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@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

2. モア・エシカル

 タイセイと、肉体を共有したい。
 とはいえ、実際にどう『する』のか、何が必要で何に注意すべきなのか事前調査は重要である、というのがアカネの考えだ。そして最適解として出た手法はアカネ同様、思春期の青少年がみな行なっているであろう、性行為に関するネット検索だった。この時、彼は初めて現代の情報処理技術に感謝した。さすがに兄に聞くだとか、そういうことは避けたい(おそらく大事件になる)。
 夜な夜なベッドに潜り込んでは、タイセイを思い浮かべながら、性交渉について出来うる限り調べる自分は少し物悲しいものがあったけれども、アカネにとって非常に重要なことだった。なにせ、経験がない。タイセイに幻滅されたくない(そうなれば自分の心は死ぬ)ので、調べに調べた。優等生として生活するために蓄えたスキル、情報リテラシー、倫理観がフル稼働する。視力が落ちる予感もする。
 寝不足に陥り睡魔に襲われる日を乗り越え、恥より欲が勝る夜を乗り越えて調べ終えた時、何とも言いがたい達成感がアカネを満たした。その日は教室でリョータに「なんか良いことあったか?」と訊かれたほどだ。タイセイは横で、首をかしげていただけだった。
 しかし帰宅後、何も始まってはいないことに思い至り、我に返る。同時に、ある重大な前提条件に気づいた。今更過ぎる、アカネは自分の中にある暗黙の了解を無視していたのだ。
 はあ――休日の深夜、自室に転がり落ちたのは深い溜息だ。長年の難問に挑む学者のように重みを持った呼吸は、ただでさえ寝苦しい夏の夜をいっそう寝苦しくした。きっと外では、深い深い濃紺のなか、大三角形やらカシオペアやらが空を彩っているのだろう。その清々しさとは真逆に、アカネの自室は空気がよどんでいる。
 背中が熱いような、冷たいような、どちらか分からない感覚は彼に少しの冷や汗をもたらし、心地悪さに寝返りを打った。

 僕は、タイセイを『抱きたい』んだ。

 先入観のように、アカネのなかにはタイセイを抱く自分しか存在していない。思い出すのは、何度も何度も行った自慰のことだ。
 最中に頭の中で繰り広げられていたのは、自分の下で甘ったるい声をあげるタイセイとのセックスだった。したらどんな心地になるだろうか、彼はどんな声になってしまうのだろうか、知りたくてたまらなくて夢想の中で彼を抱く。
 でも、これから先へ駒を進めるには、暗黙の了解ではだめだ。タイセイの本意ではないことをするのは絶対に避けたい。
 何故ならば彼が調べた限りでは、性交渉の序盤、特に初回において、受け入れる側は少なからず苦痛を伴う。男性ならばなおさらだろう、挿入先の器官が異なるのだから。同意を得ずに行うことはただの暴行に過ぎない。だからこれまでもこれからも、アカネはタイセイが本当に、心底、嫌がることがあれば、それ以上何もしないつもりでいる。
 ただ、タイセイも僕と『同じ側』だった場合、どうすればいいのか。
 どうにもならないじゃないか。
 何度目かになるか知れない溜息は、肺から「もう吐き出すのも疲れた」と苦情が上がってきそうなほどだ。その傍らで、時計の針が静かに、着実に時を進めるのを聞きながら、明日はどんな顔をしてタイセイに会えばよいか考えている自分がいる。自分の顔には、ひどい下心が張り付いているんじゃないだろうか。そのせいで、タイセイが今より距離を取ろうとしたら?
 君を抱きたい、たとえ君が辛い思いをしても――なんて、独りよがりも相当だ。
 好きだから、一緒に気持ち良くなりたい。苦しい思いはさせたくない。先日、タイセイと触れ合ったことを思い出す。あの時のように、僕の手で気持ち良くなってほしい。あの時見せてくれたみたいに、涙目のまま、僕とキスをしながら、出してほしい。
 気づけば、身体を重ねるまでの手順を考えていたはずだったのに、アカネの思考はすっかり別の方向へ行ってしまって、軌道修正ができなくなっていた。悩みよりも今はこちらのほうが重要だと言わんばかりに、くん、と持ち上がった自身を右手で慰めながら、夜は更けていく。
 まぶたの内側では、自分の指で身もだえ、舌で身体を震わせるタイセイの姿があった。
 明日になればまた会える。早く会いたい。君に触れたくてしょうがない気持ちを隠しながら、普通を装いながら。けれども、今度こそ君に打ち明けて、訊かなければならない。
 君は、どうしたい?
 この季節を閉じ込めたような吐息の向こうで、アカネは明日を思う。明日からは、待ちに待った運転士の強化合宿が始まる。



 長雨とはいかないまでも、雨雲は灰色を濃くしたり薄くしたりを繰り返しながら停滞して、しとしと葉を濡らす。太陽が顔を出さないせいで、地面はなかなか乾かない。明け方前のようなぼんやりした空気が、ずっと漂っていた。
 ポーチから街路樹を覗けば、兵隊のように整列した木々が水滴に負けんとするようにどっしり構えていた。枝葉に雨が当たるたび、ぱたぱたっぽたんっ、と音が跳ね、そこらじゅうにできた水たまりの波紋と重なり合って、緑をいっそう濃くする。限界まで膨らんだ、湿度の高い空気に押し戻されるように、アカネは踵を返した。
 手元のスマートフォンのロックを解除し、画面を操作する。映し出されたガントチャートの上で、縦に引かれた点線が、今日の日付を示す列で止まっている。
 一週間の合宿は、研修所を舞台に滞りなく進んでいた。
 互いの動きを分析し、弱点を浮き彫りにする訓練。反射能力を向上させる対アンノウン戦を想定した戦闘訓練。通常どおりの訓練ならばここで終わるが、今回は合宿にふさわしい工夫がされていた。精神面の強化を図るケーススタディに、ブレーンストーミング、戦術のアルゴリズム設計といった別視点のトレーニングが組み込まれている。
 フィジカルとメンタルのアップデートをすることが、合宿企画者である高輪の狙いだ。
 一日ごとに細かくカリキュラムが組まれ、基本はその内容に従って行われる。逸脱することは無いに等しい、集団行動の模範のようなスケジュール。休息を取るタイミングも決まっていると知った時は、リョータが「うげえ」と舌を出したくらいだ。
 つまり、やることが多く、忙しいのである。
 遠方から参加しているテンやシオンも、普段の訓練では行わない内容に、事前説明があったとはいえ最初は面食らっていた。しかしながら、持ち前の順応性で対処していく様はタイセイらのフォローも必要ないほどで、「さすがだな」と高輪も高く評価する。そうなれば、上級生は負けていられない。
 急流のように時間は過ぎて、残すところあと二泊三日となってしまった時、この数日間、真面目に訓練してきたことを(正しいことをしてきたはずなのに)アカネは顔をしかめた。
 振り返ってみれば、タイセイとふたりで話す機会は何度もあったのだ。けれども、根が真面目なタイセイは、これまた真面目に課題に取り掛かり、頭も身体もエネルギーが枯渇して夜になればすぐ眠ってしまう。
 今回は全員に個室が割り当てられているというのに!
 アカネが合宿を待ち侘びていた理由は、ここにある。それなのに、今回の合宿唯一の旨味を活かすことができていない。一日が終わるたび、アカネのなかでうっすらと、雪のような何かが蓄積していく。天候が芳しくないことも一因だった。続く雨が、じっとりと、焦りに拍車をかけていく。
 昨日も演習後に「ごめんね、お先に」と早々と自室へ引き上げていったタイセイを、何事もなかったかのように見送ってから、手元に目を落とし、また顔を上げ、小さくなっていく背に視線を送っていた。引き留めるほど、アカネは自己本位にはなれない。
 アカネ自身にも疲労感があるとはいえ、余力が残っていることを思えば、ずっと陸上をしてきた自分と、ずっと鉄道に夢中であったタイセイとの、埋められない差なのだろう――そういえば体育が苦手だと言っていたっけ。合宿が終わったら体力強化も提言しよう、とアカネは決意した。持久力はないよりあったほうが、色々とメリットがある。
 そして、明日は必ずふたりになりたい。これから先、チャンスはいつやってくるとも限らないのだから。


 
 翌朝、アカネは意を決してタイセイを呼び止めた。朝食後のエントランスは、昨日まで曇っていた空からようやく晴れ間がのぞいて、光の筋とともに明るさを取り戻している。その分、少しは気持ちも緩んでいる気がした。けれども、やはりと言うべきだろうか。見慣れたパイロットスーツに身を包んだ少年の、疲れの抜け切らない顔が、同じくスーツに袖を通したアカネを出迎える。
「あ、アカネ。おはよう」
 目を擦るタイセイに、話をしようか迷った。こんなことを考えている自分は、軽薄な人間なんじゃないか。やっぱり、訊かないほうがお互いのためなんじゃないか。その疑問を、なんとか払い除ける。
「おはよう、大丈夫かい」
「何とか。大変だね、今回の合宿」
「先生が僕たちのことを考えてくれているのが、痛いほど分かったよ」
「あはは……アカネも向かうところ? それなら一緒に……どうしたの?」
「いや、あの」
 アカネの口からは、次の言葉がなかなか出てこない。小さな重しがそこにあるかのようだった。突然静かになったアカネを、タイセイは窺うばかりだ。
「えっと……アカネ……?」
 覗き込まれる時、髪が揺れて、柔らかな光に反射するのを撫でようとして、指先を握り締める――家でも学校でもない場所は、ERDAを除けば滅多にないんだ。
 逡巡のあと、アカネの唇はようやく動いた。
「今日の夜、少し話せるかい?」
 エントランスに反響する声は、針金が通っているようにどこか張りつめていた。固くなった拳が、手袋とともにぎゅっと音を立て、軋む。肩にも余計な力が入っている。
 タイセイの目が、数回瞬きを繰り返してからアカネを覗き込むように見遣る。
「うん、大丈夫だけど……どうかしたの?」
「ちょっとした野暮用だよ」聞きたいことがあるんだ、と付け加えて「用事が終わったら、僕の部屋に来てほしい」と伝える。タイセイがすぐ頷いたことに、少し力が抜けた。
「じゃあ、待ってる」
「分かった。今日はこのあと、模擬戦演習だよね?」
「ああ。君は最初、テンと組む予定だったね。僕はシオンとだったはず……僕たちが後だから、ひと足先に君たちの戦いを見させてもらうよ」
「アカネに見られるのって、ドキドキするなあ」
 苦笑気味のタイセイに、それってどういう意味だい? と、聞き返そうとしたところで、廊下の奥のほうから話し声が聞こえてきてアカネは口を噤んだ。リョータとテンらしい、アカネたちと同様に、演習場所へ向かうところなのだろう。
「行こう、タイセイ」
「あ、うん」
「……手、繋ぐかい?」
「えっ!?」
「冗談だよ」
「え、あっ、そ、そっか……」
 パイロットスーツの白がひと際白く見えるくらいに、タイセイの頬には赤みが走って、ついアカネは視線を送ってしまう。「み、見ないで、恥ずかしいから」「残念だな」顔を隠すように先を急ぐのを、小走りで追った。
 僕に見られて、君はどう感じているんだい。同じくらいドキドキしているんだろうか――僕はいつも、君を見ては鼓動がうるさい。



 戦う者を美しい、と最初に感じたのは、歴史上でいったい誰か、アカネは知らない。
 何かに臨む勇敢な姿が、時として清く感じるのかもしれない。あるいは凛々とした立ち振る舞いが、彫刻にも似た秀麗さを生み出すのかもしれない。
 けれども、タイセイを見る時そう思うのは、つまるところ「大成タイセイが好きだから」で、彼の外見がどうだとか、はたまた戦術の芸術性だとか、そんなものとは無関係の感情が独りでに突っ走っている気がする。
 好き、という気持ちは、すべてを飛び越えてしまうのだろうか。
 頭の中で、世間に転がる芸術鑑賞のセオリーを全否定しながら、アカネは唇から細く息を漏らした。モニタールームの壁に並ぶ画面の中、前を見据えるタイセイの目には、きらきらしたものが宿っている。
 感嘆する。
 勇ましく立ち向かう姿。薙ぎ払う姿。断ち切る姿。これまでよりもいっそう強く、何かを振り払うかのように進む少年の表情が、すべての光の発生源みたいにまばゆい。
 だから、目が奪われるのかもしれない。
 指先で額をかく。手袋の、ざりざりした感触が、アカネを少し冷静にする。
 学園でも、研修所でも、ERDAでも、じっとタイセイの姿を見つめてしまう自分自身に「少しは場をわきまえろ」と自制を促すものの、アカネの目はふとした時に少年を捉える。これまで誰かに指摘されたことはない。けれども今回ばかりは、その盗み見の連続記録も途絶えるようだ。
「また大成先輩のこと、見てるんですか?」
 隣に立つシオンの声に、やってしまっていたか、とアカネは自分をたしなめた。
「ああ、観察していただけだよ」
「そうですか、観察……ですか」
 パイロットスーツに袖を通した少女は、嘲る風でもからかう風でもなく、ただ事実を述べているだけだというように、ゆっくりと言葉を読み上げる。
 研修所のモニタールームは、ERDAの指令室をよりコンパクトにしたような造りをしている。一見するとただの会議室だが、壁にある大型モニターと、組込み型のタッチパネルディスプレイが、単なる部屋ではないことを暗示していた。
 四つあるうちのひとつに、タイセイがいる。
 正しくは、画面に映るのは、二体のシンカリオンの機体と運転士の組み合わせだ。タイセイと対になるように映るテンは、メタバース内でタイセイに向かい合っている。
 アカネの前へと一歩歩み出て、シオンが手元のパネルを操作した。画像の一部が、全体を俯瞰する映像に切り替わるのと同じくして、再びE5とN700Sが互いに向かって走り出す。金属音が激しくぶつかり合う音が、時に甲高く、時に地鳴りのように室内に響く。
「……僕は、そんなにも見ていたかな」
 タイセイのことを、とは言わない。
「はい、見ていました。少なくとも今日は八回ほど」
「即答だね」
「気配を察するのは、得意なんです」
 回数まで言われると、自分でも少し引く。しかも、思ったより多いじゃないか。自他ともにひとの機微に敏感なシオンに言われれば、ぐうの音も出ない。
 もう一度、映像に目を遣る。
 戦う少年を見上げながら、アカネが「タイセイの姿に、ある種の美を感じるからかもしれない」と、別の理由を隠ぺいした屁理屈を捻り出したところで、シオンが頷いた。実のところ、否定されると思っていた。けれども、予想外に首を縦に振られ、アカネは少し拍子抜けする。
「分かります。かっこいいですよね」
「そう思うかい」
「はい」
「君から見ても、か……」
 自分だけではなかったということに胸を撫でおろしたものの、心にもやがかかりそうになって、唇をきゅっと引き結ぶ。
 自分だけが知るタイセイが多ければ多いほど、アカネのなかで、何かが満たされていった。そこに名前を付けることはきっとできるだろうけれども、目を瞑るようにかぶりを振る。つられて、後ろで結わえた髪が揺れた。
 姿勢を正す。
 彼の姿を後ろから眺め、守ることができる。自分だけの特権。ずっと、この役割を誰にも譲りたくない。僕は欲張りなんだろう。
「そんなに見ていては、大成先輩に穴が開いちゃいますよ」
 シオンの指摘を、咳払いで誤魔化す。「その前に、君が僕に制裁を食らわせるんじゃないのかな」「そうかもしれません」「否定はしないんだね」シオンによる仕置きなんて、想像するだけでも空恐ろしい。
「――昨日、みなさんで行った机上シミュレーションですが」
 やにわに少女が口を開いたので、モニターから視線を移す。小柄なシオンは懸命に首を上げ、映像を確認し続けている。
「何か気になることでも?」
「興味深いものでした。『トロッコ問題』は、難しかったです」
「ああ、あれか。高輪先生らしいテーマだったね」
「はい」
 有名な思考実験だ。
 暴走したトロッコが線路上を走っている。このまま進めば、行く手にいる五名の作業員が犠牲となるが、手前のポイントを切り替えれば別方向へ逸れて五名は救われる。ただし、切り替え先にいる一名の作業員が死ぬ。誰かを助けるために誰かを犠牲にしてもよいのか、その是非を問う倫理上の問題。
「私は、うまく答えられませんでした」
「みんなそうだったじゃないか」
 高輪からの課題は、あえて心理的な負荷をかけるためだったと、アカネは思い返す。
「近親者に置き換えて考えろ」と言われてしまい、リョータは頭を抱えていたし、テンも難しい顔で考え込んでしまった。見かねた高輪が「あくまで考えるトレーニングだ!」と励まし、最後にはビーナが運転士全員を元気づける羽目になったのは、タイセイも苦笑いするしかなかったようだ。マイがいたらもっと違うアドバイスがあったかもしれない、しかし彼女はアガノとともに別カリキュラムを遂行中である。
 アカネも例に漏れず、悩んだ。それ自体が訓練だと分かっていても。
「でも大成先輩は、最後には答えを出していましたね。それが凄いと思いました」
「……僕は、タイセイの答えがあまり好きじゃないな」
 つい、口をついて出た言葉だったが、シオンが頷きを返す。
「ひどいかな、僕は」
「いえ、そう言うと思っていました。それでも、尊敬に値します」
「美化するのは、姿かたちだけにしておいたほうが、シオンのためには良いかもしれないよ」
 いつの間にか囚われるようになるから、とは言わないでおく。
 モニターに向き直る。タイセイの剣がテンに向かうところを眺めながら、昨日のことを思い出す。
 
「僕は、誰かを犠牲にすることが良いとは思えない。助けなくちゃいけないんだよね。なら、まず自分がトロッコを止めに行く。そうすれば、トロッコが止まる確率が上がると思うから」

 仮定に仮定を重ねた、答えになっていない回答だったけれども、タイセイならそうするだろう、とも思った。いつも彼は、自分よりも先に誰かのことを考える。
 でも、彼が言う『犠牲』のなかにはいつも、彼自身は含まれていない。
 もし君がそのトロッコに向かっていくなら、その前に僕は、君を止める。君にどれだけ責められてもいいから、君を守ろうとするんだろうな――誰かのため、自分を放棄することに、拍手を送りたくなかった。運転士としては真っ当で正しい。しかし、恋人としては誤りで、だからこそ彼のことを自分が真っ先に考えたいと、強く思った。
 画面の中、タイセイを追う。模擬戦はまだ終わらない。