいと願う。
 知らないことは悲しい。
 知ることは嬉しい。
 それによって苦しみが生まれたとしても、知らぬまま去るよりはよっぽどいい。
 さてあいつは、明日の式典の準備があると言っていた。帰りは遅いだろうから、そろそろ出よう。
 いよいよ出発の時が来た。
 俺の役目はここで終わる。飼い犬は野良犬に戻ることにする。それが本来の、この世界での『正しい役割』だからだ。
 次は傭兵の仕事が待っている。雇い主の踊り子は、北へ行きたいと言っていた。雪で一面覆われた、真っ白な田舎町だ。傭兵業は久々ではあるが、腕をなまらせた記憶はない。俺の腕が立つことは知ってのとおり。前金も貰っていることだし、その分きっちり働くつもりだ。
 依頼主との待ち合わせまで時間もないので、手短に書くとしよう。

 サイラス。
 あの狭い部屋で、夜と朝の狭間に立っていた、あいまいなあの頃が好きだった。
 もしも俺が、あんたに拾われなかったら。もしもあんたが、俺を見つけなかったら。
 そんな仮定は星の数ほどある。すべてが夢で、すべてが希望の燃えかすだ。
 時は過ぎた。俺もあんたも、その中にとどまることはできない。
 俺はあんたに何も伝えることができなかった。今でも、それだけを悔やんでいる。
 いつか俺が抜け殻になったなら、俺を形づくっていたものの、一番きれいなところが雨になるだろう。
 それがあんたのいるこの街に、あの狭い部屋に、しとしと降ればいい。
 降って、地面に吸い込まれて、また乾いて、雲になって、再び雨となって、世界を循環して。
 あの夜の口付けを思い出しながら、あんたの唇を濡らすのだ。

 俺は俺を埋葬しにいく。あんたの知る俺に墓標を立てる。
 だから、見つけたとしても、思い出したとしても、いつか忘れてもらいたい。目覚めれば、すべて忘れる。俺達はそういう風にできている。
 おやすみ、サイラス。よい夢を。
 あんただけが俺の、」



 最後の一文は切り取られ、読むことができなかった。
 静かに本を閉じる。オルベリクの吐いた息は白い煙となり、本の輪郭をなぞった。
 この『日記』を見つけたのは偶然だ。山奥の古い家――埃がかぶっていない場所なんてないような、でもどこかこざっぱりしている――その一室、書斎と思しき部屋で、小さな箱の中に隠されていた。
 次の目的地へ向かう道すがら、山中で迷ってしまった挙句の果てに見つけた箱舟。雷雨の下、オルベリクを助けたその家は、人が住まなくなってどれくらい経つのか分からない。黴のにおいと冷えた空気に肩をすくめて、オルベリクは腰の剣を抱え直した。
 のちに下山し、母国へ戻った彼が知ったのは、この日記に登場するサイラス・オルブライトという人物が、百年以上も前のアトラスダム王立学院に居たこと、そして突然退任し、隠遁生活を送っていたということだけだった。有能な人物で、現在通説となっているほとんどが、彼の研究結果に支えられたものだという。しかし、その他のことは、いくら調べても、ついぞ分からなかった。
 真実は、おそらく、手記の主だけが知っている。
 古い家のなかには、二人分の家具が置いてあった。
 あの日、俺を招き入れたのはどちらであったろうか。
 あの手記の主はその後、踊り子を無事に送り届けられたのだろうか。
 切り取られていた最後の言葉は、誰のものであったろうか。
 知ることはできない。時を巻き戻すことはできない。ただ、今を生きることだけが、人に与えられた不可侵の権利である。



(了)畳む