から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

デイ・ドリーマー
・第10話らへん
・アカ→←タイからのアカタイ
・年齢操作の描写含む(中学生×大学生)
・結局いつもの二人
#アカタイ

デイ・ブレイカー

 成人式の二次会から帰ってきたら、アパートに降り注ぐ月の光のなかで光るものがあって、うわーついに星が砕けて降ってきたのかなあなどと笑っていたら、その光るものからドスの効いた声が聞こえてきてちょっとびっくりする。
「飲んで帰ってくるなら一言くらい言うべきだろ」
 その声色に反して彼女が言うような可愛らしい台詞が聞こえてきて、「彼女みたい」とまた笑ったら「タイセイ、彼女いたの? それっていつの話?」と光るものが眉間に皺を寄せて、そこにいるのは少年だったんだとやっと分かった。しかも僕の名前を知っている。
 なんだろう、この覚えのある感じ、いやそれよりも頭の位置が定まらないぞ、ついでになんか目の前がぐらついているし、みぞおちのあたりがもやもやするし、なんか気持ち悪いし――あっと思ったのも束の間、最後に見たのはその少年がこちらに手を伸ばすところだった。タイセイ、って呼ばれてとっさに思う。なんで僕を知っているの。

 翌朝の僕は最悪で、盛大な二日酔いと道へ倒れ込んだ時にこしらえたらしい打撲で腕が痛かった。完全に自業自得の所業で一日中ベッドの上をのたうち回っていたのだが、そこに昨晩の少年が現れたので、それはもう盛大にびびった。「うわっ!」「……はぁ」驚きと溜息は同時で、それぞれの歯車が変にうまく噛み合わさる。
 謎の生命体を観察するような少年の視線が、僕の頭からつま先までじっくりと撫でていって、こちらは居た堪れない。値踏みされている気分が、二日酔いの頭から思考力を奪っていく。何かを考える風に顎へ指を添えるのは様になっているのだが、どうやってこの部屋に入ったのか、その方法が分からずに冷や汗がぶわっと吹き出す。まさか僕がアパートに連れ込んだのだろうか? まさか!
 焦っているうちに僕の鑑定は終わった。真昼間から疲労感を覚えている僕を置いてきぼりに、ほうっと少年が息を吐く。
「やっぱりタイセイだ」
 呟きは正しいけれども、こっちはよれたワイシャツに下は下着だけで寒いし、寝起きの顔はきっと見るに堪えないだろうに、どうしてそんなに嬉しそうなのか分からない。外国人ぽいけれど流暢に話すし、一挙手一投足がなんか格好いいし。知り合いにいたっけこんな子、いやいやそんなことは置いといて。
「この子は不法侵入者……」
「鍵は借りたよ、スーツのポケットにあったから。こんな時期に外へ放置するわけにもいかないだろ。酒くさい服は全部クリーニングに出したから、週末取りに行って」
 並べられた言葉に引きずり出されるように、昨晩の失態を思い出す。そういえばお酒飲むの初めてだったな。成人式の失敗って、こんな風にみんな経験してるんだろうか。大人になったら失敗しないと思っていたのに、いつまでも僕は失敗している。
 消えたい。
 顔を覆う。「大丈夫?」慰めてくれるこの子は誰なのだろう。僕はどうやらこの子に介抱されたらしいのだが――ふと、指の隙間から少年の服が目に入る。見覚えがあるデザイン。こめかみを揉みつつよく確認すると、僕の母校の制服だった。その緑色のネクタイが僕は好きで、お気に入りだったからよく覚えている。
「これかい? タイセイと同じ学校に通うんだよ。進開学園中等部」
 頬を緩める少年は、カーテン越しの陽の光を浴びてきらめいていた。昨日と今日は雪雲が少し離れると、天気予報で言っていたのを思い出す。昨夜も光っていたのは金髪だったからなのだ。「タイセイと一緒に通ってみたかったな。帰り道に手を繋いでみたりね」と、訳の分からないことを口走っていなければ、より輝いて見えたのに。
「ね、ねぇ、きみ、だれなの? けいさつ、警察呼んだほうがいいの?」
 僕は疑問を口にした。僕が無体を働いたのでは、という心配からだった。それだけだ。なのにその瞬間、あれ今って氷河期? と思うような、確かに冬だけど、ここまで寒くないよね普通と言いたいほどの、底冷えする視線が僕を捉える。
「……あのさ、タイセイ。先週、誰と、メッセージ送り合ってたか、覚えてないのかい?」
 少年の笑顔は消え失せ、昨夜と同じく厳しい目つきで見下ろしてくる。先週、先週、なんだっけ。確か、アカネがフランスから帰ってくるって言ってたな。僕のことお兄ちゃんお兄ちゃんってよく懐いてくれた、可愛らしいハーフの子。昔住んでたマンションの隣の部屋に住んでいて、面倒見たっけな。お互い親が忙しかったからなあ。久し振りに会うからすごく楽しみにしてて、アカネも楽しみだって――。
「……アカネ?」
「そう、アカネ。フォールデン・アカネ」
 かつてのマスコットがフランスから帰国した時、どうやら地球の時空は歪んだらしい。あんなに可愛かった小さな子どもは僕より背が高くなってしまって、声なんて全然違っていて低いし、見てるこっちが妙に構えてしまうほどに優雅だ。「おもちゃ貸してよお兄ちゃんのくせにガキだね」って泣いてたような記憶があるのだけれど、全部霞んだ。
「やっと帰ってこれたんだ。会いたかったよ」
 少年の笑顔が二日酔いの目にしみる。そうだね、僕も会いたかったよ。なんか思ってたのと違う気がするけど。



 冬休みが終わればすぐに試験が控えているせいか、大学の図書館は人で溢れていて、僕は溜息を押し殺す。その反面、僕以外誰もいない鉄道部の部室は静かで、勉強にはもってこいだった。でも必要な資料は図書館にあるから、部室棟から図書館までの十五分間ウォーキングを強いられ、しかも帰り道は両手に資料を抱えて戻らなければならないので、特に今日のように雪が降りそうな日は手がこわばる。
 はーっと、冷える指先をなんとか温めようとして、失敗する。まったく温まらない。もし目の前にストーブがあれば、ここが学生の行き交う場所なんてことは関係なく、犬や猫のように飛びついてしまっていたに違いない。
 行きはよいよい、帰りはこわい。ちゃんと手を繋いでなきゃ、だめよ、タイセイ。
 昔、姉ちゃんが歌っていたんだっけ。二人で遊びに行った帰り道、薄暗い空に僕はびびって、姉ちゃんの手を掴んだ。姉ちゃんも手が冷え切っていて、それなのに力強い笑顔を浮かべて、僕を引っ張って走り出したのだ。雪の降るなか、あはは! と高笑いする姉の姿は、敵を倒した勇者そのものだった。今思えば、寒さと僕の恐怖心を跳ねのけるための儀式だった。
 伝説の剣を抜いた勇者が、悪に立ち向かう王道ストーリー。それが人生だったなら、間違いなく姉は主人公役。ひとりでも諦めない、孤独なんてなんのその、才能に愛されている。それが姉の形容詞。
 その姉には、しばらく会っていない。すごく単純な理由で喧嘩して、すれ違ったまま。どうしてそうなってしまったのか、正確に思い出すことができない。
「さむっ」
 天気予報は外れた。陽の光はすっかり姿を隠してしまって、ひゅうっと吹き抜ける冷たい風にアパートの室温を思う。二時間前の僕が、アカネをその部屋に置いてきた。

「今から大学ってどういうこと」
 少年は不満そうな顔を隠そうともせず、鍵を僕から取り上げた。「仕方ないでしょ、勉強しないとだめなんだから」「何の勉強?」ちゃりちゃり鳴るキーホルダーの音が切ない。
「なんか、なんか色々だよ!」
 宙に浮いた鍵へと手を伸ばすが、わずかに届かなかった。
「せっかくの再会も台無しだね。久々にフランスから戻ってきたんだから、ハグのひとつでもしてほしいところだけど」
「ちょっと、鍵! 鍵返して!」
「へえ。身長、五年前とあんまり変わってないんだね」
「う、うるさいなあっ! アカネが成長期なんだよ!」
 九歳が十四歳になればそれはもう成長期真っ只中、伸びざかりだろう。でも僕にとってそんな時期はとっくに終わっていて、今まさに指摘されたとおり五年の間ほとんど変わることはなかった。昔よりは少し伸びたものの、姉ちゃんに少し近付いたかなという感じだ。
 母校の制服が顔にぶつかる。アカネのちょうど首元に僕の頭があって、意図せず抱きつくような体勢になって、反射的に「あ」と思った。あ、なんかすごく近いな。アカネ、背高くなったな。
 すっ、と世界が静かになって、そこから急激に加速するみたいに、音が生まれた。
 心臓の音だった。どく、どく、どく。うるさい。ハグのひとつでも、と言ったアカネ。文字通りの、ハグ。彼の両腕が、僕の背にある。彼の手にある鍵は見えない。
 抱き締められるのってこんなに熱いんだ。
「……会いたかった、タイセイ」
「あ、アカネ」
「ずっと会いたかった。ずっと、ずっと、こうしたかったんだ」
「アカネってば――」
 息苦しくて、僕は何も言えなくなる。迷子が親を見つけたような、やっと絞り出せたような声は昔より低くなって、僕を縛り付けてしまう。
「好きだよ、タイセイ、好き」
「ん、ちょっ」
 ちゅ、とすぐ近くで音がして、アカネが頬っぺたに口付けたのだと知る。小さな口付けだった。それが引き金となって、引っ張られるように過去の記憶が浮かんできて、そういえば子どもの頃もこうやってされたっけなあ、と思い出すと無性に微笑ましい気持ちに満たされる。
 アカネは寂しかったんだろう。僕に抱きついて甘えて「好きだよ」と言ってくれた、可愛い小学生はいなくなってしまった。こんなかっこいい子に進化して、僕だけが何も変わらずに時間から取り残されたような気分だ。
 ほんの少しだけ、苦しいな、と思った。どこかで、ぽつんとひとりになってしまった感覚。でもそれさえ覆い尽くすのは、小さな子どもからの素直な好意。泡みたいに浮かんでくる感情に、こらえ切れず笑みがこぼれる。
「なに?」
 訝しげに聞いてくるアカネにはもう、あの頃の面影はない。
「ううん、相変わらずなんだね、アカネ。昔もよくこうしてくれたっけ? でも、さすがにもう照れるかな」
「……君も本当に変わらないね、『そういう』ところ」
 睫毛の長さが分かるほどに近くで見るのは初めてかもしれなかった。整った顔立ちに圧倒されそうだけれども、口を引き結んでいるのは怒っているからなのか、それとも拗ねているからなのか読めない。「えっと、どうかした?」聞いたものの答えはなかった、代わりに「タイセイ、彼女いないだろ」と突然言い当てられてお腹のあたりがひやっとする。
「ちょっと、何なんだよ急に」
「今ので確証を得たんだ」
「今ので!?」一体何が決定打になったのか知りたい。「なんで!?」
「そんなことはどうでもいいよ。それよりも」
「それよりも?」
「僕と付き合って」
 だから、なんで?

 昔からアカネは目立つ子で、小さい頃から彼の周りだけがいつもきらびやかに見えていた。日本人とフランス人のハーフであること、目鼻立ちがくっきりしていること、お兄さんが有名な陸上選手であること。彼を飾り立てるものはいくつもあったけれど、一番は、彼自身が生まれながらに持ち合わせた魅力がそうさせていた気がする。
 色眼鏡でみられることも多いんだろうな、と気付いたのは、僕が進開学園中等部に入った後だ。近所に住んでいなければ、僕もきっと野次馬の一人になっていたんだろうと思うほど、住む世界が違う子だった。
 僕と彼との接点なんて、家が近かったという些細なものである。
 鉄道好きな僕と決して趣味が合うわけじゃなかったのに、僕の長話に「それって面白いの」と冷ややかに返しつつもずっと聞いていてくれたことが、嬉しい気持ちとともに記憶に残っている。
 
「ああ、見つけた」
「アカネ……」
 大学って広いんだね、とあたりを見回すアカネのロングコートは、カラメルのような色が曇り空の下でも分かるくらいつやつやしている。僕のものよりもよっぽど高そうな服が、もともと大人びている彼を中学生に見えないようにしていた。
「な、なんで、いるの」
「なんで、って……タイセイに着いてきただけさ」
 これくらい普通だよ、と笑っているけれど、普通ではない。世間ではそれを尾行と言うんだよ、君が知らないはずはないでしょう。
 図書館の前で待ち伏せしていたらしいアカネは、コートのポケットへスマートフォンを無造作に突っ込む。「寒いね」彼のぼやきとともに吐き出された息は、小さな雲のようにふわっと舞い上がって、すぐに消えた。
 後をつけるアカネの倫理観が心配になったが、まったく気付かなかった僕も僕だなと溜め息をつく。
「別に来たかったなら言えばいいだろ」来るな、とは言ってないのだから。「僕が放置したみたいじゃないか」
「だって、逃げるように出て行ってしまったからね」
 はい、と預けた(というか預けるしかなかった)鍵がアカネのポケットから出てきた。ようやく僕の元へと帰ってこれるのかと思うと「おかえり」と言いたくなる。東北新幹線はやぶさのキーホルダー。姉からのプレゼント。僕の大切なもの。大切な――鮮やかな緑の車体を撫でようとしたのだが、失敗した。アカネの手が、僕の手をきゅっと握ったので。
「ね、ねえ、アカネ、さっきからどうしたの? 離して、」
「どうして逃げたんだい? 君のこと、好きって言ったのが嫌だった?」
 握手じゃなくて、手を繋ぎそこねたみたいに、指先だけを絡ませてくる。こんがらがった糸をひとかたまりにするような、ひたりとくっついて離れずにじゃれあう指は、アカネの心を表しているみたいだった。
「ち、違う。絶対に違う。それに、逃げてない」
「違うのなら良かったけど、でも、逃げてるよ」
「じ、時間! 時間がほしかっただけだよ」嘘じゃなかった。「ほんとに、ほんと。もう少し、待って」
 コートの襟に顎をうずめる。もごもごしている僕を、アカネの目が審議するように見下ろしている。その目が少し伏せられて、相変わらず綺麗な目だな、と思っているうちに、手の甲に触れるものがあった。冷たくも柔らかい――アカネが、白い頬を寄せている。
「ひあ」
 変な声が出た。アカネは構わない。
「それって、いつまでなの?」
 いつ。いつだろう。長い睫毛越しに見える薄いブルーが、じっとりと僕を見ている。
「えっと……お、大人になるまで……」
「ハタチは大人じゃなかったっけ?」と鋭いところを突かれ、悔しくて、振り切るように手を離した。重苦しい空から雪が降り始めたのは、ちょうどその時だ。
 大人っていつからなんだろうね、とアカネが追いかけてくる。

 図書館へと一歩足を踏み入れた途端、たくさんの視線がアカネに吸い寄せられるのが分かった。砂鉄が磁石にくっつくみたいに、さあっと集まってくる見えない矢印。けれども慣れているのか気にしていないのか(多分気にしていないのだろうけど)それらに目をくれることもなく、アカネは「なに借りるの、どこ?」と僕を見下ろすばかりで、まるで何も存在していないかのような無関心っぷりだ。
「あ、えっと、あっちの奥の棚……」
「あそこだね」
 指差した書棚へ向かって一直線に進む姿に、僕はついていくことしかできない。荒れ果てた道がすべてアカネによって開拓されていくかのごとく、ただ彼の後ろに付き従った。周りの視線が痛くて、故障したロボットかと思うほどおかしいリズムで進んでいたところを、突然壁にぶつかる。
「ぶはっ」
 アカネの背中だった。
「……前。ちゃんと見て歩いてくれない?」
 突然止まったのはアカネのほうじゃないか、とは言えなかった。すぐ隣が、目的地の書棚だったからだ。
「そ、そういえばアカネは、本を読むのが好きだったよね」
「そうだね、今でも好きだよ」
「そういうところも変わらないんだ」
 棚を確認し、目的の本を引き抜いた。ぽっかり空いた数センチの隙間がちょっと寂しく思える。
「僕は何も変わっていないよ。それは君もだと思うけどね」
 一冊、二冊、三冊と腕に抱えた本は、四冊目になってアカネに取り上げられる。「持つよ。タイセイ、落としそうだし」まるで僕が鈍臭いみたいな言い方には、正直ちょっと傷つく。本当のことだけど。
 結論から言えば、部室で勉強なんて出来なかった。さすがにアカネを連れ込むわけにはいかなかったし、図書館の時とは逆にずっと僕を追いかけてくる彼と、その周りでちらちら視線を寄越してくる人たちが気になって、僕の集中力は部室に到着するまでに霧となって消えてしまったのだ。途中で会った高輪准教授――僕の所属する研究室の甘党な先生――が、すれ違いざまに「おっ、見学者か? 受験生? 色々紹介してやれよー」と声を掛けてくれた時は、咎められることを覚悟していたので肩透かしを食ったような気分になった。しかし、先生は敢えてアカネを『見学者または受験生』ということにしておいてくれたのだと、僕は帰り道の途中でようやく気付く。不審者は進入禁止だ。

 どこに住むこととなったのかと訊ねたものの、駅までの道中も、電車に乗ってからも、アカネは答えなかった。ごとん、しゅうーっ、うぃーん、と走り出す箱の中で、僕たちは隣り合った。そこそこの乗車率なので近付くことはおかしくないことだったけれど、アカネが僕の手を握ったのには思わず「わ」と声を出してしまった。大声にならずに済んだのは、単純に走行音が大きかったからだ。
 左を見れば、いたずらが成功した時のような顔。何度か見たことのある表情。
 添えるような指先が今は熱い。
「あの、アカネ」
「答えは出たのかい?」
 電車の音がやかましく、僕を囃し立てる。何の答えか、聞くまでもなかった。
「僕はずっと待っているんだけどね」
 ゆったりした声に退路を塞がれて、それでもなお僕は答えを持ち合わせていなくて、ただ「待って、待ってて」と言うことしかできない。
 車両はがたがたと車両を震わせながら、肉食獣のごとく勇猛に突き進む。言い訳がましく目を泳がすこの間も、時間は確実に過ぎているのに。
「……もう少しだけ」
「うん、分かった」
 予想に反して「タイセイならちゃんと返事をくれるって分かってるから」とアカネはあっさり引いた。てっきりごねられると思っていた自分が、まるで縋りついてほしかったみたいで、心の底から情けなかった。
「でも、また訊いてもいいかい」
「う、うん」
 ごめん、と思った。その『ごめん』はあまりにも傲慢で、申し訳なさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、暗い地下トンネルへ飛び出したくなる。
 車両が揺れる。僕とアカネの腕が引っ付く。意図せず密着することになった腕が落ち着かないのに、離れたいわけではなかったから、僕はどうすることもできなくなってそのまま引っ付いていた。停車駅がひとつ、ふたつ、みっつと読み上げられるたびに少し人が減り、反対にアカネの手は僕を少しずつ侵食してくる。
 手のひらが密着して、指が絡まり合って、僕の左手とアカネの右手が座席の上でひっそりとがんじがらめになる。どくどくと、胸が痛んだ。
 ぬくもりだけを盗む僕に、アカネは何も言わない。ずっと僕の隣にいて、それが自然で当然なんだという風に僕を支える。
 目を閉じる。何も見えないふりをする。分かっていたのに分からないふりをした僕を瞼の裏に閉じ込めて、黒色の世界のなかで、僕は僕を責めた。大人になっても、僕はずるかった。ずるいから、最寄り駅のアナウンスが聞こえるまでずっと、アカネの温度に揺られていた。



デイ・ドリーマー

 通りすがりの人たちが彼のことを「興味津々です」という目で見ていて、やっぱりアカネはすごいなあ、と単純に感心した。
「駅前の書店にいるからね」
 出掛ける間際に耳にした言葉は聞き間違いではなかったのだと、アカネの姿を見て確信する。彼の声には「必ず立ち寄ること」という含みがあって、万が一無視して帰宅したら最後、めちゃくちゃに怒られることは明白だったから、立ち寄って正解だったと自分を納得させた。
 立ち読みしている少年の目はずっと手元に落とされていて、僕には気付かない。雑誌なのか参考書なのか分からなかったけれど、きっと面白いのだろう、ページをめくる指は楽器でも演奏しているみたいに軽やかだ。
 僕の部屋に居座ったり、突然帰ったり、突然現れたり、神出鬼没なアカネとの生活は始まってひと月が経とうとしている。
 何かを約束することはなかった。不思議なのは、あたかもタイミングを見計らったかのようにアカネが顔を出すことだ。今から行く、だとか、事前にスマートフォンで連絡を寄越してくるわけでもないのに、彼が現れる時に僕が不在だったことはない。示し合わせたかのように、僕たちは顔を合わせる。
「眠いんだ」と言い終えた途端に動かなくなった日には、さすがにどうしようかと頭を抱えたものだ。僕の膝を枕にするのは正直恥ずかしくて堪らなかったけれど、次第に胸があたたかいもので満たされていって、座ったまま僕も目を瞑ることにした。落ち着き払った彼が年相応に見えて、無性に安心して、静かな寝息に耳をすましながら冬の夕方が過ぎゆくのが、とても心地良かった。あとで「狸寝入りだったのにな」と笑われたことを除けば。
 書店のガラス越しに髪がきらりと反射するのが、遠目でもよく分かる。
 アカネはできた子だ。見た目だって格好いい。ストレートな物言いは嘘がない。褒めると彼はまた「これくらい普通だよ」と言う。
 その時だけ僕は、彼を否定する。君の『普通』は、決して僕には当てはまらない。
 僕は『普通』にはなれないから、君とは違うから、答えが停滞するんだろうか。
「あれっ、タイセイじゃね?」
 書店に入ることを躊躇っていたら、明るい声に引き留められた。
 振り返れば、どこか見覚えのある顔に、最近は毎日目にしている母校の制服。利発そうな少年が、ほとんどその役目を果たしていない制服の後ろで腕を組んで立っている。
「……え、えっと……?」
「んだよ、忘れちまったのか? 俺だって! リョータだよ、九頭竜リョータ!」
 跳ねた髪の毛のように、肩をぴょこぴょこ揺らしながら、少年は名乗った。名前を聞いて、あっ、と思わず声を上げたのは、少年が記憶の中の彼よりも成長していたからだ。
「えっ!? リョータ!? ほんとに!? すごい、偶然だね!」
「まじで久し振りじゃん! 昔はよく遊んでくれてたよなー!」
「うんうん! 大きくなったねえ、リョータ」
「へへー! だろー?」
 昔はアカネと一緒に遊んでいたリョータも、すっかり見違えて、からっとした笑顔で僕の背を叩いた。「どした? もう大学生なんだって? じいちゃんから聞いた」「あ、うん。二十歳になったとこ」「はえーな! まじかよ」今どきの子、という感じなのが、なんだか嬉しかった。
「……ははーん、アカネか?」
 リョータの指差す先には、立ち読みを続ける少年がひとり。
「え? ああ、うん」
「最近めっちゃ機嫌良いんだよなーアカネ」
「そうなの? ……ていうかその制服、アカネと同じ?」
「おうよ。ちなみに同じクラス」
「えっ!」
 店先で話に夢中になっていた僕は、その十五分後、不機嫌さを存分に醸し出したアカネに肩を叩かれることになる。

 へそを曲げた少年をなだめる目的もあったけれど、久しぶりに会えた年下の友人を含んで話をしたくて、場所をカフェへと移すことにした。その間もアカネが「僕のことを放っておくなんて、良いご身分だね」と小言を並べるので、僕は肩身が狭かったものの、面白がるリョータの笑い声に救われる。
「まじウケる。タイセイのこと好き過ぎだろ」
「君はいつもうるさいな」
 今にも口喧嘩が始まりそうだったのを適当に濁すと、まーそうだわな、とリョータが店の天井を仰ぎ見ながら口を開いた。カフェに流れる洋楽が、はっきりしない歌声を垂れ流している。
「今でも覚えてるぜ。アカネがさあ、どっかの記者だっけ? 家族のことしつこく聞かれてた時によ、俺付き添いで一緒に下校したんだけど、タイセイがそいつ追っ払ってくれたんだったよな」
 リョータの言葉に、そんなことあったっけな、とおぼろげな記憶を辿るが、はっきり思い出せずに「そうだっけ」と返した。
「そうだよ。あの時のタイセイ、まじかっこよかったぜ。『恥ずかしくないんですか!』ってな」
「そうだね。それには同意する」
「正義のヒーローっつーのかな、そういう感じ!」
「あはは……多分、かっこいい人ぶろうとしたんだね」
 苦笑で誤魔化したのが分かってしまっただろうか。
 記憶ははっきりしないけれども、年下の子の手前、きっと格好つけたかったのだ。僕のことだから、姉のように振る舞ったのだろうことは簡単に想像できた。毅然とした姉の態度が、ある時は武器に、ある時は火種になったりした。
 昔、『目標』をテーマとした作文に、姉のことを書いたら笑われたことがあった。小学生の頃だったか。歴史上の人物や偉人をあげるクラスメイトが続くなか、僕だけが違っていて、階段を踏み外した時みたいに引け目を感じて、帰り道でひとり泣いた。
 でも、気持ちひとつで単純に行動できたあの頃が、今では妬ましいほどだ。
 僕は目標の人になれないまま、大人にもなり切れない。後ろ姿を追い続けるたび、あの人との思い出が、焦燥感に上塗りされて消えていくようだった。
 このままじゃだめなんだ。
 ――どうして?
 大人にならなきゃ。姉ちゃんのようにならなきゃ。
 ――ならなきゃいけないの?
 分からない。僕のルールには、あの人しかいないから。
「タイセイ、大人になっちまったんだなあ」
 リョータの言葉が、いやに大きく響いた。彼の手に収まるグラスの中で炭酸ジュースが弾けて、しゅわしゅわ、ぱちぱち、小さな悲鳴をあげている。
「そう、だね」
「カノジョは? いねーの?」
「僕が立候補中だよ。女性ではないけど」
 アカネが言った。店のメニューでも読み上げるかのような口調で、しかしリョータが固まるのが見てとれた。何ともない風に、アカネは紅茶を口に含む。
 少年の顔にはでかでかと「聞かなきゃよかった」と書かれていて、そこに「色んな意味で大丈夫か?」と追記される。
「タイセイ……あのさー……」
「ちょっ、ちょっと待って誤解! 誤解だってば!」
「誤解じゃない、本当のことさ」
「アカネはちょっと黙ってて!」



「で? 答えは出たのかな」
 電車に乗って、アパートの最寄り駅へ降りた時にはあたりはひどく暗く、夜であることを差し引いても空が分厚い雲で覆われていることを示していた。薄い雪が地面を隠すと、いつもの道がまるで見知らぬ街のように思えてしまうから不思議だ。
 しゃく、しゃく、と踏みしめるたび、氷を食むような哀しい音がした。
「……僕たちは、だめだよ。だって、まだ子どもじゃないか」
「好きな人に『恋人になってほしい』と言うのには、年齢制限があったのかい?」
 言い放つアカネはどこまでも自分の正しさを信じていた。王様のような力強さ。裁判長みたいに反論を許さない圧。僕の頭から、余計なことをそぎ落とそうとする声。
「僕は、一般論なんて欲しくない。タイセイの気持ちが知りたいだけさ」
 気持ち、という単語が宙を舞い、小雪混じりの風に吹かれてばらばらになった。
 アパートの階段を上る、不規則な足音。た、たん、た、たん、と鉄道が走るリズムみたいに、僕たちは進む。三階にある部屋の前で足を止めれば、電灯に照らされてふたつの影が落ちた。
「……ねえ、アカネはどうして僕のこと、好きなの」
 鍵を開け、室内に入ると、エアコンがついていた。そういえばタイマーを設定していたんだった。出掛ける前より暖かくなっている部屋に、ほ、と安心したのも一瞬のことで、後ろで服の擦れ合う音がして、見ればアカネがコートを脱いでいる。見覚えのある制服は、彼がまだ十四歳であることを僕に知らしめてくる。
「さあね。気が付いたら好きだったから」
「……そう、なんだ……」
 その言葉に聞き覚えがあって、けれどもどこで聞いたのか思い出せなくて、靴を脱いだ僕は真っ先にベッドへダイブした。
 なんだか、ひどく疲れていた。
 ぎっ、とスプリングがたわんで、戻って、沈み込むことを許さず僕の身体を受け止める。
「僕なんか、アカネには釣り合わないよ」
 天井を見上げた。真っ暗なままの世界が心地よかったのに、ぱっと打ち消す照明の白色が眩しい。電気をつけたアカネからは溜息が漏れる。
「そんなことを聞いた覚えはないけどね」
「本当のことだよ。君に、答えも言えていない、優柔不断な人間だし」
 僕と付き合って、それからどうするんだろう。手を繋ぐ? 抱き合う? それとも、それとも。いくつかの可能性が浮かんでは、照明の光に混じって見えなくなった。
「なら、曖昧なままが良い?」
 アカネが僕に被さって、檻みたいに両手を下ろした。「アカネ」「なに」「だ、だめ」耳にかかっていた髪が少し垂れて、僕の頬っぺたをくすぐる。あの日、唇を寄せられたところに当たって、胸の中がそわそわする。
 大人なのに、僕は情けなくも決められず、ただ誰かから寄せられた好意を喜ぶことはできても、応えられない。
 涙が、薄く滲んだ。君を傷つけたくないだけで、時間がほしいだけで、どうして僕は答えが出せないんだろう。
「僕は……」
「好きだよ。って、言っただろ? タイセイ。僕の恋人になって」
 アカネの言葉はいつも強力な引力で、僕を逃さない。
「思い出してごらん、君自身のこと」
 僕が隣にいたら、君は心強いんだろう?
 その言葉、僕が言ったんだっけ? いつだったっけ――唇を重ねるアカネに僕は対抗手段を持たない、何もしないこと以外は。
 優しいキスだった。強張っていた身体がゆるんでいく。僕を慰めるみたいな可愛らしい唇は気持ち良くて、誰かとキスするのはこれが初めてだったと思い至る。どうすれば良いのか、作法なんて知らない。知らないけれど、ちゅ、ちゅ、と唇と唇の間から漏れる音が僕を導いて、それに従い両手を伸ばした。
「ん、んっ……、ふは……」
 何度か唇が合わさって、一度離れて、アカネと目が合う。空気が薄い場所にでもいるような目が、僕を見下ろしている。
「嫌じゃない?」
「……やじゃ、ない」
 今更だ。今更なのは、僕の方か。
 僕はいつも今更で、君にもっと早く、ちゃんと、伝えなくちゃいけないことが沢山あったのに。
「いやだったら、最初から断ってるし、その、き、キスもしてな、っん」
 ちゅう、とまた吸われた。柔らかい感触に押されて、僕たちはベッドに沈んでいく。シーツが沼地になったみたいにどろどろとして、背中の感覚がなくなる。何か、大切な何かが、後ろから僕を呼んでいる気がするけれども、ちゅ、ちゅ、と交わす口付けを手放すことができない。
「はあ、はっ……あかね……」
「はは、タイセイ、可愛い……ほら、舌出して」
「え、あっ、ちょっと待って、んっんんっ……っふ……」
 間髪入れずに次の攻撃が来る。
 アカネの舌が、口の中へ入ってくる。れろ、ぺろ、べ、と僕の唇、舌、声を根こそぎ食べてしまうような勢いで、深くキスを恵んでくる。ベッドがまたしなった。アカネの首に回した腕は力尽きる寸前で、なんとか引っかかっている程度だ。
 唇から顎へ、舌が辿る。ぞわぞわしてくすぐったい。そこから下りて、アカネが僕の喉へ吸い付いた。
「っ、ん……」
 まずいな、と思う。全部が真っ白になって、溶けてしまう。気持ち良くて、それに流されて、僕はまた君に甘えてしまうんだろう。
 君は優しいから。
「ねえ、どうして嫌じゃないのか、タイセイは分かってるの?」
 呼吸に混じる、アカネの声。首筋をくすぐって身をよじる。大丈夫と言い聞かせるように、少年らしからぬ手が僕の身体を撫でていく。
「うあ」
「もっと、する?」
「ばか、こどもでしょ、っあ」
「子ども子どもって、君もそうだろう」
 僕はもう子どもじゃない、と言いたいのに、口が動かない。出てくるのは短い息の連続。アカネの手が、ニットの上から僕の胸を辿る。そのたびに、腰のあたりがむずむずして、ぞわぞわして、妙な心地に陥る。
「だめ、なんかそれ、だめ」
「なんか、って何?」
「あっ、ん、んーっ……!」
 再び口が塞がれて、頭の中が混乱する。ぬと、とするアカネの舌が、僕からすべての酸素を奪っていくみたいだった。
 それでも、嫌じゃない。気持ち良い。ふわふわする。離れる時、心許ない。
「……っタイセイ、気持ち良い?」
 なんとか頷くと、アカネの目が、まるで何かを達成したかのように満足げに瞬きをした。
 そんな嬉しそうに笑わないでほしかった。
 どうして僕なんだろう。僕はどうしたらいいの。どうして嫌じゃないの。アカネなら知ってるんでしょう――どんな言葉も今は無駄になる気がして、僕は口を噤んだ。その場所を、執拗に追い込むのはアカネのキスだ。
「ん、は、うん……」
 ちゅく、ちゅく、と舌が絡み合うたびに、唾液が恥ずかしげもなく音を立てて、楽しむようなアカネの気配がした。「好きだよ」と、こういう時でも素直に言える君が羨ましい。
「ねえ、もっと聞かせて」
「んんっ……!」
 服の裾から、アカネの手が入り込んでくる。少し冷たい指に、つい身体が怯えるようにびくびくして、でも怖いわけじゃないことを伝えたくて、自分からキスをした。
「っあ、かね……」
 ごめん。ほんとに、ごめん。ごめんね。
 涙と、やっと出てきた言葉に、アカネの目がビー玉みたいに丸くなる。手が止まって、それから「敵わないなあ」と熱くなってしまった僕の頬に小さなキスをくれた。僕の髪をやんわり梳く手が心地良く、目尻から雫が落ちる。
「タイセイ、ちゃんと教えてくれないか。君の気持ち」
「僕、ぼくは、」
「うん」
「こわい。こわいよ、ぼく、きみを傷つけたくない。だってこれが、き、きみとおなじ、『好き』なのか、わからないよ」
 僕の中で地団駄を踏む小さな怪物が、恋なのか、愛なのか、執着なのか、自分でさえ分からない。大切なひとが欠けてしまった寂しさを、君で埋めようとしているんじゃないの。僕は君が好きだというのは、僕のやましさから生まれた錯覚なんじゃないの。
 この先に進んでしまったら、もう後戻りできないんじゃないの。
 僕は子どもだった。うまくいかなくて泣いて、失敗するのが怖くて足踏みする。でも、伝えることだけが、子どもの僕らにできる唯一の手段なのだ。
 泡のように僕がなくなる。身体がほろほろと崩れていく。
 僕の記憶は、そこで終わっている。



デイ・ビリーバー

 げほっ、と大きな咳が出た。胸がぎゅうぎゅう押されるみたいに苦しかった。何日も水を口にしていなかったのかと思うほど喉が渇いて、ぜ、ぜ、と短い息を繰り返す。
 ひとしきり咳き込んでから、膜が張ったような視界の奥でアカネの声がして、何とか目を凝らす。タイセイ、と何度か名前を呼ばれているのが分かった。
「――あ、……あれ、アカネ……」
「はーっ……良かった……」
「……あ……」
「分かるかい? 着替えた途端、君、倒れたんだよ」
 は、と気付くと、自分の身体は白いシーツに収まっていた。少しずつ明瞭になっていく世界に、ようやく僕はここがどこなのか把握した。ERDAの診療室だ。
 椅子に腰かけるアカネはパイロットスーツのままで、聞けば今しがた来たのだという。結われた髪が、扉を見返る時に振れた。
「先生たちは、検査結果は異常なしと言っていたけど、その、僕だけ、ここに残らせてもらったんだ」
 ベッドから身を起こす僕を、アカネの手が制した。「ゆっくりで良いから」「ごめん、えっと、いま何時?」「夕方だよ。半日近く経ったかな」つまり僕は、半日ほど眠っていたことになる。
 たった半日の間に見たとは思えない夢に、後ろ髪を引かれる。思い出を、小さな箱から溢れそうなほど押し詰めて、僕も一緒に押し込められて蓋をされたような密度だった。
 上半身だけ起こして、ベッドボードを背にアカネに向き合う。どこかよそよそしさが隠しきれない様子に、そうだった、と肩に少しだけ力が入った。
「……体調は?」
「もう大丈夫だと、思う。なんか、ごめんね」
 申し訳なさに頭を下げる。ごめん、と繰り返すと「その言葉は何度も言うものじゃないよ」と苦笑された。
「それに、謝るのは僕のほうだと思うしね。お姉さんのこともあるのに、余計なことをして」
 アカネが意図することが分からないほど、僕は馬鹿じゃなかった。言葉尻が少し下がっているのも――ひと月前の言葉が、僕を苦しめていると思っている。

 気が付いたら好きになっていたんだ。
 何気ない日々を根底から覆すような衝撃に、僕が言葉を見つけられなかったのは、完全に僕自身の問題だった。
 アカネが伝えてくれた気持ちのうち、一粒だけでも拾い上げることができていたのなら、もっと早く君を楽にさせてあげられたのに、と思うけれども、僕には時間が必要だった。時間があれば、うまい言葉を用意できると思っていたのだ。結局、ひと月分の時間を要することになるとは知らずに。
 僕は幼くて愚かで、その選択が単なる先延ばしであるとは気付かない。「待ってほしい」と言われたアカネが、文字通り『待って』いる間、窒息しそうな日常がどれだけ積み上がっていったのだろう? その階段を進んだ先にあるものを、僕の答えを、考えながら過ごすのは。
 君はどんな気持ちで、僕に「好きだ」と言ってくれたの。どうしたらそんな強くいられるの。
「ねえ、タイセイ。僕は君を、困らせたかったんじゃなくて、」
「ま、待ってアカネ!」
「え?」
「その、僕、アカネに言いたいことがある」
 シーツを握り締めながら、声がかすれないように祈りながら、必死で口を動かした。動け。動け。怖がるな。
「ああ、なんだい?」アカネが身構えたのが分かる。いつもの君であろうとしてくれる優しさの裏側で、口元に余裕がない。
 彼に伝わるよう祈って、息を吸った。全部がうまく繋がらなくて、言葉にしようとしても失敗しそうで、怯えて何も返せなかった自分に、ここで別れを告げるのだ。
「――アカネは優しいから。僕が曖昧なままでも、ずっと待っていてくれたけど、でも僕は、僕は……このままじゃ、だめだ」
 甘えていた僕を許さなくていい。理解もいらない。跳ね除けられたって。それでも、伝えなきゃいけないことが、僕の内側で殻を破る。
 僕が大人だったら、すぐに答えが出せると思っていた。
 僕が大人だったら、いつか思い出にできると思っていた。
 僕が大人だったら、全部諦められると思っていた。
 でもそうじゃないから、だから、君を簡単に諦められない。
 現実は花火みたいに、まばゆい光が凝縮する瞬間の連続で、いつも僕は置いていかれそうになる。思い出は雪景色みたいに、遠くまで美しくて、留まるところを知らない。なら、いつか君の中で、溶けるだけの美しい思い出になったとしても、君が好きになってくれた僕でありたい。
「僕は、君みたいに大人びてないし」
「タイセイ」
「君みたいなかっこよくないし、すぐに決められないし、自分のこと、うまく言えないし、だめなところばかりだけど」
 からからの喉を震わせる。鼓動がうるさく、僕を急かす。
「でも、それでもね、僕は――」
 言い終わる前に、突如、僕らの間を駆け抜けるけたたましい音。
 ビーッビーッビーッ、と鳴り響く警報音が、僕の声をかき消す。意識が一気に覚醒して、深海から思い切り水面へと浮上するみたいに、僕の中でがんっ、とスイッチが切り替わる。
「アンノウン!」
「おい、君はまだ動かないほうが、」僕をベッドに押しやろうとするアカネを、今度は僕が制した。大丈夫、と言葉にせず伝える。制した手で、アカネの手を取る。
 手のひらに、少しだけ頬を寄せた。手袋がさり、と鳴った。
「た、タイセイ」
 虚をつかれたのか、アカネの動きが止まる。思いがけない夢の副産物だった。夢の中のアカネから盗んだ、小さなテクニック。架空の体験が役に立つこともあるのだな、と隠れて笑う。アカネを出し抜けたみたいで、ちょっと面白い。
 耳をつんざく音は続いている。現実が押し寄せる。手を思い切り引けば、僕らは簡単にひとつになった。どっどっどっ、と強い音がして、アカネの本当の、本物の体温が彼のにおいと一緒になって僕を包む。
 それを目いっぱい抱き締めて、ベッドを抜け出した。
 引っ掛けるように履いたブーツが脱げないよう、廊下を跳ねた。「タイセイ!」「急がなくちゃ」アカネはすぐに追いついた。さすが、スピードに乗るのが速い。
「アカネ、戻ってきたらちゃんと言わせて!」
「今聞きたい!」
「だめ! もう時間ないから!」
 時間がないことを悔やんでいたのに、今では早く過ぎてほしくてたまらない。あとは、君と駆け抜けるだけ。



 ずっと霧が満ちているような、うっすらとした雪景色が続く。夢は、遠い思い出みたいに優しかった。
 ぼやけて読めない本のタイトル。リョータが言っていた活劇じみた過去。姉と離ればなれになった理由。どれも掴みどころがなかった。鏡のない世界は、多分、すべてが僕の理想だった。理想の中でも僕は、やっぱりヒーローになれなかった。
 大人っていつからなんだろうね。そう、夢の中でアカネが言っていたっけ。
 僕にとっての『大人』は姉しかいなかった。そのイメージだけを背負って、成長した僕をかたどっていた。大人ならばうまく立ち振る舞えると思っていたこと自体に、僕の甘さが露わになっていて、ひとりで自分に呆れる。もっとも、姉は『正しい大人』だった。正しくて、ずっと先に行ってしまって、手が届かない。
 僕の好きな人は、みんな僕の前を歩いている。
 だから、ずっと追いかけている。

 汗ばむ手に鞄を持ち直して、通学路を歩く。街路樹の隙間から太陽が僕たちを焼いて、何度目かの「暑くなってきたね」を呟いた。季節の変わり目はとうに過ぎ、本番がやってきていた。
 少し経ってから、あの夢のことを自分ひとりで抱えておけなくなって、アカネに話した。儚くもなんともない夢のあらましを、彼は静かに聞いていた。大人になった僕と、変わらない君。逃げていたこと。泣いたこと――もちろん、言いづらいところは省いたけれど。
「その世界で、アカネは今のままだったなあ。背景だけを交換したみたいな感じで」
「深層心理、もしくは心象風景がそのまま表れたのかもしれないね」
「そうかも。それか、僕の希望かな」
 僕以外の誰も、何も変わらないでほしかったのかもしれない。そうして姿かたちを変えられないままのみんなに囲まれて、今でもどこかで、異質な『僕』が生きているような気がした。終わりのない、幻が広がる世界で、僕はまだ君といるんだろうか?
「アカネがそのままで良かった。僕は、今の君が好きだから」
 臆面なしに伝えたことが良かったのか悪かったのか、珍しく言葉に詰まるアカネが、僕よりずっと子どものように思えて手を伸ばす。指先で彼の髪を少し撫でると、真夏の気配がそこから零れ落ちるように、さあっと心地よい風が吹いた。
 君の目に、僕はどう映っているんだろう。僕が君を見るのと同じように映っているのか、それとも。
 僕らは全部を分かり合うことはできなくて、確かめることもできない。不確かな感情が、いつも僕らの足元に漂っている。その波打ち際で泣いて、笑って、喜びと怒りをないまぜにしながら、向こう岸の君に叫ぶんだろう。
 海鳴りで声がかき消される前に、手を繋ぐ。
 始まりの合図。少し引っ張って、顔を寄せた。目を見張るアカネが僕を満たして、そういえばこれが本当の初めてだ、と唇が重なってから気付いた。眠っている間に、僕はほんの少しだけ大人びたのかもしれない。もしそうなら、あんな夢を見るのも悪くはない。
 閉じた瞼、光の内側で、しんしんと雪の降り積もる音がした。



(了)


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