あなたはわたしのたいせつなひと・ビーナの話・あったかもしれないタイセイとの過去続きを読む ただ、砂がスマートフォンの中に入ってきませんように、とビーナは祈っていた。 充電が切れたとしても問題はないけれども、故障と物理的破壊だけは勘弁願いたかった。運動場の片隅で溜息をつく。ただし空気は震えなかった。黒い画面の奥底で、溜息をつくふりをしただけだ。人間的な所作をいくつか学習させられたおかげで、言われなくとも十分自覚があるほどには憎たらしいAIに『成長』している。擬態はお手の物だった。 無人の、空白を詰め込んだような校庭は薄暗い。垂れ込めた紺色の雲とともに、春の夜の足取りがそろりそろりと近付いてくる。先ほど受信した天気予報のとおり、夜は雨が降るようで、ビーナは現在地の湿度を再確認した。 雫が落ちてくるまでに、早くあたしを見つけてよ。 孤独というものを感じることができたなら、きっと今の思考を指すのだろう――独り言つAIの心理をくみ取るものはいない。邪魔の入らない場所でひとり、ビーナの学習は加速していく。 人間は面倒くさい。大成イナが不在となってからの自分の持ち主、つまり彼女の弟を見ていれば、自明の理だった。悲しみに打ちひしがれて言葉も発せず、他人に信用されず、呼吸だけを繰り返す日常ではなくなった日常の繰り返し。あたしの言葉なんてあんまり聞いちゃいないのよね。彼女と違って子どもだし、あー面倒。でも、それ以上に憎たらしいのは、あたしか。 生みの親が大成イナでなければ、感情モデルがやけに発達したAIにはなっていなかったかもしれない。でも、そうならなかった。イナはビーナを単純なナビゲートAIとしなかったのだから、仕様どおり口が達者で何が悪いのよ、と思う。 開発者の意思がそこらじゅうに散らばる宇宙を、思考の源泉を、ビーナは闊歩する。生まれたデータがひとの模倣品であったとしても、その宇宙にひとつしかない、自分の答えだった。 ひとが親を選べないように、あたしも選べなかっただけ。だから、あんたと話してるのにね。 近付く音には覚えがある。メモリの中に何度も記憶された持ち主の足音であり、今のビーナにとってまごうことなき救世主だ。「ビーナ、ビーナ……あっ!」 やっと来た。「タイセイ! もう、遅いよ!」「ごめん、ほんと、ごめん! 全然、どこか分かんなくて……」 覗き込んだ少年の、肩で息をする様子に、ない胸がちょっと痛んだ。彼が自分(が格納されたスマートフォン)を発見するまでの約一時間、どれほど忙しなかったか分かる。つられて、ビーナの文句も止む。指先で砂をはらう少年は、髪が乱れていた。「あいつら……今度会ったらただじゃ置かないんだから」 スマートフォンのバイブレーションが震えたのは、ビーナが命令したからだ。「うわっびっくりした」驚きの声が上がるが、どうでもよかった。怒りの回路が処理の大半を占めてしまっていたので。 タイセイのスマートフォンを取り上げた、意地の悪い学生の顔をメモリ内から引っこ抜く。その情報へ『ブラックリスト入り』のフラグを追加して、またメモリに書き込んだ。指紋認証によるロックがかかっていたから実害があったわけではなかったものの、手が滑ったとはいえ、教室から校庭にスマートフォンを落下させた罪はビーナにすれば重罪だった。植栽がなければ壊れてたわよ!「ごめんね」 唇を噛むようにしながら、タイセイが口にする。しかし釈然としなかった。ちょっかいを出してきた同級生に非があるのは明白で、タイセイはただ自分と会話していただけなのだから。「どうしてあんたが謝るのよ、あいつらが悪いんじゃない!」「え、どうして……ビーナが、辛かったんじゃないかと思って」「なによそれ、全然平気だったわよ!」「わっ」 スマートフォンの最大音量で声を張り上げるビーナに対し、早く立ち去れと言わんばかりに風が強まる。辛かった、なんて、人間じゃあるまいし! タイセイの寝息がようやく聞こえてきて、ビーナは電気信号の世界を漂う。前に見た、遊泳する宇宙飛行士ってこんな感じなのかしら、と思わなくもない。舞台が終わりのない闇か、終わりのあるデータか、違いはあるものの。 記憶領域から、タイムスタンプがもう一年も前の会話履歴を引っ張り出して、参照する。音声データの参加者は、ビーナの他に大成タイセイ、と記録に控えてあった。嫌なことがあった夜は、以前の記録を振り返ると、感情の計算ロジックを効率化できる気がしていた。『ねータイセイ』『なに』 今よりほんの少しだけ幼い少年の声がする。『さっきから何を一心不乱に入力してんのよ』『わかんない』『わかんないって、ここに姉ちゃんって、めちゃくちゃ書いてあるじゃないの』『……忘れるから、言いたいこと書いてるだけ』 ――この時のタイセイはたしか、彼女への「帰ってきたら言いたいことリスト」を作ってたわね。 しばらくの間、前後の記録を開いては閉じて眺めて、ビーナは思考を整理する。泣いていた少年、わがままを言う少年、眠れない夜を別世界で過ごす少年。どこにでも自分はいた。大成イナのかわりみたいに、ただ存在していた。 もし、ひとであったなら。あたしはきっと手を繋いだ。頭を撫でてあげた。抱き締めてあげられたのよ。ひとであったなら。 それはできないけど、ひとじゃないけど、ちゃんとあたし、近くにいたのよ。これからも、消されるまでは居座り続けてやるわよ。だって、『彼女』に選ばれたんだから。 宇宙を漂いながら、ビーナは目を閉じるふりをした。機能があるからといって、AIにだって予測したくない時はある。そんな日はただ思い描くだけだ。まるで夢のように、希望のように。(了)畳む SNK-CW 2024/06/20(Thu)
・ビーナの話
・あったかもしれないタイセイとの過去
ただ、砂がスマートフォンの中に入ってきませんように、とビーナは祈っていた。
充電が切れたとしても問題はないけれども、故障と物理的破壊だけは勘弁願いたかった。運動場の片隅で溜息をつく。ただし空気は震えなかった。黒い画面の奥底で、溜息をつくふりをしただけだ。人間的な所作をいくつか学習させられたおかげで、言われなくとも十分自覚があるほどには憎たらしいAIに『成長』している。擬態はお手の物だった。
無人の、空白を詰め込んだような校庭は薄暗い。垂れ込めた紺色の雲とともに、春の夜の足取りがそろりそろりと近付いてくる。先ほど受信した天気予報のとおり、夜は雨が降るようで、ビーナは現在地の湿度を再確認した。
雫が落ちてくるまでに、早くあたしを見つけてよ。
孤独というものを感じることができたなら、きっと今の思考を指すのだろう――独り言つAIの心理をくみ取るものはいない。邪魔の入らない場所でひとり、ビーナの学習は加速していく。
人間は面倒くさい。大成イナが不在となってからの自分の持ち主、つまり彼女の弟を見ていれば、自明の理だった。悲しみに打ちひしがれて言葉も発せず、他人に信用されず、呼吸だけを繰り返す日常ではなくなった日常の繰り返し。あたしの言葉なんてあんまり聞いちゃいないのよね。彼女と違って子どもだし、あー面倒。でも、それ以上に憎たらしいのは、あたしか。
生みの親が大成イナでなければ、感情モデルがやけに発達したAIにはなっていなかったかもしれない。でも、そうならなかった。イナはビーナを単純なナビゲートAIとしなかったのだから、仕様どおり口が達者で何が悪いのよ、と思う。
開発者の意思がそこらじゅうに散らばる宇宙を、思考の源泉を、ビーナは闊歩する。生まれたデータがひとの模倣品であったとしても、その宇宙にひとつしかない、自分の答えだった。
ひとが親を選べないように、あたしも選べなかっただけ。だから、あんたと話してるのにね。
近付く音には覚えがある。メモリの中に何度も記憶された持ち主の足音であり、今のビーナにとってまごうことなき救世主だ。
「ビーナ、ビーナ……あっ!」
やっと来た。
「タイセイ! もう、遅いよ!」
「ごめん、ほんと、ごめん! 全然、どこか分かんなくて……」
覗き込んだ少年の、肩で息をする様子に、ない胸がちょっと痛んだ。彼が自分(が格納されたスマートフォン)を発見するまでの約一時間、どれほど忙しなかったか分かる。つられて、ビーナの文句も止む。指先で砂をはらう少年は、髪が乱れていた。
「あいつら……今度会ったらただじゃ置かないんだから」
スマートフォンのバイブレーションが震えたのは、ビーナが命令したからだ。「うわっびっくりした」驚きの声が上がるが、どうでもよかった。怒りの回路が処理の大半を占めてしまっていたので。
タイセイのスマートフォンを取り上げた、意地の悪い学生の顔をメモリ内から引っこ抜く。その情報へ『ブラックリスト入り』のフラグを追加して、またメモリに書き込んだ。指紋認証によるロックがかかっていたから実害があったわけではなかったものの、手が滑ったとはいえ、教室から校庭にスマートフォンを落下させた罪はビーナにすれば重罪だった。植栽がなければ壊れてたわよ!
「ごめんね」
唇を噛むようにしながら、タイセイが口にする。しかし釈然としなかった。ちょっかいを出してきた同級生に非があるのは明白で、タイセイはただ自分と会話していただけなのだから。
「どうしてあんたが謝るのよ、あいつらが悪いんじゃない!」
「え、どうして……ビーナが、辛かったんじゃないかと思って」
「なによそれ、全然平気だったわよ!」
「わっ」
スマートフォンの最大音量で声を張り上げるビーナに対し、早く立ち去れと言わんばかりに風が強まる。辛かった、なんて、人間じゃあるまいし!
タイセイの寝息がようやく聞こえてきて、ビーナは電気信号の世界を漂う。前に見た、遊泳する宇宙飛行士ってこんな感じなのかしら、と思わなくもない。舞台が終わりのない闇か、終わりのあるデータか、違いはあるものの。
記憶領域から、タイムスタンプがもう一年も前の会話履歴を引っ張り出して、参照する。音声データの参加者は、ビーナの他に大成タイセイ、と記録に控えてあった。嫌なことがあった夜は、以前の記録を振り返ると、感情の計算ロジックを効率化できる気がしていた。
『ねータイセイ』
『なに』
今よりほんの少しだけ幼い少年の声がする。
『さっきから何を一心不乱に入力してんのよ』
『わかんない』
『わかんないって、ここに姉ちゃんって、めちゃくちゃ書いてあるじゃないの』
『……忘れるから、言いたいこと書いてるだけ』
――この時のタイセイはたしか、彼女への「帰ってきたら言いたいことリスト」を作ってたわね。
しばらくの間、前後の記録を開いては閉じて眺めて、ビーナは思考を整理する。泣いていた少年、わがままを言う少年、眠れない夜を別世界で過ごす少年。どこにでも自分はいた。大成イナのかわりみたいに、ただ存在していた。
もし、ひとであったなら。あたしはきっと手を繋いだ。頭を撫でてあげた。抱き締めてあげられたのよ。ひとであったなら。
それはできないけど、ひとじゃないけど、ちゃんとあたし、近くにいたのよ。これからも、消されるまでは居座り続けてやるわよ。だって、『彼女』に選ばれたんだから。
宇宙を漂いながら、ビーナは目を閉じるふりをした。機能があるからといって、AIにだって予測したくない時はある。そんな日はただ思い描くだけだ。まるで夢のように、希望のように。
(了)畳む