お題『名前を呼んで』
・キスに夢中なふたり
・たぶん冬の休日の部室
#アカタイ
アカネ、と名前が呼ばれる時、自分の心拍数が少し増えることに気づいた。タイセイから発せられるその音は確かに自分にとって馴染みある名詞だ。何度も何度も耳にしたことのあるものだ。けれどもタイセイが口にするとまるで別物で、ほろっと崩れる角砂糖みたいで、それからというもののアカネは名前を呼ばれることが好きである。
「い、いま?」
「いま」
「なんで、いま……」
「いま聞きたいからかな」
なんの前置きもなく「僕の名前を呼んでみてよ」と言われて、タイセイは多少混乱していた。呼ぶことには慣れている、というより慣れたのだが、人間には時と場合というものがある。ケースバイケースだ。いまは廊下や教室で声をかける時とは異なり、別に特別名前を呼ぶ必要のない状況であるし、加えてその「いま」というのが、アカネの両の手のひらでタイセイの頬がそうっと包まれている――この状況が、タイセイには問題だった。
「タイセイ」
小さい子をあやすような声には、見えない檻があるような気がする。
アカネのささやきに気圧されるように、部室の壁へと背を預ける。もとより退路はなくて、視界にはアカネしかいなくて、ふっとこぼれた吐息が届く距離はタイセイの身体が硬直するには充分すぎた。跳ねてしまった肩に恥ずかしさがぶわぶわ湧き上がり、体温がぐっと上がった。
こういう時のアカネは絶対に譲らない、主導権を渡すことなんてない。だから負け戦をしかけられているようなものだ、というのが少年が短く濃いアカネとの付き合いで得た経験値である。
「ね、タイセイ」
「あっ……!」
夕刻の部室に、影がひとつ。
もとはふたつだったそれが隙間なくひっついて、ときおり思い出したかのように動く。動く時はアカネがタイセイの首筋にすり寄る時だ。なんか覚えがある――そうだ、先日見かけた、猫が甘える仕草に似てるんだ。
脳裏によぎった記憶は動物の愛くるしい映像なのに、すり寄る少年はあの時見た小さな猫とはかけ離れている。大きいのは猫よりもむしろ犬のような印象を受けるのに、しかし中身は猫のようで、扱いに困る。
「ほら」
「うっん」
タイセイの耳元を、揺れる金髪がかすめた。くすぐったくて、その度に影がうごめいた。は、は……と、自分の呼吸が荒くなるのを止められないのがタイセイは嫌だった。だって、とてもいやらしい。二人分の身体が絡まってほどけない。両脚の付け根にぞわぞわしたものがまとわりついている。アカネに知られたくない、言葉に表せられない欲だった。
心臓がせわしなく、熱い脳天からつま先まで懸命に酸素を送ろうとする。アカネの気持ちは嬉しい。自分を求めてくれるのも。ただ、返される量が多くて処理速度が追いつかない。好意を抱く相手から好意を返されるのは、少年にとって常に戦いだった。
「ねえ、そろそろ呼んでくれない?」
表情は見えないのに、肩口のささめきに自分の意志も何もかもが、手のひらの上で転がされているようだ。でも、抗えない。また影が動く。「んっ」次に首をかすったのはアカネの唇。ともに吐き出された息の熱さに、背筋に得体の知れないものがはしる。悪寒とも違う、空恐ろしい何か。予感か、確証か。
「……あ、」
「うん」
「あ、アカネ、んっうぅ」
短い言葉だ、たった三文字の。つむぎ始めれば最後まで言い切るには時間はかからない。けれどもその数秒が終わった瞬間に、タイセイの声が床に落ち切る前にアカネが拾い、咀嚼した。影が揺れる。夕闇の入り口で、もぞりもぞりと暴れ出す。
乾き切っていたタイセイの唇があっという間に湿って、さらに潤わせようとアカネの舌先が撫でていく。やさしい仕草なのに、抱き締めてくる腕はぐっと力が込められていて頼み込んでも離れそうにない。唾液の絡まる音が自分たちの行儀の悪さをせせら笑うように響いて、タイセイの頭はどうにかなってしまいそうだった。
しばらくの間、ふたり分の息が吸っては吐かれ、冬の気配が訪れて久しい部屋へのびていった。上昇した体温は肌寒さを蹴散らし、ただただアカネに応えるために準備されたようなタイセイの口元を火照らせる。そこを、あたかもとても美味しい食べ物を大事に味わうような動きに、タイセイの肩の力が抜ける。安堵した。しかし隙をつくようにアカネの口付けが加速して、撫で下ろしたはずの胸がぎゅっと苦しくなる。ぴったり重なる唇を吸われる時、こらえようもない音がすぐ近くから聞こえて、ただアカネにすがりついた。
「ん、タイセイ、苦しかったかな?」
「は、はぁ、はっ……あ……っあか……っ」
うん、と応えたアカネの舌がタイセイを再び捕らえる。苦しいなんてずっと知っているくせに、解放する気のない少年にちょっとだけ腹立たしく思う。
アカネは、ひとつになりたいのかな。僕もひとつになりたいな。すごく気持ち良いから、このままずっとしていたいな――「あ、はぁっ、……っアカネ……」「うん」息が上がっているのに涼やかな瞳をたずさえたまま、アカネが覗き込んでくる。その目をじっと見ることはもうできなかった。
口の中がどこもかしこもねっとりしていた。その奥、胸の中からこみ上げてくる言葉を、溢れそうな欲求を、二人の唾液とともにタイセイは飲み込もうとしたのだ。けれども照明の消された部室は徐々に薄暗くなっていて、思考が泥みたいにぐちゃぐちゃになる。まぶたが湿って、重くてはっきり開かない。
そこに、ひとつになりたいなぁ、という願望だけが浮かんだ。そしたらもっと気持ちが良いから。気持ち良いことは好きだ。アカネにキスされるといつも気持ち良くて、だらしない自分を嫌いになる一方で、それでもアカネが好きだった。
「アカネと、もっとしたいよ」
驚きに瞬いたふたつの光だけが見えた。タイセイがずっと追いかけている光だった。ぱっと散った輝きは、やはり最後まで涼しげだった。
放出しあった気持ちの名残が、とうに陽の落ちた室内にただよう。校庭の街灯は月明かりにも似て、窓から流れ込み、ふたりの身体を浮き上がらせた。茫茫として冷たい現実。その中で、抱き合う猫のように丸いかたまりとなって、少年たちが口付け合う。
「もう、帰らなきゃ」
「冬だから日が暮れるのが早いね」
「……あの、アカネはさ」
「ん?」
「なんで、さっき……みたいな時に、名前呼んでほしいの」
「単純な理由だよ、恥ずかしがってるタイセイが見たいだけ。最後は必ず呼んでくれるし?」
そう口元を緩ませて、アカネの指が自分の髪を整えるのを、タイセイは無言で受け入れる。白い指はいつも自分を捕まえて、自分はそれが嬉しくて、潰れそうなほど苦しい。だから身体を寄せた。一回り大きいアカネが、こういう時は心強かった。
アカネは名前を呼ばれることが好きである。ただし、タイセイによって呼ばれる時だけ。呼べば最後だと知らない、目がくらむ声。
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・キスに夢中なふたり
・たぶん冬の休日の部室
#アカタイ
アカネ、と名前が呼ばれる時、自分の心拍数が少し増えることに気づいた。タイセイから発せられるその音は確かに自分にとって馴染みある名詞だ。何度も何度も耳にしたことのあるものだ。けれどもタイセイが口にするとまるで別物で、ほろっと崩れる角砂糖みたいで、それからというもののアカネは名前を呼ばれることが好きである。
「い、いま?」
「いま」
「なんで、いま……」
「いま聞きたいからかな」
なんの前置きもなく「僕の名前を呼んでみてよ」と言われて、タイセイは多少混乱していた。呼ぶことには慣れている、というより慣れたのだが、人間には時と場合というものがある。ケースバイケースだ。いまは廊下や教室で声をかける時とは異なり、別に特別名前を呼ぶ必要のない状況であるし、加えてその「いま」というのが、アカネの両の手のひらでタイセイの頬がそうっと包まれている――この状況が、タイセイには問題だった。
「タイセイ」
小さい子をあやすような声には、見えない檻があるような気がする。
アカネのささやきに気圧されるように、部室の壁へと背を預ける。もとより退路はなくて、視界にはアカネしかいなくて、ふっとこぼれた吐息が届く距離はタイセイの身体が硬直するには充分すぎた。跳ねてしまった肩に恥ずかしさがぶわぶわ湧き上がり、体温がぐっと上がった。
こういう時のアカネは絶対に譲らない、主導権を渡すことなんてない。だから負け戦をしかけられているようなものだ、というのが少年が短く濃いアカネとの付き合いで得た経験値である。
「ね、タイセイ」
「あっ……!」
夕刻の部室に、影がひとつ。
もとはふたつだったそれが隙間なくひっついて、ときおり思い出したかのように動く。動く時はアカネがタイセイの首筋にすり寄る時だ。なんか覚えがある――そうだ、先日見かけた、猫が甘える仕草に似てるんだ。
脳裏によぎった記憶は動物の愛くるしい映像なのに、すり寄る少年はあの時見た小さな猫とはかけ離れている。大きいのは猫よりもむしろ犬のような印象を受けるのに、しかし中身は猫のようで、扱いに困る。
「ほら」
「うっん」
タイセイの耳元を、揺れる金髪がかすめた。くすぐったくて、その度に影がうごめいた。は、は……と、自分の呼吸が荒くなるのを止められないのがタイセイは嫌だった。だって、とてもいやらしい。二人分の身体が絡まってほどけない。両脚の付け根にぞわぞわしたものがまとわりついている。アカネに知られたくない、言葉に表せられない欲だった。
心臓がせわしなく、熱い脳天からつま先まで懸命に酸素を送ろうとする。アカネの気持ちは嬉しい。自分を求めてくれるのも。ただ、返される量が多くて処理速度が追いつかない。好意を抱く相手から好意を返されるのは、少年にとって常に戦いだった。
「ねえ、そろそろ呼んでくれない?」
表情は見えないのに、肩口のささめきに自分の意志も何もかもが、手のひらの上で転がされているようだ。でも、抗えない。また影が動く。「んっ」次に首をかすったのはアカネの唇。ともに吐き出された息の熱さに、背筋に得体の知れないものがはしる。悪寒とも違う、空恐ろしい何か。予感か、確証か。
「……あ、」
「うん」
「あ、アカネ、んっうぅ」
短い言葉だ、たった三文字の。つむぎ始めれば最後まで言い切るには時間はかからない。けれどもその数秒が終わった瞬間に、タイセイの声が床に落ち切る前にアカネが拾い、咀嚼した。影が揺れる。夕闇の入り口で、もぞりもぞりと暴れ出す。
乾き切っていたタイセイの唇があっという間に湿って、さらに潤わせようとアカネの舌先が撫でていく。やさしい仕草なのに、抱き締めてくる腕はぐっと力が込められていて頼み込んでも離れそうにない。唾液の絡まる音が自分たちの行儀の悪さをせせら笑うように響いて、タイセイの頭はどうにかなってしまいそうだった。
しばらくの間、ふたり分の息が吸っては吐かれ、冬の気配が訪れて久しい部屋へのびていった。上昇した体温は肌寒さを蹴散らし、ただただアカネに応えるために準備されたようなタイセイの口元を火照らせる。そこを、あたかもとても美味しい食べ物を大事に味わうような動きに、タイセイの肩の力が抜ける。安堵した。しかし隙をつくようにアカネの口付けが加速して、撫で下ろしたはずの胸がぎゅっと苦しくなる。ぴったり重なる唇を吸われる時、こらえようもない音がすぐ近くから聞こえて、ただアカネにすがりついた。
「ん、タイセイ、苦しかったかな?」
「は、はぁ、はっ……あ……っあか……っ」
うん、と応えたアカネの舌がタイセイを再び捕らえる。苦しいなんてずっと知っているくせに、解放する気のない少年にちょっとだけ腹立たしく思う。
アカネは、ひとつになりたいのかな。僕もひとつになりたいな。すごく気持ち良いから、このままずっとしていたいな――「あ、はぁっ、……っアカネ……」「うん」息が上がっているのに涼やかな瞳をたずさえたまま、アカネが覗き込んでくる。その目をじっと見ることはもうできなかった。
口の中がどこもかしこもねっとりしていた。その奥、胸の中からこみ上げてくる言葉を、溢れそうな欲求を、二人の唾液とともにタイセイは飲み込もうとしたのだ。けれども照明の消された部室は徐々に薄暗くなっていて、思考が泥みたいにぐちゃぐちゃになる。まぶたが湿って、重くてはっきり開かない。
そこに、ひとつになりたいなぁ、という願望だけが浮かんだ。そしたらもっと気持ちが良いから。気持ち良いことは好きだ。アカネにキスされるといつも気持ち良くて、だらしない自分を嫌いになる一方で、それでもアカネが好きだった。
「アカネと、もっとしたいよ」
驚きに瞬いたふたつの光だけが見えた。タイセイがずっと追いかけている光だった。ぱっと散った輝きは、やはり最後まで涼しげだった。
放出しあった気持ちの名残が、とうに陽の落ちた室内にただよう。校庭の街灯は月明かりにも似て、窓から流れ込み、ふたりの身体を浮き上がらせた。茫茫として冷たい現実。その中で、抱き合う猫のように丸いかたまりとなって、少年たちが口付け合う。
「もう、帰らなきゃ」
「冬だから日が暮れるのが早いね」
「……あの、アカネはさ」
「ん?」
「なんで、さっき……みたいな時に、名前呼んでほしいの」
「単純な理由だよ、恥ずかしがってるタイセイが見たいだけ。最後は必ず呼んでくれるし?」
そう口元を緩ませて、アカネの指が自分の髪を整えるのを、タイセイは無言で受け入れる。白い指はいつも自分を捕まえて、自分はそれが嬉しくて、潰れそうなほど苦しい。だから身体を寄せた。一回り大きいアカネが、こういう時は心強かった。
アカネは名前を呼ばれることが好きである。ただし、タイセイによって呼ばれる時だけ。呼べば最後だと知らない、目がくらむ声。
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#アカタイ
崖から落ちそうになっていたらきっとその手をがむしゃらに握って、思い切り引き上げるだろうと信じていた。崖なんてそうそう行かないし実際そんな状況に陥るか? なんて思うが、仮定だ。仮想だ。そこではどんなことでも可能性がある。
だけど世の中そういうパターン以外もあるらしい。たとえば僕の精神の、抽象的な感情の世界、特定の条件下において――美術の便覧を開いた時に飛び込んできた、口付けの絵画。顔の見えない男が、僕に告げたのだ。
ともに落ちよ、と。
「何見てるの?」
蛍光灯のひかりが遮られる。いつもの調子で、タイセイが机を覗き込んでいた。
教室のざわめきが意識をかき混ぜると同時に、僕の現在位置が自席であったことを思い出す。足元にあるのはただの床で、岩でも崖でもない。メタバース空間でもない。あまりに没入していたのは自己投影していたからなのか。
「クリムト」
「くりむと」
おそらく分かってない復唱がたどたどしく面白かった。先の授業、美術史の名残りである便覧を閉じる。数学の教科書と入れ替えて、タイセイには「何でもないよ」とだけ返しておいた。腑に落ちない様子には少しだけ申し訳なさを感じたけれども、気付かないでもらいたかった。我ながら呆れるくらいの、どうしようもない仮定と結論には。
崖の上の恋人たちに投影していたのは僕だけじゃない。もう一人が、キスを甘受していたのが誰であったのかなんて、知らなくていいんだ。
崖から落ちそうになるほどのあやうさが、僕らを繋いでいる感情のなかで常に渦巻いている。手を取る救いは正義と平穏。けれども、ともに落ちる選択の先には何があるのか、僕はもう知ってしまった。
(了)畳む