から

@kai_mutterの二次創作置き場

オタクが常にジャンルを反復横跳びしてる

エーテルの青年
・サイテリというかサイ→テリ。
・義賊的テリオンと人生狂わされるサイラス。
#サイテリ #現代パラレル

 大学の謝恩会は思いのほか楽しかった。あまり外に出て飲み歩くことのない私にとっては数少ない交流の場でもあったし、尊敬する教授から「先日の論文、なかなか興味深いテーマだったね。拝読したよ」と声をかけられたので、余計に嬉しかったのもある。少し酒を含んだせいなのか、足元がやけに軽かった。初夏になる直前の、花冷えを名残惜しんでいるような空気が心地よい。
 けれども失敗だったな、と嘆息する。まさかスマホを大学に忘れてきてしまうなんて。
 研究棟へと続く並木道には自分しかいなかった。もうすぐ日付が変わろうとしているのだ、卒業論文の時期でもないのにこんな夜中に誰かいるほうが妙だった。はーっと息を吐いて、研究室に置き去りにした端末に思いを馳せる。手元にないと流石に困る。明日もし急用で休まなければならなくなっても、スマホがなければ私には何の連絡手段もない。
 歩みを進めると、木々の奥からのっぺりとした壁が現れた。ひとりだけの夜にはなんだか空恐ろしく思えて、私は急いで鞄からカードキーを取り出す。職員用入り口の認証機器にかざすと、赤色だったライトが緑に変わって、間もなくかちゃんと解錠された。
 一歩中へ入る。慣れ親しんだ空間が目に入ってきた。開けた扉から外灯の光が流れ込んで、青白いそれは冷えた廊下に少しのおどろおどろしさを付け加えた。
 う、と少し躊躇う。
 心霊のたぐいを信じているわけではないのだが、先が見えない廊下が、あたかも大口を開けた異空間である気がして、足が止まってしまったのだった。……大人げない、が扉は開けっ放しにさせていただこう。断じて恐怖しているわけではないと自分に言い聞かせて。
 静かで、静かすぎて耳が痛い。深夜になるとこんなに様変わりするとは。
 しかし私にとっては幸いな(と言っておこう)ことに、私の研究室は一階にあった。入ってすぐ、手前にはまず『尊敬する教授』の研究室がある。今日の謝恩会で声をかけてくださったかただ。そこを通り過ぎて数メートル進めば自分の、と部屋が均等に並んでいる。
 早くスマホを取りに行って帰ろう。少し足早になる。廊下から吹き込んだ風が、私を追い立てていた。開けっ放しにした扉から、さあっと駆け抜ける風が――。

 どこかで、窓が開いている?

 三歩進んだところ、教授の研究室の前で足を止めた。
 ドアの下から、本当に僅かにではあるが、薄い光が漏れていたのだ。妙だなと思う。まさか教授、窓を閉め忘れたのだろうか? いやいやまさか、そこまで間抜けな人ではなかったはずだ。
 しかし仮にそうであるならば、閉めずに放置するのはよろしくないであろう。
 ふむ、と私は顎に指を添えた。思考する時の癖だ。開けるべきか開けないでおくべきか――迷っているうちに恐怖心はすっかり隅に追いやられてしまった。ああ、先ほどまでは恐怖していたと認めようとも。それはもう忘れて、さて最重要課題について考えよう。
 目の前の、他人の研究室へ入ってもよいものだろうか。研究室は研究者の城みたいなものだから、そこへ侵入するのは夜盗のようで気が引ける。しかしまあ現実、防犯上問題があることは間違いない。
 私はひとり頷いた。
 失礼にあたるのは承知の上で、緊急事態だと割り切り、意を決して研究室の扉を開けることにしたのだ。
 
 この時、実のところ、私はうっすらと気づいていた。
 部屋の中には何かが居る。
 そう考えたからこそ、扉を開けたのである。
 
「……」
 ただ、その何かが、人間だとは想定していなかった。
 放心。その言葉が最適であろう。
 数メートル先、書類の山の間から、細くて黒い体がのぞいていた。唯一、頭のほうだけが白くて、すぐに髪だと理解する。その隙間にきらりと光るもの――男の目が私を捉えた。雰囲気から驚いている様子がうかがえるが、逆光で表情が見えない。
 男は四角いものを小脇に抱えていた。何かは分からない。それよりも肩越しにカーテンが揺れていて、ここに風が流れていたのか、とそちらのほうに気を取られた。そう思えるほどに、ほんの数秒の間、私は確かに冷静だったのだ。
 しかし一瞬間ののち、舌打ちが聞こえた。私からではない、もう一人の、向かい合う男から。
 ああ思い出した。私は今、危機的状況に対面しているのだった。
「待て!」
 やっと出た声は掠れていた。こんな時間に入り込むなんて、よからぬ輩に違いない。逃がしてはならない。しかし男は焦った風はなく、ただ静かな声色で「待つ奴がいるか」と鼻で笑った。返答があったことに、そして存外若い声にうっかり足がもたつく。青年の声だ。こういった場合どう返すべきなのだろう、なにせ初めてのことだから……ああもう、逡巡している余裕などないというのに!
 その間にも、青年は身を翻して、窓枠に右手をかけた。と思ったら、その手を軸にひらりと窓から抜け出でて、のろまな私を置いて走ってゆく。まずい、追いかけなければと思う気持ちに反して、私の足は床にべったりと引っ付いてしまって、一歩も離れることができないでいた。唯一可能であったのは、窓枠の向こう側、どんどん小さくなっていく青年を目で追うことだけである。霞のような外灯の光の奥へと消えていく、しなやかな青年の姿を。
 あっけにとられたままの私を、いっそう強く吹いた風が現実へと引き戻した。窓の向こうで、木々の葉がざあざあこすれ合って嘆いている。いつの間にやら私はどこか分からない空間へと飛んでいたようだ。やはり今夜この場所は異空間と化していたのだろうか。私はそこへ考えなしに足を踏み入れた無防備な愚か者であったのだろうか。
 小一時間考えたものの結論は出なかった。
 このまま居座るのも変であるから、私は窓を閉めて部屋をあとにした。このことは誰にも言ってはいけない気がする。特段、神を信じてはいないが、目に見えない何か強い力に「秘密にしておきなさい」と言いつけられたような気分だった。防犯カメラだとか、そういうシステムがあるはずなのに反応していなかったのを考えると、あの青年が何かしらの対策を施していたのだろう。つまり、私が誰かにことの顛末を報告しても、信じてもらえないどころか、私が犯人に仕立て上げられる可能性のほうが高い。私の足元をすくおうとする人間によって……悲しいかな、私は自分自身が学内の一部の者から疎まれていることを知っていた。
 教授には心のなかで謝罪を述べておく。大変失礼いたしました。何が盗まれたのかは明日、否応なしに判明するかと思われます。
 来た時とは反対に、まるで御伽噺の存在に出会ってしまったかのような、私だけが知る秘密を抱えたことに、年甲斐もなく高揚していた。秘密! 秘密だなんて、生まれて初めてではなかろうか。脳天から蜂蜜を塗りたくられた気持ち。砂糖を口いっぱいに頬張っているような心地。犯行現場に居合わせてしまったというのに、なぜこのような感覚に襲われるのであろう?
 おかげで、スマホのことはすっかり頭から消えてしまっていた。



 まるで猫みたいだったな、と思い出すたびに感心してしまう。それほど『彼』の身のこなしは感心するものだったのだ。
 夜盗になるどころか夜盗に遭遇してしまった日のことが、私の中から消えてくれない。とはいえ、まだ一週間しか経っていないので、すぐに鮮明に思い出せるからというのもある。
 あの夜が明けた次の日、大学で騒動になったのは、私の尊敬する、不法侵入の被害に(知らず知らず)遭った教授が、研究室に置いておいたノートパソコンを何者かに盗まれたというニュースだった。中身は学生のレポートやら成績やら、はたまた教授の論文やら。教授は少しばかり機械に疎い方で、パソコンの操作が不得手だったと聞く。助手に依頼して、学内のサーバーからファイルをダウンロードしてからは、作業後そのほとんどを自分のパソコン上だけに保存していたらしい。
 盗まれたのだから、てっきり即ネット上に流出したのかと思ったが、そういうことにはなっていないらしい。しかし機器の管理責任を問われて、ご自分から退職を申し出たのだそうだ。それを聞いて、私は貴重な研究者を無実の罪で追い出した気分になって、心の底から懺悔した。なにも退職までされなくとも、と教授に取り下げるよう嘆願したのだが、本人は目を泳がせるばかりで碌な会話ができず、ただ研究の未来を私に託されて教授は去った。
 この一週間、いろんなことが起こりすぎて、私は少々混乱していた。あの夜のことを警察に言おうかとも思った。しかし証拠がない。私が犯人(と思しき青年)と会った日、やはり防犯カメラがすべて切断されていたのだという。よって私の姿も、青年の姿も何一つ残されていない。自分が犯人を見たのだ、取り逃がしたのだと言ったところで誰が信じてくれるだろう? 否、困難だ。
 結局、私の中に後悔と、それに勝る静謐な甘さが残された。白状しよう。私にとって後者のほうが重要だった。教授には大変申し訳ないことを……と思うものの、そう詫びる私に、かの青年の存在が覆いかぶさってくる。『彼』はどういう意図で教授のパソコンを盗んだのだろう? どう見てもわが大学の学生ではなかった。また学生の雰囲気をまとっていなかった。推察するに、あれが本業なのだと思う。きっとあの夜、私ごときが取り押さえようとしたところで、返り討ちにあっていたに違いない。
 だから私は、あの日のことを、小さな瓶にしまっておくことにした。とろり、柔らかい液体で満たされていて、内側から銀色の光を放つそれを、誰も見ることの叶わない記憶の棚にそっと飾る。
 こんな夢想めいたことをカフェのレジで考えていたので、コーヒーがサーブされたことに気付くのが少し遅れてしまい、店員に詫びた。すると店員の女性が急におどおどしたので、何か失礼なことをしただろうか? と不思議に思う。時折こうやって思考の海にすべてを投げ出してしまうのは悪癖だなと都度反省するのだが、この年にもなると癖や習慣というのを変えることは難しい。だがせっかくの休日だ、ゆっくりしたかった。今日は記憶を整理したいのだ。
 右手にマグカップ、左手に鞄を持って、店の奥へと進む。このカフェは入り口から最も離れた壁に大きな本棚があるのだが、その前の席が少し奥まっていて、私は大変気に入っている。本棚に並行になるよう配置されたソファはほどほどに幅広く、荷物を置くにもちょうどいいサイズなのだ。私は常に、何冊か本を持ち込んで来店するので。
 店に足を運ぶのは毎週日曜の早朝と決まっていて、つまり今日、現在、朝の七時をまわった時間帯を指す。この、まだ世界が起き切っていない、ゆるやかな空気が好きだ。それに日曜のこんな早朝に来る客は限られている。事実、私が過去この時間に会った人は、平均して約二名程度だった。
 なのに、求めていた席にはなんと、先客がいた。

 ああ、私を放心させるのは年に一度程度にしてもらえないだろうか、神よ!

 私がひっそりしまい込んだ小瓶の色と同じ、月光のような髪色をした青年が、私の定位置に腰かけていたのだ。見間違えることなどない珍しい色が、あの夜の青年だと告げていた。
 店の間取り上、必然的に右側から近づくこととなり、私は『彼』の様子を盗み見るようにうかがった。薄紫のパーカーを着こなし、コーディネートされた藍色のパンツからは細い足首が覗いている。少し行儀悪く足を組んでいた。こちらを見る様子は一切なく、手元のスマホをいじるばかり。ところどころ跳ねた髪は癖なのかわざとなのか。一見すれば今どきの若者にしか見えない。
 しかし私は知ってしまったのだ。この青年が、実は夜盗だということを。
 同時に知りたかった。キミはなぜ、盗みなんてしたんだい。

「相席しても?」
 この一言が出てくるまでに十秒を必要とした。私の人生史上、最も長い十秒であっただろう。
 『彼』はちら、と私に視線を投げかけて、すぐに伏せる。
「他をあたってくれ」
 予想どおりの反応に、予想どおりの声色。
 私は無言で、『彼』の右側に腰かけた。許可など得ていない。得るつもりもなかったのだが。なけなしの心配りとして、『彼』と私の間に、自分の鞄を立てておいた。小さな境界線だ。
「ここはね、私の定位置なんだ。とても落ち着くから」
 コーヒーがなみなみと注がれたマグカップを、なるべく静かに置く。よく手が震えなかったなと思う。緊張していた。私の心境など知らないで、『彼』は興味なさげな様子でスマホをポケットにしまって、ぼそりと呟いた。
「俺が退く」
 組んでいた足をほどく。いけない、このままでは逃がしてしまう。今度は逃がしたくない。『彼』を引き留める言葉を発しなければ――。
「キミはなぜ、盗みなんてしたんだい」
 つとめて冷静に言えた。言ってやった。『彼』の動きが止まる。立ち上がろうとした体をもう一度ソファに沈め、再び足を組んだ。
「何のことだ」
「とぼけなくていい、私は口外したりしない」
 かみ砕くように、ゆっくりと話す。
「あの日キミがいた研究室の教授はね、大学を辞められたんだ」
 『彼』は答えない。ただ座って、またスマホをいじるだけだ。
「とある分野では有名なかたでね」
 何も言わない。
「……私は、教授を尊敬していたんだ。だから辞められたのは、大変残念なんだ」
 本当に残念だったのだ。教授のような立派な学者になりたかった。それを、自分の目標を自分で潰したような結果になって、後味もすこぶる悪かったから。
 けれども私がそう言うと、隣の『彼』は突然、くつくつと笑った。
「尊敬とはな」
 馬鹿にするのを隠さない口調に、少しむっとする。
「キミのしたことは犯罪だよ」
 少々語尾がきつくなる。それでも静かに笑うばかり。正直面白くなくて、詰問するかのように矢継ぎ早に続けた。
「キミはあの大学の学生ではないね。それなのになぜ? 理由が分からない。万が一あのパソコンの中に入試問題が入っていたとしても、キミに得があるとも思えないしね。キミの目的はなんだ? 金? どうして盗んだのか、私には理解が――」
 話の途中でずいっと、目の前に機械を押し付けられる。『彼』のスマホだ。「うるさい」と言われて口をつぐんだ。隣から無理やり視界を遮られて、気分がいいものではなかったが、そこに書かれている文字に言葉が詰まった。
 表示されているのはニュースサイトのようだ。その上部、記事見出しにあったのは『元教授、複数の女子学生にセクハラ』という、穏やかならぬ太文字。
「……何だい、これは」
「おたくの尊敬するエロジジイの、裏の顔さ」
 裏の顔、という表現にぎょっとした。『彼』の手からスマホを奪い画面をスワイプする。ページには目を疑うような事柄が書かれていて、信じがたい内容に眩暈がした。
 曰く、件の元教授が逮捕されたとのこと。その理由は、複数の女子学生を脅して猥褻行為をはたらいていたため、だと。
「学者先生のなかには、とんだ屑野郎がいたもんだな」
 鼻で笑う『彼』に、返す言葉もない。
「しかも写真まで撮って残しておくとは、変態にも程がある」
 記事の中には、女子学生の証言として『従わなければ卒論を評価しないと言われ、写真を撮られた。それをもとに脅された。』とあった。写真がどこに保存されていたかなど、想像に難くない。思い出す。去り際の教授が、目を泳がせて狼狽えていたことを。
「キミは、知っていて、盗んだのかい……」
 『彼』は答えなかった。しかし私はその仮説が正しいか検証したかった。『彼』から解答を導きたくて、何でもいい、からからになった喉から何とか会話を捻り出そうとしていた。コーヒーはすっかり忘却の彼方へと追いやられ、ただ、何か言わなければ、と焦燥に駆られる。
「……被害者の子たちは、なぜ、なぜ警察に言わなかったんだ……いや、せめて大学へ相談してくれれば」
「おたく、正義が悪に勝つと信じてるタイプだろう」
 手にしていたはずのスマホは、いつの間にか彼の手中へと逆戻りしていた。返した覚えはない。あたかも手品師がカードを入れ替えるかのごとく、私が狼狽えている間に『盗まれ』ていたらしい。
「おめでたい学者先生に、ひとこと言っておく」
 一瞬言葉を切って、『彼』は続けた。
「悪にまさるのは、悪だけだ」
 まるで鉛を吐き出さんとするような重々しい口調だった。長い前髪の間から垣間見えた『彼』の右目に、私の姿が映り込む。
 息を呑んだ。朝露に濡れた新緑のような色。なのに芽吹いたばかりの葉が宿す純朴さとは似ても似つかない、野性的ないのちの光が、ぎらぎらもえていた。
 しかしその邂逅は一瞬で、は、と呼吸を思い出した時にはすっかり隠れてしまっていた。
「――見られてまずい写真がこの世に出回ることはない。それが仕事の条件だからな」
 仕事というのは、とは聞けなかった。スマホをパーカーのポケットにしまいながら、『彼』は興味を失ったように私から目を離す。
「毒を以て毒を制す、ということか」
 この話題はもうどうでもよいらしい、私の言葉には無反応だった。代わりに正面の本棚から雑誌を引っ張り出して、『彼』はつまらなさげにぱらぱらめくり始めた。表紙には「本当においしいカフェ百選」と書かれている。読んでいるわけではない、読むふりをしているだけだ。カフェに興味があるようには見えないし、実際我々はカフェに居るけれども、『彼』の前にはカップのひとつも置かれていなかった。水すらも、何もなかったのだ。
 それきり『彼』は口を開かなかった。もう『彼』の中に私はいなくなってしまった。自分が会話相手と思っている相手に、けれども自分は会話相手とみなされていない、それで悲しくならない人間がいるだろうか。気を紛らわそうとコーヒーを口に含む。ようやく思い出したか、と呆れかえっているのか、ぬるくなった液体はただ苦々しく拡がるばかり。どろどろと体内に入り込んで、お世辞にも美味しいとは言えない。
 それが二口、三口と喉を通り過ぎた時、ある疑問が、ぽっぽっと泡のように浮かんできた。
「……キミ、さっき私のことを、学者先生と呼んだね」
 そう。『彼』はつい先程、私をそのように表現したのだ。しかしこの短い時間のなかで『彼』に職業を告げた記憶はないし、深夜に一度遭遇しただけで、私が大学で教鞭をとっているなどなぜ分かるだろう。
 私の疑問には答えずに、雑誌を机に放り投げて(なんて粗雑な扱い!)今度こそ『彼』は立ち上がる。もう行ってしまうのか、とか、結局パソコンはどうしたのか、とか、言いたいことは山積しているのに、そのどれもが声にならないで胸につかえていた。
 なのに、立ち上がった『彼』が、これまたぽいぽいと机に放り投げたものを見て、つかえていたものが達磨落としのように抜け落ちる。
「せいぜいスリには気をつけるんだな。サイラス・オルブライト先生?」
 無造作に置かれたのは、財布と、名刺入れである。
 私の。
「……あれっ!?」
 慌てて鞄の中を確認する。言うまでもなく両方なかった。当然だ、今しがた机の上に投げ捨てられたのだから! いや、しかし、いつの間に盗まれたのだろう。そんな素振りは全くなかったのに、一体何がどうなって? ああ、頭の中がぐちゃぐちゃだよ!
 私をよそに、『彼』はどんどん席から離れていって、ありがとうございましたという店員の声に見送られて店を出て行ってしまった。からんからんとドアベルが鳴り響く。真鍮の小気味いい音。取り残された私は呆けるばかりで、それでもなお『彼』に何か伝えたくて、小走りで後を追った。待ってくれ、今度こそは!
 店の扉を乱暴に開ける。ベルががらんがらんとやかましい。
 左を見る。いない。
 右を見る。……ああ、いた!
「待っ――」
 そこでぶつっと打ち切られた私の声は、ただのいびつな音となって道に転がった。
 数メートル先で、『彼』は『誰か』と並んで歩いていた。恰幅の良い、背の高い男だ。小柄な『彼』と並ぶと、その不均等さが異質なくらいだった。言葉を交わしている様子の後ろ姿しか見えないものの、二人は親しい間柄だということが分かる。私にはその『誰か』が誰なのか知る由もない。あの夜と同じく、まだ冷たさの残る季節の中へ、ただ遠ざかっていくのを見ているだけだ。
 追いかけて、私は何を伝えたかったのだろう。学生を救ってくれたことか? 犯罪者に「有難う」とでも言うつもりだったのか? 今日この店に居た理由か?
 私は『彼』の何を知れたのだろう。
 そうだ、私は『彼』を知りたかった。
 僅か数十分の会話を経て、『彼』は単なる盗人とは異なるのではないか? という仮説を打ち立てていた。前提条件として、犯罪者にも情状酌量というか、ランクというか、区分をつけるものとする……なんという身勝手な条件であろう。著しく客観性を欠いている。当たり前だった。これは私個人の、なんとも独りよがりな推論なのだから。
 しかし『彼』のまとう雰囲気が、吐き出された言葉が、あの瞳が、私を内側から駆り立てるのだ。『彼』のなかには『彼』だけの法典があって、そこに『彼』は君主として降臨している。他者の知識で練り上げられただけの浅薄な私とは対極の存在。社会規範やら法律なんてお構いなしの、ゆるぎない価値基盤を有した青年。何にも縛られない『彼』を、終わらない物語のページをめくるみたいに、もっと深く知りたかった。
 この探求心は我が身を滅ぼすかもしれない。予感がちりちりと胸を燃やす。けれども同じくして、身体中に何かが満ちていくのを感じた。
 これは光だ。まばゆい光。希望だ。
 もしも神の御心を具象化できるのならば、おそらく今、私はその衣に包まれていることだろう。感謝いたします、我らが父よ! この道を進めば、果たして『彼』に会えるのですね。宗教家ではなかったはずが、いまや私は敬虔な教徒の心地であった。天啓を受けたとのたまう神官の気持ちがまったく理解できる、それも一冊本を書きあげられるほどと言っていい。突然、自分の目の前に一本の道筋が現れて、その先に求めるものが存在していると悟る感覚。
 簡単なことだ。知りたければ知ればよいのだ。近づいてくれないのならば近づけばよいのだ。
 そうしていつか、『彼』にも私を知ってもらいたい。絵本を読み聞かせる母親のように、私の系譜を子守唄に『彼』と夜を過ごしたい。私がどのように構成され、何を考えて日々を生き、『彼』を追って数多の苦難を乗り越えたのか――とは脚色であるが、おそらく簡単にはたどり着けないであろうから、『彼』にこの検証結果を報告する際には付け加えたいと思う。
 さて、『彼』の姿はついに消えてしまった。大小の背を見送ってから、私は記憶の棚から、あの小瓶を取り出した。
 そうっと、慎重に蓋を開け、中身を飲み干す。飲み干して、飲み込まれた月光色の液体が、私に取り込まれて私の一部になっていく。しまいこんでおくつもりでいたのに、暴れ馬を持て余して手綱を手放すように、もうすっかり自由にしてしまった。なぜか。
 感情に補足することが叶うのならば、致し方ないこと、と私は記すだろう。趣のかけらもない、凡庸な蛇足。
 しかしながら我らが父よ、赦したまえ。私と名付けられた宇宙の中に、『彼』が金剛石をばらまいたのです。『彼』が伝播した光はまたたく間に星々の間を駆け抜けて、世界を白く塗りつぶしました。私は今日、幻の存在を証明したと言えるでしょう。かつて先人たちがエーテルと名付けた存在が、私にとって『彼』なのです。



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