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@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

1. ペイ・アウェイ

 足音が聞こえる。忙しなく、徐々に近づく音をついに無視できず、アカネは普段と変わらぬよう努めていた歩みを止めた。
「待ってよ」
 背中へ投げかけられた声が、少し掠れている。アカネの内側がちくりとした。先ほど話していたクラスの誰かを振り切って、僕を追ってきたのか。彼を放って先にERDAへ向かおうとしていたのだから、きっと文句を言われるだろう、と予想がついた。
 けれども、振り向きざまに見えたタイセイは、アカネの想像よりずっと困り顔だった。
 肩で息をしている少年を見て、来てくれて良かった、という気持ちと、来なくても良かった、という気持ちが入り混じる。乱れた髪を、すぐにでも直してやりたいくらいなのに。
「……なんだい」
「なんだ、って、アカネ、何を怒ってるの?」
 決して怒っているわけではない。だからアカネは、正直に「怒ってなんかいないさ」と答えた。ただ、タイセイと『付き合う』関係になってから、迷路が新たな迷路を作っていくように自分自身が入り組んで、それをどう扱うべきか分からないだけだった。
「怒ってるよ。僕、何か変なこと言った? アカネが先に行く時って、大抵、僕がなんかやっちゃった時だから……」
 前髪の向こうで、そう目を伏せたタイセイに、アカネの口はわずかに開いて、閉じる。言葉が引っかかってなかなか出てこない――ばつが悪かった。これまで自分が彼に対し、先ほどと同じような態度を複数回とっていたということを、張本人から申告されたわけだ。しかも、彼は悪くないのに。
 つまるところアカネは、罪悪感と、少なからず恥じ入る心地と、そして申し訳なさに襲われた。
 こめかみを揉むように、目を覆う。「えっ! 体調悪いの?」「違うよ」タイセイは時折、どこかずれている。
 でも、以前のタイセイならきっと、正面きって僕に指摘してこなかったかもしれない。とすれば歓迎すべき変化だけど、自分があまりにも子どもじゃないか。
「……すまない、僕が悪かった。歩きながら弁明させてくれないか」
「う、うん」
 差し出されたアカネの右手を、廊下を満たす夕暮れ直前のもったりとした空気が包み込んだ。その手を求めるように伸ばしかけ、一瞬だけだが止まったタイセイの左手を、アカネがためらいを追い払うように掴む。
「大丈夫、誰か見ていたとしても誤魔化すのは得意さ」
 校内で触れ合うのを控えるタイセイを、本心ではなんとも真面目すぎると感じるが、タイセイ自身が決めたことだ。分かっている。学園で有名人となっているアカネに迷惑がかからないよう、友人らしい距離を保って振る舞っていることも。
 これくらいでへそを曲げるようなアカネではなかった。
 彼がタイセイを置いて先に教室を出たのは、タイセイに非があったわけではない。聞こえてきた話にひとり、拗ねただけなのだ。

 たん、た、たん、た、たたん。入り乱れる足音が、廊下で軽快なダンスを踊る。離れたところから管楽器の音が入り込んでくる。複数の、低いものから高いものへとゆるやかに上昇する音は、層となって、少年たちの後ろを不規則に塗り潰す。まったく調和していない音のパレードはうるさすぎず、アカネにとっては口を開くのにちょうど良かった。
「――君が」
「え?」
「僕より先に、誰かとキスしていたことを知って、腹立たしく思った」
「き、キス」
「さっき、クラスの奴と話してただろ?」
 タイセイの手を引き、廊下を進む。誰もいない教室を通り過ぎるたび、白い壁に開いたがらんどうの口が手招きしているようで、アカネはつい足早になる。開けっ放しの扉は、今日に限ってどうにも落ち着かなかった。
 教室で聞こえてきた話を思い出す。
 よくある軽い猥談だった。巻き込まれたタイセイが「そういえばキスされたなあ」なんて言うのが聞こえなければ、馬鹿な話だと一蹴できたのだ。
 自分の知らない誰か、タイセイが初めてキスをしたという相手に対する炎が、雨水が土へ滲み出るようにじわじわ広がっていく。
「アカネ」
 呼ばれても、返事をすることができなかった。そのうちに楽器がまた響いた。だらだらと間延びする音階をすり抜けながら、少年たちは次の教室を通り過ぎる。
 幼稚だという自覚がある分、いっそう勢いよく、アカネの中で火柱が渦巻いていた。その中心で、静かにタイセイの声を待つ。もう一度、僕を呼んでくれたら――でも君は、僕のことを軽蔑しているだろうか。
 空白の教室が終わる寸前で、くん、とアカネの身体が後ろへ傾く。同行者が歩みを止めたので。
「アカネ、あのね、違うんだよ」
 何が、と思い、そこでやっとタイセイが口元を緩ませているのを知る。だが、確かに嘲笑のたぐいではなく、向き合ったアカネは眉をひそめた。
「……どうして笑っているんだい」
「ふふ、だってそれ、姉ちゃんのいたずらみたいなものだったから」
「え……イナさんの?」
「三年くらい前だったかな。姉ちゃんが、ふざけながら僕のほっぺたに、ちゅっ、て」
 タイセイの人差し指が、右の頬をとんとん、と示した。擬音の可愛らしさに一瞬我を忘れるが、すぐに取り戻して、アカネは事実に気づいた。それから、猛省する。思い込みで勝手に嫉妬し、架空の敵に苛立ち、タイセイを置いて出てきてしまったこの三十分間、ひとりで何をしていたのだろう!
「なんだ、そういうことか……」
 納得がいくと同時に頬の奥が無性に熱くなってきて、タイセイを見られなかった。視線を外す以外のはぐらかし方が分からない。アカネの目の先には、薄暗い教室があった。夕暮れには少し早い、けれども昼間のように明るくはない。紫がかった空間は、居心地の悪い少年の逃げ場所としては都合が良いかもしれないが、さすがに隠れるわけにもいかないだろう。
 謝るべきだな。嘆息するアカネの思考を、タイセイが制止した。
「あの」小さく、しかし、はっきりとした声だ。「あの、ちょっとだけ、いいかな」
「ん? どうした、」
 聞き終える前にアカネの重心がずれて、手を引く少年に引き寄せられる。タイセイの手が、空き教室へとアカネを導いている。
「タイセイ、どうしたんだ」
 少し進んだところで、少年はおもむろに振り返った。教卓と机の間に立つふたつの形は、はっきりしない。
 離れた手が寂しく、行動の理由も分からなくて、アカネはようやく落ち着いたはずの渦が、むずりと動き出そうとしているのを感じ取る。
「タイセイ」ともう一度呼びかけると、目線より少し下で、少年が「えっと」とか「あの」などと呟いている。
 明らかに様子がおかしい。だが、室内の明るさが足りなくて、アカネからタイセイの表情がはっきりとは窺えなかった。何かあるなら言葉にするのが性分のアカネにとっては、大人のようにおおらかに待つことは難しい。
 耐えかねて、タイセイ、ともう一度少年の名を呼ぼうとした時だ。
 そばで、空気がぐっと揺れて、アカネに迫った。急激に近付く気配と、覚えのあるかおりが、彼の金髪を揺らす。
「んっ」
 開きかけたアカネの口元を塞ぐのは、タイセイの唇だ。
 タイセイから口付けられるのは珍しい。特に学校のような、誰に見られるかも分からないところでは、彼から触れてくることはとても少ない。レアケース、不測の事態と呼んでもいい。
 つまり今、まさに、アカネにとって、警報級の異常事態が発生している。
 だから反応が遅れたのは、彼の脳内で情報処理が追いつくまでのタイムラグがあったからで、時間に換算するとたった一秒と少しであったけれども、確かにアカネは後れを取ってしまった。のちに後悔するが、それよりも今だ。
 考えているうちに、少し乾いた唇の感触が、ふ、としたと思ったら離れてしまって、気づけば少年のつむじがアカネの視界にあるばかりだった。
 ごめん。欲しくもない謝罪が聞こえる。
「……あの、こんなところで、ごめん。でも、したくなっちゃって」
 離れていくタイセイの頬の赤みは、この部屋でもアカネにははっきりと分かる。キスのあと、真っすぐに相手を見ることができないのはタイセイの癖で、この時もその癖が顔を覗かせていた。少し隠れてしまった彼の目は、まるで自身の行動に戸惑っているかのように落ち着かない様子で、なかなかアカネを見ようとはしない。
 それがもどかしくて、やはり、待てない。
「タイセイ」
「なんっ、ん、ん……っ」
 落ち着かない瞳が閉じられる前に、アカネは少年を引き寄せる。頭のなかではずっと警報が鳴り響いてやかましい。それを伝えるみたいに、アカネの腕がタイセイを抱き寄せ、距離という概念すらなくなるように重ねた。
「んう、ふ、う」
 アカネの舌が、タイセイの唇をこじ開ける。れ、と割り込んできたあたたかいものに、少年の身体がびくりと跳ねたと思うと、その手が何かを探すようにさまよう。ようやく触れた恋人の背から、少年の手のひらへとその鼓動がじかに伝播して、首筋にぞくぞくとしたものが走ったことにアカネは気付かない――タイセイの中にいつしか芽生えていたものは少年のなかに強く根を張って、キスを求めよ、と囁く。応えるように、アカネの舌がその唇をなぞった。
「んあ、ふあ」
 ちゅう、と吸って、ぬるりと舐めて、舌へと辿り着いて、絡めとる。
 ふたりの荒い呼吸が舌の上で転がり合って、唾液にまみれてべちゃべちゃになっていく。
 誰かの演奏する音が、またアカネの耳に届いた。ぷわあ、というどこか間抜けな音は、どんどん遠くなっていく。鼓膜を震わせるものがタイセイの小さな吐息だけになった時、別の世界みたいだ、とアカネはかろうじて意識を保っている冷静な自分の頭で考えた。一方で、このままこの場所だけが切り離されたらいいのに、とも思う。
 ずっと抱き締めあって、ずっと貪っていられたら。タイセイ以外を感じなくなるまで。
「っあ、はぁっ……ま、待って……」
「嫌だ、もっと」
「んっ……う……!」
 それでも退けないのはタイセイの隙で、自分への好意ゆえなのだと思うと、おのずとキスが深くなる。もっと、もっとしたい。ここが学校じゃなければ、もっと。
 ――ああ、ないものねだりをすることが増えたな。恋は、ないものねだりばかりで苦しい。
 タイセイといると、アカネは自分と彼だけがいつまでも一緒にいられるような、特別な世界が欲しくなる。
 誰かと話しているタイセイを見つけては、今日みたいに嫉妬して(クラスの人間にも苛々して)自分の狭量さを目の当たりにする。アカネは達観しているね、と兄に言われたことがあるけれども、そんなものが馬鹿馬鹿しく思えるほどだった。今までに見たことのないような自分がいくつも現れて、タイセイの持つ限りある時間を、どうにか自分に恵んでほしいと願うのだ。
 慌ただしい呼吸では、いくら酸素を巡らせても足りない。ふたりの肉体がそう訴えた時、タイセイの手がアカネを押しやる。
「……っだめ、これ以上しないで」
「どうして?」
「ぼ、僕が、もう、ぎりぎりだから……」
「ぎりぎり?」
「あの、その……」
 居心地が悪そうなタイセイの足元に、細々とした声は少し高くて、そこでアカネはようやく少年が溺れる寸前だと気づいた。薄暗さに慣れた視界の中で、いつもは大きな目が、焦点を定められずにぼうっとしている――こみ上げてくる熱を、なんとか抑え込んでいるのだ。
 吐き出してしまってもいいのに。僕にすがりついてくれたら、欲しいものをいくらでもあげるのに。
 けれども、タイセイの口からは「だめ」という緩やかな断りの言葉が続く。そのたびに、遠くなりかけていた現実と、自分たちだけの世界が再びぎゅっと縮まって、この場所がいつ誰に見られるかも分からないところだと思い出すと(それも興奮するものではあるが)アカネは身体を離さざるを得ない。
「じゃあ、また今度かい?」
 耳元に唇を寄せて、わざと残念がっている風に囁く。いつのことを示すのか分からない、曖昧な約束だった。人参をぶら下げておくようなものだ。けれども、確約ではなくても希望があるだけで、今日よりも明日が、明日よりも今度が待ち遠しくなる。タイセイと付き合うまでは知らなかったことだ。
 間を置いてタイセイが頷き、アカネは胸を撫でおろした。ここで首を横に振られてはさすがに悲しい。ただ、タイセイはそれだけで言い終えるのではなくて、「それに」と続けて口を開いた。
「もっとするのは、ここじゃちょっと……」
 もっと。
 都合よく言い換えれば「学校でなければもっとしてもよい」というわけだ。
 しかし、その言葉を耳にした瞬間からずっと、アカネのなかで期待と期待、そして期待が、目まぐるしく行き交う。教室をあとにしてからも、タイセイに手を引かれて廊下を進んでいく時も、まるで肉体だけが動いている一方で精神が離脱しているように、頭がふわふわしていた。別れ際、タイセイが手を振る時でさえ、反芻するのは先ほどの少年の言葉だ。
 今度、っていつだ? もっと、ってなんだ?
 アカネにとっての『もっと』は、キスより先の接触をさらに超えるもの――先日、タイセイとともに精の昂りを放ち合ったが、それよりも――を意味する。あの時よりも先に進みたいけれども、切り出すきっかけが見当たらなくて先延ばしにしていることを、タイセイがどこまで気づいているのかアカネには分からない。
 タイセイと肉体的により深く繋がりたい、とアカネは付き合った日から望んでいる。
 始まりは友情だった。強固なその形は次第に形を失い、ぐにゃりと一変した日から、望む気持ちは強くなるばかりだった。こんこんと湧き続けるものは、一体どこから生まれてくるのだろう? はっきりしているのは、タイセイと距離が縮まれば縮まるほど――精神の至るところにタイセイがいる錯覚に陥るほど――肉体もタイセイを欲しがる。同じではないものと、同じになろうとする。
 繋がっていた手を、アカネの指先が、何か言いたげに握り締めている。なかなか落ちない夕陽に照らされて、そこは熱を孕んでいた。