a phantom trip
・博士なジャック。
・タイムリープネタ。
#ブル遊 #パラレル
かつてボクが居た世界へ行こう。
思ってからの行動は早かった。ボクは数人の友人達に話をしてから、早速その手の問題に詳しい研究者を訪ね歩いた。その中で、ある博士が装置の開発に成功していることを知った。
「頼むよ、どうしても行きたいんだ」
彼は例えるならば才能は有るのに売れない画家で、突飛過ぎる論のために周囲に評価されない博士だった。
「臨床実験も何も行っていない。危険過ぎる」
それに何故そんなにも行きたいんだ、全く。と、博士は溜息を吐いた。重苦しい、押し潰したような溜息だ。彼のぎらぎらした金の長いもみあげが揺れる。
「分からない。けど、行きたいという気持ちが暴走しそうなくらい止まらないんだ。頼むよアトラス博士!」
「気持ちの暴走くらいさせておけ。装置が暴走したら取り返しがつかないぞ」
アトラス博士は白衣を翻しながらコップを給茶器にセットした。埃がついて煤けた床には失敗作と思われる沢山のがらくたが放置されたままだ。部屋の窓からは立ち並んだビルのランプがちかちかと点灯しているのがよく見える。ガラスに自分の白いジャケットが映っていた。
「ボクが実験台になる。成功すれば博士は胸を張って発表できる! 一躍有名人だよ! それでどう?」
アトラス博士はコーヒーの流れ出る給茶器の前に立ったまま、ボクを横目で観察している。値踏みしている、と表現した方がいいかもしれない。少しいたたまれない心地になりつつも、ボクは彼から目を逸らさなかった。遠くから金属を打ち込む音が聞こえてくる。何処かでまた何かを建設しているらしい。
「……良いだろう」
但し、身の安全は保障しないがな。告げられた言葉は、ボクの気持ちの暴走を加速させるものだった。
ボクは博士と共に、彼が作り上げたという装置のある場所へ行った。曇天の下、荒れ地の片隅にそれはあった。装置と言うよりも建造物と言うべきそれは、見上げれば大昔(まだ石油が作られていた時代)の写真で見たような、電線と電線を橋渡しする鉄塔によく似ている。細長い鉄が何本も何本も束ねられて、一つの細長い三角形を作り上げていた。その天辺には四角い箱のようなものが付いていて、指を指して尋ねると、スイッチがある部屋だと博士は答えた。
「俺はあの上の部屋から装置を使って重力場を発生させる。お前は塔の真下でそれを受け止めるだけでいい。一瞬だ」
「それってどれくらいきついの?」
「さぁな」
意地悪くにやりと笑う博士は楽しそうだ。ボクの身体は、どうやら本当にただでは済まないらしい。何の準備もしなくて良いのだろうか? 少し逡巡する。
「準備など不要だ。お前の身体を飛ばすわけではない。意識を飛ばすのだからな」
「意識?」
「精神だけを引っこ抜いて、何処かに居るお前と同一人物の精神とシンクロさせる」
「喧嘩しないの?」
「お前と同一人物だと言っただろう。つまり、それはお前が深層心理の中に押し込めているだけで、嘗て経験したことがあるはずなのだ。もう一人のお前の精神を操作して、過去の出来事を再び経験するようなものだと考えろ」
「成程」
完全に理解するには至らなかったが、ボクがもう一度ボクの歴史をなぞるようなものなのだろうか。
鉄塔の真下でスタンバイする。アトラス博士は設置された自作のエレベーターを使って上の部屋へと行った。先程付けられたインカムから博士の声がする。
『準備は良いか?』
「準備も何も、突っ立ってるだけじゃないか……」
ボクは頂点の真下に居るだけだ。建物の間を抜ける風は生温かった。
『そうだな』
なんだよもう。はぁ、と一つ溜息を付いた。けれどもこれに耐えられれば、ボクは自分の知らない自分を知ることができるのだ。
心臓がどくどくと喧しい。首筋や背中にじんわりと汗が滲んできているのが分かる。怖いのか。そうだろう。だってボクは今から誰も経験したことのないことをやるのだから!
インカムからカウントダウンが聞こえ始めた。ゼロに近付くにつれ、ボクの膝が笑い始める。頭がくらくらしてきた。怖い。早く行きたい。無事に行けるんだろうか?考えているうちに、カウントダウンはもう終了間近だ。
ゼロ。
一瞬間後、巨大なハンマーで殴られたかのような頭痛と、生き埋めにされたみたいな重苦しさが、ボクを襲った。
遠くで誰かがボクを呼んでいる。語尾だけしか聞こえないけれど、きっとボクの名前を呼んでいる。あぁ起きなくちゃ。誰がボクを呼んでいるの?
「ブルーノ?」
ぱぁん、という耳を劈くようなクラクションの音がボクの意識を覚醒させた。はっと目をこじ開けると、世界の眩しさが一気に視界に入ってきて、頭痛を引き起こした。こめかみがぎんぎんと痛む。
「ブルーノ?」
声の主を見た。十七、八くらいの青年だ。ボクより背が大分低い。耳の上からの黒髪が逆立っていて特徴的な髪形をしている。彼の目は心配そうにボクを見上げていた。
ボクの視界は奇妙なことになっている。まるで縦長の箱の底面を上から覗き込んでいるかのような、或いは人形劇の舞台を寝そべりながら眺めているような、奥に押し込められた視界になっていた。その周囲は細い額縁のように黒い。左下には六桁の数字がカウントアップを繰り返している。これが普通の視界なのだろうか。
画面の中で、青年は相変わらずボクを見上げている。何か答えなきゃ。
「あ、ぁ、大丈夫、ちょっと、眩暈がしただけ」
「そうか? 今日はよく晴れているからな。熱中症にならないように気を付けよう」
さぁ行くぞ、と青年はボクの左手を引っ張った。ぐんと引かれたボクの身体は、必然的に青年の後ろを付いていく形になる。
腕を引かれながらあたりを見回した。塗料をぶちまけたような真っ青な空が広がっていて、低い屋根の住宅が立ち並んでいる。風は湿気をたっぷり含んでおり、水の匂いの中に時折緑の匂いがした。道端には青紫色の小さな花を山のように付けた房を持つ花が、何処までも続く道のように咲き誇っている。灰色の煙を出す箱がその横を往来していた。あぁ、そうか車だ。化石燃料で走るもの。ぼんやりと把握した世界のじめじめとした暑さが、ボクらに纏わりついている。
この青年の名前が、すぐに出てこないのは何故だろう。ボクはブルーノだ。この青年は? 確か、名前は。
「……ゆ、遊星」
「ん?」
肩越しに振り向いた彼は、黒いポロシャツから伸びた腕で相変わらずボクの手首を握っている。片手では何か、携帯端末をいじっていた。
「腕」
「あぁ、ブルーノは何でも興味を持ってすぐ立ち止まってしまうからな。引き摺って連れていくことにした。でないと授業に遅れてしまう」
授業? 疑問形になってしまったボクの言葉に、遊星は何を言ってるんだ、と呆れたように返した。
「先週から大学が始まっただろう。急がないと間に合わないぞ」
大学。って、何だっけ。そうだ、勉強するところだ。今日のボクはどうしてこんなにも物事に疑問を持ってしまうんだろう。すぐに知識を引き出せない。普通のことでさえ忘れてしまったかのような錯覚に陥る。
普通のこと。って、何だっけ。
遊星は歩道をぐんぐん進む。本当に急いでいるらしい。けれどもボクには実感が湧かない。ボクは学生だったのか、とさえ思ってしまって、何だか遠い世界のことのように思えた。でもこれが現実だ。そうだろう? これが、現実だ。
左下のカウントは確実に増えていく。既に四桁目だ。
遊星の背中を見た。小さい背中だった。肩に掛けている鞄の口から本が数冊覗いている。ボクも右手に鞄を持っていることに気付いた。それ程重くなかった。遊星のように本さえ入っていないかもしれない。それにしても今日は蒸し暑い。
「暑いね」
言葉に出すと余計に暑さが増した気がした。鞄の持ち手を右手首にずらして、着ている紺色のTシャツを摘みはたはたと空気を送る。
「そうだな。大学に着いたらクーラーが効いているはずだから頑張れ」
再び振り返った遊星は歯を見せて笑った。それを見て、ボクは無性に彼を抱き締めたくなった。胸がぐんと押し潰されたように苦しくて、脈拍が加速する。この感覚に覚えがある。相手を目茶苦茶に好きな気持ちに襲われる感覚。
「遊星、ボクらは恋人同士なのかな?」
また疑問形になってしまった。意識したわけじゃないのに、確信を得ようとしているらしい自分が不思議だ。
遊星はぴたりと止まった。急に立ち止まるので、身体が遊星にぶつかった。再び振り向いた彼は、少し拗ねているように見える。車が側を通り過ぎた。べたべたした風が彼の髪を揺らした。
「……今更、何を言っている」
そうして顔を真っ赤にしながら遊星は俯いた。下がった前髪の隙間から見上げる目がひどく寂しそうで、ここが外だということも忘れて遂に彼を抱き締めた。
「うっ」
「ごめん、ごめんね遊星。そうだよね、ボクらは恋人同士だよね」
忘れていたわけじゃないのに。
あれ?
突然だった。急に脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱されるような感覚に陥った。忘れていた? いいや違う知っているさ! ボクはブルーノだ、遊星の恋人だ。学生で今から大学に行って授業を受けて、それから、それから。
それから?
カウンターはもうすぐ六桁に到達する。
遊星からばっと身体を離し、両手で頭を抱えた。痛い。ひどい頭痛と耳鳴りだ。道端でクラクションが鳴っている。
「ブルーノ?」
焦る彼の声が聞こえる。大丈夫かブルーノ! 叫ばないで、ボクは平気だから。しかし声には出ない。
遊星。大好きな遊星。愛している遊星。現実。暑い。ボクは誰だ。君は誰だ。痛い。涙が滲む。感情の大波が襲い掛かる。ありとあらゆる思いが大量に注入されて掻き混ぜられている。頭痛は止まない。
これが、現実か?
「ブルーノ!!」
黒に塗り潰される世界の端で、遊星が手を伸ばしている。それは掴めそうにない。ごめん。
カウンターは六桁を突破した。
「ブルーノ!!」
肩を揺さ振られて、ボクは漸く目の前に居る人物が誰かを理解した。くすんだ白衣が風に揺れている。博士だ。
「おい、大丈夫か!?」
「――あぁ、博士……あれ……」
どうしたんだっけ。あぁそうか確かボクは実験をしたんだ。ボクが居た『いつか』に行きたくて。
けれども突っ立ったままのボクは、ぽっかりと風穴の開いたような空虚さに満たされていた。心は消えそうなくらい朧げなのに、内側から頭を殴るかのような痛みはやけに鮮明で、まるで心と身体が剥離してしまったようだった。
「成功したのか?」
アトラス博士が眉間に皺を寄せながら尋ねてくる。視点を彼に合わせる。その目には魂の抜けたようなボクの顔が映り込んでいた。ボクの双眸に光は無く、果てしなく虚ろだ。
涙が一筋、つぅっと頬を伝った。
「分からない……でもひどく、とてつもなく哀しいんだ。何か大切なものを、遠くに失ってしまったような気がして……」畳む
・博士なジャック。
・タイムリープネタ。
#ブル遊 #パラレル
かつてボクが居た世界へ行こう。
思ってからの行動は早かった。ボクは数人の友人達に話をしてから、早速その手の問題に詳しい研究者を訪ね歩いた。その中で、ある博士が装置の開発に成功していることを知った。
「頼むよ、どうしても行きたいんだ」
彼は例えるならば才能は有るのに売れない画家で、突飛過ぎる論のために周囲に評価されない博士だった。
「臨床実験も何も行っていない。危険過ぎる」
それに何故そんなにも行きたいんだ、全く。と、博士は溜息を吐いた。重苦しい、押し潰したような溜息だ。彼のぎらぎらした金の長いもみあげが揺れる。
「分からない。けど、行きたいという気持ちが暴走しそうなくらい止まらないんだ。頼むよアトラス博士!」
「気持ちの暴走くらいさせておけ。装置が暴走したら取り返しがつかないぞ」
アトラス博士は白衣を翻しながらコップを給茶器にセットした。埃がついて煤けた床には失敗作と思われる沢山のがらくたが放置されたままだ。部屋の窓からは立ち並んだビルのランプがちかちかと点灯しているのがよく見える。ガラスに自分の白いジャケットが映っていた。
「ボクが実験台になる。成功すれば博士は胸を張って発表できる! 一躍有名人だよ! それでどう?」
アトラス博士はコーヒーの流れ出る給茶器の前に立ったまま、ボクを横目で観察している。値踏みしている、と表現した方がいいかもしれない。少しいたたまれない心地になりつつも、ボクは彼から目を逸らさなかった。遠くから金属を打ち込む音が聞こえてくる。何処かでまた何かを建設しているらしい。
「……良いだろう」
但し、身の安全は保障しないがな。告げられた言葉は、ボクの気持ちの暴走を加速させるものだった。
ボクは博士と共に、彼が作り上げたという装置のある場所へ行った。曇天の下、荒れ地の片隅にそれはあった。装置と言うよりも建造物と言うべきそれは、見上げれば大昔(まだ石油が作られていた時代)の写真で見たような、電線と電線を橋渡しする鉄塔によく似ている。細長い鉄が何本も何本も束ねられて、一つの細長い三角形を作り上げていた。その天辺には四角い箱のようなものが付いていて、指を指して尋ねると、スイッチがある部屋だと博士は答えた。
「俺はあの上の部屋から装置を使って重力場を発生させる。お前は塔の真下でそれを受け止めるだけでいい。一瞬だ」
「それってどれくらいきついの?」
「さぁな」
意地悪くにやりと笑う博士は楽しそうだ。ボクの身体は、どうやら本当にただでは済まないらしい。何の準備もしなくて良いのだろうか? 少し逡巡する。
「準備など不要だ。お前の身体を飛ばすわけではない。意識を飛ばすのだからな」
「意識?」
「精神だけを引っこ抜いて、何処かに居るお前と同一人物の精神とシンクロさせる」
「喧嘩しないの?」
「お前と同一人物だと言っただろう。つまり、それはお前が深層心理の中に押し込めているだけで、嘗て経験したことがあるはずなのだ。もう一人のお前の精神を操作して、過去の出来事を再び経験するようなものだと考えろ」
「成程」
完全に理解するには至らなかったが、ボクがもう一度ボクの歴史をなぞるようなものなのだろうか。
鉄塔の真下でスタンバイする。アトラス博士は設置された自作のエレベーターを使って上の部屋へと行った。先程付けられたインカムから博士の声がする。
『準備は良いか?』
「準備も何も、突っ立ってるだけじゃないか……」
ボクは頂点の真下に居るだけだ。建物の間を抜ける風は生温かった。
『そうだな』
なんだよもう。はぁ、と一つ溜息を付いた。けれどもこれに耐えられれば、ボクは自分の知らない自分を知ることができるのだ。
心臓がどくどくと喧しい。首筋や背中にじんわりと汗が滲んできているのが分かる。怖いのか。そうだろう。だってボクは今から誰も経験したことのないことをやるのだから!
インカムからカウントダウンが聞こえ始めた。ゼロに近付くにつれ、ボクの膝が笑い始める。頭がくらくらしてきた。怖い。早く行きたい。無事に行けるんだろうか?考えているうちに、カウントダウンはもう終了間近だ。
ゼロ。
一瞬間後、巨大なハンマーで殴られたかのような頭痛と、生き埋めにされたみたいな重苦しさが、ボクを襲った。
遠くで誰かがボクを呼んでいる。語尾だけしか聞こえないけれど、きっとボクの名前を呼んでいる。あぁ起きなくちゃ。誰がボクを呼んでいるの?
「ブルーノ?」
ぱぁん、という耳を劈くようなクラクションの音がボクの意識を覚醒させた。はっと目をこじ開けると、世界の眩しさが一気に視界に入ってきて、頭痛を引き起こした。こめかみがぎんぎんと痛む。
「ブルーノ?」
声の主を見た。十七、八くらいの青年だ。ボクより背が大分低い。耳の上からの黒髪が逆立っていて特徴的な髪形をしている。彼の目は心配そうにボクを見上げていた。
ボクの視界は奇妙なことになっている。まるで縦長の箱の底面を上から覗き込んでいるかのような、或いは人形劇の舞台を寝そべりながら眺めているような、奥に押し込められた視界になっていた。その周囲は細い額縁のように黒い。左下には六桁の数字がカウントアップを繰り返している。これが普通の視界なのだろうか。
画面の中で、青年は相変わらずボクを見上げている。何か答えなきゃ。
「あ、ぁ、大丈夫、ちょっと、眩暈がしただけ」
「そうか? 今日はよく晴れているからな。熱中症にならないように気を付けよう」
さぁ行くぞ、と青年はボクの左手を引っ張った。ぐんと引かれたボクの身体は、必然的に青年の後ろを付いていく形になる。
腕を引かれながらあたりを見回した。塗料をぶちまけたような真っ青な空が広がっていて、低い屋根の住宅が立ち並んでいる。風は湿気をたっぷり含んでおり、水の匂いの中に時折緑の匂いがした。道端には青紫色の小さな花を山のように付けた房を持つ花が、何処までも続く道のように咲き誇っている。灰色の煙を出す箱がその横を往来していた。あぁ、そうか車だ。化石燃料で走るもの。ぼんやりと把握した世界のじめじめとした暑さが、ボクらに纏わりついている。
この青年の名前が、すぐに出てこないのは何故だろう。ボクはブルーノだ。この青年は? 確か、名前は。
「……ゆ、遊星」
「ん?」
肩越しに振り向いた彼は、黒いポロシャツから伸びた腕で相変わらずボクの手首を握っている。片手では何か、携帯端末をいじっていた。
「腕」
「あぁ、ブルーノは何でも興味を持ってすぐ立ち止まってしまうからな。引き摺って連れていくことにした。でないと授業に遅れてしまう」
授業? 疑問形になってしまったボクの言葉に、遊星は何を言ってるんだ、と呆れたように返した。
「先週から大学が始まっただろう。急がないと間に合わないぞ」
大学。って、何だっけ。そうだ、勉強するところだ。今日のボクはどうしてこんなにも物事に疑問を持ってしまうんだろう。すぐに知識を引き出せない。普通のことでさえ忘れてしまったかのような錯覚に陥る。
普通のこと。って、何だっけ。
遊星は歩道をぐんぐん進む。本当に急いでいるらしい。けれどもボクには実感が湧かない。ボクは学生だったのか、とさえ思ってしまって、何だか遠い世界のことのように思えた。でもこれが現実だ。そうだろう? これが、現実だ。
左下のカウントは確実に増えていく。既に四桁目だ。
遊星の背中を見た。小さい背中だった。肩に掛けている鞄の口から本が数冊覗いている。ボクも右手に鞄を持っていることに気付いた。それ程重くなかった。遊星のように本さえ入っていないかもしれない。それにしても今日は蒸し暑い。
「暑いね」
言葉に出すと余計に暑さが増した気がした。鞄の持ち手を右手首にずらして、着ている紺色のTシャツを摘みはたはたと空気を送る。
「そうだな。大学に着いたらクーラーが効いているはずだから頑張れ」
再び振り返った遊星は歯を見せて笑った。それを見て、ボクは無性に彼を抱き締めたくなった。胸がぐんと押し潰されたように苦しくて、脈拍が加速する。この感覚に覚えがある。相手を目茶苦茶に好きな気持ちに襲われる感覚。
「遊星、ボクらは恋人同士なのかな?」
また疑問形になってしまった。意識したわけじゃないのに、確信を得ようとしているらしい自分が不思議だ。
遊星はぴたりと止まった。急に立ち止まるので、身体が遊星にぶつかった。再び振り向いた彼は、少し拗ねているように見える。車が側を通り過ぎた。べたべたした風が彼の髪を揺らした。
「……今更、何を言っている」
そうして顔を真っ赤にしながら遊星は俯いた。下がった前髪の隙間から見上げる目がひどく寂しそうで、ここが外だということも忘れて遂に彼を抱き締めた。
「うっ」
「ごめん、ごめんね遊星。そうだよね、ボクらは恋人同士だよね」
忘れていたわけじゃないのに。
あれ?
突然だった。急に脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱されるような感覚に陥った。忘れていた? いいや違う知っているさ! ボクはブルーノだ、遊星の恋人だ。学生で今から大学に行って授業を受けて、それから、それから。
それから?
カウンターはもうすぐ六桁に到達する。
遊星からばっと身体を離し、両手で頭を抱えた。痛い。ひどい頭痛と耳鳴りだ。道端でクラクションが鳴っている。
「ブルーノ?」
焦る彼の声が聞こえる。大丈夫かブルーノ! 叫ばないで、ボクは平気だから。しかし声には出ない。
遊星。大好きな遊星。愛している遊星。現実。暑い。ボクは誰だ。君は誰だ。痛い。涙が滲む。感情の大波が襲い掛かる。ありとあらゆる思いが大量に注入されて掻き混ぜられている。頭痛は止まない。
これが、現実か?
「ブルーノ!!」
黒に塗り潰される世界の端で、遊星が手を伸ばしている。それは掴めそうにない。ごめん。
カウンターは六桁を突破した。
「ブルーノ!!」
肩を揺さ振られて、ボクは漸く目の前に居る人物が誰かを理解した。くすんだ白衣が風に揺れている。博士だ。
「おい、大丈夫か!?」
「――あぁ、博士……あれ……」
どうしたんだっけ。あぁそうか確かボクは実験をしたんだ。ボクが居た『いつか』に行きたくて。
けれども突っ立ったままのボクは、ぽっかりと風穴の開いたような空虚さに満たされていた。心は消えそうなくらい朧げなのに、内側から頭を殴るかのような痛みはやけに鮮明で、まるで心と身体が剥離してしまったようだった。
「成功したのか?」
アトラス博士が眉間に皺を寄せながら尋ねてくる。視点を彼に合わせる。その目には魂の抜けたようなボクの顔が映り込んでいた。ボクの双眸に光は無く、果てしなく虚ろだ。
涙が一筋、つぅっと頬を伝った。
「分からない……でもひどく、とてつもなく哀しいんだ。何か大切なものを、遠くに失ってしまったような気がして……」畳む
・ブルーノが幽霊です。
#ブル遊 #現代パラレル
「ちょっと重いんだが」
「あ、ごめん」
色の剥がれ落ちたトタン屋根のガレージの中は、錆と油と工具の音に満ちている。人一人がバイクの修理用に使用するには十分な広さのその真ん中には、真っ赤に彩られた中型のバイクが鎮座していた。
赤いボディを丹念に磨き上げる青年、遊星の首には、後ろから両腕が回されている。彼の背後には深緑色の髪を持つ青年がほんわかと微笑みを湛えていた。遊星の右肩に顎を置き、すりすりと犬が甘えるように顔を擦り寄せる。
「……ブルーノ、集中できない」
「はいはい分かったよ。でも遊星って結構残酷なんだね」
「何がだ?」
「重いとか集中できないとか言っちゃって、本当は何も感触はないだろ?」
その言葉に、遊星の両目が微かに見開かれる。それから伏せて、「気を悪くさせたなら済まない」と、ぽつりと呟いた。
ブルーノの存在を最初に認識したのは、遊星がこのガレージを見つけて作業所としてから一カ月が経った頃であった。
学生である遊星は、夜間か休日しか趣味のバイクの整備をすることができない。その日もいつものように深夜近くになってもガレージで作業を行っていた。けれどもそこで一つ困った出来事が起こった。購入してきた部品を一つ失くしてしまったのである。一時間ほどガレージ内を探しても出てこない。もう諦めようと思った時、おずおずと、積み上げられたタイヤの影から青年が出てきたのである。こんな時間にこんな場所で知らない人間と出会うなんて、不審者と捉えるには十分な条件が揃っていた。窃盗犯か、はたまた放火犯か。
「だ、誰だ!!」
「ごごごごごめんなさい! えっと、その、あの、ここ、」
怪しさ満点の男に臨戦態勢に入っていた遊星であったが、その青年の慌てふためく様子と床のある箇所を指差していることに気付き、その先に視線を動かした。
「……部品?」
青年の指差した先には、まさに探しものが隠れていたのである。驚愕に部品と青年を何度も見た遊星は、ふと、青年の足元から後ろの壁にかけて違和感を感じた。何かがおかしいはずなのに、その正体が分からない。答えが喉まで出掛かっているのに、あと一つ決定的なスパイスが足りない。さっぱりしない頭に、電球が映し出すタイヤの影と青年が一緒に入り込んだ。その瞬間、遊星は違和感の根源を突き止めたのであった。
青年には、影がなかった。
ブルーノという青年は、自分の事を地縛霊だと自己紹介をしてきた。自分はレーサーで、数年前にバイク事故で死んだらしい、と、まるで新聞の隅っこの記事を読み上げるように彼は話した。遊星がバイクをいじっているのを見て、生前の記憶と元来のバイク好きの気持ちが湧き上がってきたのだとも言った。そういえば何時だったかレーサー事故のニュースをバイク雑誌で見た気がする。記憶の奥底から情報を引っ張り上げてきた遊星は、こっそりとその事故について調べることにした。結果、当時の事故現場がガレージの近くであったことが分かり、あの青年霊が記事に掲載されていた写真の人物と相違ないことも判明した。
それから今年で一年。ブルーノは今や遊星のアドバイザーのような存在になっている。
ブルーノは度々遊星を驚かしては遊んでいた。ガレージに来る遊星の後ろから突然声を掛けたりというのは日常茶飯事であったが、そうしているうちに慣れてきた遊星に対し、今度は物質に触れないという幽霊特有の能力を使って遊星の身体に触れるふりをするようになった。最近ではじゃれ合うように構ってきて、その様子は犬小屋に留守番させられている犬のようであった。離れていた主人が帰ってくれば犬は甘えるという構図である。もちろん、当人らにはそんな意図は全く有りはしないのだが。
「ボクは今の生活に不自由はしてないよ。君という良い友達もできたしね。ただ、やっぱり未練が強いみたいで、まだまだ成仏できる感じじゃないけど」
そう言ってブルーノは遊星の隣に胡坐を掻いた。バイクの調整は終わる手前である。最後に工具一式を片付けて、遊星は大きな道具箱をばたんと閉めた。
「俺も、ブルーノが居ると楽しい」
「あはは、幽霊が友達なんてなかなかできない体験だよね。でも、ボクも楽しいよ」
「そうか」
照れくさそうに笑いながら、ブルーノは白いジップアップジャケットに顎を埋めた。こちらまで照れてしまいそうで、遊星は面映しさを紛らわそうと道具箱を片付けるため立ち上がった。何ともない会話であるのにむず痒くなってしまうのは、ブルーノが持ち合わせているあどけない雰囲気のせいであろうか。
ガレージの時計は夜中の一時を指している。もう家へ帰らなければならない。遊星はガレージの入り口横のスイッチを押した。かちりという音と共に明りが落とされる。タイヤも、バイクも、遊星の足元からも、室内にある全ての物からは影が消え去った。
外はひっそりと初秋の空気を抱き抱えていた。僅かながら冷えた風は寂寞とした感覚をもたらしてくる。見上げると空はすっかり高くなっていた。カーディガンに袖を通す遊星の後ろでは、ガレージの入り口でブルーノが「綺麗だなぁ」と声を弾ませている。
「星は見ていて飽きないね」
「星が好きなのか?」
「好きとかって言うよりは、君が居ない時によく見てるから」
ブルーノはガレージから離れず、活動している間はガレージで過ごしていた。そのため遊星はガレージの入り口で彼と別れる。消灯した室内を確認して扉を閉め、鍵をかければ遊星の一日が終わる。
「バイクに悪戯するなよ」
「酷いなぁ、したくてもできないって。じゃあお休み。寝坊しないようにね」
「あぁ、お休み」
「気を付けて帰ってよ」
遊星は右手を、ブルーノは左手を掲げてお互い軽く手を振った。遊星の姿が闇夜に溶けるまで、ブルーノは彼を見送っていた。
扉をすり抜け、今日も役目を無事終えた部屋へと戻る。四角く囲まれた部屋には一つだけ窓があった。ガラスの奥には秋の星座が佇んでいる。常闇に散りばめられた輝かしい欠片も、朝には光に飲み込まれて見えなくなってしまう。それを見る度にブルーノは思った。いつか自分も、こんな風にすぅっと溶けてしまって、遊星の中から失われてしまうのだろうか。
本来自分はイレギュラーな存在だ。しかし遊星は居なくなれなど一度も言ったことがなかった。ブルーノの存在を完全に受け入れているのである。
「寂しいって、思っちゃ駄目なんだろうか」
触れたくても触れられないことを。同じ月日を重ねられないことを。楽しいと思う以外に、もうひとつ言えない感情があることを。
存在しないボクを存在させてくれるなんて、反則だよ。そう呟いて、ブルーノは瞳を閉じた。
虚空の星が一つ、消えた気がした。畳む